1939年9月1日
ドイツ東側ポーランド国境
夜明け前、まだ夜の闇に包まれてる大平原を前に、1000台を超える戦車と100万を優に数える大軍が、出撃の時を待っていた。
これの背景は、1919年に調印された第一次大戦講和条約であるヴェルサイユ条約に起因するもだった。日英仏米を中核とする連合国に敗北したドイツは無条件降伏と、途方もない賠償金を請求され国家としての体を失った。その社会情勢の不安の中、一人のカリスマが現れる。
アドルフ・ヒトラー
塗炭の苦しみを味わうドイツ国民にとって、彼こそが自分たちの苦しみを取り除いてくれる救世主だった。
第一次大戦、ヴェルサイユ条約による領土割譲からの禍根を残すポーランド北西部に位置する自由都市ダンツィヒとバルト海沿岸地帯、俗に言われるポーランド回廊によって、ドイツ本国と飛び地である東プロイセンとの連絡が寸断されていることに絡むポーランド問題は、数々の拡張政策による圧力を加えることによりポーランドの譲歩を期待していたヒトラーだったが、イギリス、フランス両国の相互軍事援助を後ろ盾としてポーランドは譲歩を拒絶。かねてより識者達の間では、これこそが二度目の世界大戦の引き金になるであろうと警鐘は鳴らされていたが、ヒトラーは国家間問題解決の最終手段として、軍事力による強引な事態打開へ向けて動き出していた。
ドイツ国防軍によるポーランド侵攻作戦は四か月前から入念に準備されていた。対してポーランド側もこの動きを察知し、工業化を進めるべく多大な投資を中西部工業地帯に行っていたが、ヴェルサイユ条約を破棄し、軍事力の増強著しいドイツの伸長に対抗するのは事実上不可能だった。
外交上でもドイツの方が一歩抜きんでており、侵攻に先立ち8月23日、思想上相容れないはずの仇敵とも言える、東の超大国ソ連のスターリンと独ソ不可侵条約を締結。同時にポーランドを分割する密約を結ぶこととなる。
一方、対ソ防共の盟友であったはずの日本では、この同盟はこれまでの日独関係が崩れるものと判断、支那で勃発した事変解決と、ソ連とはモンゴル、満州国境問題に端を発したノモンハン事件が発生したばかりであり、この事態に時の首相、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)は「欧州の事情は複雑怪奇なり」と表明。
これに伴いこれまでの政策を全面的に見直す必要が生じたとし、外交政策が事実上決定する能力を失ったとして、8月28日に平沼内閣は総辞職し崩壊していた。
対してポーランドも、これに対抗するべくイギリスと相互支援条約と独立を保障する文言を発表させることに成功し、正式にイギリスと軍事同盟を締結し、可能な限りの努力を行った。
そして、この日の早朝、世界を巻き込む大戦の火ぶたが切って落とされる。
ドイツ国防軍参謀本部は侵攻作戦、白作戦((ファルヴァイス))を発動。ドイツ東側国境に配備された二つの軍集団はポーランドに雪崩れ込む。主力はポーランド西部中央を正面から突破し、首都ワルシャワに向かう南部軍集団、総司令官はゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将。第8軍、第10軍、第14軍の3個軍、歩兵16個師団、2個装甲師団と自動車化師団を含む部隊である。
これに対抗するのは、西部防衛を担当するポーランド陸軍、ポズナン、ウッジ、クラクフの3個軍、歩兵14個師団と6個騎兵旅団であったが、動員が完了しておらず国境線に分散配置されたままであるため、侵攻してきたドイツ軍に圧倒されることになる。
もう一つは、北側に位置する東プロイセンと北西から侵攻するフェードア・フォン・ボック上級大将揮下の北部軍集団。第3軍、第4軍の2個軍、歩兵13個師団、2個装甲師団、1個自動化師団である。
北側からワルシャワへ最短距離で突入する第3軍、ダンツィヒを含むポーランド回廊に展開するポモルツェ軍6個師団を包囲殲滅する第4軍からなっていた。
これにドイツ空軍、通称ルフトヴァッフェがこれを支援する。1000機のメッサーシュミットBf109を中心とする戦闘機、ハインケルHe111を中心とする爆撃機600機を含む大航空戦力を投入。
戦闘は早朝の空軍による急降下爆撃から始まった。ドイツが誇るユンカースJu87シュツーカが、独特の急降下音を鳴り響かせながら、各地の都市、拠点を容赦なく破壊していった。しかし、ポーランド軍の飛行基地も最優先目標にされていたが、それらは先制攻撃を回避させるために、分散配置されていたことが逆に功を奏し、破壊を免れることができた。
少数ではあったが、旧式機ながら残ったPZL P.11cが反撃に転じ、爆撃機を撃墜する戦果を上げたりしている。
しかし、爆撃で致命的だったのは情報、指揮命令系統の寸断だった。この混乱は中央からの統合的な判断が行えなくなり、部隊単位でしか行動ができなくなってしまった。そして、3号戦車、2号戦車を中核とした、機甲部隊の激しい攻撃が開始され、混乱の渦中にあった前線は崩壊していくことになった。
「前線の状況はどうか?」
北方から侵攻を開始した北方軍集団に属する第19装甲軍団は、ポーランド回廊を横断し敵主力であるポモルツェ軍を分断、包囲するべく北方軍に属する機甲部隊のほぼすべてを指揮していた、ハインツ・グデーリアンは副官に上がってきている報告を求めた。
「は、前線各所で混乱が起こっており、進行速度に若干の遅れがでております…」
「最初からそううまくはいかんか…」
軍備が制限されたヴェルサイユ体制下から、機甲部隊の編制と育成を一貫して行っていたグデーリアンではあったが、それは机上の空論であることは理解していた。当然、起こり得る事である。
小さく溜息を吐きながら、仮設の幕舎を出ていこうとするグデーリアン。
「閣下(ゲネラール)、どちらへ?」
「決まっている。直接前線で指揮を執る」
初の実戦、兵が浮き足立つのはやむを得ない。
「車を回せ。時間の余裕はないぞ」
グデーリアンの命令は、常に凛としたものだった。彼の指導のもと、部隊は順調な進撃を行い、浮き足立ったポーランド軍はなすすべもなく、一個軍が包囲され降伏するという大戦果を献上することになる。
「こんな訓練用の戦車で戦いに臨む事になるとはな…」
大量に配備された2号戦車を見ながら、グデーリアンは自嘲していたが、これらの軽戦車も機動力の恩恵をもたらし、縦横無尽の活躍を見せる。全てが未体験、初の試みであり、後の戦闘への教訓となっていった。
9月3日
日本
帝都東京
永田町二丁目にある首相官舎。前月28日に総辞職した平沼騏一郎に代わって、新たな主として阿部信行(あべのぶゆき)が首相の座に納まっていたが、その前途は多難であった。
「報告します! 重光葵(しげみつまもる)駐英大使から、英国並びに仏国、ポーランド相互支援条約に従ってドイツに宣戦布告!」
沢田廉三(さわだれんぞう)外務次官が慌てた様子で、電文を片手に新たな外務大臣となった阿部に報告を行う。英仏両国はドイツに侵攻されたポーランドを救うことは、道義的義務であるとして世論の大きな後押しもあり、危険を承知で参戦を企図するにいたる。
「……前大戦の再来か」
ぼそりと阿部は呟く。状況としては最悪とも思えた。支那事変の勃発に伴い華北では英国の権益を阻害、米国とも日本の中国侵攻に抗議するとして日米通商航海条約を破棄する旨が伝えられ、これに加えソ連とノモンハン事件まで引き起こしており、周辺列強国と衝突する危険性が内在するものだった。
中国市場への進出を目論む米国は、英国による宥和政策に転じることに対しての牽制の意味を込めて、強硬な姿勢を打ち出しており、支那事変解決に向けての軍事一切の物資の大部分を輸入に頼っていた日本にとって死活問題であり、防共の盟友ドイツがソ連と手を結び、イギリス、フランスと敵対したことは、非常に複雑、理解しがたいものだった。それは平沼と変わらず阿部にとっても同じだった。
「陸軍、そして海軍の意見は?」
会議室に招集していた陸軍大臣、畑俊六(はたしゅんろく)陸軍大将と、海軍大臣、吉田善吾(よしだぜんご)海軍中将に阿部は問いかけた。
「今は支那の事態打開のみに力を振り向けるべきと思います。下手な動きはソ連を動かす要因となりかねません」
「海軍も同じく、場合によっては英米と戦争に発展する可能性もあり、海軍は両国と事を構えるほどの力はありません」
支那、ソ連と両方を相手にできるほどの余力は帝國陸軍にはなく、また海軍も1936年にワシントン、ロンドン両海軍軍縮条約から脱退し、初の海軍戦備計画である超大型戦艦二隻を含むマル3計画が策定され艦隊戦力の整備を開始したばかりであり、とても世界二大海軍と戦闘状態にはいることは不可能だった。ちょうどその頃、海軍の仮想敵国第一位の米国海軍では、第二次海軍拡張法が成立し、激しい軍拡競争が始まっていた。
「重光大使から……」
阿部、畑、吉田の三名が一斉に口を開いた外務次官沢田を見る。
「事は慎重をきするべし、賢明なる判断を、と続きがございます」
長年外交に携わっている者の言は非常に重みのあるものだった。
これを受けて、同日中に阿部内閣は欧州大戦に不介入の方針を正式に発表。極力大陸に関して列強を刺激しない方向に舵を切った。これによって対独同盟強化は立ち消えとなる。
しかし、この方策に従う事を良しとしなかった者達がいた。かつては権勢を誇った艦隊派の影が見え隠れしていた。
しかし、この動きを歓迎する者達もいた。非戦派、元海相、米内光政(よないみつまさ)海軍大将、海軍次官、山本五十六(やまもといそろく)海軍中将、軍務局長、井上成美(いのうえしげよし)海軍少将の三人だった。マスコミからは海軍左派三羽鳥と言われていた。
霞ヶ関海軍省
「山本さん、とりあえず有事には至らずに済みそうですな」
海軍省二階に位置する応接間を訪れていた井上は、対峙する山本に切り出した。
「ああ、一応は、な。吉田(海相、海兵同期)にも口をすっぱくして言っておいたからな……」
茶をすすりながら、英仏対独宣戦布告欧州大戦勃発と大きな見出しが書かれた号外を眺めながら、井上を見ることなく返した。
「防共という観点のみで対独協調は意義を成しますが、それ以上の深入りは致命的な事態となります」
「わかっとるよ井上君。しかし、君も気を付けた方がいい。三国同盟の芽は摘まれたが、どちらに転ぶか見当もつかん」
平沼内閣辞職により、日独にイタリアを含めた三国同盟を結ぶべきであるとの論調が、国民の間で蔓延し右翼、陸軍からクーデターを臭わせるほどの圧力が加えられたが、その動きは一時的に鎮静化していた。
英米との対立を海軍としては、絶対に避けたかった。ソ連と支那という後顧の憂いが無くても勝利する見込みは皆無であると言わざるを得なかったが、国民や陸軍、海軍内の若手の目からは、山本らは弱腰に映った。
だが、海軍はそう主張しながらも、米国を仮想敵国として戦備の増強に余念がなかった。
「私はこの機に、中央を離れようかと考えております。中央で陸軍とやり合うのもここらへんで潮時でしょう」
井上は、軍務局長を務めた二年間を日独関係問題におわれ、成果らしいものを挙げることはできなかった。
「いつも苦労を掛けてすまん」
山本は静かに頭を下げた。阿部内閣発足とともに、海軍次官から連合艦隊司令長官に輔された山本の心境は、決してよいものではなかった。
山本が実戦部隊の指揮にあたるため呉に向かった後、井上が海軍省から前線である支那に赴くのは、一カ月程後の事だった。
ドイツ軍の進撃は容赦なくポーランドの国土を侵食していった。
作戦案では南部軍集団、ヴァルター・フォン・ライヒェナウ砲兵大将率いる第10軍に属する装甲師団を主攻として、ポーランド南西部から中央を突破。
ヴィルヘルム・リスト上級大将の第14軍を南東方面に展開し、ワルシャワ南南東に位置するクラクフへ向け前進。
ヨハネス・ブラスコヴィッツ歩兵大将の第8軍が、正面に展開するポズナン軍を攻撃し、一部はワルシャワ西に位置するウッチを目指し攻勢をかけた。
間違いなく装甲部隊を擁する第10軍がその中核であり、それを中心に据え右翼を第14軍が、左翼を第8軍がそれぞれ担当する形で、ポーランドを西から切り崩した。
各軍の目的は、可及的速やかなる進攻をもって前線のポーランド軍の撤退を許さず、これを包囲殲滅する事を第一目標とする殲滅戦理論によるものだった。ワルシャワの手前には大河であるウィスワ河が横たわっており、このラインに防衛線を構築された場合、いかに強力な機甲部隊を持ってしても、相応の時間がかかることは必定であり、それはすなわち後方であるフランスからの侵攻の可能性を増大させる。
ドイツ軍にとって第一次大戦の悪夢である、二正面戦の再来となる。
ポーランド軍もそれを期待し、全力で撤退を開始。しかし、必死の後退を続けるポーランド軍を嘲笑うがごとく、その道筋は閉ざされる事となる。
迫りくるドイツ軍の攻撃を躱しつつウィスワ河を目前に残存軍の集結を図ったウッジ、ポズナン、クラクフの各軍であったが、ドイツ陸軍が誇る名将、南部軍集団参謀長であったマンシュタインが、当初有力な機甲戦力を有する第10軍が迂回して最速でウィスワ河に到達したのち、北上し包囲を完成させた後、ワルシャワを攻略する計画を変更し、東へ後退しようとしているポズナン軍にその矛先を転じたことにより、前方から逃げ道をふさがれその抵抗は封殺されたまま、包囲に加わった第8軍、第4軍に挟撃を受ける形になり一個軍が壊滅、捕虜8万を超す大敗をポーランド軍は喫する。
これによってポーランド西部に展開していた主力部隊はその戦力の大半を喪失し、騎兵を用いた機動戦術によりソ連赤軍に勝利したウィスワ河の奇跡の再現の可能性は、事実上消滅した。
「マンシュタイン、君の作戦勝ちだ。これでワルシャワは丸裸となった」
南部軍集団司令部で、司令官ルントシュテットは参謀長マンシュタインの手腕を称賛した。
「敵軍の殲滅は最優先事項。状況を鑑みそれを提案したものに過ぎません。一番の戦功は、それをいち早く決断し実行に移された閣下にあるべきです」
マンシュタインは冷静な口調で自分に対する評価を否定した。
「そう謙遜するな。君の献策が無ければ、これほど早く西部一帯を手中に収めることは叶わなかっただろう。後は残敵を掃討し首都を攻略することによって、この戦闘の幕を下ろせる」
当初、想定されていた最難関を突破することが時間の問題となり、北部軍集団の一部は8日にはワルシャワ郊外に到達し、包囲戦が始まっていた。
しかし、首都が攻撃に晒されても、ポーランド政府に降伏する意思は微塵も無かった。
ポーランド軍は予備役将兵、市民までをも動員し徹底抗戦の構えを見せ、市街戦を想定し、対戦車壕、障害物によるバリケードの構築など周到に準備されており、初回の攻撃を仕掛けた第4装甲師団は巧妙な迎撃により大損害を受け後退した。進攻方向が限定され視界も利かない中、至近距離から重砲を含めた精密な射撃を受けてしまえば、いかな戦車といえども被害を受けてしまう。
当初、200万の市民を擁し、外交官多数がいるワルシャワに対しての空爆は限定していたが、この事態に接し、首都攻略の遅れにより後方から英仏両軍の介入を恐れるヒトラーは、16日に一日の猶予を与え無差別爆撃へと方針を変更した。この時、仏独国境には独歩兵34個師団、仏45師団が配備されていたが、ドイツ国防軍は英仏両軍の戦力を過大評価しており百個を超える師団が臨戦態勢にあるものと考えていた。
その頃、ソ連首都モスクワでは、ハルハ、ノモンハン事件の事態収拾のため、駐ソ大使東郷茂徳がソ連外相モロトフと交渉中であったが、ソ連軍が作戦行動中であることはおぼろげながら把握していたが、詳しい状況を知るまでには至らなかった。むしろ東郷にとっては、この機に乗じ悪化しつつある日ソ関係を修復しながら、支那事変の解決へ向けて働きかけようとする向きがあった。
その翌日、状況は一変するが、それはポーランド政府にとってのものだった。
明くる17日、ソ連労農赤軍が主力とするT-26軽戦車、BT-7快速戦車多数を含む大部隊が侵攻を開始したのである。防衛する側に十分な戦力は残されてはいなかった。
「ソ連赤軍東部国境を突破し侵攻を開始!」
前線からの報告は、ドイツ軍の攻勢にさらされていた首都ワルシャワにも直ちに伝えられた。
これにポーランド政府は大混乱に陥った。北部より進行中のドイツ第3軍がワルシャワの東に到達し、ワルシャワ包囲が完全になりつつあるなかで、残存軍を取り纏め南東部要塞地帯であるルーマニア橋頭堡に後退し持久戦を行い、英仏両軍による支援を待つ予定であったが、ソ連ウクライナ、ベラルーシ2個方面軍約80万の戦力が突如侵攻してきたことにより、その計画が一瞬にして崩壊した。
「この事態を招いたのは不甲斐無い私の責任だ……」
そういって、1926年からポーランド大統領を務めてきたイグナツィ・モシチツキ以下の閣僚は辞意を表明。英国と相互支援条約を結んだ外相ユゼフ・ベックもルーマニアへの脱出を図る事となる。
ポーランド軍最高司令官ルィツ・シミグウィ元帥は、国土防衛は不可能であるとして東部国境守備軍に対しては、ソ連軍に抵抗する事を禁じ、全軍に対し国外の脱出を指示、ポーランドの再興を計画したのであった。
かつて東欧に林立した国家群の中にあって、異彩を放った強国は東西からドイツとソ連の挟み撃ちにより止めを刺されることになった。
東から侵入したソ連軍に対して、ポーランド軍の抵抗はあってないようなものに等しく、わずかばかりの反撃を抑えながら、ソ連軍は西へ西へと進撃していった。
「報告。我が軍はナレフ河までの進出が完了。ナチスの狗どもの顔を拝める位置まで到達した」
ソ連首都モスクワ、クレムリン内にあるカザコフ館。赤の広場を臨むことのできる書記長室。ロシア帝国時代の元老院の中にある一室であり、豪奢な意匠の室内に報告の声が響く。
「それは結構、同志シャポシニコフ。これで19年前に受けたウィスワの雪辱をはらせるというもの……」
報告したのはソ連赤軍参謀総長ボリス・シャポシニコフ。報告した相手は冷血無比の(鉄の男)と渾名されるヨシフ・スターリン。ボリスの報告に、スターリンは喜びの色を浮かべ、呟くように言った。
19年前、1920年ソ連ポーランド戦争において、ユゼフ・ピウスツキの電撃戦の原型とも言える大胆なポーランド軍の機動戦略により、当時政治委員として参加していたスターリンの予想を裏切る大敗北を赤軍にもたらし、ソ連はその後のリガ平和条約により国土をポーランドに奪われ、スターリンは軍事的無能さを非難され打ちひしがれた過去を持っていた。
「ボリス、占領地における政策についてだが、今のうちにこれだけはいっておこう」
この男の命令で心が痛まなかったことはない。スターリンが敬愛の対象としていた大粛清を生き延びた、ソ連軍の頭脳とされたボリスにとっても、失敗は死に直結すると内心恐怖していた。
「ポーランド軍の捕虜となった将校は全て…、始末せよ」
ポーランド軍の抵抗が終わったのは、10月4日のことであり、ポーランドはドイツ、ソビエトの二大国によって分割占領され消滅したのである。
ドイツはこれにより、ポーランドが保有していた最大の工業都市ウッジを中心とした工業地帯の7割と、更に食料の生産に適した西部一帯を手中に収めることに成功。
予定通りの進撃に、ドイツ首都ベルリンは歓喜の中にあった。
「我がドイツは見事に勝利した! 我々の前には栄光の道が続いているのだ!」
自らの掲げる、東方生存権の拡大を果たしたヒトラーにとっては大きな自信を得る結果となり、勝利演説を聞く国民の熱い声援は更にそれを後押しした。
ちょうどその頃、日本岐阜県、各務原(かかみがはら)飛行場。
ここに新たなる銀翼を持つ機体がプロペラを回転させ飛び立つ時を待っていた。
「これが十二試艦戦、ですか?」
陸軍の航空基地のはずだったが、声を発した人物はカーキ色の陸軍服ではなく、黒色の二種軍装に身を包んだ海軍の人間だった。
「そうだ武雄さん。あなたの要望を可能な限り盛り込んだ最新鋭機。欧米機に見劣りしなかったあの九六式を超える機体だ。海軍さんが無理を押し通すもんですから、相当苦心しましたがなんとか要望通りの機体に仕上げる事ができましたよ」
この機体の性能要求時に、海軍呉鎮守府参謀、柴田武雄(しばたたけお)海軍少佐と十二艦上戦闘機設計主任、堀越二郎(ほりこしじろう)の二人だ。この機体の開発にあたり意見聴取した間柄である。その聴取に際し、堀越の何を優先させるべきか?の質問に、もう一人が旋回性能と答えたのに対し、自身の経験から航続力と速力と答えたのだった。
そして、もう一人。
「しかし、高等技術会議議員のお偉いさんがどうしてこんな場所に?」
不思議な様子で堀越は武雄に尋ねた。階級を示す肩章は、最高位を示す海軍大将。こんな場所にいるはずがない人物だった。
「まあ、暇なお方ですからね。私もあの人も海軍内じゃ(嫌われ者)ですから…。惜しい人ですよ、海軍航空の発展はあの人の主導がなければいけないんですから。実権を失ってからは退化したんじゃないかと思ってしまいますよ」
自嘲するように武雄は応えた。それを知ってか知らずか、その男の眼は飛び立った機体を凝視したままだった。
味方からは鬼、敵からは悪魔、冷血非情な事から人でなし、異常者とまで後に呼ばれることになる提督がそこにはいたのである。
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1939年、ナチス・ドイツ軍ポーランド侵攻。
世界を巻き込む二度目の大戦の幕開けである。
不穏な世界情勢は、大日本帝國を否応なくその大戦の渦中へと引き込んでゆく。
その場にあった人々は何を思い、何を選んでゆくのだろうか?