その十一 先へ
頭に血が上っていた、としか言いようがない。あの場から逃げるように出てきたのはいいものの、弘太は帰り道を知らないことに気がついた。そこまで広い山でもなし、いつかは通りに出るだろうと先へ進んでみたものの、どこに出るのか皆目見当が付かない。その上なかなか通りにぶつからない。
もう一度、クマザサの中を突っ切るのは論外だ。来る時ですら方向感覚を失ったのに、案内もなく元のところに戻れるはずがない。
そうなると、この山道をさらに先へ進むしかないのだが、どこへ出るか分からない。あくまで自然公園の山中であるから、さほど変なところには出ないだろうが、元の広場まで帰るには相当な遠回りをする可能性もある。
親たちの宴会は、その時の空気もあったが大体五時くらいには撤収を始める。これから迷うことを前提に考えると、少し急いだ方がいいかも知れない。
弘太は歩く速度を緩めて一度後ろを振り向いたが、誰も追いかけて来てはいない。
――何を期待しているんだ、僕は。そんなんだから……!
吉乃との事を諦めてすぐに、新たに出会った女の子へ、恋愛感情、とまでは行かない。行かないが、少なくとも好意を抱いて、あわよくば気に入られようとする気持ちがあった自分に嫌気が差す。あっちが駄目なら、すぐにこっち。軽薄すぎるではないかと。
それに、散々ソメイヨシノの悪口を言った挙げ句にふて腐れて逃げてきたのだ。追いかけてきてくれるなぞ、都合が良すぎるというものだ。
「……くそっ!」
八つ当たりの蹴りに、地面の落ち葉がかさりと舞い、それが落ちてくる様を弘太はしばらく眺めていた。
だが、その時。
「……い、……くん」
遠くで、声が聞こえた。
もしやと思い、後ろを振り返ると、ヨシノが追いかけてきているではないか。
「弘太君! ああ、よかった。ちょっと待って」
安堵の表情を浮かべるヨシノに対して、弘太は罪悪感でいっぱいだった。追いかけてきて欲しいと、心の奥で思ってはいても、実際本人を目の前にするとどうして良いものやら、迷ってしまう。
つい、先程まで散々ソメイヨシノの悪口を言っていたのに、この、ソメイヨシノ好きの女の子へ対して自分は何を言えばいい。
――何か、何か言わなくちゃ。
ヨシノが、目の前に来る前に。何を言うか、考えなければ。だが、そんな余裕もなくヨシノはすぐ弘太の目の前に迫る。
――何を、何を言えばいい。
「……あ、あのさ」
本当は追ってきて欲しかった。そして、追ってきてくれた。嬉しかった。感謝の言葉を言わなくてはならない。だがしかし、その前にこの胸のつかえを何とかしなくてはならない。原因はなんだ。
――罪悪感だ。
悪いことをした時はどうすればいいのか。
――なんだ、言うことは一つだけじゃないか。
「……ごめん」
弘太がそう言うと、ヨシノは意外そうな顔をした。
「えっ、いや、こちらの方こそ、ごめんね。嫌な思いさせちゃって」
「いや、悪いのは僕なんだ。……ごめん」
謝罪の言葉を一つ述べると、つまらない、意地という名の関が壊れた。全部、言ってしまえ。
「……本当はさ。別に、そこまでソメイヨシノは嫌いじゃないんだ。だた、面白くないことがあったから、八つ当たりしてただけ」
弘太は、自分で言っていて、ようやく己の気持ちが腑に落ちた。なんだ、本当にただの八つ当たりじゃないか。格好悪いなんてもんじゃない。
「だから、最高に格好悪いな、って。……そういうこと」
そう言うと、ヨシノはクスリと笑った。胸のつかえが、だいぶん取れた気がする。そして、ヨシノは笑った方がやはりかわいい。
「ううん、無理矢理引っ張ってきてこんな事になって、本当にごめんなさい」
「坂下さんは、悪くないよ。半分ケンカ吹っ掛けてきたのは伊藤さんなんだし」
「……でも、伊藤さんの事は悪く思わないでね。あの子は、本当に桜が好きなの。そして、この桜山が。私たちの中でも、特別に」
弘太にも、それは何となく理解できた。だからこそ、生半可な知識でこの桜山湖の景色を貶されたことが面白くなかったのだろう。
「で、弘太君はどうする?」
「え? どうするって……」
「もう帰るなら送っていくし、もし一緒に来てくれるなら、一番の所に案内してあげる」
弘太は、ヨシノの表情を見る。いや、相手の表情を見るまでもなかった。自分はその一番の景色とやらを、見てみたいと思っている。
「乗りかかった船だし、最後まで行くよ。よろしく」
「よかった、じゃあ、行こう」
ヨシノの頬にさっと赤みが差した。まさに花がほころぶといった表現が相応しい笑顔。その笑顔に、弘太の鼓動は強く、速くなっていく。
「ところで、弘太君」
「え、あ、何?」
「私が来なかったら、どうやって帰るつもりだったの?」
「……この山道を適当に進もうかと」
ヨシノの説明によると、山道の先は弘太が来た広場とはまるで逆、裏口とも言える所へ通じているとのことだった。もし、そのまま進んでいたら帰り時間に間に合わなかったところである。
「「帰らなくて良かった」」
二人同時に声が出た。そして、同時に笑いが込み上げてくる。良かった、と弘太は心の中で繰り返す。この女の子との不思議な花見を、もう少しだけでも続けられることが嬉しかったのだ。
弘太は、今度は自分の意志で、ヨシノと山道を歩き始めた。
「あ、そうそう。これ、伊藤さんが持っていけって。『好意は素直に受けるものだ』ってね」
山道を歩き始めてしばらくすると、ヨシノがさっきのコースターを渡してきた。
「……ん、まあそう言うなら……」
弘太は、再び我が手に戻ったコースターをまじまじと見る。どう見ても桜の花びら形だが、崩れたハート型と見えなくもない。
――桜に心を託す。
そんな、伊藤の言葉を思い出して弘太は一人で赤くなった。
――違う違う、そんなんじゃない。貰い物のコースターを横流しするのもアレだし。
弘太はそう否定し直してから、ポケットにそっとしまった。
すると、ヨシノが不意に立ち止まった。
「……うーん、確か、このあたり……。あ。あった!」
コースターに関して変に勘ぐられたのではと、弘太はドキドキと心臓を鳴らしたが、全く関係なかったので一先ずほっとする。
ヨシノは山道から雑木林の方へ入っていく。この辺りは特に下草もなく、落ち葉がいくらか落ちているだけで奥まで見通せた。どうやら、奥に張ってある金網のフェンスへ向かっているらしい。
フェンスは弘太の背丈より少し高いくらいだったが、上部には有刺鉄線が張ってある。ただ、目の前の金網は破れていて、人が余裕で通れるくらいの大穴が空いていた。その脇の、目通りの高さにくくりつけられたプレートには次のように書いてある。
――貯水池管理区域につき、立ち入り禁止 水道局
「じゃあ、行こっか」
ヨシノは何のためらいもなく、中に入ろうとした。
「え……ちょっと、立ち入り禁止って書いてあるけど?」
「ちょっとくらい、大丈夫だよ。誰も見てないし」
事も無げにヨシノは言う。確かに、他には誰もいない。
「……わかった、行こう」
二人きりで、禁忌を犯す。
そこまで大げさなものではなかったが、弘太は僅かな背徳感と共通の秘密を手に入れた事に、心ときめくものを感じていた。
フェンスの先には、盛り土のような小高い山があり、その上に木々がしっかりと根を下ろしていた。ヨシノと弘太は、それに沿って奥へ、奥へと進む。フェンスの内側は、あまり手入れが行き届いていなかった。落ち葉も深く積もっていたし、木々も生い茂って空をほとんど隠しているから、先程よりずっと薄暗い。夏に来ていたら、間違いなく蚊の餌食になっていただろう。
ざくざくと落ち葉を踏みしめながら、しばらく歩いていると、小高い山がほぼ直角に途切れ、内側へと入り込むように道を作っていた。この時、弘太は初めて小高い山が人工物であることに気がつく。
「あのさ、ここ、何かあったのかな。建物とか……」
「ここはね、昔、お城だったんだよ」
「え、こんな所に城が?」
「山谷城って言ってね。でも小田原攻めの時に落城して、山谷さんは滅亡。城も早くに廃れちゃったし、見学も許可されてないから、地元でも知らない人は多いんだよね。この盛り土みたいなのは、土塁の跡」
「へぇ……せっかく遺跡があるなら見学させればいいのに」
「う~ん、そうなんだけど、小さなお城だったし、土塁と礎石くらいで他は何も無いから……。湖も近いし、汚されたり落ちたりするといけないからじゃないかな」
土塁の崩れた部分と木々の間から、僅かに湖面と堤防が見えた。どこをどう通ってきたものやら、自分たちが今いる位置はちょうど堤防の対岸くらいで、それもだいぶん高い所のようだ。
「でも、何か勿体ないな」
「弘太君、お城とか好きなの?」
「いや、特に好きってわけじゃ無いけど……ここ、何となく面白いから」
「……ここのお城を作ったお殿様はね、桜が大好きだったんだって」
その話なら、聞いたことがある。あのオオシダレザクラに関わる話だったはずだ。
「今から行こうとしてるのは、お城の物見櫓(やぐら)があったところ」
「え、櫓が残ってるの?」
「ううん、でも、そこからの景色がすごかったんだって。時期になると毎日のように登って花見をしていたから、花見櫓なんて揶揄されたって」
「そりゃ相当だね」
「でね、花見ばかりしているから、家臣から『花見ばかりで敵に気がつかぬと困ります』って注意されたこともあるって話だよ。そうしたら、お殿様は何て答えたと思う?」
「……さあ?」
「『敵も花に見とれるから問題ない』って」
そんな話をしていると、次第に霧が立ちこめてきた。ただでさえ薄暗いのに、霧が出ると視界が一層悪くなる。遺跡の中とあって神秘的な雰囲気もあったが、また不気味でもある。良い天気であったのに、急に霧が出たのも薄気味悪い。
ヨシノがよく来る場所なら問題ないだろう、と思う一方で、あまり霧が濃くなるようなら迷ってしまうのではないかと、弘太は一抹の不安を拭い去ることができなかった。
「……あの、霧出てきたけど、大丈夫?」
「大丈夫。このすぐ先だから」
そう言うのとほとんど同時に、土塁に囲まれた雑木林を抜け、橋の前に出た。
橋は木製でかなり古びており、今にも壊れそうに見えた。その上、霧はますます濃くなり周囲五メートルほどしか視界がない。
近くに桜があるのか、霧の中から時折花びらが舞い降りてくるが、それがどこにあるかの見当すら付かない。幻想的、と言えば間違いなくそうだが、これほど不安を煽られるシチュエーションもない。
「この橋を渡った先だよ」
ヨシノはそう言うが、どう考えてもこの状況で橋を渡るのは危険である。――中学生男女、転落死。そんな三面記事のタイトルが脳裏に浮かぶ。
「ねえ、危なくない? 霧が晴れるまで待っても……」
「ううん、大丈夫。行かないと霧は晴れないから、行こう」
きっぱりと、強くヨシノは言った。
弘太は強い違和感を覚えた。大丈夫、というのは慣れているからとしても、なぜ行かないと霧が晴れないのだろうか。しかも、晴れないと思う、という推量ではなく、晴れない、と断言しているのだ。その根拠はどこから来るのだろう。
「これなら、大丈夫。絶対に渡れる」
尻込みする弘太を勇気づけるように、確信を持った声でヨシノは言う。
「私が先に渡るから、弘太君はその後に付いてきて」
「あ、ちょっと……!」
制止する間もなく、ヨシノは橋を渡る。ぎしぎしと、いかにも壊れそうな音が響き、弘太は生きた心地がしなかった。
しかし、その軋む音が止むと同時に「大丈夫だよ」と、対岸から声が掛かった。橋の向こうには、かすかに手を振っているような影が見える。それから察するに、橋は一〇メートルくらいであろうか。そこまで長い距離ではない。
大丈夫、と言われても、恐いものは恐かった。しかし、女の子が一人で渡ったのに、自分が行かないなど男が廃る。弘太は覚悟を決めて、橋の前に立った。
――この橋、渡るべからず。なら真ん中を、というのが定番だけど……。
橋をよく見ると中央辺りに小さな穴が空いている。やはり端を行く方が良いだろう。万一踏み抜いた時も欄干に捉まれば落ちることはない。
そう思って、踏み出した一歩。
ミシリ、と嫌な音がした。次の瞬間、宙に浮いた、と思う間もなく、踏み抜いた木片もろとも真下に引きずり込まれる!
「おわぁっ!」
ズン、と鈍い音がした。反射的に欄干に絡ませた上腕部に、痛みより先に痺れが来る。何とか落ちずにはすんだようである。
「っ痛てー……」
「弘太君!? 弘太君! 大丈夫!?」
「……なんとか大丈夫!」
「欄干に捉まって、ゆっくり、ゆっくりね!」
言われなくても、そうするつもりだった。慎重に踏み抜いた足を引き抜き、橋の上へ戻す。一歩一歩、感触を確かめながら、念を入れすぎるくらいで調度いい。石橋ですら叩いて渡る。それどころか、これは壊れかけの木橋なのだから。
橋は相変わらず嫌な音を響かせていたが、弘太は確実に前に進んだ。そして、橋半ばまで来た辺りで、霧の中からヨシノの姿が見え始める。
ああ良かった、もう少しだ。そう弘太が気を緩めた時、急に強い風が吹き始めた。ただでさえ不気味な音を響かせていた橋が、ギシギシ、キィキィと悲鳴を上げ始める。
欄干にしっかりと捉まって脇を見ると、風のためか、うっすらと霧が晴れ始めている。その先にはミニチュア模型のように小さくなった堤防と人、木々が見えた。何と高いところまで登ってきたのだろう。今まで来た道は確かに登り坂ではあったが、緩やかなものだった。とてもここまで高くなるとは思えない。
だが、実際、こうしてこんなに高い位置にいる。まるでキツネにつままれた様な気分だが、あれこれ考えている余裕は無い。
風が治まったら、進もう。そう思っても、風は一向に止まないし、足が動かない。
弘太の足は、完全に竦んでいた。股間から丹田、みぞおちに悪寒が走り力が入らない。高所恐怖症ではなかったが、この状況は、高いとか低いとか、そういうレベルを超えている。
「弘太君! こっち、前を向いて! 真っ直ぐに!」
ヨシノが、呼ぶ。
――呼んでる。行きたい。でも恐い。足が動かないんだ。何なんだ、何で僕はこんな所に来てしまったんだ。こんな事になるなら、来なければよかった。行ったところでも、帰ったところでも何がどうなるってわけでもなかったんだ。
「弘太君!」
――最悪だ。やっぱり、今年の花見は。帰りたい。でも、どうするんだ。帰れるのか。橋が落ちてしまうかも知れない。もし橋が落ちたら引き返せなくなる。今からでも、渡るのをやめるべきじゃないのか。
「お願い、弘太君! 勇気を出して、前に進んで! お願い!」
ヨシノが、悲痛なまでに叫んだ。今にも泣きそうな顔をしている。
――泣かせたくない。
さっきの悪口で、ヨシノに嫌な思いをさせた。その罪悪感に耐えられなかった。だから、伊藤から、ヨシノから逃げた。だが、ヨシノに付いてここまで来た。そして、弘太はまた同じようなことをしている。自分自身の行動で、嫌な思いをさせて、泣かせてしまう。
――嫌な思いをさせたくない。泣かせたくない。あの時、そう思ったから。……あれ、そうか。僕は、見たかったからここまで来たんだ。花を。一番綺麗な景色を。そして、その花のような笑顔の坂下さんを。
僕は、坂下さんの笑顔が、見たいんだ。
弘太は、悪寒を精一杯の勇気で振り払い、一歩を踏み出す。風に抗い、霧を踏みわけ、ヨシノの元へ。
さらに強い、突風が吹いた。時が止まった、そう、弘太は思った。
音が聞こえない。風に舞う花びら一枚一枚がはっきりと止まって見えた。風が吹き飛ばしたのか、一瞬にして辺りを覆っていた霧が晴れ、ヨシノと、その先の景色が見える。
弘太が、ヨシノの先に見たものは、満開に咲き誇るソメイヨシノであった。
その十二 本当のソメイヨシノ
橋の先は、小さな丘のようになっていた。丸太を切って土留めをした階段が真っ直ぐに伸び、丘の斜面には菜の花やレンギョウ、ヤマブキが黄色い花を咲かせている。ソメイヨシノは、その上に見えている。
――まさか。
時が、再び動き始めた。
風は吹き荒れる。精一杯の勇気も吹き飛ばしそうなほどに。
だが何を思ったか、ヨシノは手を伸ばし再び橋を渡り弘太の元へ駆け寄ってくる。一人ですら板を踏み抜くボロ橋である。二人で乗ったらどうなるか――。
――危ない!
ヨシノを助けなければ、そう思ったか思わぬか。弘太は反射的に駆けだした。先程まで体を支配していた恐怖は、カケラも残っていない。
ヨシノの柔らかな手を取り、しっかりと握る。そのまま二人で一気に橋を渡りきると同時に、バランスを崩して見事に転んだ。
心臓はまだバクバクと鳴っている。弘太は転んだまま大きく息をし、呼吸を整えた。
「はぁ、はぁ……あ~」
そして仰向けにひっくり返ると、桜の花びらがひらひらと顔にかかった。ソメイヨシノの花だろうか。不思議なことに先程の大風はピタリと止んでいる。
「あぁ、良かった。どうなることかと思ったよ。……弘太君?」
「……坂下さん、君は無茶するんだなぁ……でも、ありがとう」
緩やかな風が吹いた。数枚の花びらがひらひらと舞う。
弘太は起き上がって、丘の上を見る。やはり、ソメイヨシノだ。
ヨシノも、弘太の視線の先を見た。すると、ヨシノの動きが一瞬止まり、にわかに目が潤みを帯びてきた。そして、一筋の涙がその瞳からこぼれたのだった。
「えっ、ど、どうしたの!?」
弘太は焦った。何故ヨシノが泣くのか、理由が分からない。
「よかった……」
「え?」
「ううん、ごめんなさい。ソメイヨシノが満開でよかったな、って」
花を見て、泣くほどに感動する。その気持ちも、分からなくはなかった。なぜなら、弘太も今まさにそんな気持ちだったからだ。だが、これは自分に限ったこと。他人が見て花の美しさだけで泣くことができるものだろうか。それに、ヨシノはここによく来ているのではなかったか。
そうは思ったが、弘太は今、早く、近くであの桜を見たくて仕方がない。余計な詮索は後回しだ。
「ねぇ、君が見せたいって言ったの、あれだろ? 行こう、早く」
「あ、うん。そうだね。行こう」
弘太は、ヨシノを急かして階段を上る。一歩、また一歩、段を上がる度に鼓動が早くなる。そして、歩を進める度に、確信は深まっていく。
――ああ、やっぱり、そうだ。
階段を上りきると、そこは平たく、開けていた。遺跡周辺に管理が行き届いていないのと対照的に、こざっぱりとしている。目の前には、満開のソメイヨシノ。立派な、形の整った、傘形の大木。枝先の一部が、ピンとくせ毛のように跳ね上がった桜。
吉乃との思い出の、あの桜に瓜二つのソメイヨシノだった。
弘太は信じられないものを見た気持ちだった。吉乃は言っていた。おばあちゃんの家にあった桜は、あの桜とよく似ていたと。だから、ここにも似たような桜があってもおかしくはない。だが、ここまで似ている桜がそんなにあるものだろうか。記憶の中にある樹形と、これはほとんど一致する。
それに、この花の見事さはどうだ。ソメイヨシノは満開時、枝が見えないくらいに花を付けるが、これは今まで見た桜の比ではない。凄まじいまでのボリューム、重量、重層感。
「……すごい」
弘太は、思わず口にする。だが、それ以上の言葉は出てこない。ただただ、その圧倒的な存在の前に心はひれ伏すだけ。
「これがソメイヨシノの、本当の力」
ヨシノはそう言うと弘太の手を取り、穏やかに微笑んだ。
「本当の……?」
「うん。こっち、来て」
ヨシノは弘太を木の下へ引っ張っていく。
桜は、多くの種類が下を向いて咲く。だから、木の下に入ると花の表情一つ一つがよく見えるのだ。特に、このソメイヨシノの様に傘形になった桜は、横に伸びた枝が目線近くに来るので尚更である。
「これ、見て」
ヨシノは目の前の、花を指して言う。花の付いている、花梗の付け根の部分を。
「一、二、三、四、五……五つに枝分かれしているでしょう?」
「……うん、確かに」
桜は、一つの花芽から複数の花を咲かす。花芽の中から複数のつぼみが、にゅっと頭を出し、花梗を伸ばして花が開くのである。冬の間、枯れ枝のようになった枝に付いている小さな芽の一つ一つの中に、実は複数個の花が入って春を待っているのだ。
例えば小枝に二〇の花芽が有ったとして、付ける花がそれぞれ一輪多ければ、花数は二〇増え、花びらにすれば一〇〇枚の差が出る。それが木全体に及ぶわけだ。
「普通は三つ四つなんだけど……本当の力を出した時、ソメイヨシノは五つ以上の花を付けるんだよ。これは、ソメイヨシノだけじゃないけどね」
そう言われて、弘太は他の枝も見てみた。確かに、多くが五つ以上で中には六つも花を付けているものがある。先程感じた見事さは、ここから来ているのだった。
「ね、そこに座って、ちょっとお花見しない? まだ少し、時間あるでしょう」
「……うん。僕も、そう思ってたところ」
弘太は、ヨシノと一緒に木の根に腰掛けた。昔、吉乃とそうしたように。
見上げると、空を覆うような一面の淡いピンク。僅かに見える空の青。時折降りかかる花びら。
穏やかな、とても穏やかな時間だった。
――ああ、こんな気持ちで花を見るのは久しぶりだ。そう、僕は、本当は桜が好きだったんだ。吉乃姉ちゃんと一緒にいたからというだけじゃない。木が、花が、このぼんやりとした空気が好きだったんだ。
吉乃が来なくなって、気持ちが沈んでいても、桜はいつも通り咲き続けた。それを、面白くないと思った。父親の、余計な言葉にも傷つけられた。春が、嫌になった。
――だけど、桜はいつも通り。僕の、本当の気持ち。本当に好きな姿で居続けただけだったんだ。
それを教えてくれたのは、今隣にいるヨシノ。この、不思議な桜を見せてくれた、ちょっと不思議な女の子。
どれくらい、花に見とれながら腰掛けていたのだろう。ほんの数分だった気もするし、もっと長い時間だった気もする。だが、ふと気がついた時には、空はあかね色に染まり、夕方の訪れを告げていた。
――まずい、そろそろ帰らなきゃ。……だけど。
弘太は、帰りたくなかった。まだ、もう少しヨシノと一緒にいたい。だが、一緒にいてどうなる。携帯電話を持っていない弘太は、親との連絡手段がない。早く下山しなければ、親たちの帰り時間に間に合わない。
――素直に、自分が好きか嫌いかを言えばよいのだ。
あの試食会での、伊藤の言葉が、何故か弘太の頭をよぎった。花を見て、好きならそれでいい。
――素直に。
「あ、あのさっ……!」
「なに?」
言え。言うんだ。
「……もう、そろそろ、時間が……」
「ああ、そうだね。ごめんごめん、ちょっと花に見とれちゃってた。じゃあそろそろ」
そうじゃ、ない。
「あ、あの!」
「?」
弘太は、ヨシノ、と呼ぶのを避けてきた。「吉乃」が、自分の想い人だったからだ。同じ音で、その名を呼んでしまうと、自分の中の「よしの」が、目の前の女の子に書き換えられてしまう。それは、吉乃に対しても不誠実なことだと、そう感じていた。
――だけど、本当の、僕の気持ちは。
「……君と。ヨシノとさ。僕……また、会いたいんだ。来年も」
好きだけど、知ろうとしなかった。好きだけど、知ってるつもりで、何も知らなかった。人にも、桜にもそうだった。弘太は知りたい、と思う。そして、初めて行動する。
知りたいのは、一番知りたいのは、吉乃ではなく、目の前のヨシノの事。
「良かったら、連絡先とか、教えてくれないかな」
ヨシノは、「ありがとう」と言うと、静かに微笑んだ。どこか、翳りのある寂しそうな笑顔だった。
「……私の名前は、本当の名前は、無いの。私は桜。ただの、一本のソメイヨシノ」
ヨシノが、そう言うと同時に花吹雪が起こる。弘太には、ヨシノが何を言っているのか分からない。そして、この情景も信じられない。
満開だった桜が急に散り始めたからだ。どんなに強い風が吹こうと、満開の桜がここまで散ることは普通ではあり得ないし、花吹雪も起きるはずがない。
だが、目の前ではそれが起こっている。
「なんだ!? ねえ、ヨシノ! これは一体……!」
空が、暗くなる。夜のとばりが降り、月明かりがソメイヨシノの花を薄紫色に染め上げた。ヨシノの、白く透き通った肌が闇夜に浮き上がる。
純粋に、ただ純粋に美しい。あまりの事に、背筋にゾクリと寒気が走る。胸の内側に冷風が吹き込んでくるようにも感じた。
「私は、今年だけの存在だから。こんなふうに会うことはもう、ないと思う。でも、忘れないで。あなたの、花を思う気持ちを。花は、私たちは、毎年あなたを待っていることを」
花吹雪は一層強くなり、風がどの方向から吹いているのかすら分からなくなった。目の前を花びらが埋め尽くし、視界が全くのゼロになる。
弘太は必死にヨシノへ手を伸ばした。だが、花びらの海の中で不格好にもがくのが精一杯。次第に意識が薄れ始め、このあいだ見たニュースを思い出す。雪山、吹雪、雪崩、遭難――これは、まずい。
そして、弘太の意識はぷつりと途切れた。
その十三 違和感
堤防の、欄干に寄りかかっている。手に持った甘酒は飲み干したはずだが、なぜか半分以上残っていた。
――おかしいな。
だが、どうやら幻ではないらしい。それを確かめるために、ぐいと飲み干したが、間違いなくそれは甘酒だった。ただし、完全に冷え切っている。
どれだけの時間、この欄干に寄りかかっていたというのか。
弘太は、一つ一つ今までの行動を思い出してみる。公園に来て、ソメイヨシノの若木が植えられているのを見て、オオシダレザクラを見て、屋台で甘酒を買った。
そして、グダグダとした今までの事を思い出していたのだが、不思議と胸のわだかまりは取れている。眼下に広がるソメイヨシノの大パノラマも、素直に綺麗だと思った。
――何だろう、自分で愚痴って、勝手に納得してしまったのかな。
弘太は違和感を感じたが、そういう風に考えるしかない。桜は綺麗だし、吉乃への気持ちも何となく整理がついているからだ。
――よしの、よしの?
その、名前に引っ掛かる。何か、あったような気がしてならない。だが、それが何であったか思い出せない。
「……なんだったかな」
と、欄干から身を起こした時、ポケットの中の違和感に弘太は気がついた。手を突っ込んで確かめてみると、中には何か固いものが入っている。それを引っ張り出してみると、桜の花びらの形をした木片が出てきた。
「……これ、何だっけ。……!? ……!!」
ヨシノ、花見、あの試食会での出来事。弘太は、全てを思い出した。
――そうだ、さっきまで僕はあそこに……!
そう思うやいなや、弘太は弾けるように堤防を走り出す。ヤマザクラの前を通り過ぎ、キャンプ場の脇を抜け、群生しているクマザサの前へ。
――確か、この辺りだ。
弘太は獣道を探し、クマザサをかき分ける。だが、幾らかき分けてもそんなものは見つからない。
――おかしい、確かにこの辺だったのに!
仕方が無く、弘太はそのままクマザサ林に突入した。がさがさと、かき分けかき分け緩やかな斜面を登る。痛い。痒い。そして、道は見つからない。
――何で、見つからないんだ! 方角は、こっちか? この上に……この上に?
弘太の動きが止まる。
――この上に、何だっけ……?
弘太は、しばらく呆然としていた。何故、自分がこんな所に入ってしまったのか。何をするつもりだったのか。
分からない。全く分からない。まるで狐や狸にでも化かされたような気分だった。
空は、だいだい色に染まり始めている。
「やっべ、帰らなきゃ」
弘太は、釈然としない気持ちを抱えたまま、クマザサ林から堤防へ戻った。
堤防から見下ろす広場の、夕焼けに染まる桜は本当に綺麗だった。悲しい程美しい。月並みな表現だが、今はこれほど相応しい言葉はないと、弘太は思った。
――本当に、本当に。何でこんなに悲しいんだろう。
その十四 桜たちの反省会
「……帰る」
そう言うなり、負け犬の体(てい)で弘太はこの場から早足で逃げ出した。ちと言い過ぎたかと糸桜は思わぬでもない。
どうするべきかと、弘太の背と糸桜を交互に見る染井吉野に、糸桜は声を掛けた。
「何をしておる。さっさと追いかけんか」
そう言われてようやく自分の為すことに気がついたのか、慌てて染井吉野が立ち上がった。
「待て待て。取り敢えず、これを持っていけ」
糸桜は慌てて駆け出そうとする染井吉野に、弘太が置いて行った花びら形の茶托を渡して
「これは、必ずあやつに持たせてやれ。必ずだぞ」
と、念を押した。
「え、っと。何故ですか」
「理由はいい。早う行け」
染井吉野は一礼をして追いかけて行く。まったく、やれやれだ。
その、染井吉野が見えなくなるのを待って、大島桜と山桜が一斉に糸桜を非難した。
「糸姐さん、駄目じゃないですか!」
「そうですよ、せっかくうまく行ってたのに! 難しい年頃なんですから……」
「そうかの?」
「そうですよ。大体、危なくなりそうだったら止めろって言ったの糸姐さんでしょう。なんで聞かないんです」
大島桜がさらに非難する。
「オオ"シマ"ザクラだけにとりつくシマもない、というシャレだったのだが……高度すぎてわからんかったか? てっきりそこでツッコミが入ると思ったが、何も入らなかったのでの」
もちろん、これは嘘である。
「分かるわけ無いでしょう! ああ、本当に、もう!」
「そうカッカするなや。どのみちあのままでは上手く行かんかった」
「そんな事は分からないでしょう」
そう、山桜が言う。
「協力してくれと仰るから、長い時間をかけて作戦を練ってきたのに……」
糸桜は、弘太が長い間、特に親しんできた桜たちに声を掛け、事情を説明して協力を仰いだ。それが今回の試食会に繋がった訳だが、最後の最後で誰かさんが爆発したために、元の木阿弥となってしまったのだ。いや、より悪化してしまったかも知れない。
「わたしゃあ、うじうじしとる男は嫌いでの。なんだ、いつまでも煮え切らんことを言いおって。あの様子では、何をやっても最後に日和るに決まっておるわ」
「そうですかねぇ……」
「それに知りもせぬ癖に桜のあれが良い、これが悪いなどと、片腹痛いわ」
そう言うと、にがりきった顔で大島桜が口を開いた。
「いやいや、誘導したのは姐さんでしょう。それに姐さんもソメイヨシノは気に食わぬといつも言っているじゃないですか。何がそんなに腹立たしいのです」
「あやつのにわかソメイ嫌いと一緒にするなや。桜を何もわかっとらん!」
「いや、あの年の男の子で、我々を見分けているんだから十分じゃないですか。私なんか緑色の葉で、白い花が咲くから、桜だって思わない人すらいるくらいなんですよ」
ため息混じりに大島桜が言う。人によっては、染井吉野以外は桜であるか梅であるか、桃であるか、はたまた別の花であるか分からない。そのくらいの認識しかないのだから、良いじゃないかと言いたいのだろう。
「そうそう、私だってただ"桜"だと言われるだけですよ」
山桜が相づちを打つ。
「いや、だからこそ問題なのだ。ちゃんと、桜を見分けているにも拘わらず、私に見向きもしないで染井吉野しか見ないのだぞ。これは、私が染井吉野に遥かに劣っていると言われた様なもの……私の、繊細なオトメゴコロもズタボロだ!」
その、糸桜の答えを聞いた時、山桜と大島桜は呆れ顔になった。それではただ私的な不服をぶつけていただけではないか。長時間かけてきたこの作戦すべてを、ご破算にするにはあまりに幼稚すぎる理由である。
「こっちの方が扱いが難しい」
「いや、分かってはいたけどな」
そう、ため息混じりにこそこそと耳打ちをする。
「聞こえておるぞ」
「はは……失礼。しかし、どうするんです」
「どうもこうも、無い。まァ失恋の傷手は惚れた桜に癒して貰うのが一番であろう」
「え……ぶち壊しておいて丸投げですか」
山桜が呆れたように言う。
「もう、いいわい。お開きだ。散れ、散れ!」
そう言って、糸桜は場を解散させた。
誰もいなくなった試食会場で、糸桜はひとり、ぷりぷりとしながら切り株に腰を下ろした。眉間に皺を寄せながら、腕組みをする。そして、ふうと一つ息を吐いた。
弘太が心の底から染井吉野を嫌っているのでないことは分かっている。感情が少しばかり捻くれて、その行き着く先が違った方に進んでしまっただけなのだ。
とは言え、一度こんがらがってしまった気持ちを元へ戻すのは容易ではない。なかなか埒があかぬから、少し痛いところを突いてやれ、そう思った。それで本当の気持ちに気がついてくれればいいのだが。
後を染井吉野に託したのも、別に丸投げしたからと言う訳でもなかった。人であれ、桜であれ、やはり惚れたものからの言葉は重みが違う――惚れた弱み、というやつだ。外野が余計なことは言わぬが良い。弘太は心底、あの坂下にあった染井吉野が好きだった。糸桜はそう確信していた。
――まァ、私の行動が正解だったと言えるかは別の話だがな。
糸桜は手の平を頬にあて、まるでフグの様にぷうと膨らましたかと思うと、しゅるしゅると息を吹き出し、そのまま手で顔を覆って俯いた。
「あー、めんどくさいのう」
先代よ、本当に面倒くさい置き土産をしおって。あのくらいの年頃は確かに扱いづらい。お前さんでなければ、こんな話は聞きもせんかったぞ。
糸桜が先代の染井吉野と出会ったのは、糸桜がもう枯れかかっていた戦後すぐの時だった。
何とか枯れぬように里人が回復工事を行っていたが、周りには桜一本とて無い、絶望的な景色に糸桜は気力が尽き果てていた。
そんな時、どこから持ってきたのか、坂の下に染井吉野の若木を里人が植えた。春になって花が咲き、その桜が挨拶にやってきた。
「初めまして。この春から、糸桜様と共に桜山湖を彩ることになりました。よろしくお願いいたします」
「彩る……? ふん、私は、見ての通りこんなザマだ」
糸桜は自分を囲む、石杭と鎖を指して言った。これは「桜を立派に見せたい」という、人の善意で設けられた柵だったが、少しく幹に近かったがために杭が根に当たった。それがじわじわと木の活力を奪い、枯れかける一因となっていたのだ。糸桜にしてみれば、立派な柵どころか牢獄のようなものだった。
「牢屋に繋がれた、枯れかけ桜。よろしくと言われても、そろそろ駄目だろう」
「まあ、牢名主様ですか。そんな事を言わずに、一緒にやっていきましょう」
「お前さんも牢屋に入りたいのか。なら、新入りらしく、ツルでも持って来んか」
そう言って糸桜が右手を出すと、先代の染井吉野は両手で手を握ってきた。
「頑張りましょう」
その時、どこかであった感触だな、と糸桜は思った。
「……初めて会う筈だが、どこかで会った事があるような気がするの」
「もしかすると、私の先代かも知れません。堤防の端にあった染井吉野の、接ぎ穂から私は育ったのです。そう、育ててくれた植木屋さんが言っていました」
それで、合点がいった。
話はさらに少し遡る。
昭和の頭に湖ができてから、大量にやってきた染井吉野は総じて丁寧な者たちだったが、我が物顔で咲き誇るのが、糸桜は正直気にくわなかった。そんな中、糸桜に一番近い、堤防の端に植えられた染井吉野の枝先が年を経る毎にピンと跳ねて来るので、不思議に思って聞いてみたことがある。
「何故、お前さんの枝は私の方に跳ねておるのだ」
「それはですね、わたくしは糸桜様と手を繋ぎたいのでございます」
そう言うので、糸桜はぎうと手を握ってやった。すると、堤防端の染井吉野はもう片方の手で握り返し「こういう事ではございません」、と言った。
「わたくしは、枝先があなた様と触れるところまで、生長したいのです。そうすれば、あなた様から堤防までさぞ美しい花の屋根が掛かりましょう」
何と大それた事を考える奴。糸桜はそう思った。糸桜から堤防の端まで、十五間は離れている。染井吉野の分際で、何百年生きるつもりなのか。
「わたくしはまだまだ生長します。あなた様もまだまだご生長なさるでしょう。決して夢物語で言っているのではありませんよ」
そんな事を言っていたのが先々代の染井吉野。
だが、時代がそれを許さなかった。戦争の影響で、桜山の木は大部分が伐採されることになったからだ。無論桜も例外でない。それを惜しんでか、木材だけでも手元に残そうと桜を少しばかり伐っていく者もいたし、次代にここの桜を(もちろん密かに)残そうと接ぎ穂を何本か採っていく者もいた。その中の一人が植木屋だったわけだ。
「……あやつは生意気な奴だった」
「私は、そう言われないように気をつけます」
「……私に手が届くまで、枝を伸ばすと言っておった。お前さんも、坂の下から私まで、枝を伸ばしてみるか。あやつの意志を継いで」
「そんな事を。今の私の位置からは糸桜様までだいぶん遠いですが……できるだけ、やってみましょう」
「ふん、私より先に枯れるでないぞ」
そんな、先代とのやり取りを思い出して、糸桜は一つ気がついたことがある。ああ、牢名主というのはそこから来ているのか。すっかり忘れていたが、確かに自分からツルを要求したのだから、当代には変な言いがかりを付けてしまったな。
そんな昔の思い出にふけっているところへ、染井吉野が帰って来た。
「あ、糸桜様、まだいらしたんですね」
「おぅ、ご当代。今ちょうど謝ろうと思っていたところだ。私は牢名主だったな」
「……え? え?」
突然そんな話を振られた染井吉野は、その意図を理解できずに狼狽する。
「まあ、いい。それで、どうだった」
「……先代でした。満開の染井吉野でした」
「ふん、それは見るまでもなく分かっておった。首尾はどうなったかと聞いておる」
「お陰様で、何とかなったと思います」
染井吉野は翳りのない、すっきりとした顔をしている。これならば、言葉通りうまく行ったのであろう。糸桜としても、ほっとする。
「今回は、本当にありがとうございました。だいぶん霊力(おちから)を使って頂いて……来年の咲き具合に影響は出ませんか」
「余計な心配はせんでよい。それよりお前さんの方はどうなのだ」
「……先代の重荷は下りましたが……どうなるかは、わかりません」
「お前さんは……人と会って話すのは初めてであったな」
「はい、そうですね」
糸桜は無言で次の言葉を促す。
「……つらいです。こういうものだと分かってはいても。人と会って、話して、楽しくて、嬉しくて。……でも、もうその人と話すことはできない」
「そして、次に話せる相手にいつ会えるか全く分からんしの。我ら桜はそんなことの繰り返しよ」
「正直、潰されそうです」
そう言うと、染井吉野は悲しそうな顔をしながら幽かに笑った。
「そう言うな。絶対に咲いてやる、くらいの意志がないといかんぞ。お前さんは先代の宿題をやっただけで、自分の歴史をまだなァンにも刻んどらん。長生きしとると、良いことも悪いこともあるが、どちらも知らんで枯れるのは一番つまらんぞ」
「……はい。分かりました。できるだけ、やってみましょう」
「うんうん、お前さんは素直でいい子だ」
できるだけ、やってみる。それは先代染井吉野の口癖だった。
その十五 違和感を抱えて
急いで堤防から駆け下りた弘太を待っていたのは母親の怒声だった。なかなか帰って来ないので、みんなに迷惑を掛けたと散々に怒られた。傍目もあるのでその場は一旦収まったが、みんなと別れた後の電車では、やはり更なる追及を受けた。
「全部放っぽって、帰り時間になるまで顔も見せないで、一体何をしていたの!」
母親が作った弁当も食べなかった、子供の面倒も見なかったで、いかにも不機嫌ですとアピールせんばかりの行動が母親の逆鱗に触れたらしい。ふて腐れた息子を余所の家族に見られ、親の面目が潰れたとの思いもあっただろう。
だが、弘太は詰問されてもその答えに窮した。自分自身が何をしていたか、良く分からないからである。ぼうっと堤防にいたと思ったらいつの間にか時間が過ぎ、なぜかクマザサの中に入り込んだ。こんな説明で誰が納得できよう。だから、一つだけ分かっていることを答えた。
「……桜に見とれてた」
その答えを聞くなり、なぜか父親が爆笑した。これには弘太よりも、母親の方が不意を突かれたらしい。
「ははははは! やっぱり、お前は俺の子だなぁ、弘太」
「もう! 今は真面目な話してるんだけど!?」
母親は、もう一言二言したそうではあったが、うまく言葉が出てこなかったらしい。怒りと、呆れと、子供への戒めと、全て正確に処理するのは、なかなかに難しいのだ。その上、父親は何故か上機嫌で、もう怒る雰囲気でもない。
結局、仕方ないといった風に母親は矛は収めたので、弘太は父親に心の中で感謝したのだった。
それからの日々を、弘太は何となく落ち着かない気持ちで過ごした。心の中が、何か欠けてしまったように感じる。その原因は、あの花見にあるのは確実だ。だが、詳細が分からない。花見の最中に何があったのかが。
いても立ってもいられなくなった時は、弘太は桜山湖に足を運んだ。中学に入っても、相変わらずこづかいは低い水準のままで、電車賃には事欠いた。友達と遊ぶ時から買い食い、ゲーム等々……普通に生活すれば、子供でも何かと金は使う。もちろん節制はしたが、全部を電車賃に回すわけにも行かない。
それでも、何とか都合して弘太は桜山湖へ出かけた。均せばふた月に一度くらいだろうか。これは努力して電車賃をひねり出した結果だった。
公園へ行かない時も、何か桜に触れていたかった。父親は喜んで本を貸してくれたし、図書館にも行った。桜に関する蔵書は思ったよりずっと多く、片っ端から読んでも読み切れなかった。
部活は小学生の時やっていたサッカーをやめ、園芸部に入った。実力は補欠とレギュラーを行き来していた程度だったので、サッカーをやめること自体に躊躇はなかったが、友人はその行動を訝しんだ。園芸部に気になる女子部員がいるからじゃないか――そんな風に邪推もされた。
弘太にしてみれば桜部があればそれが良かったのだが、もちろんそんな部があるわけがない。それに一番近い部を選んだだけだったのだが、細かい説明はせずに誤魔化した。どうせ言っても、他人に分かる訳がない。自分でも良く分からないのだから。
四月の半ば過ぎ。
他の桜がぐんぐんと若葉を伸ばしているのに、あの、若木のソメイヨシノは弱々しく見えた。やはり植えた場所が悪く、活着が上手く行っていないのだろうか。
オオシダレザクラはさすがの風体だった。見事に新緑色に衣替えして、涼しげな風が枝の間を通り過ぎている。
堤防の先では、ようやくヤエザクラがその美を競い始めていたが、花見客はまばらであった。ソメイヨシノの桜前線が嵐のように通り過ぎた後は、急速に人々の関心は桜から離れていく。今までは、弘太もそうだった。ヤエザクラは町の中でたまに見かける程度で、わざわざ見に行くという発想がなかったのだ。
カンザン、ショウゲツ、イチヨウ、フゲンゾウ、ウコン、ギョイコウ……それぞれの品種名が木製のプレートに書かれ、木に掛けられている。何十枚もの花びらを持つ、ヤエザクラ独特の厚ぼったい花々が、紅色から白色、黄緑色にぽってりと咲き誇り、弘太を歓迎している様にも見えた。だが、見る者の少ない桜はどことなく寂しげだ。
――僕は……どちらかと言えば一重の桜が好きだけど。こんなに綺麗なのに。
ひっそりと散る花を見て、もったいない気がしてならなかった。
六月。どの桜の枝も伸び、葉も生えそろっている頃。
弘太が公園に着くと、中高年の人々が作業着姿で、掃除や下草刈りをしていた。その内の幾人かは、剪定ばさみで根っこから垂直に伸びた新しい枝を丁寧に取り除いている。
――桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿。
ことわざでそう言われるくらいだから、桜は伐ってはいけないものなのだと思っていた。疑問に思った弘太が一番近くにいた女性に聞いてみると、根っこから生えた枝、「ひこばえ」は伐ってもいいものだという。
「詳しい話は会長さんがよく知ってるから……お~い、広山さーん」
女性がそう言って呼んでくれた、柔和な顔をした初老の男性は、オオシダレザクラ保存会という地元組織の会長だった。親子三代続けて、オオシダレザクラを始め、ここの桜を見守ってきたという。
弘太は良い機会だと思って、桜の事を色々と質問した。枝を伐ること、枯れてしまったソメイヨシノのこと、新しく植えられた桜のこと……広山は、その一つ一つに丁寧に答えてくれた。
最近の見解では、単に「桜伐る馬鹿」とは言えないらしい。
いわゆる弘前方式と言うやつである。青森県の弘前で編み出された、リンゴの剪定技術を応用したこの桜の管理方法は、今ではかなり広く知れ渡っている。枯れ枝や病気の枝はもちろんの事、場合により強剪定――太い枝を伐り、若返りを図る。傷口は薬等できっちり塞ぎ、防虫の消毒も欠かさない。そして、木自体に剪定に耐えうる力をつける施肥を行う。
だが、桜山湖の桜は管理が行き届いていない。数が多すぎるのと、環境が良くないからだ。広山はそう教えてくれた。
「ほら、あそこ」
広山は、弘太を案内しながら問題点を指摘する。桜と、桜の間が狭いと窮屈になって、生長に影響する。花見客が来て地面が踏み固められると、桜は息ができなくなる。鳥の巣のように、細い枝が絡んでしまうテングス病にソメイヨシノは罹りやすい。毛虫も付きやすい。
毎年、問題なく咲いていると思った桜は、実は問題だらけなのだった。問題だらけの中でも頑張って咲いているが、本来の咲き方にはほど遠い。
「掃除だとか、下草刈りだとか、肥料を入れてやるとか、我々にもできる事はやっているんだけどね。大規模な工事は素人じゃできないし、高くなった枝だって、職人に頼まなきゃ管理できない。ただでさえ若い人も減って、みんなどんどん年食ってくるしねぇ。県や水道局の方には言ってるし、そのための募金もしてるんだけど、なかなかね」
本格的に桜を保護しようと思ったら、一本あたり一万円はかかると言われた事があるという。桜山湖の桜は二万本以上。つまり二億円以上かかる。しかもそれは毎年である。
毎年桜祭りをやってはいるが、それ程の管理費を稼ぎ出すことなど、到底できないことだった。だから、収支のバランスを考えて、色々と削らざるを得ない。
問題点は分かっている。だが、万全にはできない。広山はそう言うのだった。弘太はもどかしい思いがした。
「ここに前あった桜はね、戦後一番最初に植えられた桜だったんだよ」
若木の、ソメイヨシノの前に来て、広山は言った。
弘太が四月に見た時より葉は増えて、少し元気が出たような様子だった。
「戦争の影響で、この辺りは木を伐ってしまってね。残ったオオシダレザクラと、戦後すぐに植えた前のソメイヨシノは戦後復興のシンボルみたいなもんだったって、うちの親父がよく言ってたもんだ」
そういう桜だったから、ぜひ二代目が欲しいということで、この場所に若木が植えられたのだという。植えるにあたっていくらか客土もしたが、活着がうまく行くかは、これから見守らなければならない。そう広山は説明した。
「すみません、お忙しい中、色々と教えていただいて……ありがとうございました」
「いやいや。今日の作業は終わりかげんだったからね」
別れ際、興味があるなら、保存会に入らないかと弘太は誘われたが、なにぶん家が遠方である。それを告げると、ちょっと大変かな、と言って広山は引き下がった。
「でも、気が向いたら連絡してね。会費も中高生からは取ってないから」
そう言って渡された名刺には「桜山湖オオシダレザクラ保存会 会長 広山達彦」と書かれていた。
秋。ソメイヨシノの青葉も黄色から赤へ変化し、落葉が始まった。
葉も花もなくなった桜の木は地味で、春のように目立つこともない。公園の木々の中では脇役の一人に過ぎなかった。
一見枯れているかのようにも見える枝には、いくつもの芽がついている。若木のソメイヨシノも同様だった。来るべき春に備え、もう準備は全て整っているのだと、弘太は初めて知った。
冬。この年は大雪が降った。
桜山湖でも三〇センチの積雪を記録し、一面が雪化粧となった。桜山湖に通じる鉄道は自然災害に強いのが自慢で、この日も少しの遅れを出しただけでほぼ通常通り運行していた。
花ではなく、文字通り雪化粧した桜はいつもと違った風情があったが、やはり花の暖かみや華やかさは微塵も感じられない。そして、何よりボリュームがない。雪を受け止める枝の、面積の問題であろう。スカスカと枝が見えすぎて、寂しく、寒々しい。古典や歌に、例えられても雪は雪。やはり、枝を覆うのは花でなくては駄目なのだ。
この冬の、寒さと寂しさに耐え抜いて、早く、早く、無事に咲いて欲しい。
弘太は、こんなに春が待ち遠しいのは初めてだった。
そして、待ちに待った春がやってくる。
その十六 再会
去年の態度が記憶に残っているからであろう。花見に行くかと聞かれて、「行く」と弘太が即答した時、母親は意外そうな顔をした。
桜山湖に、事ある毎に通っていたのは両親には言っていなかった。弘太自身もその理由をうまく説明できなかったのもあるが、何となく恥ずかしい気がして言うことができなかったのである。
この年の春はほぼ去年と同じ気温で推移しており、冬の寒さも平均的だったので、各社が出した開花予想も去年とほとんど同じ日だった。
それを見て、父親たちは去年と同じ時期の土曜日に日取りを決めたのだが、その日の一週間前になって急に気温が上がった。あれよあれよという間に桜前線は北上し、満開日を通り過ぎ、桜は散り始めとなった。
弘太は焦った。このまま花見の日を待っていたのでは、間に合わないかも知れない。散り始めの桜に風が吹き、雨が降れば、もうほとんど花は残らないだろう。
そう思った朝、弘太は電車に飛び乗ったのだった。
この日の気温は二〇度を僅かに超え、汗ばむような陽気だった。桜の花もその暑さに耐えかね、次から次へ、地面へと舞い降りている。去年来た時より、だいぶん散り具合が進んでいた。
弘太は真っ先に、気になっていた若木のソメイヨシノを見た。記憶が確かならば、去年より多くの花を付けているようだ。かなり散った後であろうにも拘わらず、これだけの花があるならば、取り敢えず活着したということだろう。ひとまず安心である。
そして、去年と同じ足取りでオオシダレザクラ、屋台、堤防へと進む。
右手には湖。オオシダレザクラ寄りの湖岸には無数の桜花が浮かび、花筏を作りあげている。そして、左手には花の盛りを過ぎたソメイヨシノの大パノラマ。去年と同じで、混雑していない堤防は落ち着いた雰囲気である。
弘太は、去年と全く同じ位置の欄干に寄りかかり、甘酒をすすった。花は同じように咲いているが、落花の量が去年より多い。こういう時は、遠目で見るより木の下で降りかかる花に埋もれたい。そんな考えがふと頭をよぎったが、弘太にはどうしても確かめたいことがある。
それは、去年からずっと感じている、心の違和感だ。あんなに陰々滅々としていた気持ちが何故か晴れて、そして、その代わりに何かが欠けている。去年の行動を辿れば、何かが分かるかも知れない。そういう淡い期待を掛けて、今、ここに立っている。
だが、今のところ手がかりになりそうなものは何もなく、思い出す切っ掛けすら掴めそうにない。
――あと、何か頼れそうなのは、もう、これだけ。
弘太は、ポケットから花びら形の板切れを取り出した。いつの間にかポケットに入っていたもの。これが何なのか分かれば、欠けた心のピースも上手く嵌りそうな気がする。
――何に使うんだろう。多分、桜の花びらだと思うんだけど……小物にしてはかさばる気がするし……何だろうなぁ。机において、箸置きとか……大きすぎるか。じゃあコースターとか。
そこまで考えた時、弘太の頭に電撃が走る。桜型の、コースター。
――それはハートだ。
誰だ。誰の台詞だった。確かに、聞いたことがあるはずだ。
――桜に心を託す。いやぁ、何とロマンチックなのであろう。
好きなのかと聞いたらからかっただけだと言われた。その後、桜のことで半ば口げんかみたいになって……。
――あ。
弘太は、思い出した。去年、この桜山湖で出会った不思議な女の子とその仲間たちを。そのやり取り全てを。自分は桜だ、ソメイヨシノだと言った女の子。
ヨシノが、本当にそうなのだとしたら。そうだとしたら、思い当たる桜はあの若木の桜しかない。
弘太は堤防から坂道まで駆け戻り、若木の桜の前に立った。この木があの女の子だなんて、にわかには信じられない。だが、去年自分は信じられない様な体験を既にしたではないか。
「なあ、君、ヨシノなのか」
弘太は、桜に話しかける。人目など、少しも気にしない。幸い、この貧弱な桜に寄ってくる者など殆どいなかったから、気に留める者もいなかった。
だが、当然のように答えは返ってこなかった。待てども、待てども。
弘太は坂を駆け上がり、そのまま一気に堤防を渡りきってクマザサ林の前に立った。獣道はやはり見つからない。去年の最後と同じように中に入ってみたが、それも徒労に終わった。
弘太は、肩を落として堤防の中程まで戻った。
こんなふうに会うことはもうない、そういった女の子。その言葉通り、もう諦めるしかないのだろうか。何か、他の方法は。
――そう言えば、あの時会った、伊藤さんや格さん、助さんも桜だったのかな。
彼女らにももう会えないのだろうか。会えるとすればどの桜なのか。誰かに聞ければいいのだが、そんな相談相手などいるはずもない。保存会の広山だって、弘太のそんな話を信じはしないだろう。
――いや、待てよ。いるじゃないか。桜山湖には、親分みたいな、巨大な桜が。
弘太は、あのシダレザクラの元へ向かっていた。この公園のシンボルでもある老桜。あの高台からこの公園を見下ろして、ずっと見てきたあの木であれば、ヨシノがあの木なのか、もう一度だけでも会えるのか、何か知っているのではないかと、そう、思った。
足は次第に速くなり、ほとんど全力疾走になった。祈るような気持ちで、いや、祈るために。脇目もふらず一直線に堤防を駆け戻り、弘太はオオシダレザクラの元へと駆けていく。
巨大なシダレザクラは、近づくにつれさらにその巨大さを増す。弘太の、祈る気持ちも強くなっていく。
胸が苦しくなり、呼吸が乱れる。走っているせいと、期待と、不安とで。
柵の前に立つと、オオシダレザクラは不思議と、さっき見た時より一回りも、二回りも大きく見えた。
弘太は、息を整えながら手を合わせた。
――どうか、もう一度だけでも。ヨシノに、会わせて下さい。
老桜は、何も言わなかった。何も言わず、いつもの通り、盛りを過ぎた花をちらちらと、音もなく散らし続けていた。やはり、もう会えないのか。
いや、駄目なら駄目でもいい。せめて、一言だけでも、何か言ってくれ。お前は魂の宿った木なんだろ。
縋るような気持ちで、弘太は柵をまたいだ。
入ってはいけない境界を越えた後ろめたさからかも知れない。その瞬間、空気が変化したような気がした。同じ場所の筈なのに、違う場所に踏み込んだ様な違和感。だが、弘太にはそれが何であるかを確かめる余裕はない。弘太はそのまま真っ直ぐに祠の前に行き、両膝を折った。
その古びた祠は、近づいてみると意外に大きかった。膝をつくと、目通りに屋根の天辺がくる。鳥の巣用の木箱くらいの大きさだと思っていたが、幹があまりに太かったために遠近感が狂っていたのだった。
――お願いします。何か、一言でも。
弘太は、手を合わせて、ぎゅっと目をつむり、祈った。
――どうか、どうか。
「拝むのはいいんだが、柵の外でやってくれんかの。他のもんがマネしてどやどやと入ってきたら根が傷む。まったく近頃のもんは、何のために柵があるのか、とか、そういう想像力が足りん。こやつめ」
コツン、と弘太の額に何かが当たった。
「……ありゃ? 当たってしもうた」
弘太が目を開けてみると、濃い桜色のブーツ。祠の屋根に、少女がちょこんと座っていた。その少女が弘太を蹴った様だった。
「ありゃあー?」
丸くした目をぱちくりとさせながら、少女は言った。
「もしかして、お主、私が見えるのか?」
この目、この顔、喋り方。去年会って、強烈なインパクトを残したこの少女。髪型はポニーテールになっていたが、見間違えようもない。
「伊藤さん!」
弘太は思わず伊藤の手を取った。
――良かった、祈りは通じたんだ。伊藤さんならヨシノのことを知っているに違いない。
「って、あれ? 伊藤さん、縮んでない?」
伊藤は去年会った時より小さくなっている気がした。いや、気のせいでなく二回りくらい小さい。幼くなったというより、そのまま全体的に縮んだ様な感じだ。
「ん、そうか? 今年はだいぶ花芽をやられたからかの。……ところで、どこかでお会いしましたかの?」
きょとんとした感じで伊藤は言った。またふざけているんだ、と弘太は思った。
「いや、どこでって……ボケないでよ。去年、山奥で試食会しただろ。そうだ、これ、伊藤さんがくれたコースターだよ。覚えてるだろ」
ポケットから桜のコースターを出してみせると、イトは、ぽんと手を打ちこう言った。
「おお、なるほど。さすが私。だからお主は覚えておるのだな。亀の甲より年輪の功。そう思わんか」
「訳が分からないんだけど……取り敢えず思い出してくれた?」
「いや、私が会うのは初めてだな。去年の花ならもうとっくに枯れておるわ」
音もなく、ふわりと祠の屋根から降りて垂れ下がる枝を見上げながら、伊藤は少しだけ遠い目をした。
「え……」
ヨシノが言っていた「今年だけの存在」の意味が分かったような気がした。
「……伊藤さんたちは、桜の『花』なのか」
「うむ」
伊藤は静かに頷いた。桜の、花の命は僅か一〇日余り。という事は、もう、あのヨシノには会えないという事だった。
会えない。何となく、そんな気はしていた。だが、現実にそうと分かってしまうと、それはやはり悲しいことだった。あの思い出も、弘太一人だけのもの。共有してくれるはずのヨシノは、もういない。弘太の、視界の端が、少しだけにじんだ。
「まァそう落胆するな。普通、人は我々を見ることはできん。時々、花ッ気にあてられて見えることもあるが、みんな子供の頃だ。…お主、いくつになった」
「……十三歳だけど」
「ではもうそろそろ限界だな。普通はもちっと、幼い頃に見るものでな。去年見えていたのが不思議なくらいだ。見えなくなれば、会っていた記憶もすぐになくなる」
確かに、完全に忘れてしまえば今のような気持ちにはならないのだろう。だが、本当に忘れてしまうものなのか。現に自分はこの一年間、違和感を抱えながら春を待っていたではないか。伊藤の言うことに、弘太は納得できない。
「そんな、子供の頃にだけ見えるなんて……ありふれた昔話みたいなことが……」
「よくある言い伝えや昔話を馬鹿にしちゃあいかん。それだけ話されているっちゅうことは、それなりの理由があってのことであろ」
弘太が何も言えずに下を向いていると、伊藤が覗き込んできてニヒヒ、と笑った。
「まァ、私がそのコースターを渡したと言うことは、お主にもう一度会うためだろう。普通の人間は、一生にそう何回も我々には会えん」
「……会ってどうするのさ。僕もすぐ忘れるって言うのに」
まともに目を合わせられず、弘太は目線を逸らした。伊藤が何で笑っているのかも分からず、イライラとする。
「んー、まァ、お主が忘れる前に何か言っておきたかったのではないかの。少し勘違いしておる様だが、我々は木と土地と、花の記憶を継いで咲くからの。初めて会うんでも前のことは覚えておるぞ」
「え……何かおかしいんだけど。つまり、去年の記憶はあるってこと?」
「うむ」
「……じゃあ何で伊藤さんは去年のこと覚えてないんだよ」
そう、話がおかしい。
伊藤が弘太のことを覚えていないから、弘太は勘違いをしてしまったのである。明らかに、話が矛盾している。伊藤が話していることが本当なら、伊藤は弘太のことを覚えていなければならない。
「わたしゃあ五〇〇年もここで生きておるのだぞ。余程のことでなければ一々覚えておらんわい」
「人間と花が話をするって言うだけで十分余程な事だと思うんだけど……って、それより五〇〇年だって!? ……あ、じゃあ伊藤さんって」
「なんだニブ過ぎるぞ。桜山湖自然公園の枝垂れ桜、またの名を桜山の大糸(いと)桜、そのまたの名を愛(いと)しの大桜。そのさらにまたの名を春告げ桜。そのさらにさらにまたの名を城除けの大枝垂れ桜。果たして果たしてその実体はぁーっ! ……なんてな。まァ好きに呼ぶとよい。名が増えるのは喜ばしいことだ」
――伊藤桜……いとうさくら、いとざくら、って、ああ! 糸桜!
道理で、偉そうなわけだった。他の桜が「さん付け」で読んでいたのも納得できる。弘太より年下だというのも、花が毎年うまれることを考えれば〝一歳〟となるので、一応ウソは言っていない。
「……ごめん。その呼び方、初めて聞いた。そんなに名前があったのか……」
「名前というのは力そのものだからな。それだけ力のある、とっても偉い桜だと言う事だ」
エッヘン、とでも言わんばかりに糸桜は胸をはる。
「自分で言うなよ……」
「まァ、そういうことだ。だから、そんな下々の平民の、とある一少年の、非常に青臭い一ページまでは覚えていなくても仕方がない」
そう言うと、伊藤は「いっひっひ」と意地悪く笑った。弘太は、耳まで真っ赤になった。とにかく、顔と胸が熱くなる。
――なんだよ、しっかり覚えているじゃないか。
どこまで本気で忘れていたかは分からなかったが、途中からは確実にからかわれていたのだ。そして、この花はどこまで自分の話を知っているのだろう、と弘太は思った。
いや、多分、全部知っている。
「っ、あ、あのなぁっ! ……!」
あまりの恥ずかしさと、自分を覚えていてくれて嬉しかったことと、照れ隠しとでその先はちゃんとした言葉にならなかった。
「からかい甲斐のある奴よ。まァ、私の計算に狂いはなかったということだな。私はお主と今一度話せて、非常に楽しいぞ」
あっはっはっは、とあまりにも爽快に笑うものだから、弘太は何も言えなくなってしまった。
「まァ、冗談はさておき、ほれ、お前はヨシノに会いに来たんじゃなかったのかの」
そう言って、伊藤は弘太の後ろを指さした。
ヨシノが、立っていた。
その十七 ソメイヨシノの独白
人にとって、春の桜が特別であるように、私たち桜にとっても春は特別です。いえ、他の木々や花以上に、桜にとっては特別なのです。春には多くの花が咲きますが、春の桜は他の花以上に強い力が宿ります。だから、こうして私が「個」として出てこられるのです。
植物というのは根や幹、枝葉といったそれぞれが一つになって個となっています。魂も根っこから枝葉の末端まで、それぞれが曖昧に合わさって、個として木に宿っているのです。
その個の中に、もう一つの個として、もう一つの魂として、花が咲いた時にだけ出てこられるのが、桜花の精である私たちなのです。こういう事ができるのは桜だけです。だから、春の桜は特別なんです。
木の魂は普通、人には見えません。でも、花の魂は強い力を持つので、感覚が鋭い子供の頃には見えることがあるのです。花の力、その魔法のような力に触れている時だけ見て、話して、触れることができて――そして、家に帰る前に忘れてしまう。
でも、見えなくなっても何かしらの力を、花から感じる人は結構いる様に思います。だから、毎年大勢の人々が花見をするんじゃないかと、そう思っています。
私たちは個としてこの時期にだけ現れ、散っていきます。でも、元は木から生まれたものですから、私たちは文字通り一心同体で、木が見聞きしてきた事や土地の記憶一切をそのまま受け継いで生まれます。そして、花の記憶を木がまた受け継いで行くのです。
私の木は、枯れてしまったソメイヨシノの跡地に植えられました。
桜は、枯れた桜の跡地に植えても育ちにくい。その原因は色々です。枯れてしまった土地というのは、桜の生育に適さない土地になっている。例えば病気の菌が残っているとか、環境汚染が進んだとか、生長を抑える成分が残っているとか、土が痩せてしまったとか、地下の水の流れが変わったとか。
でも、私たちが一番大変なのは、その土地の記憶を全て受け継ぐことなんです。樹齢が長ければ長いほど、人に愛されていれば愛されているほど、土地の記憶は膨大な量になり、それを受け止めるのはとっても大変なことなんです。
特に若い木にとっては過剰な重圧もかかりますし、以前の木と比べられて、マイナスのイメージをあからさまにぶつけられることも、本当に多いのです。愛されていた記憶が、強ければ強いほど、人々のガッカリした気持ちは身に堪えます。
それに負けてしまうと、木は育たない。だから、桜は同じ土地に植えられることを嫌うんです。
私の前のソメイヨシノは大体、七〇年ほどの樹齢でした。ここの広場に植えられている桜の中では一番の古株です。戦争が終わってまもなく植えられたんですね。やがて平和な時代が到来し、木は立派に生長し、人々に笑顔が戻り、毎年穏やかな春が繰り返されました。
このソメイヨシノは、もうそろそろ寿命でした。木の、本来の寿命はわかりません。もっと長生きしているソメイヨシノもいると聞きます。でも、この木は、ここではもう寿命だったのです。
大勢の人が訪れ、花見をして、嬉しそうに帰って行く。そんな春を毎年過ごしながら、静かに枯れるのを待っていましたが、晩年一つだけ気がかりなことがありました。みんなが楽しむ中でただ一人だけ、花を見て気持ちが沈む――特にこのソメイヨシノの花を見て気持ちが沈む男の子のことです。
それは、毎年この木の下で遊んでいた男の子と女の子のうち、女の子が来なくなってからでした。女の子は勉強のため遠くへ行ったと聞きました。男の子は、とても寂しそうでした。
男の子は、それでも次の年、このソメイヨシノを見に来ました。でも、その心はどんどんと塞がっていきました。昔はもっと、桜に心を開いてくれていたのですが、それが感じられなくなっていたのです。
男の子はその気持ちを桜にぶつけました。寂しい気持ち、悲しい気持ち、怒った気持ち――男の子は花を見るたび、そんな気持ちを思いだしてしまうのでした。それは、ソメイヨシノにとって、とても辛いことでした。
ああ、以前はあんなに嬉しそうに花を見てくれていたのに。でもソメイヨシノは信じていました。この子は、本当は春が好きなのだと。桜の花を愛しているのだと。女の子と、一緒に花を見ていた時の気持ちが、本当の気持ちであるのだと。
どうにかして、もう一度、春の桜を楽しむ気持ちを思い出させてあげたい。でも、枯れ木寸前のこの老木には、そこまでの力はもう残っていないのでした。
その記憶を、私は受け継いだのです。
私たちは人によって命を紡いでいる、人と共に生きる桜、ソメイヨシノ。
だから、人の愛なしには生きられない桜。
だから、私は今年、あなたのために咲きましょう。桜の花が、悲しい記憶にならないように。
その十八 そして、別れ
ヨシノは、何も言わず、立っていた。
去年と変わらない――いや、少し綺麗になった。ほんのりとピンク色がさした血色の良い肌からは、去年より健康的になった事が窺われる。
会いたかった。弘太は、この桜に心底会いたかった。今、目の前にいるヨシノを見て、弘太は再確認した。
「……初めまして、になるのかな」
「うん、初めまして」
「でも、ずっと君を捜していた。忘れていたけど、ずっと探していたんだ」
「……ありがとう。また、会えるとは、去年は思ってなかった。糸桜様が、先代が、導いてくれた」
そう言って、ヨシノは弘太が持つコースターを指差す。
「それは先代の木片よ。奴が木材となってしまった時にちょっと、貰っておいた」
伊藤はにやりと笑い、指を鍵の字に曲げた。
「これが……前の!」
弘太は思わず泣きそうになった。あの桜は、こんな、木片になってまで自分のために。
「会えて、嬉しい」
ヨシノはそう言った。
会いたい、その一心で弘太はここまで来た。嬉しかった。今までの中で一番、桜に会えて嬉しい気持ちだった。だが、それと同時に悲しい。すぐに忘れて、恐らく次に会うことは無い女の子。桜の花の化身。
だが、だからこそ、弘太は言わなければならないことがある。
「忘れなかったよ。花を、桜を思う気持ちを。ヨシノとこうして会っていたことは忘れても、この先、花を思う気持ちは絶対に忘れない」
「……ありがとう。私は、私たちは、ずっとここにいて、人を待ち続けてる。弘太君を。枯れるまで、ずっと」
「……僕が死ぬより先には枯れないで欲しいな」
「できるだけ、やってみる。でも、もし私が枯れても、みんながいるから。桜山には糸桜様がいるから。会いに来てくれると、嬉しい」
――後の世に 伝ふべきは 山谷(やまたに)の 城に誇れる 我が桜(さくら)花(ばな)
と、弘太の後ろで伊藤が言った。初めて聞くフレーズで、その意味もよく分からず弘太が反応に困っていると、糸桜は少し呆れたような、ガッカリしたような顔をして、こう続けた。
「なんだ、知らんのか。有名な歌なのだが」
「……知らない。有名なの?」
「不勉強だな。有名も有名、超有名だ……昔はな」
「……ごめん。知らなかった」
ならば教えてやろう、と、伊藤はちょっと得意げな顔になって話を続けた。
「まあ、昔々のお話なのだが……戦のことばかり考えていた者どもに、花の美しさを思い出させてやった時の話よ」
昔、世がまだ治まらなかった頃、この辺りは山谷氏という武将の勢力下だった。ある年、この山に城を築くために土木工事が始まった。ちょうど、このシダレザクラがあるところも工事予定で、木は伐採される予定だった。ところが、あまりにも見事な花が咲いていたため、人足が伐るのをためらう。それを聞いたお殿様が見に来てみると「なるほど、これほどの桜であれば、そうであろう」と言って出てきた歌が、これだ。その後、城はその一区画を迂回するように築城計画が変更され、次第に桜の植樹が進むこととなった。これが「桜山」の始まり。
「――と、言うお話だ。大昔から人は花を愛し、心を動かされてきたのだ。特に、私のように美しい桜にはな。だから、お主も遠慮せずに私に会いに来い」
得意満面の伊藤の鼻からは、ふふんと音が漏れそうなほどである。
「ちと下手くそな歌だがの。私を救ってくれたのだから、これは語り継がねばならん。いやしかし、まァ、あの時は城普請が春に掛かって本当に良かったぞ。無粋な者どもは花が咲いておらんと、桜だと全く気がつかんからのぅ」
そう声のトーンを落として、伊藤はフゥーッと息を吐いた。どうも今思いだしても冷や汗モノのピンチだったらしい。だが、その後すぐにケタケタと笑っているのが本当に伊藤らしくて、弘太も釣られて笑ってしまった。
「まァ、お主の場合はソメイヨシノに花を愛でる気持ちを思い出させて貰ったようだがの。まずはこの私がいたからこそ、ここに他の桜もあるのだと言うことを忘れんでもらいたい」
話し終えると、伊藤は親指でグッと力強く自分を指さし、ニヤリ、と笑った。
「女房と畳は新しい方が良いが、歴史と桜は古い方が良い。正鵠を射た、素晴らしいことわざだ」
「……そんなことわざ、聞いたこと無いけど」
「今、作った」
「何だよ、それ」
弘太は、思わず吹き出した。伊藤も、ヨシノも笑っている。
「でも、その通り、伊藤さんがいたからここの桜はあるんだ。ありがとう」
「じゃあ、そろそろ、行くね」
ヨシノが言う。もう、花の力が残り少ないのだと。
「あ、ちょっと待って! あの……」
弘太は、告げる。最も大事なことを。
「僕は、桜の中で……たくさんある桜の中で――ソメイヨシノが一番好きなんだ」
ヨシノの顔が、明るく華やぐ。
「ありがとう。……きっとそうだって、信じてた。そして、それが正しかったと分かったの。山の上のあの場所は、その人が本当に見たい桜が見えるところ。あなたが見た桜は先代のソメイヨシノ。坂の下の、あの桜」
「……僕は、全然桜のことを知らなかった。好きだったのに、知らなかったんだ。だから、調べたよ。父さんの本も見たし、図書館にも行った。保存会の人たちにも教えて貰った。ソメイヨシノに色んな問題があることも知った。でも、それでも。僕は、一番ソメイヨシノが好きだって、そう言える」
「……本当に、本当にありがとう。すごく、嬉しい。待ってるから。来年も、再来年も。頑張って、花を咲かすから」
強い、とても強い風が吹いた。桜花が風に散るように、ヨシノの姿は消え、見えなくなった。さようならを、言う間もなかった。だが、それでいい。花にはまた会えるのだから。
「……見せつけてくれるのう。しかし良いのか、そんなに爽やかなことで。ぎゅーっ、とか、ぶちゅーっ、とか、せんで良かったのか」
身振り手振りを加えながら、伊藤が言う。
「いいんだよ」
伊藤の動きが少し滑稽に見え、弘太は苦笑してしまった。
「ふむ。まァ、それくらいの方がちょうどいい。人と、桜の距離はな。惚れすぎてもつらいし、おざなりでは花が泣く」
「距離ねぇ」
「御成敗式目に言う――神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う」
「え?」
「神様は人の信仰によって力を増し、その恩恵を人が受ける、つまり持ちつ持たれつということだ。ある程度まで行くと、桜と人の関係もこれに似ているところがある」
「……それって、もっと伊藤さんを敬えってこと?」
「そうだ」
伊藤があまりにもハッキリと肯定するので、弘太はまた苦笑してしまった。伊藤も笑っていた。
「まァ、それだけの話ではないんだがの。もっと、全般的な、わかるか?」
「いや、何となく、わかるよ」
「ならばよし。では、弘太」
大きく頷いてから、伊藤は「お主」ではなく、「弘太」と呼んだ。弘太は、初めて名前で呼ばれたことに気がつく。
「また来年ここに来い。いつもの時期より、ちと早くな。満開の私は、今と比べものにならないほど美しいぞ。それこそ、ソメイヨシノなんぞ足下にも及ばぬくらい」
そう言って、伊藤はニッカリと大きく横に口を開いて、笑った。
「……そうするよ。いつも伊藤さん、半分くらい葉桜になってるから。助さん格さんは……やっぱり桜なの?」
「ご名答。ほれ、そり滑り坂の、ヤマザクラとオオシマザクラよ」
「そっか……、みんな、僕が子供の頃から見てくれてたんだね。じゃあ、みんな、それぞれ満開の時に会いに行く。何年か掛かると思うけど」
「うん、うん。よし。頭で忘れても心では忘れるなよ。では、さらばだ」
二度目の、強風が吹いた。最後は、大きく包み込むような、慈しむような微笑みだった。
「いつまでも、いやせめて、もう少しだけでも咲いていて欲しい」と思っても、その散り際の美しさを知っているかの様に、そうすることが美しいのだと言わんばかりに、春の風は桜花を散らしてしまう。
そして、花が散って人は現実へと戻っていく。
弘太は、気がついた時はオオシダレザクラの柵の外に立っていた。さっきまで柵の中にいて、桜たちとしたやり取りも、夢うつつの中の出来事のようだった。それも去年のように、すぐに忘れてしまうのだろう。だが、弘太は、この気持ちだけは忘れないよう、心の中で何度もつぶやいていた。
「ありがとう」と。
――そうだ。広山さんに、電話をしよう。何ができるか分からないけど、保存会に入って、桜の側にいるんだ、僕は。これから、ずっと。
桜の花は毎年同じように咲いている。しかし、毎年違う表情を見せることも、そして木の寿命が永遠でないことも知っている。だから、今年も、来年も、そのまた次の年も、ずっとずっと。
――僕は、桜に会いに行く。
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春が好きになる、桜に恋する物語。後編。
前編→http://www.tinami.com/view/674214