真恋姫無双 幻夢伝 第四章 12話 『夜の夢』
〝お前の光は、今、何処にある?〟 (シェイクスピア「リア王」より)
顔良・文醜の軍勢が打ち破られた戦いから、三日が経った。晴れ渡る空の下、黄河には今日も風が吹く。
その風にガタガタと揺れる天幕の中で麗羽は、昼食を優雅に楽しんでいた。現代でいうクッキーのような菓子を一口、また一口とゆっくり味わいながら、黄河を渡る袁紹軍の船団をぼんやりと眺めている。本日は袁紹軍本隊が渡河する日であり、黄色く澱んだ黄河の中を、黒い船の集団が進む。
先日の戦いでは数千もの兵士を失った。しかしその程度の損傷など、10万人の軍勢全体からすると軽微だ。一部の幕僚の反対はあったが、昨日、予定通り曹操軍との決戦に向けて全軍を投入することを決定した。勝利は確実である、と考える袁紹軍の雰囲気は総じて明るい。
もうすぐ中原の覇者となる。しかしこの時の彼女はそのようなことを考えてはいなかった。彼女の心中を占めていたことは、かけがえのない側近の回復だけである。
「麗羽さま、遅くなりました」
「猪々子さん、遅いですわよ!」
天幕に入ってきたのは、猪々子であった。彼女は普段なら麗羽の傍に直立不動で立つのだが、この日は近くにあった椅子に恐る恐る座った。まだ愛紗から傷つけられたところが痛む。
麗羽が身体を跳ね起こして彼女に向いた。猪々子を待ちわびていたのは、もう一人の側近の病状を知りたかったからである。
「それで、斗詩さんは大丈夫ですの?」
「まだ時間がかかりそうですよ。斗詩は骨まで折れていたからなあ」
頭を掻きながら猪々子は答えた。彼女の怪我の原因を作ってしまったからか、猪々子自身が毎日看護していた。斗詩はまだ、床から起き上がることが出来ずにいた。
その彼女に会うたびに様子を尋ねていた麗羽は、今回もガックリと肩を落とす。
「そうですか……仕方ありませんね」
そう言うと、麗羽はまたぼんやりと川を眺め始め、お茶が入ったカップを口に運んだ。その様子に猪々子は不安を感じてしまう。
「あの、麗羽さま?」
「………」
「麗羽さま!」
「あ、はい、なんですの?」
麗羽はやっと反応した。婉曲な言葉を知らない彼女は、ストレートに聞いてみる。
「麗羽さまは大丈夫ですか?」
「わたくしですか?大丈夫です。大丈夫に決まっています」
そう力強く言うものの、猪々子に向ける微笑みはどこか影があった。いつもの高笑いもない。その姿は、猪々子が初めて会った時の頃によく似ていた。
実を言うと、普段の彼女は礼儀正しく、とてもおしとやかに振る舞っている。平和な世の中なら馬に乗ることも無く、皇妃候補として育てられたに違いなかった。そのようなお嬢様を“演じている”時の彼女は、おべっかを使う近習や参謀たちの意見にただ頷いているだけである。
そんな彼女が活発で自信家な素の自分を出せるのは、斗詩と猪々子がいる時だけである。自分を止めてくれる斗詩と、自分以上に暴走する猪々子。そしてどんなに我が儘を言っても、最後はどうにかしてくれる彼女たちと過ごす時間は、麗羽にとってかけがえの無いものとして感じていた。
その彼女たちの片方がいない。まるで自分の心が半分欠けたような気分が今、麗羽を襲っていた。
(斗詩は偉かったな)
猪々子は相方の不在を改めて思い知らされてしまう。自分だけでは駄目だ。三人が揃わないと。
「なあ、麗羽さま。あたいも頑張るからさ、我がまま言っても良い「袁紹様。お時間です」
猪々子の発言を遮る形で、近習の一人が天幕に入ってきて時間を告げた。麗羽も川を渡るのだ。
「猪々子さん。行きますわよ」
「……はい」
口数少なく、2人は船へと向かう。天気は晴れ。雲一つない。
歩く猪々子は、振り返ってみる。立ち並ぶ天幕の一つで相方が寝ているはずだ。その方向をじっと見つめる。
「文醜様?」
誰かが立ちすくむ彼女を不思議に思ったのか、兵士の一人が呼びかけた。彼女は何も言うことなく、船へと足を向けた。
風が一段と強く吹く。
袁紹本軍が渡河して一週間、戦況は再び曹操・李靖連合軍にとって不利に傾いていた。
再度築いた白馬の陣はあっさりと打ち破られ、敵は官渡の砦の近くまで迫って来ている。こちらの食糧の乏しさは変わりない。一時は勝利に喜びをあらわにしていた兵士たちも、今ではすっかり戦々恐々としている。
この状況をいかにして打破するか。そのカギはずっと言ってきたように、食糧にあった。
袁紹軍にとっても、当たり前だが、食糧の確保は重要である。何しろ10万人の兵士が動いている。許昌まで攻め上ることを考えると、必要な食糧の規模は計り知れない。現地調達では維持不可能な量だ。あらかじめ、ある程度は備蓄しなければならないだろう。
それを考慮すると、この袁紹軍の食糧を奪ってしまえば、奴らは戦うことは出来ない。アキラはそこに唯一の勝機を見出していた。
しかし事態はそう甘くは無かった。
「なぜ、分からない!」
バンッと机を拳で殴る。報告に来た部下は驚いて部屋を逃げ出していった。その一方で、その音に動じることなく、風はやんわりと諭す。
「お兄さん。あんまりイライラしても良い策は浮かびませんよー」
「すまん。ただ、これでは……」
アキラは立っていた体を椅子にガタンと落とすと、頭の後ろで手を組んだ。机にはここ一帯の地図が広げられ、ぼんやりとした蝋燭の火に照らされていた。
「どこにあるんでしょうねー」
「ここまで探しても見つからんとは」
困惑の声を出した彼は天井を見上げる。足がすり減っているのか、彼が座っている椅子がガタガタと動く。それに興味をそそられたのか、集中力が切れた彼は椅子を傾けて、その2本の足だけでバランスを取ってみる。
彼らが探しているのは、先ほども述べた袁紹軍の食糧の行方である。アキラはお得意の商人のネットワークを駆使して、その在処を見つけ出そうとしていた。稼ぎどころである戦場に出入りしている彼らなら探し当てられるはずだと踏んでいた。
しかしながら、大量の食糧を渡河させたことまでは掴んだが、それから先の情報がない。袁紹軍に上手く隠蔽されていた。
「渡河した袁紹軍にも出入りしているはずなのに、ここからの情報が一切ない」
「う~ん、どうしましょう?」
考え込む二人。そこに突然、声がかかった。
「入るぞ」
「え、ちょっ」
扉の方を見ようとしたアキラはバランスを崩し、椅子ごと後ろにひっくり返ってしまった。
「あたたた」
「何をやっているのだ」
すっ転んだアキラが見上げた先にいたのは、こちらを冷ややかな目で見る愛紗であった。そして彼は自然とある箇所に目がいってしまう。
「白か」
「早く起きろ」
今のつぶやきは幸いにも聞こえなかったようだ。彼はついでに風のも見た後、のんびりと立ち上がった。
「ちょっと話があるんだ。いいか?」
そう言うと、返事も聞かずに愛紗は部屋を出て行く。付いてこいということらしい。
やれやれ、と言いながら出て行こうとするアキラ。そのわき腹を、いつの間にかそばまで来ていた風がつねった。
「お兄さん、見ましたね」
ジトッとこちらを見上げる視線に、アキラはニヤリと笑う。
「結構、派手なのをはくんだな」
「お・に・い・さ・ん」
さっきよりも強くつねる。アキラはわざとらしく痛がる表情を見せた。
「おい、早く行くぞ」
付いてこない彼を、愛紗がイライラしながら呼びに戻ってきた。風はやっとのことで手を放すと、アキラに意地悪く忠告してみた。
「いたずらしたら、だめですよー」
わかってらい、というように乱暴に手を振ると、アキラは愛紗の後ろを歩いて行った。
愛紗に連れられて小屋の裏側を通る。そして彼らが辿り着いたのは人が少ない場所であった。
彼女はそこにいた見張りをどこかへ行かせると、そこに二人だけの空間が生まれる。
空には黒い雲が浮かび、その隙間から満天の星々が輝く。月が雲に隠れている今、一つだけ置かれたかがり火だけが、お互いの顔を照らしていた。
愛紗は立ち止まり、しばらくその星々を眺める。アキラは何も言わずにその姿を見つめるだけで、彼女の言葉を待った。
かがり火の中の薪がパチリと音を立てる。不意にアキラの方を向いた愛紗は、ようやく重い口を開いた。
「明日、出て行く」
アキラはまだ何も言わない。少しだけ顔を傾けた。
『なぜ?』
彼の眼差しがそう問うていた。
愛紗はまた空を見上げる。そしてその答えを述べようと、彼女はこう切り出した。
「夢を見た」
薪がまたパチパチと弾ける。
「私は仲間と一緒にいた。一緒に練習をして、一緒に食事を取り、一緒に歩いていた。その中では皆笑っていた。仲間も、兵士たちも、町の人々も。そしてその中心にいたのは」
また彼女はアキラを見た。お互いの視線がぶつかる。
「ご主人様と桃香様だった……」
そう言い終えると視線を落とした。申し訳のなさそうに、まるで叱られる前の子供のような表情を浮かべている。
再び炎が燃える音しか響かない。その沈黙に耐えられない彼女は、怒るように強い口調で言い連ねる。
「夢物語かもしれない!現実的ではないかもしれない!でも私は、ご主人様たちの夢を実現させたい!みんなが笑って暮らせる世の中を実現させたいのだ!」
聞いていたアキラは、彼女の眼から熱いものがあふれかけていることに気が付く。
「お前たちの姿を見て分かったんだ。ここは私の居場所じゃない。お前たちの姿に自分たちの幻影が重なるたびに、分からない違和感が身体にずっと溜まっていく。お前たちに愛着がわいている自分の姿が憎い。信じられるものが無い寂しさで、心が、痛むのだ!」
頬に一筋流れた。視線を伏せた彼女は力尽きたように、弱々しく言うのだった。
「訳が分からないだろう、お前には。今の私の感情も、私たちの夢も。お前たちは笑うに違い「笑わない」
愛紗が目線を上げた先には、真剣な表情のアキラがいた。
「笑わないさ」
「………」
アキラは自分の袂を探って何かを取り出すと、それを彼女に投げた。受け取った手の中を見ると、それは割符だった。
「曹操領の関所の割符だ。それがあれば、北郷たちがいる荊州北部まで行ける」
「い、いいのか」
「約束だからな。前の戦いの直後に、華琳に頼んでいた」
割符を握る彼女の表情はまだ暗い。これを受け取ることは、少しの間だが一緒に戦った仲間を裏切るように感じた。
「今の状況は分かっている。だが」
「この砦で一番暗い表情をしていたからな。お前がこれ以上、ここで戦うのは無理だ。気にするな。お前の判断は正しい」
「し、しかし」
「それによ。お前がいなくったって、俺たちは強いぜ。なめるなよ」
明るい表情で愛紗にウインクしてみる。それに救われたように、彼女は初めてクスリと微笑んだ。
言葉が途切れる。風が強くなったのか、雲が流れ始めている。
「聞いていいか?」
「うん?」
「お前の夢とはなんだ?」
愛紗の質問に対してまるで答えを用意していたように、彼は間髪入れずにこう答えた。
「自分らしく生きられる世の中を作ることだな」
首を傾げる彼女の眼をアキラはしっかり見つめた。それは愛紗が今まで経験した中で、もっとも強い視線だった。
アキラは続ける。
「お前たちの夢も正しい。皆が幸せに暮らせる。理想的だ。でも俺は、幸せっていうのは上から与えられるものではないし、それが全員を幸せに出来るとは思えない」
「………」
「そう思うからこそ、少なくとも努力次第で自分の幸せを作れる世の中にしたい。全員が自分の生き方に納得できる。そんな国を作りたい」
夢を語ることはその人を輝かせる。愛紗はそんな彼の姿に惹かれつつも、最後には首を振った。
「やはり、私の夢とは違う」
「……そうか」
愛紗はアキラの隣を抜けて、寝床がある小屋へと歩き出した。彼の言葉に満足した様子で、腑に落ちた表情をしている。
その時、雲に隠れていた月が顔を出した。辺りが急に明るくなり、2人は月を見上げる。
「ありがとう」
月を眺めながら、彼女は感謝を述べる。アキラが彼女に顔を向ける。月明かりに照らされたその姿は、息を飲むほど美しい。
「お前のおかげで進む道がはっきりした。ありがとう」
「こっちにとってはあんまり嬉しくないけどな」
「ふふ………アキラと呼んでいいか?私のことを愛紗と呼んでくれるか?」
こちらを見る愛紗。アキラは縦に首を動かした。
微笑む愛紗は最後に言った。
「アキラ。私は知らなかった。何もないと思っていた暗闇にも様々な光があることを。そして私は分かった。それでも、自分の光を信じるべきことを」
愛紗は去った。アキラはまだそこに立って、月を眺めていた。
「暗闇にも光があった、か」
彼女の言葉を繰り返してみる。去りゆく彼女を快く送り出せたことに、彼は満足していた。自分の対応に心の内で賛辞を送り、自然と口角が上がる。
その時だった。彼の頭の中で電流が走る。愛紗の言葉と彼の知識が結びついた。
「あっ!」
思わず声を挙げてしまう。そして弾かれたように彼は走り出していた。
その姿を見つめる巨大な月。その傍で小さな星が瞬いた。
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官渡の戦いが続きます。次話がこの章の最後です。