「ごほっ…ごほっ…」
寝所にて横たわる一人の女性。
その女性が苦しそうに咳を漏らす。
胸を押さえるその様子から、肺辺りを患ってでもいるのか。
呼吸すらも苦しくなってきているようで、その表情は咳をしていない時でも軽く歪んでいた。
「母様~、ちょっといい…って、か、母様!?大丈夫なのか?!」
「ごほっ…ふぅ…何だ、翠か。ったく、相変わらず大げさだなぁ。ちょっと咳が出ただけさ」
寝所に入ってきた女性、翠こと馬超が胸を押さえて苦しんでいる様子の母を見て焦るも、その母、涼州太守・馬騰は心配するな、と受け答える。
普段から気丈に振舞っている馬騰ではあるが、最近では時折こうして娘や姪に苦しむ姿を見られてしまうようにまでなっていた。
それだけ馬騰の病が悪化しているのだろう。
涼州という地はその土地柄、秋から冬になれば空気は乾燥し、下がりに下がった気温は冷たいを通り越して痛い程である。
そんな空気が肺を患っている馬騰にとって良いはずも無い。
秋も深まってきたこの時期、馬騰の病状が悪化の一途を辿っていたとしても仕方の無いことなのである。
「大げさって言ってるけどさ、母様。もうずっと寝込んでるじゃないか。
あたしはずっと母様を見てきたから分かるよ。母様、今相当辛いんじゃないか?」
本気で心配した表情を浮かべる馬超。
そんな馬超を安心させるためか、馬騰はニッと笑みを浮かべて返す。
「言うじゃないか、翠。あんたがあたいを見抜いてるって?
はっ!そんな戯言はあたいに一度でも勝ってから言うんだね」
「んなっ?!あ、あたしはただ母様を心配してるだけだってのに!」
馬超は一転、憤慨した表情へと変わる。
その様子に馬騰は内心で安堵の溜息を吐いた。
しかし、同時に罪悪感も心に浮かぶ。
なぜ馬騰は娘の馬超にさえ自身の病気を隠すのか。
それは今現在の馬騰という存在が持つ意味にある。
馬騰は役職としては確かに涼州の太守であるが、その実態は涼州連合の盟主と言った意味合いの方が強い。
涼州の諸侯は我が強く、それらを腕っ節で纏め上げたのが馬騰なのだ。
さらに大事なこととして、涼州連合は馬騰を中心にして五胡の侵攻を防いでいることがある。
馬騰自身が敵陣に斬り込んで蹴散らすことも少なくなく、五胡の方も馬騰を殊更恐れている節があった。
このような状況かの涼州周辺に、もしも馬騰が重い病に臥していることがバレてしまうとどうなるか。
これは想像に容易いだろう。
連合は結束を失い、五胡は勢いづき、涼州は滅茶苦茶にされてしまうだろう。
馬騰としては、武の素質に見込みのある馬超に己の代わりを務めてもらうことも考えていた。
だが、現状の馬超の実力ではそれは到底適わない。
例え馬超のみでなく、馬騰の娘や姪にそれぞれ役を割り振って共同での統治を求めたとて、現状が維持できる可能性は低いだろう。
それだけ馬騰の存在が大きすぎるのだ。
その為にたとえ娘であろうと、自身の病が重いものであることを知らせる訳にはいかなかった。
事実を知る者が増えれば、それが誰であれ漏れるリスクは確実に増してしまうのだから。
(まったく……こんな時にこんな病に罹っちまうなんて、情けないね…)
内心で自身に毒づくのも仕方ないだろう。
が、表面には決してそれらを出さず、馬超に対応する。
「まあ、それは置いといて、だ。一体何の用だい、翠?」
「あ、そうだった。母様さ、華佗って名前の奴、知ってるか?」
その名を耳にした瞬間、馬騰が僅かに固まった。
自分の中で反芻し、持っている情報に照らし合わせる。
華佗。一部の民から神医とも呼ばれる程の医者。だが、彼は放浪の医者であり、そもそも簡単に捕まえられる相手では無い。
それが故に馬騰は彼を探し出すことを諦めていたのである。
五胡が度々攻めてきている大切な時期に、達成出来るとも限らない、むしろその可能性の方が低いことに兵を裂くことは出来ない、と。
そんな彼が今この時に現れた。
その余りにも出来すぎたタイミングに歓喜よりも疑心が前に出ても不思議では無いだろう。
考え込んでしまう馬騰をよそに馬超は報告を続ける。
「なんかさ、母様に用事があるらしくて、『自分は医者だ~』って言い張ってるんだけど、何か道具を持っているようにも見えないし、胡散臭いだよなぁ~」
道具を持っていないように見える。
これもまた情報に一致する。
曰く、彼の治療は鍼一本のみで行われる、とそう聞いていたのだ。
「そもそも母様が病気に臥せっていることは漏らさないようにしてんだよな?
うん、やっぱ怪しいからあいつには帰って―――」
「翠!今すぐそいつをここに連れてきな!!」
「もらう……って、ええっ!?ちょっ!どうしたんだよ、母様!?」
ほとんど自己完結のまま華佗を追い返そうと決めかけた馬超の言葉に被せ、馬騰が身を乗り出すようにして命じた。
その余りの気迫に馬超は驚き、仰け反るも馬騰は構わず続ける。
「その華佗って奴を連れてくるんだ!そいつが何か仕出かそうと企んでたとしても、ここにまで連れてくればあたいがどうとでも出来る。
それでも納得出来ないかい?」
「いや、そういうことを言ってるんじゃ……はぁ、分かった、分かったよ。そんじゃ連れてくるから、母様は安静にして待っててくれよ」
馬騰が一度強く言い出せば、生半可なことで撤回しないことは馬超が一番よく知っている。
その為、馬超と馬騰の掛け合いに僅かな齟齬があったとて、気にしても仕方の無いものだと考えたのだった。
結局、馬超は華佗を迎えに再び城門へと戻って行った。
「おい、華佗とか言うの!母様がお呼びだ!付いて来い!」
「お?なんだ、やっとか」
「ったく、なんだって母様はこんな胡散臭い奴を…」
ブツブツと文句を言いつつ華佗を先導する馬超。
その背を追いつつ、華佗はここしばらく気になっていたことを馬超に尋ねた。
「ちょっと聞きたいんだが、今涼州は五胡の侵攻を水際で食い止めてるって話だったよな?だったら一人でも多く戦力が必要としているはずだ。
にも関わらず、ここに着くまでに立ち寄った色々な場所で、多くの負傷兵達が放置されていた。この辺りには医者がいないのか?」
「いないことは無いぜ?だけど、数が多いとは言えないし、何よりここ最近は五胡の侵攻も多くなってきている。
手が回りきって無いんだろうさ。仕方が無いことだ」
「仕方が無いで済ませるようなことでは無いだろう?」
「それはそうだが、実際のところ……って、何親切に答えてんだ、あたしは。お前も黙って歩け」
根が素直な性格なのだろう、馬超は華佗の質問に対して普通に受け答えしていた。
が、途中で状況を思い出して己と華佗を諌める。
そこからはどちらも無言で廊下を歩いた。
そのまま暫く廊下を進み、先程馬超が出てきた扉を再び開く。
「母様、連れてきたぜ」
「ああ、悪かったな、翠。で、あんたが華佗、で合ってるんだな?」
馬超に続いて部屋に入ってきた赤髪の男を、馬騰は隅々までじっくりと眺める。
多少奇抜な格好をしてはいるものの、一般人では無いことは纏う雰囲気から分かる。
そして、馬騰が何よりも着目したもの。それは…
「あんた…氣の使い手かい。それが神医とまで呼ばれるほどの腕の秘密なのか?」
華佗の内側に流れる、整然とした氣の流れであった。
五胡の一つたる羌の母を持つ馬騰は今現在の漢の者ほど五胡に対する偏見は持っていない。
その為か、今のように五胡と正面から対峙するようになる以前は頻繁にとはいかないものの、五胡と交流を持ってもいた。
その五胡の地で稀に見かけたもの、それが氣を使った技術である。
数いる五胡の民の中でもほんのひと握りの者だけが持つ素質、その中で更に数える程の者のみが扱えるようになるものが、この”氣”。
漢の者達からは妖術と呼ばれるその技術は、確かに摩訶不思議なものであった。
ある者は氣を用いて自らの膂力を増していた。またある者は氣を集中することで小さいながら火を起こすことも出来た。
幼い頃より五胡と接していた馬騰は、そのような者達に共通する特徴を感じ取れるようになっていた。
その特徴こそが先程華佗にも感じたもの。
逆に言えば、氣の流れを整えている者は氣を扱える者でもあるということである。
「分かるのか?まあ、隠すつもりも無いんだが、まさにあんたの言う通りだ。
俺の五斗米道の真髄は氣を用いた医療術。現状、俺が唯一の継承者だ」
「はっ!やっぱりね。だが、驚いたね。氣については多少詳しいつもりだったんだが、そんな使い方があったなんて知らなかったよ」
思わぬ方向に進んでいく話についていけず、馬超は口をポカンと開けたまま固まってしまっている。
だが、2人はそんな馬超を置いて話を更に進めていく。
「それは恐悦至極、とでも言えばいいかな?で、馬騰殿、そろそろ要件を言ってもいいか?」
「ああ、そうだったな。あんたは何の目的でここに来たんだい?」
大凡の予想は付いているものの、形式的に聞くべきだと判断。
結果としては返ってきた答えは予想通りのものであった。
「馬騰殿の病魔を駆逐しに来た…んだが……どうやらかなりギリギリだったようだな…これは、相当にデカい…」
言葉と共に目を細める華佗。
その目には一体何が映っているのだろうか。
華佗が見つめるのは馬騰の豊かな膨らみとその周辺。
馬騰からすればそれが華佗が本物である証にもなっていた。
何せ、華佗が見つめているのは、馬騰が悪くしている肺の辺り。
まさに病んでいる場所をドンピシャであったのだから。
しかし、そんな事情を知らない馬超は、ただ見たままの事象に対して憤慨していた。
「母様に何してやがんだ、このエロボケ野郎!叩き斬ってやる!」
「待ちな、翠!こんのバカ娘が!」
ガゴッと鈍い音を立てて馬騰の拳骨が馬超の脳天に落とされる。
途端に馬超は頭を押さえて蹲ってしまった。
「痛ってぇ……」
「痛いのはあたしの方だっ!」
降ろした拳を開いて振りつつ発した馬騰の言葉に、蹲ったままで馬超が異を唱える。
目の端に浮かぶ涙は、先の拳骨の威力をありありと語っていた。
「何を言うか。あんたが勝手に勘違いしてたから止めてやっただけだろうが」
「あ?勘違い?」
「はぁ、全く。翠、あんたは黙ってじっとしてな。これ、母親命令な」
「う…わ、分かったよ」
さすがにこうまで言われて逆らう気にはならないのか、馬超はすごすごと引き下がる。
それを見てから馬騰は華佗に向き直ってこう言った。
「悪かったね。さて、あんたの要件は分かった。色々と聞きたいことはあるんだが、取り敢えず一つだけ聞こうか。
あんた、ちゃんとあたいを治せるんだろうね?」
「ああ、無論だ。随分と病魔がデカくなってしまっているが、まだなんとか俺の氣で退けられる範囲だ」
「そうか。よし、なら頼むわ」
即決。
いっそ気持ちがいいくらいに清々しくそう言い放った。
それを受けて華佗は一つ頷き、懐から針を取り出す。
そして徐ろに鍼を構えると氣を高め始めた。
「はぁぁぁぁぁぁっ!!」
ゴゥッと風が吹き抜けたかのような感覚。
氣を感じ取る力を備えていない馬超ですらそう感じる程の凄まじい氣。
鍼を媒介として氣を一点に集中しているのだろう。
華佗の体を通して鍼に氣が集まり、仄かに光っているようにも見えた。
「ここか?いや、違う…こいつか!?」
小刻みに針を動かし、細めた目を一層凝らす華佗。
「くっ…!病魔がデカすぎて核が中々見つからない…!」
額に汗が浮かび、若干ならぬ焦りが見える。
だが、馬騰にも馬超にも手助け出来ることは何も無く、ただ祈って待つばかり。
そこから更に二度ほど否定の言葉を発した後、突然華佗がカッと目を見開いた。
「見えたっ!そこだっ!!はあああぁぁぁぁぁっ!!
我が鍼に宿りし光、悪しき病魔を撃滅せしめん!我が身我が鍼と一つなり!!
一鍼同体!全力全快!!必察必治癒……病魔覆滅!!げ・ん・き・に・なれぇぇぇぇぇっ!!」
溜め込んだ気合と共に鍼で絞り込んだ氣が馬騰に送り込まれる。
ピシャーン!と落雷のような幻聴が聞こえたかと思うと、直後馬騰の体に入った氣の光が馬騰自身に馴染むようにして消えていった。
「……病魔退散…」
呆気に取られる馬騰と馬超が何も喋ることが出来ない中、静かに宣告した華佗の声が響いた。
まるで武将が強敵との一騎打ちを終えた後のような雰囲気を醸す華佗。であったのだが、次の瞬間にはコロッと元の華佗の雰囲気に戻っていた。
「これで病魔は取り除かれたはずだ。どうだ、馬騰殿?体の調子に違和感は無いか?」
「え?あ、あぁ、いや…そんないきなり言われて…も……ん?んん?!」
馬騰の返答は尻すぼみで消え、何かに驚いたように喉に、そして胸に触れる。
そして突如、ガバッと布団を跳ね除けて馬騰が立ち上がった。
驚いた馬超が諌めようとして言葉を発するよりも早く、馬騰の歓喜の声が上がった。
「こりゃあ驚いた!ちっとも苦しくないじゃないか!すっかり治っちまったってのかい?」
「ああ、そのはずだ。だが、俺の目でも見つけられない程小さな病魔がまだ隠れている可能性もある。
恐らく大丈夫ではあるだろうが、一応用心しておいてくれ」
「ああ、そうしよう。すまないな、華佗。本当に助かった。褒美はすぐに用意させよう。
ところで気になっていたんだが、あんたが今この時期にここに現れたことに何か理由はあるかい?
あまりにもここぞという時期にドンピシャ過ぎで不審感をすら覚えるほどなんだが。
それに、あたいが病に臥せっていることは隠していたはずなんだが?」
治療前に横に置いておいた馬騰の疑問。
それをここで投げ掛ける。
その返答は間を置かず返された。
「馬騰殿の病に関しては洛陽である人物に聞いたんだ。時期云々に関しては俺にはどうとも言えないが、それを聞いてすぐ、ここを目指して一直線に渡り歩いてきた。
途中で見かけた病人や怪我人の治療も行っていたから多少時間が掛かってしまったがな」
元々何も隠すつもりもない華佗はその疑問に淡々と答えていく。
その回答から、時期に関しては本当に偶然であろうことが分かった。
だが、やはりまだ問題が一つ残っている。
「……華佗。その人物とやらが、どこからあたいの病の情報を入手したかは聞いたのかい?」
「ああ、それなら分かるぞ。確か、馬超から聞いた、と言っていたはずだ」
華佗の言葉が終わるよりも早く、馬騰の腕がぶれた。いや、正確にはそれほどの速さで動いたのだが。
ではその手が何をしたのかというと…
「イタタタタタッ!?痛いって、母様!!割れ、割れるっ!!」
アイアンクローが馬超の頭に炸裂していた。それはもう見事に極まって。
「あんたがアホ過ぎるからだろうがっ!!こんのバカ娘がっ!!反省しなっ!!」
「いだいっ、いだいっ!!ちょっ、待っ、はな、聞い…」
がっちりと極まった馬騰の手から逃れられず、途切れ途切れの言葉を発する馬超。
このままでは話も進まないし、ひとまず馬超の言い分も聞くべきかと考え、ここで馬騰は手を外す。
ようやく拘束から逃れた馬超はよろよろと2、3歩後退し、両手で頭を押さえつつ言葉を絞り出した。
「痛たた……待ってくれよ、母様。あたしは母様の病気のこと2人にしか話してないぜ。
しかもその内の一人は虎牢関で討ち取られちまったし…」
「あとの一人は誰なんだい?」
「孫堅殿だよ。ほら、”江東の虎”の。昔からの知り合いだって言ってたんだけど、違うのか?」
「ああ、なんだ。月蓮の奴かい。連合に参加したってんならまだまだピンピンしてやがんだね。
…って、今はそんなこと懐かしんでいる場合じゃないね。華佗、あんたは月蓮…孫堅の奴から聞いたのかい?」
今聞いた情報からでは、確かにそうとしか考えられない。
にも関わらず、返ってきた答えは否であった。
「いや、違うぞ?俺が聞いた相手は一刀、北郷一刀だ」
「はあっ!?いやいや、ちょっと待て!んなわけねぇだろっ!?」
華佗の言葉を聞いた途端、馬超が慌て出す。
理由は当然、最早聞くはずが無いはずの名を聞いたからであった。
「あたしはその真名を聞いたことがあるぞ!だが、そいつは虎牢関で呂布に討ち取られたはずだ!
洛陽にいるわけがないだろ!?それに”北郷”って…」
「待ちな、翠。北郷一刀、ね……それは確かなのかい、華佗?」
「ああ。証拠は無いが、敢えて言うならば、俺が今ここにいること、か?」
「そうか……」
それだけを呟き、顎に指を当てて思案に耽る馬騰。
途中で遮られた馬超はまだ何か言いたそうにしていたが、馬騰の神妙な雰囲気に気迫を削がれ、今は沈黙してしまっている。
やがて考えが纏まったのか、馬騰が顔を上げると華佗に向かって言った。
「色々とすまなかったな、華佗。聞きたいことはさっきので終いだ。
さて、褒美の件だが……あんた、馬は持ってるかい?どれくらいまで積めるか知っときたいんだが」
「いや、個人所有の馬なんてものは持ってない。それと褒美も旅が続けられる程度で願いたい。多くても少なくても困るだけなんでな」
「多くても困る、かい…あっはっは!あんたも大概変わった奴だね!よし、分かった。あんたが必要だと思う分を言いな。
それからあんた、すぐ旅に出るのかい?次の目的地位までならウチの馬で送ってってやるよ。西涼の馬は速いぞ?」
この時世に珍しく、欲に溺れぬ者。
久しく見ぬその眩しさを持つ華佗を、どうやら馬騰は気に入ったようであった。
「いや、俺はひとまずこの街で病人や怪我人の治療を行ってから旅立つつもりだ。
それと送迎の申し出も、嬉しい限りではあるが辞退させてもらう。馬を使ってしまうと、道中の小さな邑の病人を見逃してしまいかねないからな」
キッパリとした華佗の宣言。
しっかりと一本、筋の通った信念を持っていることが分かる返答であった。
この手の者はそう簡単には決めたことを曲げはしない。
それが分かっているからこそ、馬騰もそれ以上しつこく勧めるようなことはしなかった。
「ほう、そうかい。そんなら、悪いが頼んだよ。涼州は今医者の手が追いついていない状態だからねぇ」
「ああ、それを馬超殿から聞いたからな。俺の力が少しでも民の役に立てるならば、喜んで手を貸すさ。
あ、そういえば、申し訳ないんだが、馬騰殿。一つ頼まれ事を引き受けてもらえないだろうか?」
「なんだい?言ってみな」
「実は一刀からある人物に言伝を頼まれていてな。俺もいずれそちらに向かうつもりではあるが、恐らく到着は相当後のことになってしまうだろう。
なので、馬騰殿の手の者にその言伝を頼みたい」
「内容は?」
「相手は孫堅殿、それから孫策殿だ。言伝の内容は、『孫堅殿は黄祖、孫策殿は于吉。この名に聞き覚えがあらば注意されたし』。
実を言えば俺もその真意は分からん。だが友の真剣な頼みだ。伝えないわけにはいかないからな」
「月蓮とあいつの娘に、ね。いいよ、引き受けよう。久々に名を聞いて連絡を取りたかったところだし、丁度いいさね」
己の恩人となった華佗の頼みであるが故に、元々断る気は馬騰にほとんど無かった。
更にその言伝の内容が己の友に関することとなれば、逆に断る理由が無い。
結果、馬騰は華佗の頼みを引き受けることを即断したのであった。
「すまない。恩に切る」
「なに、感謝するべきはこっちさ。ああ、そうだ。華佗、あんたがこの街で活動する間はこの城の施設を自由に使いな」
「それは助かりそうだ。重ね重ね、感謝する」
互いに謝意の述べ合い。
戦場の馬騰しか知らぬ者が見れば一種異様にも見えるだろうこの光景も、身近でずっと見続けてきた馬超にとっては実に納得の出来るものであった。
「母様が礼儀を尽くす、か。芯のねぇ奴、はっきりしない奴は信用ならねぇ、って豪語してた母様が…
それ程までに華佗を気に入ったんだな」
ポツリと漏れた馬超の呟きがその全てを語っていた。
「そういやさ、母様。さっき何を考えてたんだ?」
華佗が去った寝室、そこに残る馬超が馬騰に問う。
「ん?あぁ、北郷とやらのことか。なに、そんなに難しいことじゃないよ。ただね……ちょっと陛下のお考えが分からなくてね…」
「へ?なんで陛下?」
「翠、あんたは洛陽での噂を聞いたことはないかい?」
「…いや、無い」
突然の質問。
何を聞きたいかがはっきりしていないが、恐らく聞かずとも察することが出来る類のものなのだろう。
そういったものに心当たりの無い馬超の答えが否となるのも無理はない。
「なら、”天の御遣い”についてはどれくらい知ってるんだい?」
「天の御遣い?確か随分前に民達の間で話題になっていたっていう予言の……
なんでも最近になってようやく現れて、曹操のところに与している、とか何とか」
「ほう、あんたでもそれくらいは聞き及んでいたか。まあ、それすらも知らないと言っていたら、コブが増えただけだったがね。
とにかく、その天の御遣いのことだが、実は曹操のとこに現れる以前に、一度洛陽に現れているんだよ。
しかも、だ。そいつは民を集めて天の御遣いを名乗ったにも関わらず、陛下は処罰どころか何らかの動きすら無かったって話だ。
名前も北郷一刀で一致している。まさか華佗の口から聞くとは思ってもみなかったが、な。
洛陽の話はともかく、曹操のところに現れたって話はもう随分と広まっているだろう。それでも動こうとしないのは、陛下に何かお考えがあってのことのはずなんだが、それが皆目見当も付かないってだけさ」
人の口に戸は立てられない。
どこから漏れたのか、洛陽における一刀の話は豪胆にも洛陽に間蝶なりを送る諸侯達の間にもジワジワと広まり始めていた。
尤も、肝心な部分が伝わっていない辺り、どれだけ”彼女”が洛陽の民に慕われていたのか伺い知れるのだが。
馬超も薄々考えていたことではあったが、陛下直々に忠臣と称えられる母親の口から聞くと、やはり重いものがあった。
かと言って、これを聞いたところで馬超に何かが分かるわけでも無い。
どう答えてよいか分からず黙り込む馬超を尻目に、馬騰は自身の中で早々に結論を出したようであった。
「ま、何にしてもあたいは漢の、陛下の臣だ。ふざけた真似をするようであれば、叩っ斬るだけさね。
翠、あんたもいつでもいけるように気を引き締めておきなよ」
「あ、ああ。分かったよ、母様」
両者とも、色々と思うところはある。
けれども現状、一意的に一刀を悪とは断定出来ず、保留という結論を出したのだった。
華佗が涼州にてその腕を存分に振るうようになるその少し前、大陸の東、建業の地でもまた一騒ぎ起ころうとしていた。
政務に勤しむ孫堅の下に、とある情報を持って孫策が尋ねてくる。
「母様、明命が帰ってきたわよ」
「随分と遅かったね。一体何をしていたんだか…」
孫堅の溜め息交じりの言葉に孫策は苦い顔をする。
「えぇ~…明命が遅くなった理由って、母様が突然『今から建業に移る!』、とか言い出したからでしょ?」
「そこまで関係ないだろう?そんなもの、一日二日の誤差で済ませられるもんさ」
「……母様。お願いだから母様みたいな化物基準じゃなくて私達人間基準で考えてくれない?」
「ったく、そんな風に現状に甘えてるからいつまで経っても私にも勝てないんだ。まぁ、今はいい。とにかく、軍議室行くよ」
「はぁ~い」
もしこの場に一般の兵がいれば思わず突っ込んでしまったかも知れない孫策の台詞も一蹴される。
それも孫策にとってはいつものことで、それ以上深掘りすることもなく孫堅の後について軍議室へと向かっていった。
孫堅達が軍議室に入ってきた時点で、在建業の孫家配下の主要な将は一通り揃っていた。
孫堅が位置に着いたことを見て取ると、その前に跪いて周泰が報告を始める。
「明命、ただ今戻りました、月蓮様」
「おう、お疲れ。で、どうだった?」
「はい。月蓮様のご懸念の通り、曹孟徳配下に天の御遣いなる者が現れておりました。
名は北郷一刀。その身に白く輝く衣を纏っており、確かに大陸の者とは思えない風貌をしておりました」
周泰の報告に一同が騒めく。
その中、孫堅だけが冷静に周泰に確認を取る。
「北郷一刀、かい。明命、以前あんたに陳留を偵察させたことがあったね。あの時に得た情報の中に”北郷”の名が無かったかい?」
「はい、ありました。陳留の街にて施行されている目にしたことの無い政策。それを献策している人物としてその名が上がっていましたが、その正体は終ぞ…」
「こいつだったと見て間違いなさそうだね。それで?」
一つ頷いて納得を示した孫堅は、周泰に報告の続きを促す。
だが、そこで周泰は苦い顔を見せ、トーンを落として報告を続けた。
「その北郷なる者が曹軍の武官、文官の多くから大きな信頼を寄せられていることは判明しました。ですが…その…」
「なんだい?あんたの報告がはっきりしないのは珍しいね」
「す、すいません!あの、実は…そこまで調べた時点でその北郷に潜入に気づかれてしまいまして…」
この報告に周囲はより一層大きくざわめいた。
周泰の潜入能力の高さは折り紙つき、この場の誰もが大陸トップクラスを信じて疑っていない。
にも関わらず、ほとんど情報を集められていない段階でそれが暴かれてしまったというのだから、驚くのも当然である。
周囲としては純粋に驚いただけであろうが、当の本人はどうにも責められたように感じたようで肩を竦めて縮こまった。
しかし、密偵としての義務を果たすべく、残り僅かの情報を早口で伝えにかかる。
「北郷に関してはこれだけですが他にも収穫はありました。その北郷の側に赤髪の少女がおりました。何者かまでは分かりませんでしたが、相当な実力を持っている者かと…」
この報告に孫策がピクッと反応を示す。
同じく戦地にて思春と呼ばれていた少女、甘寧も眉を少し上げ、反応していた。
「明命。その赤髪の娘、触覚みたいな前髪が無かった?」
「あ、はい。確かにありました」
「浅黒い肌で、肩とか腰とかに刺青があったとかは?」
「はい、ありました。あの、雪蓮様、もしかしてご存知なのですか?」
その瞬間ギリリッと歯を食いしばった孫策に、周泰はビクッとしてしまう。
同時に横方向、甘寧の方からも殺気のようなものが篭った視線を投げつけられる。
怯える周泰に気づくこともなく、孫策は湧き上がる感情を抑え込みながらこう答えた。
「明命の報告した赤髪の少女。そいつは恐らく、呂布よ。思春もそう思うでしょ?」
「はい、雪蓮様。情報から間違い無いかと」
この孫策の言葉に大きく反応したのは甘寧の隣に立っていた少女であった。
「そんな馬鹿な!姉様や母様の話では、呂布は洛陽で死んだ、と…!」
「落ち着いてください、蓮華様。恐らく我々は偽の情報に踊らされ、誤った結論に至ってしまっただけの話でしょう」
「では、呂布は実際には生き延び、曹操に下っていたというのか?!」
「蓮華、あんたは確かに賢いが、もう少し情報を疑うことも覚えな。例え明命であっても、誤情報を持ってくることはあるんだからな」
「うっ……はい、すいません、母様…」
「恐らく蓮華様の言う通りなのでしょうね~。まんまと一杯食わされてしまいました~。ただ、そうなってくると~…」
「ああ、ちと厄介なことになって来そうだね…」
周瑜と孫堅に諭され、なんとか落ち着きを取り戻す蓮華こと孫権を横目に、孫堅と陸遜がしかめっ面で思考の海に沈む。
周瑜を除くと周囲は彼女達が何を悩んでいるのか、考えが及んでいないようだ。
やがて顔を上げた孫堅は一先ず周泰に労いの言葉を掛ける。
「何はともあれ、ご苦労だったね、明命。今日のところはこれが終わったら休んだらいいよ」
「はっ」
「さて、あんたらにはもう伝えておこうか。気づいてる奴もいるだろうが、近々、大陸には戦乱の世が訪れるだろう。
私はこの地を中心に私の”家族”の為に、そして漢の為に戦うつもりだ」
突然始まった孫堅の演説。
一気に場の空気が引き締まったことを誰もが肌で感じた。
皆が皆、真剣な眼差しで孫堅を見つめる中、孫堅の宣言は続く。
「戦乱がどれくらい続くことになるか、どれくらいの規模になるかはさすがに私にも分からん。だが、確実に言えることが一つだけある。
少なくともこれからの戦乱、手を抜いて無事で済むようなことは決して無いだろう。あんたらも気を引き締めていきな。
それと…祭」
「なんじゃ、堅殿?」
「雪蓮と蓮華、それから思春と明命、4人を鍛え直してやるからあんたも手伝いな」
「ふむ、なるほどの。分かった、引き受けよう」
孫堅と黄蓋、2人による地獄の鍛錬、それが決定したことに4人は内心で泣き叫ぶことになった。
「それから、冥琳、穏。他の連中も直集まるだろうから、帰ってきたらなんか仕事投げてやりな」
「はっ」 「は~い」
「えっ?母様、もしかして…」
「ああ、一度将官を全員呼び戻した。平穏を保っている今しか出来ない芸当だが、この時期に力をつけなきゃならんからな」
「ってことは……やった!久しぶりに木春に会えるのね♪」
途端に上機嫌になる孫策。
建昌に赴いていて長らく会っていない親友との再会を思って顔を綻ばす孫策に隠れ気味ではあるが、周瑜もまたどこか嬉しそうな様子が見て取れた。
「いいかい?こっから先はぬるいこと言ってられるもんじゃない。置いてかれたら死ぬだけだ。
そうなりたくなけりゃ、死ぬ気で付いてきな!」
『応っ!』
気合一声、孫呉の地でもまた一つ、大陸を動かし得る勢力が生まれた瞬間であった。
時代のうねりは最早止めようもなく。
北で東で、西で南で。
王の素質を持つ者達が立ち上がり始める。
動乱の時は…………もうすぐ近くに…
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第三十九話の投稿です。
少しずつ、確実に、時代は進む…