No.696549

思い出マルシェ1-2 「希ファントム2」

バグさん

希さんの不満。

2014-06-25 20:01:11 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:431   閲覧ユーザー数:430

 

 例のヌイグルミの件は気になって仕方が無いが、今は棚上げしておく事にした。放課後になれば答えも知れるだろうし、何より、絵里の様子がおかしい。時間の経過と共に酷くなっているような気がした。

絵里の様子がおかしいのは、今朝から分かっていた事だ。そう、部室で顔を合わせてから妙だと思っていた。

現在時刻は昼休み。授業を受けている間に復調が見られるだろうと楽観的に構えていた希だったが、これが一向に普段の彼女に戻らない。普段の彼女…………つまり、ピシッと背筋の伸びた、しっかり者。本人は『自分はしっかり者の顔を作っているだけ』と言うかもしれないが、周囲にそうと認知されるに至っているならば、例えそれが本人曰く『嘘の自分』でも、十分にしっかりしていると希は思うのだ。

ともあれ、3年生が3人、部室で話をしていた時は普段の絵里だった。しかし、1時間目が始まる頃には既に再び落ち着きを無くしていた。心ここに在らずという表現がぴたりと当てはまる、そんな状態だった。如何にも彼女らしくない。可愛らしくは有ったが、だからこそ異常だと言えるのだ。

授業で問題を当てられた際には、これはちゃんと正答出来ていたのだが、指名されてからの微妙なタイムラグが彼女の心境を的確に表しているような気がした。

 こんな絵里を見たのは初めてで、本当に何が有ったのかと心配になる。

似たような状態の彼女を知らない訳では無いのだが。生徒会長として学院の廃校を阻止しなくならないと、自らに重石を乗せていた頃の彼女。理想と現実の両方を見失い、取るべき行動の何もかもに自らの意思を欠いていた。あの頃より悪い状態では無いが、希に取って厄介なのは、その原因が何に起因するのかが不明で有る事だ。廃校問題で悩んでいた『生徒会長』としての彼女ならばその問題は明白で、むしろ絵里の問題を解決に導く事は、今になってみれば比較的容易だったとも思える。

しかし、今回は分からない。昨日までは普通の彼女だったのが、今朝になってみると妙に落ち着きを無くしている。

机を付き合せて昼食を取っている間もまた、そんな状態だった。希の振る話題にも生返事で、心の一部を何処かへ置いてきてしまったような様子だった。その何処か、というのは何処だろうか。希に分かる場所へと置いてきてしまったならば良いのだが。

昼休みが始まってそれなりの時間が経過していた。希は既に食べ終わっているのに、絵里の弁当箱には未だ半分以上が残されている。食欲が湧かないのか、それとも食べることすら忘れてしまっているのか。

何やら思案している絵里に希は、

「どうしたん、エリチ」

「え?」

 いい加減に見かねて声をかけたのだが、やはりリアクションが薄かった。

何と言うか…………そう、隙だらけだ。高校入学当初は一部の隙も見せない鉄壁の防護壁を誇っていた絵里だったが、此処に至ってはその名残すら見せない。以前から希に対してはある程度の隙を見せてくれていた絵里だったが、彼女の軟化が促進したのはやはりμ’s加入以降か。良い傾向だと思っては居たが、今の彼女は明らかに尋常では無い。隙の種類が違う。階段を昇っている時に踏み外して脛を強打してしまいかねない、とても微妙だが現実的な危うさがそこには有った。

「いや…………何でもないのよ、何でも…………」

 微笑みながら取り繕う絵里だったが、どう見ても何でもなくは無い。しかし、心の一部が戻ってきたらしく、会話が成立する余地は見て取れた。

「ふぅん……………………」

絵里に何か悩みが有るなら何時でも請け負う体制の希だったが、無理強いはしない。基本的に裏で動く事を好む希だったが、絵里に対しては正直で居たかった。つまり、彼女の心の裏を勝手に推測して動くような事はしたく無い。正直で有る事と裏で動く事は相反しない場合ももちろん有るが、希の気持ちとしてそうでは無いのだ。余程の確信が有れば別だが、今、彼女が何に悩んでいるのか全く見当の付かない状態では何もするべきではないと考えていた。

重大事ならば、きっと何時か話してくれる。そう信じているから、というのも有る。

…………とは言え、気にならないと言えば嘘になる。

「な、なによ…………」

 気が付けば絵里の顔を凝視していた。だが当然、何が分かるわけでも無い。残念ながら、透視の訓練はした事が無いし、神田明神のお手伝いも神通力の手助けにはならなかった。

「別に。エリチが何でもないなら、うちも何もないよ」

だが、別の訓練はやってきた。親の転勤に振り回されていた頃、形の無い物を求めていた時に身に着けた知識。何時でも取り出せる場所にしまってあるタロットカードを取り出して、

「カードがそう告げるんよ」

「何も無いって言った後にカードを引いたじゃないの」

「細かい事は良いんよ」

 逆位置の月。事態が好転する兆し。ならば、何も心配する事は無いだろう。転校を続ける間に身に付いた占いのスキルだったが、もちろんこれは奇跡を起こすための魔法の道具では無い。しかし、何かしら不思議な力の関与する余地は有るだろうと、希は信じている。

カードを仕舞って、希は絵里の弁当箱に両手を伸ばした。

「何してるの…………?」

「念を送っておこうと思って。念のために。あ、ギャグや無いよ」

「真面目に念を送ってるって事?」

「親父ギャグや無いって事。希パワー注入や」

 希の場合、本当に何かしらの念が篭りそうだから、冗談に聞こえないのだと、絵里は苦笑した。冗談ではも何でもなく、念は篭るものだと希は信じているのだが。希の絵里に対する気持ちは、きっと彼女に対して良い方向に働くだろうと、そう信じていた。

希パワーいただきましたと絵里は言って、

「ごめんね、希」

「…………別にええよ」

大切な事なら何時かきっと話してくれるだろう、とか。悩みを吐露する事に対して無理強いはしないとか。

綺麗な言葉で誤魔化しては居ても…………半分くらいは事実だが…………やはり、悩みを話してくれない絵里に対しては不満が残った。気にならないと言えば嘘になる。絵里の事なのだから、気にならないはずが無い。悩みを抱えている絵里に察せられてしまった事は、しかしそれも半ば狙ってはいたのだが、やはり子供っぽい我がままだったと希は反省した。

「悩んでるなら…………解決するとええね」

「有り難う、希」

 礼を口にした後、絵里は言いづらそうに一瞬口ごもり、

「でもね、希…………実は、その…………私、希に…………」

 絵里は視線を泳がせた。希から机の端へ、机の端から廊下へ、廊下から天井へ、天井から窓際を経由し、再び希へと泳ぎぎる。

「…………やっぱり何でもないわ」

 希は苦笑してしまった。本当に珍しい。煮え切らない彼女というのも、何だか新鮮で面白かった。

結局、弁当には殆ど手を付けないまま、絵里はそっと蓋を閉じた。その時、絵里の視線が何かを捕らえたようで、弁当を鞄に仕舞ってから、そっと立ち上がった。

「エリち?」

「ごめん、希。ちょっと出てくるわね。…………すぐに戻ってくるから」

 付いて来るなという含みを言外に残して、絵里は足早に教室を出て行った。

「…………ことりちゃん?」

 絵里の後姿を見届けながら、見覚えの有るシルエットが教室のドア辺りに見えたような気がしたが、果たしてどうだっただろうか。その瞬間に、希の脳裏に1つの想像が持ち上がる。

絵里が教室を出て数十秒後、こちらはシルエット等では無く、はっきりと確認する事が出来たのが、廊下を一直線に駆けていく後輩の姿。その名を小泉 花陽という。その猛進ぶりに呆気に取られた希だったが、それは周囲のクラスメートや廊下に居る者も同様で、注目を浴びていた。

言葉通り、程なくして戻ってきた絵里も、「さっき花陽が凄い勢いで…………」と、戻ってくるなりその事に触れており、呆れていた。

絵里の表情は幾分か普段のそれに近付いているような気がして、ほっとすると同時に、何が有ったのかと思案する。時間にして僅か5分程度の間に、果たして何が有ったのだろうかと。

絵里はしかし、何も言わなかった。

希の見間違いで無ければ、絵里が会っていたのは南 ことりのはずだった。花陽の件には触れたのに、絵里はことりと何を話したのか…………そもそも、教室を出た理由がことりに会う為である、という事にすら触れなかった。

1学年後輩のことりは、μ’sの衣装係を務める。彼女1人に任せきりという訳でが無いが、彼女に依存している部分はかなり大きい。主にそのセンスと技能において。

彼女の外見を端的に表現するなら、それはその特徴的な髪型に集約される。鶏のトサカを想起させるように、頭頂部で跳ねるように纏めたサイドテール。しかし、それを妙だと思わせず、有無を言わせずにポジティブな『可愛い』に昇華しているのは紛れも無く彼女のパーソナリティに因る所が大きい。彼女の母親は学院の理事長だが、その理事長も同じような髪型をしていて、しかしそれもまた妙だと感じさせない。理事長の場合はなにかしらの貫禄が備わっているために妙だと感じさせない説得力を生んでいる気がする。南一族の女性は(あるいは母方の家系では)あのような髪形をしなければならない伝統でも有るのだろうか。

ともあれ、希の胸中には1つの感情が芽生えていた。

(悔しいっていうか…………ちょっと妬ける)

恐らくはことりが訪ねてきたために教室を出て行った絵里は、彼女に会っていくらか心の負担を減じる事に成功したのだと考えられた。

それは希には出来なかった事だ。それが嫉妬のような感情となって希の心に小波を立てていた。

(まあ、分からなくも無いけれど)

 ことりのパーソナリティは、ふわふわとした綿菓子のようなものだ。悪く言っているのではない。地に足が着いているために、それが魅力として現れているからだ。そのふわふわとしたオーラには希自身、居心地の良さを幾度と無く覚えた記憶が有る。隣に居る事を無条件に許されているような、そんな居心地の良さ。

ことりは…………あるいは絵里は、お互いに一体何の用が有ったのだろう。そして何を話したのだろうか。

それを訊ねて良いものかどうか。

…………それに関しては、実はあまり悩む必要も無かったが。希には閃くものが、1つ有った。待っていれば、状況は正しく動くだろうと。これはタロットの暗示でもあった。

昼休み終了のチャイムが鳴り響く。

心に小波は立っても、しかし希は、

(うん、でも良かった)

 概ね満足していないでも無い。

それから放課後まで、絵里は肩の荷が降りたかのような清々しさで授業を受けていたのだから。

絵里が普段通りで居られるなら、希にとってそれは良い事なのだった。

 

 

放課後になって部室へ集まり、まずはミーティングが執り行われた。

ラブライブ本選出場を賭けた最終予選、そのための練習スケジュールの再確認。不足と考えられる様々な点についてのすり合わせ。

ともあれ、多くの連絡事項は当然無い。毎日顔を合わせていれば、必要な共有情報の更新も早いため、既に了解されている事が相当数有る。最も『当然知っているだろう』という思い込みが原因で、漏れは出てくるものだ。このミーティングと言うのは、そうした『有るかも知れない漏れ』に対して、各員の意識齟齬を無くすための意味が有る。

園田 海未が非常に珍しく遅刻したらしい事でからかわれたり、小泉 花陽が昼休みに爆走していた件について絵里から苦言が呈されたり、まあ初耳な事も有ったが、今回のミーティングでは特に重要な連絡は無かった。

2年生の3人は生徒会の仕事も有るのだが、今日は生徒会に顔を出しただけでこちらに参加しているようだ。以前に部活道の予算関連で手痛いミスを犯した事が有った。以来、抜かりなく事を進めるようになったようで、問題無いように調整を図っているらしい。他人事のように言っているが、後輩が可愛くて仕方が無いらしい絵里と共に、希もまたそれとなく手を差し伸べたりもしていた。本当にどうでも良いような事でしか手伝わないようにしていたが、あるいは『可愛い後輩のために』というのは単なる口実で、そこに在るのは単純な未練なのかもしれない。過去に対する未練。

ミーティングが終われば、それぞれ練習用の服装に着替えて屋上へ。練習場所は、これも朝練と同じく学校で行われるとは限らないが、屋上が最も馴染み深い場所で有る事は確かだ。

 何時も思うのだが、リーダーである高坂 穂乃果が着用しているTシャツに印字された『ほ』印は何なのだろうか。まさかシルクスクリーンを駆使して自作している訳では有るまい。

(いくら無駄に行動力の有る穂乃果ちゃんでも、まさかそこまでは…………)

 そもそも、穂乃果という人間は決して手先が器用な訳では無い。それは短い付き合いの中でも正しく理解出来る。そういう事が得意そうで、且つ喜んで引き受けそうなのは穂乃果の幼馴染であることりだろうが、どうか。案外、親の趣味かもしれないが。文字プリントシリーズなるTシャツが、何処かの会社によって販売されているのかもしれない。

…………部室に集まった時、希は件のヌイグルミを提示しなかった。

 「部室にヌイグルミを忘れたかもしれないのだけれど、誰か知らないか」

『誰か』がそうやって訊ねるだろうと待っていたのだが、しかし誰もそんな事を口にしなかったのだ。一応、注意深く皆の表情を盗み見ていたが、気にする素振りすら誰も見せては居なかった。本調子に戻ったらしい絵里だったが、しかしまだ何処かそわそわしており、それだけが異変と言えば異変か。事情を知る矢澤 にこは、どうするつもりだと言わんばかりの視線を向けてきたが、取り敢えずその時点では何もするつもりは無かった。

というよりも、当然誰かが名乗り出るだろうと考えていたために、希は決戦に赴くような心地で構えていたのだ。そのために肩透かしをくらった気分になって、何だか言い出しづらくなってしまったというのが、本当の所だ。希には相手の出方を見るような癖が有り、それが災いした形だった。予断を許さない状況ならば即応するが、そうで無い場合では見に徹した後に行動する。

(誰か、か…………)

 実際の所、名乗り出る『誰か』には心当たりが有った為に、完全に不測の事態という訳では無いし、様子見が完全に災いした訳でも無い。

肩透かしをくらった気分になったのは本当で、言い出しづらくなったのも本当だが、待っていればその『誰か』が名乗り出るだろう事は間違いないと思われた。言い出しづらいのは結局の所、希のパーソナリティに因るのだ。自分の過去に関わる事なので、ヌイグルミの件については先手を打ちたいと思っていたのに、妙な所で消極的になってしまうのは何故か。

(…………なんでだろうね)

 あるいは、ちょっとした所で取ってしまう行動の一つ一つが、自身の臆病さの表れなのかもしれない。

(でも、このタイミングで言い出さなかったのは、周りに知られたく無かったから…………?)

 だとすれば、1つ手を打つべきだろうか。

屋上へ上がって、練習が始まった。

最終予選を控えたこの段になって怪我をしては大変なので、入念に準備体操やストレッチを行う。気温が下がってきたので、余計に気を使うようにと海未が言っていた。折に触れて暴走するが、彼女の指示は大抵の場合正しい。練習内容については彼女にその殆どが一任されているが、絵里のサポートも相まって非常に高い効果を得られているのだろう。

準備体操が終われば筋トレ、筋トレが終わればダンスレッスン。日によって練習内容は異なっており、本日の練習メニューはダンスレッスン中心の練習メニューだった。基礎体力作りが練習メニューの軸に置かれる場合、そもそも屋上へ向かわない事も有る。

ダンスレッスンの場合、そのコーチを務めるのは大抵の場合、絵里となる。指示を出したり、拍子を取ったりする役割だ。絵里自身の練習も必要なので、その場合は海未や他のメンバーが絵里の手法を真似て音頭を取る。

練習を指揮する間の絵里は、普段の絵里だった。それが練習に望む故の意識に因るのか、それともことりのお陰なのかは分からないが、やはり良い事だった。彼女の引き締まった雰囲気を希は好いている。上の空の彼女もそれはそれで魅力的なのだが、芯の通った絵里の姿は、それだけで美しい…………と、希は感じる。のろけのような話になってしまうが、希はこの3年、誰よりも彼女の近くに居た。そのために彼女に対して過剰な魅力を感じてしまっているのは、これはおかしい事だろうか。

レッスンの途中、ふと絵里と眼が会って、彼女が『何?』と視線で問い掛けてくる。それに対して希が微笑むと、絵里もまたそうする。そうした瞬間に絆を感じるのだ。あるいはそれで、希は安心を得ている。だからこそ今、不満を感じている訳だが。

パート毎の振り付け練習が一段落し、休憩を取る事となった。

各自、思い思いに身体を休める。表層の行動原理が似た傾向に有る穂乃果や星空 凛などは、大の字になって屋上に布いたシートの上に寝転がる事が多い。絵里や海未は身体を休める傍ら、練習に付いての確認やチェック等を手短に済ませている。

希は普段、絵里の横でストレッチ等をしているが…………今日に限っては顔を洗いたくなった体を装い、屋上を出る事にした。

ドアを開けて、校舎の中へ入ると、独特の匂いが纏わり付く。人の出入りが少ないために、空気が篭っているのだろうか。

「希ちゃん」

(…………)

 階段を一歩降りた所で、声をかけられる。

声の主は南 ことりだった。彼女はドアを開けて、こちらに声をかけてきていた。

「私も顔を洗いたくなっちゃって」

「そうなんや。じゃあ、一緒に行こか」

 歩きながら、希は1つ気になっていた事を聞いてみた。

「そうや。海未ちゃんはなんで遅刻したん? さっきの話だけやったら、良く分からなかったんやけど」

 ミーティング中の出来事を思い返しながら聞いた。遅刻の話を言及されると、海未は恥ずかしげに顔を背け、自らはあまり語らなかったのだ。元来、羞恥に耐え難い性質である事に加え、生徒会副会長という立場から、己の不甲斐無さを感じていたのかもしれない。穂乃果と海未の掛け合いで何と無く事情は察したが、分かったのは筋だけで、深いところまでは全く理解できなかった。穂乃果の宿題がどうのと言っていた覚えは有るが、それは海未の言い訳である、という反論も見られた。

ことりは唇に当てた人差し指の腹をスっとスライドさせながら、

「えっとね…………夢を視て遅れたんだって。あ、寝坊したって事だよ?」

「夢」

一瞬、どきりとした。足が瞬間止まり、しかし、ことりから半歩遅れた所で、直ぐに歩き出す。

「どんな夢なん?」

 自分の視た夢と共通点など有る筈は無いが、とても気になった。これで仮に海未が例のヌイグルミの夢を視ていたならば、あのヌイグルミは何処かしらスピリチュアルな場所に奉納する必要が出てきそうだ。残念ながら、神田明神には奉納出来ない。

「それが詳しくは教えてくれなくて…………」

 ことりは困ったように首を傾げた。

「ことりちゃんにも?」

「あ、たぶん穂乃果ちゃんにも言ってないと思うんだけど」

 希は得心した。だからこそ、穂乃果は必要以上に海未の遅刻に対して言及したのかもしれない。

「ただ、昔の事を夢に見たんだって」

「昔の事…………」

 それは…………奇遇だ。思わず苦笑してしまって、ことりに不思議な顔をされてしまった。

希は心中で安堵のため息を付く。海未が自身に対する過去を夢に見たのなら、当然ヌイグルミに関する夢では無いだろう。あのヌイグルミの事は、希だけの過去なのだから。話がこれ以上ややこしくならないで良かったと。折角話が纏まりかけているのだから。

しかし、面白いものだ。昔の夢を視て、一方は早く目覚め、もう一方は遅刻した。そこに何かしらの対比を見出すならば、案外、海未の視た夢は幸せな記憶だったのかもしれない。希のそれは、お世辞にも幸せな記憶だったとは言い難いのだから。

屋上から最も近い手洗い場に到着した。蛇口から迸る水は思いのほか冷たく、水量を弱めながら洗顔する。

放課後の校舎には物音1つ立たない。蛇口から流れ出る水音だけが生活音の全てだった。今朝の部室で感じた程では無いが、妙な孤独感を覚えてしまう。何処か遠くの方から運動部の掛け声が聞こえたり、吹奏楽部の奏でるメロディーがここまで届いたりしているのだが、それはむしろ孤独感に拍車をかける物悲しい音にも聞こえる。生徒会に在籍していた頃、絵里と共に生徒会室で居残っていた時にも似たような状況はたくさん有ったが、あの時に感じていたのは孤独などでは無かった筈だ。

(あの時と今とで、何が違うんだろう)

 分からない。しかし、あの頃と今で明確に異なるのは、自身の立ち位置だけだろうか?

「あの、ところで、希ちゃん…………」

 顔をタオルで拭き終わった希に対し、ことりは改まったように言ってきた。心持ち、背筋が伸びているようにもみえる。畏まっているわけでは無いが、緊張しているように見えた。

「どうしたん?」

「ヌイグルミが…………」

 突然にそんな事を良い始めたことりだったが、希はそれに対して特別な驚きを感じていなかった。

ヌイグルミに関する話を持ってくる『誰か』はおそらくことりだろうと踏んでいたからだ。

「あ、希ちゃんが持ってるヌイグルミ…………なんだけれど」

「…………うん」

「あのヌイグルミ、実は私のなの。昨日…………ええと、忘れちゃったみたいで…………」

 緊張というより、むしろ動揺と言った方が正しいような言葉のおぼつかなさだった。緊張と動揺は良く似ている。そして慎重に、言葉を選んでいるように感じられた。その様子は今日の絵里を彷彿とさせる。

「ああ、そやったんや。あのヌイグルミはことりちゃんの…………部室から勝手に持って行ってごめんね」

 素知らぬ顔で、希は言った。

 それで1つ、ヌイグルミに有った補修跡が彼女によるものなのだという事が明確になった。

だが、彼女は気が付かないのだろうか。その話をするならば、見逃せない不自然な点が目に付いてくる事に。

「…………で、ことりちゃんは何でうちがヌイグルミを持ってる事を知ってるん?」

「えっ」

 緊張していたことりの笑顔が、更に固まった。

「うちとエリちと…………後はにこっちしか知らない筈なんやけどなあ」

「そ、それは…………」

 ことりは言い淀んで、視線を逸らした。上で結んだ髪の毛がひょこひょこと小刻みに揺れた。もちろん神経が繋がっている訳ではないだろうが、ことりの動揺を如実に表しているようにも見えた。

その様子があまりにも可愛かったので、希は助け舟を出す事にした。

「そう言えばことりちゃん、お昼休みにうちらの教室まで来たんやろ?」

「え? 何でそれを…………」

 驚いたように、ことりは眼を見開いた。

「何しに来てたん? エリちに話が有ったのかな? その時にヌイグルミの事を聞いたんとちゃう?」

 希の言葉に、ことりは表情を輝かせた。

「う、うん、そうなの! その時にヌイグルミの事を聞いたんだよ?」

 そのことりの返答を聞いて、希はもう1つ確信を抱いていた。絵里もまた、この件に一枚噛んでいるという事を。ただの疑念に過ぎなかったそれが、確信に変わった。

「へえ…………エリちはお昼休み、そんな事は一言も言わなかったよ? 何でその時、エリちに伝言頼まなかったん?」

 希の言葉に再度硬直する。出された助け舟には安易に乗ってはいけない、これは教訓だ。そもそも誘導に近かったので、助けなど全く無かったわけだが。鎌が設置されたカラクリ製のドロ舟だ。

「それは、その…………ことりの問題だから、自分で伝えた方が良いと思って」

「そうなんや。立派やね」

 希はタオルを綺麗に折りたたんで、思案する。

さて、どうするか、と。

ここで大人しく『そやったら、帰りに返すね』と言えば、それで終わる。ことりは…………そして絵里も、万事上手く事を進められて、一安心だろう。妙に話をこじれさせずに、すっきり終わる道が明確に示されている。希を除いては。

それが一番良いのだと思われた。事の根を掘り返すような真似は、きっと絵里が困る。それは望みの本意では無かった。…………ではことりが困るならば良いのか、という話になるが、もちろんそうでは無い。ただ、何だろうか。ダメージが違う様な気がしたのだ。この件に関して言えば、下手に転がせば絵里とことりの受けるダメージはきっと異なると。

だから、ここで踏み止まっておくべきなのだ。

だが。

「駄目やで、ことりちゃん。ほんとの事を話してくれんと…………返すもんも返せないわ。そもそも、エリちに会いに来たからヌイグルミの話をしたんじゃなくて、ヌイグルミの件で話が有ったからエリちに会いに来たんとちゃう?」

 希はそれでも、そんな事を言っていた。意地悪く笑いながら。

 言いながら、意地の悪い自分に希は当然気が付いていた。ことりを詰問して、それで一体どうしようというのか。

もちろん、そんな態度を取ってしまっている原因には気が付いている。この問題に、恐らく絵里が関与しているからだ。

ただの憶測に過ぎなかったが、少なくとも昼休みに2人が会っている事は確定したわけだ。そして、希の知らない所で例のヌイグルミに関してのやり取りが有った事も、殆ど確定した。今朝、絵里が部室に訪れた事は考えてみれば不自然だ。にこが早朝に部室へ来る事は珍しく無いらしい。希は偶然に早く目覚めた。では絵里はどうか。絵里も偶然早く眼が覚めたと言っていた。だが、自身の事は棚上げになるが、その偶然は如何にも不自然だ。出来すぎている。絵里はあのヌイグルミを探しに、朝早く部室へやってきたのではないか。

「ほ、本当の事なんて…………」

 そんな本当は無いと言いつつ、しかし明らかに動揺することりを見て、何て分かり安い子なのだろうと彼女の将来が心配になった。

絵里があのヌイグルミを探しに来たのだとすれば、あのヌイグルミの持ち主は当然、絵里という事になる。絵里がことりにヌイグルミの補修を頼んだのではないか、というのは希の勝手な想像だったが。ならば事の発端は絵里に有る。ことりと絵里で、どちらかと言えば絵里の方がダメージが大きいのではないかと考えたのは、その想像に因る。

絵里に対しては正直で有りたいとか、言ってくれるまで待つとか、希にも色々と信念めいたものは有ったが…………どうしても不満は残る。それはやはり嫉妬だった。だが、嫉妬のためにこんな行動を取っている訳では無い。

「わしるよ?」

「全部話します」

 ことりの分かり易さはとても…………そう、楽だった。分かり易いと言えば聞こえは悪いが、とても素直なだけなのだ。誤魔化しが出来ないというか、そういう事。だから隣に居る事が苦にならない。

 誰もが考える女の子らしい可愛らしさを余す事無く詰め込んだのが、南 ことりという少女だった。素直さも過ぎれば害になるが、彼女の場合はきっと別の結果を生むだろう。この、小動物のように愛らしい少女の素直さはいっそ暴力に近い。だから将来を心配しなくとも、彼女だけでも上手く事が運ぶのだろう。

何でも許してあげようかな、という気になってしまう。

なってしまう。普通ならば。

「……………………」

 観念して項垂れることりを見下ろして、希は思った。

(そう言えば、ことりちゃんの胸を揉んだ事は無かったかなあ)

 有っただろうか。無かっただろうか。どちらだったか、今一つ覚えていない。

「あ、あの、希ちゃん…………? サイドに構えた両手が穏やかじゃない動きをしてるんだけど」

 ことりの焦った表情を見ながら、希は考えていた。

(エリちは…………どうして言わなかったんだろう)

朝も昼も、そして放課後になってからも、絵里が希に対して直接それを言う機会など、いくらでも有ったはずだ。にもかかわらず、絵里はことりを介して、自身の存在を悟らせずに希からヌイグルミを回収しようとした。それがこのような意地悪い行動を取ってしまっている本当の要因だった。炙り出そうなどと考えている。絵里の裏切りだ、などと大げさに考えているわけでは無い。ただ、仲間外れにされたようで、子供の様にむくれているのだ。面白く無いだけなのだ。

「取り敢えずわしっとこうかと思って」

 だからことりの胸を悪戯に弄んでも、それは別に仕方の無い事ではなかろうか。という詭弁を理由に当てはめて、正当化してみる希だった。本気で胸を揉むために詭弁を弄したわけでは無く、単純な八つ当たりに等しい。

「と、取り敢えず!」

 身を引きつつ、ことりは続けた。

「話すよ? こ、ことり話すよ?」

 腕をクロスさせて身を護りつつ、ぴよぴよと囀ることりの動揺は激しい物があった。これはもう、むしろやって下さいという前振りではなかろうかと、更に都合の良い解釈を重ねながら、希は殊更にゆっくりと、ことりに近付いて…………。

「希、止めなさい…………」

 絵里の呆れと冷静さを合わせたような声がストップをかけた。希も冷静な理論武装の下でことりの胸を揉みしだこうと考えていたために、別に何を冷静に言われようともそれで何かが冷める訳ではないのだが、ともあれ希は動きを止めた。

「エリち…………」

何時の間に居たのだろうか。それとも、初めから付いてきていたのか。壁の陰に隠れてこちらの様子を窺っていたのだろう。スッとその姿を現したのだった。まるで異世界から現出してきたかのようだったが、それこそ笑えない冗談だった。

まあ…………実際問題、ことりを詰問すれば何処かのタイミングで絵里が止めに入るだろうと考えていたから、このような暴挙に出ていた訳だが。

ともあれ、絵里は難しい顔をして、希にこう言ったのだった。

「私が話すわ。…………もう気が付いているみたいだけれど、あのヌイグルミは私の物なの」


 
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