No.750581

艦これファンジンSS vol.21 「提督の霍乱」

Ticoさん

けほけほして書いた。やっぱり反省していない。

というわけで、えーと三ヶ月ぶりになりますか、
艦これファンジンSS vol.21になります。

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2015-01-11 13:55:31 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:1872   閲覧ユーザー数:1837

 空がようやく白み出した頃のことである。

 長い黒髪をなびかせて、彼女は黙々と走りこみを行っていた。

 年が明けたばかりの、まだ寒の内であるから、早朝の空気は清冽に冷え切っていて、時折かすかに吹く潮風は身を切るように鋭い冷たさを伴っていた。

 そんな中を走る彼女の服装は独特だった。身体にぴったりと張り付いた白と黒の衣装は肩と腹部が露出しており、とても寒さをしのげるようには見えない。だがしかし、当の本人はまるで寒さなど気にならないかのような顔をしていた。現にあらわになった肌は血色もよく、外気に冷えた様子など微塵も感じさせない。

 それは、普通の女の子ではないゆえの強靭さの現われと見るべきだろうか。

 そう――彼女はただの少女ではない。それを強烈にあらわしているのが、独特の衣装を取り囲むように身にまとった鋼鉄の艤装だった。その身を守るような、それでいて、対峙するものを威嚇するような、連装砲塔がものものしく四つ付いた装備。

 艦娘。人類の脅威、深海棲艦に対抗しえる唯一の存在。

 その足取りごとに艤装を鳴らしながら、彼女はその身に背負った鋼鉄の重みを感じさせない速さで、鎮守府の敷地内を駆けていた。

「おーう、朝から精が出るね」

 声をかけられ、彼女はふと足を止めて顔を向けた。巫女のような衣装の艦娘が、釣り竿とクーラーボックスを抱えて歩いてくるのが見える。

「伊勢(いせ)か。あなたも早いな」

 彼女に伊勢と呼ばれた艦娘は、苦笑いを浮かべて頭をかいてみせた。

「釣り場の確保には早朝が一番ってね。まあ、日課みたいなもんだから、この時間に出てこないとどうも一日のリズムがよくないっていうか」

 そう言うと、伊勢はしげしげと、艤装を身にまとった彼女を見つめる。

「また重いもの背負って走りこみなんて……よくやるよ」

「何を言う。艤装など所詮、身体の延長のようなもの。身にまとった上で意のままに動けなくては意味がないだろう」

「そりゃ理屈はそうだろうけど、体感重量とか、海の上と陸の上じゃ全然違うでしょ――まあそれを軽々とやれちゃうあたりがいかにもあなたらしいけどさ」

「日課だからな。こなしているうちに慣れてしまうものさ」

「そっか。日課でやってりゃ仕方ないね」

 伊勢がそう言い、くすりと笑みをこぼした。

 それにつられて、彼女もその顔にふと笑みを浮かべた、そのとき。

 ぶえっくしょい、と、いささか品のない、男のくしゃみが敷地内に響き渡った。

 彼女も伊勢も思わずくしゃみの方向に目をやった。

 鎮守府の一角の窓が開いている。その向こうに、詰襟の白い制服の影がちらりと見えて二人はくしゃみの主を確認した。まあ、見るまでもなく、基本的に艦娘しかいない鎮守府で男といえば一人しかいない。

「提督か。風邪じゃなきゃいいんだけどな」

 伊勢がじとりとした目で見やっていると、またしてもくしゃみの声が響く。

 やれやれと肩をすくめる伊勢に対して、黒髪の彼女は眉をひそめて、気遣わしげな表情を浮かべて窓の方を見やっていた。

 戦艦、「長門(ながと)」。

 それが、彼女の艦娘としての名前である。

 

 「深海棲艦」という存在がいつから世界の海に現れたのか、いまでは詳しく知るものはない。それは突如、人類世界に出現し、七つの海を蹂躙していった。シーレーンを寸断されて、なすすべもないように見えた人類に現れた希望にして、唯一の対抗手段。

 それが「艦娘」である。かつての戦争を戦いぬいた艦の記憶を持ち、独特の艤装を身にまとい、深海棲艦を討つ少女たち。

 人に似て、しかし人にあらざる彼女たちだが、風邪などの病気とは無縁ではない。疲労がたまれば免疫は低下するし、メンテナンスが充分に行われなければ体調を崩すものだ。とはいえ並みの人間に比べればはるかに強靭な彼女たちは、補給と整備さえしっかり行われていればどんな苛酷な環境下でも活動できる能力を有している。

 よって、鎮守府でまず誰よりも「虚弱」な者は誰かと言われれば、艦娘たちの司令官にして、しかしながらただの人間であるところの提督であるわけだ。

 年末の繁忙期をやり過ごした彼は、年明け早々にやられてしまった。

 

「三十九度五分。風邪ですね」

 手にした体温計の目盛りを読み取りながら、弓道着に似た赤い袴の衣装を身に着けた艦娘がそう告げた。本日の秘書艦予定だった、正規空母の赤城(あかぎ)である。

 朝の挨拶に提督執務室に入るや、応接ソファでぐったりとしている提督を見つけた彼女は有無を言わさず、てきぱきと彼を介抱した。目下、鎮守府の主である提督は濡れタオルを額に当ててソファに横たわっている状態である。

「四十度行かないならまだ薬でどうにかできるだろう……」

 提督がうめくような声でそう言うと、赤城は肩をすくめてみせた。代わって答えたのはもう一人の艦娘である。

「四十度超えていたら即刻医務室行きですよ」

 青い袴の弓道着のような衣装の艦娘。正規空母の加賀(かが)である。提督にかけた声は落ち着き払っているあまり、どこかクールな印象さえ感じさせる。

「……五分違いでも医務室へ送るべきですね」

 ぐったりした様子の提督を見ながら加賀がつぶやく。それに赤城がうなずいた。

「ええ、担架を持ってきてもらいましょう。提督にはさっさと休んでもらわないと」

「――ちょっと待て。それはいくらなんでも大げさだ。自力で歩いて……」

 よろよろと立ち上がろうとする提督を見て、赤城が目くばせし、加賀が目を細める。

 次の瞬間、加賀が提督の足をひっかけた。体勢を崩した提督がふらふらとしおれるようにまたソファに沈み込む。

「……ちょ……おまえたち、なにを……」

「そんな足取りで医務室まで歩けますか?」

 赤城の声は穏やかだったが有無を言わせぬ迫力があった。

「途中で転倒したり階段から落ちたりして怪我などしてはそれこそ大事です。おとなしく運ばれてあげてください。これは秘書艦担当としての命令です」

「……命令は普通、司令官から秘書艦にするもんなんだがな」

「赤城さんを怒らせたくなかったらおとなしく従ってください」

 声をひそめて加賀が言う。その鬼気迫る様子に提督は思わず唾を飲んだ。

「――そういや赤城が怒ったところは見たことがないがそんなにおっかないのか」

「ええ。戦艦泣かせの第六駆逐隊が土下座して詫びるほどには」

「それはそれは……」

「――なにかおっしゃいましたか?」

 ひそひそ声で話す提督と加賀に、赤城が表面上はにこやかな笑顔を向けてくる。

 提督は首をふるふると振ると、力なく言った。

「分かった。担架で運ばれてやるから、やるなら早くやってくれ」

「かしこまりました。加賀さん、手すきの重巡級の子を呼んできてください」

 赤城の言葉に加賀がうなずいて執務室を出て行く。

 それを見送りながら、赤城が言った。

「看病には鳳翔さんをつけてもらいます。それなら提督もひと安心でしょう」

「いたれりつくせりで涙が出そうだ」

「……昨年の晩秋に渾作戦の完遂、間断なく各方面への戦力派遣、合間を縫っての水雷戦隊の演習、それに年末年始は帝都へ出向いてお偉方のご機嫌取り。お疲れがたまっていたんですよ。仕方がありません」

「ふがいないことだ――この程度でダウンするとはな」

 力なくつぶやく提督に、赤城がくすりと笑みをこぼす。

「今日一日くらいは深海棲艦もおとなしくしてくれているでしょう。それに、何かあったら“あの人”が提督にはいるでしょう?」

 

「なんだと?」と柳眉をつり上げ。

「あらあら、提督がお風邪?」と口元に手をやり。

「大変です! 熱はだいじょうぶなんですか?」と目をみはり。

 使いに来た艦娘の知らせを受け取った時の三者三様の反応がそれだった。

 鎮守府沖の演習海域。そこで監督していたのが、鎮守府でもビッグスリーと目される戦艦の艦娘三人。長い黒髪に武人然とした凛とした雰囲気の長門。茶色い髪を肩で切り揃え、そこはかとなく色香を漂わせている陸奥(むつ)。そしてすらりとした長身に華やいだ印象の美貌を有する大和(やまと)である。

「いまは医務室で安静にしておられます。かなり熱がおありですが、流感などではないようです。睡眠をしっかりとって、あたたかくしていれば快方に向かうだろう――と、明石(あかし)さんの見立てです」

 てきぱきと報告をするのは、眼鏡をかけた理知的な印象の艦娘だ。軽巡洋艦の大淀(おおよど)といい、戦力としてもさることながら、事務方の仕事で特に重宝がられている古参中の古参である。

「明石さんったら人間の診察もできるの?」

 と、感心してみせたのは陸奥である。

「まあ、わたしたちの素体も人間と変わらない部分は多いしな」

 そう長門が答えると、大和がうなずいてみせる。

「でも、大事じゃなくてなによりです。お見舞いに行かないと……」

 その言葉に、長門がかぶりを振ってみせる。

「いや、いまはそんなことより――」

 長門は大淀をひたと見据えて、言った。

「要するに提督はダウンして寝込んでいるのだな?」

「はい、そのとおりです」

「秘書艦は赤城のはずだったが、彼女からはなんと?」

「特には。ただ、このことをお三方にお伝えするように、と」

 大淀のその言葉を聞いて、長門がふっと口元に笑みをみせた。

「そういうことか――すまない、陸奥、大和。わたしはこのまま鎮守府に戻る」

 普段の凛とした面持ちのまま、彼女は静かに言った。

「大淀、赤城にかけあって提督が処理すべき書類を執務室に置いてくれ。わたしが代理で決裁する。量が量だけに、赤城だけでなく大淀にも手伝ってもらうことになるかと思う――わるいが、頼めるか?」

「はい、わたしは一向にかまいません」

 背筋をしゃんと伸ばして、大淀が目の冴えるような敬礼をしてみせる。

「陸奥と大和はこのまま監督を頼む。水雷戦隊の育成は目下の鎮守府の重要事項だ。しっかりと見守っていてくれ」

「あらあら、提督のお見舞いはいいの?」

「そうですよ、心配じゃないんですか?」

 陸奥と大和が声を揃えてたずねるのに、長門はかすかに眉をしかめて、

「提督が寝込んだくらいで鎮守府の機能を止めるわけにはいかんだろう。そうだな、どうしても見舞いに行きたいなら――どちらかが監督に残って、もう片方が提督のところに行ってやってくれ」

「どちらかって――」

「どちらなんです?」

 思わず顔を見合わせた陸奥と大和に、長門は肩をすくめてみせた。

「適当に決めればいいだろう。二人で相談してくれ――行くぞ、大淀」

 そう言うと、長門は水上を滑走して鎮守府の方へと駆け去っていく。そのすぐ後を大淀が追い、二人の姿は瞬く間に小さくなっていった。

 残されたのは陸奥と大和である。二人してじっと見つめ合っていたが、やがてにらみ合いに耐え切れなくなったのは大和の方であった。

「任務、としては、演習の監督の方が大事だと思います」

「そうね、そうよね。でも提督のお見舞いも気になるでしょう?」

 陸奥にそう言われ、大和がかすかに頬を染めてぐっと言葉に詰まる。

 大和も陸奥も、左手の薬指に銀の指輪をはめている。提督とは「ケッコンカッコカリ」の間柄なのだ。いわばライバル同士といってよい。本来ならば長門も同じく銀の指輪をしているので競争相手なのだが、“艦隊総旗艦”の二つ名を持って号される彼女はなかなか同じ土俵に下りてこないのは、先ほどまでの言動から明らかである。

「ここはひとつ勝負して決めるとしない?」

 陸奥が声をひそめて言うのに、大和も据わった目つきで応える。

「いいですよ。でも撃ち合いするわけにはいかないでしょう」

「当たり前よ。こういうときはじゃんけんと相場が決まっているわ」

 きゅっと握り締めた拳を振りながら、陸奥が言う。

「勝った方が演習の監督役ということでいいかしら」

「えっ、あ、あの。勝った方がお見舞いじゃないんですか?」

 思わず目をしばたたかせる大和に、陸奥がすっと目を細めてみせる。

「だって――監督の方が大事な任務なんでしょう?」

「それはそうですが」

 どこか納得いかない様子の大和ではあったが、すぐに表情を引き締め、

「わかりました。それでは勝負で」

「「せーの!」」

 海原の真ん中で二人は声をあげて、それぞれの役を出してみせた。

 

「長門さん、ひとつよろしいですか?」

 鎮守府への帰途、大淀の問いに長門は振り返らずに応えた。

「なんだ?」

「なぜ敢えて二人に決めさせるようなことを? 長門さんが決めれば、それに従ったと思いますが」

「――二人とも本音ではお見舞いに行きたいだろうからな。わたしが決めてしまっては、見舞い役からはずれた方は面白くなかろう。二人で納得できる形で考えたほうがまだしもマシだろう」

 振り返らない長門の表情は窺い知れない。

「長門さんは――」

 あなたの本音はどうなんですか、そう尋ねようとして、しかし口に出せなかった。

 長門の無言の背中が、聞く前に答えを物語っているように思われた。

 

 

「お姉さま! お聞きになりましたか!」

 戦艦寮の一室。トレードマークの眼鏡を光らせて部屋に駆け込んできたのは、戦艦の霧島(きりしま)である。

「ノー。霧島。ダメヨ、そんなに騒がしくしては」

 慌てた様子の霧島に、実に悠然と対応してみせたのは、姉妹艦の長女にあたる金剛(こんごう)である。たおやかな指でティーカップを優雅に持ち、そっと口元に運ぶ。

「せっかくの紅茶が台無しになるデース」

「提督が倒れたらしいんですよ!」

 霧島のその言葉に、金剛がガチャンと茶器を鳴らした。

「ホワット!? それは本当デスカ!?」

 目を丸くして思わず立ち上がる金剛に続くように、同じく部屋でくつろいでいた榛名が「まあ」と頬に手をあて、比叡が「ありゃあ」と目を丸くしてみせる。

「テイトクが倒れた!? い、生きてるのデスカ? 無事なのデスカ?」

「あ、いや、その。倒れた、ってのは噂なんですが、担架で運ばれていく様子を何人かが目撃していて、そうなんじゃないかという話なんですが」

 眼鏡をかちゃりと直しながら、霧島はこほんと咳払いしてみせた。

「すみません、容態はあまりよくないみたいですが、症状は風邪らしいです」

 その言葉に、金剛がふうっと息をつき、椅子にへたりこむ。

「風邪デスカ……ビックリしたデース」

「でも担架で運ばれるぐらいなら熱とか相当ひどいんじゃないですか?」

 榛名の言葉に、比叡が続けて、

「提督だって軍属だもの。体調管理はしっかりしてるはずだけど」

「とりあえずいまは医務室で寝込んでいるそうですよ」

 霧島がそう言ってから、ややあって、金剛がテーブルにばしんと手をうちつけた。

「お見舞いデス! お見舞いしなければ!」

「そうですね、お姉さま! 良いアイデアです!」

 金剛の言葉にすかさず比叡が反応してみせる。

「そうと決まれば、お見舞い品を決めないとデース!」

「風邪に効くものがいいですよね、やっぱり」

 榛名が首をかしげてみせると、霧島が眼鏡を光らせて言った。

「民間療法では、風邪にはネギが効くそうですよ」

「ネギって、あの青くて長い食べるネギ?」

 比叡の問いに、霧島がうなずいて、

「ええ。太いネギを焼いて挿すそうです」

「挿すって、どこにデスカ?」

 金剛がそう訊ねると、霧島は途端に難しい顔になって、もじもじとしてみせた。

「えっと、ですね。その……口じゃないとこに挿すとか聞いてますが」

 霧島の言葉に、残る三人が天井を仰いで三様に思案顔になったが、ややあって、

「ああ、ひょっとして――」

「それ――効くの?」

「オーゥ……エキサイティングデース」

 三人ともに顔を赤らめて、うつむいてしまった。

 束の間黙りこくった後に、咳払いして場の空気を切り替えたのは金剛である。

「じゃ、じゃあ、その役目は霧島にお願いするデース」

「わ、わたしですか!?」

「ええ。提督の風邪を治すために太くてホットなのを頼みマース」

「は、はあ……」

 にっこりと金剛に微笑まれると、それ以上、霧島には何も言えない。

「ワタシはジンジャーティーを淹れまショウ。生姜をすりおろして、蜂蜜をたっぷり入れて、熱々の紅茶で飲めば、風邪なんて吹き飛ぶデース」

「それでは、榛名は氷枕を用意しますね。熱を冷ます助けになればいいんですが」

「じゃあ、わたしは栄養がつく料理を作ることにします! そうですね、カレー!」

 比叡のその言葉に、彼女以外の三人がひきっと顔を引きつらせる。

「ひ、比叡? 風邪ひきにカレーはつらいんじゃないカシラ?」

「えー、でもたっぷり汗かいた方がいいと思いますよ。任せてください。お姉さまのジンジャーティーにぴったり合うカレーを作ってみせます!」

 自信満々にそう言って比叡は部屋を出て行った。おそらく厨房に向かったのだろう。

 その後ろ姿を見送りながら、霧島がぼそりとつぶやく。

「あの……まかせてよろしいのでしょうか?」

「榛名、ありていに不安です」

 二人の言葉に、金剛がふうっと息をつく。

「仕方がありマセン。わたしたちの準備もありますカラ、比叡のカレーがちょっとでも食べられるものにできるように手助けしまショウ」

 そう言って、金剛は立ち上がり、ぽんぽんと手をたたいてひとりごちた。

「テイトク、待っていてくださいネ。金剛シスターズ、あなたの風邪を治すために精一杯がんばるデース」

 

 鎮守府の敷地を、一人の艦娘が駆けていく。

 艤装を身にまとい、がっしゃがっしゃと金属音を鳴らしながら、慌てた様子である。

 背中に背負った煙突付きの機関部、手にした12.7cm砲、脚につけた魚雷。

 見るものが見ればすぐに分かる、駆逐艦の艦娘である。

 青みがかった長い黒髪に、よく言えば穏やかな、わるく言えばひ弱そうな顔立ち。

 その表情はというと、いま驚き半分、困惑半分といったところか。

 建物の角を曲がると、果たして、教官役の軽巡洋艦の艦娘を前に、一ダースほどの駆逐艦の艦娘たちが整列して立っていた。

「ごめんなさい! 遅くなりました!」

「あなたが最後ですよ、潮(うしお)さん。三分の遅刻です」

 穏やかだが有無を言わせぬ声。

 潮と呼ばれた艦娘はそれを聞いて、ぎゅっと目をつむった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、神通(じんつう)さん!」

 教官役の艦娘は茜色の衣装に鉢金に似たリボンを頭に巻いている。一見して柔和そうな面立ちながら、その眼差しは鍛えられた鋼を思わせる輝きに満ちている。

「謝るのは結構です。どうして遅れたのですか?」

 神通は駆逐艦の艦娘の間では鬼教官として知られていた。決して叱り飛ばすことも怒鳴りつけることもない。声も荒げず、あくまでも穏やかな言葉で諭す。

「ペナルティとして雷撃練習を全員一回追加です」

 だが決して妥協や甘えを許さない。とことん教え子を限界まで追い詰め、そのぎりぎりを自力で超えさせることで成長を促す――そういう、教官なのだ。

「ほ、本当にごめんなさい――で、でも大変なんです!」

 潮はかすかに震える声で訴えた。その様子に神通が首をかしげる。

 もともと潮は引っ込み思案で前に出たがらない性格なのだ。

 それが今日に限って、妙に真剣な顔をして、何か言いたげである。

 神通はおとがいに指を添えてかすかに首をかしげ、訊ねた。

「遅れたことと関係がありそうですね。事情を聞きましょう」

 そう言って、神通はふっと目を細める。

「ただし理由によっては、雷撃練習をさらに一回追加です」

 その言葉に居並ぶ駆逐艦娘たちが一斉に息を呑み、次いで全員が潮をにらみつけた。

 神通の言葉に冗談はない。潮の答えいかんでは今日は地獄の特訓となるだろう。

 自分に集中する視線に潮はびくつきながらも、ひとつ大きく息を吸い、そして、

「提督がダウンして寝込んじゃったそうです……担架で運ばれていくのを見ました」

 そう言うと、神通が目を見はり、駆逐艦娘たちが口々に悲鳴めいた声をあげた。

「それは本当ですか?」

「はい、わたし、心配になって、ちょっと付き添わせてもらって……提督、かなりつらそうでした……だいじょうぶ、かな」

「事情はわかりました。たしかに大変ではありますね。けれども」

 あくまでも穏やかな声で神通は微笑んで見せた。その笑みがかえって怖い。

「訓練に遅れて良い理由にはなりませんよ?」

 そう言われて、潮はしゅんとしおれたようにうつむき、こくりとうなずいた。

「提督にはきっと誰か付き添っているでしょう――だいじょうぶです。わたしたちの司令官はちょっとやそっとで死ぬ人ではありません。わたしたちにできることは、提督が元気になったときにいつでも期待に応えられるように練度を磨いておくことです」

 神通はそう言うと、少し声を張り上げて、

「事情はわかりましたのでペナルティは追加一回にしておきます。雷撃練習を都合五回、いいですね?」

 その宣告に駆逐艦娘が一斉に「はい!」と声をあげる。声こそ元気な応答の返事だが、目にはつらい訓練がさらにつらくなって涙があふれそうになっている。

「あ、あの、神通さん」

 潮が、おそるおそるといった感じで、言葉を切り出す。

「どうしたのですか?」

「えっとですね。提督のお見舞い、行ってあげたらどうかな、と思うんです」

 居並ぶ駆逐艦娘たちから余計なことを言うなという視線がびしびしと刺さる。

 その鋭さに潮はひるみつつも、きゅっと拳を握り締めて言った。

「いつも提督はわたしたちのこと気遣ってくれるし、その――提督が大変なときには、わたしたちの方から、心配してあげなきゃ、なんだか申し訳ないような……」

「潮さんは――訓練を中止してお見舞いに行くべきだというのですか?」

 神通がやや不審そうに訊ねるのに、潮はあわててかぶりを振ってみせた。

「ち、違います! 訓練はちゃんとやります! ただ、終わった後でみんなでお見舞いに行ってあげると、提督、喜ぶかなあ、って――」

 終わりの方は消え入りそうになりながらも潮は言った。神通はというと、手にした懐中時計を開いて、少々困ったような顔をしてみせた。

「皆さんは……提督のお見舞いに行きたいですか?」

 その問いに、駆逐艦娘たちが互いに顔を見合わせ、小声を交わす。やがて、一人が、

「行きたいです!」

 と言い出すと、それにつられるように、

「わたしも!」「行ってあげなきゃ!」「提督、大変なんでしょう?」

 そう口々にさえずりだした。それを見て、神通はますます困った顔をして、

「でも時間が遅くなってしまいそうですね。雷撃練習五回ですから――お見舞いする時間がとれるか怪しいところです。できれば訓練は早めに切り上げたいところですね」

 その言葉に、潮をはじめ駆逐艦娘たちの目がいっせいに輝く。

 ひょっとしたら、練習回数が少なくなるのでは――その期待は、しかし、神通の次の一言でものの見事に打ち砕かれた。

「それじゃあ今日は特別メニューです。スピード重視の快速設定にして、通常の雷撃練習三回の時間内で五回分すませましょう。やればできます」

 あくまでも柔和な――しかし有無を言わせぬ声でさらっととんでもないことを言い出した教官に、駆逐艦娘たちが一斉にひいと息を呑む。潮も顔を真っ青にしていたが、神通はそんな彼女の肩をぽんぽんと優しくたたくと、言った。

「みんなの提督を思う気持ちがあればだいじょうぶですよ」

 神通の顔が心なしかうれしそうなのは、はたしていかなる理由によるものか、居並ぶ駆逐艦娘のいずれも窺い知ることはできなかった。

「それじゃあ、始めましょうか――各自、進水!」

 

 甘味処間宮。艦娘たちの憩いの場にしてオアシスである。

 その一角に、見る人が見れば訳ありな四人組が席に就いていた。

「なんじゃ、なにか騒がしいのう」

 髪をツインテールに結わえた艦娘――航空巡洋艦の利根(とね)が、わらび餅をつつきながら言うと、

「それが――どうも提督が倒れたとか寝込んだとかっていう話ですよ、姉さん」

 隣に座った長い黒髪の艦娘――姉妹艦の筑摩(ちくま)がそう答える。

「ふむ。このところ忙しかったようだからな。疲れがたまったところをやられたか」

 筑摩の向かいに座った巫女服に似た衣装の艦娘――航空戦艦の日向(ひゅうが)が、うなずきながら所感を述べると、

「ふん。体調管理は基本の基本。そこんところなってないのはほんとダメだね」

 ばっさりと切って捨てたのは、日向と同じような衣装を身に着けた艦娘――姉妹艦の伊勢である。早朝に長門に見せた晴れやかな笑顔とは違い、いまの伊勢はやや鬱屈した表情が浮かんでいた。

 そんな伊勢を見て、日向がくすくすと笑みをこぼす。

「提督のことになると本当に点数が辛くなるな、伊勢は」

「だって、ねえ――利根もそう思うでしょう?」

「うん? うむ……たしかに基本がなっておらんが、提督も人間だから失敗もあろう」

 伊勢から投げられたボールを利根が無造作に投げ返す。伊勢は大きく息をついて、

「だめっ、だめだよ、利根。あの男を許すなんて考えちゃあ」

 ぶんぶんと伊勢が頭を振るのを見て、困った顔を浮かべたのは筑摩と日向である。

「あの、伊勢さん? わたしたちのことなら、もういいですから」

「そうだぞ。そろそろ勘弁してやったらどうだ」

 二人の言葉に、伊勢はというと、目じりをきりと吊り上げて、

「いやいや、過去を教訓としてこそ未来に活かせるというものなのよ。わたしたちみたいな思いをする艦娘をこれ以上出さないためにも、こうやって定期的に集まって――」

 その言葉に三人とも目を丸くしてみせる。

「えっ、この会合ってそういう意図があったんですか?」と筑摩。

「わたしと筑摩、伊勢と利根のダブルデートだと思っていたぞ」と日向。

「我輩はてっきり甘味処の食べ比べ会だと思っておったのじゃ」とこれは利根。

 三者三様に的外れな回答を得て、伊勢は頭をかきむしった。

「だーっ、なに? それじゃなに? 毎回ちょっと悲壮な思いでやってたわたしがなんかバカみたいじゃないのよっ」

 テーブルに額をごんごんとぶつける伊勢の背中を、まあまあと日向がさする。

 その様子を利根と筑摩が見て、思わず顔を見合わせ、笑みを浮かべる。

「でも伊勢が言い出してくれねばこうして集まることはなかったからの。そのあたりは感謝しておるぞ」

「そうですよ、おかげで同じ経験をした日向さんといろいろ話しもできましたし」

「うん、わたしも同じ“撃沈仲間”として筑摩と話して心の整理ができたのもある」

 日向がするっとすべりこませたその言葉に、場の空気が一瞬冷えたように思えた。

 だが、伊勢が顔を上げて、赤くなった額をさすりながら、

「本当? わたしのやったこと、役に立った?」

 その言葉に三人がそろってうなずいてみせると、冷えた空気がふっとゆるんだ。

 撃沈仲間。そう、日向と筑摩はともに撃沈判定を受けた数少ない艦娘であった。

 しかも、伊勢も利根も、ともに姉妹艦を目の前で失うという経験をしている。

 原因は提督の判断ミス。大破状態で無理を押して進撃した上での、撃沈。

 いったんは失われた命はほどなく戻ってきたが、帰ってきた彼女たちに過去の記憶はなく――立ち居振る舞いも残されたものの認識とは微妙に食い違っていて。

 残された者が「帰ってきたもの」との折り合いをつけるために、また戻ってきたものが「失ったもの」を取り返すために、それぞれに戦ってきたのだ。

 筑摩が手にしたほうじ茶を一口すすると、ほうっと息をつき、

「提督はわたしに集中的な訓練を課してくださいました。それこそ全艦娘でも最優先にしてくれて。利根姉さんも、わたしにいっぱい教えてくださいました。だから、わたしはすぐに姉さんと肩を並べて戦えるようになったし、なくしたものをひとつでも多く拾い集めることができたように思えます――もちろん、伊勢さん日向さんのお力もあって、いまのわたしがいるのですけれど」

「振り返れば大変じゃったが、いま考えるとあっという間だった気もするのう」

「わたし、思うんですけど」

 筑摩は胸に手をあて、静かに言った。

「提督を許すか許さないかでいえば、やっぱり判断ミスをして取り返しの付かない結果を招いたことは許されないと思うんです。でも、それと恨むのとはまた違う話です。許さないにしても、恨まない――それでいいんじゃないかな、って」

 その言葉に、日向がうんうんとうなずいてみせる。

「無理に許す必要はないさ。ただ、恨むのは何も生まないからな」

「ええ、そうですね――あっ、そうだ」

 筑摩はぽんと手をたたくと、三人に言った。

「突然ですけど、提督のお見舞い、行きませんか? 普段の感謝もありますけど、ひょっとしたらちょっとした意趣返しになるかもしれませんよ」

 その提案に、伊勢が目をぱちくりとさせた。

「撃沈被害者の会がそろってお見舞いに行ったらそれは色々効果ありそうね……」

 日向がにやりと笑い、利根がうなずいてみせる。

「なかなか面白いじゃないか」

「良いアイデアじゃ、筑摩!」

「じゃあ、決まりですね」

 そう言うと筑摩は屈託のない笑みを浮かべてみせた。

 

 

「あら? 目を覚ましたかしら?」

 沼地に沈み込んだような眠りから浮き上がってきた時に、提督が聞いた第一声がそれである。あごの下をくすぐってくるような、色香の漂う声。

 提督はうっすらと目を開けた。医務室の白い天井。

 そして自分を覗き込む淡いピンクのナース服。

 ――ナース服?

 提督は目を見開いて確認すると、じとりとした目つきになって言った。

「……なんちゅう格好をしてるんだ、陸奥」

 自分を覗き込んでいたのは、はたして陸奥だった。ほんのりと化粧の匂いが感じられるその身体を、スカート丈の短いぴっちりとしたナース服で包んでいる。

「もちろん、看護師さんよ。看病するにはぴったりでしょう?」

 そう言うと陸奥はポーズをつけてウィンクしてみせる。

 提督はふうと息をつくと、周りを見回して、

「たしか鳳翔がついていてくれてたはずなんだが……彼女はどうした?」

「鳳翔さんならいまお粥を作りに行ってるわ。わたしはお見舞いがてら、ちょっと看病を代わったのよ」

「お見舞いだけにわざわざそんな格好するのか」

「あら、グッと来ない?」

 そう言って、しなを作ってみせる陸奥。訓練で鍛え上げられた肢体は引き締まっていながらも女性らしいやわらかさもある。すっと細めた目で見つめられて、提督は、

「まあ、そうだな……こういう状況じゃなきゃ楽しめたかもな」

「じゃあ、いろんなお楽しみは違うときにとっておきましょう」

 陸奥は、ふっと優しげな笑みを浮かべて、

「すごい汗。ちょっと身体拭いて、寝巻き取り替えましょうか」

 そう言うと、手ぬぐいを水に浸してきゅっと絞る。提督の身体を抱き起こすと、臆することなく上半身の寝巻きを手早く脱がせる。あらわになった上半身を、陸奥は手ぬぐいで丁寧に拭っていった。

 ――どうもこそばゆいな。

 しなやかな指先がかすかに身体をくすぐる感触に、提督は気恥ずかしさを覚えた。

 これで陸奥が変な色目を使うようならかえって気分を害するところだが、陸奥がちょっとふざけてみせたのは目を覚ました直後だけで、いまは真剣に看病してくれているので、そのことが余計に微妙に落ち着かない感覚を呼び起こす。

「はい上の方、終わり。じゃあ、下の方も拭きましょうか」

「ちょっと待て。そこは自分でやる」

「だめよ、太ももとか汗が出やすいんだから、ちゃんと拭かないと」

「いや、下着を見せるのはさすがにどうかと」

「もう、病人がつべこべ言わないのっ」

 陸奥がふんと鼻息を鳴らすと、脚にかかっていた布団をひっぺがす。

 提督が抵抗しようとするのも構わず、下半身の寝巻きに手をかけた、その時。

「ヘーイ、テイトク! お加減いかがデスカ?」

「榛名、心配して来てしまいました」

「熱のお加減はどうですか? 特効薬を持ってきましたよ」

「提督! 食事の差し入れです」

 がらりと医務室の扉が開き、黄色い声が部屋に満ちた。

 ――またかしましいのが来たなあ。

 提督がそう思った瞬間には。

「あら、金剛じゃないの。お見舞い?」

 寝巻きに手をかけたまま、陸奥が振り返る。

 部屋に入ってきた金剛の目にはどう映るかというと――

「ちょ、チョット! 陸奥、何をしてるデスカ!」

 金剛がひきっと顔をひきつらせて声をあげる。

「これは……お二人ともお楽しみでしたか」

 霧島が眼鏡をきらりと光らせて言うと、

「陸奥さんが提督を襲ってる……?」

 榛名が手で顔を覆いつつも指の隙間からしっかりこっちを見て、

「あれー? 風邪ってウソだったの?」

 比叡がじとりとした目でこちらをにらんでくる。

「おいおい、そんなわけあるか。俺はしっかり病人だ」

「そうよ、汗かいてたから身体を拭こうとしてたのよ」

 陸奥が寝巻きから手を離して、不本意そうに言う。

「そうデスカ。それなら水分補給にぴったりのものを持ってきたデース」

 金剛がけろっと機嫌をなおして、手にした水筒をぐいっと差し出す。

「風邪によく効く特製ジンジャーティー、どうぞ召し上がれ」

「榛名は、氷枕です。ひんやりしてきもちいいですよ」

「わたしは食べ物作ってきました! 元気、つきますよ!」

 口々に申し出られる差し入れに提督は苦笑いを浮かべつつも、

「あ、ありがとう――霧島は、なんだ? 薬だって?」

 なぜか姉妹から一歩下がっていた霧島に、声をかけると、

「――提督」

 しばしの沈黙の後、霧島の眼鏡が照明を反射してギラリと光ったように見えたのははたして気のせいか。

「おとなしくしておいてくださいね。だいじょうぶ、痛いのはたぶん最初だけです」

 そう言うと、後ろ手に持っていた湯気の立つ太いネギを取り出した。

 それを見て金剛たちはうなずき、陸奥は目をぱちくりとさせる。

 提督はというと、ただのネギに凶器じみた気配を感じて身じろぎし、

「ちょっと待て。なんだそれは」

「ネギです。よく焼いて熱々ですよ」

「ああ、かじるのか? それとも首に巻くのか」

「――挿します」

 霧島の視線がついっと提督の下半身に向けられる。

「挿すってどこにだ!?」

 思わず提督の声が裏返る。霧島はなぜか不敵な笑みを浮かべて、

「だいじょうぶですよ、提督。提督がお婿にいけなくなってもわたしは責任をとれませんが、きっと金剛お姉さまがなんとかしてくださいます」

 そう言うと、じりじりと提督に近づき、むんずと下半身の寝巻きに手をかけた。

「ちょ、ちょっと、霧島ったら!」

 寝巻きをずり下ろそうとした霧島の手を、陸奥が押さえる。

 霧島はというと、照明を眼鏡に反射させたまま、

「風邪にはこれがよく効くと聞いてます。さあ、いさぎよくお尻を出してください」

「ってえ、挿すってやっぱりそこなのかよ!」

 提督がたまらず悲鳴をあげた、その時。

「具合はどうじゃ、提督?」

「お見舞いに、来ました」

「なんだか騒がしいな」

「おいおい、なによこれ」

 修羅場めいた場にやって来たのは、筑摩たちであった。

 その彼女たちも医務室での様子を見て唖然とした表情を浮かべて、

「筑摩、な、なんじゃ、これは。どうしたことじゃ、これは」

「ね、姉さん、あまりまじまじと見ないほうがいい気がします」

「これは――お楽しみというやつなのかな、伊勢」

「わたしに聞かないでよ――何やってるのさ、提督」

「何がどうしてこうなってるのか、俺の方が聞きたい……」

 あきれ声の伊勢に、提督が憮然とした顔で答えるや、

「お見舞いにきました!」

「お体の具合はどうですか?」

「わあ、何この人数!」

「ちょっと、後ろ押さないでよ!」

 わあわあとけたたましい声が医務室に詰めかけて来た。

「ちょっと、皆さん、順番を守りなさい――」

 神通がその場を仕切ろうとして、しかし、失敗している。

 その場の収拾がつきそうにならなくなったとき。

「お静かに!」

 たおやかな、それでいて、ぴしゃりとした声が響いた。

 入り口から人ごみをかきわけながら、土鍋を手にささげもった着物姿の艦娘が静々と、しかし有無を言わせぬ威厳をもって入ってくる――穏やかな面立ちを、いまはかすかに強張らせている。軽空母の鳳翔(ほうしょう)である。

「なんですか、この騒ぎは。提督はご病気で休んでおられるのですよ」

「その――最初はわたし一人だけだったんだけどね」

 陸奥がたははと苦笑いを浮かべる。

 鳳翔はふうっと息をつくと、土鍋をベッドそばのテーブルに置いた。いまだに寝巻きに手をかけている霧島と陸奥の手を払いのけ、見舞い客とベッドに割って入る。

「よいですか、皆さん」

 提督の防波堤のように立ち、腰に両手を当て、言い放った。

「これから一切、面会謝絶です」

 えーっと不満の声があがるのを、鳳翔は見舞い客を一塊にして、その華奢な身体から想像できないほどの馬力でぐいぐいと押し出していく。

 有象無象の見舞い艦娘を廊下に押し切ると、鳳翔はぴしゃんと扉を閉めた。

 

「……にぎやかなお見舞いだったな」

 提督が安堵交じりの声でそう言いながら寝巻きを着替えなおした。

 鳳翔はふっと笑みを浮かべると、

「お引き取り願いました。あれでは提督が休めません」

「いなくなるとさびしくなるのは贅沢というものかな。騒々しいくらいな方が皆は元気だと分かって安心できる」

「なら、安心してお休みください――お食事、なさいますか?」

「お粥を作ってきてくれたんだったな。うん、頂こう――ああ、金剛のお茶と比叡のカレーも、食べさせてもらうかな」

「無理はなさらないでくださいね」

「せっかく作ってくれたのを無碍にもできないさ」

 と、そのとき、医務室の扉をノックする音がした。

「あら? 面会謝絶だって言ったのに、誰かしら?」

 鳳翔が首をかしげて、応対に出ると、

「あの――おじゃまして、すみません」

 扉の前にたたずんでいたのは、花束を手にした大和だった。

「ごめんなさい、面会謝絶だって聞いたんですけど――これ、提督に」

 そう言って、はにかみながら大和が花束を鳳翔に手渡す。

 鳳翔はちらりと周りを見回した。まだ遠巻きに駆逐艦娘たちがこちらを見ている。

 提督に会わせてあげたいのは山々だが、この状況ではさすがにまずいだろう。

 (本当に、大和さんは本番に弱いですね)

 心の中で苦笑して、鳳翔は優しい声で言った。

「ええ、たしかに。ちゃんと提督にお渡しします」

 そうして、そっと大和に顔を寄せ、ささやいた。

「だいじょうぶですよ、あなたのお気持ちはちゃんと提督に届きますよ」

 鳳翔のその言葉を聞いて、大和は、安堵したような、はにかんだ笑みを浮かべた。

 

 その部屋は鎮守府でも一番高い場所にあるわけでもないし、一番広い場所でもない。

 だが、鎮守府で一番重要な部屋には違いないだろう。

 提督執務室。

 一時的に主が不在となったその部屋に、いまは長門と大淀がいた。

「こちら、演習での弾薬使用報告書です。こちら、魚雷の補充申請書です」

 大淀がてきぱきと渡していく書類を、長門が黙々と処理していく。

 問題ないものには印鑑を押して処理済みの箱へ放り込み、不備があればそこを指摘して差し戻しの箱へ放り込む。

 その手際のよさに大淀は内心で舌を巻いていた。

 長門は見るからに実戦向きの艦娘で、およそこういった事務仕事に長けているようには見えない。しかし、長門の処理能力は提督に及ばないにしても、充分に参謀部門の一線でやっていけるほどだった。

 (さすがに艦隊総旗艦の名は伊達ではないということかしら)

 眼鏡をついと押し上げて、大淀は長門の横顔を見つめた。

 長門はいうと、書類の処理に一心不乱の様子である。その表情に、何かで思いわずらっているような気配は微塵も感じられない。

「――長門さん」

「なんだ」

「お見舞い、行かなくていいんですか?」

 その問いに、長門が一瞬手を止め、次いで、フッと笑みをこぼした。

「見舞いに行ってわたしが何の役に立つ? 看病に役立つような気の利いたことはおよそ腕におぼえがないからな。それなら鳳翔さんに任せたほうが安心だろう」

 長門の声は淡々としていた。大淀はすっと目を細めて、

「そんなことはありませんよ。弱ったときは大事な人にそばにいてほしいのは、やっぱり人情でしょう」

 その言葉に、長門は束の間黙り込んで、そして言った。

「……そもそも、わたしと提督の仲は、噂されているようなものじゃないからな」

「じゃあ、どういう仲なんですか?」

「そうだな――戦友、パートナー、相棒。色々と呼べるかもしれないが、お互いの戦場を知り、その上で自分の戦場でベストを尽くす。それでこそ本当に相手のためになれる。それでこそ、わたしと提督は対等の関係でいられる。司令官とか、部下の艦娘とか、そういったことを抜きにして、だ」

 その答えに、大淀はふうっと息をついて言った。

「やっぱり――長門さんと提督の仲は一筋縄ではいきませんね」

「どんな答えを期待していたんだ?」

「もうちょっとロマンチックなものです」

「期待に添えなくてすまないな」

 長門は苦笑いを浮かべると、きりと表情を引き締めて言った。

「提督が戦えないいま、わたしがせめて代役としてあの人の戦場に立つべきだ。領分外だからどこまで役に立つかは分からないがな。だが、病み上がりのところに仕事が溜まっていてはまた提督がダウンしかねないだろう。少しでも負担を減らしておかないとな」

「――まあ、お二人の仲は良く分かりましたけども」

 そこで、大淀はずっとこらえていた言葉を、ようやくかけることができた。

「それでも、どこかでお見舞いには行かれた方がいいと思いますよ」

 その言葉に長門は答えない。

 敢えて答えないのか、それとも答えられないのか、大淀には分からなかった。

 

「――ん、いま、何時だ?」

 提督はうっすらと目を開け、窓の方を見やった。

 カーテンにさえぎられたそれは、もうすっかり暗くなっている。

「もうすぐ夜の十時です。そろそろ消灯時間ですね」

 すかさず鳳翔が答えるのに、提督はため息をついた。

「結局、一日寝込んでしまったか――すまないな、鳳翔。こんな時間まで」

「いえ、わたしもそろそろ失礼させて頂こうかと思ってました。提督はこのままお休みになってください。明日は、また明日のことです」

「ああ、わかった。ところで、ひとつ、聞きたいんだが――」

「一度も、いらしてませんよ」

 鳳翔の言葉に、提督は大きく安堵の息をついた。

「そうか……なら、とりあえず鎮守府の仕事は滞っていないな」

「――お互い、不器用なんですから」

「なにがだ」

「いいえ、なんでもありません」

 笑みをこらえながら答える鳳翔を、提督がじとりとした目でにらむ。

 それを意に介した様子もなく、鳳翔はぺこりと一礼した。

「それでは、失礼いたします。おやすみないませ、提督」

「ああ、ありがとう」

 そのまましずしずと提督の前から鳳翔はさがった。

 静かに扉を閉め、医務室を後にしようとしたそのとき。

 廊下の向こうから歩いてきた人影を認めて、鳳翔はにっこりと微笑んだ。

「――ちょうどよかったですね、いま、起きてらっしゃいますよ」

 

 長門は、そっと医務室に入った。

 声をかける前に、提督の声が部屋に響く。

「――長門か」

「……よく、わかったな」

 長門は提督のベッドに歩み寄った。

 彼が穏やかな眼差しで見つめてくるのに、長門は我知らず鼓動が高鳴るのを感じた。

「足音と……匂いだな」

「ほう?」

「君の足音は規則正しくて、聞くだけで背筋が伸びる思いがする」

「――匂いというのは?」

「潮の香り、硝煙の匂い、それに混じる女性の匂い――なぜかな、そんなに強くないはずなのに、君が近づくとそういうものを感じるんだ」

「それは……初めて聞いたな。提督がわたしにそんなものを感じ取っていたとは」

「君の匂いは良い。安堵感と緊張感がないまぜになって不思議な気分になる」

 それを聞いて、長門はくすぐったそうに笑みを浮かべた。

「そんなことを言うなんて、どうしたんだ、提督――まだ、熱があるんじゃないか?」

 そう言うと、長門はベッド脇の椅子に腰掛け、そっと彼の額に手を伸ばした。

「熱は、引いたようだな――これなら、明日にはだいじょうぶだろう」

「迷惑をかけたようだな、すまない」

「なに、たまにはああいう仕事もいい。どこまで役に立ったか分からんが」

「君がやってくれたんだ。俺以上にうまくやってくれただろうさ」

「信頼してくれて恐れ入る」

「君を信頼しなくて、他の誰を信頼するっていうんだい?」

 提督が長門の目をじっと見つめる。

 その視線をまっすぐに受け止めて、長門はこくりとうなずいた。

「もう消灯時間だ。提督もすぐにまた寝たほうがいい」

「ああ、そうするよ。君も……早く自室に戻って休め」

「――自室には戻るが、いますぐじゃないさ」

「なんだって?」

「提督が寝入るまでそばにいてやろう」

「な、何を言っているんだ」

 やや慌てた表情を浮かべた提督に、長門はにやりと笑ってみせた。

「わたしが、そうしたいんだ。素直に降参しろ」

 それを聞いて、提督がふうっと息をついた。

「病人の身では抵抗もできないな――わかった、降参する」

 そう言って彼は目を閉じると、やがて穏やかな息をたてはじめた。

 

 どのくらいそうしていたのか。

 提督の呼吸が寝息に変わってなおしばらく、長門は彼を見つめていた。

 こくり、とうなずくと、長門は彼の胸に手を置いた。

 手のひらに彼の体温を感じながら、長門は思っていた。

 本当は――自分にそばにいてほしかったに違いないのだ。

 そう思うと、長門は申し訳なさで胸がいっぱいになる。

 だが、一方で彼が別の思いを抱いていただろうことも分かっていた。

 風邪をひいて寝込んだ惰弱な自分を見られたくないという、強がりだ。

 だから、あえて長門に来てほしいとは誰にも言わなかったのだ。

 子供っぽい見栄だ。だが、その見栄が長門にはほほえましかった。

 女に甘えてそれに溺れるような男など、自分も見たくない。

 長門自身が強くありたいと願うのと同じように。

 戦友と認める彼にも強くあってほしい。

 それはおそらく彼が長門に抱いている思いのはずだ。

 お互いに弱いところは見られたくない。

 あるいは、弱い部分を見せ合える仲こそ、真の関係かもしれないが――

 それができるほどには、お互いに相手に安住したくないのだ。

 不器用と言われても構わない。他の関係など、想像もできなかった。

 そう思うほどには、長門はいまの彼との仲が気に入っていた。

 長門は、その指で、乱れた彼の前髪をそっとかきわけた。

 あらわになった額を、そっと手ぬぐいでぬぐう。

 そうして。

 長門は椅子から立ち上がり、そっとかがみこむと、彼の額に口づけた。

 

 早朝の空気は清冽としていて、よく冷える。

 口から白い息をはきながら、長門はいつものように艤装を背負って走っていた。

「よーう、ご苦労さん」

 かけられた声に振り向くと、いつものいでたちで伊勢が歩いてくる。

「伊勢か。今日も早いな」

「いやー、お互いに日課は変えられないね」

「そうでないと日課とは言わないだろう」

「まったく、まったく」

 伊勢と受け答えをしながら、長門はふと鎮守府の建物に目をやった。

 伊勢も、長門の視線の先に目をやる。

 やがて、窓のひとつを開くと、そこには白い詰襟の制服姿が見えた。

 人影がこちらに向かって手を振る。

 長門はそれに答えて、手を振り返した。

「よかった。一日で本復したようだな」

 長門がそう言うと、伊勢がふんと息をついて、

「そりゃあ、いつまでもダウンされてちゃ困るからね」

「皆の見舞いのおかげかもな」

「いやいやー、はたしてそうかな?」

 伊勢がにやにやと笑いながら、長門の顔を見つめてくる。

「誰かさんが何かおまじないしたおかげじゃないかな?」

「おまじないだと? わたしは何もしてないぞ」

 すましてそう答える長門に、伊勢はすっと目を細めて、

「いやー、青葉がね。昨夜、医務室に入るあなたを見ていたらしいのよ」

「な……いつの間に!」

「あ、やっぱり。本当に行ったんだ」

 しれっとそう言う伊勢に、長門は思わず頬が朱に染まるのを感じた。

「くっ……このわたしにカマをかけるとは」

「ふふふ、艦隊最古参の手練手管にはまだまだ及ばないね」

 きしし、と笑ってみせた伊勢は、ふっと目を細めて言った。

「でも、よかったね。早く元気になってさ」

 伊勢が笑みを浮かべる。不器用な同僚を気遣う優しい笑み。

 それを見て、長門は、そっとはにかんでみせた。

「ありがとう」

 普段の凛とした面立ちがほどける。

 その笑みは、思い人を慕う年相応の乙女の笑みだった。

 

〔了〕


 
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