「ふんふんふんふんっ~」
と気合い入りの鼻歌でゴム手ばきのあたしはトイレ掃除。家中の掃除の締め
くくりはここである。
世の中に掃除をまめにする人種は2つ。一つは<きれい好き>、他方は
<掃除好き>。わたしはこの後者に属する。
きれいになるのを喜ぶのじゃなくて、掃除に使ったぞうきんが汚れてゆくのを
見て喜ぶタイプ。ストレス解消には一番なんだよね。特に「昨日」みたいな日の
次の「今日」なんて日には。
ピポピンポーン
妙な調子でベルがなる。みちよが来たぞ、の音だ。
「ヨリちゃん、いる?」
「やー、みっち。おはよ」
「おはよ。なにしてんの?」
「ごらんのとおり」
「金魚すくい」
「みっちの目はどこについてるの」
「ここと、ここ」
「ベタべたじゃん」
「あはは。でもヨリちゃんってほんとにお掃除好きやね。今度、ウチの部屋、
来てよ」
「だあめ。自分の家の掃除は自分でしましょう。いい嫁さんになれないよ」
「ぶー」
「ちょっと待ってね…よしと!おしまい」
みちよはあたしの動作をあの黒曜石みたいな瞳で追っていたが、
やにわに言った。
「ねえ、ヨリちゃん!ドライブいこ、ドライブ」
「は?何よ、いきなり」
「いーからいーから。ウチの車の練習もかねて」
うるうる にこにこ
「ちょっと待てよ、みっち免許取り立てだろ?大丈夫?」
「だぁーいじょうぶ!昔から言うやんか<死なばもろとも>て」
「あーのーねー。それ大丈夫じゃないから」
*
「んじゃ、しゅっぱーつ!」
発進したみっちの中古の軽自動車。どこへこすっても良いようにだろうか。
みちよの両親は賢明である。
車はわざわざ住宅街の中へ。
「おいおい、ここ路上駐車多いとこだよ。なんでまた」
「れんしゅーれんしゅー」
「やれやれ」
いきなり前方に路上駐車、んでもって対向車。
「ほれほれ、きたよ」
「まーかせて。こういう場合はウチが道を譲るのね」
「そー」
駐車していた車の後ろにつけ、対向車をやり過ごす。
対向車のドライバーが手を上げ挨拶。みちよもすかさず手をかざす。
「きゃー」
ばたばた
「あん?どしたの?」
「いっぺんこういう挨拶やりたかったんよ!これ、あこがれてたん!」
「ちょっとぉ…ひょっとしてこれだけのためにここ、来たのぉ?」
「そう!!」
(あう)
彼女はスルスルと大通りへ車を出す。
わたしはやり場のない疲れをもてあます。
車は一路北へ。
*
「ねえ、ヨリちゃん。あそこ左に曲がるとフラワーロードって言うんやて」
「なに?分離帯がお花畑になってるわけ?」
「ううん。道路のあちこちにお花が飾ってあってお供えがしてあるん。
行ってみよか」
「やーめーてー!!!!死にたくなぁーぃぃい!!!」
まったくこの娘は恐いもの知らずと言うか、無鉄砲というか。そもそも左か
右か迷いだしたら半日でも考え込む彼女が免許取れたと言うのが奇跡なのだ。
でも、考えてみるとそんな彼女の車に乗ってるあたしもあたしだ。
あたしは断言する。あたしはやっぱりお人好しのおバカだ。ぐっすし。
*
それからしばらくの間、大した事はなかったようだ。「ようだ」と言うのは、
あっても分からなかったと言うのが、ホント。この極限状態の中でも人間の持つ
「癖」と呼ばれる潜在能力は働いてしまうのだ。
あたしは他人の運転する車に乗ると異常に眠くなる。エンジンの振動は
あたしを心地よい無活動へとい、つい、うっかり意識を失ってしまったのだった。
目覚めたのは車が止まったためである。
「う…う~ん」
はっ!生きてる!!よかった!!!
運転席にみちよの姿が無い。あたしはあわてて外へ出る。
そこは大きな川の河川敷だった。すぐ近くの土手にみちよは、いた。
きれいな長い黒髪が風になびく。
「あ、ヨリちゃん起きたんだ」
「『起きたんだ』って…」
「ここ、キレイやね…」
川の流れる音が広がる。午前の光に照らされた川面がキラキラ光る。
風が気持ちいい。
ふう、とあたしはしゃがみ込んで風景に見とれた。
「あのさあ…、ヨリちゃん」
唐突に彼女は問いかけてきた。
「ヨリちゃん、何かショックな事あったんじゃない?」
「え?ど、どうして?」
「だって朝、掃除してたときすっごく力はいってやんか。ヨリちゃん、
つらいときとか悲しいとき、いつもああいう感じやもん…」
あたしはどきりとした。
昔のことがふと胸をよぎる。
あたしの父が事故で死んだとき、病院から戻ったわたしは悲しみを窓に
たたきつけていた。
スプレーの泡をまき散らし、
ギュウギュウギュウ
でも、だめ。悲しみ、止まってくんない。
わたしが声を上げて泣いたのは、ちょうど心配して訪ねてきた他ならぬ
みちよの腕の中だったのだ。
「あ…バレちゃったか…。実はそうなんだよね…」
「何があったの?」
彼女には何も隠すことはできない。
「うん。昨日バイト辞めちゃったんだよね」
「え?」
あたしはあるちいさなお惣菜屋さんでバイトをしているが、店長の奥さんの
依頼で経営コンサルタントが入り、合理化とかなんとかで雇い人を数人減らす
ことにしたらしい。そうなると子供の面倒を見ながら家計を支えてる勤務日数の
少ない奥さんたちが対象になるのは明らか。
「ふーん。でも、なにもヨリちゃんが辞めちゃうことないやんか」
「でもさ、みんなそれぞれの立場で一生懸命やってるわけじゃん。あたしは
学生だから仕事選べるけど、奥さんたちはそうもいかないでしょ。
あたしより働くのに条件があるっていうんで、みんなのうちの誰かが
辞めさせられるなんてやりきれなくてさ。だからあたしムカついちゃって。
『それならあたしが辞めます』って」
「ヨリちゃん…優しいね…」
「そんなことないよ、あたしは怒ってるんだから、優しくなんてないよ…」
「ヨリちゃん、そういう時は泣くのがええよ」
「は?」
「『怒る』のってさ、いつか発散されて他の誰かを傷つけちゃう。それより
『怒り』を『悲しみ』に変えて涙と一緒に流しちゃうの。その方が誰も
傷つけなくていいもの」
「でも、泣くのなんて弱いみたいで、やだな」
そう。あたしはあの時以来、涙をこぼさないようにがんばってきた。
泣くことは自分に負けたことになると思って。女のくせに可愛げないと
思われても。
「そんなことあらへん。『怒り』をぶちまけるのは簡単やけど、
それをそーっと涙にしてしまうのはなかなか出来ひんよ」
「涙にもそんな使い道があるんだ…。みっちは泣くことなんてあるの?」
「えー。ウチだって泣くことあるよ。泣くとき専用の『泣き枕』もってるし」
「『抱き枕』じゃなくて『泣き枕』?」
あたしはみちよが泣くことなんて考えたこともなかった。いつもニコニコ
笑っている彼女しか知らなかった。人知れず泣いている彼女を想像して、
あたしはなんだか酸っぱい気持ちになった。
「そうかあ…」
(あたしも泣いてもいいのかな…)
風が吹いて、草がざわざわと音を立てる。
「あのさー、ヨリちゃん」
「ん?」
「ところで、ここ、どこやろ?」
「あん?!」
「キレイなところ、キレイなところって探しながら走ってたらここまで
来てしもてん」
「ちょっと!みっち、車にナビついてないよね!」
「うん、来週つけるよていだったんやけど」
「しまったー!あわてて出てきたから携帯持ってくるの忘れちゃったよ!」
ぺろぺろ
みちよはなめた指を風にさらす。
「なにしてんの?」
「帰り道の方向調べてるん」
「ちーがーうー!」
時間と太陽の位置から方角だけはつかめる。あたしたちは大きな道路を探し、
何とか自分たちのおおよその位置を確認した。幸い道路に面したところに
交番があり、無事、昼前には家にたどり着いた。
*
「ああ、なんだか大変だったけど、ちょっと気持ちは軽くなったわ」
「そう?よかったぁ」
「あれ?電話鳴ってるの、あたしん家じゃない?」
「あ!ほんとだ!はやくはやく!」
あたしは家に駆け込む。
携帯を切ったあたしは外のみちよのところへ走る。
「うふふふふふー!いい知らせっ!」
「え?何、何?」
「店長がさ、辞めなくてもいいって。一人欠けて多少利益が上がるより、
みんながそろっていた方がいいからまた来てくれって。やっぱりわたしは
職場の花なのよね!」
「あはは、ヨリちゃん、そこまで言うたらうぬぼれ過ぎやん」
「何とでもお言いっ!わたしは嬉しいのっ!」
あたしとみちよはバイト復帰祝いのごちそうを食べに車に乗った。
ブルルルルル
お。また対向車だよ!
お し ま い
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不思議のない普通の日もあります。みちよの運転する車の行き先は…