真恋姫無双 幻夢伝 第七章 5話 『憎むべき相手』
窓の外から虫が鳴いている音がする。暗闇の中で彼らが聞いているような気がした愛紗は、そっと窓を閉めた。部屋の中では雛里が蝋燭に火を灯している。
2人は椅子に座ると、机を挟んで向き直った。密閉された空間に、妙な緊張感が籠る。
雛里は彼女の突然の訪問に驚き、おそるおそるその意図を尋ねた。
「それで、なにかご用でしょうか…」
「涼州から届いた知らせの件で話がしたかった」
長安で激しい攻防戦があったという情報が届いた。寄せ側はこちらがたきつけた馬超。守る側は愛紗と因縁のあるアキラである。
その攻防戦は愛紗たちが話している日の一週間前に行われた。しかしその1日限りで戦いは終わり、馬超軍は渭水の西部に引き上げたようである。たった1日で諦めるのは早すぎる。愛紗はこの報告を受けて、どうしても引っかかるものがあった。
そこで彼女は雛里を訪ねた。もう一人の軍師の朱里は一刀と一緒に、蜀を挟み撃ちにするため、南蛮に同盟の使者として向かっていた。
「なあ、雛里。1つ、変な質問をしてもいいか?」
「は、はい…なんでしょうか……」
「馬超は勝てるのか」
10万という兵を集めたことは素晴らしい。彼らの騎馬は天下一の強さを誇るだろう。歩兵中心の魏軍は苦戦を強いられ、城外で魏軍が馬超軍に勝つ見込みは無い。
―それでも、愛紗には彼が負けるように思えなかった。
雛里はしばらく考えた。そしてゆっくりと、かつはっきりと言った。
「もう、馬超さんは勝てません」
「なにっ?!」
「あわわ!声が大きいです、愛紗さん…」
「す、すまん…」
2人は部屋の扉を見た。廊下からは何も聞こえず、誰もいないことを確認した彼女たちは、再び話し始めた。
「愛紗さんは、私が馬超さんを説得したことを御存知ですよね」
「ああ」
「その時、私は馬超さんに兵を集める策を教えました」
雛里は翠にこう言ったのだった。
『涼州を遊牧民にあげましょう。そうすれば、彼らは馬超さんを信頼して、味方してくれるはずです……』
太古の昔、周の武王が仇敵の召公を味方につけようとした際、自分が治めていた西方全てを与えた。自分は殷の領土を取るから良いと、気前の良さを見せた。それに感動した召公は周の忠実な家臣となり、最後には自分の領土を捨てて周の危機を救ったという故事がある。
しかし雛里は言う。
「残念ながら馬超さんは武王ではなく、遊牧民たちも召公ではないのです」
「つまり…どういうことだ?」
「勢いが止まって馬超さんが信頼を失った途端に、瓦解してしまうでしょう」
時は遡り、長い攻防の1日を終えて自室に戻ってきたアキラは、辺りが騒々しいことに気が付いた。
「アキラさん!」
「月!何かあったか?!」
戦いから帰ったばかりで、彼は気が立っている。彼の大きな声に、月は身体をビクリと跳ねさせた。
「え、えっと……」
「どうした?!」
肩を掴んできた彼に、彼女は目を丸くしながら事情を説明した。
「シャオちゃんが、逃げちゃいました」
「………は?」
アキラと月は、小蓮がいた部屋を開けた。複数人の兵士が部屋を捜索している。
「李靖様!消えました!部屋にもいません!」
「扉には見張りがいたよな?」
「はい。しかし斬られた縄がありました。窓から逃走したと思います」
「李靖様。我々は外を捜索してまいります」
「分かった」
兵士たちがドタバタと部屋を出て行った。それと入れ替わるように、腕に包帯を巻いた恋が入ってきた。
「恋!大丈夫か?」
「恋さん、痛くない?」
「…へいき……」
そう言った恋は、急に部屋をキョロキョロと見回し始めた。そして部屋に置かれた壺に近づくと、その中をおもむろに覗き込んで言った。
「シャオ…かくれんぼ?」
「「えっ?!」」
驚いて近づいた2人も覗き込むと、小蓮の大きな瞳が壺の中で光っていた。
「……よくそんなところに入ったな」
「ちっちゃいって思ってないでしょうね!?」
悪態をついた小蓮はまず腕を出して、壺から身体を出そうとする。ところが、さすがに彼女にとっても小さかったらしく、腰が引っかかって動けなくなった。
「うんっ!くっ!ちょ、ちょっと!見てないで助けてよ!」
アキラと恋がシャオの腕を掴んで無理やり引き出した。助けられて地面にへたり込む彼女に、アキラが苦笑いを浮かべる。
「これで満足か、お姫さん?」
「うるさい!うるさい!うるさーい!!」
と言っても、バツが悪そうな顔をする彼女は、大人しくしていた。アキラたちはふうと息を吐いて、部屋の椅子に座った。小蓮も椅子の一つに座る。
いい機会だろう。温和な空気の中で、彼女はアキラに今まで聞けなかったことを尋ねた。
「ね、ねえ?」
「なんだ?」
「お姉様を本当に殺していないの…?」
アキラはしっかりと頷く。
「ああ」
「でも、冥琳は殺したのよね?」
「……ああ、そうだ」
「…そうなのね……」
部屋に沈黙が漂う。小蓮は、雪蓮の葬儀で蓮華が言ったことを思い返していた。
『彼は“孫権”にとって、許さざる敵よ。でもシャオ、分かって。“蓮華”にとっては、彼は大事な人…』
誰にも聞こえないように、口の中で呟く。
「分からないよ、お姉ちゃん……冥琳だって、何であんなことを言ったのよ…」
彼女が落ち着いたことを確認したアキラは、自分がまだ鎧を着ていることに気が付いた。彼が席を立って自室に戻ろうとした時、小蓮が声をかける。
「冥琳……最期は、どんな顔してた?」
アキラは彼女の方を振り返る。弱々しい視線が彼に向けられていた。
彼は一回、目を瞑り、そしてゆっくりと瞼を開く。小蓮はその目から悲しい感情を読み取った。
「……笑っていた…俺はそう見えた」
彼はそれだけ言って、部屋を去った。取り残されたシャオはまた椅子に座った。彼女はうつむき、その様子を月が心配そうに見つめ、恋は2人の姿を眺めている。そのような時間がしばらく続いた。
急にグゥゥという音がした。
「月、お腹減った…」
「え、えーと」
空気を壊されて困ったような顔をする月と、当然のことを言ったのだと主張するかのような無表情の恋が顔を合わせる。その光景を見て、突然シャオは「あははは」と顔を崩して笑った。
「あーもう、こんなのシャオらしくない!考えるの、やーめた。シャオもお腹減った!」
「えっ?えっ?」
「シャオ、食堂行く…?」
「行く!」
捕えられていた彼女が食堂に行っていいのか。月は止めようとしたが、彼女の気弱さが邪魔をした。逆にシャオが彼女を急かす。
「ほら、早くしないと置いていくわよ!」
「へぅ。ま、待ってください」
2人の後を月は急いで追いかける。3人の楽しそうに響く足音が食堂まで続いていった。
その頃、蒲公英は韓遂から連絡役を頼まれていた。移動中の陣中は騒々しい。韓遂は歩き回って汚れた蒲公英の足を見て、申し訳なさそうに眉をひそめた。
「悪いな。私がこんな足では無かったら」
「大丈夫です!すぐにお姉様たちに伝えてくるから!」
と言って蒲公英は、陣幕を元気よく出て行こうとする。その背中に一言、伝えることがあった。
「私は正しいことをした。そう伝えておいてくれ」
「……はい」
あの戦いの後、翠は義叔母の顔を見ていない。韓遂のあの一矢は翠を救ったが、同時に翠の自尊心を砕いた。部屋に籠りがちとなった翠は、配下の信頼を失いつつある。
そこで韓遂が出した信頼回復の策が“渡河”である。あの攻防戦では渭水に阻まれて、城の一面しか攻撃できなかった。今度は馬超軍を渭水の北岸と南岸の二手に分けて、長安を攻撃する。しかし兵力が半分になることは、城外で攻撃される危険性も高くなる。
それこそがこの作戦の胆であった。より危険な北岸の陣を馬超本人が請け負うことで、彼女の勇気を示すことが出来る。韓遂はそう主張して、再攻撃を渋る味方を説得した。
ただし蒲公英は、何も言わない姉のことを懸念していた。
(みんなが思っているほど、お姉様は強くないよ)
少しばかりして翠の自室にたどり着くと、中からぶつぶつと呟く声が聞こえてきた。
「くそっ!くそっ!なんだってあたしが…」
蒲公英は何かを察して、そろりと入っていく。その中には椅子に座らずに、辺りをウロウロと歩き回る翠の姿があった。
「入るよ、お姉様」
「蒲公英!勝手に入ってくんな!」
翠は突然の彼女の登場に驚き、そして自分のいら立ちを彼女にぶつけてしまう。
そんな姉に対して、彼女は突然、こう指摘した。
「怖いの?」
一瞬、空気が固まる。しかしすぐに翠は動き出すと、蒲公英の胸ぐらをつかんで激昂した。
「あたしが怖がっているだと?!もう一度言ってみろ!」
蒲公英は何も言わない。じっと姉の顔を見つめる。その瞳に耐えきれないように、翠は言葉を吐き続けた。
「あたしは錦馬超だ!誇り高き馬騰の娘であり、西涼を治める者!誰もあたしの武勇に太刀打ちできない!この武勇で李靖を倒して、復讐を成し遂げる!そのあたしが怖がっている?ふざけるな!!」
「………」
無言の蒲公英の表情に、翠はこれ以上ないぐらいに目じりを吊り上げた。
「なんとか言えよ!!」
翠の荒い息だけが聞こえてくる。
やがて彼女の息が整ってくるのと並行して、胸ぐらをつかんでいた力が抜けてくる。そして彼女は手をだらりと放すと、地面に膝をついてうなだれた。
「あたしだって、怖いんだよ……」
「お姉様……」
蒲公英も目線を合わせようとしゃがんだ。翠の顔を覗き込むと、その目からは大粒の涙があふれていた。
「李靖なんて怖くない。今までだって敵が怖いと思ったことはなかった。…でもよ、それは母上たちがいたからなんだ。信頼できる人が後ろにいたからなんだよ!」
「味方が怖いの?」
「ああ…でも、なにより」
やっと彼女は顔を上げて蒲公英を見た。頬を伝う涙が、顎の先から地面に落ちていく。
「憎しみで変わっていく自分が怖いんだよ…」
蒲公英は姉を抱きしめる。彼女も涙をこぼしていた。そして優しい声で諭す。
「ねえ、もう止めようよ。皆で平和に暮らそう?」
「…無理だ。こんなところで逃げられない。臆病者になんてなりたくない」
「どうでもいいよ、そんなの!……ね?たんぽぽが一緒にいるから」
「…………やっぱ、だめだ」
翠は蒲公英の腕を優しく外すと、立ち上がって涙を拭いた。でもその表情はどこか寂しい。
彼女は地面に座る蒲公英を見下ろした。
「なあ、蒲公英。この戦いが終わった後も、一緒にいてくれるか」
蒲公英は目を擦りながら立ち上がる。赤い目をした彼女は、精一杯の笑顔を作って答えた。
「当然!家族だもん!」
「…ありがとう」
彼女たちは戦う。たとえ、この先に何もないと知っていても、彼女たちは誰かに教えられた運命に従って進み続ける。
運命の扉はすぐそこに迫ってきていた。
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アキラたちと翠たち、そして両者を眺める愛紗たちの会話です。