月が煌々と冴えていた。
夜警の当番の巡ってきた足柄さんは、ともかく既定の巡回ルートをひとまわりし終え、宿直室に戻ろうとしていた。
空を見上げても曇らしい影はどこにもない。ただし、月齢が満月にほど近いため満天に広がるはずの星々も、よほど等級の高いものでなければ目に入らない。やや小高い丘陵の上に建つ鎮守府庁舎から港の、さらにその先の海原に視線を移してみても、わずかに港に隣接した工廠から洩れ出る灯の明滅するほかは、海と空の境目すら知れぬ闇が満たしているばかりだ。
対岸の町の明かり、海面に照る漁火、そんなものさえどこにも見当たらない。
足柄さんはまといつく熱帯夜の暑気を払うように髪をかき上げたが、甲斐のないことが確かめられるばかりで、ためいきを一つついてその場を立ち去ろうとした。
けれども振り返り際に、ある違和感が体を止めた。
なにかがおかしい。
直観を信頼して、改めて眼下の景色を確認しなおしてみる。既にそこから感傷の色は失われている。わずかに立ち位置が変わったのも幸いしたのかもしれない。やがて違和感の正体に思い当った。
工廠から発せられる光に隠れるようにして、微々たるものではあったが、ずっと手前でともされる明かりが認められた。
それは楡の木立の合間から、おぼろげにかすんでのぞく燐光だった。
「いらっしゃい」
丑三つ時には少々早い。
ということは、その手のものが活動をはじめる準備運動をしている頃かもしれない。
苦笑も出ない冗談だが、工廠より鎮守府へと続くなだらかな斜面を迂回する小道を下りた足柄さんを出迎えたのは、あるいは幽霊や百鬼夜行といったものより、なお恐ろしいものだったかもしれない。
「あら、足柄ちゃんじゃない。お勤めご苦労さま」
天龍型軽巡洋艦二番艦龍田はそういって会釈してきた。
夜勤をねぎらう言葉も、満面にたたえられた作為ない笑顔も、額面通り受け取るのならば、なんら奇異なところはないはずだった。受け取れさえすれば。
枝々の隙から垣間見えた灯かりの光源は提灯だった。小道の途中に提灯だけが掛けられているというのもずいぶんと不気味だったろうが、人目につかない場所に突如屋台が姿を現すというのもかなり当惑させられる。
丘陵の傾斜に根を下ろした楡の木々、そのうち最も年経た古木に、軒を借りるようにして、枝を雨よけ代わりに屋台は置かれていた。天秤棒を渡した肩掛けの移動式だが、暖簾をあげて、屋根の両側には足柄さんが目撃することになった提灯が吊るされていた。
もちろん昼間にはこんなものはなかった。夜でこそ人通りが絶えて、陰鬱な雰囲気をかもしだしているが、日の出ているうちは兵隊ばかりでなく、鎮守府内で働く人々の往来が激しい。もっと山際か、手つかずで残された鎮守の森のあたりならまだしも、整地の施された工廠近くの路傍では、そもそも見咎められずに屋台を持ち出してくることさえ不可能だ。
昼間との様変わりに、足柄さんは不審に思うよりも好奇心が先に立ち、光に吸い寄せられる夜の虫のように、足柄さんは暖簾をくぐり、そして龍田と対面した。
「えらっしゃい!」
龍田だけではない。屋台の裏でかがみ込んでいた天龍も来訪者に気づいて、威勢のいい声をあげた。
擬装を解いたその出で立ちは、いつもの制服姿ではなく、筒袖の袖口と襟だけが藍で染め抜かれた白い法被を着て、頭には鉢巻き代わりに手拭いをねじり、さらに白い和帽子を乗っけている。龍田もおそろいの衣装だが、髪は後ろで束ねて、手拭いを姉さんかぶりにしていた。
二人がとっていたのは、いわゆる板前姿だった。
屋台はカウンターすらなく、やや小振りな床几が二つばかり前に並んでいるばかりだ。本体には調理用スペースが備えられている他は、ガラスケースが仕切りがわりに置かれ、中には種々の魚が陳列されている。鮮度を保つための氷塊がいっしょに置かれ、ガラスの表面は薄く結露を起こしている。
足柄さんがペースを取り戻せないまま目をパチクリさせていると、
「そんなところに突っ立ってられたら、商売あがったりだ。まあ、掛けてくれよ」
いつにもまして伝法な調子で天龍がいってきたので、床几に腰を下ろした。
「はい、どうぞ」
対して、こちらはまったくいつもの調子のままの龍田が、足柄さんの座ったのに間髪をおかず湯呑みを差し出してきた。
受け取った手をそのまま引っ込めてしまいそうになるほどに熱いその内には、六分ほどにまで煎茶が注がれている。
芳しい緑の香りの奥に含まれた甘みに鼻腔をくすぐられ、足柄さんは何気ないうちに茶を口に含んでいた。
途端、取り巻いていた暑気が吹き払われた。濃い目の煎茶が舌を撫でて喉を下り、体の奥へと染み入っていく。茶の熱さと味わいの清々しさの緊張と緩和が心地よい。
そのまま床几に腰掛けて眼下の海を眺めていると、先ほどより少々海面に近づいたからだろうか、細かな光の粒が波間に点描を打っているのが映った。夜光虫が揺らめきに合わせて、身を発光させているのだ。グラデーションのかかった海原を目にしているうちに、えもいわれぬ心地に溶けこんでいきそうになる。
なにこれ。
危ういところで足柄さんは我に返った。
いつの間にやら天龍達のペースに取り込まれて、自分がここまできた理由を見失うところだった。
体操の鞍馬よろしく、両手に体をあずけて、脚を振りあげて床几の上で身を反転させると、改めて屋台と向き合った。
「それで何からいく?」
真正面から顔をのぞき込まれても悪びれる気配の一切ない、快活な調子のいなせな天龍を前にすると、つい釣られそうになる。夜半を過ぎ、小腹の空いてきたところにズラリと並んだ新鮮な魚もいかにも魅力的だ。
けれどもこれ以上流されるわけにもいかない。はっきりとさせておかなければ。
どうしてこんなところで、寿司の屋台を出しているのかを。
天龍のイメージは直情径行、気短でがさつというのが鎮守府内での通り相場だ。確かにそれは間違ってはいないが、必ずしも正確な評価というわけでもない。
少なくとも、気ぜわしい性格は、寿司を握るのに適したものだ。
もどかしげな手つきは一見ぶっきらぼうだが、無駄なく一定量のシャリをすくい取り、同じ回数の握りで形成していく。下駄の上に朴の葉を敷き、そこに置かれた一貫分の寿司は同じ大きさで行儀よく座を整え、素人手としては上々以上の出来栄えになっていた。
食感も見た目を裏切らず、口に含むと手に取っても崩れなかったシャリがほぐれてネタと絡み、刺身と酢飯の分離したものではない一個の寿司を堪能できた。
コハダやアジといった光り物は清涼な味わいを与えてくれる。
米とはまた異なる甘みを持ったイカのねっとりとした舌触りと、弾力に富むタコのぷりぷりした確かな歯応えは、相似たもの同士でもここまで違いが出るのかというギャップが楽しい。
エビは剥き身と焼いたものが並んで、歯が滑り込んで生の身に分け入る感触と、火を通したところを噛み砕く二通りを提供してくれた。
ウニの、頭の先にまで沁み通りそうな、酔うほどの濃厚な甘さを味わい終えれば、続いてなんとアワビが出た。
「潜水艦連中からのお裾分けだ。あいつらにゃ、龍田がいつも目を光らせているからさ」
「あらー、うれしいわ。天龍ちゃんてば、やっぱり私のことをずっと見てくれているのね」
「ば、ばっか! そういうことじゃねえよ! それと、ここじゃ板長って呼べっていってんだろ」
「はーい、板長さんの天龍ちゃん」
頬を紅潮させて憤る天龍と明け透けにほくそ笑んで見せる龍田。やったつもりがやり返される。天龍龍田姉妹の見慣れた光景だ。にもかかわらず、天龍が毎度律義に初々しく反応するものだから、いつまでたっても龍田のからかいがおさまらない。
アワビにはひと手間が加えられており、バターでソテーされたところに肝で作られた醤油ベースのわさびを効かせたソースがまぶされていた。近寄せると、ほんのりとレモンの香りが漂い、生臭さが飛ばされて旨みだけが、噛み切る際の歯応えとともに胃に届いた。
こうなると辛口の日本酒をいきたくなるところだが、なにしろまだ公務が残っている。断腸の思いで足柄さんは振り切った。
やがてアナゴを白焼きにしてものをたっぷりのわさび醤油でいただくと、締めに大根と油揚げの味噌汁が出てきた。こちらは潮の気がなく、それまでの脂を綺麗に流してくれた。
気がつくと、ほとんどしゃべりもせずに夢中で食べていた。けれども、本来の握り寿司の用途から考えれば、それがまっとうにも思える。
だとすれば、用件さえ果たせば、長居は無用だった。
足柄さんは腰を上げ、満足した旨と謝意を伝えると、
「馬鹿、見え透いたお世辞なんかいわれたって嬉しかねえよ」
口では無愛想を装いながらも、天龍は耳まで真っ赤にして、にやけた口元を見られぬようにとしきりにうつむいてまな板を拭いていた。
「お粗末様でした」
龍田は表側に出てきて、頭の手拭いを取ると、深々とお辞儀をした。そして、足柄さんの手の中に何やら押しつけてきた。
「袖の下よ」
自分からいっていれば世話はない。
「宿直のみんなでどうぞ」
手ずから渡されたのは二つの折詰だった。そのうち片方はほんのりと温もりが伝わってくる。
「厚焼き卵なの。天龍ちゃんのお寿司みたいに美味しくはないかもしれないけど、そちらも」
寿司を握るのはもっぱら天龍で、その間龍田はあまり表に出てこず、火鉢のあたりで何かやっているようだったが、それで得心がいった。中身を聞いてみれば、なんとなく砂糖の香りまで漂ってくる気がする。
足柄さんは折詰の重さを感じながら、ほとんど毎日のように顔を合わせている二人に、不思議な後ろ髪ひかれる名残惜しさを覚えつつ、元来た道を引き返して、鎮守府庁舎内にある宿直室に戻ることしにた。
ずいぶんと遅くなってしまった。夜警当番の残りの面々は、さぞ待ちくたびれていることだろう。
それでもさほど強く叱責を受けることもあるまい。
なにしろ、二つも土産があるのだから。
『この戦いが始まって、ずいぶんと長くなったわ。それにつれて、戦場も広がってきたでしょう』
こんな場所で寿司の屋台を開く真意を問い質した時、龍田はそう切り出した。
『出撃の機会も増えて、鎮守府も以前とは比べ物にならないほど忙しくなってきたわ。けど、敵と交戦する主力艦隊と同じくらい、ううん、もしかしたらそれ以上に遠征に出動することも増えた』
資源輸送や航路警戒など、直接的な攻撃活動を除く出動は、遠征と呼んで一括りにされていた。
『その遠征の主役である駆逐艦ちゃん達を、私達はあまり顧みていないんじゃないかと声が上がったの。切り出したのは長良ちゃんに球磨ちゃん、それと天龍ちゃん。でも、他のみんなも概ね同じ意見だったわ』
軽巡洋艦担当の娘達もまた遠征に出ることが多く、その際には駆逐艦達を指揮する立場となるため、他の艦種よりも気持ちを汲む判断材料を有している。
『なんだかんだで出撃に参加すれば作戦会議や演習、艤装の付け替えとか整備で、他の人達と会話を交わす機会があるでしょう。けど、駆逐の娘達はそれも多くない。彼女達は構成する規模こそ大きいけど、もしかしたら同じ鎮守府にいてもとても孤独なんじゃないかと思えてきたの。それで、せめて帰ってくるのが深夜になるような場合は、軽巡グループの手の空いている人で、なにかねぎらいをしてあげましょうという話になったのよ』
鎮守府から各地に派遣される遠征船団の場合、帰投が深更に及ぶことも珍しくない。工廠の一部を除いて寝静まったこの鎮守府に、ひっそりとだれに出迎えられるでもなく帰ってきているのだ。
『屋台にしようといったのは、天龍ちゃん。お蕎麦に天ぷら、お寿司……、出すものは手軽で、疲れて帰ってきた子でも食べやすいものばかりだし。屋台なら持ち運びもかんたんで準備の手間も少ないでしょ、工廠から庁舎までのこの暗い小道で出迎えてあげることもできるから。それとね、これは内緒なんだけど、天龍ちゃん縁日の屋台とか大好きなの』
苦り切った天龍を隣にして、内緒もなにもあったものではないが、龍田は唇に指をそえる真似までして見せた。
『もちろん提督からの了解は取っているわよ』
そういって取り出してきたのは一枚の許可証だった。走り書きではあったが、提督の見覚えのある癖のある字体は間違えようがないし、きちんと記名日に署名捺印まで施されている、十分に効力を持った品だ。
『怒らないでちょうだいね。黙っていたのは抜け駆けをしようとか思ったのじゃなくて、ただ大袈裟にしたくなかっただけだから』
それまで微笑みを絶やさなかった顔が少しだけ曇った。奔放な龍田ではあるが、決して規律を蔑ろにしているわけではない。突飛な行動もあくまで解釈の差異の範囲で収まるものばかりだ。その彼女が面目を失したと感じているということは、そこに逸脱があったということだ。
しかし、足柄さんはそれを追求することなど思いもよらない。
駆逐艦の娘達は、それ以上の艦種の面々からすれば、妹にあたるような存在だ。誰もが多かれ少なかれ親愛の情を寄せている。とはいえ、足柄さん達重巡も、戦艦や空母の面々でさえ、その妹の寂寥を見抜けなかった。
むしろ、遅まきながらも、気づくことのできる下地を作ってくれたことに感謝したいほどだった。
それに賄賂ももらったことだし。
龍田からの説明を聞き終えて、その場を去ろうとした足柄さんに振る舞ってくれた天龍の寿司を思い出すと、自然顔が綻びそうになる。
相好を崩しながら丘をのぼりきったあたりで、背後から甲高い、年若い少女達の声が重なって聞こえてきたような気がした。けれども、振り返るのはよしておいた。
足柄さんは何も知らず、何も気づかずその場を後にした。それで十分だった。
とにかく部屋に戻って、早速土産を肴に土産話を聞かせてやろう。ついでに熱いお茶も一杯添えて。
そんなことを思っていると、沖合いからひんやりとした涼風が、追い抜き際に足柄さんの髪をかき上げて、鎮守府の向こうの山へと駆けのぼっていった。
Tweet |
|
|
2
|
0
|
追加するフォルダを選択
今年は冷夏だと信じていたのに……