『帝記・北郷:十八~二雄落花・壱~』
三ヶ月程前、華雄が新魏軍に復帰した頃。
「たっだいま~ご主人様ぁ~ん」
「お、戻ってきたか。で、どうだった?」
「ばっちり、華佗ちゃんを見つけてきたわよ~ん。早速周喩ちゃんの治療に当たってもらってるわんっ」
「おお、でかしました貂蝉」
「あらあ、蒼亀ちゃんがそう言ってくれるなんて珍しいわねぇ…あ、そういえば、蒼亀ちゃんへのお手紙を預かって来たんだったわん」
「手紙…私にですか?」
「ええ、確か『夢鏡』と言えば解るって言っていたわねん」
「夢鏡……まさか!?」
この時貂蝉の持ち帰った一通の書状が、天下の趨勢を握ることになるとは天才軍師・蒼亀ですらまだ気づいてはいなかった。
三ヵ月後。柴桑城。
ジャラン…
城壁の上に琴の音色が響く。
それに合わせて響くのは胡弓の音色。
風がその音色を運ぶ。
遠くで見張りをする兵士達へ、城下で傷ついた体を癒す負傷兵達のもとへ、兵士と共にこの城を守る城民達のもとへ。
そして戦いで散っていった数多の命のもとへ。
「………見事なお手前だった」
「いえいえ~そちらこそ」
演奏を終え、琴の弦から指を離して龍志は胡弓を持つ揚羽に頭を下げる。
それに揚羽は何時もの天真爛漫な笑みで答えた。
柴桑城が蜀軍の攻撃を受け始めてから今迄、柴桑城は敵の猛攻を耐えきっていた。
この柴桑城は堀に長江からの水を引いており、その幅、深さは並の城の追随を許さない。加えて城門を至るには桟跳橋を下さねばならず、衝車の使用を妨げる。
さらに城を守るは天下に名高い勇将、智将、そして神将。
圧倒的な兵力差ではあったが、蜀軍を防ぐには充分な環境であった。
かといって予断が許される戦況でもない。連日の戦で城内の負傷兵の数も夥しいものとなっており、兵の士気が下がり始めるのも時間の問題だった。
加えて、蜀軍はここ三日程攻撃を仕掛けてきていない。
明らかに、総攻撃の機を待ち士気を高めている。
「……このまま帰ってくれるのが一番なんだけどね」
気付かず難しげな顔をしていた龍志に、揚羽はそう言って笑い少しだけ彼に近付いた。
「そうだな。敵の兵站戦もかなり伸びているだろうし、荊北からの攻撃の心配もあるからな」
すでに蜀軍が陳倉や天水に攻撃を加え、新魏軍と先端を開いたという話は届いていた。
通常ならそのような多方面作戦は下策。それをあえてしたのは、やはり時間稼ぎの為というのが大きいだろう。
しかしいくら時間稼ぎとはいえ、前線の部隊が常に戦い続けることができるとは限らない。
ましてやこの柴桑はまだ呉の西端部の要塞に過ぎず、蜀軍はさらに連戦を重ねる必要がある。
一時撤退も充分に考えられる状況であった。
「私も昔の仲間と戦うのは気持ちが良いものじゃないしね」
「おや、意外だな。その辺は割り切ってるかと思っていたが?」
「一応はね…でも気持ちが良いものじゃないわ」
「……戻りたいか?蜀軍に」
龍志の問いに、揚羽は静かに首を横に振り。
「懐かしくないって言ったら嘘になるけど…あなたに付いたには私なりの忠義を貫く為に自分で選んだ道よ。そこに後悔は無いわ」
「そうか…」
敵に降る…そんな不義を犯してでも貫く忠義。
全ては劉備を救う為に。
「あなたもそうだったんじゃないの?」
「ふ…俺は違うよ。俺はただ逃げただけだ」
自嘲の笑みと共に吐き捨てるように龍志は言う。
ようやく訪れたと思った長い旅路の終焉。
しかし気付けば自分は生きていた。
生き永らえていた。
その時に感じた…いやずっと感じてはいたが考えないようにしていた絶望。
自分は何者かが定めた一本の線路の上を走る電車ではないのかと。
自分のしている事はすでに過去に定められていた何者かの意思によるものではないのかと。
それが怖くて逃げた。自分が身命を賭けて作り上げた新魏という国から。
「じゃあ、今もそうなのかしら?」
その問いに龍志はおもむろに揚羽を見た。
名の通り揚羽蝶の羽の様な深い黒が、龍志を見つめている。
「…いや、少なくとも今は逃げていない」
この世界の真実に気付いた時、ふっきれた。
確かにこの外史は正史の人間を楽しませるための道具にすぎないのかもしれない。
しかし、そこには確かに生命の無限の可能性がある。
先に続く一本の道ではない、無限の選択の先に出来る自分自身の道が。
そして龍志が選んだ道、それは『忠義』
大きな不義を働いてしまった主への贖罪を込めたさらなる忠義。
「だったら…死ねないわね」
「無論だ、死ぬつもりはないよ」
同時刻、蜀軍陣営。
「では、そう言う手筈でよろしいか?」
「ええ、了解しました。ではまた軍議の場にて」
束ねられた艶やかな黒髪を揺らして天幕を出て行く女将の背を見送り、琥炎は小さく溜息をついた。
「お疲れ様です琥炎様」
「ああ、ありがとうございます韓季」
髪を肩上で切り揃えた鋭い目つきの女将・韓季の差し出した茶を啜り、再び息をつく琥炎。
その姿に、隣に控えていた腰まである長髪を無造作に伸ばした女将・彭桃が愛らしい顔つきには不釣り合いな厳しい顔のまま琥炎に尋ねる。
「明日の作戦…成功すると思いますか?」
「……たぶん無理でしょうね」
関羽の立案した総攻撃の作戦。それは濃い霧に乗じて城壁付近まで密かに兵を進め城壁をよじ登り侵入、混乱を誘いつつ跳橋を下ろし城門開け騎馬隊が一気になだれ込む。
確かに策としては悪くない。付近の漁師から事前に濃霧の出る兆しを聞きだしていた点も評価できる。
しかし地元の兵を多く抱え、さらに戦の要である天地人の重要性を熟知した龍志が霧の事に気付かないとは琥炎は思えなかった。
「焦っていますからね…関羽将軍も趙雲将軍も」
後方から来る情報によれば、雍州に攻め入った舞台は新魏軍の頑強な守りにより進軍を阻まれ、荊北の部隊は襄陽を突破できないでいる。
また洛陽方面に放った間者は一人も帰ってきておらず、洛陽の安否どころか新魏軍本隊の動きすら把握できていない。
その状況が関羽達蜀将を焦らせている。
とはいえ焦ってどうにかなるのが攻城戦ではない。
攻城の集団は基本的に三つ、城壁を『越える』か『破る』か『潜る』かだ。
このうち『破る』のは攻城兵器の接近が堀によって阻まれている以上ほぼ不可能。
『潜る』のも遠方からの地下道作戦はやはり水堀に阻まれ、密着しての突破も時間がかかる上に城壁からの攻撃に妨害される。
必然的に『越える』しか柴桑城を落とす方法は無いのだ。
「春秋戦国、燕の名将・楽毅は半月で斉の七十余城を落とすも、五年の月日をかけても最後の二城が落とせませんでした。それどころか田単の離間の策により彼は趙に亡命する事になり、最終的に燕軍は破れ七十余城も奪還されています」
「そして今の相手は田単を超える名将…」
韓季と彭桃の言葉に、琥炎は何も言わずに席を立つ。
そしておもむろに天幕の隅にあった箱を開けた。
「使いたくはありませんでしたが……やはりこれを使うしかありませんね」
彼としては呉が勝とうが蜀が勝とうがどうでも良い。ただ、龍志と闘わせる代わりに呉を攻めろという徐福との契約は守らねばならない。
少なくとも琥炎は不義理ではないのだ。
「では、明日の戦では…」
「ええ、関羽将軍には悪いですが、彼女達も利用させてもらいましょう。まあ、城は落ちるのですから文句は言えないでしょう」
そこまで言って、ふっと琥炎は笑みをこぼす。
どうかしたのかと訝しげな顔をする韓季と彭桃に、琥炎は笑みを浮かべたまま。
「いえ…彼女を見ていると、ちょっと昔の自分を思い出したもので……」
翌朝。
「すげえ霧だな…」
「見ろよ、堀が見えねぇぜ」
柴桑城の上で見回りの兵士が二人、そんな事を言いながら歩いている。
「よ、御苦労さん。異常は無いか?」
「おう、今んとこはな」
見張り台の兵士に声をかけると、その兵士も軽く声を返した。
「今だけ霧が濃くちゃあ敵さんも動けんだろう」
「はは、違えねぇ」
「んじゃまたな」
「おう」
そして再び見回りの兵士二人は歩きだす。
二人が去った後、見張りの兵は先の見えない霧と向き直った。
その時、微かに城壁の外側から音がした。
しかしその兵士はそれに気づいていないようで、大きく伸びをした後。
「さて…敵も来んだろうし小便でもしてくっか……」
そう言って背を向けた。
次の瞬間、一人の兵士が城壁から飛び出しその兵士に短剣を突きたてようとして……。
「……?」
首を傾げた。
今そこにいたはずの兵士は忽然と姿を消していた。いくら厠に行くと言っていたとはいえ、よほど急がなければこの霧の中に身を隠すことなど出来ようはずがない。
そう、よほど急がなければ……。
「…誰かお探しかな?」
「!!?」
不意にかけられた声に、城壁より現れた兵士は驚き声のした方を見て。
「っ……!?」
一瞬でもの言わぬ蛋白質の塊へと成った。
「さあ…何時までもそんな所にへばりついてないでいい加減に上がってきたらどうだ?」
刃に付いた血を拭いながら、瞬く間に一人の兵士を屠った風炎が外壁に向かってそう呟く。
次の瞬間、二人の兵士が短剣片手に霧から飛び出して来た。
「ふん」
それを瞬く間に風炎は斬り伏せる。
「読み通りか……銅鑼を鳴らせ!!」
風炎の号令一過、まだ目覚めぬ城に響く銅鑼の叫び。
それを受けて得物を手にした城兵が次々と現れては、すでに侵入していた蜀兵や未だ壁にへばりついている蜀兵を血祭りにあげていった。
濃い霧の中では同士討ちの心配もある為大きく動くことはできない。その為城壁の敵には盾を持った剣兵が、外壁の敵には槍兵と弓兵があたる。
蜀軍も異常に気付いたが時すでに遅し、いまさら引き返すわけにもいかず城を落とすべく次々と城壁に群がってきた。
霧に紛れて地下道を掘ろうとしている者達もいたが、ある程度掘ったところで石壁に邪魔されてしまう。
そう、柴桑城の城壁は地上だけでなく地下深くにまで伸ばされていたのだ。
まさしく鉄壁の要塞。
「手筈通り、曼珠と朱音は討ち漏らした敵に備えて城閣を守ってくれ!美琉と揚羽は外の敵を!侵入した敵には俺と風炎、明命が当たる!!」
矢継ぎ早に指示を出しながら太刀を振るう龍志。
その隣では明命がやはり野太刀を手に雑兵を斬り伏せていた。
蓮華捜索に動いていた彼女だが、柴桑城が包囲される前に帰還し城の防衛に当たっていたのである。
二人の太刀の切っ先が敵兵の鎧の間隙を抉り、首を刎ね、血飛沫を舞わせる。
霧の白と相まり、その赤がひどく幻想的に明命はの目には映った。
「ふ…しかし奇妙なものだ。腹を抉った相手とこうして背中を合わせて戦う事になるとはな」
不意にそんなことを龍志は漏らす。
「今更じゃないですか…それに、わたしだって義手とはいえ左腕を壊した相手とこうして戦うなんて思ってもいませんでしたよ」
「確かに…な」
明命の言葉にクスクスと笑う龍志。
つられて明命も笑っていた。
過去の遺恨など些細な問題。今はただ、それぞれの主、それぞれの護るべきものの為に白刃を振るうのみ。
「さあ、もう少しだ、もう少しで敵を押し返せるぞ!!」
純白の戦場に龍志の叫びが響き渡った。
その頃、一層の小舟が城壁に近付いていた。
小船は他の船と違い、兵士の他に何か丸い土甕のようなものを無数に積んでいた。
大盾で身を守りながら、兵士達は途中まで掘られた地下道の穴にその土甕を詰めて行く。
霧に隠され、城兵は誰一人としてそれに気付かない。
不意に風が吹き、遂に霧が晴れた。
兵士たちの姿が龍志の目に留まる。
始めは訝しげな顔をしていた龍志だったが、兵士の一人が松明を持っているのを見て顔色を変えた。
「馬鹿な…っ!!あのようなオーパーツを持ち込むだと!!」
妖術戦の警戒はしていた。それに備えて柴桑城の周りには幾重にも結界が貼られている。
しかし、まさか後世の兵器でもって城門を崩しにかかるとは思わなかった。
「美琉!!その兵士を殺せ!!」
将の呼びかけに、美琉は彼の指さす方を見る。
彼女にも霧の狭間で動く松明がはっきりと見えた。
素早く矢をつがえそれを放つ。やはそのまま松明を持つ兵士へと吸い込まれていき、喉を射抜いた。
仰向けに倒れる兵士。その手から松明がポトリと落ちた。
落ちてしまった。
落ちた松明の火を受け、地面に転がる一本の紐の上を這うように火が走る。
火はそのまま土甕へと向かっていく。
それを見て土甕を詰めていた兵士達が慌てて逃げ出した。
「いかん…全員退避!!この城壁から離れろ!!」
突然の指示に戸惑いながらも言われたように動く城兵達。
しかし戦いながらの動きは遅い。
「!?」
その時、龍志は問題の城壁のちょうど真上で戦う明命の姿を見つけた。
「いかん…!!」
反射的に体が動いていた。群がる敵兵を切り捨てながら彼女の元へと急ぐ。
「明命!!」
驚く彼女を抱え、城壁を蹴り宙を舞う。
城壁から地面までの高さは高いが、龍志なら何とかなる。
問題は……。
ドグアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
天も焦がさんばかりに火柱が上がる。
その火柱は凄まじい爆風と共に、城壁の一角を木っ端微塵に吹き飛ばした。
そう、土甕の中身は爆薬だった。
まだ三国時代には存在しないはずの兵器。
爆風に飛ばされながらも何とか着地に成功する龍志。
「明命!無事か!?」
「は、はい…何とか。龍志様は?」
「俺も無事だ…しかし……」
抉られ破壊された城壁を見てギリリと龍志は歯ぎしりをする。
壁の向こうから、船に乗った無数の兵士がこちらへと迫りつつあった。
「……流石にまずいなこれは」
おどけたように呟く龍志。
だがその顔は笑っていない。
彼の顔から初めて余裕が消えうせていることに気付き、傍らの明命は思わず息を呑んでいた。
~続く~
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