No.744457

- Eye -

さん

前に書いた同名の作品を書き直したものです。

とは言ってもまだ書ききれていないところもあるので、機会があればまた書き直して投稿するかも……。

2014-12-19 17:53:23 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:790   閲覧ユーザー数:788

 

 初めて彼女を見た時、俺は幼い頃に死別した姉さんの姿を思い出した。それまでは記憶の奥底に沈んでいたはずなのに、どうして思い出したのか初めはわからなかった。顔立ちや体格、声も違うのに。けれど……彼女を見ているうちに何となく雰囲気が似ているような気がした。弱々しく、道端を歩いていても見逃してしまいそうだけれど、素朴な可愛らしさのあるカスミソウのような、そんな可憐な印象を受ける。病状を説明する俺の話を聞いて不安に顔を曇らせる母親の手を彼女は包み込むように握り、穏やかな表情で話を聞き続けている。その様子が記憶の中にある姉さん――毎日のように病室に来ていた幼い俺に微笑を向けている姿と重なる。

 

 懐かしさと哀しみが入り混じった胸中を悟られないように努めながら、俺は二人に説明し続ける。彼女を蝕んでいる症状と原因になるものが今の医学では解明しきれないもの。まだ、十代でこれから青春を謳歌するはずの彼女に進学の道を諦めさせ、いつ終わるかもわからない入院生活を送らせること。進行の具合によっては命を脅かす危険があることなどを。

 

 説明を聞き終えた彼女は今にも泣き崩れそうな母親に俺と話がしたいから席を外してくれないかと願い出る。娘と俺の顔を交互に見た母親は唇を噛み締め、無言の会釈で診察室を出ていく。閉じた廊下の先から微かな嗚咽が聞こえ、俺の心に突き刺さる。

 

「先生……私の病気、治るかわからないんですよね?」

 

 その言葉は真剣なもので憐れみなどで嘘を吐くことを認めない響きを帯びていた。

 

「ああ。さっきも言ったけれど、君の病気は初めて見るものだ。珍しい病なのか、それとも色々な病が重なって引き起こしているものか、それもわからない。だから――言わせてくれ君の命を俺に預けてくれないか。治せるかどうかわからない、だけど最善を持って君に尽くさせてくれ」

 

 だから、俺も心情を吐露し、頭を下げる。医者として彼女を助けたいだけではない。遠い昔に何もできずに病で苦しむ姉さんを助けられなかったこと、その償いもあった。

 

 沈黙が室内を満たす。彼女のレントゲン写真を照らす投影機のジジジ、と安定の唸る音が煩わしい。伝えることを全て言い切った俺は彼女の言葉をただただ待つ。

 

「わかりました。先生……よろしくお願いします」

 

 静かに答える彼女、だけど俺は見た。膝の上に置かれた雪のように白い手が微かに震えているのを。硝子細工のように儚く、砕け散ってしまいそうな彼女の手を握る。はっと顔を上げる彼女に向けて「こちらこそよろしく」と告げる。

 

 ――絶対に、この子を助けてみせる。

 

 彼女の姿を目に焼き付けながら俺は固く誓いを立てた。

 

   ○

 

「う……ん……」

 

 朦朧とした意識の中で目が覚めた私が感じたのは、頬や手の平から通して伝わる氷のような冷たさだった。どうやら俯せになっていたらしい、気怠さに包まれた今の私にはコンクリートの床の硬さが心地良かった。けれど、意識がはっきりするにつれ、金属の輪っかを嵌められたかのようなギチギチと締めつける頭の痛みが私を襲う。

 

 ――ここは……何処なんだろう?

 

 周りを見ても真っ暗で、閉め切っているにしても隙間から月明かりや電灯などが差し込んでこないところを見ると、窓がないのか何かで塞いでいるか。暗闇の世界に私は一人そこにいた。どのような経緯を経てこうなったのか、曖昧な記憶の糸を手繰り寄せる。はっきりと覚えているのは……そうだ、会社の同僚と居酒屋で年末が忙しいからということでちょっと早めの忘年会という形で酒を飲んでいた。七時ごろから飲み始めてその後、何件か梯子をして……うん、電車も終電を過ぎたあたりでお開きになったんだ。タクシーも捉まらなくてほのかに照らす夜道を一人歩いていたところまでははっきりと覚えている。

 

 ――それから、えぇ……と、うん。歩いていくにはそこそこの距離があったから普段使わない道を通って近道をしようとしたんだっけ。でも途中で疲れて……そこで誰かに会ったような気がするけど……。

 

 辿れたのはそこまででそれ以上を思い出そうとしたところで、さっきから苛んでいる頭痛がより一層酷くなったため中断される。加えて体に残っている酔いが再び回り始めて鉛になったかのように体は重く、立ち上がることはとてもできそうになかった。無理をすれば歩けるだろうけれど、転んで怪我をする恐れもあるし、何よりここがどこなのかいまだに見当がつかない。判断した私はヒントになるようなものがないかを調べるために、軽く周囲に手を這わせて危険なものがないことを確認して体を起こす。昔に体育の授業でマラソンをしたことがあるが、あの時に感じた以上の疲労感を得ながらどうにか起き上がれた私はさっきの手探りで背後に壁があることがわかったので背中を預ける。少しずつ暗闇に目が慣れてはきたけれど、それでも光が全くないので目を凝らしてみたところで、暗闇にぼんやりと浮かぶ輪郭程度にしか捉えることができない。それでも視線を巡らせてみたところ私から見て右に二メートル離れたところが突き当りらしくそこから部屋の奥向こうまで戸棚が敷き詰めるように並んでいた。ガラス製らしい扉を透かして中の物――ビンだろうか、それが大小様々な大きさでいくつも収められているのが見える。視線を奥に向けようとするが三メートルもないところにベッドのようなものがあり、それが邪魔で向こう側を見ることができなかった。ベッドだとしたら、この部屋は何だろう? 寝室や休息所のようにはとても見えない――そんな疑問を持ちながら今度は左側を見てみると、こちらは一メートル程度で突き当りにぶつかる。そちらには反対側のように棚が並んではいないようだが、代わりに二段式の移動式ラックのようなものがあり、上段にはモニターのようなものが、下段にはおそらくそれに繋がっているものだろう幾本ものケーブルが蛇のように絡まっている。見てわかるのはこのぐらいだ。あれこれ気になるものがいくつかあるけれど、先程から気になって仕方がないのが一つある。つんと鼻を刺激する臭いが室内を満たしているのだ。覚えがないはずなのに、私はこの臭いを知っている。思い出せればここがどこかわかる手掛かりになるだろうけれど、痛みと酔いでぼんやりとした頭はまだ満足に働けそうにない。それでも色々な可能性を思いついては今の状況や状態など消去法で潰していく中、私はある考えに至る。

 

「まさか、ね……」

 

 それはここ最近巷を騒がせているもので若い女性が連続して行方不明になっているものであった。共通するのは十代から二十代の女性が主でそれ以外は性格や体形、生活環境もてんでバラバラだ。初めにニュースが流れ始めたのが一カ月前だけど、報道の内容では一連の行方不明を同じ犯人が行っているのだとすれば、その時点で二十名以上が連れ去られているのだという。隣町で起きている事件ではあるが、近くだということもありこの町でも毎日のように見かける警察の必至の操作も実を結ぶことはなく、行方不明者の数は日に日に増していく。住民の間では金がなく餓えた浮浪者が集団で襲っては人肉を食んでいるだったり、暴力団が女性を薬漬けにして海外に売り飛ばしているだったり、カルト集団が悪魔召喚の儀式の生贄にするために攫っている……など、根も葉もない噂があちこちから立っていた。

 まさか、それに自分が巻き込まれたのではないのか? 暗い部屋の中、閉じ込められた女性は不安と恐怖に怯えながら体を縮みこませる。そうしていると、暗闇の向こうから人の気配がして――、

 

「はぁ……はぁ…………い、いや……そんなこと、ないわよ……ね……」

 

 ――そうだ、こんなのは質の悪い夢に決まっている。きっと飲みすぎたせいで変な夢を見てしまったんだ……だから、だから夢なら夢なんだから早く醒めてよ……お願いだから夢なんだから夢だから夢だから夢なんだから夢夢夢、ユメ夢夢ユメ夢夢夢ゆめゆめユメユめユメゆめゆメゆめゆメユメ夢ユメゆめユめ夢ゆめ夢ユメユメユメ――!!

 

 暗い部屋の中で一人、不安と恐怖、孤独感に襲われる私の中を同じフレーズが壊れたレコードのように延々と再生され、侵食していく。

 

「ひっ……!」

 

 狂いつつあった意識を現実に引き戻したのは、それまで静寂だった空間に靴の音が響き渡った。カツン、カツンと床を踏みしめる硬い音がだんだんと大きくなり、それはこちらに近づいてきているということを教えてくれる。もしかして誰かが私が連れ去られているのを見て警察に通報して捜査員がここまで来てくれたのだろうか? この暗闇で変になりそうなのに、これ以上の恐ろしい出来事に遭ってしまったらと思うと、実際にあるとは思えないあまりにも都合の良すぎるる展開に藁にも縋る思いだ。響く靴音に恐怖は増し、堪らず叫んでしまいそうなのを口元を両手で抑え込むことでどうにか抑え込む。靴音は私のいるこの部屋のすぐ外まで来るとそこで止む。息を呑んで見つめる先、錆びついた金具が悲鳴のような音を上げ、扉が開いていく。

 

「うん? 目が覚めたようだね、気分はどうだい?」

 

 年若い男の声が私を気遣ってくる。含みを感じさせない穏やかな声は私を知っているようだけど誰だろう?

 

「ああ、暗いと僕が誰かわからないね」

 

 そう言うと、声の主は壁に手を伸ばす。すると暗かった室内は一瞬で白光で満たされる。暗闇に慣れていた私の目は眩しさに耐えられず、顔を背け硬く目を瞑る。

 

「ごめんごめん、電気をつけるから気を付けてっていうのを忘れてたよ。無理に開けようとしないで――はい、これを飲んで」

 

 私のすぐそばに来た彼は笑いを堪えた声で言うと私の手に液体の入ったペットボトルを握らせる。その頃には目の前の男性が誰なのか完全に思い出すことができた。見知った人だという安心感でペットボトルに口をつける。からからに乾いていた校内を潤していく、水の冷たさが心地良くどんどんと流し込んでいく。異性の前だというのに喉をごくごくと鳴らしてしまいはしたないとは思うけれど止められない。あっという間に空にしてしまった私は、ほう、と一息を吐く。

 

「落ち着いたかい?」

「はい……あ、あの……『先生』……? 私、どうしてここにいるんですか?」

 

 だいぶ頭がすっきりとした私は答えを知る目の前の人物に問いかけながらも、この状況はやっぱりおかしいと感じていた。もしも怪我を負ってここに運ばれたのなら、床の上ではなくベッドの上に寝かされるのではないのか? 酔っ払った私を介抱したというのであれば、ここに連れてくる必要はない。

 

「先……生……?」

 

 呼ぶ私に先生は笑みを浮かべるも何も言わず、スチール棚を開けて瓶を一つ取り出すとポケットから取り出したハンカチに縁を傾け、液体を染みこませていく。シミの広がったハンカチを確認すると瓶に蓋をし、棚に戻す。そうして私に再び歩み寄ってくると『先生』はハンカチを私の顔に押し付けてきた。

 

「んぅ――っ!?」

 

 呼吸を塞がれ、暴れる私を『先生』は放さない。恐ろしいのはこの状況でも『先生』は笑みを崩していないことだ。命の危機とは違う得体の知れない恐怖から逃れようともがき、酸素を求めようとハンカチ越しに息を吸い込んだ途端、目の前の景色が大きく歪む。

 

「え……あ、あぁ……」

 

 思考がどろどろに溶かされていく。自分が何を考えていたのかもわからなくなっていく。感覚も曖昧になり指先に力が入らない。

 弛緩した私の体を『先生』はベッドへと運ぶ。頭上から降り注ぐ照明は泥酔したような気持ち悪い今の私にさらなる追い打ちをかける。

 

「うっ……く、うぅ……や、めて……」

「ごめんな。だけど、俺にはこれしかないんだ……」

 

 上下左右に揺れる意識の中でどうにか言葉にできた拒絶の意思を、けれど『先生』はその望みを叶えてくれなかった。彼の右手には照明を浴びてギラギラと輝くナイフが握られているのが見え、その先端は私の顔に向けられていた。

 何をされるんだろう――思った私の意識は限界に達し、奈落の底に一気に引きずり込まれる。音も光も感じない静寂の世界、母親の胎内にいる赤ん坊もこんな感じなんだろうかと思うほどに心地良く、さっきまで感じていた気持ちの悪さは吹き飛んでいた。不安や恐怖を感じない安心感に包まれていると、ぶつんと千切れる音がどこか遠くから聞こえたが一瞬のことで耳を澄ますが、何も聞こえない。疑問符が浮かぶけれどすぐにどうでもよくなった私は眠気に誘われ、抗うことなく暗闇の中で目を瞑った。

 

 

 終戦から二十年余りがたち、荒廃した台地だった場所は今ではその面影を感じさせないほどに家やビルが立ち並んでいた。夜にもなれば家々には星空よりも輝く明かりが灯り、近づいてみると学校で起こった出来事を楽しそうに話す子どの声や普及の進んだテレビに齧りつき、中継されている野球の試合展開に一喜一憂する中年男性のダミ声が聴こえてくる。戦争を経験したかつての子供たちは大人となり、戦火に怯えることのない生活に安心していた。父親は家族の為に働き、母親は子供の幸せを願い育てていく。そして子供たちは親の愛を一身に受けながら成長し、野球選手やアイドルに憧れ、育ててくれた父親の仕事を継いでいきたいなど様々な思いを抱えていた。生活に困る時もあるがそれでも誰もが生きている実感を感じ、幸せに満ち溢れている――そんな時代だった。

 

 平和を象徴するような生活を送っている日本、その中心となる東京からやや離れた地方、都会と比べると豊さには欠けるが、町民全員が一つの家族のように互いに助け合って人の温かさが感じられる街の一角、小さな病院に俺は勤めていた。専門は外科医だが、地方の小病院であるここには俺と院長の二人しか医者がいないため、必然的に内科の患者も診ることになっている。まあ、この辺りで大きな怪我を起こすようなものはほとんどないので、訪れるのも大概は飲みすぎや二日酔い、ちょっとした切り傷程度の人ばかりだ。俺がここで勤めてからの五年、初めの頃はどう接したらいいのかわからなかった俺をまるで家族のように気さくに話しかける町民のおせっかいさに戸惑いもしたが、それよりも温かみを感じさせた。今では元気になった患者に誘われては退院祝いと称して居酒屋に飲みに行ったりもするほどだ。

 

「先生、いつもいつもすまねえな」

「はいはい。それよりいつも言ってますけど、あんまり無茶しないでくださいよ」

「わかっちゃいるんだけどな……うちの若いのがもう少し使えるようになりゃ、俺もゆっくりできんだけどねぇ……」

 

 齢七十を数えるも未だ現役の大工として腕を振るう源さんだが、その体は老化によりだんだんと怪我が増え、続けたい本人の意思も尊重したいが、医者としてそして俺個人としても大事になってしまう前に仕事を辞めてほしいところではある。

 

「――と、すっかり話し込んじまったな。それじゃ先生、ありがとな」

 

 立ち上がり皺くちゃの顔を笑みに歪めた源さんは手を振り、診察室から出て行く。全く……どうしたものやら。

 看護婦に胃薬と塗薬の処方箋を渡した俺は時間を確認する。時計の針はちょうど正午を指し、看護婦に聞くと午前の診療は源さんで最後だった。昼休みに入ることを告げ、昼飯の入ったビニール袋を持って席を立つ。向かう先がわかるからか俺を見る看護婦の笑顔はどこか含みがあるように見えるが気にしないでおこう。

 入院患者に運ぶ昼食の入ったカートから一人分の食事の入ったトレイを受け取った俺は、目的の場所を目指し院内を歩く。途中、擦れ違う患者や見舞い客と挨拶を交わす。笑顔で返してくれる人の顔に医者として快く思うが、それも歩を進めるごとに苦しさに変わっていく。人を救う反面、人の死ぬ瞬間も見てしまうために助けられなかった人々の最後の顔が忘れられず、たびたび思い出し、その都度心が軋んでいく。

 

「ふぅー……」

 

 いけないな。彼女に会うのに落ち込んでては駄目だ。髪をがしがしと掻いて気を紛らわせる……よし。

 病室の前に立った俺は扉を軽くノックする。

 

「はい、どうぞ」

 

 控えめな女性の返事に心が浮つくのを感じながら扉を開く。病院独特のどこか人を拒絶するような静寂さとは違う、室内にいる人を優しく包み込んでくれる暖かさのある空間だ。視線の先、ベッドに体を起こしている少女は入ってきた俺に柔らかな微笑みを向けている。

 

「やあ、和葉ちゃん。調子はどうかな?」

「こんにちは先生。はい、今日も落ち着いていていますよ」

「そうか、それはよかった」

 

 彼女の体調に安堵の息を吐いた俺は、ベッドの脇の椅子に座り彼女の手を取る。ほっそりとした手や腕は陽の光を浴びる機会が少ないために雪のように白く滑らかなものだが、枯れ枝のようにちょっとでも強く握ったら簡単に折れてしまうのではないかと思わせる程に弱々しいものだった。三年にもなる入院生活は元々丈夫ではない和葉ちゃんの体を確実に弱らせていた。

 

「そういえば今日はずいぶん暖かいですね。ここ最近は肌寒かったので、気持ちがいいです」

「ああ、もう春になるからな。予報だと二、三週間ほどもすれば開花するって出てたから病院裏の桜の木も花開くだろう」

「そうなんですか……あ、あの……先生……桜が咲いたら、なんですけど……」

「いいよ、連れてってやる。ただし、無理はさせられないから、体調には気をつけてくれよ?」

「はい! ありがとうございます」

 

 笑みを深くした彼女は俺の手を握り返す。

 

「さて、それじゃあ和葉ちゃんお昼ご飯にしようか。今日は筍ご飯と鯏の味噌汁だよ」

 

 彼女の手に温かな茶碗をあてる。筍の香ばしい匂いは俺の胃にまで刺激し、油断するとお腹が鳴ってしまいそうだ。

 

「良い香りですね」

 

 ご飯の温もりと匂いに、先ほどとは違った笑みを浮かべる。

 

「和葉ちゃん。口を開けて」

 

 スプーンで掬った出汁の染み込んだ米を彼女の口に運ぶ。躊躇いがちに開かれた薄桃の唇にそっと当てると、異性で、それも年上の俺に対しての恥ずかしさがあるんだろう、おずおずといった様子で彼女は食事をしていく。前に他の看護婦に食事を食べさせようかと聞いたが俺がいいとのことでこの状況が今でも続いている。まあ、この病院では俺が一番彼女と年齢が近いからだろう。

 

「ご馳走様です。今日も美味しいご飯、ありがとうございます」

「それは何より――と、ちょっとごめんよ」

 

 和葉ちゃんの口の端についた汚れをティッシュで拭う。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 頬を真っ赤に染めて俯く和葉ちゃんに自然と口元が緩んでしまう。本当に可愛いな。

 

「どういたしまして、と俺も昼飯を食べるとするかな」

 

 持ってきたビニール袋から梅の入ったお握り二つとペットボトルのお茶を取り出して簡単に済ませる。もう少し欲しいところだが、緊急の呼び出しがあった時などを考えると我慢するしかない。

 

「いつも思うんですけど、先生のお昼ご飯って凄く質素ですよね」

「何があるかわからんし、それに昼ご飯作ってくれる彼女もいないからな……とりあえず、お腹に入ればいいやって思ってたらこうなってしまってな」

「もう、先生ったら」

 

 くすくすと笑う彼女の頭をガシガシと撫でる。嫌がる素振りは見せず、逆にもっとしてと言わんばかりに俺に頭を委ねる。

 

「――先生」

 

 不意に和葉ちゃんの表情が曇る。

 

「……なんだい?」

「私……ちゃんと、ここにいますよね……?」

「ああ、和葉ちゃんはここにいるよ。俺も君の隣にいるよ」

 

 俺の返事に安堵の微笑みを浮かべるも、その瞳の色はわからない、比喩的な意味だけではない。包帯で幾重にも巻かれた彼女の視界は暗闇の中に閉ざされていた。

 

 二年前、母親に付き添われ病院に診察に訪れた彼女は目の前の景色が濃霧の中にいるような白く曇って見えると言っていた。話を聞いてみると、その前にも霧が掛かっているように見えることがあったというが、その時は目を擦ったり、洗ったりすれば治まったことから単なる疲れだと思っていたらしい。

 診断をしたところ、彼女の目の前に当てた指を左右に動かしてみても瞳は揺れず、光を当ててみても瞳孔が閉まったり眩しさに目を瞑る動作を行ったりはしなかった。白内障かと思ったが、彼女の症状はそれに当てはまるものではなく、瞳にも白い濁りは混じっていなかい。病名がはっきりしない点と今後どのようなことが起きるのか分からず、日常を送るには厳しいと判断された和葉ちゃんは最後の中学生活を後半年も残した状態で終わることとなってしまった。

 

「それじゃあ後で麻衣さんが点滴の交換に来るからね」

 時間はあっという間に過ぎ、昼休みは終わりに差し掛かっていた。

 はい、と答えるが寂しそうに俺を見上げる彼女の頭を優しく撫で、病室を後にする。廊下を歩きながら彼女の表情を思い出す。俺の話に耳を傾け、楽しそうに笑い、からかうとむっとし、けれど頭を撫でると子猫のように俺に頭を預けもっと撫でてくださいと甘えてくる。万華鏡のようにころころと変わる彼女の色々な表情、色々な和葉ちゃんを俺は見ることができるが、彼女はそれができない。視線を窓の外に向けると、病院の設立記念に植えたという桜の木が立派に聳え立ち、枝先の蕾は今にも花を開きそうだった。

 今年も彼女にこの景色を見せられないのか……。

 窓ガラスに映る俺の顔は先程まで和葉ちゃんに向けていた笑顔はなく、焦りと理不尽さ、疲れが浮かんでいた。

 アメリカから流れてくる医学は日本より一歩二歩どころか百歩二百歩も進んでいるが、最新の医学書には彼女と同じ症例、関連しそうな病気の記載もなかった。それならと設備の整った都会の大学病院や有名な病院に和葉ちゃんを転院させてもらえないかと何度か打診してみるも向こうは検討してみるというが、最終的な答えはいつも受け入れることはできないの一言。曖昧にはぐらかすが理由は明白だ。治療法の見つからない患者を手元に置いて万が一の事態が起こってしまった時に評判が落ちるのを避けるためだった。評判や権威に固執する体制はどの時代、どの職業にもあるが、前例主義が特に色濃い日本は病に苦しむ一人の人間に救いの手を差し伸べることはなかった。

 それならばとアメリカの病院に転院するのはどうかと考えてはみたが、金銭の問題が立ちはだかり、それをクリアできたとしても異国の地で過ごすということが和葉ちゃんに精神的な負担を与えてしまう。

 症状は今は落ち着いてはいるがそれもいつまで続くのかわからない。近しいと思われる病気の治療法や漢方など試すも効果は現れず、ただただ時間だけが過ぎていく。五年経っても現状のままか、明日には急激に悪化し、二度と光を見ることができなくなるのか、不安は常に粘ったい泥のように俺に付き纏う。俺でそれなのだ。和葉ちゃんはそれ以上に恐ろしさを感じているはずだ。時折見せる悲しみを拭い去ることができない自分の無力さが悔しい。

 

「と、寒くはないかい?」

「大丈夫です。ちょうどいい具合です」

 

 予報通り、満開になった桜を見に、俺と和葉ちゃんは桜並木を歩いていた。包帯を巻いた和葉ちゃんの手を引いて歩く俺の姿は目立ち、町の人から見られ、声を掛けられたりもするが、それは好奇からのものでなく、一人の人間として和葉ちゃんに自然に接し、また来てくれよと見送ってくれる。この町の変わらない暖かさは彼女を孤独にすることなく、とてもありがたい。

 公園のベンチに座り、途中、移動販売の焼き芋屋から買った芋を食べることにした。革を半分向いた芋を和葉ちゃんに握らせると彼女の顔は綻び、一口一口をとても美味しそう食べていた。印象として大人しさが強いが、こういうところはやはり年頃の女の子なんだなと感じさせる。

 

「慌てて食べると喉が詰まるぞ。ほら、お茶を飲んで」

 

 手渡すと、それまで夢中になって食べていたことが恥ずかしくなったのか赤らめた顔をぷいと俺から逸らす。笑いが込み上げてくるがここで笑ってしまって彼女の機嫌を損なうことはしたくなかったので吹き出しそうになるのを堪える。

 

「……先生、笑いたかったら笑ったらいいじゃないですか」

 

 見えなくても気配は伝わるもので、振り返った彼女は恥ずかしさ七割、怒り三割といった具合だった。

 

「いやいや、和葉ちゃんが可愛くてつい、な」

「か、可愛いって――もう! そんな言葉で誤魔化さないでください!」

「痛い! これはさすがに痛いから!」

 

 俺の頬を抓る指にぎりぎりと力が込められる。痛みを訴え続ける俺をたっぷり二分抓り続けた和葉ちゃんはようやく手を離してくれた。ひりひりといたむ頬は酷く赤らんでいるだろう……周りから聞かれないことを祈ろう。

 機嫌取りに必死になり、今度彼女の好物である蜜柑味のゼリーを買ってくることを条件に機嫌を治すことに成功した。

 帰り道を歩く俺の腕にしがみ着く彼女は女の子の扱いについて、耳にタコができるくらいに延々と語り続けた。

 その夜、俺は薬学者であった祖父の伝手を頼り、現在はアメリカで病院を構えているという人物に手紙を送った。和葉ちゃんの症状を詳細に伝え治療法がそちらにあるか、または似たような病気がないか、と。

 国内の医学に期待することができなかった俺は先進国である向こうの医学に期待を抱いていた。けれど、俺は期待をしすぎるあまりに忘れてしまっていた。どんなに発展しても解明しきれないものはあることを――数日後に届いた返事はあちらでも和葉ちゃんと同じような症例は過去にもなく、また、治療に役立ちそうな情報もないと文面で幾度も謝罪の言葉が乗っているが結果はあまりにも無慈悲なものであった。

 

「くそっ! 何でだ……何、で……」

 

 机を拳で打ち据えてやり場のない怒りをぶつけながら俺は悲痛の叫びをあげた。怒りはやがて虚無感へと変わり、非情な現実から逃れるために以前に貰ったウイスキーの瓶を封を切ってそのまま口に含む。喉を下る灼熱の塊は肺の中で暴れ回り、アルコールが頭から足先まで瞬時に広がっていく。脳髄をどろどろに溶かされるような気分になるが、気持ちが晴れることはなく、逆に胸の内から鬱々とした気持ちが湧き上がってくる。それを忘れる手段が他に思いつくわけがなく、俺はさらに酒瓶を傾ける。

 床に体を投げ出し、見上げる天井は白熱灯の明かりで眩しかった。

 

 ――もう、どうにもならないのか……?

 

 自虐の笑みに口を歪める。誰も彼女を助けられない、絶対に助けるそう約束した俺自身でさえ、彼女に光を取り戻すことができない……いくら手を尽くしても、努力を重ねても結果がでなければ意味がない。心が軋み、歯車に小さな罅が走る感覚に襲われる。

 飲み干したウイスキーの瓶を床に投げ捨てる。鈍い音を立てる瓶の表面には光を受けて俺の姿が映っていた。浮浪者に身を落としたようなこの世の何もかもに絶望しきった顔がそこにあった。

 

 

 それから数日過ぎたある日のこと、俺のもとに一つの荷物が届いた。差出人は俺が連絡を取っていたアメリカの医者からで同封されていた手紙には参考になるかもしれないからと分厚い束の中は目に関する様々な病気が記されていた。

 

「……?」

 

 用紙を捲っていた指先があるところで止まる。他の用紙が真新しいのに対して、それは十年以上放置からか埃焼けなどで茶色に変色したレポートが二十枚。書類を纏める時に混ざってしまったのだろうか。興味を持った俺は軽く目を通してみるが、それは読むべきものではなかった。

 

『人が臓器の欠損を修復するにあたり、移植、人工臓器による代用などがあるが、それしかないのだろうか? 民間では治す手段として悪くしたところと同じ臓器を牛や豚から食し続けることで治ったという事例があるが、それはどのような過程を経て到ったのだろう。食し続けることにより、人体の細胞が正常だった時の臓器の情報を思い出して上書きしたとでもいうのだろうか? それを明すれば人体を切り刻んだり、薬を飲んで副作用に苦しむことがなくなるだろう』

 

 研究を始めるきっかけとしてはごく普通の文面だが、それはすぐに異質なものに変わっていく。

 

『五月二十四日 被験者A 病状:腎臓の機能低下。検査の結果慢性腎不全と診断。本日より実験を開始』

『七月三日 被験者A 腎臓機能の数値が前回よりわずかに上昇。実験内容に変更はなし。このまま継続を試みる』

『八月十七日 被験者A 前々回より数値は変わらず。実験を継続』

『十月九日 被験者A 数値は以前から減少。実験を継続』

『十一月二十日 被験者A 数値はさらに減少。状態からこの数値より上昇はないと判断。実験は中断。被験者Aを直ちに処分し新たな被験者の確保に努める』

『二月五日 被験者B 病状:卵巣腫瘍 本日より実験を開始』

 

 ページを繰る手をそこで止める。限界だ。これ以上読んでしまったら戻れなくなってしまう。これを書いたやつは医学のためだと弁じているが、ただただ自分の欲求を満たすための方便で悍ましい実験を繰り返し続けていたに違いない。実験がどうなったのか、結果を見ようとは思わない。

 忘れるように他の資料やレポートなどに目を通すが、望む結果を得られずに読み終える。そのたびにあの古びたレポートに目を向けてしまう。あれなら和葉ちゃんの目を治せるんじゃないのか。頭の中でもう一人の自分が囁く。囁き続ける。甘い言葉で狂った声が破鐘のように脳内に響き渡る。

 それは駄目だしてはいけないいけないんだするなやめろしろよいやだいやだ消えろ考えるな楽になれやめろいやだするんだ駄目だ!

 胃から熱いものがこみ上げる。耐えることなく、床にぶちまける。吐き気はさらなる苦痛を与え、拷問のように意をぎりぎりと締め付ける。

 

「ひっ――! ふ、ぐっ、うぅぅ……あぁ……」

 

 涙と涎、吐瀉物に体を汚しながら誰かに救いを求め用と扉に向かおうと床を這うが、手足は上手く動かず全く、前に進められない。苦痛に耐えかねて叫ぶも、口から発せられるのは喘息にかかっているような言葉にならない声だ。

 自分を保とうと歯を食いしばるが、それは容赦なく俺という存在をどろどろに溶かし、抵抗虚しく段々と全てが曖昧になっていく。

 

「――――」

 

 最後に呟いた言葉はなんだっただろうか?

 思い出すことのない言葉を最後に意識は一気に暗闇に飲み込まれる。

 

 夢を見た。正確に言うのなら夢を見ているところだ。なぜそれがわかるのか、簡単だ。目の前の光景があまりにもあまりにも非現実的なものだからだ。漆黒を塗り重ねた暗闇よりも深い世界、その中で微かに揺らめくそれは。気配だけでこの世のものでは表しきれない悍ましく醜悪なものだとわかる。身じろぐたびに死臭と腐臭を撒き散らし、呼吸をするたびに吐き気が込み上げてくる。歪んだ音色のようなそれの息遣いは脳をスプーンでかき混ぜられているかのように激痛が走る。唯一の幸運はそれだけで済んでいることだ。もしも、それの姿をはっきりと見えてしまえば俺という存在は跡形もなく消え去ってしまうだろう。口の中がからからに乾き、手足は震えて仕方がない。悍ましい存在を前に、けれど恐怖をほとんど感じない。感じるのは虚ろな感情、圧倒的な恐怖を前にどうすることのできない無力な自分を認めてしまう。テレビを見ているかのように目の前のものをどこか遠いものとして今を認識していた。何故ここにいるのか? どうしてこんな夢を見ているのか? いつこの悪夢から逃げ出せるのか? 異形から逃げるがこの空間が『それ』自身なのか、どこまでも暴虐の音色と腐臭が俺を追い回し続ける。くすくすと俺を嘲笑う声が聞こえる。声のする方を見ると、濁った血色のルビーのような三つの赤い目と三日月の形に歪んだ白い口が闇に浮かぶ。歪んだ嗤い声が、冒涜的な音色が、俺の周りにあるありとあらゆるものが俺を侵食していく。

 

 

「…………」

 

 泥酔した時のような全てが不安定な視界のぐらつきに襲われながら俺は意識を取り戻した。時計を見ると針は深夜を指しており、かなりの間気を失っていたことを教えてくた。

 

「?」

 

 何かがおかしい。大事なことを思い出さなくてはいけないはずだが、霧に包まれたかのようにそれが何か出てこない。その内思い出すだろうと諦めた俺はとりあえず身の回りの惨状をどうすべきか考えることにした。

 鼻を据える胃液の匂いに滅入りながら床を拭く。消臭剤も撒いて一先ずはこれでいいだろう。服の方は駄目だな。汚れたのが安物のシャツが救いか。

 風呂に入りすっきりした俺は書斎に戻る。床に散らばったあのレポートを取り、再度目を通す。ああ、やっぱりそうしたか。

 歪な研究をしていたやつがたかだか動物の臓器で結果を出そうなんて思っているはずがない。あれだけ忌み嫌っていた文面は今では敬意すら感じてしまう。読み進めていくうちに気持ちはどんどんと高揚していく。けれど、終わりは唐突に訪れた。密に記されたレポート、その終わりは他に興味がわいたので中断すると、無情に俺に突きつけてくる。

 

 ――ああ、何故、どうして、飽きた? そんなことで? 弄んで、笑って、笑って、嗤って子供のように投げ捨てて、それで終わりか。終わってしまうのか。終わってしまったのか?

 

 落胆した俺だが、すぐに気持ちを切り替える。

 

 ――それなら、俺が引き継げばいいじゃないか。

 

 静まった森の中、時折遠くで鳴く梟の声を聞きながらスコップを振り下ろす。一掘り、また一掘り、土を掻き分けていく。目の前の穴は広く、深くなっていく。テーピングを巻いてはいるが慣れない作業にビリビリと痛む。

 

「和葉ちゃん、もう少し、もう少しだけ待っててくれ」

 

 彼女の名前を呟くと疲れは吹き飛んでいく。

 湿気を含んだ土の臭いが鼻を擽ぐる。季節はもう梅雨に入る頃で天気が崩れやすい。穴を掘る間に雨が降らず、余計な疲労が溜まらなくて良かった。掘り進み、やがて人一人分が入るほどの広がった穴が出来上がる。だけどこれで終わりじゃない。もっと、もっと必要になるんだから。軽く休憩をとった俺は体力が尽きるまで地面に幾つもの穴を開け続けた。

 作業を行うところは自宅で問題ないだろう。地下室に機材を持ち運べるスペースはあるし、郊外にある俺の家の周りはほとんどが畑だったり建設途中の空き地だから夜に人が通ることはまずないから万が一に外に音が漏れても大丈夫だろう。

 そうして準備を終えるまでに二週間ほどの期間を要したが、時間を掛けた分ただの物置だった地下室は立派な手術室になった。

 

 初めてに選んだのは、和葉ちゃんと同年代の女の子だ。通勤途中でよく見かけるその姿は羽化していく蝶のように、大人へと変わりゆく子供にある美しさと可愛さ、両方を兼ねたそれは不安定の中で時折、永遠に残しておきたい一つの美の極限があった。彼女に狙いを定めた俺は通学路や通る時間帯を調べる。頃合を見計らい声を掛ける。犯罪とは無縁で町民全体に家族のような親しさがあるからか、無縁な相手からの挨拶にも嫌な顔をせずに元気良く挨拶を返す。適当に話しながらさり気なく人通りのない路地裏に誘い込む。ここに来てようやく疑問に思った彼女の顔に睡眠薬を染みこませたハンカチを押し当てる。薬はすぐに効き、彼女を気絶させることに成功する。周りに注意を払いながら近くに止めていた車に乗せ、地下室へと運ぶ。効きやすい体質なのか目が覚めることのない彼女を手術代まで運ぶのはとても楽で助かる。念の為に麻酔を含めた注射器を彼女の腕に刺す。

 少し身じろいだだけで意識を取り戻す様子は全くない。白衣に着替えた俺はメスを握る。眼球を傷つけないよう慎重に目蓋を切る。流れ出る血を丁寧に脱脂綿で拭き取る。眼窩に収められた白魚のように艶やかな眼球をスプーンを使いゆっくりと取り出す。ゼリーのようにぷるんとしたそれは手元がほんの少しでも狂えば潰れてしまいそうなほどに柔らかく一番緊張したがどうにか成功した。ほう、と安堵の息を吐いた俺は臍の緒のように眼球に繋がっている視神経を切り、薬液で満たされた瓶に摘出した眼球を入れる。少女を見ると意識を失わせても感覚を鈍くしても痛みを感じるのか体は小刻みに震えている。手術を終えれば彼女に用はない。肋骨の位置を測り、なるべく苦しまないように心臓を一突きする。びくんと大きく体は震え、口からは潰れた蛙のような汚い声が漏れる。起こったことはそれだけで少女の体はぐったりと沈み込む。初めて犯した人の命を奪うという行為に自分でも意外な程罪悪感を感じることはなかった。ポリバケツに『彼女だった物』を詰め込み、山中に掘った穴の中に遺体を放り込む。死臭を嗅ぎつけ早くも彼女の体にハエが群がってくる。ほんの数時間前は元気だった少女の肌は人形のように青白く、そんな彼女をに這い回る蝿に気持ち悪さを覚えながら土を被せる。少女の姿はたちまち土の中に埋もれ、誰かが掘り返さない限り、その姿を晒すことはもうない。

 

 火照った体を夜風で冷ましながら腕時計を見る。今からもう一人ほど探せる時間はあるが、今日のところはこれでいいだろう。慣れないうちに無茶をするのはよくないしな。家に戻り少し温めにしたシャワーを浴びて体に付いた土埃を落とす。さっぱりとした所で眠気が湧き上がる。逆らうことはせず、ベッドに横になり目を閉じる。今まで感じたことのない爽快な心地良さに包まれながら、意識を深い闇に委ねる。

 

 翌日、病院にて普段通りに勤めていると、来院した町民から昨日から家に戻っていない女子高生の話を聞かされた。住んでいる場所からその娘は俺が殺した娘で間違いない。昨日の今日で行方がしれないことが広まったことに驚いたが、考えてみれば小さな町で平和な場所で起きた事件などすぐに町民全員に知れ渡るか。とすると、攫う場所は隣町など離れたところで行う必要があるな。目の前にいる俺が犯人だとは思わず、特徴を伝えると見つけたらすぐに家族か警察に連絡してほしいと言われた。笑いを堪えながら真面目な顔を装い、わかりましたと応える。

 昼になり和葉ちゃんのもとへ足を運ぶ。手に持つのは少女の眼球を使ったゼリーだ。生臭さや食感を牛乳やタピオカなどで誤魔化しては見たが、食した和葉ちゃんの顔は少し強張る。無理しなくてもいいと言う俺に首を振り、ゼリーを食べ続けてくれる。完食した彼女の頭を撫でると、恥ずかしいですと口を尖らせるが赤らめた顔はとても嬉しそうだ。

 

 

 仕事を終え、早々に帰ろうとする俺を同僚が飲みに誘う。最近は忙しさもあってか前よりも話すことがなかったな……ちょっとぐらいなら付き合ってもいいかと心が傾きかけたが、今はそんなことで貴重な時間を無駄にしたくないと断ることにした。嫌な顔一つせずに『それじゃあ、今度は付き合えよ』と言ってくれた彼に申し訳なさを感じながら、隣町に車を走らせる。橙から紺への空の変化に伴い、道のあちらこちらに客を求める女性が増えていく。化粧を施し見た目には綺麗にしているが、立ち振る舞いやちょっとした仕草に疲れや生活の乱れが見える。食生活も健全なものではないだろう、彼女らから眼球を得たいとは思わない。この辺りは駄目かと思い他に行くかと思った時、向こう側から部活帰りだろうテニスラケット用のバッグを肩に提げた二人組の女子高生が楽しそうに笑いながら歩いてくる。擦れ違いざまに彼女らを観察する。最初の娘は年齢的な意味での美しさがあったが、目の前の彼女らはテニスコートを走り回り、引き締まった体から溢れ出る活発さが魅力を出していた。速度を落とし、来た道を引き返し跡をつける。こちらに気付く様子は全くない。途中のY字路で別れ、どちらを攫うか迷い左を歩く娘に狙いをつける。車の接近に気付き振り向くが端に寄る彼女に追いつくと深呼吸を一度、行動を起こす。急ブレーキをして甲高い音を出して止まる車に少女はびっくりし、動きを止める。その隙を逃さずドアを開けて彼女の腕を掴んで引き寄せる。訳がわからないながらも危害を加えられるという事態に悲鳴を上げそうになる彼女の口を今回も睡眠薬を含ませたハンカチで塞ぐ。部活で鍛えられた体の抵抗は思いのほか強く、振り回す爪が俺の頬を引っ掻く。痛みに顔を顰めるも必死に少女を抑え付ける。薬が効き始めたのか抵抗が徐々に弱くなる。意識を失わないまでもぐったりとした状態を見て大丈夫だと判断し、後部座席に載せる。辺りを見回し、誰にも見られていないことを確認した俺は急いでここを離れる。

 二回目ということで幾分余裕が持てたのか、摘出手術は昨日よりも順調に進めることができ無事に成功した。少女だったもののぽっかりと空いた眼科は光に照らされても中を窺い知ることのできない黒色だった。

 

 ――和葉ちゃんの見る世界はどうなんだろうか?

 

 話を聞く限りでは白い靄が掛かったようなものだと言ってはいたが、黒も白も対照的な色だが、それ一色だけしか認識できない世界だとするなら、それはとてつもなく恐ろしい。

 

 ――君が見る世界を彼女にも見させてくれ。

 

 名前の知らない少女の頭を撫でる。和葉ちゃんも健康な体を手に入れ、運動をすればこういうふうになっていたのかなど『もしも』を想像しながら廃棄所に運び、埋める。

 

 ――あと、どのくらい続ければいいのか……。

 

 空を仰ぐと青白い月が淡い光を地上に降り注いでいた。それを見た俺は死体の色と同じだなと、ただそれだけしか思いつかなかった。

 

 三日後の検査、やはり人間の眼を使ったのが良かったのか和葉ちゃんの目の具合は予想よりも回復していた。検査の結果を告げる俺の声は喜びに上ずり、和葉ちゃんも包帯に巻かれた目を両手で触れながら、喜びに打ち震えていた。

 

 ――ああ、ようやくここまでこれた。

 

 願い、求め、けれどもたどり着くことのできなかったこの状況に……だけど、まだ終わりじゃない。もっと、もっと和葉ちゃんにたくさんの眼球を食べてもらおう。いっぱいの眼球を用意しよう。

 決意を新たにしたそれからの毎夜、俺は町に出ては若い娘を攫っては眼球を抉り、山中に埋めていた。

 

 ――四人目になる少女を地下室に運び、眼球を抉り出す。麻酔が途中で切れたため、少女の体が小刻みに震えたため危うく摘出前に眼球を傷つけそうになり冷やりとした。

 

 ――五人目になる少女を地下室に運び、眼球を抉り出す。捜索願が立て続けに出されたことで警察はようやく捜査を開始したらしい。注意はしてはいるが、今後はより気を付けて事を運ぼう。

 

 ――八人目になる少女を地下室に運び、眼球を抉り出す。連続失踪事件として報じられたためか、夜間に外を歩く人の数が減り、探しづらくなってきた。戻る途中、道向こうを歩いていた会社帰りの女性もついでに攫う。地下室で監禁すれば、見つからなかった日の時に代わりに摘出しよう。

 

 ――十人目になる少女を地下室に運び、眼球を抉り出す。摘出の光景に壁に繋がれた女性たちが悲鳴を上げる。猿轡をされているため彼女らの声はくぐもったものではあるが、その悲鳴を聞いて気分が高揚し危うく手元が狂いそうになった。アメリカでは手術の際に音楽を流してリラックスしながら行う人もいるようなので次に行う時には室内に再生機を持ち込もうか。

 

 ――十二人目になる少女を地下室に運び、眼球を抉り出す。翌日が休みなので県境を越えた町で攫った。テレビや新聞で事件は報じられているようだけれど、隣の県とはいえ離れた場所で起こった事件に対して『ここでは事件は起こらない』と思っていたのか簡単に攫うことに成功した。

 

 ――十七人目になる少女を地下室に運び、眼球を抉り出す。前回攫ってから四日が経過。その間は外を歩く人が全くなかったため監禁していた女性達から眼球を摘出してストックが少なくなっていたから助かった。

 

 人数にして二十人以上の眼球を毎日食していたおかげか、検査の度、回復の一途を辿る結果を出していた。包帯を解いた和葉ちゃんの目の色の濁りは減り、物の識別などを確認すると、見える景色はまだ白い靄がかった状態らしいが、人や物の輪郭は朧げながらも認識できるらしい。

 

「和葉ちゃん、今日は久しぶりに晴れているから外に出ようか」

「はい」

 

 微笑みを浮かべる和葉ちゃんの手を引いてエスコートする。梅雨でここ最近は雨続きの毎日だったため、なかなか出歩くことが出来なかった。軽く湿気を含んだ風は彼女の髪を柔らかく撫でる。ふわりと零れ落ちる甘いミルクの香りが鼻を擽り、こそばゆい感情が湧いてくる。

 

「どうだい、和葉ちゃん気持ち良いかな?」

「ええ。ずっと病室に篭もりきりでしたから風が凄く気持ちが良いです」

「そうだな」

 

 笑い合いながら散歩を続ける。草木の青い匂いに肺を満たしながら、和葉ちゃんをそっと見る。うきうきとした様子で耳を澄ませ、匂いを嗅いで、目に見えない景色を自分なりに楽しんでいた。そんな彼女の目も完治するまであと少しだ。包帯を外した際に垣間見る彼女のアーモンド型の瞳が、春は舞い散る桜を、夏は澄み渡る海を、秋は鮮やかな紅葉を冬は白雪に染められる町並みを見て四季の移ろいを楽しむ姿を想像する。友達や家族と談笑し、勉学に励み仕事に勤しむ。月日を重ねやがて大切な人が彼女の隣に立つだろう。

 恋人にしか見せない彼女の笑みを想像した時、心臓が針につつかれたように痛む。

 そうだ……目が治れば彼女が病院にいる理由はない。健康であり続ければ病院に来ることはなく、そうなれば俺と彼女が交わることはなくなってしまう。考えれば考えるほど胸の痛みは大きくなっていく。

 

「先生……? どうかされたのですか?」

「え? あ、あぁ……いや、何でもないよ」

「……私のことで何か悩んでませんか?」

「……ごめん」

 

 俺の言葉に溜息を吐く。それまであった和やかな雰囲気は気まずい沈黙へと変わる。

 

「先生……少し肌寒くなってきましたし、戻りませんか?」

「そうだな……」

 

 交わされた言葉は短く、彼女の手を握り来た道を戻る。見ると、東側の雲が黒く変わっていた。次に和葉ちゃんと外を歩けるのはいつだろう。

 

「さあ、和葉ちゃん。病院に着いたよ」

「先生。さっきはごめんなさい……」

 

 俺を見上げる彼女の口は固く結ばれ、緊張で微かに震えていた。

 

「君は悪くないよ。患者を不安にさせてしまう俺が悪いんだから」

「でも……先生は、こんなに私を助けていただいているのに、それなのに――」

 

 泣き出しそうな気配を感じ取った俺は反射的に行動に出た。

 

「あ――」

 

 彼女の体を抱き締め、包み込む。男の俺とは違う女性の柔らかさに鼓動が高鳴る。

 

「ご、ごめん――!」

 

 思わずとはいえ何をしてるんだ俺はと慌てて離れる。

 

「い、いえ……その……嬉しかった、ですし……」

 

 顔を赤らめ、俯いてはいるが怒ってはいないようだ。

 

「あの、和葉ちゃん?」

「はい! あ――いえ、何でもないです! 大丈夫です!」

「そ、そう? ならいいけど」

 

 大人しい彼女がここまで取り乱す姿を出会ってからの三年間で初めて見る。心配するが、彼女が大丈夫だと言うなら、これ以上は無理に追求するのは止めたほうが良さそうだ。

 

「それじゃあ、俺は診察室に戻るから」

 

 また明日と手を振って戻ろうとすると、後ろから声を掛けられた。

 

「先生――私の目が治った時、先生に話したいことがあります」

「話したいこと? それは今じゃ駄目なのか」

「駄目なんです。だから、改めて約束してください。私の目を治してくださると」

 

 小指を立てた右手を差し出す。それの意味することをすぐに理解した俺も右手を差し出し、互いの小指を絡め合う。

 

「約束ですよ。プレッシャーを与えるわけじゃないですけど、私先生を信頼していますから」

「わかった。君の信頼に応えられるように努めるよ」

 

 暗い未来になんかならないし、させない。そうでなければ今は山中の土に眠る少女たちも報われない。彼女たちがいたからこそようやくここにたどり着けたのだから。

 

 

 テレビでは連日、少女の失踪事件についての報道がされるが警察の捜査は公開されている情報に関しては進展があまりないとされているが、近辺に捜査員の姿が見えないので嘘ではないだろう。昼間の町では警察に対する不満が募っていく光景を目にする。会話に適当な相槌を打ちながら、隣町でも警察の捜査がされているので、手頃に行ける市街がどこか、また、蒸し暑い夏の天気にそれまで少女たちを埋めるのに使っていた場所は腐敗臭が漂い、離れた所を掘り起こさないといけないなと色々考えていた。

 

 数え切れないほどに少女たちから眼球を取り出して食べさせた俺と、数え切れないほどに眼球を食べ続けていた和葉ちゃんはとうとうその日を迎えた。

 静かな病室には普段は仕事で忙しいからと中々姿を見せない彼女の両親や親戚がベッドを囲み、今まで辛かっただろう、これからは私たちも頼ってくれなど定型文のように白々しい言葉を語りかけてくる。それでも和葉ちゃんは笑みを崩すことなく丁寧に返していく。

 

「はいはい。皆さん、喜ばしいのはわかりますが包帯を外しますよ」

 

 合図に、ベッドから距離を取る大人たち。和葉ちゃんの頭を撫で包帯の結び目に指を引っ掛ける。

 

「随分と待たせてすまなかった」

「いいえ、先生ありがとうございます。私のために悩んで、諦めることなく尽くしてくださいまして――本当に嬉しかったです」

 

 ――ありがとう和葉ちゃん。

 

 周りに人がいる手前、その言葉は照れ臭くて言えなかった。代わりに結び目を解き、ゆっくりと包帯を外していく。現わになった彼女の素顔、小さく息を吐くと和葉ちゃんは目蓋をゆっくり開いていく。普段が暗闇の中で過ごしているせいで室内の明るさでも眩しく、眉を顰めている。けれど、それは彼女の目が正常になっているという証だ。何度も瞬きを繰り返し、光に慣れた目蓋が完全に開かれる。

 

「せん、せ……い……」

 

 宝石のように輝く瞳は真っ直ぐに俺を見据えている。伸ばされた手は俺の頬に触れ、確かめるかのように撫でていく。

 

「やっと……やっと、先生の顔を見ることが……できました」

「ああ、ああ。そうだよ、これが俺だよ和葉ちゃん」

「はい。私……ちゃんと見えます……みんな、みんな見えます……」

 

 光を宿した瞳から大粒の涙が零れ落ち、周りは歓喜に沸き上がる。両親、次いで親戚たちを見つめ、今まで音でしかわからなかった窓の外の景色を眺める。最後に隣に立つ俺に戻り、互いの視線が絡み合う。と、不意に和葉ちゃんの笑みが崩れた。

 

「――――」

「どうかしたかい?」

 

 喜びから一転、無表情になった和葉ちゃんに声をかけるが返事はない。瞬きすらせず、俺を見続けるが、彼女の瞳は俺を見ているようで別の何かを見ているように見える。

 

「――」

「え?」

「……や」

 

 彼女の視線が揺れる。それはだんだんと大きくなり、表情もそれまでの無表情から青白く顔色を変え、唇を戦慄かせていた。恐怖に顔を歪める彼女に喜び合っていた周りも不審にざわめく。

 

「和葉……ちゃん?」

「嫌っ!」

 

 触れようとした手は力強く払われる。拒絶の意を示した彼女はベッドの端に身を寄せ、体を震わせる。

 

「和葉ちゃん、いったいどうしたんだ?」

「あ……あ、あぁ……ひぃ……いぃ……」

 

 彼女の変化の原因が何なのかを知るためにできるだけ穏やかに話を試みようとするが、一切に応えはなく、獣のような呻き声を上げ、艶やかな真紅の唇からはだらだらと涎が滴り落ちたりと様子は更におかしくなる。

 

「和葉ちゃん!」

「ひぃっ! い、嫌ああああぁぁああぁああああああぁぁぁああああぁぁ――っ!」

 

 落ち着かせようと彼女の方に手を乗せた瞬間、悲鳴が病室に迸る。異様な光景に誰もが動けない中、和葉ちゃんは両手で顔を覆う。

 

「あ……あ、あぁ――う、ぐぅ……」

「何をするんだ!」

 

 覆う指は形を変え、彼女の目蓋に添えられた。悲鳴の質が恐怖から痛みに変わっていることに気づいた俺は和葉ちゃんの行為を止めようとするが間に合わなかった。

 

「ぎっ、や……が――っ! あ、あぁぁああああぁぁ――っ!!」

 

 ぢゅぷ、と粘りのある音が聞こえた後、和葉ちゃんの絶叫が上がる。

 

「ひぃっ……ぎ、いいぃ――っ!」

 

 常軌を逸した行動を起こした和葉ちゃんは眼窩に潜り込ませた指をさらに深く沈め、一息に指に引っ掛けたものを引き上げる。ぼとり、とシーツの上にピンポン玉ほどの大きさの眼球が赤い線を引きながら転がり落ちていく。

 

「か……ず、はちゃん……」

「あ、はっ、は……先生、い、嫌ぁ……何で、何で私の……『眼』を抉るんです、か……? ひっ、ひひ、は……あは……」

「何を……言ってるんだよ……和葉ちゃん、しっかりするんだ……」

 

 何が起こったのかわからない。どうしたらいいのか、何もできずに呆然とする俺の瞳には奈落のようにどこまでも深く歪んだ嗤い声を上げ続ける和葉ちゃんの姿が映っていた。

 

 

 私は自分自身が好きになれなかった。体が弱いからとお母さんや周りのみんなが優しくしてくれるが、私にとっては酷く辛いものだった。何も出来ないのが嫌で、だから唯一出来る勉強に励んだ。周りに心配をかけないように振舞いながら限界まで勉強し続け、休んでいた分を取り戻し、さらに先へ先へと進んでいく。お母さんが褒めてくれた。お父さんがよくできたと頭を撫でてくれた。クラスメイトは私を頼り、教えたらありがとうと言ってくれた。それがとても嬉しくて嬉しいからもっともっと勉強に打ち込み続けた。

 そんな中、不意に目の前が霞みがかったように白く曇った。軽く目を擦ったら曇りは消え、だから私はそれを気にすることはなかった。けれど、日を追うごとに目が霞んでいくことが多くなった。うっすらと曇ることもあれば濃霧に襲われたみたいに何も見えないこともあった。それでも顔を洗ったりすれば治ったので、勉強の疲れが原因なんだろうと自己判断した。誰にも心配をかけたくなかったから……でもそれは間違いだった。結果として私の目は悪くなり、進学はできず病院での入院生活を送ることとなった。目に入る刺激を減らすために普段を包帯で巻いて過ごしていると、暗闇の中にいるからか、私という存在が薄らぐような感じがする。このまま消えてしまいたいなと思うこともある私を支えてくれるのは見舞いに来てくれる親や友達よりも様子を見に病室に訪れる先生だった。三十代前半だという先生の声は落ち着きのある優しさがあり、私の手を握りながら話しかけてくれる。異性に触られる機会がほとんどなかったから凄く恥ずかしかったけれど、時間が経つにつれ伝わってくる先生の手の温もりが心地良く、少しくすぐったい気持ちになる。

 励ましてくれる先生を前に落ち込んでいる姿は見せたくないと感じた私は目が見えないからと遠ざけていた勉強をすることにした。お母さんに買ってもらった教本で読みを覚えながら、点字盤を使っての文字の打ち方に悪戦苦闘する。でも、ある時にカチリと自分の中で何かが噛み合ったような感じがした後は読み書きはすんなりとできるようになった。苦労していた分、文字を読んだりできるのが凄く楽しくなり、何より先生に褒めてもらえるのが嬉しくてもっともっと勉強をして明るく振舞おうと心に決めた。

 でも、どんなに笑顔でいてもこの先、視力が回復することはないのではと暗い感情が湧き上がってしまうことがある。必死で抑えようとしても駄目で幾度も先生の前で泣いたりしたこともあった。そのたびに先生は謝って私の手をずっと握っていてくれる。患者だから大切にしてくれるかもしれないけれど、私の中で先生を想う気持ちはだんだんと大きくなっていく。夏の日の散歩の時、木陰で一緒に休んでいる時や、秋の日に並木道を歩いている時、温かな春の日差しが入る病室で話している時などつい、彼への気持ちが零れ落ちそうになるけれどどうにか抑え込む。

 不自由のある私が想いを告げても先生を困らせてしまい、余計に気を使わせてしまうに違いない。だから私はこの目で先生を見ることができた時に伝えることにした。

 そう決めた後のある日、先生は目に良いという食材を使った料理を持ってきてくれた。そのままだと食べにくいものだからと茶碗蒸しにしたと言っていたけれど、食べてみるとふやけた麩のような食感がし、ほんの少し生臭い味が口の中に広がる。ほかの食材の味によってすぐに消えたけれど、先生の言う通り、確かに料理に混ぜたほうが良さそうなものでした。今後しばらくはこうした治療法を行ってみるとのことらしいけれど、不満なんてない。先生が私の目を治すために尽力してくれているのだから。

 そして、ゼリー状の食材を使った料理が昼と夜に病院食と一緒に出されるようになった。先生の手作りなようで時々焦がしたり、煮込みが甘いところもあった。指摘すると先生は恥ずかしそうな声で謝ってくる。こういうのって恋人同士の会話みたいだな、などなど思いそれが嬉しかった。

 

 ここ最近気になることができた。夢の中の出来事なのだけれど、そこに出てくる私は――ぼやけてではあるけれど、目が見えるようになっていたけれど、ぼやけて――薄暗い部屋の中で壁に背中を預けていた。疲れているのか体には力が入らず、気を抜いたら眠ってしまいそうなほどだ。

 ここはどこなんだろう、と考えていると部屋の扉が開き、カチンという音と共に部屋を満たしていた暗闇が一瞬で消え去る。けれど私の目には室内にある棚などの輪郭がわかる程度のもので、入ってきた人がどんな人なのかわからない。私に何か話しかけているようだけれど、声は遠く、言っていることがわからない。

 近づいて来るその人の顔は逆光で暗く、目を細めてみてもわからなかった。何だか謝っているような印象を感じる。どうしたんだろうと思っていると、その人は両の手を私に伸ばし、そっと目蓋に押し当てた。くっ、と抑え込まれ夢の私は痛みに声を上げ――そこで目が覚める。荒い息を整えながら、確かめるように目を当てる。酷い夢を見たなと、息を吐く。体に痛みとかはないから、ここ最近の料理のせいではない……とは思う。夢見が悪いんですと言って先生を不安にさせたくはなかったから黙っていることにした。先生の話では私の目は少しずつ治ってきてはいるらしいから、それが無意識のうちに早く治らないかなとストレスになり、変な夢を見させたに違いない。

 そんなにストレスを感じていたんだろうかと思いながら、できる限りリラックスできるように努めてみるけれど奇妙な夢はそれからも度々見るようになる。同じ夢、同じ状況、同じ展開、何度も何度も見続けるせいで目覚めても体が重かったりする。先生の前ではいつも通りを心掛ける。

 梅雨明けのある日、先生と外に歩けることになった。ずっと雨続きで病院内しか歩き回れなかったから太陽の暖かさや肌を擽ぐる風が気持ちいい。でも、隣を歩く先生に話しかけてもどこか上の空で、私の手を握る手の平も緊張しているような感じがした。

 私の目が治らないことについて悩んでいる気がして聞いてみると案の定だった。楽しかった散歩も気まずい雰囲気になり、声をかけたいのにできないまま病院へと戻る。

 

「さあ、和葉ちゃん。病院に着いたよ」

 

 先生の優しい言葉、私を大切にしているという思いが伝わってくる。気を使わせてしまった、こんなことになりたくなかったのに。

 

「先生。さっきはごめんなさい……」

 

 目尻にじわりと液体が溢れ、巻かれた包帯が吸い取っていく。今だけはこの状態に感謝できる。泣き顔なんて一番見せたくないから。

 それでも顔は自然と俯く。ただ謝るだけなのに……謝ったらいつものように明るい私に戻れると思ったのに。

 

「あ――」

 

 体を寄せられ、全身が温かなものに包み込まれる。触れる温もりからはドクンドクンと少し早い鼓動、頬に触れる微かな息遣い、それら全てを感じ取りながら、私が何をされているのかようやく理解した。

 

「ご、ごめん――!」

「い、いえ……その……嬉しかった、ですし……」

 

 慌てる先生の声、全身を包んでいた先生の体はすぐに私から離れ、外気に触れたところが寂しい。

 

「あの、和葉ちゃん?」

「はい! あ――いえ、何でもないです! 大丈夫です!」

「そ、そう? ならいいけど」

 

 うぅ、声が裏返っちゃった……。

 また気まずい雰囲気になってきてるし……。

 

「それじゃあ、俺は診察室に戻るから」

 

 そうして院内に入ろうとする先生を思わず呼び止めてしまった。戻ってくる靴音を聞きながら、呼び止めてしまったことを後悔するけれど、こうなったら言ってしまおう。

 

「先生――私の目が治った時、先生に話したいことがあります」

 

 私の言葉に尋ねる先生。教えたいけれど、私の中で決めたことを私自身で破るわけにはいかない。

 

「駄目なんです。だから、改めて約束してください。私の目を治してくださると」

 

 約束の証として小指を立てた右手を差し出す。見えない中、そっと先生の指が絡まる。

 

「約束ですよ。プレッシャーを与えるわけじゃないですけど、私先生を信頼していますから」

「わかった。君の信頼に応えられるように努めるよ」

 

 迷いのない先生の言葉に、さっきまであった不安はもうなくなっていた。

 だから私は思う。私の目を覆う包帯が外され、重い瞼を開ける時のことを。普段が暗闇での生活だから室内の眩しさでしばらく辛くなるだろう。でも、それに慣れたら私の目の前には温かな笑みを浮かべる先生の素敵な姿が映っているんだ。

 

 お互いに笑い合い、私は言うんだ。ずっと抱いていた想いを。やっと伝えることができる気持ちを。

 

 もうすぐ、もうすぐで言えるんだ……。

 

 

 彼女の目が見えるようになり、彼女の心が壊れてしまったあの日から一ヶ月が過ぎた。あの後、異常な事態が起きたと呼ばれた警察が病院をはじめ、俺の家まで捜査が及んだ結果、地下室が発見され捉えていた少女達は皆、解放されてしまった。証言もあり、俺は誘拐犯から殺人犯として拘束され、今は取り調べのために留置場に入れられていた。

 もうじき裁判が始まるからと担当することになった弁護士に和葉ちゃんについて聞いてみると、発狂後に意識を失った彼女は目を開けることはなく、そのまま息を引き取ったという。

 何故あんなことになってしまったのか……医者としての視点から何度考察しても未だに原因がわからない。

 

 ――俺が過ちを犯したから、その罰で彼女は命を失うことになったのか?

 

 この世界に神様がいたとして報いを与えたというのなら、どうして罰を俺にくださなかったんだ……。

 彼女を失った事実は俺の心にぽっかりと穴を開けた。もう彼女の笑顔を見ることはできない。細やかな手を取り歩くこともできない。彼女の隣にいることも――もうできない。

 俺以外警備する人もいない留置場の夜。格子から入る夜風の寒さに体を縮こませながら掛け布団替わりの薄布に包まれていた。けれど、そんなものでは凌げるはずもなくコンクリートの床から伝わる冷たさで眠れるはずがない。不眠は披露へと変わり、睡眠を求めるが眠れずさらなる疲れとなり――延々と繰り返され、意識は朦朧としていた。

 

 ――――、――。

 

 鑑識や証拠資料を集め、解析が終われば裁判が行われるだろうがそんなものは自分たちがちゃんと事件を調べましたという裁判官や世間へのアピールでしかない。俺が何十人もの女性を手にかけたのは事実なのだから、裁判を待たずに早く死刑にしてほしい。遺族も求めているに違いない。電気椅子でも絞首刑でも何でもいいから早く殺してくれ。

 

 ――せ――――……ぃ……。

 

 それとも、このまま寒さで死んでしまうのか? あぁ……それも悪くない。和葉ちゃんと過ごした日々を思い出す――病気が治らず謝る俺の手を握り締め励ましてくれた彼女の温もり。消灯前に暖かなココアを持って行き、美味しそうに飲む彼女の笑顔。求められて彼女の髪を梳くけれど慣れないことに櫛を髪に引っ掛けてしまって怒らせてしまったこと。

 

 ――――んせい……せ――い。

 

 心の隅で永遠に続けばいいと思いもした不自由で幸せだった時間を振り返る。馳せる想いは氷のような寒さを忘れさせる。懐かしさからか吹き込む風が彼女の声に聞こえてくる。だんだんと近づいて来る和葉ちゃんの声は病室にいた頃と変わらずどこまでも優しかった。

 

 ――せんせ、い、起き、て――さ、いぃ……。

 

 耳に吹き掛かる『彼女』の声は俺を求める。重い瞼を開けると、電気のない拘置所の暗闇で唯一外から射し込む淡い月明かりに照らされる『彼女』の姿がそこにあった。見慣れた病院服に身を包み、俺にゆっくりと手を伸ばす『彼女』の口元はなかなか起きない俺にちょっと困り気味の笑みを浮かべていた。

 

「あ……か、うは……ゃん……」

 

 呂律の回らない言葉でも『彼女』は呼ばれたことが嬉しかったのか笑みを濃くする。触れた『彼女』の手はぞっとするほど冷たく、俺の体の熱を奪うのではないかと思うほどだ。どうせ夢なら温もりも再現して欲しかったが贅沢は言えない。

 

 ――先生、わ、わた……せんせ、いに言い、たいこ……るん、す……。

 

 途切れとぎれになる『彼女』に落ち着いて、ゆっくり言ってごらんと言葉の代わりに微笑みで伝える。

 

 ――前にもこんなことがあったな……。

 

 いつのことだったか思い出すために瞑った俺の瞼に『彼女』の指先が触れる。そっと触れた指先は徐々に力が込められ、眼球の形が歪んでいくのがわかるが痛みはない。ぼーっとした頭では思い出すことがままならず諦めた俺はせめて『彼女』の笑顔をもっと見たいと思い目を開けたが、もう俺の目には何も映ることはなかった。

 

 

 
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