1
「今日は望(のぞみ)の誕生日だよね。はい、これ。誕生日プレゼント」
その日を境に私は今まで彼女と会っていない。誕生日プレゼントを渡されたときに触れた手の温もりは、もうとっくに消え去っていた。
「早く良くなって、いつかこの空っぽのフォトスタンドに二人で並んだ写真を入れられるといいね」
誕生日プレゼントは彼女とお揃いのフォトスタンドだった。親友である彼女のその言葉が、私の生きるための唯一の希望となった。死にたく、ない。絶対に生きて、この希望を叶えてみせたかった。来るかもわからない明日に僅かな希望を託して……。
地方の病院から大学病院へ移って、一週間が過ぎた。
今は個室に独りきりで生きながらえている、という状態だった。圧倒的な孤独の重圧感にはどうあっても耐え切れなかったことだろう。しかし、私は耐えている。それは、親友である佐口麻衣(さぐち まい)がくれた一つのフォトスタンドがあるからだった。この空っぽのフォトスタンドのおかげで私は生きていられる。戦うことができるのだ。 私の住んでいたところからこの大学病院まではかなりの距離があった。さらに私と麻衣は受験を一ヵ月後に控えた受験生であるため、麻衣が見舞いにこられないのも無理はない。だが、励ましのメールはかなり頻繁に送られてくるので、それだけでも十分嬉しかった。麻衣には絶対に受かってほしい。私の分まで勉強してほしい。今の私には祈ることしかできなかった。
毎日のように静かな部屋で暮らす。想像よりも現実ははるかに厳しかった。テレビの音は聞こえないし、誰かの笑い声も聞こえない。聞こえるのは看護士さんの声や自分の息遣い、雨風の音ぐらいだった。時計は音が聞こえない時計らしい。そのほうが怖くなくていいのかもしれないが、全くの無音というのも怖いものだった。
『死』と隣り合わせ。一瞬でも気を抜けば死んでしまうような、そんな不安定な感覚。自分がこんな風になってしまうなんて、誰が予想しただろうか。今日もまた音のない世界で眠りに就く。
真っ白な部屋で窓の外の青空を見つめて、二週間が過ぎた。
外は乾いた冬の空が広がり、木々が寒そうに震えていた。昨日、母が見舞いに来てくれ、小さな花と新鮮な果物を置いていってくれた。私は甘い蜜柑を食べながら外の景色に目をやっていた。
しばらくした後、お医者さんと看護士さんが来て、診察をしてくれた。私の状態は一向に良くならない、と言っていたのでどうしても私は不安を隠しきれなかった。安静にしていれば絶対に良くなると言って部屋を出て行ったが、その言葉は信じ切れなかった。そういえば、最近誰かを信用したことがないと気づいた。信頼関係なんてすぐに消える幻のようなもので、時が経てばいつかはなくなってしまうと思うけれど、本当にそうなのだろうか。
今日もまた麻衣からメールが来る。そう信じていたのに、今日は来なかった。私がこの病院へ来てから初めてのことだった。どうしたのだろうか。不安はじりじりと心を焦がし、携帯の画面から目を離させなかった。
2
自分の存在を強く想って、三週間が過ぎた。
また今日も麻衣からのメールは来なかった。しかし、友人を疑いたくはなかった。でも逆に、信じ切ることはできなかった。それが無性に哀しくて、嫌気が差した。
私は、このフォトスタンドを離さない。それだけが、私の命を支えてくれているようだった。もしこのフォトスタンドから手を離してしまったら、このままずっと独りきりになってしまうような気がする。だから、どんなに苦しくても、辛くても、この手は離さないって決めた。
そう自分に何度も何度も、飽きるぐらいに言い聞かせる。
命の灯火を燃やし続けて、四週間が過ぎた。
勉強が忙しいのだろうか。麻衣からのメールは一週間以上も途絶えていた。便りがないのは無事の証拠というが、やはり不安の念はやまない。それもそのはず、もう来週には受験がスタートするのだから無理もない。麻衣にはひたすら頑張ってと祈るしかなかった。
外は冷たい冬の雨が降っている。雪になりそうなくらい空は暗かった。そしてその空を反映したかのように私の心の中も暗く、濁っていた。
どうして、こうなってしまったのだろうか。どうして私はこんな形でしか生きられないのだろうか。どうして、私はこんな身体になってしまったのだろうか。
麻衣……。
既に私は哀しみを通り越していた。
言葉を使う機会が極端に少なくなって、五週間が過ぎた。
今は受験シーズンの真っ最中である。麻衣は頑張っているだろうか。努力の成果を十分に発揮できたのだろうか。期待と不安が胸に渦巻く。
私は今日、手術を受けることになっていた。それは生まれて初めてのことで、とても緊張していた。大丈夫。受験と同じだ。麻衣と同じ。……でも、麻衣は元気で、私は病気。考えてみると、全然同じではなかった。
しばらくすると、コンコンとドアをノックする音が聞こえ、「水谷望さん」と名前を呼ばれた。私は返事をすると、お医者さんと看護士さんが部屋へ入ってきて、私を車椅子へと座らせ手術室へと向かった。
手術室に入り、麻酔を打たれて、私は眠りに就いた。刻々と時間が過ぎ去っていく。静かで、どこか異世界のようだった。このままずっと目が覚めなければいいとさえ思った。
私は生きられるだろうか? また、麻衣に会えるかな……。麻衣は何て言うかな……。何も言わないのかな……。私のこと、嫌いになっちゃっただろうな……。忘れられちゃったかもしれないな……。
「勉強がしたくないならしなくてもいいし、悲しいときには目が腫れるほど泣いてもいいよ。だけど、生きることからは、逃げないで」
誰かが言っていた言葉。私を励ましてくれる言葉。誰だったかな……。
私はハッと目を覚ました。辺りを見るとそこはいつもの病室だった。いつの間にか手術は終わっていて、私は夢を見ていたらしい。外で母とお医者さんが話をしていた。聞こえた単語は「成功」と「退院」だった。
3
期待を胸に膨らませ、数日が過ぎた。
「一ヵ月後に退院することになったよ」と麻衣にメールを送ると一分もしないうちに返信が来た。内容によると、麻衣は喜んでいたので、私はとても嬉しかった。良かった。嫌われていなかった。忘れられてはいなかった。生きる理由と出会うことができた。私は再び、自分の足で大地に触れる。
さらに追伸があり、麻衣は無事第一志望校に合格することができたというので、その喜びは二倍だった。
そして、リハビリが始まった。今まで全く体を動かしていなかったので、リハビリは相当辛かった。でも、今までの辛さに比べたら雲泥の差だった。
私は今もその手に空っぽのフォトスタンドを握っている。片時も忘れなかった親友。片時も離さなかった想い。随分時間がかかってしまったけれど、やっと、前に進むことができる。そう思うと、喜びを隠すことは完全に不可能だった。
眠れない夜に別れを告げて、数時間が過ぎた。
車に揺られて、私と母は家へと向かっていた。何ヶ月ぶりだろうか。周りの懐かしい景色に思わず感慨を覚えた。
麻衣には病院で「これから家に帰るよ」とメールしていたので、家に着くと麻衣が家の前に立っていて迎えてくれた。
「退院、おめでとう」
「合格、おめでとう」
何ヶ月も顔を合わせていなかった二人は以前と変わらない態度でそれぞれに接することができた。時間は、何も変えてはいなかった。そう、まるで、写真のように。
麻衣は私が手にしていたフォトスタンドを見ても、当たり前だという顔をしていた。このフォトスタンドから手を離さなかったからこそ、またこうして麻衣と出会えることができたと私は思った。決して、奇跡や偶然じゃないと信じたかった。
私と麻衣は、私の母に写真を撮ってもらい、私の家で何時間も飽きずに話した。受験勉強のこと。病院生活のこと。それぞれの辛かった日々は、こうして報われたんだなあと思った。
やっと、帰ってこられた。やっと、独りじゃなくなった。麻衣がいれば、これからどんなに辛いことがあっても乗り越えられそうな気がした。
「ねえ。散歩にでも行こうよ」
麻衣が提案した。私には麻衣という信じられる大事な友達がいる。時が経っても、信頼関係はすぐに消える幻のようなものではないとわかった瞬間だった。
「うん! 行こう!」
――勉強がしたくないならしなくてもいいし、悲しいときには目が腫れるほど泣いてもいいよ。だけど、生きることからは、逃げないで。
そう言ってくれたのは他ならぬ麻衣だったと、今になって思い出した。私を励まして、そして、救ってくれた。
今、私の前には一枚の写真が入ったフォトスタンドがある。
世界で一番大事な人と撮った写真。その写真にはたくさんの思い出が詰まっている。だけど、このフォトスタンドには、写真には収めきれないほどの大切な思い出が詰まっているんだよ。
私の頬には、いつの間にか涙が流れ落ちていた……。
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高校生のころ書いた小説その1。
「このフォトスタンドには、写真には収めきれないほどの思い出が詰まっているんだよ」
重病を抱えた私は地方の病院から大学病院へ移り、手術を受けることとなった。私を唯一支えてくれたのは、一番の親友からの誕生日プレゼントである空っぽのフォトスタンドに写真を入れたいという希望だけだった……。
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