キィ…キィ…
落ちかけた夕日から差す赤黒い光に照らされた「ブランコ」を前にして、僕はただぼんやりと立ち尽くしていた。
「会いたい」
本文なし。
件名にただこの4文字の入ったメールを受け取った僕は、気づけば息をぜぇぜぇ切らしながら、カンカンと小走り
にメールの相手の住まう二階の部屋へと階段を駆け上り、いつもどおり鍵の掛かっていない扉を開ける。
すると、目の前にその「ブランコ」があった。
本当はこんなところに突っ立って、ぼけっとしている場合ではないのだろう。
まずはこの「ブランコ」を、先ほどからキィキィと耳障りな音を立てる縄から解放し、次に呼吸と心肺停止の確認
をして…ああ、その前に救急車か?警察か?
良識的なもう一人の自分が、頭の中のどこか遠くで体に命令している気がしたけれど、肝心の体のほうは命令の伝達
を行う神経が切れてしまったかのように指の先すらぴくりとも動かず、この場、この状態でいることを望んでいる。
それほどに、今目の前にあるこの光景はあまりにも美しかった。
キィキィと軋む縄の音と「ブランコ」からポタポタと落ちる液体の音との不協和調を背景音に、さっきから目に突
き刺さるうっとおしい光が部屋に差し、「ブランコ」に黒い影を作る。
そのおかげで「ブランコ」がどういう顔をしているのかを視覚に入れることがなかったことが、この光景を美しい
と感じた所以だろうか、と、ほんの少しだけこの夕日に頭を下げたくなった。
メールの相手は、一ヶ月ほど前に知り合った、世間でいう「ひきこもり」の女の子だ。
どういう経緯で「ひきこもり」になったのかは特段聞いたことはない。彼女とはそういう付き合い方を望んだわ
けではなかったし、互いの体を重ね合わせることはあっても、それは生理的欲求の発露にすぎない。
ただ、彼女の体には無数の傷跡が刻まれており、それがこの光景を生み出す結果の一つになったのは事実だろう。
キィ…キィ…
ああ、さっきからキィキィうるさいな。
時間にしてみれば一瞬だったかもしれないが、至福の恍惚感に水を差され、思わず悪態を吐く。それでも、カタ
カタと震える手の、それぞれの親指と人差し指とでLの字を作り、それでもって即席のキャンバスを作りだす。
僕はこの光景を永遠に残しておきたいと思った。
それは写真とか、そういうものではなく、今この時間に、この場所で、この瞬間を。
でも現実的には叶わない願いだから、せめてこの指と指の間にあるキャンバスの中に思い出すたびに吐き気を
もよおしながらも性的な快感に打ち震える記憶として残しておこう。
ドス黒い、光と闇が交差するこの一抹こそが、目の前の醜い「ブランコ」が唯一芸術まで昇華するに足りえる
瞬間なのだから。
「――ちゃん」
未だに情けなく震えているLの字の手を視覚から外しながら、僕は女の子の名前を呼んだ。と言っても、特に
返事らしいものをもとめたわけではなかった。
そもそも返事をしてくれることもないと思ってもいれば、それを期待していたわけでもないし、名前を呼んだの
だって、次に口にする言葉を言うための前戯にすぎない。
案の定、僕の声は目の前の「ブランコ」が吸い取っていってしまったかのように、わずかな反響音を残しながら、
光が作り出した闇の中へと溶け込んでいく。
すうっと、息をのむ。
もともと返事なんて気にもかけていなかった僕は、本当に言いたかった言葉を吐き散らすために口と鼻とを歪
ませた。
「これ、リアルすぎるにもほどがあるでしょ?」
「んふぅ…ふわあぁ…
あ、きてたんだ。早かったね」
僕の呆れた声に、眠気眼を手でゴシゴシと擦りながら、ひょっこりとメールを出した相手が顔を出した。
「むふふぅ…よくできてるでしょ?」
気だるそうに立ち上がった女の子は、「ブランコ」をぺちぺちと叩きながら満面の笑顔をこちらに向ける。
すると、痛い痛いとキィキィ泣くように首吊りをした「僕」の造形が恨めしそうな目で僕を見つめる。
正直、見ていて気分が悪い。
まったく、創作のアイデアが湧かないと言って部屋の中で悶々とひきこもりながら、自分の体をストレスで
傷つけてまで、まあよくやるもんだと思う。
少しは、この狭い部屋から、閉鎖された空間から一歩でも踏み込めば、こんな悪趣味なものを作ることもないだろうに。
「これ、久々の力作なんだぁ。だから今度の出展会にこれを出」
「だが断る」
そんな悪態をつきながらも、なんでぇ、と頬を膨らませる彼女のことを邪険にできない自分に、ブランコのように
ふらふらとしてるな、と苦笑を浮かべるのだった。
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屋内、女の子、ブランコ。
メールで呼び出された「僕」が見たのは、そんな美しい光景だった。