あの夜、彼女は何を見つめていたのだろうか?
自身を形作るほどの深い心の傷が幽霊と呼ばれているなら、僕に憑依した最古のそれは女であった。
この醜い大地に、今の僕を産み落としたあの女は対照的に美しかった。
瞳を閉じて瞼の暗がりに映る彼女は今日も満月に妖しく照らされていた。
ただでさえ雪よりも白いあの肌が月明かりのせいで更に白かった。
そこからは生気を感じ取ることはできない。まるで死体のようだ。
もしかしたら、もうあの時には彼女はすでに死んでいたのかもしれない。
肉体の塔に幽閉された彼女を救えるのはあの不埒な時の翁だけだっただろうか?
男とは生涯一つの幻影を追いかけ続ける生き物である。
それは女性かもしれないし、理想とする社会の実現かもしれない。
悲しいかな、その幻想はその男にしか視えず、価値を見出すことはできない。
もし、出来たと嘯く者があれば、それは錯覚である。
別の幻に魅せられているのか、その者に取り入ろうとしているかである。
ただし、男は知らなくてはならない。
自分が金科玉条として抱き締めているものは死体なのだと。
自分はそのまやかしを例外なく容赦なく殺さなくてはならないのだと。
さもなければ自身は囚われの鳥なのだと。
女はたしかヒズと呼ばれていた。
彼女の母は、春を鬻ぐことで生の糧を得ていた。
父は本来ヒズの祖父にあたる飲んだくれらしい。
僕の村では、実の親子の間に出来た子に、「人ではない」という意味の方言であるヒズの名を与えていたのである。
世界は弱者への乱暴の手を決して緩めない。
ある満月の夜。僕からすれば彼女に初めて出会う数か月前。そして奇しくも初潮の晩。
つまらないゴロツキがヒズの両親を殺し、彼女の自我を粉砕した。
その愚連隊の中には僕の血縁者がいたことを告白しよう。
奴らは、まず初めにヒズと父を羽交い絞めにし、彼女の母が犯されるさまを4つの眼に刻み付けた。
次に、父親の腹を掻っ捌いて、内臓で彼の首を絞めた。
最後にヒズは、舌を切り取られ、獣の欲望のままに犯された。
その際、彼女は月に定まらぬ視線を送り続け、月は彼女を照らし続けていた。
ヒズは命以外のすべてを一晩で失った。
このことが最も苦痛ではなかっただろうか?
なぜ慈悲はもたらされなかったのだろうか?
なぜ彼女はあの時死ねなかったのか?
この感情はどこにぶつければいいのか?
彼女は村中を盥回しにされたあげく、障碍者を福祉事業として雇用していた我が家の牧場に転がり込んでくることになった。
彼女が我が家に連れてこられた当日、牛のお産の真っ最中のときであった。皮肉にも満月であった。
黄ばんだ麻布に包まれた彼女は村長に自身の首輪に指をかけられ、力任せに引っ張り回され、全身傷だらけだった。
ただ、今ならなぜこんなことがなされていたのかが分かる。
それは彼女が精神を病んでしまったからでも、近親相姦で出来た子だったからでもない。
男の醜い欲望を刺激するだけの美しさや儚さを彼女が十全に宿していたからだ。
だから、彼女の白い肌は赤、黒、紫、黄色のように様々な色が刻み付け続けられた。
透明の牛舎からヒズを目聡く発見した満月は彼女を照らし、月光を望む彼女は声にならない声で問いかける。
僕が彼女に会ったのはこの時だった。
それにつられたメス牛たちは鳴き喚き、興奮した牛たちは産んだばかりの仔牛を踏みつけ、錯乱した牛たちは其処等じゅうに何度も体当たりして息を引き取った。
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えげつない描写が含まれています。あと、作者は正気だと自分では思っています。