蜀の景耀六年十一月。
難攻不落をうたわれた剣閣が、ついに落ちた。
鍾会率いる魏軍の猛攻にも、剣閣を守る蜀漢の大将軍 姜維伯約は一歩も引かず、攻めあぐねた鍾会は、ついに退却を考えたほどだった。
ところが、別ルートを進んでいた鄧ガイ軍が、緜竹で諸葛瞻を破り成都に迫ると、蜀帝劉禅はあっさりと降伏してしまったのだ。
劉禅から『武装を解除して降伏せよ』との勅命を受けた剣閣の守備兵たちは、皆、茫然と天を仰いだ。
「まだ戦える! ちがうか、伯約?」
吼えるように叫んで伯約の肩をつかんだのは、副将の左車騎将軍 張翼伯恭だった。
「ああ、その通りだ、伯恭。我々は負けてはいない。ここにいる蜀軍はまだ十分戦える。だが、陛下は……成都はすでに落ちたのだ」
「――くそっ」
張翼は、剣を抜くと、怒りを込めて岩に叩きつけた。
それを見ていた将兵も、各々抜刀して岩に斬りつけ、剣閣は男たちの怒声と悲嘆に包まれた。
◆
深更、城砦の望楼の上に、ひとり凍てついた夜空を見上げる伯約の姿があった。
月はなく、吹きすさぶ寒風に星々が冴えた光を明滅させている。
(あの夜も、こんな星空だった……)
秋風吹く五丈原で、丞相諸葛亮孔明が逝った夜。
あの時のどうしようもない喪失感を、三十年たった今でも忘れることができない。
それまでは、彼の人の背中だけを見つめていればよかった。彼の人の指し示す道を、ただまっすぐに駆けていればよかった。
孔明は伯約にとって、天地を照らす唯一の灯りであり、己が進むべき指標だった。その灯りを、かけがえのない標(しるべ)を、あの夜、永遠に失ったのだ。
(私は、何を失った――?)
身体の半分を。魂を。生きる意味を。
伯約にとってそれは、世界のすべてだった。
だが、かれは同時に、死に臨んだ孔明から、『大切なもの』を託されてもいた。
死期を悟った孔明は、最期に伯約を枕元に呼び、凛呼とした声で告げたのだ。
「姜維伯約。我が生涯の希望を、そなたに託す――」と。
『希望』とは。
蜀漢の、いやこの国の未来。中国の大地に生きる、すべての民草の幸福。そして、劉備から孔明へと受け継がれてきた大いなる志、見果てぬ夢。
今しも彼の人の身から抜け出た魂魄が、己が身に宿ったような気がした。
身震いするほどの重圧と緊張感に、いても立ってもいられず、気がつくと陣の外れまで駆けていた。言葉もなく見上げた空には、何事もなかったかのように満天の星が静かに瞬いている。
(星は何も語らなかったが、あの時私には、確かに己が進むべき道が見えたのだ)
それからの日々を、伯約はただひたすらに戦い、駆け続けてきた。これこそが、彼の人の目指した道と信じて。
――だが、その大いなる希望が、今まさに消え果てようとしている。
もはや手立てはないのか。私には何もできないのか。
いや、まだ何か……何か方法があるはずだ。
「こんなところにいると風邪をひくぞ、伯約」
今は亡き恩師の無念を思い、我が身の不甲斐なさを嘆いていた伯約の思考は、野太い声に破られた。振り返ると、望楼のはしごから身を乗り出すようにして立っていたのは、張翼だった。
「もう真夜中を過ぎているぞ。何をしている?」
「星を……見ていた」
「星? 丞相の星か?」
勘のいい張翼の質問に、伯約は曖昧な微笑を浮かべた。
丞相の星。
(ああ、そういえばあの時、伯恭も一緒にいたのだった)
一人では起き上がることができないほど病が篤くなっても、孔明は陣の見回りを欠かさなかった。その途中、孔明は四輪車を止め、傍らの伯約に語りかけた。
――見よ、姜維。あれがこの孔明の星。そして、そなたを導いてくれる星だ。
彼の人が白羽扇で指し示した彼方には、北天にひときわ明るく輝く星があった。
しかし、孔明の死とともにその星は光を失い、今はもう、目をこらさなければ見ることができない。
◆
それから二人は、伯約の居室に戻り、酒を酌み交わした。
明日、伯約は蜀軍の最高責任者として鍾会のもとに出頭する。親しく杯を交わすのも、あるいはこれが最後になるかもしれなかった。
「明日は、俺も一緒に行くぞ。たとえどのようなことになろうとも、最期までお前の側を離れんからな」
「伯恭――」
いつもはほとんど酔いを顔に出さない伯約だったが、今夜はめずらしく目元が朱に染まっている。
「今まで君には、さんざん苦労をかけてきた。感謝している。とうとうこんなところまでつき合わせてしまうことになって、すまない」
伯約は、黙々と杯を重ねている張翼に向かって、小さく頭を下げた。
「今に始まったことか」
わざと突き放すように言いながら、いつしか張翼はしみじみとした声になっている。
「お前がひとりでどんどん先に進んでいくのを、俺は黙って見ているしかなかった。止めても聞くような奴じゃないからな。だが、その一途さがうらやましく思えたのも確かだ」
「………」
「まったくお前ときたら、いつもいっぱいいっぱいで、危なっかしくて、そのくせ意地っ張りで……。そんなお前から目が放せなくてな。気がついたら、こんなところで末期の酒を酌み交わしている、というわけだ」
「末期の酒、か」
杯に残った酒をぐいと飲み干すと、伯約は遠い目でつぶやいた。
「君にはよく叱られたな、伯恭」
孔明の死後、憑かれたように北伐を繰り返そうとする伯約を、常に押しとどめてきたのは張翼だったのだ。衆目の中で罵倒しあったことも一度や二度ではない。そのため世間では、二人の仲は非常に悪いと噂されていた。
「君だけじゃない。蒋エン殿にも、費イ殿にも。私はいつも叱られっぱなしだった」
「お前が無茶ばかりするからだろう」
ああ、とうなずいて、伯約は微笑を含んだ顔を張翼に向けた。
「それは、私が守りたかったものと君たちが守ろうとしていたものが、違っていたからだろう」
「どういう意味だ?」
「君たちは、いやこの地に連なるすべての者は、みな蜀漢という国を守ろうとしていた。蜀漢さえ安泰ならば、と誰もが思っていたはずだ」
「お前は違うのか? 伯約」
ふと上げた視線が、張翼の鋭いまなざしとぶつかった。
「私が守りたかったのは、……蜀漢ではない。陛下でもない」
「きさまっ!」
途端、張翼は酒器も杯も蹴倒して伯約に飛びかかった。その突進を敢えて正面から受け止めようとした伯約は、苦もなくその場に突き倒された。なお掴みかかろうとする張翼の手を抑えて、伯約は声をふりしぼった。
「聞いてくれ、伯恭。私が守りたかったのは、ただひとつ、丞相の夢――。あの日、丞相自ら私に託してくださった最後の希望なんだ!」
澄んだ双眸に涙がわきあがる。その涙を見て、張翼ははっと居住まいを正した。
「丞相は勅使に向かって、自分の後には蒋エン殿を、その後は費イ殿をと指名された。これは、蜀漢という国家の行く末を託されたものだ。だからこそ、お二人とも守りに徹し、丞相の死後も長きにわたって蜀漢の社稷を保ちえたのだと思う」
「………」
「だが、私が丞相から託されたのは、蜀漢という一国家の未来ではなかった。あの日丞相は『そなたに、我が生涯の希望を託す』と言われたのだ。『希望』とは何だ、伯恭? 丞相の生涯の希望とは?」
頬をつたう涙を拭いもせず、熱にうかされたように話し続ける伯約を、張翼はただ驚いて見つめていた。
いつも寡黙で、周りから何を言われても反論も言い訳もしない男だった。そんな静謐な佇まいの奥に、これほどに熱い激情を抱いていたのか。
「万民が平和に幸福に暮らせる世の中を実現させること、すなわち大徳による天下統一。それこそが、先帝から丞相に受け継がれた大いなる夢なのだ。天下三分はその過程に過ぎぬ。それゆえ、私は蜀漢を守ることだけに汲々としているわけにはいかなかった」
「だからお前は、無茶な北伐を繰り返したのか?」
「何としても、丞相の夢を叶えたい。丞相の最期を看取ったあの時から、いや蜀に降ったあの日から、この命ある限り、我が進むべき道はただひとつだ」
揺るぎない決意にあふれたまなざしを、いつしか張翼はほれぼれとした思いで眺めている。
この男は、最期の瞬間まで、その志を貫き通すだろう。
(――姜維伯約。見事な生き様ではないか!)
張翼は、心の底からうれしくなった。
「お前は馬鹿だ」
屈託のない笑顔で、伯約に杯を突き出し、酒を注ぐ。
伯約も笑って受けた。
「大将軍という最高の地位に上りつめながら、ほとんどが前線での幕営暮らしだ。贅沢もせず、妾を置くわけでもなく、まして殖財など考えたこともあるまい。お前の暮らしぶりを、宮廷で贅沢三昧な日々を送っているやつらに見せてやりたいものよ」
「私が、己の栄達や富貴を望んでここにいると思うのか」
「思わんさ。だからこそ、お前は馬鹿だというんだ」
「そうか。馬鹿に付き合わされる方はいい迷惑だな、伯恭?」
蜀に降って三十五年。ひたすら戦い続けた日々。果てしなく長い道のりだったようでもあり、あっという間の出来事だったような気もする。
(六十余年の生涯をかけて、もうひと勝負するのも悪くない)
不屈の思いが頭をもたげた。
「もし……」
――もしも、この場を生き永らえることができたら、と伯約は張翼の目をのぞきこんだ。
「そのときは、私に力を貸してくれ、伯恭」
ふん、と不敵な笑みを浮かべて張翼がうなずく。
「お前が何を考えているのかは知らん。だが、こうなったら腐れ縁だ。最後までつきあってやる」
(我が夢は消えず――。乾坤一擲、あきらめるものか!)
伯約の胸には、今もひとつの星が輝いている。周りを圧倒し、ひときわ明るい光輝を放つ『丞相の星』。その導きに従うだけだ。
――丞相。私の道は、今も先へと続いていますか? あなたが目指した天の高みへと。
姜維伯約の戦いは、まだ終わらない。
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夢を追い、夢に殉じた男、姜維の孤独な戦いを描く「遠志」シリーズ。剣閣は落ちても我が志は消えず! 蜀に降ったあの日から、姜維の進むべき道はただ一つしかないのだ。