【序文】
本書は先の戦役における我が国の決戦兵器である“艦娘”について記録された当時の機密文書である。
太平洋戦争終戦後に突如として現れた“深海棲艦”。
戦後日本に襲い掛かった未曾有の脅威に立ち向かうべく、残存した帝国海軍の誇りを守った防人たちで結成された“対深海棲艦部隊”。
前線に立ち、護国の為に戦った彼女たちは、一体どのような存在であったのか。
大規模な深海棲艦討伐戦役よりXX年の今、機密とされていた艦娘の取扱説明書と共に、当時の艦娘たちの話を脚色を含めて『艦娘拾遺集』として発表する。
19XX年 8月某日
***
『艦娘取扱説明書』
以下に記すものは、帝國海軍所属艦艇における最重要機密である。
如何なる場合においても外部に持出、口外することを禁ずる。
― 大日本帝國海軍 艦政本部
【“艦娘(かんむす)”とは】
“艦娘”とは、我が大日本帝國海軍が深海棲艦との決戦において有効たる手段として呉の造船実験部が開発した兵器である。
他のどの国も持ち得る事ができない、ヒト型を成し、ヒトのように振る舞う『考える武器』である。
機動性に優れ、戦術を学ぶことができる
これらは個体ごとにそれぞれ異なる『帝国海軍所属艦艇』の戦闘記録を持った艤装を施され、其れを以って然るべき艦艇名が与えられる。
艦娘はその名の通り、若い娘の形を模している。
これは古来神話の時代より、女性、殊更に未通子における“魔を封じる”巫女としての役割があったからだとされている。
また、敗戦により憔悴しきった国民の士気高揚や多く遺された女子や戦災孤児の共闘意識を高めるため、つまり世論誘導の材料としても有効である。
【艦娘の運用方法】
各鎮守府を通し、彼女達は各地に続々と配属されている。
彼女達は主に江田島育ちの選りすぐりの士官によって指揮される。
※)実際は、多数の戦死者を出したことによる人材不足や戦後の軍事裁判における士官以上の投獄などにより、
下士官以下の兵を復員させ指揮に当たらせることが殆どだった。
対深海棲艦部隊が大規模に展開されてからは、経験の浅い志願兵により指揮されることもあった。
そして指揮官は、女の形をした艦娘達に、男としての劣情、その他の思慕を決して催してはならない。
彼女達は誇り高き、帝国海軍の艦艇なのである。
※)艦娘に対する想いを綴った指揮官や兵士の手記も少なくない。
男所帯の海軍では《掃き溜めに鶴》である艦娘に思慕を抱いた例は多かったようだ。
但し、艦娘は恋愛を固く禁じられていた為、互いに軍属である以上はその想いが彼女達に届くことはまず無かったと思われる。
詳しくは【艦娘の感情制御】を参照。
【装備】
艦娘は船体と艤装の二つを組み合わせることにより作られる。
“船体”とはつまり身体のことである。
特殊な技術を用いて開発された合成蛋白質を主とし、ほぼ人間と遜色のない見た目と機能を持つ。
但し人工内臓の機能は効率重視の為殆どの場合停止している。
その為、海水以外の異物、もしくは食物を経口摂取すると船体に重大な損傷を受けることになるので注意されたし。(詳細は【補給の代替行為としての食事】にて説明する。)
“艤装”とは彼女達が用いる武器であり、多くの場合、帝国海軍艦艇に倣ったものとなる。
艤装には様々な艦艇の装備を忠実に且つ扱いやすく作られており、また、その艦艇の大戦当時の戦闘の記録、艦艇に残った“思念”が組み込まれている。
これを装備し、船体と神経接続することにより艦艇の記録が船体に流れ込む。ここで初めて“艦娘”と呼ばれる代物になる。
装備は用途によって換装が可能となっており、必ずしもその艦艇に忠実なものを用いなくてもよい。
しかしその場合、他の艦艇の“思念”が混在しないように注意されたし。
多くの場合は、工廠にて“思念”の抹消と書き込みを行っている。
装備には艦娘自身の力のみでは運用できないものもあるので注意されたし。
艦載機の原動力は■■(通称:妖精)であり、撃墜され機体を失っても速やかな補給が可能である。
※)この部分は原本からして黒塗りされており、未だに艦娘の使役した航空機が一体どのような原理で運用されていたのかは不明である。
一説によれば、艦艇の“思念”と同じように航空機乗りの“思念”を掬い上げ、それを何らかの形で原動力としていた可能性もあるという。
事実、『航空母艦 飛龍』が後年用いた艦載機には実際の『飛龍』で戦果を上げた『友永隊』の銘を打たれた艦載機があった。
また、艦娘たちの艤装は船体との神経接続回路の切り替えにより速やかな解除が可能である。
武装が禁止されている場所へ立ち入る際や、その他主要な軍議に出席する際には、艤装の解除が必要になる。
【戦闘時における注意】
艦娘による戦闘行動は基本的には洋上に限定される。
六隻までの編隊を組み、艦娘のみで、あるいは提督を伴い出撃する。
艦娘に損害が出た場合、無理に進軍すれば程度により轟沈する可能性がある。然るべき時には転進の判断も必要である。
艦娘は艦である。沈めば、二度と元の姿では戻らぬということを肝に銘じておかねばならない。
深海棲艦側の艦艇に、帝国軍保有の艦娘に酷似した■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
※)以下の記述は一頁以上に渡り全て黒塗りにされ、GHQによる《検閲/censored》の印判が押してあった。
恐らくは、造船実験部が掴んでいたものの現場に知られては不都合な事実があったものと思われる。
この原版を所持していた提督がこの頁の欄外へ書き込んだと思われる、独逸の哲学者ニーチェの一文を、本稿にそのまま残し記載する。
"Wer mit Ungeheuern kampft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein."
『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』
(「妄想艦娘取扱説明書」より抜粋)
9月の初め。
勝者の艦の中で、敗者が降伏文書に署名をしてから少し経ったある日の事。
―…“船幽霊”だと、誰かが云った。
戦後の武装解除命令により役目を追われ、補償艦として米海軍に曳航されていた建造途中の艦艇が、突然雷撃を受けた。
勿論、帝国海軍の艦艇の仕業ではない。味方の誤射でもない。
誰の仕業か。
結局、攻撃してきた者は解らぬままだった。
彼らの周囲の海域には、船影も機雷も見当たらなかったのだ。
そして何より、彼らは全てその“解らぬもの”より襲撃され、撃沈されてしまったのだから。
その正体が明らかになったのは、秋も深まった10月の中ごろの事だった。
『深海棲艦』。
研究者が“船幽霊”に与えた名前は、直ぐにGHQとその管理下に措かれた帝国海軍軍令部の知るところとなる。
海の底より這い出た未知の敵は、間も無くして南西諸島沖で“艦隊”を成して我々に言葉なき宣戦布告を突きつけてきた。
人々は戦後の混乱期に顕れた新たな脅威に恐怖した。
一体深海棲艦とは何者なのか。
防戦一方の『新たな戦争』。
疲弊しきった極東の島国は、その攻防の行方を戦々恐々と見つめるほかなかった。
季節は長い冬を過ぎて春になり、其処からまた一年を経て、気がつけばまた、春になっていた。
***
【1947年4月 横須賀】
飛び交う言語は全て英語。
アメリカ製の自動車が走り回り、『U.S.NAVY』の標識が至る所に掲げられている。
懐かしい景色のはずなのに、まるで違う国に来たような寂しさを覚える。
旧帝国海軍横須賀鎮守府。
駐日米軍基地として接収された赤煉瓦造りの館、その門の前で、彼は俺を待っていた。
「おお、来たか。まあ、入れ」
かつての上官は、あの頃海上で見た凛々しい横顔を幾分か草臥れさせていた。
無理もない。士官というだけで捕らえられ、無罪放免になったはいいが、今度は家族と離れ占領された基地で働かされているのだ。
終戦後すぐに実家へ戻り、家族としばしの安息を享受し暮らしていた自分の身を、少し恥じた。
「お父上のことは、残念だった」
名ばかりの監視部屋だよ、そんな言い方で案内された彼の執務室。
若い米軍兵士が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、彼はまず俺の父のことに触れた。
「無念ではありますが、誇りに思います」
海に散った父は、今は小さな桐箱になり家族と共に在る。
善き父だった。俺を海へと駆り立てたのも、勇敢な父の背中だった。
「だが君が生きていて何よりだよ。こうして呼びつけるのも、本当は少し申し訳ない気もしている」
彼は小さく呟いてカップを置くと、一つ溜息を吐いてから、鋭い眼差しで俺を睨んだ。
「大体の事は聞いているな」
「はい」
大体の事。
それは数日前、軍令部の使いが寄越した封筒の中身のことであろう。
機密の二文字と蝋で封印されたそれを受け取って直ぐに、良くない報せであると察しがついた。
心配する叔父と母、妹を誤魔化して、自室で封印の中身を検めその全て机の上へ広げてみる。
交戦中の艦隊が映る何枚かの写真と被害状況の資料。息が詰まる。
あの“深海棲艦”の具体的な情報を得たのは、初めてだった。
一般市民に知らされている以上に被害は甚大であり、状況は悪化している。
最早米英海軍の力だけでは抑えておくことは難しい。
力を貸して欲しい、と書かれていた一筆箋の文字は、同じ艦に乗っていたこの上官のものであった。
翌日、俺は母と妹に旧友に会いに行くと言い、叔父には二人を頼みますと頭を下げ、一人横須賀へ向けて故郷を発った。
* * *
何処かで、大きな鉄の塊が落ちたような音がした気がする。
あるいは、それは俺の頭の中でだけ鳴り響いた音かもしれない。
ガン、という轟音が耳鳴りのように反響して、頭の天辺から爪先まで血の気が引いていくのが解る。
手渡された資料に記された“新造艦”、それは明らかに“ヒト”の、それも“年若い娘”の姿をしていたからだ。
「これは…人間じゃないか…?」
もしや、これは所謂特攻兵器の類ではないのか。
資料を握る手が震える。嫌な汗が噴き出してくるのが解る。
俺は思わず隣の男を睨んだが、彼はといえば、先刻と何も変わらない表情でこちらの様子を伺っている。
「やっぱり、そういう反応になりますよね」
「やはりとは何だ…じゃあこれは、そういう事なんだな?」
胸倉を掴むと、痩せの男はいとも容易く持ち上がった。
地面から浮いた足をバタつかせながら、男は苦悶の表情で訴えかける。
「早合点しないでください!これは人間じゃないんです!落ち着いて!」
「人間でなければ何だと言うんだ、人形か?そうやってまた兵士の命を」
「ああもう!軍人に説明すると何時もこうだ!」
手の甲に、彼の爪が突き刺さる。そのまま力任せに引っ掻かれ、俺は思わず手を引いた。
そのまま尻餅を付くように逃れた彼は、激しく咳き込んで何度も唾液を吐いて捨てる。
我に返った俺は、真っ赤な顔でぜいぜいと呼吸する彼の肩を抱いた。
「あ…す、すまない…本当にすまない、悪かった…」
彼は俺に大丈夫と手で合図すると、口元を拭いながらゆっくり立ち上がる。
「大尉どの…誤解です、本当にこれは人間じゃないんです、僕らが作った“フネ”なんですよ」
そうは言われても、人の形をした艦船など聞いたことがないのだ。
彼の言葉を信じろと言われても、俺は狐に化かされている気持ちで受け取るほかない。
床に落とした資料を拾い上げて、もう一度それに目を落とす。
女性の身体に、数々の兵装。
人の形をしているなら何故、何故このような女子の形であるのかも理解し難い。
解らないことだらけだ。俺は思わず頭を抱えた。
「直接見て頂いた方がいいですね、これは」
今度は彼が俺の肩を叩く。そして壁際の大きな鉄の引き戸の前まで俺を誘った。
「大尉は、深海棲艦を直にご覧になったことは?」
俺が首を横に振ると、彼は扉の取っ手に手を掛け一気に引いた。
重たい音と金属の摩擦音がして、次の瞬間、大きなガラスの容器に封印された標本が現れた。
それは、死体、だった。
「…ヒト…これは…人間、人間の女、の、水死体じゃ…ないのか…!」
真っ黒な長い髪を重油のように顔に張り付かせ、水の中を漂っている。
白く濁った眼球は虚空を見つめている。呼吸器のようなものをぶら下げた口元は伺うことが出来ない。
苦悶でもなく憤怒でもない、無表情。まさに無だ、感情を失った、人形のように思える。
「ヒトではありません。紛れもなく、あの“船幽霊”、深海棲艦です」
* * *
これが…“艦娘”…」
あどけない顔に、華奢な手足。どう見ても女学生、栗色の髪をした者に至っては幼子のようだ。
微動だにせず、水中を漂う彼女達。
水漬く屍。
そんな言葉を連想してしまった俺は思わず目を逸らそうとした。
だが、ふと一瞬目にしたその表情はまるで眠っているように穏やかで、美しい。明らかに先刻の標本とは違うと思わせた。
「深夜の作戦行動で疲弊したので、今少し休ませています。あと半時もすれば、目を覚ましますよ」
「作戦行動?もう実戦に投入されているのか」
「ええ」
知らなかった、いや、今は軍の一部の人間にしか知らされていないのだろう。
大衆が知れば、先刻の俺のような拒否反応を起こすのは間違いない。
彼は横に置かれたブリキのバケツの数を数えながら、説明する。
「今は人工の蛋白質で出来た船体の傷を自己修復させているところです。擬装は工廠で直しています。
左から叢雲、五月雨、漣、電。もう一隻居るんですが、今佐世保まで遣いにやってまして」
よく知った名前だった。
帝国海軍に所属していた数々の駆逐艦、其れ等と全く同じ名前。
『叢雲』と呼ばれた少女の色素の薄い髪が、液体の中でたゆたう。彼女の瞼が動いて、ゆっくりと持ち上げられた。
目を、覚ましたらしい。緋色の瞳が、夕暮れの空を思わせた。
俺はもう一度だけ、彼に問う。
「本当に、本当に彼女達は軍艦なんだな」
「はい。彼女達は、紛れもなく我が大日本帝国海軍の誇り高き軍艦です」
澱みの無い声で彼は頷く。
何てものを造ってしまったんだ。
(「序章」より抜粋)
「いやあ、しかし暑いですね」
シャツの胸元を扇ぎ、彼ははあはあと息を吐く。
横に並んだ加賀は、まだ幾らも歩いていないのに、本当に海軍で鍛えられた男なのかと不安になる。
そんな情けない提督の姿を横目で睨んだあと、改めてその服装を頭から爪先までじっと眺めてみた。
麻のシャツに紺色の綿のパンツ。
パナマ帽を被って腰には汗拭き用の手拭いをぶら下げて。足元に至っては雪駄履き。
まるで畑の様子を見に行く農夫のようだ。恐らく、誰も海軍の士官だとは気付くまい。
幾ら余暇に友人と会うからと言って、軍人としてどうなのか、という気持ちがふつふつと沸いてくる。
これで相手が軍装だったりしたら目も当てられないではないか。
思わず、苦言を呈するに至る。
「提督、余りだらしのない格好で出歩かれては、皆の士気に関わるわ」
「でも、今日は暑いじゃないですか。それに、言うなら出発前に言ってください」
「…そうね」
しかし、のらりくらりとした返事しか返ってこない。
彼が艦隊司令官に着任して以降、秘書艦として長い付き合いになる。解っていたことではあるが、彼に対して唯一、どうにかならないものかと思うところでもある。
「おっと、いけないいけない」
彼は何かを思い出したように立ち止まると、半歩後ろで同じように立ち止まっている加賀に向き直り手を差し出した。
「持ちましょう、ご婦人に荷物を持たせたままなんて、失敬しましたね」
脱帽して会釈する仕草は、幾ら崩した格好であっても、紳士のそれだ。
加賀はどうしたものかと一瞬だけ思案したが、直ぐに首を横に振る。
「特別重たいものでもないし、気遣いは不要です。それに、私は貴方の秘書艦ですから」
「今日は非番です。あなたは私の秘書ではなくて、お茶に付き合ってくれる優しいご婦人だ」
「そういう言い方は、好ましくないわね」
どうやらその包みを此方に渡すつもりはないらしいと悟った彼は、何だか可笑しくなって少し笑い、そして再び駅のある方へと歩き始める。
そこいら中で、ジーワジーワと蝉がけたたましく鳴いている。
それが余計に暑さを感じさせるような気がして堪らない。彼は振り返り加賀の様子を伺った。
「…何でしょうか」
「加賀さんは暑くないんですか」
「ええ」
いつもの弓道着ではなく、紗の生地の着物に女袴を穿き、それでも涼しい顔をして歩く加賀。
和装はどうしても暑そうに見えてしまう。彼が滅多なことでは浴衣すら着ない理由がそれだった。
加賀がこの夏の日差しの下で汗の一筋もかかないのは、きっと艤装の排熱や爆風の中にいることに慣れている所為だろうか。
「加賀さん、たまにはワンピースとか、涼しい洋服を着てみてはどうですか。そうだ、ウチののお古で良ければ今度送って」
「いえ、お気持ちだけで結構よ」
最後まで言い切らないうちに彼の提案を丁重に断る加賀。
苦笑して頬を掻き、彼はそれきり黙って歩を進めた。
街が近付いてくると、人の姿も増えてくる。
やはり、彼が海軍士官であるということに気付く人はなく、また、傍らに伴った凛とした美女を、艦娘だと思う人もなかった。
「こんにちわあ」
汗をいっぱいかいて顔を泥で汚した幼い女の子が、二人に向かってにかっと笑って挨拶をくれる。
彼はパナマ帽をひょいと掲げて「はいこんにちわ」と挨拶を返す。加賀も会釈をして彼女の笑顔に目を細めた。
やがて彼女は母親らしき女性に呼ばれ、二人を通り過ぎ一目散に駆け出していく。
その笑顔が移ったように、彼は上機嫌の笑顔のまま加賀に話しかけた。
「いやあ、うちの子もあのくらいの歳です」
「そうですか」
「加賀さんは、子供は好きですか」
「そうね、嫌いではないわ」
加賀は頭の中に鎮守府の中を駆け回る駆逐艦や、風呂場ではしゃぐ潜水艦を思い浮かべた。
“ヒト”の子供と同じく定義していいかは解らない。でも、皆、大切な仲間で、嫌いではないし、守ってやりたいと思う。
何となく、加賀は振り返ってあの女の子の姿を探してみた。
しかし既に、彼女の背中は見えなくなっていた。きっと母親と共に我が家へと帰っていったのだろう。
「加賀さん」
不意に名を呼ばれ、加賀は我に返って前方に向き直る。
ごめんなさい、加賀が返事をするのを待たずに、彼はそのまま言葉を続けた。
「結婚、って、どう思いますか?」
(「加賀」より抜粋)
「ねえ、天龍ちゃん」
「何だよォ」
「艦娘ってね、恋したら、死んじゃうんだって」
言っている意味が、よく解らなかった。
天龍は布団から顔を出して、龍田の表情を伺った。
龍田はまだ、本に視線を落としたままでいた。その本のある頁をなぞる様に指を滑らせる。
「死ぬって、大袈裟だな。何かあれだろ?よく解んねーけど、他所へ嫁に行くなら、艤装と接続できないただの人間にならなきゃならねえって事だろ」
「それを“死ぬ”って言うんじゃない?」
ぽつりと聞こえたその言葉に、天龍は急に寂しさを覚え、布団の中から手を伸ばして龍田の腕を握る。
「そんなに死ぬ死ぬ言うんじゃねえよ」
「あらぁ?天龍ちゃんに言われたくないわね~」
龍田が笑って枕元に置いた本の背表紙には、『家庭で作る 小麦パンのレセピー』と洒落た文字で書いてあった。
* * *
「天龍ちゃん、天龍ちゃんってば」
「…んあ」
乗り合いバスの一番後ろの席で、龍田の方に寄り掛かり転寝をしていた天龍。
涎が口の端から零れそうになるのを見咎めた龍田に揺り起こされて、何とも間の抜けた声と同時に目を覚ます。
「次が終点よ~?」
「あ、ああ、そっか」
涎を拭い、大きく伸びをする。
窓の外は、もう既に駅前の商店、露天街に差し掛かっていた。
あまり鎮守府の外へ出ることがない、出るといえば専ら海の天龍にとって、繁華街の喧騒はむず痒く感じられる。
何より久し振りに艤装を一時解除した所為で、妙に身軽な身体が気持ち悪くて仕方がない。
一方龍田は提督付きの秘書艦をしていたこともあったから、街場に来ることには慣れているらしかった。
手慣れた様子で二人分の運賃を払い、迷うことなく何処かを目指す。
「ちょ、待てよ龍田」
「早くしないと、置いていっちゃうわよ~」
バスから見えたあのごちゃごちゃした露天街の道を、人の隙間を縫うようにして歩く龍田。
その背中を見失わないように、時に財布を掏ろうと近寄る悪党の手首を捻り上げて蹴倒して、天龍は追いかけた。
商店が少なくなり、周囲が皆民家ばかりになると、人通りも自然と少なくなった。
下町の住宅街特有の湿った空気。天龍は溜息を吐いて龍田の肩を掴んだ。
「ンだよ全く…何であんなに人がいるんだよ…」
「街だもの、そりゃあ人はいるわよ~」
と、龍田が足を止めたのは、一軒のパン屋の前だった。
パン屋、と解るのは、申し訳程度に下げられた看板にそう書いてあるからで、建物だけを見たら全くただの民家のようでもある。
天龍は龍田が読んでいたあのレシピ本の事を思い出し、何か関係があるのかと聞こうとしたが、何となく止めておく。
龍田はガタつくガラス張りの引き戸を遠慮なく力任せに開け放つと、やはり民家じみた玄関に無理矢理並べた棚、その上に乗る何種類かのパンが不自然な光景となって現れた。
ごくありふれた普通の家屋の普通の玄関に、パンが飾ってある。やはり不自然だ。
だが鼻腔を擽る香ばしい香りが、『パン屋でござい』とばかりに違和感を捻じ伏せてくる。
天龍はすっかり物珍しさに魅入られて、きょろきょろと狭い店内を見回していた。
「こんにちわぁ」
龍田が棚の向こうの廊下に向かって声を掛けた。
ややあって、廊下の突き当たりから粉だらけの手を手拭いで拭いつつ白いコック着の男が此方へ歩いてくる。
(「龍田」より抜粋)
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