真恋姫無双 幻夢伝 第八章 7話 『夷陵の戦い 第三幕』
今日も朝霧がひどい。目の前が真っ白でなにも見えず、しかも体に張り付いて余計に寒気がする。
ところが多くの兵士はこの霧が晴れないことを祈っていた。この霧の向こうに敵がいる。アキラは、続々と戦場に向かう兵士たちの表情から、その鬱屈した感情を読み取っていた。
「無理もないわね。状況が変わらないもの」
詠がアキラの隣に立つ。彼女も兵士たちの気持ちを察していた。
アキラは、改めて決意する。
「今日で終わりにする。それしかない」
「……でもね」
詠は、アキラの顔を見つめる。彼を心配する感情が顔の前面に出てしまっていた。
「無茶はしないでね、絶対に」
彼女は、そっとアキラに近づく。そして背伸びして、彼の頬に軽く、くちびるをつけた。
深い霧が、2人の姿を隠している。
三日目の戦闘が始まった。
汝南軍の先頭はアキラ、ではなく、霞が勝手に突出した。彼女は昨日の自分の言葉に憤っていた。
(なにが“限界”や!あんなこと言うたら、ウチが戦いたくないみたいやんか。あかん、あかん!根性入れなおすで!)
猛然と、蜀軍の兵士を斬り裂いていた霞は、ある武将を見つけて目を輝かせた。
「お前は馬超やな!」
「そう言うお前が、張遼か」
霞が、これ以上なく口角を上げる。そして嬉しそうに言うのだった。
「うちの恋をようも傷つけてくれたな。ウチが仇をとったる。勝負や!」
「お前なんかに負けるか!返り討ちにしてやる!」
2人の騎兵が駆け出し、お互いの槍がぶつかった。
彼女たちが戦っている間に、アキラも蜀軍に突入した。敵の大将の登場に、蜀軍が、血眼で群がる。しかしながら、
「どけっ!雑魚ども!お前らの相手をしている暇はない!」
南海覇王が風を切り裂いて血しぶきが咲き乱れる。彼の馬が一歩動くたびに、人ひとりの命を昇天させているようだ。この光景に、功名心に囚われていた兵士たちの興奮が冷め、彼に攻撃することを本能的に嫌がった。
逃げる彼らの間を、縦横無尽に駆けていく。
だが、まだ命知らずの者がいた。彼の目の前に来ると、鎚をかざして名乗り上げる。
「魏延、文長!桃香さまに仕える虎っていうのはワタシのことだ!おとなしく、この鈍骨砕のえじきになりやがれ!」
焔耶の芝居がかった名乗りに、アキラは吹きだした。彼は小馬鹿にする。
「“虎”?聞いたことが無いな。“猫”の間違いじゃないか?」
「なんだと!?バカにするんじゃねえ!行くぞ!」
焔耶が手綱を叩く。彼女の馬は前足を高く上げ、そして駆け出し始めた。一直線にアキラに向かうと、その鎚を振るった。
「砕け!」
唸りを上げて、彼の頭上から振り下ろされる。だが、彼はヒョイッと馬を動かして避けると、彼女の手の隙間から柄の部分に剣を差し込んだ。
嘘のように、彼女の武器がぽっきりと折れた。
「なっ?なっ!う、うそだろ!ワタシの鈍骨砕がっ?!」
「このバカヂカラ女。そんな思いっきり振ったら、傷むに決まっているだろ。最初から柄がひん曲がっていたじゃねえか」
「冗談だろ~、ああ、桔梗さまに怒られる…」
アキラが、武器の残骸を持って涙ぐんでいた焔耶を、あきれて見ていた。その時、後ろからぞくりと殺気を感じた。
「っ……!」
「お見事!そう簡単にはいかぬか」
星だった。馬上から切り裂こうとした攻撃を、振り向きざまに受け流した彼を、彼女は称賛する。そのまま彼の前方へと馬を走らせると、くるりと振り向く。相変わらず不敵な笑みを浮かべていた。
「星!」
「焔耶。お主は武器を取り換えに行け。ここは私が引き受けた」
「わ、わかった。すまねえ!」
焔耶は部隊の後方へと退いていった。残った二人は間合いを取って対峙する。
星が、アキラに話しかけてきた。
「お主、洛陽にいた屋台の店主だな」
「おお、覚えていたか!寿春の時は忘れていやがって(参照:第三章7話)」
「嫌でも思い出したさ。……あれから長いこと戦い続けたものだ。私も、お主も、天下を動かす身分になってしまった」
「不服か?」
その問いに、星は首を振る。
「いやいや、これほど面白い人生はない!神がいるなら、感謝したいぐらいだ」
「神、か……ご託はこのくらいで良いだろう。さ、この瞬間も楽しもうじゃないか」
2人は構える。お互いに笑みがこぼれる。
「李靖、遺言はあるか」
「そういうのは死ぬ方が言うものだ。俺は聞き飽きた。黙って斬られろ」
馬が駆けだす。アキラの南海覇王と星の龍牙。目に見えぬ速さでくり出された両者の攻撃は、今、重なった。
戦闘開始から一刻(2時間)が経過した。状況は変化していない。
魏軍と汝南軍は、猛然と攻め続けていたが、蜀軍の守りの固さに苦戦していた。蜀軍は、一向に攻撃を仕掛けてこない。彼女たちは、ある約束の下に行動していた。
(一刀の帰りを待つ!)
朱里と雛里の指揮は全く隙を見せず、さらに昨日の失態を取り返そうとする鈴々を筆頭とした猛将たちが、この兵力差を必死に埋めていた。その一例として、凪と沙和は鈴々に打ち負かされて、戦線を離脱した。
硬直した戦場を見続けていた華琳は、やがて、立ち上がった。
(華琳さま、行くの?!)
後ろで控えていた季衣が、そう声を上げようとした時、流琉が、息を切らして走ってきた。
華琳と季衣が振り向く。
「なにかあった、流琉?!」
「どうしたのさ?!」
流琉は2人の傍まで来ると、膝に手をついて止まった。肩で息をしながら、華琳に報告する。
「ご、呉軍が……呉軍が来ました!」
長江の東から、その姿は現れた。何十艘もの軍艦が、悠然と、進んで行く。不気味に聞こえる銅鑼の音に、両軍の兵士は戦いを止めて、耳を澄ました。
桃香は歓喜する。
「やった!やったよ!朱里ちゃん!雛里ちゃん!」
「やりましたね、桃香さま!」
「……良かった」
蜀軍全体が喜びに包まれ、その一方で魏軍と汝南軍の士気は著しく下がった。後ろに向かおうとする兵士たちの足を、魏と汝南の武将は必死に引き止める。しかし戦闘が再開すると、その士気の違いはかなり響き、蜀軍に押され始めた。
その雰囲気を敏感に感じたのだろう。担架で寝ていた凪が体を起こす。
「楽進様!無理です!」
「……前線に隊長がおられる…隊長が、あぶない!」
凪は担架から転げ落ちる。体が動かない。彼女は顔を泥だらけにして「隊長…隊長…」と声を漏らして、なにも出来ない悔しさに、涙をこぼすことしかできなかった。
呉の船が次々と岸に着く。そして蜀軍の右側から、兵士を上陸させ始めた。真新しい装備に、輝く鎧姿。白い旗がはためいていた。
呉軍は隊列を整え、次の上陸部隊を待つ。すぐに2万の兵士が上陸を完了した。『呂』や『黄』、そして『孫』の旗印が掲げられる。
「ご主人様!私たち、勝ちました!」
桃香は涙を浮かべて、遠くの空の下にいる一刀に話しかけた。
その軍勢が動き出した。戦闘開始から二刻(4時間)近くが経つ。蜀軍が、救世主の登場に、歓声を送る。
そして呉軍は、蜀軍の右翼に突撃した。
「ち、ちがう!こっちじゃない!」
白蓮が悲鳴を上げる。予期せぬ事態に、彼女の軍勢は一瞬にして崩れ去った。
戦場を、衝撃と恐怖が、駆け抜ける。今まで無我夢中に戦っていた星も、この状況に動揺の色を隠せなかった。一瞬、視線をそらした隙をついて、アキラが彼女の槍を叩き落とす。
「あっ!」
「勝負あったな」
彼の剣が首筋につき付けられる。星は、ふうと小さく息を吐いた。
翠と霞の戦いも終わりを迎えた。翠は手綱を掴み直すと、馬首を切り返した。
「悪いな、この勝負はおあずけだ」
「ま、まちいな!これからがおもろいのに、なんでやねん!ちょっとー、かんにんしてくれやー。殺生やで~」
もちろん翠は聞く耳を持たない。喚く霞を残して、彼女は戦場を駆けて行った。
その頃、長江の上にいた紫苑は、決断を下した。
「呉は蜀の味方ではありません!これ以上、敵を上陸させてはいけません!」
と言って、彼女は果敢にも、自身の船団で呉の水軍に挑んだ。
「ほう。命知らずがいるな」
思春は感想を漏らす。そして敵を思いやって、ため息さえついた。
彼女は命令する。
「長江の主が誰か、奴らの骨の髄にまで教え込んでやれ!」
紫苑の水軍が燃え始めた頃、華琳の本陣にやってきた者がいた。明命だ。
「急使です!」
彼女は華琳の前で膝をつくと、手紙を差し出した。華琳は奪うようにして受け取ると、その内容を読んだ。
彼女の顔がだんだんと喜色に染まる。そして戦場に響き渡るほどに叫んだ。
「呉が、私たちの味方になったわ!勝ったのよ!」
同じ頃、蓮華は、均衡が崩れてあっさりと勝負がついた戦場を船上から眺め、呟いた。
「これで良かったのよね…冥琳……」
隣に立ち並ぶ穏が、冥琳の遺言を唱えた。
「『もし孫呉で天下を取ることを望むならば、魏・汝南と北郷たちを争わしめ、しかるべき時が来た後に、行動するべし。しかしながら、この策は天下万民の恨みを買い、天下を得たとしても10年を保たず滅ぶ』」
――では、呉の繁栄を望むなら?
「『魏・汝南と和し、華北の豊かさを取り入れよ。これ、千年の計なり』…ですか」
「姉様は私にそう言ってほしかったのかもしれないわ。天下を取るなんてことよりも、呉の繁栄を望むってことを」
「そして冥琳さまは、雪蓮さまが伝えるべきだった“答え”を小蓮さまに託した。蓮華さまが迷った時に渡すようにと……はあ~、さすがですぅ。私もまだまだですねぇ」
「あなたは不満じゃないの?勝手に方針を変えられて」
蓮華の問いかけに、穏は首を振った。
「私の主君は蓮華さまです。主君の迷いを取り除くのが軍師の役目ですよぉ。……でも、ほんとうのことを言いますとねぇ、蓮華さまのご機嫌が直って、ホッとしているのですよぉ」
「あらあら。まあ、私も大人げなかったわ。これからも頼りにしているわよ、我が軍師さん?」
「はい!」
2人が微笑み合っている間にも、蜀軍の崩壊が止まらない。
魏・汝南軍の猛攻に加えて、呉の奇襲である。いかなる猛将・智将でも、この状況に勝ち目を見いだせないだろう。さらに紫苑の水軍が簡単に潰されたことで、呉の水軍が川を上って蜀軍の後ろに回る可能性も出てきた。退路の確保も厳しくなる。
朱里と雛里は、桃香を退避させようとした。
「桃香さま!逃げてください!」
「………」
「桃香様!」
普段は無口な雛里まで、大声で呼びかける。だが桃香は、潰走する自軍を見つめたまま、動こうとしなかった。そこへ桔梗と焔耶が駆けてくる。
「桃香さま!ご無事ですか!」
「焔耶さん、ちょうどいいところに!桃香さまを連れて逃げてください!」
「分かった!」
「桔梗さんと私でしんがりを務めます。朱里ちゃんは、白帝城で軍を立て直して…」
「あい、分かった。ワシに任せよ」
「雛里ちゃん……」
朱里と雛里が抱き合う。力いっぱいに抱き合う。そして離した瞬間からは、彼女たちの顔は軍師のものに戻っていた。
焔耶が桃香の腕を引っ張る。
「桃香さま、こちらへ!」
「………」
「くっ……失礼いたします!」
と断ると、焔耶は桃香を俵担ぎにして持ち上げた。桃香が初めて反応を示す。
「は、はなして!ご主人様と…ご主人様と約束したんだから!」
「行きます!」
「いや……いやぁー!!」
彼女の涙は地面に落ち、その跡はやがて、迫り来る魏軍の兵士に踏みつけられた。
参加兵数、約38万人。3日間の総戦闘時間は15時間以上。後世の歴史に燦然と輝くはずのこの夷陵の戦いは、蜀軍の敗北で、その幕を閉じた。
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いよいよクライマックスです。勝つのはどっちか?!