No.760358

ねがい

高校最後の公式試合。甲子園まであと一歩というところで、エースでピッチャーの上杉翔斗はヒットを打たれ、野球部生活に幕を閉じる。
だが彼には、ひとつやり残したことがあった。それは、幼馴染でマネージャーの朝倉美南に、思いを伝えること――――

2015-02-23 21:43:58 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:687   閲覧ユーザー数:686

 
 

第一章『青春の忘れ物』第1話『敗北』

 

×××

 

「……ごめん」

 悲痛な声で呟いた翔斗は、他には何も言わず、美南に背を向けて立ち去ろうとした。泥にまみれたユニフォーム、まめだらけの手のひら。これまでの文字通り血の滲む様な努力と、今日の死闘の結果もたらされた勲章だ。だが、マウンドから遠ざかってゆく翔斗の背中にあるのは、寂しそうに霞む背番号の"1"だった。

 朝もやの中、夕焼けの中、星空の下。いつもは輝いて見える筈なのに。彼の努力の証全てが、今日は今日だけは、美南の心を切なくさせた。橙色に翳る世界は、二人の悲しみや悔しさ、そして寂しさを飲み込んでゆっくりと広がってゆくような気がした。トボトボと歩を進めるその投手は、橙の絵の具に塗り込められて、カンバスから消されようとしている。そして、美南自身も。

 いつもよりふたまわり小さく見える翔斗は、心すらも、彼女から離れてゆくようだった。落ち込んだ彼との間に、見えない壁を感じる。強くてかっこいい、美南のよく知る翔斗ではなかった。自信に満ちたマウンド上での覇気は完全に消えている。失意の中、青春をなくしたただの高校生だ。悲しみに打ちひしがれた少年は、少年であるのにどこか哀愁に似た雰囲気が漂っている。彼はもう、何も持っていなかった。

 美南は手にしたボールを握り締めた。今日の試合を終わらせた一球。彼らの青春を終わらせたボール。ひょっとしたら、彼らのうちの誰かの野球人生をも、終わらせた。土で汚れた白球に、ひと雫の涙が零れ落ちた。流れ落ちながら、土を拭ってゆく。彼らの青春の痕跡を、一筋の涙が、消し去る。

 ひとりぼっちの狭いグラウンドで、美南は立ち尽くしていた。夏の始まりを告げるセミが、鳴いていた。少し寒い今年の夏は、随分と訪れが遅かった。彼らの夏は、始まる前に終わった。

 高校最後の夏の甲子園地域選抜。彼らの学校はほんの数時間前に敗れた。ベストエイト。県下数百校の内の、八番目。ヒエラルキアで言えば頂点に近いその位置だが、夢の切符を得られるのは、僅か一校。一番でなければ、意味がない。三度あるチャンスの、最後の一度が、終わった。七対八の惜しい試合だった。あと少し守り抜けば勝てたのに。最後の最後で逆転され、幕を下ろされた。いい試合だった。そう言えば聞こえはいいが、その分悔しさも大きい。緊張の中投げ抜いた翔斗は、自らの3年間を一球一球に込めて投げた。そしてその内の一つを、バックスクリーンに飛ばされた。それが全てだった。3年間が、そこで終わった。

「翔ちゃん……待って」

 気付くと、声を上げて呼び止めていた。美南は、これ以上翔斗の姿を見ていたくなかった。いつもは堂々と胸を張って歩く彼の、しょんぼりとした姿をこれ以上見ていたくなかった。だが、いざ翔斗が立ち止まってから困り果ててしまった。一体自分は彼に何ができるのか。なんと声をかけてやれるのか。

 球場から学校に戻ってくる時の葬式のような雰囲気のバスで、一人泣いていた彼。皆の期待を一身に受け、マウンドの上で戦い、そして打たれた彼。誰よりも遅くまで居残って練習していた彼。そんな翔斗を、全部見ていたから。美南は何も言えなかった。

 翔斗にとって、甲子園がすべてだった。幼稚園の頃にテレビで見てから憧れ続けてきた夢の舞台。物心着く頃には、いつもボールを握っていたのを、幼馴染である美南は知っていた。翔斗は甲子園に行くものだと、信じていた。その夢が叶わないことなど考えたこともなかった。まるでどこかの漫画の様に、「美南を甲子園に連れて行ってやる」と意気込んでいた彼を、キラキラした瞳で見つめて、応援していた。翔斗の夢はいつしか、美南と二人の夢になっていた。夢は願って努力すれば、叶わないはずないのだと信じていた。だからその舞台への道を挫かれた時にかける言葉など、用意していなかった。

 立ち止まったままだった翔斗が、とうとう痺れを切らして振り向いた。疲れきった顔。どんなに練習が厳しくても、こんな表情をしたことがなかった。一気に歳をとったようにやつれている。目には何も写っていなかった。あぁ、これが絶望。

 そんな顔を見て、美南はますます言葉に詰まった。今の翔斗に届く言葉など存在しない。自分など何も役に立たない。辛い時に支えてあげることもできない。美南は泣きそうになった。翔斗が苦しんでいるのに、何かしてあげたいのに。好きな人が、泣いているのに。

 

×××

 

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