No.761477

恋姫†無双 八咫烏と恋姫 9話 天下無双、唸れ方天画戟

紀州人さん

天下一の色男にて戦国最大の鉄砲集団、紀州雑賀衆を率いる雑賀孫市は無類の女好きにして鉄砲の達人。彼は八咫烏の神孫と称して戦国の世を駆け抜けた末に鉄砲を置いたが、由緒正しき勝利の神を欲する世界が彼に第二の人生を歩ませた。

作者自身、自分の作品を良くしたいと思っておりますので厳しい感想お待ちしております。

Arcadia、小説家になろうでも投稿しています。

2015-03-01 14:44:33 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:736   閲覧ユーザー数:696

 

フェ~~、ピィ~~。

 

だだっ広い荒野に甲高い音が響き渡る。自然には決して出せない高域の音であり、人工的かまたは動物の鳴き声のように聞こえるそれはやがて規則めいた音になり始めた。

 

音楽だ。陽気な音楽で、聞く者が踊りたくなるような曲調である。奏でている者も楽しくなってきているのだろう、段々と調子が乗ってきている。

 

ピッピッピィ~~~ヒョロロォ~~~~。

 

どうやらこの音は何処かに向かって移動しているようだ。聞こえてくる音の居所は小高い丘の方角、片側が緩やかな坂でもう片側が急な斜面になっておりこちらか登ることは無理そうである。音は坂を登っている。

 

坂には馬とそれに乗っている一人の男。男の名は、通称雑賀孫市。本名を鈴木重秀という。彼は尻を馬の頭に向けあぐらをかいている、つまり逆を向いて坂を登って行っているのだ。孫市の左手には手綱、右手には細長い草、それを口に当てて例の小気味良い音色を奏でている。

 

草笛の音色はまるで孫市の笑い声のようだ。孫市の笑みは子どもの、今から起こることを期待して待っている時の笑いに似ていた。事実、彼は楽しみなのである。この丘の頂上から見える光景が目的なのだ。

 

「はっははは。まだかまだか」

 

孫市が馬を急かすように言うがそんな事が馬に伝わる訳がないので、手綱を軽く振ると馬は小走りを始めた。

 

丘の頂上にその後、すぐに着いた。

 

孫市は馬から飛び降り、手綱を持っていた手で目を覆いながら斜面の方を向いた。まだ草は口に当てている。草笛の音色は彼の気持ちと同調しているようだ。音の高低差が激しくなり、これから何が起こるのだろうという心境を表現しているかのようだ。それに合わせて孫市は足だけで小躍りを始めた。

 

「どれどれ、絶景かのう?」

 

覆っていた手を退けると眼下では人の群れが作られていた。難民や旅人たちの群れではない、彼らは装備を付けており規則的な軍列と呼べる列を作っているのである、数はおよそ三万である。歩兵が軍の先頭を歩き、歩兵三部隊間に騎馬隊が置かれている蛇のように長い陣形だ。部隊ごとに掲げられている旗には黄の文字、今世間を悩ませている黄巾党の軍旗だ。孫市はその黄巾党の軍列を見て、かかっ、と笑い声を上げた。

 

「思うた通り絶景大絶景よ。申し分ないのう、これほどの者を率いたのは初めてじゃ」

 

八咫烏を背に描いた孫市は、この黄巾三万の大将を務めていた。

 

草笛に使っていた歯を手放すと馬の背に、その巨体に似合わぬ浮いたような跳躍で飛び乗った。

 

「もう満足よ。戻って早う洛陽に向かうかのう」

 

孫市は来た道を駆け下りていく。なぜ孫市が三万の軍勢を率いて洛陽に向かっているか、色々と語ることはある。黄巾党の勢いは孫市が加わってから飛躍的に伸びた。孫市はこの国では予言の八咫烏であり、英傑を導くとされている。それが黄巾党、世間では逆賊の黄巾賊と呼ばれ畏怖されているがそれに加わったのだ。

 

正義は黄巾党にあり、これが世間に大きく広まった。

 

孫市は、初めは三千ばかりを率いる一将であったが、僅か二ヶ月あまりで黄巾党を代表する将軍と化していた。孫市率いる軍勢は官軍相手に連勝を重ね、その首都である洛陽までに攻め入らんとしていた。そこを守る官軍は倍以上と報告されているが、誰もが孫市の勝利を信じて疑わなかった。

 

孫市は軍列のちょうど中央辺りに戻ると、何事も無かったように振る舞いはじめた。

 

「洛陽まではいかほどかのう?」

 

隣に馬を並ばせている波才が怪訝な顔で孫市を睨んでいたが、もうこの孫市の行動に慣れてしまったのでそれ以上は気にもせず、彼の質問に答えた。

 

「あと半日だろ。順調に行けばだがな」

 

波才は長い髭を掻き分け、小さな疑念を抱いていた。ここまでこれといった攻撃が無かったのだ。恐らく軍を全て洛陽に配置しているか、待ち構えているか、波才はそのどちらだろうかと考えながら髭をなでた。

 

「くすぐったい事を申すな。なるようになるじゃろう」

 

孫市はそれでも気楽さに陰りがなかった。馬の上で手だけ踊り、軽く歌を歌っている。

 

「お前の勘は当たるから。何か思ったことがあれば言うのだぞ」

 

波才は、この二ヶ月ばかりの間、孫市の行動に頭を抱えるばかりであったが彼の戦さぶりは疑う余地がなく、波才など足下に及ばない兵家であったので戦いに関しては彼に一任していた。ただ孫市がいつの間にかふらりと消えて無くならないかが心配であった。

 

前を見ているふりをして波才は孫市の方をちらりと見た。

 

まだ踊り続けて歌っている。歌は張三姉妹の歌であり、孫市は毎日のように歌っている。波才やその側近たちが耳障りに思えるほどの毎日歌い、歌うたびに上達していくので尚更厄介だった。少し胸に引っ掛かるがどうやら心配ないようだ。

 

「なんじゃい波才」

 

「いや、別に」

 

「そうかえ」

 

「波才」

 

「何だ?」

 

「あの雲」

 

孫市が空のある一角を指差した。波才はそちらの空を見ると確かに雲が一つ浮いていた。先ほどまで雲一つ無いと思っていたのだが、雲とは不思議といつの間にか現れたり消えたりするから面白い。しかし、あの雲がなんだと言うのか、と波才は孫市に問うた。

 

「人の頭に見えぬか?」

 

「そうか? 俺にはただの丸い形にしか思えないが」

 

「歳をとってもうろくしておるのう。ほれほれ、あそこから髪が二本びょんと飛び出しておるではないか」

 

「老人を馬鹿にするな孫市。眼は衰えておらぬぞ、戦場でも活躍しておるだろう」

 

波才の戦場での活躍は孫市の命令を分かりやすく各将たちに伝え、自らも戦場に立って槍を振るう。孫市のいくさ場では欠かせない存在となっていた。孫市もそれを理解しており、波才は歳をとっているからといって虐げず、とても尊重していた。先の言葉は彼なりの好意の表し方である。

 

「見たことのある面じゃ」

 

「どうせ女だろう。もうお前の色話は飽きた」

 

「ああ女じゃ。それも上等なおなごよ、さてたれであったか?」

 

波才はもう勝手にしろと、手首を軽く振って雲から視線を外し、長々と続く軍列の前方の方を向いた。自分でもこんな場所に身を置くとは思っていなかった波才はこの光景を見る度に息を呑む。

 

「たれかのう。観音の一人であったか・・・?」

 

波才は、何が観音だ、と心で悪態を付く。孫市の話す話題のほとんどは女か戦さのことであった。

 

(洛陽にさっさと着いて血を滾らせたいわ)

 

ぼうと波才が横に広がる地平線を見た。この荒れ果てた大地には人など住めそうにない、せめて近くに川でも流れていれば何とかなったかもしれない。くだらぬことを考えていた波才の隣で、あっ、と孫市が喚いた。

 

「なんだ孫市?」

 

「呂布じゃ!」

 

「誰だ?」

 

「呂布じゃよ、呂布」

 

「だから、誰だと訊いただろ?」

 

「誰と言われると・・・そうじゃのう。腕っ節の強くてよく飯を食う元気で物静かなおなごよ。その身には観音を宿しておる」

 

「元気で物静かというのは矛盾しているが孫市・・・」

 

「細かいことは気にするな波才よ」

 

このような言動は今に始まったことではない、波才はこんなことに慣れっこである。孫市の言うように、細かいことを気にしては気が立ち過ぎて寝れなくなってしまう。波才は学習していたので軽く流した。

 

「絵にでも写しておきたいのう。いつかまた出おうた時にでも見せたいのう、波才よ紙じゃ」

 

「そんな物は無いわ。地面にでも書いておけ孫市」

 

この国の価値観に慣れる為に孫市は波才からある種の指導を受けていた。紙は高級品であるや、女が高い位にいても驚くなかれ云々。孫市は馬周りの者から槍を受け取ると、気でも散らすように頭上でぐるぐると回して遊び出した。

 

やれやれまったく、こんな孫市の一連の行動に規則性など見えずその時々に思ったことだけで行動する性格は、波才とは真逆であった。

 

「最近はろくろく良いおなごにも会えぬ」

 

「そうか」

 

「やはりわしにはいくさが一番おうてるのかのう?」

 

「それは違うだろう。女好きじゃないお前などお前ではないわ」

 

「むむむ・・・」

 

二人の会話はそれで終わった。別に何を話す必要もないのである。孫市は話したい時に何かを話すがそのほとんどは必要のない事なのだが、それを聞くのは信頼関係を結ぶのに重要な事だ。だから波才は、当初真摯になって聞いていたが近頃は上手く流すことができるまでの信頼関係を結んでいた。

 

 

 

 

 

黄巾党が洛陽を目指す進路の途中で数十騎の武者が、黄巾党が来ていると報告された方角を見ている。数十騎の先頭に赤い髪の女性が似合わぬ獲物を持って無表情でそちらを見ていた。その中のある一騎が深紅の旗を掲げており、そこには呂の一文字が書かれている。

 

「呂布将軍。どうやら相手はあの予言の八咫烏のようです。どうしますか?」

 

ダルマのような顔の男が、斥候の仕入れてきた情報を女性に伝えた。深紅の呂旗を掲げるこの隊の将はどうやら彼女、呂布のようだ。

 

呂布は、八咫烏という言葉に以上に反応を示した。ぴくぴく、と耳が動物のような動きを見せたのだ。彼女は人と積極的に会話を交わそうとしない、頷くなど軽く首を動かす位なのだがこの反応を見た呂布の側近である高順は、はっと驚いたと思うと、呂布の姿は遥か前方までに移動していた。

 

「呂布将軍どちらに!?」

 

すぐに高順が騎馬隊を引き連れてその背を追いかけるが、呂布の乗る馬は他の馬に比べて脚が速い。高順たちはすぐに呂布の姿を見失った。

 

それからすぐの事であった。黄巾党三万の軍勢の前から馬に乗った女が向かってきていると、軍列の前の方が口々に話し始めた。それが何であるのか彼らは予想が付かなかったがまさかこちらに突っ込んできているとは思いもしなかったであろう。

 

その異常に感付いたのは、騎馬隊を率いる馬元義という男であった。

 

彼は孫市軍騎馬隊を一手に率いる将である。孫市から名前に馬の一文字があるからという理由で騎馬隊の隊長に任命されてから、彼は目まぐるしい活躍を続けていた。彼は隊の脇から抜き出て、その女性を遠目に見た瞬間、彼の中にある危険信号が大きく暴れだした。額から湧き水のように汗が吹き出し、手が震える。

 

「化物か・・・」

 

無意識の内に呟いた。頬を叩いて正気を取り戻そうとするが、彼は狂っている訳ではない。元から正気であるのに何を戻そうとするのか、すぐに彼女に対して何かしらの対処をしなくてはならない。彼は部下の一人を孫市の下に連絡に行かせると自分は最前列に出て、歩き続ける自軍に向かって喚いた。

 

「止まれ!!」

 

馬元義が槍を振り上げてそう叫ぶと、黄巾党三万の大軍は前の方から段々と止まっていく。後方の部隊も何らかの異常を察したようで慌ただしく動き出しているが、馬元義にそれを気にする余裕は無い。もう彼女は三町ばかし先の所まで来ていた。赤い髪に色の富んだ煌びやかな衣に身を包んだ女性は、不似合の獲物を掲げてその馬は全速力である。馬元義は覚悟を決めた。

 

「はっ!!」

 

と、気合を込めた。手綱を力一杯振ると彼の馬が駆けだし、そのまま彼女との一直線上を走る。真正面から挑み、怪鳥音のような声を発しながらの一騎駆けは、彼女にとっては意に介すに値しない物であった。変わらない、無表情のまま方天画戟を後ろに振りかぶると片側だけに付いた月牙が血に飢えたように陽に気味悪く光った。

 

「ふおおぉぉーーー!!」

 

馬元義と女性の一騎打ちを黄巾党の面々は危機感の無い様子で眺めていた。ほとんどの者はまだ事態を飲め込めておらず、なんで馬元義隊長があそこにいるんだ、と首を傾げている。

 

女が馬元義と擦れ違う瞬間、二人は同時に武器を振ったように見えたが女の一撃は最後の伸びが違った。最高速度に達した横の一撃は、馬元義の槍をへし折り、さらに馬の首を叩き斬ると、そのまま彼の首を落とした。ぼん、と二つの首が血に押し出されたように宙に飛んだのだ。

 

「邪魔・・・」

 

武神、呂布奉先の伝説はまさにここから始まった。

 

呂布の特徴は深紅の髪の毛である。それは戦場においてでも目立っていた。そして彼女の乗る戦馬は同じく深紅の馬鎧を着せて駆けさせておる、その二つが合わさるとまるで赤い一筋の光であった。黄色い塊の中に赤い一筋の光が入り込むと塊は真っ二つに割れた。海の流れに逆巻くような勢いとなり、呂布は黄巾軍三万をさらに押して割り続ける

 

黄巾党の表情は、頭に直接電撃を与えられたように麻痺していた。恐怖という感情がまだ顔まで伝わっておらず、手に持った剣で呂布を止めるという行動すら思い浮かんでこないのだ。黄巾党は、敵としての能力を失っていた。まさか呂布が敵とは思いもしなかったのだ。呂布は黄巾党の真ん中を突き抜け、立ちはだかった者たちは消え飛ぶか、吹き飛ばされた。僅かに残った両端の雑兵がやっと恐怖に慄くと、山崩れのように転進して呂布の背を追った。足下に転がる誰の者とも答えられない残骸と気を失った同士たちを乗り越えるたびに指揮が削がれ、走っても追いつかないと悟ると彼らは剣を捨てた。

 

自分の振る方天画戟、鮮血、槍や剣の折れた刃、舞う黄巾、千切れた手足、人の叫喚、馬の嘶き、それらの物が目まぐるしく呂布の視界を駆け抜けた。呂布はなお、それらを見ても表情を一寸も変えず、自分にとって邪魔な物体をただひたすらに退け続けた。

 

そのような事態が前方に起こっていたのに孫市はまだ槍を頭上で転がして遊んでいた。先に不審と思ったのは波才であった。脇を見ると馬元義の放った伝令が馬に乗ってこちらに向かって来ていたのに気付くと、隣の孫市を呼ぼうと視線を動かさないまま、手を孫市の方に伸ばした。すると、軍中から呂布が爆ぜ出た。伝令を斬り捨てると何事も無かったこのように軍中に戻ると爆発したような音が波才の耳に届いた。

 

「孫市!」

 

「なんじゃい?」

 

いつもと変わらない調子で孫市は応えた。

 

「なんじゃいではない!! 分からぬが敵が来たようじゃ!!」

 

孫市は波才に言われるもなくとっくに感付いていた。肩に担いでいた槍をやおらと構えると喚いた。

 

「開けよ!!」

 

その言葉に黄巾党が縦二つに分かれ、孫市がその中を馬で駆けた。一騎駆けを行う勇者とやろうというのだ。孫市の声が聞こえていない前方の部隊はまだ戦っている様子だ。孫市は手綱を引いて馬を止めると、そのまま待った。両脇に居る兵士たちが孫市と同じ視線を前方に注がせつつ、誰もが緊張に呑まれ身を強張らせていた。

 

やがて深紅の鎧を着けた馬が駆け出てきた。だがその背には誰も乗っておらず、ただ無人の馬だけが孫市目指して向かってきていた。

 

それを見て孫市がたまらず首を傾げた。その背に乗っていた勇者は何処に行ったのか、もしかして誰かに取られてしまったのかと、孫市が頭を掻くと脇に伸びていた部隊の一人が空を指差して喚いた。

 

「上に!」

 

孫市のみならず、その声が聞こえた者が空を見た。彼女はちょうど太陽を背にしており、孫市たちには飛んでいたように見えたが、彼女は実際にはただ落下していただけだ。この高さなら人は骨が粉々に砕け、肉は潰れて本人は死んだことにも気付かず絶命するだろう。だが彼女、呂布は違った。呂布が自分の頭上に落下してくることに孫市が気付くと槍を頭上に横に構え、呂布の一撃を防ごうと努力したが、呂布にとってそれは無いに等しい物と変わらない。だが、孫市も常人を凌駕する武の持主である為、簡単にやられはしなかった。

呂布の全体重と落下の衝撃、その全てを孫市は身体を通して地面に受け流そうとした。上手に馬の背まで伝わり脚までに到達したが、馬の方はその衝撃には耐えられず、脚があらぬ方向に折れ曲がると孫市は肩から地面に叩き付けられた。落下する最中で、己を攻撃してきたのが呂布本人であると気付くと彼の口端には不敵な笑みが浮かんだ。

 

受け身を取り、槍として機能しない折れた残骸を捨てると呂布の方を見た。あの高さから孫市を挟んだといえど全く立つことに支障きたしておらず、それが彼女にとっては普通であるかのように無表情で佇んでいる。

 

「孫市・・・。やっと見つけた。月のとこに帰る・・・」

 

孫市、小気味よく高らかに笑いながら後ろ手に手を軽く振った。

 

「久しく会っておらなかった者にかける一声がそれか。ならば力尽くで連れて行ってみよ!」

 

孫市の言葉に、呂布は珍しく余裕の笑みが口端だけに小さく浮かべた。近くいる孫市だけしか気付かないほど小さな笑みであったが、孫市の前では初めて見せた笑いであった。

 

「かわゆい笑みを浮かべるではないか」

 

それが自分など相手ではないという笑みであることなど分かってはいたが、その何とも云い難い呂布の笑みは特別に魅力があった。これを見れただけでも自分は幸せ者と感じた。

 

「いく・・・」

 

その言葉が開始の合図であった。呂布はまず、孫市の後方に方天画戟を投げた。外したように見えたがその後ろには馬に乗って鉄砲を持って孫市の方に向かっている。先ほど孫市が後ろ手に手を振ったのが合図でありこの兵士はその合図に従って鉄砲を運んでいたのだ。呂布はそれに気付き、彼を狙ったのである。鉄砲を運んでいた兵士は、腹に大穴を空けて地面に串刺しにされて果てた。

 

孫市、呂布が方天画戟を投げたのと同時に脇から飛んできた槍を受け取ると、鉄砲はもう駄目だろうと思いながら呂布の頭を狙って振った。呂布はそれを軽々とかわし、孫市の腹に一撃をお見舞いする。女の物とは思えない重い一撃が孫市の内臓に伝わる、それを耐えて後ろに跳んだ。周りをみると兵士たちが輪を作って呂布を囲んでいた。呂布は、前方の方だけで恐らく一万強の兵士を退けてここまで来ているのだ。孫市一人だけで勝てそうな相手ではないと波才は判断し、孫市の代わりに采配を振った。総力戦で呂布に挑もうとしたのだ。しかし相手は万夫不当の呂布である。敵う訳がないことに孫市は分かっていた。

 

「お前は本当に強いのう呂布。久しぶりに会うてみれば、この仕打ちよ」

 

「孫市が勝手に出て行ったのが悪い・・・。まだ月と恋に謝れば許す・・・・」

 

「わしが悪いことをしたと申すのか? 呂布よ、それは違ぞ」

 

二人は会話を交わしながらも手を動かし、孫市は槍を振るい呂布の攻撃を一手に受けていた。呂布は本当に孫市に怒っているようだ。無表情でそんな様子は見て取れないが孫市に対する怒りが突き出される握りこぶしに見て取れる。何としてでも洛陽に連れて行き、董卓の前で頭を下げさせようとしていた。

 

孫市が防戦一方になると周りの黄巾軍が彼を助ける為に動き出した。わっと飛び出すと、一斉に呂布に飛びかかった。これを孫市は多少の卑怯さは感じるが、鉄砲の時代に生きた孫市に一騎打ちを重んじる精神は薄く、さほど悪いとは思わなかった。彼はすぐさまその隙を突いて、呂布に遮られた鉄砲の下に走った。呂布も並み居る兵士を徒手空拳で倒し、孫市の尻を追った。

 

走りながら止まらずに鉄砲を拾い上げ、消えそうになっていた火縄に息を吐いて蘇らせようとしていると呂布が死体に刺さっていた方天画戟を抜き取りざまに飛び上がった。それより先に孫市が鉄砲を構えていた。僅かに呂布が遅かったが、孫市の躊躇が呂布に有利に働いた。鉄砲で呂布を撃てず、孫市は呂布の攻撃を鉄砲で防いだ。呂布に災いしたのは孫市に鉄砲を向けられた時に臆してしまったことである。力が抜けてしまい、孫市に叩き付けた力は半分もなく、孫市は攻撃を防ぐと呂布をぶっきらぼうに投げた。

 

(やはり撃てぬ)

 

孫市は、女を撃つために鉄砲の腕を磨き続けてきた訳ではない。なぜ呂布を撃たなければならないのかと、引金に指を掛けている自分に何度も問うていた。

 

それが雑賀孫市のすることか、もしも呂布を撃ったのならばわしはわしを許さぬ。

 

孫市の信条はこの国では邪魔だ。それが分かっていてもなお、孫市は呂布を撃てなかった。自分は自分の生き方しかできない、それが呂布を怒らせている原因でもあるが孫市は仕方のない事と割り切っている。それは変えることの出来ない真理だからである。

 

放り投げられた呂布が態勢を立て直し、孫市を見ると孫市は鉄砲を地面に置き、あまりにも無防備な姿で立っていた。

 

(ならばわしを討て、呂布よ)

 

呂布に殺されるのはどれほどの気持ちの良いことであるのだろうか、孫市は考えた。それは宇宙の始まりからこの世までの長さのように思えるほど、長い長い幸福の時間に思えた。その身に観音を宿す女に討たれるのならば本願寺の坊主どもが申す通り、こんな自分でも極楽浄土へと逝けるのではないのか。

 

「孫市!!」

 

呂布と棒立ちになっていた孫市との間に波才が剣を構えて入って来た。それに続いて孫市の馬周り衆も呂布を包囲する。

 

「逃げるぞ孫市。部隊は総崩れだ」

 

波才が孫市の腕を掴んだ。孫市は振りほどこうとするが力が入らず、引き摺られるように呂布から逃げた。

 

たった一人にここまでやられては指揮など崩壊しない方がおかしい物である。波才は、呂布を倒すために弩部隊を包囲するように配置し、馬周り衆は死兵と化して呂布に挑みかかった。しかし、それでも呂布は倒せない。黄巾党でも随一の腕自慢を誇る孫市の馬周り衆を次々と屠り、その屍を盾とし弩部隊に斬り込み、ばったばったと彼らを撫で斬りにする。

 

「鬼神だ・・・」

 

無表情で殺し続ける呂布の姿を見て波才は絶句し、やっとの思いで出せた言葉がこれであった。

 

「何とかしなくはならん。だがどうすれ・・・」

 

波才の思考は停止寸前であった。絶望的な場面になればなるほど自分とはこうも考えが浮かんでこないものなのかと、自分の不甲斐無さにさえ呆れた。ここぞという場面でこそ、副将の自分が孫市の代わりをしなくてはならない、波才はどんどん深い沼に沈んでいく気持ちになった。

 

「む、あれは?」

 

沈むように俯けていた視線の端に騎馬の一隊が突如現れた。その一隊は黄巾党の横腹を突くように突撃してきている。掲げられている旗は呂、敵のようだ。呂布の突撃に乗じての奇襲、波才はさらなる絶望的場面で老体の胸が悲鳴を上げ、気を失いそうになる。

 

「あれは呂布の部隊か」

 

気が付くと孫市が立ち上がって、向かってくる部隊を眺めていた。何か良い案でも出してくれるのだろうか、波才はもう孫市に頼るしかなかった。

 

すると、孫市は揚々と歩き出した。向かう先には縦横無尽に暴れる呂布がいる。孫市は深い深呼吸の後、全身全霊で呂布に組みかかった。がっしりと腕を押さえ、足で足を絡め取り、孫市は呂布を地面に組み伏せた。呂布は力尽くで振りほどこうとしたが孫市が彼女の耳元で、

 

「少しだけ大人しくしてくりゃれ」

 

と、優しく囁いた。その言葉に敵意は無く、呂布はなんとも素直にその言葉通りに身体から力を抜いた。孫市も優しく絡めていた手足から力を抜く、呂布に乗っかるように組み伏せる真似を続けた。

 

「呂布将軍!」

 

そこに奇襲を駆けてきた呂布の騎馬隊が、一見すると捕縛された呂布を見つけると振り上げていた刀槍を力なく下げて、戦闘の意志が無いことを知らせる。孫市が内心笑った。孫市はこれを狙っていたようだ。地面に突っ伏している呂布は訳も分からず、孫市の演技に知らず知らずの内に混ざっていたのである。

 

「お主ら、まずは馬から降りよ。話はそれかじゃ」

 

彼らは悔しそうに歯を食いしばるが呂布の姿を見ると覚悟を決めて一斉に下馬する。

 

「要件は何でしょう」

 

そう言ったのは呂布の副将である高順であった。手槍を足下に転がすと孫市と視線を合わすように座り、目下に対応した。

 

「呂布を持っていってくれれば、わしらはここから撤退しよう」

 

「ん? どういう事でしょうか?」

 

高順だけでなく、他の者や黄巾党の面々まで孫市の言葉の意味が分からなかった。

 

「つまりじゃ。呂布をここから持って帰ってくれれば、わしらは洛陽には攻め入らぬと申しておる」

 

「話が見えませぬが・・・?」

 

「だから何度も言っておろう。呂布を連れてさっさと帰ればわしらは洛陽を攻め入らずこのまま撤退すると」

 

孫市は遂に立ち上がり、捲し立てるように高順の頭上から再び説明をした。背中に乗られていた呂布は訳も分からず立ち上がると二人の横に立ち、交互に顔を見る。

 

「呂布将軍。お怪我はありませぬか?」

 

「大丈夫・・・」

 

「ほれほれ、呂布は何ともない。じゃがわしらは散々じゃ。見てみよこの有様を、先からここまでの部隊が壊滅じゃ、じゃから呂布を持って帰ってくれればわしらは兵士を一人も残さず撤退すると、先ほどから申しているじょろうて」

 

高順はようやく孫市の申していたことが分かった。呂布の突撃で孫市の率いていた部隊はその戦闘能力を失ってしまい、もう洛陽に攻め入る力は残っていないのである。何とか立て直したいから呂布を解放ではなく、連れて帰ってと孫市の方からお願いして、なおかつ洛陽には攻めないと約束してくれているのだ。破格の条件に高順はやや混乱して、再度孫市の見た。

 

「本当にその条件でよいのでしょうか?」

 

洛陽は黄巾党の進行に備えてある程度の防備は用意していたが、戦わないのであればそれはそれで望んでいた事であったがそれは黄巾党側としてはどうなのか、高順は孫市が黄巾党内で反感を得ないかと考えたが、孫市の顔はすっきりとした表情でこの条件で何ら異論はない様子である。

 

「待て孫市よ。攻めぬとはどういうことだ」

 

事態を飲め込めた波才が三人の中に割って入った。

 

「そのままの通りよ」

 

「し、しかしこのまま退けば・・・」

 

波才は悪い予感を感じた。

 

このまま撤退すれば自分たち三万の軍勢はたった一人に負けたと恐らく全土に広がるだろう、それは黄巾党の指揮を下げ、官軍の指揮を大いに上げることになる。しかもだ、その三万の将が予言の八咫烏となると、波才はこれ以上悪いことは考えたくなかった。ここで自分たちが撤退すればそれは黄巾党の敗北に繋がりかけない結果となるのだ。何としてでも孫市の考えを変えようと波才は説得するが孫市はまるで聞く耳を持たない。

 

「この洛陽攻めもたまたま手薄だったからじゃろう。まともな軍師もおらぬ薄い戦略など何の役にも立たぬわ」

 

「ならお前が」

 

「わしは戦略など知らぬゆえ、黙っておれ波才よ。され、お主は・・・」

 

「高順と申します八咫烏殿」

 

「おうそうか。高順とやら、先ほども言ったように呂布を連れ帰ってくれればわしらはただちに転進して洛陽には攻め入らぬ。約束しよう」

 

官軍としてもこれは良い条件であった。洛陽を攻められないばかりか八咫烏の名を落とすこともでき、こちらは死者も出していない。高順は脇の呂布をちらりと見た。

 

何も考えてなさそうな無表情顔であるがその武のみで三万の軍勢を打ち砕き、あの八咫烏の戦意まで喪失させる者の顔でなかった。こんな女性の傍に仕えられることができた自分は、何て幸せ者なのだろうと高順は天に感謝した。

 

「孫市。決心の下なのだな」

 

「ああ、そうよ」

 

「分かった。文句を言う奴らは俺が何とか抑えてやる」

 

「うむ。頼むぞ波才よ。よし、撤退じゃ!」

 

孫市自身は何も洛陽攻めを諦めていた訳ではなかった。自分であれば落とす自信はあったのだが、彼の兵士たちはそうではなかった。呂布に恐怖を植え付けられた彼らでは呂布が待ち構える洛陽を攻めても無駄であると考え、即座に作戦中断を決断した。戦いには誰だって恐怖を感じるが、恐怖心を植え付けられてしまった彼らはもう兵士として使い物にならなくなってしまったのだ。孫市はそういう事全てを配慮し、いつか行くと決めた洛陽を断念したのであった。

 

この一件は天下を大いに揺るがせる事となった。三万の軍勢を引き連れた八咫烏がたった一人に敗れた噂はすぐに広まり、黄巾党にて築き上げた孫市の名声は地の底まで落ちる事となった。

 

一時期三万もの軍勢を従えていた孫市は当初の三千ばかしに戻り、張三姉妹の慰めにも耳を貸さず、少ない手勢を率いては遊撃戦を繰り広げ、細々と活躍の輪を縮めていった。へこたれたと思われた孫市であるが、彼は全くの平気であり、むしろウキウキと少なくなった兵を率いては戦場に繰り出している。しかし、そうもしてられない状況へと事態は進んでいく事となる。黄巾党は官軍相手に連敗を続けた。

 

そんな中でも孫市とその隊だけは明るく居続けた。

 

 

 

 

 

(もう黄巾党は敗れるな)

 

孫市ただ一人の活躍で戦局は左右できない、彼は酔狂と侠気の戦さだけを続けてきたのだ。彼の頭の中は張三姉妹のことだけで一杯であった。どうこの戦局を切り抜けるか。

 

黄巾党は虐げられた民や賊の集まりで優秀な者は少なく、逆に官軍は呂布や曹操を筆頭に優秀な者が大勢いる。孫市は近頃聞いた曹操の活躍を思い出しながら、口にくわえていた草の茎をぷっと吐き出し、地べたに布かれた藁の上に寝転がった。

 

孫市は百ばかりを率いてとある廃村に来ていた。黄巾党を名乗る賊がこの近くの村を略奪したと聞き、それの討伐である。それは楽々と済んだのだが、孫市にしては珍しく気分が晴れていなかった。

 

腕枕をしてごろっと転がる。辺りには百の部下が好きに過ごしている、波才が当初連れた三千の内の百だ。他は本陣の警護をしており、彼らと波才だけは孫市を見限らずに共に戦い続けてくれている。

 

このまま星空を布団に眠ろうかと思ったが喉の渇きを覚えた孫市は、何処かに井戸でもないかと廃村を回り、その中央辺りで崩れかけた井戸を見つけた。早速と水を汲もうとすると、

 

「その井戸には毒が入っていますよ」

 

誰かの声が孫市を止めた。孫市は辺りを見渡すと、後ろにある寂びれた民家の中から誰かの気配がした。

 

「たれじゃ?」

 

「お忘れですか?」

 

中からぬるりと現れたのは孫市の見覚えのある人物であった。確か、と名前を思い出して彼の名を呼んだ。

 

「干吉ではないか」

 

「お久しぶりですね。お噂はかねがね」

 

干吉は含み笑いをしつつ、そう言うと孫市の傍まで近づいてきた。変な気色の悪さがある。やはりこの男はいけ好かないと孫市が再度思い、気になったことを訪ねた。

 

「井戸に毒が入っていると言ったが本当か? わしは喉が渇いて堪らん」

 

「ええ、それがこの村を滅ぼした一因でもあります」

 

「ほう、たれがやったのじゃ?」

 

「貴方がた黄巾党の仕業ですよ」

 

孫市はやや狼狽したがその言葉が嘘ではないと感じた。本当に黄巾党がそんなことをしているのか、と訊こうとしたが干吉の口は止まらない。

 

「愛弟子たちが変な集団を作ったと聞けばあなたも参加していた。長く草葉の陰から見守って来ましたが、黄巾党は傍若無人に暴れているだけではありませんか。もしかして、あなたが変な入れ知恵でもしたのですか? もしそうなら許しませんよ、やろうと思えばあなたを呪い殺すことなど造作もないのですから」

 

「少し落ち着かぬか、わしも最近の黄巾党はよく分からんのじゃ」

 

「確か一人の女性相手に全滅した今は小規模な戦いで細々と活躍しているとか」

 

「まあそうじゃが」

 

「軍議などには参加されていないのですか?」

 

「三姉妹は来てくれと申すのじゃが自粛しておる。敗将のわしが行けは縁起が悪いからのう。今は食料不足で軍を維持することも難しいそうじゃ」

 

あの一戦以来、黄巾党の衰退は目まぐるしい。方々の戦さで敗れ、本陣付近で今もなお激しい戦いが繰り広げられているそうだが、孫市は蚊帳の外にいるように気にもしていないが、もしも何かあれば身を挺して三姉妹を救うつもりでいる。

 

「あの娘らはわしが守るから心配するでない」

 

「・・・喉が渇いたと言っていましたね。少しこちらに来てください、近くに綺麗な池があります」

 

干吉、思い出したようにそう言った。何処か声色に陰がある。

 

「そうか。では案内してくりゃれ」

 

孫市は干吉の後に続き、廃村から出て森の中を二町ばかし進むとぽっかり空いた場所に出た。そこは草原が広がり、その先に池がある。遠目でも分かるように確かに綺麗な水だ。池は月を反射して鏡面のように広がっている。孫市が水辺で膝を付いて伏せ、掬おうと手を突っ込むと水底に何かが沈んでいることに気付いた。手を入れたばかりで水面は波が立っており、何かとは分からなかったが波が止むとはっきりと確認できた。それは人であった。孫市は手を反射的に抜き、まじまじとその遺体を見詰めているとその傍にも、またその傍にもと水底には数え切れんばかりの人らしき物で埋まっていた。あまりの衝撃に身を反らして池の中央辺りを見ると、子どもらしき物体が浮かんでいる。なんたる惨状か、孫市は喉の渇きを忘れ干吉に問い詰めた。

 

「なんじゃこれは」

 

「あなた方がやったことですよ。お忘れですか?」

 

「わしら黄巾党がやったと申すか」

 

「ええそうですよ。私が偶然この村にやって来た時にはもう終わった後でしたが、頭に黄色い布を巻いた連中が井戸に毒を入れ、死体を池に運んでいたのを見ました。残った人々は村を捨てて、黄巾党にでも入ったのではないでしょうか?」

 

「待て待て、一体何を申しておるのだお主は」

 

孫市は理解しようとしたがそれを拒んでしまった。事を眼の前の胡散臭い妖術師が何か変なことを言っている、それを信じるなどできる訳がない。

 

「本当の事なのですよ。八咫烏と名乗ったあなたが活躍している間は良かった。ではあなたが負けた途端に黄巾党は急に変わりました。ただの賊となんら変わりません」

 

「少しおかしいとは思っていたがここまで腐敗していたか・・・。何とかせねばな」

 

孫市、顎に手を当てて少し思い当たる節があったのを思い出した。一部の者たちが食料確保のために村々を襲っているや、黄巾党のふりをした賊たちが略奪行為を繰り返すなどの噂を、波才から少し耳に入れていた。

 

「そうですよ。何とかしてください、私の弟子たちをこんな事をする連中の中になど入れてられませんよ」

 

孫市は、干吉のことを気に食わない男と思うが彼もまた張三姉妹を想う気持ちは孫市にも負けないのである。その意気を感じ、孫市は一計を案じようと考えた。同じ女を想う者を邪険には扱えないのが孫市の男気である。すぐさま彼は廃村に戻ると、酒を飲んで寝ていた波才を叩き起こした。

 

「波才よ。すぐに出立するぞ」

 

「何、どうしたんだ。敵か?」

 

寝ぼけた風に波才が応えた。

 

「本陣に戻るぞ」

 

孫市は胸の高鳴りを押さえながら、睡魔に眼を擦り続ける集団を連れて本陣に走った。

 

 

 

 

 

 

それから数日後の事である。

 

この黄巾党との戦いで目まぐるしい活躍をしている者はと聞かれれば呂布の他に、曹操の名が上がるだろう。曹操は各地を転戦し、黄巾党の討伐を続け、黄巾党の本陣があるとされている巨鹿に陣を設置していた。この周辺では黄巾党をよく目撃しており、偵察部隊を用いて本陣の特定に至り、現在は攻め入る機を伺っている

 

 

その夜であった。一人の少女が陣から少し離れた所を流れている川に足を延ばしていた。彼女、楽進は待機命令の長さに少し嫌気が差して始めていた。曹操は、時として動くときは火のように激しいが、動かないときは山のように動かない。楽進はどちらかと言えばずっと動き続けている方が好きである。狭い陣中では身体も鈍ってしまうので、今日も皆の眼を盗みここまで走って来ていた。

 

灯り火も持たずここまで走ってこられるのはそう多くはなかろう、これも楽進の得意技で気を膜のように張り、ぼんやりとだが辺りの地形が分かるのである。気を張り続けるというのは意外と疲れるもので、走り込みと相まって心地の良い疲労感を起こさせた。

 

楽進は顔を水で流し、懐に入れていた布で濡れた顔を軽く拭くと布を川に浸けて火照った身体を拭いた。良い汗を掻いた後に冷たい川の水で冷やすのは快感物である。

 

「あぁ・・・」

 

気持ちよさげに楽進は声を漏らした。

 

「おっといけない。黄巾党の連中が辺りにいるかもしれない、油断してはダメだ」

 

と、自分に言い聞かして彼女は元来た道を戻ろうと川に背を向けた。その時であった。背後に何者かの気配を感じた。肩で風を斬るかのように楽進は振り返るが誰もいない。あるのは川だけで、他には何も無かった。ちらり、と視界の右から左までを目だけで見渡して警戒を怠らない。左端に来たところで楽進の目は止まった。そこで目一杯が理由ではない、止まざるを得ない理由があった。

 

男が釣りをしていたのである。

 

「なっ!?」

 

いくら自分が油断していたといって、ここまで人を近寄らせたのは初めてであった。大きな背中を見せながらも、彼がもう一跳びすれば間合いに入る距離だ。楽進は拳を構えて臨戦態勢を取ろうとしたがその男に途轍もない違和感を覚えた。暗くて正確には見えないが真赤な服を着ており、背格好がそれとなく「ある男」に似ていたのだ。もちろんその男とは孫市であるが、もう長く会ってはいない。向こうは自分のことなど、とっくに忘れているのではないかと何時しか不安を抱き始めていた。

 

「だ、誰だ!」

 

楽進は犬のように喚いた。動揺を隠しきれていないのである。

 

「凪よ。まあ、座らんか?」

 

男が野太いが良く通る声でそう言った。

 

楽進は自分の真名を知っており、尚且つその野太い声に聞き覚えがあった為に孫市であると確信した。自分のことを覚えておいてくれたことが嬉しかった。が、孫市は黄巾党に居るはずである、いわば敵同士だ。彼が自分の前に現れたというのなら、何か理由があるのだろう。

 

楽進は、敵意を見せる様子の無い孫市の隣に座った。闇夜で見えていなかった顔がくっきりと見え、その男振りは変わってはいなかった。と言うよりも、以前より男伊達が上がっているようにも見える。

 

楽進が孫市の隣に座ってどれ程か経った頃だ。孫市の握る竿の先が、ぴくぴくと上下に微かに揺れた。孫市、すかさず竿を引いたが少し早かったのだろう、餌だけが見事に外れているだけであった。

 

「あーあー。はずれじゃ」

 

二人はここまで一度も会話をしていない。楽進は、孫市が何かしらの用で来ていると考えているので、自分から話しかけないようにし、孫市は孫市で楽進から喋らせようと何度も誘っていたが、孫市は辛抱が利かない男であるので、釣竿を片付け、闇夜の中を流れる川を眺めながら楽進に言った。

 

「久しいのう凪。何ヶ月ぶりかのう?」

 

親しみの困った名の呼び方であった。合わない間でも彼の情という物は途絶える物ではない、それの反対に情が深くなっていくのだ。

 

「さぁ、私もよく覚えていません」

 

楽進は悪戯っぽくそう言った。せめてもの抵抗なのであろう。

 

「そうかい。調子はどうじゃ?」

 

それでも孫市の調子は何ら変わらない。昨日会ったかのように親しげである。この調子で続けられると楽進は本題を忘れて彼との会話で夜を潰してしまうと思い、思い切って本題に踏み切った。

 

「孫市様。何か話があるのでは?」

 

「む? いやなに・・・」

 

孫市の視線の先に川を泳ぐ魚の鱗が月明かりに反射して鮮やかに輝いていた。恍惚とした艶やかな光に見え、こういう夜の雰囲気にはとても良く似合っている。孫市はそれを眼で追いながら自分の懐に手を入れ、何かを取り出した。

 

「これを曹操にそれとなく渡してくれんか」

 

「これは?」

 

孫市は、楽進に手紙のような物を差し出した。彼女は少し警戒して簡単に受け取ろうとはしなかったので、孫市は簡単に説明した。

 

「これはのう凪。曹操が戦功第一を得るための策よ」

 

「・・・私がそれを怪しいと思ないとでも?」

 

楽進は鋭い目付きで孫市を睨み付けた。そんな都合の良い話があるものだろうか、何よりもそんな話を持って来ているのは相手側の人間だ。しかも黄巾党の随一の将である。そんな男が敵である楽進たちに策を伝授するなど滅茶苦茶にも程がある。

 

「今は何も言わずに受け取ってほしい。頼む凪よ」

 

いつになく真剣な口調の孫市に楽進は事の重みを窺えた。裏の無い男だということは分かってはいたが、今は敵同士なのである。孫市が黄巾党に入らざるをえなかった理由があるのだろう、引っ掛かった楽進は訊ねてみようとしたが、何も言わずに受け取ってほしいという言葉がそれを止めた。

 

「わかりました。受け取ります」

 

楽進は両手に大事に孫市から受け取るとそれを懐に仕舞った。仕舞い終るのを見届けると孫市は釣竿を片手に立ち上がる。

 

「送ろうかよ」

 

「いえ。もしもばれでもしたらタダでは済みませんよ」

 

「そうじゃな」

 

孫市が月にも負けないほど笑った。その顔を見ると走った疲れが吹き飛び、楽進はすぐに陣に走り帰って手紙を曹操に渡したくなるほど電気が湧き上がるのを感じた。心底不思議な男だと思う。

 

「ではまた合おうかよ凪。それまでには強くなっておれ」

 

孫市は後ろ手に手を振りながら闇夜の中に陽炎の如く消えてしまった。

 

 

 

 

 

 

曹操が重い腰を上げたのはその次の日であった。

 

楽進から渡され手紙には黄巾党本陣の場所とその陣容が事細かに書かれていたのである。当然怪しいと皆はその手紙の内容を疑い、楽進にこの手紙を何処で入手したのか問いただしたが彼女は決して口を開かなかった。ただ一言だけ言うのである。

 

「何も言えません」

 

嘘はつけない彼女はそう言うしかなかった。曹操はそのただならぬ様子を見て、この情報を信じ込むに値すると見た。更に文字を追っていくとその最後に「雑賀孫市」と名が書かれていたのである。

 

これでは楽進が言えない訳だ、と曹操は納得してその事を誰にも話さないことにした。孫市を嫌う者は曹操軍に少なからずいる、これがきっかけで不仲にならないようにした拝領だ。だがしかし、なぜ敵であるはずの孫市がこのような情報を自分に与えたのか、曹操も不思議に思ってしかたがなかった。やけに賢い曹操の頭には何かしらの策ではないかと結論を出してしまう。だが、あの男の言う事だ。これは本当のことであろう。

 

曹操は手紙を握りしめると全将に下した。

 

「すぐに出陣するわ。この乱を今日! 終わらせるのよ」

 

 

 

 

 

黄巾党本陣はおよそ二十万の人が籠っていた。二十万と聞けば強大な戦力のように聞こえるが、そのほとんどは流浪の民が占めており、彼らの目的は食料を得ることだけあった。爆発的に人口が増えたことにより、黄巾党内の食糧事情は圧迫され、満足に食えない毎日が続き、干吉が語ることとなった。このままいけば黄巾党は自滅するのは時間の問題であると張三姉妹は考えたくもないが頭の中がその事で一杯になった。

 

彼女らには頼れる者が少ない、孫市はあの一件以来顔を見せてくれない。後ろめたさでもあるのだろう、彼に付き従う波才とも会う機会が確実に少なくなっていたが、波才は会うたびに張三姉妹はとてもとても心配していた。彼女らはある日、彼が言った言葉をふと思い出した。

 

「もうすぐ終わる。それまでの辛抱だ」

 

その言葉の真意は彼女らに読み取れなかった。天幕に籠りながら張三姉妹がそんなことに耽っていた時であった。けたたましい銅鑼の音と人の雄叫びが聞こえた。三人は外に飛び出した。陽の光など生温く思えるような熱が肌を襲って来た。陣内が燃えている、連なって張られた天幕を伝うように火が黄巾党本陣も包み込んでいく。このままなら一時もしない内に全てが灰となってしまうだろう。

 

「御三方! 敵が火を付けながらこちらに向かって来ています!! 裏から逃げればまだ何とか・・・!!」

 

熱心な彼女らの狂信者が煤だらけなりながらも、彼女らの前で倒れるように跪いた。

 

「天和姉さん・・・」

 

人和が天和を心配そうに見詰めながらその名を呼んだ。彼女の性格上、助けられるだけ人を助けようとするはずだ。

 

「でも、私たちだけで逃げるなんて」

 

すぐに集められる兵だけで五千はいるはずだ。彼らを連れて行けば、後でも困らないだけの余裕は作れるはずである。

 

「地和姉さん。天和姉さんを!」

 

「うん、わかった!」

 

二人は天和の腕を掴み、嫌がる彼女を連れながら裏から兵を率いて抜け出すことにした。

 

これが終われば、もう妖術を悪く使わずにひっそりと暮らしていこう。干吉先生にも謝ろう。歌の夢はもう捨てるほか仕方がない。張三姉妹は五千の兵を率いて陣の裏から逃げ出した。

 

その光景を遠巻きから眺めていた男たちがいた。孫市とその他三千人の部下たちである。

 

孫市は煙の上がる陣を見詰めながら表情を一つ変えない、その隣で同じように陣を見ていた波才が孫市の方を向かないまま言った。

 

「お前は薄情だな」

 

「ああ・・・」

 

上の空だったのか、ちゃんと聞こえていたのか波才には分からなかった。

 

「では、孫市。わしらは三姉妹の所に向かう。曹操とやらに首を斬られないように交渉せねばならんからな」

 

「心配せんでもよい。曹操は天和らの首は落とさんよ」

 

「お前は知恵が回るのか回らんのか分からん奴だな。あの娘らに利用価値があるとでも?」

 

「聞くところによると、官軍の者どもは張角の名は知ってはいるが顔を知らんとのことじゃ。そこに賭けてみたのよ」

 

「ふ、そうか。ではな孫市。また合えたその時はお前の下で働こう」

 

長く蓄えた髭を撫で、若さある口調のまま波才は裏から出てきた一団の下に歩みだした。それに続いて三千人の男たちが足並みを揃えて動き出す。土煙と足音を散らしながら彼らは遠くの方へ、遠くの方へと小さくなっていく。槍先が陽に反射してキラキラと輝くのを最後に彼らは孫市の前から姿を消した。

 

残ったのは孫市とその駄馬である赤兎馬。それに三人の男だけだった。

 

「む?」

 

孫市は後ろを振り返って初めてその三人がいることに気が付いた。その三人の顔ぶれはノッポ、チビ、デクの凸凹三人組であった。

 

「なんじゃお前ら。波才と共に行かんのか?」

 

「いや~~~。俺たちには旦那の方が合ってると思ってなぁ」

 

ノッポが顎に指を当てながら言うのを、隣でチビが盛り上げた。

 

「そうっすよ。兄貴の言う通り、俺たちは孫市の旦那に付いていきますぜぇ」

 

「そうだなー」

 

デクが気の抜けるかのような声で続いた。

 

「はっははは! では行くぞ。これを持てデク」

 

と、孫市は天下一孫市と書かれた旗を手渡した。デクは片手で軽々と旗を掲げた。

 

「後腐れな別れではあったが、天和、地和、人和よ。また会えるその日を楽しみにしておる」

 

孫市たちはぼうぼうと燃え盛る陣に背を向けて乾燥した風が土を巻き上げるのと同時に歩き去った。

 

 

 
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