「、お降りのお客様は、傘や携帯電話の忘れ物にご注意下さい」
バスが停まる。錆びれたバス停と、腐ってボロボロになったベンチが目に留まった。バスは一時間に一本。典型的な田舎のバス停だ。
「思ってたより涼しいな」
それは左右に生えた木々が、トンネルのように私の頭上を覆っていたからかも知れない。一陣の風が、私を掠めてすり抜ける。冷房から出る風とは明らかに違う。押し付けがましくない、肩に入った力が抜けるような心地良い風だった。
自然と安堵の息が漏れる。郷愁にも似た思い。抱えていた不安や悩みも、今このときだけは忘れられた。
少女は一人、庭に植えられた大きなポプラの木にもたれかかっていた。目を閉じて、何ごとか呟いている。
一歩一歩、慎重に距離を詰める。
その距離約十メートル、まだ気づかない。
彼女まで後五メートル。彼女の声が聞こえた。蚊の鳴くようなその声は、歌だ。彼女は目を閉じて、歌を歌っていた。
日本語でも、英語でも、フランス語でもない。聞いたことのない言葉で歌を歌っていた。
「こんにちは」
歌を邪魔するのを承知で声をかける。少女の声が途切れ、彼女はゆっくりと目を開いた。
「……こん、にちわ」
綺麗な、瞳だった。漆黒、とはこんな色を言うのだろう。一切の恐怖も迷いなく、私を見つめる二つの深淵。純粋な美しさ、見る者を魅了する、日本刀を思い出させた。そう思えば、彼女が着ている全身真っ白な服は、白鞘のように見えなくもない。
「なんの歌を、歌ってたんだい?」
膝を折り、目線を少女に合わせる。なるべく優しそうな顔をして、少女に問うた。
「風さんの……うた」
「風の?」
風の詩、なんて名前の歌はありそうだが、どうやらそういうことでもないらしい。
「お兄ちゃんも聞こえないの? 風さんの足音」
哀しそうな顔をして私の瞳を覗き込む。
「ごめんね、お兄ちゃん耳が悪くてさ。風さんが何て言ってるのかわかるんだ?」
彼女が真実、風の声を聞いているのか。それはわからないけれど、それでも嘘をついているようには思えなかった。
「うん。風さんだけじゃなくて、木さんも、鳥さんも、水さんも、みんな私のお友達なの」
心底嬉しそうな声。向日葵みたいに明るい笑顔だ。
「隣に座ってもいいかい?」
名も知らぬ雑草が生い茂る、少女の隣を指差す。
こくりと頷き、少女が私の為に少しだけ横にずれてくれた。
ポプラの木にもたれて、目を閉じる。閉じた視界。耳をくすぐるのは、風の音と……これは少女の声だ。澄んだ声は、確かに風と同じリズムだった。輪唱のように風の後を追いかけて、私をすり抜け流れていく。
他の誰にも聞こえない風の足音を、少女は静かに歌っていた。いや、それはきっと私にも聞こえていたはずの音だ。風だけじゃない。木にも、鳥にも、水にも。この世界の生きとし生けるもの全てが歌を歌っている。今はそれが、聞こえなくなってしまっただけで。
時間が、どろりどろりと流れていく。ゆっくりと泥の中に沈み込むように、私はいつしか眠りに落ちていた。
気がつくと、西の空が真っ赤に焼け焦げていた。隣に座っていたはずの少女はもう居ない。風の足音も、もう聞こえなかった。
「……帰ろうか」
少女に話があったのだが、またの機会にすればいい。むしろ、ここにもう一度訪れる口実ができて、私の頬は緩んでいた。
白い建物を後にする。
バスはすぐにやってきた。車体を揺すりながら、ゆっくりこちらへ向かってくる。でこぼこの道をおっかなびっくり、という風だ。
ドアが開く。
「……院前、寺屋敷精神病院前、お降りのお客様は、傘や携帯電話の忘れ物にご注意下さい」
整理券を取って、ステップを上る。
冷房から出る風が背中を舐める。あまりの冷たさに身体が震えた。私は身体を小さくして、一番奥の椅子に座った。
…End
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男がそこに訪れたとき、少女は一人だった。
みたいな話。
2000字、原稿用紙5枚程度です。