No.680238

ミルキィホームズの冒険 仮面だらけの古都 第二章01

たけとりさん

 ミルキィの同人誌を作るのが忙しすぎて、前作を投稿したのが一年前とか……。
というわけで第二章です。ようやく京都へ(……ってまだ着いてない)。
怪盗男爵ビスコンテのトイズについては、アニメで描写なし&コミック版でも今のところ描写なし&でもコミック版シオンの病みっぷりからして間違いなくトイズはもっている、という推測によります。ちなみに作中でちょろっと出ているラード事件前の怪盗事件についてはコチラ(http://www.tinami.com/view/503666 )参照で(宣伝)。
▽最初【http://www.tinami.com/view/421175
▽前【http://www.tinami.com/view/540528

続きを表示

2014-04-20 18:40:53 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:1012   閲覧ユーザー数:1011

「あ、富士山ですー!」

 反対側の車窓に白く広がる峰を見つけると、シャーロックは腰掛けた座席から大きく身を乗り出した。が、真横にあるアンリエットの大きな胸に衝突し、んぐっと声を詰まらせる。

「大丈夫ですか、シャーロック」

「すびばせん……」

 シャーロックが顔を上げると、アンリエットが柳眉を寄せた。

「あーあ、何やってんだよ、シャロ」

 アンリエットの正面に腰掛けたネロが、うまうま棒をかじりながら呆れた表情を浮かべている。その隣では、根津が軽く眉を寄せて肩をすくめていた。シャーロックは眉を軽く寄せて小さく笑うと、傾いた体勢を整え、自分の席に座り直す。

 新ヨコハマ駅を発った新幹線は、時折トンネルを潜りながら、民家の少ない山間を抜けていた。車両の中央付近はホームズ探偵学院の生徒達だけで占められており、他の乗客の姿は無い。そのせいか、初めての研修旅行に生徒達はやや興奮した面もちで談笑している。シャーロック達の席は、その生徒達を見渡すように、後方部に位置していた。

 進行方向に向かって左手側にある三人掛けの席の窓際にシャーロックが腰掛け、その中央にはアンリエットが座っている。そしてその隣の通路側の席では、エルキュールが石流から借りた文庫本を読み進めていた。そして、彼女らの正面の三人掛けの椅子をくるりと回転させ、コーデリアがシャーロックの正面に座っている。その隣にはネロが、そしてその横の通路側の席には、根津が不満げな面もちで、肘掛けに肘を突いていた。 

「静岡に入ったら、もっと大きく見えるわよ」

 笑みを浮かべるコーデリアに、シャーロックは目を輝かせている。

「富士山なんて、前にコロンに呼ばれてニューオオサカに行った時、飽きるほど見たじゃん」

 呆れた口調のネロに、シャロはえへへと笑みを返した。

「だって、あの時と違って雪があるんですよ! すっごく綺麗じゃないですか」

 そして再び、反対側の窓辺へと視線を向けた。

 通路を挟んだエルキュールの横には、石流が腰を下ろしていた。エルキュール同様、手にした薄い文庫本を読んでいる。そしてその様子を、隣席の赤縁眼鏡の女生徒がちらちらと伺っていた。その窓辺からは、緑の山間の奥から白く染まった峰が姿を見せている。

 晴れ渡った青空に、富士山の輪郭がくっきりと浮かび上がっていた。ヨコハマでは雪が降っても積もることは滅多にないが、かき氷にかけた練乳のように、富士の黒い山肌に白い雪が広がっている。シャーロックは目を輝かせて富士山へと顔を向けていたが、すれ違った車体が風が唸るような音を響かせ、車窓の景色を遮った。そしてシャロ達を乗せた車体はトンネルへと突入し、真っ暗な窓に車内の様子が反射する。

 石流の正面には二十里が陣取っていた。その隣の窓際には眼帯の女生徒が座っており、彼女が広げた雑誌を見下ろしながら二十里は紙面を指さし、その女生徒と談笑している。

 二十里は黄緑色のジャケットと白いパンツ、紫のネクタイといういつもの出で立ちだったが、素肌に直接ジャケットを羽織るのではなく、薄い桃色のYシャツを身につけていた。一方、石流はいつもの用務員姿ではなく、深緑のタートルネックにベージュのパンツを履き、同色のジャケットを羽織っている。長めの黒髪はいつものように後頭部でひとまとめに結んでいた。二十里と比べると遙かに地味な格好にも関わらず、私服姿が物珍しいせいか、多くの女生徒たちの視線を集めている。

 シャーロックが顔を正面へと戻すと、ネロは手にしたうまうま棒を食べ終わったらしく、帽子から新たなお菓子を取り出していた。両手の中にすっぽり収まる小袋には、商品名とじゃがいもがデフォルメ化された絵がでかでかと描かれている。ネロは手早く袋を破くと、ポテトチップスを口へと放り込んだ。

「お前、どれだけお菓子持ってきてるんだよ……」

「なんだよ、悪い?」

 隣で呆れた眼差しを送る根津に、ネロは唇を尖らせている。

「弁当が喰えなくなってもしらねーぞ」

「おやつとお昼は別腹ですぅ」

 根津の言葉を鼻先でふふんと笑い、やがて彼女は小さく首を傾げた。

「なに? もしかして欲しいの?」

「え? いや、別にそんなつもりじゃねーし」

 根津は戸惑い混じりに否定したが、ネロは気にした風でもなく、根津へポテトチップスの小袋を差し出した。

「しょうがないなぁ、特別だぞ」

「え? お、おう」

 根津は暫し迷った後、差し出された小袋へ遠慮がちに手を伸ばした。中から一枚だけ摘み取り、口へと放り込む。もぐもぐと口を動かすと、眉をひそめた。

「……なんか納豆みたいな変な味がするんだけど」

「納豆バター味だからね」

 にぱっと満面の笑みをこぼすネロに、根津はうぐっと声を詰まらせた。そして口の中のものを急いで呑み込むと、声を荒らげる。

「そんな変なもん喰わせるなよ!」

「なんだよ、期間限定なレアものなんだぞー!」

 声を荒らげ始めた二人に、コーデリアは深く息を吐いた。

「もう、ネロったら……」

「二人とも、喧嘩はダメですー」

 シャロが仲裁に入ったものの、ネロと根津は教室のようにぎゃあぎゃあと口論を始めた。エルキュールも文庫本から顔を上げ、か細い声でネロをたしなめているが、まるで効果がない。シャーロックが隣のアンリエットに目を向けると、彼女は苦笑しつつも、微笑ましげに二人を見つめていた。しかしその小さな唇を開きかけた時、石流の淡々とした声音が割って入ってくる。

「お前達は新幹線の中で静かにすることもできないのか」

 シャーロックが通路側へと目を向けると、石流は手にした文庫から顔を上げ、冷ややかな目を根津とネロへと向けている。

「だってコイツが……ッ」

「根津のせいですぅ」

 二人は不満げに頬を膨らませていたが、石流が無言で一瞥すると、頬を膨らませたままそっぽを向いた。

「僕ら以外居ないんだから、別にいいじゃんっ」

「良いわけないだろう」

 言い訳がましくネロがこぼすと、石流が軽く息を吐く。

「でも、譲崎さんがお菓子をあげるなんて珍しいんじゃない?」

「言われてみれば……」

 石流の肩先から覗き込むような恰好で赤縁眼鏡の女生徒が笑みを浮かべると、正面に腰掛けた眼帯の女生徒は、同意するように小さく頷いた。

「なんだよ、僕だってたまにはそれくらいの事はするよ?」

 クラスメイトの言動に心外だと言わんばかりに、ネロは彼女たちの方へと身を乗り出し、唇を尖らせている。

「嫌がらせの間違いだろ……」

 根津がそっぽを向いたまま、ぼそりと小声で呟いた。

「だいたいさー、何で僕の隣が根津なのさ」

「仕方ねぇだろ、クジでそうなったんだから」

 不満げに頬を膨らませるネロに、根津は小さく溜め息を吐き出している。

「てっきり、私達で四人掛けの席になると思っていたのだけれど……」

「それはほら、まぁ色々あってね?」

 コーデリアが僅かに首を傾げると、二十里は目を細め、唇の両端を持ち上げた。

「色々って何ですかー?」

 シャーロックが尋ねると、二十里は「色々でぇす!」とテンション高く前髪を片手で払っている。

 新幹線での座席や旅館での部屋割りは、三日前のくじ引きで決定されていた。といっても、他の生徒達と違ってシャーロック達は四人で一組扱いになっており、その代表としてシャーロックがくじを引いたに過ぎない。そしてくじの結果を元にアンリエットと二十里が調整し、新幹線の座席や旅館での部屋割りが決められていた。

「でもこの車両、どうして他に乗客がいないんでしょう?」

 シャロが大きく首を傾げると、コーデリア達もつられたように車内を見渡した。新幹線の前方にある指定席車両だったが、その中央の二列分をホームズ探偵学院の生徒達が陣取る格好となり、その両端は扉までまるまる空席となっている。

 

「他の車両はそれなりに埋まっていましたよね……?」

 困惑が含まれたエルキュールの言葉に、シャーロックは、新幹線が新ヨコハマ駅に滑り込んできた時の光景を思い浮かべた。他の車両には、出張であろうサラリーマンだけでなく、旅行客もそれなりにいた。しかし自分達の乗る車両の座席だけが、ぽっかりと空いていたのだ。

 平日の午前中とはいえ、彼岸入りと称される三月下旬。大抵の学校は春休みに入る直前ではあったが、まるで貸し切りになったかのような車両に、シャーロックは首を傾げた。

「たまたま空いてただけなんじゃないの?」

 ネロは気にした風でもなく、ポテトチップスの袋に片手を突っ込んでいる。

「それにさ、席を予約する時に、僕らみたいな団体客がいれば分かるじゃん? だから静かな方がいいサラリーマンとかが避けてるだけだと思うよ」

 ネロはポテトチップスを頬張りながら、修学旅行生やツアー観光客などが席を確保している場合、ネットや窓口でチケットを買う時に団体マークが表示されると説明した。

「へぇ、そうなんですかぁ」

 シャーロックが感心した面もちでネロの説明に耳を傾けていると、二十里は彼女たちの方へと半身を向けた。

「なら、今回の座席を事前にチェックしてみたかい?」

 唇の片端を持ち上げる二十里に、ネロは眉を寄せている。

「どういう意味?」

「そのままの意味さ」

 指に付いた塩を舐め取るネロを見返しながら、二十里は蒼い瞳をすうっと細めた。

「君達には、どの時刻の新幹線の何号車に乗るか、三日前には教えたよね?」

 腕を組む二十里に、ネロは素直に頷いた。いつになく真面目な二十里の口調に、生徒達も何事かと口を噤み、彼の方へと顔を向けている。

「君達も将来探偵になったら、こんな風に依頼人からチケットを貰って現地に向かうこともあるだろうね。その場合、ネットなり窓口なりで、周囲の予約状況を事前チェックする癖はつけておきたまえ」

 二十里は席からすっと立ち上がると、生徒達を振り返った。珍しく真面目な表情で語る彼に、生徒達はぽかんとした面もちで見上げている。

「どうしてですか?」

 コーデリアの問いに、二十里は肩をすくめてみせた。

「依頼人が偽物だったり、悪意があったりしたらどうするんだい?」

「えっ……?!」

 二十里の指摘に、その発想はなかったと誰もが目を丸くした。

「かつて小林オペラが解決した瀬戸大橋SL列車事件、前に授業で取り上げたよね?」

 二十里がコーデリアを指さすと、彼女は小さく頷いた。

 小林オペラが解決した初期の事件の中に、そうと呼ばれるものがある。小林オペラが依頼人と共に愛媛の道後温泉まで向かう途中、瀬戸大橋を渡る特別観光列車の中で、同じ車両に乗り合わせた婦人が持つサファイアの指輪が怪盗に盗まれるという事件が発生した。実は依頼人は小林と会った時点で怪盗とすり替わっており、しかも同じ車両にいた乗客は全て、指輪の持ち主以外はその怪盗の仲間だったという顛末だったのだが、そのトリックを小林が暴いた発端が、手配されたチケットと車両を確認するところから始まっている。結果、小林の慎重さと迅速な推理の展開で、列車が停車駅に着く前に犯人を暴き、無事に指輪を取り戻すことが出来たーーという事件だった。

「さて、君達のどれくらいが、そういう事前調査をしたのかな?」

 腰に両手を当ててぐるりと見渡す二十里に、ネロは不満げに眉をひそめた。

「する必要あるの?」

「していれば、ちょっと妙だと気付いたはずだけどね」

「え?」

 その言葉に、ネロと根津は顔を見合わせた。コーデリアは小首を傾げ、エルキュールは不安げに俯き、手にした文庫本を閉じて膝の上に載せた。赤縁眼鏡の女生徒も大きく目を瞬かせ、眼帯の少女も訝しげに眉を寄せている。

 周囲の生徒達が怪訝な表情を浮かべる中、アンリエットと石流だけは動揺した様子がない。

「もしかして、アンリエットさんは確認したんですか?」

 シャーロックが隣のアンリエットへと目を移すと、彼女は口元を綻ばせて小さく頷いた。

「ええ、もちろん」

「じゃぁ、石流さんも……?」

 声をひそめる根津に、石流は金色の双眸を向けた。

「当然だ」

 押し黙る生徒達に、二十里は上体を仰け反らせ、片手で前髪を大きく払った。

「あぁ、なんという事だい!」

 大袈裟に落胆したような素振りを見せ、ジャケットの胸元を両手で掴むと、鋭い眼差しを生徒達へと向けた。

「君達ィ! これは研修旅行であって、ただ遊びに行く訳じゃないんだよ?」

 そして紅のジャケットを手早く脱ぎ捨て、憂いの表情を浮かべると、各自端末で確認するよう指示を出した。

「美しい探偵を目指すなら、こういう下準備は華麗に済ませたまえ!」

 宙に舞ったジャケットが、すとんと二十里の席へと落ちていく。

 生徒達はそれぞれ鞄から端末を取り出すと、慌てて操作を始めた。やがて、ぽつぽつと怪訝な声が生徒達から漏れ始める。

「あれ?」

「なんでこの車両の席、全部予約で埋まってるの?」

「どうしてだと思う?」

 ネクタイを片手で引き外しながら、二十里が声を挙げた生徒達の方へ足を進めていく。

「えーっと、旅行会社の人が、人数が確定する前に先に座席だけ押さえた……?」

 安部の言葉に二十里はくるりと振り返り、彼の背もたれの上に片腕を置いた。

「それなら全部団体客で埋まってるはずだよね?」

「あっ、でも、ええー?」

 彼の液晶を覗き込むように見下ろす二十里に、安部は眉間に強く皺を寄せている。戸惑いを浮かべながら画面を凝視しているが、その唇からは唸り声しか出てこない。

 他の生徒達も同様で、皆、手元の液晶を見下ろしたまま戸惑いを浮かべている。

「それじゃぁ、キョウトに着くまでレッツシンキング!」

 二十里は上半身を起こすと、一気にYシャツのボタンを外し、バッと脱ぎ捨てた。宙を舞ったそれは、ふわふわと二十里の座席へと落ちていく。

 白のYシャツが紅のジャケットの上に落ちると、石流は冷ややかな視線を二十里へと向けた。

「こんな所で服を脱ぐな」

「別にいいじゃないか。キョウトじゃ脱げないんだからさァ」

「いいわけないだろう。隣の車両から見られたらどうする」

「良いんだよ、見せているんだから!」

 見られなければ意味がないと答える二十里に、石流は声を荒らげた。

「私が脱ぐなと言ったのは、旅行中という意味で言ったんだ。キョウト以外では裸になっても良いという意味ではない」

「そんなの関係ナッシング! さぁ、君たち! 答えに詰まったなら美しいボクを見るといい!」

 ついにネクタイも放り出し、上半身裸になってくるくると回り始めた二十里に、石流は指先で眉間を押さえた。深く溜め息を吐くその様を、真横に腰を下ろす黒縁眼鏡の女生徒と、通路を挟んで隣に座るエルキュールがそっと横目で伺っている。

「落ち着いて考えてみなさい、シャーロック」

 柔らかな声音にシャーロックが顔を向けると、隣のアンリエットが穏やかな笑みを浮かべていた。

「落ち着いて考えれば、貴方達にもきっと分かるはずですよ」

 励ますような口調に、シャーロックは大きく頷き返した。そして自分のPDAを足下の鞄から取り出し、電源を入れる。

 まずは二十里が指摘したように、新幹線の予約サイトへと飛び、予約状況確認画面を表示させた。自分達が乗っている新幹線を表示させると、車内の座席が長方形の図面として現れる。自分達の座席を確認すると、車両内は全て購入済みを示す紫色で塗られ、その中央にある二列だけ、団体客を意味する「団」の文字で埋められていた。

 つまり予約状況画面で見る限り、この車内は満席ということになる。だから、この予約サイトや駅では、この車両の席を購入することは出来ないだろう。だが、例え事前購入された指定席であっても、当日そこに購入者が座っていなければ、車内で車掌から購入し、座席変更をすることが出来る。

「つまり、一時的にしろ、この車両に私達以外を乗せたくなかったってことですか?」

 シャーロックはPDAから顔を上げ、アンリエットへと目をしばたたかせた。その推測に、アンリエットは満足げに微笑を浮かべ、無言で頷き返している。

「目の付けどころは悪くないね、シャーロック・シェリンフォード!」

 二十里は上半身裸のまま生徒達の間を踊るように移動していたが、シャーロック達の席前でぴたりと足を止めた。そして、良いところに気がついたと誉めるように、大きく頷いている。

 片手でポテトチップスを口元へ運んだ姿勢のまま、隣のコーデリアのPDAを覗き込んでいたネロは、二十里へと顔を向けた。そして手にしていたポテトチップスを口元へと運び、もぐもぐと咀嚼する。

「でもさぁ、何でそんな事をするのさ?」

 その問いに、シャーロックは大きな瞳を瞬かせ、大きく首を傾げた。

「何故だと思う?」

 二十里に尋ね返され、ネロは顔をしかめた。その隣では、根津は手元のPDAから顔を上げ、眉をひそめている。

「でもさぁ、こんな面倒な事、誰がするんだ?」

 車体の大半を占める空席が、実際は購入され済みだった。となれば、当然誰かが座っているべきはずなのに、実際には、自分達ホームズ探偵学院の生徒しか乗っていない。

 運行に大きな乱れがあったのならともかく、これは明らかに不自然だった。ただの偶然ではなく、誰かの意図があるとしか思えない。

「旅行会社ではない、わよねぇ……?」

 コーデリアが、首を傾げながら呟いた。

「でもさぁ、旅行会社なら、一括して団体扱いで確保すれば済む話じゃん?」

 その方が安いし手っとり早いし、とネロが続けると、エルキュールは自分のPDAを見下ろしながら、考え込むように口元に片手をあてている。

「でも、そうじゃないということは……たぶん、別の誰か……?」

 囁くようなエルキュールの推測に、シャーロックは再び首を傾げた。

 今回の研修旅行の費用は、キョウト市長ーーつまりキョウト市が負担するとアンリエットから説明があった。だからこれが第三者の仕業だとするならば、旅行会社が手配した席を把握した上で、行われているということになる。

「まぁその辺りは、キョウトに着いてから、旅行会社の人に訊いてみてもいいんだけどね」

 肩をすくめる二十里に、根津は呆れた眼差しを向けた。

「しらばっくれるんじゃねーの?」

 彼の意見に同意なのか、二十里は苦笑を返している。

「もし旅行会社がやったのでなければ、誰か」

 アンリエットは、ミルキィホームズをゆっくりと見渡した。

「そして、何の為に行ったのか」

 凛とした声音に、生徒達は自分達の座席から身を乗り出し、彼女の言葉に耳を傾けている。

「アンリエットさんの推理を聞かせて下さい!」

 目を輝かせて尋ねるシャーロックに、アンリエットは微笑を浮かべた。

 

「やはりシャーロックが言ったように、この車両に私達以外を乗せたくなかった……と見るべきでしょう」

「どうしてですか?」

 シャーロックは、アンリエットへ身を乗り出した。その鼻先にふくよかな胸元が当たり、軽く弾き返される。鼻先を押さえるシャーロックに、アンリエットは申し訳なさげな表情を浮かべていたが、すっと目を細めた。

「生徒の振りをして混じっている者がいないか、チェックする為ではないでしょうか」

 その推理に、生徒たちは顔を見合わせた。

「どうしてそんな事を……?」

「だって、そんな子がいたら、私達にはすぐ分かるじゃないですか」

 エルキュールの言葉に続けるように、コーデリアも身を乗り出した。しかしアンリエットは「そうですね」と頷き返すだけで、何か心当たりでもあるのか、柳眉を寄せて険しい表情を浮かべている。

「それにさぁ、確認って、どうやってそれをするのさ?」

 ポテトチップスの袋を空にし、指先を舐めながら尋ねるネロに、石流が口を運んだ。

「座席を容易に確認でき、且つ通路を何度通っても全く怪しまれない者がいるだろう」

 淡々とした言葉に閃くものがあったのか、エルキュールが大きく目を見開いた。

「あの、それって……車掌さん……?」

 戸惑い混じりの小声に、シャーロックはヨコハマを出てすぐに、車掌が切符の確認をしに来た事を思い出した。

 その時は、石流が代表して車掌に全員分の切符を渡し、車掌は手元の小さな機械を操作しつつ、丁寧にチェックを入れていた。そしてそれが終わると、優しげな微笑を生徒達に向けて「よい旅を」と次の車両へと移動している。

「あと車内販売員もだよネ」

 エルキュールの発言に同意するように、二十里が小さく頷いた。

 車掌が切符の確認に来て暫くしてから、女性の車内販売員がやってきている。その時数人の生徒が、彼女からジュースやお菓子を買っていたはずだ。

「証拠はない。ただそういう可能性もあるというだけだ」

 戸惑う生徒達を落ち着かせるように石流が淡々と補足すると、アンリエットは微笑と共に唇を開いた。

「以上の事から、これらを行えるのは、個人よりも何らかの組織と考えられます」

 その結論に、シャーロック達は「なるほど」と大きく頷いた。

「でも、怪盗帝国のわけはないしなぁ」

 アイツらはこんな面倒な事はしないし、そもそも旅行についてくるはずがないし……と腕を組んで考え込むネロを横目に、根津がぽつりと漏らした。

「まさか、捨陰天狗党……?」

「え? なんで?」

 その呟きに、ネロは大きく目を瞬かせている。

「あっ、いやその、何となくというか……。ほら、キョウトだし?!」

 頬をひきつらせる根津に、コーデリアは記憶を辿るように首を傾けた。

「でも私達って、関わりはないわよね?」

 キョウトに行ったことはないもの、と言葉を続けている。

「もしかして、この中に関わりのある人がいるんですかねー?」

 何気なく口にしたシャーロックの一言に、車内がしんと静まった。そして生徒達の幾つかの視線が、二十里の真後ろの席に腰を下ろす安部へと注がれる。

「あ、いや、私は捨陰天狗党員ではないぞ!」

 視線に気付いた安部が、反射的に座席から飛び上がった。そして水干のように改造した制服の袖をひらひらと揺らしながら、大げさな身振りで否定している。

「そういや安部って、キョウト出身だったっけ」

「だから違うと言ってるじゃないかぁ」

 茶化すように笑い飛ばすネロと、大袈裟に肩を落とす安部のやりとりに、生徒達の間から小さな笑い声が漏れてくる。

「安部君じゃなくても、家族の誰かが捨陰だったりして」

 なんちゃって、と冗談めかして笑うシャーロックに、安部は大きく目を見開いている。

「あ……え、えええ?!」

 そして頬に両手をあて、シャーロックを見返した。

「私には兄が一人いて、実家の神社を継ぐべくオオサカの大学にキョウトから通っているのだが、そういえば……」

 そこで口ごもり、何か思い当たる事があるのか、頬をひきつらせた。

「最近、スカウトされて何かの見習いをしているという話を聞いたような、聞いてないような……」

「それじゃないの?」

 ネロがずばりと指摘すると、安部はムンクの叫びのように、頬に両手をあてて顔をひきつらせた。

「ええええ、いや、だがしかし……」

 立ち上がったまま大きく体を揺らす安部に、再び小さな笑い声が漏れてくる。

 生徒達も本気で安部を疑っているわけではないし、安部もそれは察しているのだろう。隣席のブー太が「ミルキィホームズの言うことだブー」となだめて座らせ、その言葉を耳にしたネロが「失礼だなぁ」と混ぜっ返している。

「まぁ、これはあくまで推測ですから」

 再び賑やかさを取り戻した車内に、アンリエットは微笑を浮かべた。

 二十里は上半身裸で通路に立ったまま、モデルのようなポーズを取っている。

「というわけで、思っていた以上に君達がダメダメだから、ランチ前に、ここ数日京都の予習でやってなかった近代探偵史の授業をやるよっ」

「ええええ?!」

 二十里の宣言に、生徒達は一斉に抗議の声を挙げた。

「な、なんでですかー?!」

「シャラーップ!!」

 二十里は一喝し、生徒達を押し黙らせる。

「ダメダメなのはミルキィホームズだけでたくさんさ!」

 上半身裸でくるくると回る二十里に、シャーロックは顔を曇らせた。

「ヒドい言われようですぅ」

「くそっ、ミルキィホームズなんかと一緒くたにされた……」

 根津は屈辱だと言わんばかりに頭を抱えている。

「やーいやーい、根津もダメダメだぁ」

 妙に嬉しそうにはやし立てるネロに、根津は目を剥いた。

「お前もダメダメだろーが! このダメダメホームズ!」

「なんだよ、ダメダメ根津ぅ!」

「ダメダメダメ譲崎!」

「ダメダメダメ根津!」

 徐々にヒートアップしていく様に、アンリエットが柳眉を寄せた。

「いい加減にしなさい、二人とも」

「だってアンリエット様、こいつが……っ」

「そうだよ、悪いのは根津だよっ」

 根津とネロはお互いを指さし、アンリエットに抗議の眼差しを向けた。が、微笑を浮かべながらも鋭い眼差しを返すアンリエットに、二人ともばつが悪そうに押し黙る。

 二十里は、胸元で大きく手を叩いた。パン、と乾いた音が車内に響く。

「ヨコハマが偵都と呼ばれるようになった理由は、前に授業でやったよね?」

 そう尋ねると、眼帯の少女が片手を挙げた。いつもは学校指定のジャージ姿の彼女も、今日は学院の黒い制服を着用している。

 二十里が彼女を促すと、座席から立ち上がろうとした。が、それを二十里が片手で制すると、戸惑った面もちで腰を下ろし直し、唇を開く。

 

「IDOの日本支部局はトウキョウにありますが、それに次ぐ規模の支部がヨコハマに出来たこと、怪盗への対策に探偵が動きやすい法整備を進めたこと、日本で唯一、IDOが設立した探偵学院があること。そしてそれらを進めた現市長が、かつて高名な名探偵だったから、です」

「パーフェクト!」

 両手を膝の上に載せてすらすらと答える彼女に、二十里は満足げに手を叩いた。

「そのヨコハマ市長と同じ時期に日本で活躍した名探偵に、雷光探偵こと源頼華がいる。これは以前授業でやったよね」

 その二つ名の通り雷のトイズを使う女探偵で、多くの怪盗を捕まえ、事件を解決したのだと二十里は簡潔に説明した。

「彼女に関しては、大分昔だけど小説や映画にもなっているからね。多少の誇張はあるだろうけど、興味があれば見てみたまえ」

 その説明に、エルキュールがやや頬を紅潮させ、小さく何度も頷いた。おそらく本で読んだことがあるのだろう。彼女にしては珍しく顔を上げ、二十里の話に聞き入っている。

「逆に同時期の怪盗で有名どころだと、酒呑童子と茨城童子のコンビ、黒蜥蜴、魔天狼、鬼女紅葉(くれは)、怪盗男爵ビスコンテ」

 二十里は指折りながら数え上げると、朗らかな声のトーンをやや落とした。

「だけどその中でも特に有名なのは、やはり怪盗Lかな」

 そう告げると、二十里は深い蒼の瞳を細めた。

「というわけで今回は、かつて夜空を彩る綺羅星のごとく輝いた、美しき怪盗達の話をしよう」

 常にハイテンションな彼にしては珍しく、どこか遠くを眺めるような微笑を浮かべている。

「怪盗Lはね、あれでもかつては己の美学に沿って、人を傷つけず、正々堂々と探偵と戦う怪盗だったのさ」

 二十里はそう口にすると、窓辺へと視線を向けた。

 怪盗Lに関しては、シャーロック達も一度だけ目の当たりにしたことがある。だが、直接対峙したのは教官である小林オペラのみと言った方が正しいだろう。

 車外は、いつの間にか山に囲まれた田園から、ビルが建ち並ぶ景観へと変わっていた。新幹線は通過駅を一気に駆け抜け、真っ暗なトンネルへと突入していく。

 窓ガラスに、上半身裸で佇む二十里の姿と、彼の話に注視する生徒達の様子が反射した。二十里はそれに目を留めて満足げに頷いたが、新幹線はトンネルをすぐに抜け、青空と灰色の防音壁が並ぶ景観へと戻る。

 二十里は己の姿が映らなくなった事に不満げに唇を尖らせると、いつもの朗らかな声音を挙げた。

「怪盗の美学といえば、怪盗男爵ビスコンテも忘れちゃいけないね。彼もまた己の美学に拘る美しき怪盗さ!」

 ビスコンテは、かつての怪盗Lのように、毎回きちんと予告状を出していたのだという。

 探偵もそうだが、怪盗は特に、己のトイズに頼りがちな傾向がある。だがビスコンテは、トイズを使った形跡を残さず盗みを成功させていたらしい。故に、毎回手品を使うように警察や探偵を翻弄させていた事から、天才的と称えられるということだった。

「結局未だに、何のトイズを持っているか特定されていないんだよね」

 楽しそうに笑いながら、マダム・ビスコンテと称する女怪盗と共に二人で活動していた時期もあると、二十里は補足した。

「でも8年前の事件を最後に、姿を見せなくなったんだよ」

 だから夫婦揃って引退したのかもね、と二十里は肩をすくめた。

 新幹線は轟々と唸り、再びトンネルへと潜っていく。

「次に、怪盗・魔天狼。さっき挙げた怪盗達の中で唯一、彼だけが未だに現役なんだ」

 トイズで風を操り、空中を自由に飛び回りながら、トウキョウをテリトリーとして活動中だと二十里が語ると、ミルキィホームズはそれぞれ顔を見合わせた。

「魔天狼は知ってます! 金色の仮面を被って、変な台詞を喋りながら飛んでいく怪盗ですよねー?」

「ん? まるで見たことがあるような口振りだね?」

 シャーロックが勢い良く片手を挙げると、二十里は目をしばたたかせた。

「あの、ラード事件の少し前に……」

「ストーンリバーと戦ってたよ!」

 コーデリアが唇を開くと、あっけらかんとした口調でネロが口を挟む。二十里は彼女達の証言に目を丸くすると、傍らの石流を見下ろした。根津もそれに釣られたように、二十里と石流を見比べ、目を瞬かせている。

「そうなのかい?」

 石流は我関せずといった面もちで、広げた文庫本に視線を落としていた。が、二十里の言葉に顔を上げると、切れ長の瞳を返す。

「魔天狼は怪盗帝国がヨコハマに不在中、二度ヨコハマに侵入して盗みに成功している。だが二度目の時は、獲物が偽物にすり替えられているのに気付いて、その場で警察に返して逃げたらしい」

 そういう記事をどこかで読んだ覚えがあると石流が口にすると、エルキュールが同意するように小さく、そして何度も頷いた。それを補足するように、ネロが「ボク達その現場に居たよ!」と声を弾ませる。

 二十里は石流からミルキィホームズへと目を移すと、僅かに首を傾げた。

「つまり君達は、魔天狼の逮捕に失敗したってことだよね?」

 その指摘に、シャーロックは肩を落とした。

「それは、そのぅ……」

「ええと……まぁ……」

 コーデリアはうなだれ、ネロは腕を組んでそっぽを向いている。

「ボク達のせいじゃないしィ」

「あの……すみません……」

 エルキュールが俯くと、アンリエットは軽く溜め息を吐いた。そして石流へと顔を向け、僅かに眉を寄せている。

「その件は初耳ですわね」

「申し訳ありません。慌ただしさにすっかり失念していまして……」

「まぁ、その話は後で聞かせて貰うとしましょう」

 アンリエットが二十里を促すと、二十里は僅かに肩をすくめた。

「じゃぁ、気を取り直して話を続けようか」

 唇の両端を持ち上げ、踊るように通路を進んでいく。

「その時代の女怪盗といえば、やっぱり黒蜥蜴かな。彼女のトイズは、あらゆるものを凍らせる「凍り」のトイズだったから、絶対零度の女王なんて二つ名があったみたいだよ」

 たとえ燃え盛る炎であっても、一瞬でその形に凍らせる程に強力なトイズだったという。美しいものを盗む事に拘り、世界中で暴れていたが、25年前に雷光探偵に逮捕されて服役してからは、怪盗業からは足を洗っているらしい。

「今はヨコハマでバーを経営してるって噂があるけどね」

 ホントかどうかは知らないよ、と二十里は腕を組むと、生徒達を見渡した。

「同じく女怪盗に、鬼女・紅葉がいる。なんで鬼女って呼ばれているかというと、長い二本の角が生えた、般若みたいな鬼の面を被っていたからなんだ」

 「紅葉」と書いて「くれは」と読むのだと、二十里は説明した。紅葉柄の赤い着物姿で、東アジアを中心に活動していたという。

「トイズは、怪盗アルセーヌのように幻を見せるタイプだと言われている」

「……言われている?」

 断定ではなく伝聞調な説明にシャーロックが首を傾げると、二十里は組んでいた腕を解いた。

「証言が曖昧で、確定されていないんだよ。本人も自分のトイズについて明言していないままだし、未だに逮捕されてないからね」

 これまでの事件に関わった警察官や探偵の証言によれば、人間に幻を見せる能力なのは間違いないそうなのだが、それがただの幻ではなく、実体を伴う事も多々あったという。

「例えば、警備している部屋が水浸しになるとするだろう? 怪盗アルセーヌのトイズだと、その効果が切れると最初の状態に戻るから、実は幻惑でしたって分かるけど、紅葉の場合は、本当に周囲が濡れていたらしいんだ」

 だからトイズだけでなく怪しげな術を使うという噂もあったと、二十里は語った。

「その場合、狐みたいな大きな尻尾が五本も生えていたって証言もあったみたいだけど」

 まさに狐に化かされた状態になったらしく、それ故に幻影のトイズだと評されているのだと二十里は説明した。

「一時期、酒呑童子と一緒に活動していたようだけど、彼女も10年程前に姿を消して、それきりだね」

 二十里は右の人差し指を唇へと持ち上げると、小さく頷いた。

「最後に酒呑童子と茨城童子。彼らは二人組の怪盗で、和風の出で立ちにそれぞれ赤と黒の鬼面を被っていたんだ」

 そしてやや垂れた蒼い瞳を細めると、唇の両端を持ち上げる。

「酒呑童子のトイズは、見たモノを全て人形のように硬直化させる能力だったらしいよ」

「え?」

 

 二十里の説明に、シャーロックは目を丸くした。周囲へ目を配ると、ネロやコーデリア、エルキュールも同様だったが、アンリエットも軽く両目を見開いている。根津は目をしばたたかせて、二十里の方へ振り返った。そして石流へと目を向け、再び二十里へと顔を戻す。

「それ、怪盗ストーンリバーと同じじゃないんですか!?」

 コーデリアが息を呑むと、二十里はくるくると回りながらシャーロック達の席へと歩み寄った。

「怪盗ストーンリバーのトイズは、目を合わせた相手を人形化するよね? でも酒呑童子はちょっと違うんだ」

 そして足音高く彼女達の席を少しだけ通り過ぎ、華麗に一回転すると、石流が腰を下ろす椅子の背もたれ上部にもたれかかるように、白い片腕を載せた。

「彼の方は、「視界に入ったものを全て人形化」だったらしいんだよね。だからメデューサ・アイだとか魔眼だなんて呼ばれてたらしいけど」

 背後から覗き込むような格好になる二十里に、石流は手にした文庫本に視線を落としたまま、僅かに眉を寄せている。

「トイズの効果の解除条件も、やっぱり太陽の光だったらしいよ」

「全く同じじゃんか、それ」

 根津が漏らした感想に、コーデリアが小さく頷いている。

「むしろその強化版というか……上位版かしら?」

「でもさぁ、そんな無茶苦茶強いトイズじゃぁ、勝てるわけないじゃん?」

 ネロが大袈裟に肩をすくめると、二十里はネロを指さし、声を張り上げた。

「ところが、そんなことナッシングだったんだよ!」

 そして右の人差し指を立てたまま、顔の横でチチチと小さく左右に振る。

「さっき挙げた雷公探偵こと源頼華が、酒呑童子とバトルして、二回もそのトイズを打ち破ってるのさ」

「ええー?」

 意外な言葉に、多くの生徒達から「どうやって」と感嘆と戸惑いの声が挙がっている。その様子を見渡し、二十里は傍らで目を留めた。

「おや、君は知ってそうだね? エルキュール・バートン」

「あの、その、雷公探偵の本で……」

 手にした文庫本で顔の下半分を隠しながら、エルキュールは小さく頷いている。

「じゃ、ビューティホーなボクの代わりに答えてごらん」

「え、えぇ……?!」

 体を起こして指さす二十里に、エルキュールは強く眉を寄せた。助けを乞うように、眉を強く寄せてアンリエットへと目を向ける。しかしアンリエットは励ますように微笑を浮かべると、小さく頷き返した。

「あ、あの……っ」

 エルキュールは耳元まで真っ赤に染めながら、唇を開いた。

「さ、最初は……掌に隠し持ったコンパクトで……」

 しかし、囁くような声音は聞き取りにくかったのか、隣のボックス席の生徒から「きこえませーん」と手が挙がる。

「はうぅぅ……」

「エリーさん、頑張って下さい!」

 シャーロックが胸元で拳を握って応援するが、エルキュールの頬はますます赤くなり、涙目になっている。

「手鏡だ」

 俯いて狼狽える彼女に助け船を出すように、石流が顔を上げた。

「源頼華は、袖に手鏡を忍ばせていて、相手のトイズ発動に合わせて眼前に突きつけた」

 淡々と言葉を紡ぐと、二十里は軽く眉を広げた。

「なんだい、君も知ってたのかい?」

「雷公探偵の小説シリーズに載っているからな」

 その言葉に、隣席の赤縁眼鏡の女生徒が身を乗り出した。

「もしかして、石流さんも、エルキュールさんと同じ本を読まれているんですか?」

「あぁ。私が子供の頃に出ていた本だからな」

 女生徒を一瞥すると、石流はエルキュールの方へ目を移した。咎めるでもなく、静かに促す眼差しにようやく落ち着きを取り戻したのか、エルキュールはネロとコーデリア、シャーロックとアンリエットを見渡した。そして意を決したように小さな唇を開く。

「あの、二度目は、怪盗黒蜥蜴と協力したんです……」

 小声ではあるが、凛とした声音で言葉を続けていく。

「黒蜥蜴が雷公探偵のすぐ側に身を隠していて、雷公探偵の合図に合わせて、鏡のような薄い氷の壁を作ったんです」

「はい、よくできました」

 二十里は、誉めるように胸元で両手を軽く叩いている。

「だから、トイズは能力の強弱が全てじゃない。使い方次第なのさ!」

 そして手を止めると、生徒達を見渡した。

「ちなみに、今日行く予定の国立キョウト博物館。そこには、雷光探偵と酒呑童子、茨城童子のコンビが奪い合った絵巻の一部が、展示、保存されているんだよ」

 そう説明すると、二十里は、エルキュールの膝の上に載っている厚い文庫本を指さした。エルキュールが慌ててブックカバーを外すと、古今和歌集というタイトルと共に、長い黒髪の女性が描かれた表紙が現れる。

「これは小野小町だから、トウキョウの国立博物館の方にあるんだけど、同じシリーズの絵巻が、キョウトの国立博物館にも幾つかあるんだよ」

 二十里は、かつて一本の絵巻だったものが、描かれた人物と和歌ごとに分断され、日本中に散らばった経緯を簡単に説明した。

「他にも、怪盗紅葉に盗まれた平安時代の美術品などもあるらしいよ」

「なんでですか?」

 逮捕されず逃亡したままの怪盗が盗んだ獲物が、何故博物館にあるのか。シャーロックが素朴な疑問をぶつけると、二十里は苦笑を交えながら説明した。

 それらの美術品は、元々は寺社の宝物庫から盗まれ、個人に買われたものだったらしい。だが鬼面の怪盗達はそれらを奪うと、何故か元の神社や博物館に送りつけてきたということだった。

「当時猛威を振った彼らは、専ら個人宅から盗むばかりで、何故か博物館には手を出さなかった。だから当時は、そういった美術品がキョウトを中心に多数の博物館に寄せられたみたいだね」

 元の持ち主と買い取った者とで揉める事も多かったらしいが、結局は元の持ち主が勝利し、再度の盗難に備え、博物館に寄贈されたのだという。

 二十里の説明に、シャーロックは大きく首を傾げた。

「でも、どうしてそんなことをしてたんでしょう?」

「さぁ? そういう美学だったんじゃないのかな?」

 二十里は肩をすくめ、シャーロックを真似するように首を傾げ返している。

「そういえば、もう片方の茨城童子のトイズは何だったんですか?」

 コーデリアが尋ねると、二十里は腕を組んだ。

「それがね、記録に殆ど残ってないんだよ」

 右手を顎にあて、記憶を辿るように天井へと目を向けている。

「そうなんですか?」

「酒呑童子の記述ばかりで、茨城童子のトイズについては殆ど記載が残っていないんだ」

 あまり表に出てなかったせいもあるのかな、と二十里が小首を傾げると、傍らの石流が小さく息を吐いた。

「あらゆるトイズの効果を跳ね返す、カウンターのトイズだ」

「そうなのかい?」

 二十里が目をしばたたかせて石流を見下ろすと、彼は軽く眉を寄せている。

「さっきの雷公探偵シリーズに、そう明記されていた」

「へぇ。IDOの資料には、全然ナッシングだったのになァ」

 変なの、と二十里は笑っている。

 それから小さく咳払いをすると、生徒達に向かって再び口を開いた。

「さて、これらの探偵や怪盗が活躍していたのは30年ほど前だから……当然この美しいボクも生まれていないし、ユー達の親の世代だよね」

 そして、唇の両端を大きく持ち上げた。

「こうして見ると、君達の親の世代にも関わらず、探偵よりも怪盗の方が圧倒的に多いだろう?」

 しかも逮捕されているのは一人だけしかいない。だからIDOは探偵育成に力を入れるようになったのだと、二十里は言葉を続けた。

「その頃の探偵は、探偵の元に弟子入りして、師匠である探偵に認められて独り立ちするっていうシステムだったんだ。でもそれじゃぁ圧倒的に数が足りないし、タイムもかかりすぎるよね」

 だから探偵学院の設立という流れになったのだと、二十里は解説した。

「だから君達は、卒業したら記念すべきその一期生さ!」

 二十里は興奮した面もちで、声を弾ませた。

「卒業後の君達の頑張り次第では、これからも続く怪盗と探偵の美しい歴史の中に、きっと名を刻むことになるよ」

 頑張りたまえ、と微笑を浮かべている。

「探偵になることは難しい。でも探偵であり続けることはもっと難しい!」

 きりりとした眼差しで、二十里は生徒達を見つめた。

「怪物と戦う者は、そのことで自らも怪物にならぬよう心せよ。おまえが深淵を覗きこむとき、深淵もまたこちらを覗きこんでいる」

「哲学者フリードリヒ・ニーチェの「善悪の彼岸」にある言葉ですね」

 いつになく真面目な表情と声音の二十里に、アンリエットは小さく頷き返した。

「この「怪物」を「怪盗」に置き換えたら、君達ミルキィホームズにも分かりやすいかな?」

 少し小馬鹿にしたような眼差しで、二十里は彼女達を見下ろしている。

「どういう意味だよ、それ」

 失礼だなぁとネロが唇を尖らせると、根津が忍び笑いを漏らした。

「つまり、探偵ほど怪盗になりやすいという意味ですか?」

 コーデリアが細い眉を寄せると、二十里は肯定するように大きく頷く。

「そういえば、小林が解決した事件に堕探偵事件ってあったよね?」

 ネロの言葉に、二十里は大きく頷いた。

「探偵でありながら怪盗に堕ちるなど、あってはならないことだからね。怪盗になるのなら、最初から怪盗を目指すべきさ!」

 でなきゃ美しくないと、二十里は力説している。

「そういうものなんですかねー?」

「さぁ……」

 シャーロックの言葉に、アンリエットは苦笑を浮かべた。

 

「さて、トイズ以外に、名探偵に必要なのは五つの能力と言われているけど、それが何か分かるかい?」

 二十里はくるりと一回転すると、ダンサーのように片足を上げたたまま、ミルキィホームズを見下ろした。

「何でしょう?」

「さぁ……何かしら?」

「五つもあるのぉ?」

「わ、わかりません……」

 顔を見合わせる四人に、二十里は車内を見渡した。

「誰か分かるかい?」

 だが、皆戸惑いの表情を浮かべて押し黙っている。

「観察力、推理力、博覧強記、直感力、人脈ですわ」

 そう答えたのは、アンリエットだった。

「それぞれの能力については、いずれ二十里先生に授業で説明していただくとして……」

 アンリエットは微笑を浮かべると、席から身を乗り出して自分を見つめる生徒達を見渡した。

「人脈に関しては、貴方達は卒業すれば、ホームズ探偵学院一期生です。この学院で培われた友情は、貴方達だけが持ち得る掛け替えのない財産になるでしょうね」

 どこか遠くを見つめるように微笑を湛えるアンリエットに、皆は大きく目を瞬かせた。

「そっか……。私達はライバルであるだけでなく、同じ学院を卒業した仲間でもあるんですね」

 赤縁眼鏡の女生徒からしみじみと吐き出された言葉に、席から大きく身を乗り出している安部が、大きく頷いている。

「我々が大人になった頃には、探偵同士協力して事件に当たる未来が来ているのかもしれないな……」

 探偵と警察は協力関係にあるものの、その仲は決して良好ではない。同様に、探偵同士であっても同業のライバルであるから、決して良好な関係だけではない。

「ま、それは君達次第だよ」

 揺れる車内でありながら、二十里は片足を上げた姿勢のまま微動だにせず微笑んだ。やがてゆっくりと足を下ろし、唇の両端を軽く持ち上げる。

「現在日本で高名な探偵といえば、小林オペラを筆頭に、関東では畔柳(くろやなぎ)隆一郎、関西では朱雀三門やコロン・ポーかな」

「コロンちゃんならお友達ですー!」

 二十里の言葉にシャーロックが片手を挙げると、ネロも大きく頷いた。

「一緒に変質者の事件を解決したよね」

 その発言に、隣の根津が怪訝そうに眉を寄せている。

「あれってG4が解決したんじゃねーのかよ」

「その手柄をG4に譲ってやったんだよ」

「はぁ? 意味わかんねぇよ」

 疑う眼差しの根津に、ネロは胸を反らせた。

「そういえば、匿名の電話が逮捕に繋がったと報道されていましたが……」

「それ、私達ですよー」

 アンリエットの言葉に、シャーロックはにぱっと笑みを浮かべている。

「嘘くせぇ……」

 ぼやく根津に、ネロが突っかかった。

「なんだよ、僕達が嘘吐いてるって思ってるのかよ」

「だって、しょっちゅう嘘吐くじゃん、お前」

 再び言い合いを始めた二人に、アンリエットは軽く柳眉を寄せた。

「なんだか収集がつかなくなってきましたわね」

 二十里も同意するように、大きく肩をくすめて苦笑している。

「ねぇねぇ、そんなことよりも、はやくお昼にしようよ!」

「おまえ、さっきまでボリボリ菓子喰ってたじゃねーか」

 アンリエットへと身を乗り出すネロに、根津は呆れた眼差しを向けた。

「そうですわねぇ……」

 アンリエットは唇の端を軽く持ち上げると、ふっと窓辺へと目を移した。シャーロックもそれに釣られて車外の景色へと目を移すと、海が広がっていた。海岸沿いに車道が伸び、その手前には水辺が広がっていて、新幹線はその上を走っている。反対側の窓辺へと目を移すと、そちらにも水辺が広がっていた。

「うわぁ、海の上を走ってますー」

 シャーロックが感嘆の声を挙げると、アンリエットが「浜名湖ですよ」と口にした。そして、石流の方へと顔を向ける。

「仕方ありません、そろそろお昼にしましょう」

「はっ」

 その言葉を受け、石流が座席から立ち上がった。

「では二十里先生、臨時授業はここまでということで」

 その宣言に、二十里は「了解デース!」とくるくると回っている。

「わーい、お弁当ですー」

「駅弁食べるの、久し振りだなぁ」

 ネロとシャーロックは両手を挙げて喜んだ。コーデリアはうきうきとした笑みを浮かべ、エルキュールは膝の上の文庫本にカバーを掛け直し、足元に置いた鞄へと仕舞っている。

 立ち上がった石流は、手にした文庫本をジャケットの内ポケットに入れると、頭上の棚へと手を伸ばした。五個ずつにまとめられた弁当を少しずつ下ろし、椅子の上に置いていく。

 隣の赤縁眼鏡の女生徒は座席から素早く立ち上がると、五個ずつにまとめになった弁当を両手で抱えた。そして慎重に足を運び、安部達のいる隣のボックス席へと配っていく。

「すまないな」

 礼を告げる石流に、赤縁眼鏡の女生徒ははにかんだ。

「いえ、これも委員長としての仕事ですから」

 そして再び石流の椅子へ足を運ぶと、弁当をてきぱきと配っていく。

 全ての弁当を棚から下ろした石流は、一つだけ違う包装の弁当をアンリエットへと手渡し、手近の生徒達へ配った。そして最後に、ミルキィホームズ達の分を渡していく。

 生徒達の分はヨコハマ名物のシュウマイ弁当だが、アンリエットの分だけ、少し豪勢な弁当になっている。

 生徒全員に弁当が行き渡り、赤縁眼鏡の女生徒が席に座ったのを見届けると、石流は背後で未だ回転している二十里に、冷ややかな視線を向けた。

「貴様はいい加減に服を着ろ」

「つまんなーい、ボクを見てくれなきゃつまんなーい!」

 だが、二十里は不満げに唇を尖らせている。

「子供か、貴様は」

 吐き捨てる石流に、眼帯をつけた女生徒が上目で二十里を伺った。

「でも、先生が服を着てくれないと私達もご飯が食べにくいので……」

「そうか、美しいボクに見とれて困るということだね!」

 ならば仕方ない、と二十里は自分の席に放置されている衣類を手に取り、手早く身につけていく。

 その様子に、赤縁眼鏡の女生徒と眼帯の女生徒は、安堵の息を漏らした。そして丁寧に包装を解き、弁当の蓋を取っていく。

「おべんとおべんとうっれしいなっ」

 包装を乱雑に破きながら歌うネロに、根津は呆れた眼差しを向けた。

「お前、ホント悩みなさそうだよなぁ」

「何? おかず分けてくれるの?」

「何でそうなるんだよ」

 軽口を叩き合いながらも、二人はいそいそと弁当を広げていく。

「アンリエット会長のお弁当、餃子が入ってるわ!」

 コーデリアが羨ましげな声を挙げると、アンリエットは「そちらのおかずと交換しましょうか」と提案した。

「ええ……でも……」

 遠慮がちな言葉を口にしながらも、コーデリアは自分の弁当を差し出している。

「ではこの焼売と交換しましょう」

「有り難うございます!」

 箸でおかずを入れ替えるアンリエットに、コーデリアは満面の笑みで礼を告げている。

「いいなぁ。アンリエットさん、私とも交換して下さい!」

「僕も僕も!」

「あの……私も……」

 シャーロックが弁当を差し出すと、ネロも同様に弁当を突き出した。エルキュールも、遠慮がちではあるがしずしずと自分の弁当を差し出している。アンリエットは差し出された弁当に自分の弁当を近づけると、箸で器用に摘んで、彼女達の弁当にはないおかずを分け与えた。そして代わりに、彼女達の弁当にある焼売や卵焼きを摘み、自分の弁当の空いた場所へと入れていく。

 その様子をじっと見つめる根津に気付くと、アンリエットは微笑みを向けた。

「あら、根津さんも交換希望ですか?」

「え、いやそのっ、俺は別に……っ」

 真っ赤になって顔を背ける根津に、ネロが「羨ましいんだろー」とはやし立てている。

「お前達、はしたないとは思わんのか」

 諫める眼差しを向ける石流に、アンリエットは穏やかな笑みを返した。

「たまには良いではありませんか」

「はぁ……。アンリエット様が宜しいのでしたら」

 釈然としない面もちになる石流に、隣席の赤縁眼鏡の女生徒は、意を決したように顔を上げた。

「いいい石流さん、折角ですし、何かおかず交換しましょう!」

「……同じお弁当なのに?」

 眼帯の女生徒の端的な指摘に、赤縁眼鏡の女生徒が赤く染まった頬を引きつらせる。

「ああああ、そうだった……!」

 弁当を膝に載せ、窓辺にもたれ掛かるようにうなだれている。

「なんだ、欲しいのか?」

 石流は隣席の女生徒に僅かに眉を広げると、自分の弁当に入っている卵焼きを彼女の弁当に載せた。

「お前は確か、卵料理が好きだったな」

 微かに目を細める石流に、赤縁眼鏡の女生徒はさらに顔を赤くしている。

 そのやりとりを横目で伺っていたエルキュールは、口にの中にあった焼売を咀嚼すると、ぽつりとこぼした。

「そういえば……石流さんと一緒にご飯を食べるのは初めてです……」

「え、そうだっけ?」

 エルキュールの呟きに、根津は目を瞬かせている。

「そういえばそうだよね」

 ネロは焼売を口の中へと放り込み、小さく頷いた。

「言われてみれば……?」

 コーデリアは餃子を箸で摘み、僅かに首を傾げている。

 学院があった頃は、石流は生徒の食事中は給仕をしていた。仮校舎になった現在でも、そのスタンスは変わっていない。

「石流さんって、いつご飯を食べているんですか?」

 興味津々にシャーロックが尋ねると、石流はぽつりと答えた。

「皆の食事の後だが」

「お腹空かないんです?」

「特には」

 さらに質問を重ねる彼女に、石流は素っ気ない。

「でも君って、意外と小食だよね?」

「作りながら味見をしているせいだと思うが」

 人並みだ、と二十里と他愛もない会話を交わしながら、石流は俵型の小さなおにぎりを箸で掴むと、口元へと運んだ。無言で顎を動かし、大きく喉元を動かす。

 その様をエルキュールがじっと見つめていたが、石流の鋭い眼差しとぶつかると、慌てて目をそらした。

「なんだ」

「あ、いえ、なんでも……」

 エルキュールは俯いたまま赤面し、おにぎりを箸で摘み、口元へと運んでいる。

 シャーロックがもぐもぐと口を動かしながらその様子を眺めていると、隣席のアンリエットが箸を置き、その細い指先を口元へと伸ばした。

「シャーロック、口元にお米が付いていますわ」

 ここです、と自分の唇の左端を指さす。シャーロックは慌てて箸を弁当箱の上に置くと、彼女が指さす場所へと手を伸ばした。確かにそこに、小さな米粒が一つ付いている。

「えへへ」

 シャーロックはそれを摘み、素早く口の中へ放り込んだ。照れ笑いをアンリエットに返し、再び箸を手に持って、弁当を食べ始める。

 箸で摘んだ焼売を口の中へと運ぶと、シャーロックは窓辺へと目を移した。

 新幹線は巨大な湖を抜け、車窓には乾いた土が広がる田園が広がっていた。ぽつぽつと立ち並ぶ一軒家を繋ぐように細い車道が伸び、その奥には深い緑の山々が立ち並んでいる。徐々に家々が増え、やがて灰色の防音壁がその景色を塞ぐと、瞬く間にホームを駆け抜けた。車内の扉の上にある電光掲示板へと目を移すと、通り過ぎた駅名が表示されている。

「愛知に入ったようですわね」

 電光掲示板を見つめていたアンリエットが、柔らかな声音をこぼした。

「もうすぐナゴヤですわね」

 何気ない口調ではあったが、紫水晶のような瞳をすっと細めている。何かを考え込むような眼差しに、シャーロックは小首を傾げた。

「アンリエットさん?」

 話しかけると、アンリエットは「なんでもありません」とすぐに柔らかな眼差しへと戻る。

「ナゴヤ城、見えますかねー?」

 屋根に大きな金の魚が載っているんですよね、とシャーロックが言葉を続けると、アンリエットは小さく頷いた。

「シャチホコというのですよ、シャーロック」

 そして小さくクスリと笑みを零す。

「見えると良いですわね」

 その微笑みに、シャーロックは「はい!」と満面の笑みを返した。

 

<続く>


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
0
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択