プロローグ
そこはいつもの帰り道だった。すすきの駅から離れた住宅街を、喧騒が静まる遅い時間に通り抜ける。周辺の木々に浮かぶ木の葉はすでにまばらで、暗く寂しい風景を作り上げていた。
いつも通りバイトを終えて自転車で帰る彼を私は”見守る”。今日も1日彼無事であることを確認し、そして今日も1日、彼が変わらなかったことに落胆する。
長い長い時間の中で、毎日過ぎていく”私”の生活。本来なら見られないはずの景色を見ていられるのだから、きっと私は運がいいのだと思う。けれど同時に私は、彼の目に映るもの、頭に描くものを見続けなければいけない。喜びも痛みも、『生きているときと同じように』感じている。ただしそれはひどく一方的で、残念ながら私には回避する術はない。
「ナギ…今日もお疲れ様」
届かない言葉を私は”想う”。結局、伝わらないもどかしさだけが、あとに残ると知りながら、習慣のように言葉を投げかける。また先週からバイトを増やし、自分を追い込んでいく彼に、もっとも伝えたい言葉。もしも私が彼の前に現れて話しかけられるとしたら、私は迷わずこのセリフを言うだろう。きっと彼もそう望んでいる。
景色が飛ばされるように視界から消えていく。街灯が頭上で伸び切ってはゴムのように縮んだ。加速していく自転車。周囲の景色が見えないほどの速度になると、彼は安堵を覚えながら、昔の記憶を手繰り始めていく。いつも通りの彼の習慣だ。
国道との交差点が見えてきたとき、突然、目の前が真っ白になった。とっさに彼の踏むブレーキが、鋭く悲鳴を上げる。全ての神経と気持ちが、目の前に集約される。そして私は目の前を塞ぐ白い光が、トラックのヘッドライトであることに気がつく。
「バカッ何やってんのよッッ!!」
私は叫ぶように言葉を思い浮かべる。目の前のトラックからブレーキ音が聞こえてくる。慌ててハンドルを切っているようだが、すでに自転車の前カゴはバンパーに触れており、少しずつその形を変えている。しかし彼を助けるためにあがく行動を、“思い浮かべる”ことしか出来なかった。
「うわぁぁぁぁぁっ!!!!!!!」
ガシャーンッ!!!!!
2日目
気がつくと体は何か柔らかいものに沈んでいるようだった。布団だろうか…どうやら寝かされているようだ。私は周囲を気にしながらも、彼が目覚めるまでの間は、この開かない世界で待つしかなかった。しかし次第に体中に感じる違和感に気付く。布団に触れる柔らかな感覚や、少し鼻に刺さる消毒薬の匂い。普段はまるで壁に仕切られたかのように、鈍い感覚だったが、今は”懐かしいくらい”はっきりと感じている。まさか…私は恐る恐る”まぶたを開ける”動作を想像した。
眩しかった。白い天井に取り付けられた蛍光灯ですら、目を刺すような痛さを覚えた。今度はゆっくりと”首を動かす”ように想像した。目の前を覆う真っ白な壁と蛍光灯が消え、窓ガラスが目に入った。次はゆっくりと“体を起し”、地面を踏み立ち上がる。変わっていく風景。感じる床の感触。体に掛かる自分の重さ…。私は嬉しくなって窓に近寄り、思いっきり窓を開けた。真っ青に染まった空が目を覆い、柔らかい秋の陽射しと少し肌寒い風が頬を打った。私は確信した。私…月影牡丹は今、この場所に存在している。
ある程度、動くことに慣れたところで、病室を出てみる。白い壁と緑色の廊下には、自分のいた病室と同じようなドアがいくつもあった。天井からぶら下がっている看板には「外科病棟」と書いてある。どうして私は外科病棟にいるのだろうか? …駄目だ、全然思い出せない。そもそもなぜ私が“いる”のか、それだって分かりそうにない。ただ私は行く当てもなく、さまようほか出来ることはなさそうだ。
しばらく廊下を歩いていると、開け放たれた病室で医師と看護婦が集まって何かをしているようだった。見ればベッドに寝かされた患者の診察のようだが、肝心な患者は寝ているようだ。私は見つからないように、ドアから覗いてみた。患者にはたくさんの器具を付けられながらも、包帯は頭だけしか付けられていないようだ。医者が少し動くと、患者の顔を見ることが出来た。
「…ナギッ!」
私は慌てて病室に入った。紛れもない彼だ。それに気付いた瞬間、白い光と耳をつんざくブレーキ音が脳裏に蘇る。…そうだナギは事故に遭って!
「せっ先生! ナギは…ナギはどうなんですか!!!」
自分でも驚くような大声が出た。今は少しでも安心できる情報が欲しい。しかし医師が振り向くことはなかった。
「…してご家族の方は?」
「はい。寝てらっしゃらなかったので、隣の部屋に寝かせました」
医師の言葉に反応して看護婦が回答する。
「あのっ! ちょっと話を聞きたいのですが!!」
私はもう一度、声を出して話しかけてみる。…が、医師も看護婦もやはり反応は無かった。今度は医師と看護婦の肩を叩こうとしたが、不思議と体は通り抜け、宙を掴むような感覚だけが残った。医師は私に全く気付かずに、彼の様子を見ながら口を開いた。
「外傷はほとんどないから、目を覚ますと思うが…。ご両親には誤解の無いよう伝えてくれ」
「それが…ご両親はすでにいらっしゃらないようで、妹さんが付き添われています…」
医師は少し困った表情をすると、そのまま私をすり抜けて病室を出て行った。しばらく取り残された看護婦も。私をすり抜けて病室を出た。
私は今聞いた情報と、起こった出来事を整理できず、呆然と病室に立ち尽くしていた。一体、ナギは…そして私に何が起こったんだろう? …手に触れるものの感触はあるし、声を出すことも動き回ることもできる。けれど気付かれない。まさに幽霊か何かになったのだろうか? ためしにドアに触れてみる…確かにその感触を感じることが出来る。しかし力を抜いたとき、私の手はドアを通り抜けていった。
「ははは…存在しているって、私、まるで幽霊じゃない」
せっかく彼に会えたのに、残念ながら言葉を交わすことも触れることも出来ない。ただ存在するだけ。今までと同じとはいえ、寂しさを覚えた。
病室のベッドでナギは静かに眠っていた。何もかも忘れたかのように、穏やかに寝息を立てていた。ときおり窓から入る陽射しに目を反応させているようだ。久々に見るナギの寝顔。…最後に見たのは5年以上も前だったと思う。彼の中にいたときには見ることは出来なかったから、不思議な気持ちだ。
「お疲れ様、ナギ」
私は静かに額へ口をあてた。期待はせずにただ真似事だけでもしたかった。…しかし唇は止まり、柔らかい肌の感触が唇に残り、懐かしい気持ちが胸から溢れた。その温度、感触…全てあのときのまま、感じ取ることが出来た。
私は覚えている。ナギと過ごした時間、ナギの感触と温度、全てを覚えている。だから私はナギに触れられるのだろうか。これはきっとチャンスに違いない! 私はそう思うと嬉しくて、何度もナギの髪を撫でた。
「また一緒に笑えるね。おやすみ、ナギ」
3日目
病院での生活は慣れてくると楽しく感じられた。失われた時間をかき集めるかのように、目に映るもの全てが好奇心の対象になった。今はどんな服が流行っていて、どんなドラマが人気で…。断片的な患者同士の会話や、待合室に備え付けられているテレビから新しいことばかり入ってくる。ナギの中から見る世界は、残念ながら男の世界だったし、ナギは関心すら持たなかった。毎日を乗り切り、生きていくことに一生懸命で、周りを気にする余裕はなかった。世界はこんなにも楽しいのに…存在を許された私は改めて思う。もちろん奪われた瞬間を恨んだこともあった。けれども長い時間と彼の中で生きていけるという幸運は、そんな詰まらないことを忘れさせてくれた。もっともそのくらいのサービスがなければ、私は神様すら恨んだだろう。
待合室で昼ドラマを見終えると、またナギの病室に足を運ぶ。昨日から何度も様子を見に行っているが、意識はまだ戻らない。はやく目を覚まして話しをしたい。驚くのか、笑うのか、…もしくは忘れているのか。楽しみであり、少しだけ怖かった。
病室が見えてくると、ドアが開いていることに気がついた。そっと覗いていると、1人の女性がイスにちょこんと座っていた。…紅葉ちゃんだ。肩に掛かるくらいの髪と、それを束ねるリボンが幼く見える。彼女はナギの表情を心配そうに見ながらも、少しウトウトしているようだった。
「…どちらさまですか?」
ふと目が合うと、紅葉ちゃんは私の方を向いて声をかけてきた。私は気付かれたことに驚きつつも、何かの見間違いだろうと冷静になり、紅葉ちゃんの様子を見続けた。けれども紅葉ちゃんは、変わらずに私の顔から目を離さなかった。
「こんにちは」
私は諦めつつも声を掛けてみた。すると紅葉ちゃんは表情を柔らかくすると、ゆっくりと口を開いた。
「こんにちは」
数年ぶりの紅葉ちゃんとの会話だった。私ははやる気持ちを抑えつつも、どうやって会話をつなげようか考えた。さきほどの反応から考えると、紅葉ちゃんは私が月影牡丹であることを忘れている。いや覚えているのかもしれないけれど、私が存在していることを信じていないのだろう。私だって死んだおばあちゃんに似た人が目の前にいても、同一人物だとは気付かない。
「ごめんなさい…ちょっとドアが開いていたものだから、気になって覗いてしまったの」
「いえ。こちらこそ開けっ放しですみません」
「ご家族の方ですか?」
私は何気なく聞いてみる。もちろん紅葉ちゃんは家族だと分かっている。
「はい。…一昨日の晩に事故に遭って、まだ意識が戻らないそうです」
「そう。でも見たところケガは軽そうだけど…」
「悪運だけは強いみたいです。昔から」
紅葉ちゃんは力無く笑った。私も紅葉ちゃんの言わんとしていることが分かったので、自然と笑みが出た。昔から悪運が強い…だからこそこうやってナギは生きている。辛い過去や不運に遭っても。
「でも見たところ、あなたの方が体調悪そうよ?」
「え?」
私は少し意地悪っぽく言った。紅葉ちゃんの悪いところ、それはナギのことになると、自分のことを後回しにしてしまうフシがある。肌は荒れが目立ち、よく見ると目のクマもひどい。せっかくの可愛い顔が台無しだ。
「お兄さんが心配なのは分かるけど、あなたも無理しちゃ駄目よ」
「ありがとうございます…」
紅葉ちゃんはそう言うと、律儀に頭を下げた。それでもすぐにナギの顔を心配そうに見続けるのだった。
「きっと良くなると思うわ…あなたが一生懸命、看病しているんですもの」
少し立ち入りすぎた気もしたが、私は少しでも紅葉ちゃんの苦労が報われればいいと思った。毎日、ナギのことを本当の意味で心配して、見守っているのは他ならぬ紅葉ちゃんだ。それを理解できないナギには言いたいことは沢山あるが、元はといえば私にも原因がある。だからこそ、今、存在している私は、ナギにそのことを気付かせなければいけない。
「あ、ありがとうございます。あの、私達…兄妹って分かりますか?」
紅葉ちゃんは少し恥ずかしそうに私に聞いてきた。
「これほど似ている兄妹は見たこと無いわ」
照れながらそんなことを聞いてくる紅葉ちゃんを可愛く思いながら、私はそう答えた。容姿だけではすぐに気付かないかもしれない。けれど長年、2人を見続けた私だから、胸を張って言える。
「ありがとうございます…そう言われたの初めてです」
紅葉ちゃんは嬉しそうにそう答えた。ナギに少しでも紅葉ちゃんの気持ちが届けばいいのに。この可愛いライバルは、私以上にナギのことを考え、そして守ってくれている。ナギが自分を傷つけながら守っている家族は、同じように自分を傷つけながらナギを守っている。これほど似ている兄妹、いや家族はきっと他にいない。だからこそ幸せにならないといけない。
「私はもういくけど、また覗かせてもらっていいかしら」
「もちろんです! ぜひまた来てください」
私はそう言うと、今日のところはナギを紅葉ちゃんに預けることにした。ナギが意識を戻したとき、その無事を最初に伝えなければいけない相手は、紅葉ちゃんでなければならない。それが紅葉ちゃんへの最大の報いになるだろうから。
4日目
今日もナギの病室に向かう。階段を上るその感覚を確かめながら大切に歩く。
ナギの病室のドアは閉まっていた。ノブを掴もうとして無意味なことを思い出し、いつものように扉を抜けた。しかし目の前に飛び込んできたのは空っぽの病室だった。布団は畳まれていて人がいる様子は無い。
私は急に不安になり、少しでもなにか手がかりはないか、病室を探し回ったが、病室は恨めしいくらいに綺麗に片付けられていた。ナギはどうなってしまったのだろうか。確かめたくても確かめる方法が無い。私という存在をもどかしく思いながら、病室を出た。
ナギは無事なのか…? それすらも確認することが出来ない。ナースセンターに行ってカルテでも探そうか? しかしここは大病院だ。いったい、どれだけ時間が掛かるというのだろうか。万が一、見つけたとして私に読むことが出来るのだろうか。…結局、私はこうして病院内をさまようことしか出来ないのだ。
「こらっ!! 何をしてるの!!!」
突然、背後から看護婦の罵声が聞こえてきた。子供がはしゃいでいるのだろうか。私は声のする方向を向いた。緑色の長い廊下の遠くから、激しい足音と所々で壁に何かがぶつかる音が鳴り響いている。そしてその音の本人は、髪の長い元気そうな女子高生だった。なにやら叫びながら、手に持っている物を振り回している…。
「私の考えは、やはり正しかったんだぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「ひえっ! やっやめろ!! 死ぬッ今度こそ死ぬッッ!!!」
女子高生の手に持った物が悲痛な声を上げている…。違う、どうやら男子生徒のようだった。無残にも顔中が壁に打ち付けられて痛そうだ…。すると男子生徒と目が合った。
少し伸びた髪、細い腕、まだ幼さの残る表情…間違えるはずも無い。ナギだった。
「!」
ナギは私と目が合うと、叫ぶのをやめて見つめていた。私も声を掛けられずにそのまま見つめていた。私達は確かに目が合った。
「なっ!」
私が声を掛けようとすると、そのままナギは女子高生に引き摺られるように、階段を上っていく。私は慌てて追いかけたが、屋上に着いた頃には誰もいなかった。私を襲う不運は。私の想像に過ぎなかった。ナギは無事に生きている。久々に聞いたナギの声を何度も思い出しながら、私は私を生んだ何かに感謝した。
5日目
私は待合室で、受付にナギが来るのを待った。昨日、退院しても病院に顔を出しているところを見ると、まだ完治しているわけではないらしい。となると毎日ではないにしても、必ず近いうちに受付に来るはずだ。私は受付を注意深く見ながら、昼ドラマをぼんやりと見ることにした。
そうそう、この前はいいところでチャンネルを変えられたんだっけ…やはり人に知覚されないと不便なこともある。今日は待合室にいる中年の女性が、私の見たい番組を見ているため、ゆっくりと見ることが出来る。死んでいることを忘れてしまえば、本当に気楽な生活だ。
昼ドラマは今日でちょうどクライマックスだったらしい。借金の取立てのために身を隠す男性を助けようと、女性が死にもの狂いで大金を作って男に渡すストーリーだ。けれど最終回では男性はその女性を関わらせまいと、再会を喜ぶ振りをして、耳あたりの良い言葉を言ったあと、また消えてしまう。なんともやるせない物語だ。女性はいつだって男性のためを思っても伝わらない。報われない…。
私は溜まった涙を拭くと、目的を忘れていたことに気がつき慌ててあたりを見回した。時間はお昼を過ぎており、待合室もかなり人が増えていた。慌てて辺りを見回し始める。
「あっ」
学生服を着た少年と目が合った。彼は慌てて目を逸らしたが、私はすぐに知っている人だと気付く。ナギだった。待ち望んでいた瞬間は突然、来ていた。私は嬉しくなって駆け寄った。しかしナギはまるで気付かないフリをしている。…もしかして。私は一瞬、不安を覚えた。
「ねぇねぇ…」
声を掛けてみる。だがやはり反応はしない。…いや、今、かすかに体が反応した。いったい何を考えているのだろうか? 私はどうやら無視されているらしい。酷い話だ。ここまで待っていたのに…。だんだんムカムカしてきたので、思いっきりうなじに息を吹きかけてやった。
「うわっ!!!」
ナギは突然の出来事に何が起きたか分からずに焦ったようだ。慌てて立ち上がり、首筋を懸命に払っている。久々に見るナギの慌てぶりに、私は笑いが止まらなかった。まさか死んでこんなに大笑いするとは思わなかった。
「なっ何すんだよっ!!」
批難に満ちた顔を私に向ける。…あれ? 私はその目をじっと見た。しかしナギの表情は変わらない。まさか気がついていないのだろうか…。いつになっても欲しいリアクションは返ってこなかった。やはり無理もない。私の姿も、そしてこの現実を受け入れるのは不可能な話だ。このことに紅葉ちゃんですら気付かなかったし、鈍感なナギが気付くはずもない。
「退屈そうね。話し相手になってくれない?」
私はそう言うと、ナギの隣に座った。せめて話はしたかった。例え他愛のない話でも、ナギがナギである根拠が欲しかった。ナギは不思議そうに私を見ていた。知らない人に話しかけられたとでも思っているのだろう。それにしてもナギの表情が非常に柔らかいことが気になった。今までのトゲトゲしさは全く見受けられない。いったい何が起こったのだろうか?
「ここにいるってことは、何かの病気かしら? 元気そうに見えるけど」
「ええ、まあ、はい。ちょっと、記憶を少々無くしまして…」
「えーっ?! 本当に!?」
ナギは少し恥ずかしそうに、照れながらそう返してきた。え…? 記憶を無くしている?? いったいどういうことなのだろうか…まさか事故のショックで記憶喪失になったのだろうか。私がオーバーに驚いて黙ってしまったので、ナギは少し不安そうな表情を浮かべている。いけない、いけない、何とか会話を続けて話しを聞かないと…。
その後、私とナギは数分だけ会話を続けた。やはりナギは完全に記憶喪失になっていた。私のことも、他のことも覚えていないようだった。けれどもナギはまるで、そう、昔の頃のように笑って、受け答えをしてくれた。全てから開放されたかのように、明るい学生になっていた。皮肉だった。全ての思い出を忘れる事によって、ナギを縛り付けていた鎖はいとも簡単に外されてしまったのだから。
病室に戻り、窓の下を眺めていた。しばらくしてナギが頭を掻きながら病院を出て行く姿が見えた。あはは…久々に会ったのに、言葉どおり忘れているなんて。神様に沢山感謝をしたけれど、3割ほど取り消させて欲しい。もちろん明るくなったナギを見て、私は安心をした。けれど思い出を失った彼は…これからどうなっていくのだろうか。同じ鎖を持つ、紅葉ちゃんと桐ちゃんと…暮らしていけるのだろうか。悲しいことに、私はまた、遠くから見ているだけの存在になってしまった。いつか状況が変わることを信じて、私はこの場所で待つことしか出来ない。ただ私は祈る。もう一度、ナギと会い、ナギと話す奇跡が起きれば…。少し臆病になっている私でも、きっとこの幸運を信じきることができる。
6日目
この日、私が”目覚めた”のは十時を過ぎたころ。ベッドから上体を起して、窓から外を眺めていた。嬉しいことに窓から見える景色はずっと晴れだ。この些細な日常のラッキーすらも、今の私には愛しい。しかし今日はその喜びに浮かれるほどの余裕はなかった
時間の経過が不自然だと気がついたのは、今日が初めてだった。今の私の存在に睡眠はない。けれども間違いなく一定の時間、起きていると…存在していると、時間は突然進んでいる。今、ベッドに存在している私に、ナギを見送ったあとの記憶はない。
今まで自分の存在が途切れることは無かった。ナギの中にいたときであっても、私は必ずその場所で連続して存在していた。例えナギが眠り、ナギが意識を失っていたとしても、私は私で独立した思いを持つことが出来た。つまり”眠るような”、突然の”時間の経過”は初めてだった。
そろそろ成仏でも近づいている…? まさか長年、私が幽霊だったとは微塵にも思わなかったし、別に現世に恨みがあるわけでもない。そもそも成仏って言われてもピンと来ない。いったい私はどこにいくのだろうか?
「ま…いいか」
考えても理解できないことは、考えない方がいい。もっとも考えたところで、現状を変えることはできないのだから。それよりも、これから私は何をどうすればいいのか…。
ベッドから出て立ち上がると、いつものようにドアを抜けて、ふらふらと病院を歩くことにした。ひょっとしたらナギが来ているかもしれない。祈りながら病棟の暗い廊下を歩いた。階段を降り、待合室に着くとあたりを見回す。…しかし学生服を着た男の子はどこにもいなかった。今日は受診日ではないのだろうか。あたりをウロウロしながら、似ている男の子を見かけては顔を覗き込み、がっかりする。
ドサッ
諦めて病室に戻ろうと、渡り廊下の売店に差し掛かったところだった。突然、売店の女性が、私の足元に雑誌の山を勢いよく置いた。私は驚いて避けようとしてバランスを崩して、豪快に顔面から廊下に倒れた。…もし私に痛みとか感覚があったなら、鼻を真っ赤にして波だ目になっていたに違いない。
「あぶないなぁっ!」
私は批難の声を上げるがもちろん届かない。諦めて店内に目をやると、週刊誌やらお菓子などが目に入る。私は駄目で元々、持ち上げようと試みる。その物体に触れ、ゆっくりと掴む感覚、動く感覚を想像する…。そして持ち上げていく。
「ヒッ?!」
売店の女性は私の方を見て、驚いてこちらを見ていた。私も驚いて力を抜くと、どさっと音が鳴った。どうやら持ち上がっているところを見られたらしい。女性は突然、浮いて落ちた雑誌を恐る恐る持ち上げて確認し、目を擦ったり頬をつねったりしていた。慣れれば物を動かしたり、本を読んだり出来そうだ。私は女性の目を盗んで雑誌とお菓子を持っていくことにした。
病室に着くとさっそく雑誌を読む。指でページを摘み、その感触を想像してめくる動作をすると、本も読むことが出来た。今度はお菓子に挑戦してみるが、残念ながら口にほおばると同時に床に落ちるだけだった。さすがに食道を抜けて胃の活動を想像することは出来そうもない。もっともそんなことを考えたら美味しくなさそうだ。雑誌が読めるだけ良しとしよう。私はそのまま雑誌に目を走らせた。
ドンドンッ
突然のノックする音に驚いて、私はドアを見た。この病室は空き病室だ。もちろん病室にプレートだって掛かってはいない。突然入ってくることはあってもノックするとは考えられない。誰か病室を間違っているのだろうか。もしくは…
「は~い、どうぞー」
届かないだろうと思いつつも、私は返事をする。もし返事が聞こえているならば…奇跡は起こったのかもしれない。そしてドアノブはゆっくりと回る。
「あっ」
この奇跡で私は確信することが出来た。私はきっと彼のために、この場所に生まれることが出来たのだと。そして彼はこの私を求めて、この場所に来たのだと。全ては必然で、決められていること。
ドアの前に立ち尽くし、気まずそうに私を見つめる、背ばかり大きくなったカワイイ少年を見ていると、不安が一気に溶けていく。成仏であろうと、ナギのもとに戻るのであろうと、この与えられた必然に安心して身をゆだねられる。そして私はナギの瞳にうつる限り、私はナギに沢山の笑顔を与えようと心に決めた。
7日目
”眠り”の時間が増えていることに気がつく。ナギと別れ、しばらくしてゆっくりと暗闇に落ちていく感触…気がつくと次の日付と変わっている。結果として”起きている”時間も減りはじめている。どうやら考えている以上に、私に残された時間はないようだ。
私は覚悟をしているつもりだった。けれど…ナギと話す時間が増えるにつれ、その未練は否定できない。このままずっと昔のようなやり取りを続けられたら…。これ以上にない幸運を神様から分けてもらいながら、それを望む私はワガママだ。けれどもあの事故以来、消滅することなく存在し続ける私にとって、その可能性を信じるなというのも無理なことだ。考えてはいけないと思いつつも、ずっと考えていた。『本当は生きている』。だが届くことのない想い、触れる事の出来ない四肢は、その仮定を立てるたびに粉々に打ち砕いてきた。今はどうだろうか? 今度こそ私は…そう考えたくもなる。しかし事実として、一部の人にしか見られない不安定な私の存在を、生きているとして認めることは不可能だ。
もうやめよう。これらは私が死んだ事実を認めたくないために、無駄な議論を頭の中で繰り返すだけだ。何百も何千も、ナギの中で繰り返した1人遊びを、今ここでするべきではない。
ガチャ
今日は私がベッドから起き上がる前に、制服姿の少年は病室に来た。ナギは恥ずかしそうに大きな白い花を…ボタンの花を一生懸命背中に隠して立っていた。私はナギが何を考え、何を持ってここまで来たのか、容易に想像できる。だから自然と笑みがこぼれてしまう。私はこの男の子の行動一つ一つが愛しい。何よりその行動が私に向いている現実に、全ての不安を払拭するだけの幸せを感じる。
楽しい時間は瞬く間に過ぎる。ナギと近所の話で盛り上がっていると、すぐに夕方になってしまう。まだ話し足りない雰囲気があるなか、私は早々に話を打ち切らなければならなかった。日に日に”眠り”が早くなっている。もしナギと話している最中に、突然私が暗闇に飲み込まれて消えてしまったならば、今のナギにとっても…私にとっても悲しい別れとなってしまう。それだけは避けなければならない。
「それじゃそろそろ…」
私がそう言うと、ナギは悲しそうな目でこちらを見た。…幼い頃からちっとも変わってない。大人びていて無理を言わない子だけれど、本当は心のそこではワガママな少年が眠っている。本心はもっともっと一緒にいたいと叫んでくれている…でもナギは絶対に口に出さない。わざと聞き分けのよい振舞いをする。
「明日は学校に行くのよ」
私はそれを知っているから、意地悪を言う。
「お、おう、努力する」
ほら、少年が出てきた。見栄を張りきれなくなって、どこかでひょこっと顔を出す、私の大好きな少年が。
私は無愛想なフリをして病室を出て行くナギを見送ると、ゆっくりと目を閉じた。昨日よりもし”眠り”が早いとすれば暗闇はもうすぐ出てくるだろう。私は今までの時間の幸福感にしがみ付くように会話を反芻し、暗闇を待つ。
そいつはすぐにやってきた。どこまでも黒く深い世界が、私の存在を飲み込んでいく。段々と感覚と意識が薄れていく。その瞬間に私は何かを祈っていた気がした。
8日目
私の目の前には草原が広がっていた。草木の緑に包まれた風景に白いワンピースを着た幼い私が、絵の具をたらしたかのように浮いて、その横には小さい、嬉しそうに膝元で眠るナギがいた。あたりは暖かい陽射しが包み込んでおり、風も、鳥の声も、周囲の喧騒も、全てが私達のために息を殺して見守ってくれているかのように静かだった。
「ナギ!」
私は声を上げた。孤独な暗闇から開放された喜びと、ナギにまた会えた喜びが声を出させた。けれども私の声は、その風景には映りこまず、まるで映画を見ているかのように遠くの風景だった。
幼い私は一生懸命に花で冠を作っている。不器用に何度も結んでは解いて、結んでは解いて…繰り返している。けれども嬉しそうで楽しそうだった。しばらくしてナギが目を覚ます。幼い私は待ちくたびれた顔を笑顔に変えて、一面に花びらを散らした。
「ライスシャワーのかわり」
幼い私のその言葉が聞こえてくると、小さなナギの頭に、小さな花の冠を乗せていた。そして幼い私が、ナギにそっと伝える。
「どんなに大きくなっても、いつまでもその可愛い笑顔を忘れちゃだめよ」
その言葉を合図に幼い私と幼いナギは静止画のように、風景と共に目の前で固まる。私が慌てて当たりを見回すと、その絵となった世界の四隅から暗闇が溢れ出し、あっという間に暗闇に染められた。
「分かったよ、…お姉ちゃん。約束するよ」
しばらくしてどこからかナギの声がした。私は急いで幼いナギの居た場所に駆け寄る。すると、幼いナギがその場に立ち尽くしていた。
「ナギッ! ナギッ!!」
私は何度もその幼い少年に声を掛ける。けれど少年は…幼いナギは私の後ろの景色を見るかのように、遠い目をして見つめていた。はじめてみる…どこまでも深い悲しい目だった。私ははっとなって後ろを振り返る。すると今度は学生服を着た…昨日まで私と何度も話をしたナギが必死でこちらに走っている。
「ぼたんっ! ぼたん姉ちゃんっ!!」
息を切らして、苦しそうに…汗か涙か分からない水滴を顔中から流しながら、一生懸命私の名前を呼んで走り続けていた。
「ナギッ! ここよっ!! 私はここにいるよ!!!」
私も急いでナギの方向に走り出す。必死で足を動かして、ナギに目掛けて走り続けた。どれだけ走っただろう、少しずつ、ナギの輪郭、表情、息遣いまでがハッキリしてくる。その顔は嬉しそうで、悲しそうで、苦しそうで…遠い昔、ずっと見てきたナギの表情が全てあるようだった。私は無我夢中でナギへと腕を伸ばした。ナギは私を見て嬉しそうな顔をすると、ナギもゆっくりと腕を伸ばす。手に暖かい感触が伝わり、お互いの重さを感じると、一瞬にして辺りはガラスのようにひび割れ、粉々に散っていった。
今度はまた静かな野原だった。緑色に染められた地面と、青一色で塗られた空だけだった。私は全身に暖かさを感じながら、その場所でナギを待つことにした。不思議と実感があった。この近くにナギはいる。いや、ナギという存在がいるのではなく、ナギと一緒にいる安心感がすでに私の中にあった。だから私はナギを探す必要はなかった。きっとナギがどこかで可愛い笑顔を浮かべていると確信できた。私は静かに横になり、はじめて眠りにつこうと考えた。それはすごく自然で、何の疑問も思わずに眠ろうと思った。
「ただいま。ナギ…」
その言葉が自然と浮かぶと、懐かしい眠気が私を包みこみ、まるで空気に溶け込むかのように意識は優しく散っていった。
9日目
再び世界は病室のベッドに戻っていた。何回も繰り返されるこの目覚め…これもやはり必然なのだと考える。その証拠に、廊下から聞こえてくる、足を引き摺るようなだらしがない足音が、私の病室の前でピタリと止まる。ほら…来てくれた。つまり私はナギを待っていたのではなく、ナギがいるから…ナギが来るからこの場所に存在しているのだ。ナギのためにこの場所に生まれているのだ。
記憶を無くし、私のことを忘れているナギ…それでも私を求めているから、存在している。そのことは私を強く奮い立たせてくれた。けれども…だとしたらなぜ、ナギは私を求めているのだろうか。全てが必然としてナギの前に生まれた私の理由は…。その答えを見つけ出し、ナギに与えてあげなければならない。この問題は深刻だった。今はもう”眠り”の時間は非常に長くなって来ている。そして何かを暗示するような”夢”。間違いなく私に残された時間は僅かだ。
バンッ
「いってぇぇぇぇっ!!!」
私は覚悟を決めて思いっきりドアを開けた。ドアは全開まで開くことなく、半分くらいのところで何かにぶつかった。同時にナギの悲鳴のような声が廊下に響き渡った。鼻をさすって涙を浮かべるナギ…愛しいこの男の子に、私の存在する理由を伝えなければならない。
「牡丹は幽霊だろ? 現に、お姉ちゃんは、俺の両親と共に事故で死んでいるんだ!」
会話をしながら考えをめぐらす私に、ナギの言葉は残酷で胸が痛かった。笑ったり誤魔化したりしながら、私は時間を稼ぐ。しかしナギは真剣な眼差しで何かを私に訴えかけてくる。きっとナギ自信何かを感じ取って焦っているのだろう。私だって焦っている。出来ることならすぐに正体を明かしてナギを抱きしめたかった。けれども今、全てを伝えたところでナギに何が残るというのだろうか…? あの事件のこと、ナギを守る家族、反故された笑顔の約束、伝えたいことは沢山ある。けれども記憶をなくしているナギは、知ることは出来ても理解することはできない。それどころか、今のナギに鎖を掛けることに他ならない。伝えられることは…何もない。
「だったらどっちにしても『初めまして』でもいいんじゃない?」
孤独だった。私とナギは共に思いを共有して、感じてきたと思っていた。この世界に存在することで、側にいて楽しい時間を過ごすことは出来た。…それだけ。大掛かりな神様を巻き込んだ仕掛けは、ナギの記憶喪失によって、ただの他人との出会いでしかなかったのだ。これも必然だったのだろうか? それなら私はナギとお喋りするために生まれただけだ。
「でも本当にもっと早くナギと会えたらよかったね」
せめてもっと長い時間があれば…。新しい思い出を作るだけの時間があれば…。沢山の言葉をかみ殺して、せめて私はナギを抱きしめた。暖かい温度が体中で感じられるどうか一日も早くナギの記憶喪失が戻り、一日も早く紅葉ちゃんと桐ちゃんと話し合い、みんなが笑顔になるように。私は私を生んだ何かに祈り続けた。そして胸の中でもがいている大切な男の子に、何度も謝り続けた。
(ごめんね…ナギ。私は何も出来なかった)
もう一度強く抱きしめると、ナギは苦しそうにして、私から離れた。顔は真っ赤になりながら、視線は定まっていないようだ。
「…そろそろ、時間かな」
日は少しずつ傾き始めている。私は小さく手を振って別れを告げようとした。けれどもナギの目はまた寂しそうな…悲しそうな顔で、私の言葉を納得できない顔をしていた。
「…もう、そんな顔しないの。何があっても笑顔を忘れちゃだめよ! 楽しかったわ」
「また来るよ」
「うん…元気でね」
不服そうに部屋を出て行くナギ。私はすぐに窓から首を出し、ナギの後ろ姿を待った。もう一度、姿が見られたらいいな。そう思いながら、眺めていると空は少しずつ黒に染め替えられ、私はまた暗闇に飲み込まれていった。
ガシャーンッ!!!
激しい衝突音が響くと、目の前は真っ赤に染まり、音はごうごうという雑音しか聞こえてこなかった。やがて目が慣れてくると、大きな車が小さな車に重なっているようだった。
え~ん! え~ん!!
突然、車の下から男の子が飛び出してきた。幼いナギだった。その姿を見た消防士が急いでナギを抱きかかえた。ナギは泣きながらずっと二台の車の方を指差していた。しかし消防士は幼いナギの体を抱えたまま、その光景を眺めているだけだった。
ドーンッ!!!
爆発音が当たりに響くと、周囲の悲鳴が響き渡った。一瞬にして激しい炎が生まれ、車の形を飲み込んだ。その姿を見た幼いナギはぐったりとして、大人の腕に体重を預けた。
「牡丹ッ! 牡丹ッッッ!!!」
突然、声が響き渡ると、周囲の人ゴミは消え、1人の高校生くらいの男の子が燃え盛る車に向かっていった。…さっきまで一緒にいた、学生服を着たナギだった。ナギは素手で、拉げた小さな車のドアをこじ開けようとした。
「ナギッ!! やめて!!! むちゃよッッ!!!」
私は悲鳴にも近い声で叫んだ。けれどもナギには届かない。ドアを掴むナギの顔が一瞬にして苦痛の表情に変わる。やがて衣類に燃え移った火は少しずつ広がり、やがて一気にナギを飲み込む。炎に包まれる黒く蠢く人影に私は叫び続けることしか出来なかった。
「ナギッ! やめて!! 私はここにいるわっ!! もうやめて!!!!」
「牡丹ッ! 牡丹ッッッ!!!」
人影が炎に包まれると、また同じ制服を着たナギが車のドアに駆け寄っていき…炎に包まれていく。残酷なまでに繰り返される世界。次第に私は怖くなり、叫ぶことすらも出来ずにこの光景を呆然と見続けていた。
「もう…やめて! 私は、私は…ここにいるからッ!!」
もう一度大声で叫ぶ。すると真っ赤な異常なこの世界は止まった。ドアに張り付いたナギも、ナギを包む炎も、マンガの一コマのように固まると、また私は世界と一緒に、黒い墨に飲み込まれていった。
「ここは…どこ?」
次に私がいた場所は、電灯が疎らについた病院の廊下だった。緑色の床と白い壁…何度も見てきた病院の廊下だが、随分とみすぼらしい印象を受けた。私は静かに立ち上がると、辺りを見回した。「外科病棟 200~」と書かれた蛍光看板が、ときおり点滅してこの場所を教えてくれる。私は考えなしにポツリポツリと自分の病室に足を向けた。
途中で、後ろから来た寝台車と看護婦に抜かされた。慌しそうに、それでも慎重に患者を運んでいる。そして203号室に着くと、そのまま病室に入っていった。私も特に考えもせず、そのまま病室に入っていった。入ってすぐのところに置かれた寝台車には、頭から目元にかけて包帯を巻かれた小さな男の子が、仰向けに寝かされていた。しばらくして白衣の男性があとから入ってきた。
「意識は…?」
「まだ回復していません」
寝台車を押してきた看護婦が不安そうに答えた。男性は何も言わずに少年の目元の包帯をずらした。…その少年は幼いナギだった。
「外傷はなかったはずだが…」
男性は少しイラついた様子で看護婦に言った。看護婦は小声ではい…と答えると、怯えるような目で男性の次の言葉を待った。
「家族との連絡は取れたのか?」
「それが…ご両親はあの、一緒に……」
看護婦はそういうと、男性は小さく舌打ちをした。
「親戚は? 誰か家に居なかったのか?!」
「ずっと電話を掛けているのですが…」
「それなら誰でもいい、とにかく誰かこの子を知っている人を連れてきてくれ!!」
医師はそう言うと、荒々しく病室を出て行った。看護婦たちは小さく息を吐くと、幼いナギを優しく病室のベッドに寝かせると病室を出て行った。
「ナギッ! ナギッ!!」
「ん…」
ナギの顔が一瞬苦痛にゆがんだかと思うと、ゆっくりと瞼が開いた。
「ナギッ! 大丈夫?!」
私は再び声を掛けた。すると幼いナギは私の方向をぼんやりとした目で見ていた。
「…お姉ちゃん、誰?」
ナギは私を初めて見るかのように不思議そうな顔をしている。私が牡丹だとわからないのは仕方がない。今、ナギの目の前にいる私は、事故の私よりもずっと年上に見えているはずだ。
「って? ここはどこ?!」
急にナギは目を丸くすると辺りを見て慌て始めた。
「大丈夫よ…ここは病院よ」
「病院…? ボク、なんでこんなところに?」
ナギは不思議そうに自分の体に手を当てていた。その手が頭に触れ、自分に巻かれた包帯に気がついた。
「え? なっなんでボク、変なものかぶってるの?!」
「大丈夫よ…ちょっとすりむいただけだから」
私はそう言って、ナギが包帯を取ろうとしている手をふさいだ。ナギは諦めると不思議そうに私を見ていた。
「ボク…ケガをしたの?」
「そうよ。でも…大したことはないわ」
「…なんでケガをしたの?」
不思議そうに私を見るナギ。その目はずっと真っ直ぐ私の目に向いていた。ナギは…事故のことを覚えていないのだろうか。しかし先ほど見たあの事故の光景を、私はナギに伝える勇気はなかった。
「私が道を通ったら、ナギ…リュウ君が倒れていたから病院に連れてきたのよ」
「え? ここ…病院なの?!」
その単語で初めてナギは自分が病院にいることに気付いたようだ。キョロキョロと辺りを見回している。
「じゃあ…お父さんとお母さんは?」
「え? …今日は忙しくなったから、私が変わりに一緒にいるのよ」
「ふーん」
慌てて考えた理由に、ナギはまったく疑っていないようだった。
「それじゃあ、お姉ちゃんは…あれ??」
ナギは私のことを聞こうとして、急に不思議な顔をし始めた。
「どうしたの…?」
「えっと…ボクにお姉ちゃんなんていないよね?」
「え?」
ナギは困った顔をして私に何か聞いてきた。
「いや…その、さっきまでボクにお姉ちゃんがいた気がして……何だかヘン」
私はこの出来事を目の当たりして、1つのことに気がついた。私がナギの中に存在していたとき、ナギは事故のことを思い出すことはなかった。さっきみたあの炎に包まれた苦しい過去は、想いを共有していたはずの私も初めて見た光景だった。そしてナギは私が中に存在し始めたときから、私のことを考えたり、口に出したりすることはなかった。私はずっと…私の存在自体が、ナギの記憶にある私のようなものだと信じていた。漠然とはしていたけれど…ナギが私を覚えているから、私は存在しているのだと信じていた。死人は思い出に生きる…誰かに教えられたその言葉を、ずっと思い込んでいた。
「何も…覚えてない?」
私が恐る恐る訪ねると、ナギは困った顔をしながら小さくうなずいた。そう…ナギはこの時点ですでに事故の記憶を無くしていた。
「でもね、何だか大事なことがあったはずなんだ…」
ナギは不安そうに私を見続けていた。一生懸命、何かを思い出したがっているようだった。
「…そんなことはないわ」
「え?」
私の口は、自分の考えとは離れたところで静かに動き始めていた。
「キミは悪い夢を見ていただけよ」
「そう…なの? 本当に??」
小さな少年は私がそう答えると、納得できないような顔をして私を見つめた。
「そうよ。だって大切なことなんて簡単に忘れないわ!」
私の顔が柔らかく動く。私は今、微笑んでいる。本当は笑えないのに、今、微笑んでいるに違いない。
「そういう…もんかな」
「そういうものよ。だから今は寝なさい…」
不思議だった。私は不安そうな表情から、穏やかになっていくナギの表情を嬉しく思いながらも、どこか遠い場所で眺めているだけのような気がしていた。この目の前の出来事は、私にとって寂しくて孤独で、…事故で世界から切り離されて、存在をし続けていた私を初めて独りにした。私はいったい「何」なのだろうか…。本当に幽霊なのだろうか。存在してはいけないのに、存在してしまっているイレギュラー…。
「うん。ボクは眠くなってきた気がする」
「そうでしょ? きっと疲れていたのよ」
私は静かにナギの目元に手を置いた。ナギはそのまま力を抜いて、上体をベッドに沈めていく。
「おやすみ…ナギ」
「おやすみ…えっと…おねえさんの名前ってなんだっけ?」
ナギは静かに目を瞑ったまま、私に聞いてくる。先ほどまで不思議と思わなかったその単語が、今ではまるで他人の会話のように聞こえた。
「目が覚めたらゆっくりお話しようね」
「うん…起きるまで待っていて……ね………」
少年の声は静かな寝息へと変わっていく。私はぼんやりと眠る姿を見続けていた。私はこれからどうなるのだろうか? ただ消えてしまうのだろうか。時間も居場所も分からない、昔が映し出される不可解な世界で、ときおり浮き出る黒い墨に飲まれて、消えてしまうのか…。
「さよなら…ナギ」
私はベッドに近づき、もう一度この少年を…幼い大切なナギを見つめた。静かに眠るナギ。このあとのことは知っている。家に戻り、両親の死を知り、紅葉ちゃんと桐ちゃんと生きていこうとして、もがいてもがいて…そして記憶を失う。
「がんばってね…ナギが私を忘れても、私はずっと一緒だから」
寝息が聞こえるほど顔を近づけると、私はその小さな唇にそっと唇を当てた。ナギの暖かい息が私の口元を湿らせた。そのぬくもりが消えないうちに私はこの場を去ろうと決めた。いずれ消えるならば、このまま消えることを望みながら。
「大切なことなんて、簡単に忘れないよ」
ドアを抜けようとしたとき、突然背後から声が聞こえてきた。私は驚いて振り返ると、幼いナギはベッドから体を起して私を見ていた。
「ど、どうしたの?」
「今、お姉ちゃんがいったでしょ」
「え?」
ナギはそういうと、真剣な眼差しで私を見つめていた。
「お父さんもお母さんも…牡丹お姉ちゃんも、遊園地の帰りに死んだ」
小さい口はゆっくりと言葉を選ぶように動いた。私は賭ける言葉も身動きすらも出来ずに、ナギ言葉を待つことしか出来なかった。
「忘れるわけないよ。牡丹お姉ちゃんなんでしょ」
「え?」
ナギは静かにベッドから降りると、私のそばに来て、静かに顔をうな垂れた。
「ごめんね。ボク…ワガママだったから、牡丹を…」
「ナギ、私が分かるの?!」
「ずっと謝りたかった。心の底でずっとずっともがいていたのだ」
ナギは顔を上げると、その顔は溢れる限りの涙で濡れていた。小さい体にあるだけの涙を、全て流すかのように、涙は止まることはなかった。私はそんなナギがかわいくて…かわいそうで、何も考えられず、ゆっくりと抱きしめた。
「怖かったんだっ! 受け入れることが…この過去を認めることが!!」
「ナギ…」
「俺の中にこの”思い出”が溢れたら、俺は生きていけなかった!」
もはやナギの声は、少年のときの声ではなかった。当たりの風景は全て失われ、この世界は暗闇で、いるのは私と目の前の…ナギだった。
「牡丹…あああっ! 俺は何でこんなことを!!!」
「ナギ…もういいのよ。誰も責めないわ」
ナギの声は段々と激しく、悲痛へと変わっていく。その体の震えを私は強く抑えることしか出来なかった。
「あああああっ!!」
枯れそうな声でナギは叫ぶと、そのまま私を抱きしめた。私が触れられなかった記憶、ナギの深い罪への思い。何度となく彼の中で繰り返された事故の記憶。何度も炎の中に身を投げた彼が伝えたかったもの。決して忘れたわけではなかった…ただ深い場所に眠っていただけだった。それをナギは、今、自分で見つけ出したのだ。
私は嬉しくて何度も腕の力を入れて、ナギの存在を確認し、安心するたびに胸から何かが押し出されるような錯覚を覚えた。滲む視界、こぼれる雫、その温度差を感じることが出来る濡れた頬、全て懐かしい感覚だった。
「なんで…牡丹まで……泣くんだよ」
「嬉しいからに決まってるでしょ!」
私は自然と笑った。ナギの懺悔などどうでもよかった。こうして肌を合わせて、お互いを感じるだけで、私の存在意義は果たされた。そう思った瞬間だった。私たちは抱き合ったまま、ゆっくりと暖かい光に包まれ、飲み込まれ始めた。
「牡丹…もう独りにしない。長い間…閉じ込めてごめん」
「え?」
ナギの口調は急に穏やかに変わった。次第に体中が暖かくなると、まるで眠るかのように、優しく意識は溶け始めていた。
「お帰り。大切な”思い出”」
ふと周りを見渡すと、いつかの野原が広がっていた。緑色に浮かぶ白い点が二つ…ひたすら楽しそうに走っていた。これがきっと私のいるべき場所だったんだ。そしてこのナギも、私と一緒に、ナギの記憶に閉じ込められていた過去に悩むナギの姿。ナギの生み出した罪であり、今、存在し続ける罰を終えた。
「ナギも…お帰り。ずっと独りで耐えていたんでしょ」
「……うん」
私たちは優しくお互いを受け入れあった。ナギの中で生きてきた私たちは、やっとナギの記憶として迎え入れられるのだ。
「ただいま。大切な”思い出”」
私がそう伝えると、目の前のナギは嬉しそうに微笑えんだ。そしてゆっくりと溶けていく。きっとその姿を眺める私も、この周囲に溢れる暖かい世界の中に溶けているだろう。これでやっと私たちは全てを終えて還ることが出来る。思い出として、本当の意味でナギの中でいつまでも生きていくのだ。何年も何十年も。何度も取り出され、何度も愛でられながら。それが私たち、思い出の役割だから。
エピローグ
どこかで呼ばれたような気がして目を覚ました。辺りはすっかり暗くなっており、電気は消えて真っ暗だ。一瞬どこだから分からなかったが、しばらくして懐かしい感触に驚く。ここは…また病室だ。ナギの中に還元されたはずの私の存在は、今またはっきりと存在していた。どうして…そう思うも、すぐにどうすればいいか分かった。
「牡丹ッ! 牡丹ッ!!」
この病院のどこからか、私を探す声が響いてきた。まったく…願えば失った人に会えるなんて、これを奇跡だと言わずしてなんて言おうか。これは私の奇跡ではない。最後まで私を追いかけた一人の大切な少年…ナギの生み出した奇跡だった。本当に神様はどこまでエコヒイキなのだろうか。これほどまで近い二人に連続で奇跡を与えてくれるなんて!
私は地面の感触を改めて感じながら、声のする方向に向かう。病室を飛び出て、廊下を抜けて、ロビーを出て…中庭に着くと、汗と涙でぐちゃぐちゃな顔の少年が…肩で息をして寝転んでいる。私は嬉しくて…ワクワクして、ナギの頭を小突いた。
「ぼ、牡丹ッ!」
一瞬きょとんとした表情を見せたナギは、すぐに体を起すと私の体に飛びついてくる。また全身に暖かいぬくもりと重みが伝わってくる。私と共に生きてきたあのときのままの少年が、私の体を強く抱きしめていた。今度は間違いなく、本当の、ナギが生きているこの世界で。いつまでも一緒に永遠に歩み続けていく、この世界で。
今、私は伝わるか分からない言葉を思い浮かべる。けれどもう伝わらないことを不安には思っていない。私はナギの想いとしていつまでも、生き続けていくのだから。
ありがとう
了
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2007年夏コミにて同人誌に発表した二次創作です。携帯アプリサイト「ジャレコ・ギャレッソ」より配信されているテキストアドベンチャー「高田家のワスレモノ」の別視点ストーリーとなります。
2007年8月19日 夏コミ出展
2007年8月 2日 推敲・校正
2007年7月22日 完成