鬼灯が妊娠し、数ヵ月が経った。白澤は甲斐甲斐しく妻の世話をやく、良き夫になった。
とある日、白澤が出張に行っている時、鬼灯の仕事が休みで、彼女と桃太郎が留守番している『うさぎ漢方 極楽満月』に一人の客が来店した。
「いらっしゃいませ。今日はどうしました?」
そう対応したのは鬼灯だ。彼女が問診し、桃太郎が聞いた症状をメモし、薬を用意し、無い場合は作る。
「では、今から用意するので少々お待ち下さい」
桃太郎は言って、奥に引っ込んだ。客はそれを確認し、周囲を見回し、鬼灯に視線を戻す。
「今日、白澤様は?」
「出張です」
「お二人でお留守番ですか?」
「はい」
鬼灯が肯定すると、客は首を傾げ口の端を上げた。
「男と二人きりにするなんて、不用心ですね」
客の言葉に、鬼灯は不快げに眉を顰めた。
「それだけ、信用してるんでしょう」
桃太郎は、鬼灯も信用する白澤の部下兼弟子だ。侮辱されて腹が立ったが、客は気付いてないのか彼女の腹に視線を向け更に言葉を重ねる。
「お腹、少し膨れました?」
「え?あぁ、はい」
「お二人共、御無沙汰なんじゃないですか?」
「は?」
一瞬、何を言われたか分からず呆けた顔になる。客は可笑しそうに笑った。
「気を付けた方が良いですよ。夫が一番浮気し易い時期って、妻の妊娠中らしいんで」
鬼灯は僅かに目を見開き、首を傾げた。そのまま何も言わない。
と、唐突に男の怒鳴り声がした。
「鬼灯さんにおかしな事を言わないで下さい!」
そう言って客を睨み付けたのは桃太郎。
「俺は、白澤様に鬼灯さんを任されてるんです。彼女を傷付ける事は許しません」
客は桃太郎と数秒見詰め合い、ふと笑んだ。
「遉(さすが)、英雄ですね」
失礼な事を言いました。…客はそう鬼灯に詫びてから、薬を手に外に出た。
その直後、白澤が帰宅した。
「鬼灯、桃タロー君、我回来了」
「おかえりなさい、白澤さん」
「白澤様!実は…」
鬼灯は夫の帰宅に挨拶を返したが、桃太郎は師に挨拶を返す事もなく先程の出来事を話した。弟子の話を聞く白澤が次第に目を細める。
「…哦」
白澤は呟き、クルリと身を翻した。彼の周りに神気が漂うのが見えた。
神気を出したまま出ていった彼が何処に行き何をしたのか、桃太郎は予想しているが訊ねる事はなかった。何だか恐ろしくて。
* * *
それからまた数ヵ月後。鬼灯は衆合地獄にいた。閻魔大王の第一補佐官の、唐瓜への代替わりを終わらせ最後の視察に来たのだ。腹の膨らみが目立ってきた為、妊娠中に訪れるのは最後になるだろう。
鬼灯は、衆合地獄の獄卒に声をかけられながら、ゆっくり歩く。殆どが白澤の話だった。彼は、鬼灯の妊娠中にも日本地獄に行く事が数回あった。
曰く…
『女性と遊んでいた時と、惚気る時の顔が違い過ぎる』
『嫁の腹が膨らんできたのを、嬉しそうに語る』
『子の名前に悩んでいる』
等々…
因みに、名前の候補には『父母の名から一文字ずつ』という意見が一番多かった。
最近の白澤の女性との会話は、妻や子の話しかしないようだ。
鬼灯は殆どの獄卒に「愛されてますわね、鬼灯様」と微笑まれた。彼の過去を知っているので密かに心配していたのだ。
そうこうしているうちに、お香と楽しそうに話している白澤を目にした。彼もすぐに鬼灯に気付き、駆け寄って来る。
「鬼灯!終わった?」
彼に少し遅れ、お香も鬼灯に近付く。
「もうそろそろ終わる頃かと思って、迎えに来たんだ。そしたらお香ちゃんと会って、子供の名前について話してたんだ」
白澤と鬼灯の子はどんな姿で生まれ、将来どんな職に就くのだろう?獄卒か、薬剤師か、それともそれ等に全く関係ない別の何かか。
どちらにしても明るい未来でいて欲しい。そんな会話をお香としていて、白澤は子の名を閃きかけていた。
「どんな名ですか?」
「実は、幾つか候補があるんだ。決まったら教えるよ」
白澤は非常に楽しそうに鬼灯の質問に答えた。その様子を、お香は微笑ましそうに見る。
「鬼灯様が白澤様と結婚されると聞いてどうなる事かと心配しましたが、杞憂のようで安心しました。お幸せそうで」
お香までが他の獄卒と同じ事を言った。「白澤様はすぐに浮気なさると思ったのに」との彼女の言葉に、夫妻は白澤の信用の無さを思い知った。白澤は苦笑し、鬼灯は可笑しそうに笑う。
「鬼灯、この後は用事ある?」
「いえ、夕食の買い出しくらいですが」
「じゃあ、一緒に買い物しようか」
白澤は言うが早いか、鬼灯の腰に腕を回し抱き寄せた。初めての時は抵抗した彼女も、今はされるがままだ。
慣れたというのもあるが、最近は急な睡魔で体がふらつく事もある為、こうした方が安全なのだ。
購入した商品は、当然のように白澤が持つ。片腕は鬼灯に回したまま。
「鬼灯、体は平気?」
気遣わしげに訊く。というのも、先程から鬼灯の動きが鈍いのだ。
「…ちょっと…眠気が強くなってきました」
「じゃ、帰ろうか。背中に乗って」
白澤はもう少し鬼灯との買い物を満喫したかったが、仕方ない。獣に変じ、鬼灯を乗せると空に舞った。
* * *
「我回来了、桃タロー君」
「ただいまかえりました」
「お二人共、おかえりなさい」
三人で帰宅の挨拶を交わしてから、白澤は鬼灯に話しかける。
「鬼灯、少し寝る?ご飯食べてから?」
「ご飯、食べたいです」
鬼灯が答えると、白澤は嬉しそうに笑った。ゆっくりな動作で椅子に座らせる。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
ご飯が食べたいと言った事がよっぽど嬉しかったのか、白澤は鬼灯の唇に軽く口付けてから夕食作りに取り掛かった。
「鬼灯さん、どうでした?」
白澤が夕食を作り始めてから、桃太郎が鬼灯に訊いた。
「桃太郎さんが心配する事は、ありませんでしたよ」
鬼灯は、衆合地獄での白澤の様子を話した。桃太郎は数ヵ月前に来た客の言葉が、ずっと気になっていたのだ。
「そうですか。安心しました」
言葉通り、ホッとしたように笑う。二人の会話が気になったのか、白澤も話しかけてきた。
「ねぇ、何の話?」
「貴男の事ですよ」
鬼灯が間髪いれず答える。首を傾げる白澤に、更に説明を加えた。
「以前、私に妙な事を話した客がいましたよね」
【夫は妻の妊娠中に浮気し易い】と云うアレだ。
「桃太郎さんは、アレからずっと気にしていてくれたようですよ」
「酷いなぁ、桃タロー君まで」
まぁ、自業自得なので強くは言えないのだが。
「まぁ、妻の妊娠中、夜の営みが減りますからね。恐らく、夫の欲が溜まるのでしょうね」
鬼灯は恥ずかしげもなくそう分析する。間違っているわけではないので白澤も桃太郎も否定はしないが、二人共思わず黙る。
「その話を思えば、白澤さんは皆からは意外に感じるのでしょう」
しょっちゅう違う女性と共にいたのだから無理もない。だが、今の彼は違うのだと、鬼灯は知った。
「お前は、意外だと思わないの?」
「私は、白澤さんを信じたから結婚しました。今更疑ったりしません」
今回も、客の言葉が初耳で意味や真意を汲むのに時間を要したが、白澤の事は信じていた。
彼は客を口説くのを止めていたし、たまに聞く噂も良いモノばかりだ。少しばかり詳しく云えば、主に惚気だ。
鬼灯と何をしただの鬼灯が何を言っただの鬼灯がデレただの鬼灯が可愛いだのそのような事ばかり言うらしい。そんな話ばかり耳に入るので、疑う隙間がないのだ。
因みに、彼女と喧嘩した時の専らの相談相手は己の旧友である麒麟と鳳凰、そして鬼灯の三人の幼馴染だ。男はいるとしか認識しない白澤でも、妻の大事な人を無下には出来ないし、悔しいが自分よりも長い時を共に育った彼等の助言は貴重なのだ。
そしてそんな白澤の様子は、逐一鬼灯の耳に入る。
皆、面白がってるらしく、また心配もしていたので結構連絡するのだ。
「そっか。良かった…」
白澤はホッと息を吐いた。妻に信用されないのは寂しい。ギュッと鬼灯を抱き締める。彼女は宥めるように、白澤の背を軽く叩く。
「鬼灯、我的最亲爱的人。僕を信じてくれて、一緒になってくれてありがとう」
鬼灯はそう言ってくれるのが嬉しくて、また白澤が抱き締める腕が暖かく和らぎ、眠気に勝てなかった。
食事を摂ろうとし、しかし間に合わずに眠ってしまう事は過去にも何度かあった。特に、白澤に触れられている時が多い。今もそう。
白澤は、己の腕の中で安心しきって眠っている妻の髪を愛おしそうに撫で、彼女を抱き上げ夫婦の寝室に運んでいった。
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妊娠中の鬼灯(♀)は、夫である白澤の留守中に客から気になる事を聞いて…。