No.754343

The Red Rooster

がいこつさん

リンゴはふじみたいな硬いやつが好きなんです

2015-01-28 23:52:40 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:873   閲覧ユーザー数:866

 

 だれの著書だったか忘れたが、兵士がその在職中、もっとも長く時を過ごすのは待機だと書かれていた。次いで移動らしい。

 これは内地であっても、実際に戦地におもむいてからでも状況に変化はないそうだ。

 存外のんびりしているといえばいえるかもしれないが、長時間の連続した激務と緊張に人間の心身は耐えられないということなのだろう。

 あたり前といえばあたり前の話ではあるが、手持無沙汰を強いられると、足柄さんも改めてその待機の占める割合というものを実感する。

 特に、なんの通達もなく演習の開始が引き延ばされて、待ちぼうけを食わされている時など。

 

 凍てつく浜風が身にしみる。

 もとより出撃中の外洋の厳しさはこの比ではない。寒風を遮る物陰はないし、なにより冷気を抑えてくれる大地から引き離されている。湖岸や河川敷ではまれな飛沫氷が、砲口や電探の先端から垂れた海水でこしらえられるのも珍しい光景ではない。

 それでも体感的な寒さではひけをとっていないように思えるのは、やはり無聊のなすところなのだろう。

 工廠脇の桟橋のたもとで、並んで立つ二人の間からは、もうずいぶん前から会話らしい会話は失われていた。

 暁型駆逐艦二番艦響は元来多弁な性質ではなく、足柄さんとの接点も薄い。まして、これから演習とはいえ砲火を交わし合おうという間柄では、世間話というのもあまりにも緊張感に欠ける。

 沖合から寄せる波の音と、空を揺さぶる風のうなりばかりが騒々しく、まったく間がもたない。

 足柄さんもおしゃべりというタイプではない。ただ、理由のない沈黙が苦手だった。

 とはいえ、響とでは大人と子供、自然出る言葉も出なくなってしまう。気まずいのならば距離をとればいいようなものだが、なにしろ寒風の吹き荒ぶ岸壁ではむしろもっと身を寄せていたいほどで、それが一層沈黙のやるせなさを募らせる。

 ひと際強い風が港に吹きつけた。思わず足柄さんも顔をしかめて身を硬くする。根がラテン系だとか、リゾート焼けが似合いそうな艦娘ダントツ一位だとかいわれる足柄さんであり、悔しいが自覚もある。

 だから、つい喉の奥から木枯らしに負けぬほどの野太い悲鳴をあげて、背中から吹きつける冷気に必死で抗っていた。

 そうして踏ん張っているうち、ふと響の姿が目に入った。

 帝国海軍所属艦のうち前大戦終結時数少ない残存艦であり、後ソ連に引き渡された響はそういういきさつもあり、またいかにも怜悧に映る銀髪と、ビスクドールを思わせるきめ細やかな肌も相俟って、なんとなく寒さに強いイメージを漂わせている。実際足柄さんも特に疑いもなくそれを共有していた。

 けれども、当の響は、わずかに背をまるめて、わきをすぼめ、小さな体をさらに縮こまらせて、懸命に寒さから身を守っていた。

 

 かじかむ手をすり合わせていた響の背中が不意に温かさに包まれた。

 小さな青い瞳を精一杯に大きくして、驚きを満面で示しながら、首だけをそらして上空を振り仰いでみれば、うつむき加減に顎を引いていた足柄さんと視線がかちあった。

「にしし」

 そんな声が聞こえてきそうな、歯を噛み合わせたままの笑みが広がっている。

 足柄さんは着ている外套ですっぽりと響をくるんでくれていた。

 響はすっかり困惑しきってしまった。

 勤務中においては忍耐も一つの職務だ。寒中に身をさらして、いざという時におくれをとらないように身を馴らしておかなければならない。しかし、薄らいできているとはいえ、同時に軍内で年功序列はまだ大きな意味を持っている。年長者の行動は尊重されねばならない。

 異なる二つの価値観に板ばさみにされ、まったく身動きがとれなくなってしまった。

 そしてなによりの困惑は、そうしてじっと足柄さんの体温を感じているのが、響にとってまるでいやじゃないという点にあった。

 

 カンガルーの親子のような姿だった。

 足柄さんの膝のあたりまである外套に覆われ、響は合わせから顔と、時折手だけをひょっこりと出している。

 互いの体をカイロがわりに、時折吹きつける突風に瞼を閉ざすことはあっても、表情は穏やかに過ごすことができた。

 とはいえ気を抜いているわけではない。

 強風は倉庫に立てかけられた資材をあおり、物音をたてることがあったが、そのたびに足柄さんと響は一糸乱れぬ動作で、体ごと音のした方へと向き直るのだった。

 補い合って、鋭敏に周辺状況を感知している。

 それにしてもまだ誰も来やしない。

 流石に集合場所を間違えたかと、響に確かめてみたものの、

「砲塔部前埠頭」

 と、やはり記憶通りの工廠に面した場所が返ってくるばかりだった。

 足柄さんはくよくよ考えない。状況が待機を要請しているのならば、それに従うまでの話だ。

 不測の事態は想定外だからこそ起こるのだし、なにより足柄さんが取り乱していては、懐の中の娘が不安に思う。

 だから腕を前にまわして、小さな体を抱えるようにしていた。相変わらず会話は乏しかったが、それでもひとつふたつ言葉を重ねることはできた。

 そうするうち、お互いの体温のおかげで、即席のカンガルー親子もぽかぽか温まってきて、口数の少なさもさほど気にかからなくなってきた。

 唐突に響が両手を突き出してきたのはそんな頃だった。外套の合わせから、肘をぴんと伸ばして。

 突然の出来事に、足柄さんは目を白黒させたものの、ほどなく響の手に包まれたものに気づいた。

 一個のリンゴだった。

 冬の波濤に慣れてしまった目には、まぶしいほどに赤いリンゴだった。へたの付け根やしりのあたりにまだ青みが残っているのも、むしろ朱を映えさせている。

「お礼だよ」

 背筋をできるだけ反らせて仰向けになりながら、響は驚くほどにまっすぐ足柄さんの瞳をのぞきこんできた。

 潮風にさらされる身が冷えるのを防いだ礼と考えるならば少々大袈裟に過ぎる眼差しではあったが、子供が大人へ勇気を振り絞った結果だとするならばもっともといえた。

 足柄さんはその真剣な面持ちにあてられぬよう、できるだけくだけた様子でリンゴをつまみ上げると、

「よっ」

 いかにも気軽なかけ声をひとつあげて、両手を使いもらったばかりのリンゴを、響の顔のすぐそばでまっぷたつに割ってみせた。

「おおおおおー」

 たちまち響が目をまるくして声をあげる。

 驚きではあったが、そこに畏怖はこめられていない。

 少々背丈は高くあるが、筋骨隆々といった観からはほど遠い足柄さんの、秘めた膂力に仰天し、感動さえ覚えていたのだった。

 足柄さんはオーバーに歯をむき出しにした力強い笑みを見せて響の歓声にこたえる。たまらず響は右手を突き出して、親指を高らかに上げる仕種をして見せて賛辞を送った。

 実際のところ足柄さんは少し照れくさかった。

 だからそそくさと、響が手をだしている間に、リンゴのかたわれを持たせてやった。

 足柄さんにはやや物足らず、響にはやや手に余る。けれども、それが今の二人にはちょうどいいバランスに思えた。

 同じ外套を羽織り、同じようにかじりついたリンゴは、立てた歯に伝える清冽な冷気と、舌先をひやりと刺すわずかな酸味を含む鼻に抜ける爽やかな甘さで、口をいっぱいに満たした。

 

「その後遅れてきた面子と合流したわけか」

 陸路で運ばれてくる予定だった物資の一部を積んだ車が、事故のため鎮守府近くで立ち往生しているという連絡が入ったのは演習の直前だったらしい。当時鎮守府庁舎近くに居合わせた艦娘は、一時予定を繰り下げ、その復旧支援に現場に向かった。緊急時であり、駆り出されたメンバーのその時の予定の把握が遅れ、ひと足早く演習現場に着いていた足柄さん達まで連絡がまわってこなかったのだった。

 幸い作業自体はすぐに目途がつき、とんぼ返りで戻ってきた面々と演習は行われた。

「それでこてんぱんにやられた、と」

 完敗もいいところだった。

 ひと仕事こなして気分が昂揚していたのもあるだろうが、皆気合いのみなぎりがただごとでなく、ひとり取り残された形になった足柄さんは、開幕直後にイイ一発をもらってあえなく航行不能に陥ってしまった。

「けれども、お前といっしょにいた第六駆逐隊の娘は、殊勲賞に輝いたそうじゃないか」

 それがまたなおさら耳に痛かった。

 理屈でいえば足柄さん同様響も好調子の相手に翻弄されてしかるべきだったはずなのだが、それどころかきらめくほどに冴えた動きを見せて、空母の爆撃さえもかいくぐり、通常海戦に加えて夜間戦闘を模した訓練でも、しっかりと攻撃を命中させて戦果をあげていた。

「まったくたいした話だな」

 那智は腕を組み表情を一層険しくした。既に日は暮れ、宵の口はとっくに過ぎている。重巡洋艦ばかりの暮らす寮、といっても同じ構造の二階建て建築の並ぶ長屋造りなのだが、の一画、足柄さん達妙高型四姉妹に割り当てられた室内で、夕飯をすませて以来、すぐ上の姉にあたる那智の話は続いていた。

 二百人近い所帯とはいえ、所詮はその程度の兵士世界だ。噂話はすぐに伝わってくる。それが意外な金星にまつわるものとくればなおさらだ。

 足柄さんにとって手痛い黒星の話題は、とうの昔に那智の耳にも届いていた。

 お小言はそれに由来したが、足柄さんも那智の語勢が本気でないことは知っている。それどころか油断すれば相好が崩れそうになることも。

 那智は喜んでいたのだ。後進の隊が、足柄さんの所属する主力艦隊から一本とれるまでに成長していることを。意気阻喪していてもしかたない状況の響が、それに飲まれることもなく一等を飾ったことを。

 別段那智には響に肩入れする理由はない。関係でいえば足柄さんよりなお薄いくらいだ。

 それでも我が事のように喜んでしまうのは、那智の人柄故だった。

 だが不甲斐ない妹を前にして、手放しで喜んでばかりもいられない。それもまた那智の人柄だった。

 足柄さんはそんな事情をすべて理解したうえでいわれるにまかせていた。敗れたことの悔しさは人並みに覚えていたが、思いもかけぬ手ごたえに喜びに似た満足を感じているのは足柄さんも同じだった。

 叱る側も叱られる側も気をゆるめれば頬もゆるんでしまいそうなありさまで、どちらも心ここにあらずのやりとりがどれほど続いたものか、やがてそれは長女妙高の唐突なひとことで破られた。

「お客様ですよ」

 落ち着いてやわらかだが、それでいて存在感のある妙高の声は、さして張っているわけでもないのに、この時もするりと会話の中に入り込んできた。

「私でしょうか」

「ううん、足柄に」

 いつにもまして柔和な姉の笑みが向けられてきたが、足柄さんはその意味するものがさっぱりわからなかった。

 

 玄関にまで出てみるとそこに立っていたのは響だった。

 トレードマークの制帽をわきにはさみ、まとまりのある銀髪を門灯の橙色の明かりにきらめかせながらぺこりと頭を下げる姿は、まさに生き人形という観があった。けれどもその姿が様になっていればなっているほど足柄さんの困惑は深まった。

「こんばんは」

 響はそんな足柄さんのとまどいもおかまいなしで口を開く。

「これ、お礼です」

 そして間髪おかずに両手で抱えていたものを差し出してきた。

 流れで受け取ったそれは紙の箱で、見た目よりも持ち重りがしてほんのりぬくもりが伝わり、かすかに甘いにおいもただよってきた。

 いよいよわからない。お礼とはいったいなにに対してか。頭の上でしきりと?を散らす足柄さんに響も気づいたらしい。

「リンゴのお礼さ」

 しかしあれはそもそも響からもらったものを分けただけで、お門違いというものだろう。

「なにをやっておるのか、貴様は。客を玄関先で立たせておくという法があるか」

 鋭い叱声が背後から叩きつけられる。完全によそゆきモードになっている那智には、先ほどのような弛みはない。足柄さんも肩を竦めたが、響はてき面で、硬直してしまった。

 表情の豊かとはいいにくい響にしても、面識薄く艦種も異なる先輩格の家にやって来るまでにはそれなりの葛藤を経ている。それを抑えてどうにか玄関に立っていたところが、今の那智のひと声で蘇り、あやうく身を反転させて引き返しそうになった。

「那智姉さん、それじゃあ響ちゃんまで叱りつけているみたいです……」

 それを引きとめたのは、那智のさらに後ろからかけられた声だった。

「な、なにを、私はそんなつもりじゃ」

 露骨に動揺が生じたのは、まさに那智にとっては予想外な指摘だったからだろう。

「ごめんなさい。どうぞ、奥へ入ってください」

 いかにも気弱そうに、はじめの謝罪もだれに向けられたものかわからないが、それでも結果的には、妙高姉妹の末の妹である羽黒は二人の姉を押しのけて、響を室内に誘った。

 

「リンゴをいともかんたんに割ってみせてくれたんだ」

 居間として使用されているフローリングの部屋に通され、響は椅子の上ですっかりかしこまっていた。

 肩肘張って緊張しているのが、見ている側にも伝わってくる。

「すごいと思って、思った時にはもう感動していた。私もああなりたい。だれをも納得させられる力がほしい。そう思ったんだ。でも私はこの体だ。筋力ではどうしようもない。だからどうすべきか。そう考えたら、演習の時、自分でも驚くくらいに体を軽く感じたんだ。あとは無我夢中だった。ただ思うままに風を切って、砲を放っていた。その結果が今回のMVPだった。きっかけを作ってくれたのは足柄さんだ。だからお礼をいいたくて、それで……」

 ひとつひとつ、懸命に言葉を探しながらしゃべり、最後の方は伏し目がちに耳まで真っ赤にして響は来訪の理由を説明した。

 小さなテーブル越しに足柄さんと向き合い、右隣では妙高と羽黒が腰を下ろしている。言葉を探しあぐねている響がしゃべりやすいよう、事情を知らない人間がいた方がいいという妙高の判断だった。

 それは結果的に図にあたり、響の口から洩れた「お礼」の意味を教えてくれた。

 足柄さんはようやく納得いったが、それは別の困惑を生んだ。

「折角のお褒めの言葉だが、その甲斐はないかもしれないぞ。なにしろ、こいつのは生来の馬鹿力だからな」

 隣の台所でなにごとかカチャカチャ音をさせている那智が姿を現さずに声だけかけてきた。

 ずいぶんと砕けた調子になっているが、それでも響の緊張が完全にほぐれたわけではない。

 しかし、足柄さんは少なからずほっとした。姉の言葉通り、足柄さんの筋力は特別製で、リンゴを割る芸当もそれだからこそ可能なのだった。以前余興で同僚の重巡仲間の前でやってみせた際も、真似できたのは三人ばかりいたきりだった。そもそも妙高はじめほかの姉妹にもできない技だ。戦艦に次ぐ重火器取り扱いを専門にする彼女らにしてからがそうなのだ。艦娘の働きは必ずしもその体格に左右されるものではない。だから、

「だから、君の殊勲は君の努力の賜物だ。こいつにそんな恩義を感じる必要はないんだぞ」

 那智が概ね足柄さんのいいたいことを代弁してくれた。

 ようやく再度顔を出した那智は手早く同席者の前に、いかにも目にやわらかくうつる乳白色の半円形の陶器をならべていった。それは大振りで、響が前にすると丼ほどの質感で迫ってきた。

 カフェオレボウルだった。中にはコーヒーとホットミルクがほぼ同分量で入れられたカフェオレがなみなみと注がれている。

 料理と名のつくものはからっきしと自他ともに認める那智だが、妙高家においてこれだけは彼女の担当と昔から決まっている。

「けど、それでも妹をたててくれた君の心遣いには、本当に感謝する。ありがとう」

 深々と頭を下げて、親子ほども年齢の離れて見える響相手に、那智は本気で感謝を捧げる。

 妙高型重巡洋艦二番艦那智は根っからの軍人肌と評されるほどに武骨で、かしこまった物言いも、精悍な体つきも他の姉妹とは一線を画すところがある。それでも、目を細め、歯を見せて作る笑顔は、足柄さんとそっくりで、やはり血のつながりを強く思わせた。

 その笑みにつりこまれるように、響はほとんど顔ほどもありそうなボウルに薄い唇を寄せてカフェオレを含んだ。

 感想を聞くまでもなかった。たちまち響の顔は輝き、言葉よりも雄弁に味わいを物語っていた。

 那智の入れてくれたカフェオレはそれだけ美味だった。ボウルを寄せた際にまず香ばしさとふくよかなまるみが鼻をくすぐり、いやがうえにも期待をあおられる。それは裏切られることもなく、牛乳でやわらげられたコーヒーの酸味と苦味がやさしく広がってくる。薄くはない。味わいはどこまでも濃厚で、水っぽさはまるで感じられない。ただ、牛乳特有のくさみやしつこさ、コーヒーのえぐみといったものが、互いに打ち消しあい、深いコクになってしみわたってゆく。

「そうか、いけるか! おかわりもあるぞ! 遠慮しなくていいからな!」

 いかめしい容貌を無邪気にほころばせて、那智は響の無言の賞賛を手放しで喜んでいた。

「お姉ちゃん、このボウルはわたしだって大きいんだから。響ちゃんがそんなに何杯も飲んだら、おなかちゃぽちゃぽになっちゃうよ」

「む。そ、そうなのか……」

 羽黒のたしなめで、那智は露骨にしょげかえってしまう。その落差に場があやうくしらけそうになったのを、

「ふふふ、騒がしいでしょう」

 すくったのは長女の妙高だった。

「ごめんなさいね、うちはあんまりお客様をお招きする機会が少ないから、みんなはしゃいでるのよ」

 途端に室内の明かりがもう一段階明るくなったように思えた。

「それより、すっかり間をおいちゃったわね。冷めないうちにいただきましょう」

 いいつつ前に押し出したのは、響の持参した紙包みだった。

「響ちゃんも、ね」

「えっ。でも……」

「おいしいものはみんなで食べたらもっとおいしくなるでしょ。よかったらつきあってもらえるとうれしいわ」

 その時妙高の顔に浮かんでいた包容力のある笑みを正面から受けては、響は顔を真っ赤に染めてただうなずくしかなかった。

 

 箱から姿を現したのはアップルパイだった。

 天井部分を格子状に編んだ生地が覆うオーソドックスなものだったが、ところどころ均整を欠いた姿形が、店屋出来のものでないことを示していた。

「すごい、響ちゃん、これ手作りですか?」

 料理経験の少ない羽黒は、大きなホールの黄金色に照り輝くパイを前にして、目を丸くして感嘆の声をあげた。

「う、うん。あんまりおいしくないと思うけど……」

「そう卑下するもんじゃないぞ。これはたいしたもんだ」

 切り分けられるなり、フォークを使って味見をしていた那智は深くうなずく。

「まあ、那智、少しはしたないわよ」

 妙高の発したのは軽い注意に過ぎなかったが、言外にこめられた迫力に那智の表情がぎくりと強張った。けれども、その顔つきはたちまちだらしなく呆けたものに取って代わられる。

 なにしろ、そのかたわらでは、今まさに足柄さんが大口を開けて、手ずからパイを運ぼうとしている最中だったからだ。

 サクリと歯に触れるやいなやパイ生地が音をたてる。

 口の中でほぐれるパイはしっかりと焼き上げられつつ、内側にはわずかにしっとりとしたやわらかさを残している。粉っぽさはまるでなく、バターの香りが一層ふくよかな食感を高めてくれる。

 主役のリンゴの果肉はシロップ漬けではなく、一度バターで炒めたもので、甘さの点では譲るものの、青さを感じる酸味との取り合わせはおもしろく、なによりリンゴ本来の繊維を割く歯ざわりがしっかりとあり、パイ生地とはまた異なる食べ心地で二重に楽しめる。

 デザートというよりは、もっとがっつりとした食べごたえで、足柄さんの好みとしてはこちらに軍配が上がった。

 一度口をつけると途中で止めがたく、甘みの少ない分シナモンの香りも抑えめなのもそれに拍車をかける。二度ほど、さすがに口の中が渇いたためにカフェオレを流し込んだ以外、足柄さんはひと言も発することなく、自分のあてがいぶちを食べきってしまった。

 最後のひとかけまで嚥下し、手を合わせてごちそうさまをすると、じっとこちらをうかがう響の視線に気がついた。

 食べることに没頭する様を、ただただぽかんと見守っていた響に、足柄さんは満面の笑みとサムズアップでこたえた。

 たちまち響の瞳が輝き、同じように親指を立てて返してきた。

 こんな待ちぼうけなら悪くない。

 妙高の迫力ある笑みに足柄さんが射すくめられているのをよそに、響は形のよい唇をほころばせてくすぐったそうな顔をしていた。

 


 
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