桜山湖自然公園 オオシダレザクラについて
エドヒガンの枝垂れ種。推定樹齢五〇〇年。花は小さく、一重咲き、白に近い薄紅色。樹高十六メートル、枝張り東西二〇メートル、南北十八メートル、幹囲六メートル五〇センチ。県指定天然記念物(昭和四〇年指定)。
樹勢は今なお旺盛で、毎年他の桜に先駆けて花が咲きます。満開時の壮麗な姿には、誰しも目を奪われることでしょう。この里に春が来たことを告げてくれる、公園のシンボルともなっている巨木です。
――『県立桜山湖自然公園』webサイトより抜粋
その一 最後の約束
二年前、一本のソメイヨシノが枯れた。
樹齢はたしか七〇年ほどであったろうか。誰が言い始めたか、ソメイヨシノの寿命は五、六〇年だというから、それを少し上回った年で枯れたことになる。そういった意味では天寿を全うしたと言えるかも知れなかった。
その木の下で、約束したことがある。
「もう、あと一、二年でしょうかね。本当に、今までありがとうございました」
「なに、私は特に何もしておらぬ」
たしか、そんな会話で始まった。特に名残惜しむ風は、ふたりとも無かった。生い茂るのも自然であれば、枯れるのもまた自然。そういうものだった。
「ところで、私、一つだけ気になっていることがありまして。ご存じでしょう、毎年来ているんですから。あの子のことです」
「ああ、知っておる」
「何とかしてあげられないか、そう思っているのですけれど……」
――捨て置け、本来ならそう言っているところだった。
「本当に、昔に比べれば何て事はないことなのですけれど。でも、これが最後の最後だと思うと、どうしても何とかしたいな、と思ってしまうのです」
こやつも、ツイていないな、そう思った。最後の記憶はどんなに小さくても幸せな記憶でありたい。逆に言えばどんなに小さな不幸でも、それが最後であるなら大不幸とすら感じられるのかも知れぬ。
「まァ、言いたいことは分かった。だが、頃合というものある。うまく嵌るか分からぬし、向こうが気がつかぬ事もある。そもそも、来ないことも考えられる」
「でも、できるだけやって頂ける、と、そういうことですね」
「……む。まあ、そういうところで話をまとめても良かろう」
それが、交わした最後の会話となった。
そして、また春がやってくる。
その二 憂鬱な花見
カタン、カタン、と規則正しく軽快な音が続いている。音と共にずっと続く揺れに、少年は軽い眠さを覚えながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
電車から眺める風景は何の面白味もない、極めてありふれた家屋が続く町並みから、次第に田畑や木々、山並み等の自然が目立つ風景へと変わっていく。ところどころで桜の花が咲いていた。
少年の名は青山弘太という。電車の行き先は花見の名所にほど近い駅で、彼も、乗車客の大部分も桜がお目当てである
だが、春のうららかな陽気と桜に浮き立つ車内で一人、弘太は霞みがかった様な、モヤモヤとした気分がますます強くなっていくのだった。
「もうすくだな。今年はみんなの休みも合ったし、天気もいいし、良かった良かった」
満面の笑みを浮かべながら無邪気に喜ぶ父親を横目で見て、弘太は心の中で呟いた。
――みんな、って本当かよ。
「本当にねぇ。おとといニュースでやってた時は満開だったみたいだから、今は散り始めかしら。私、散り際の方が好きだから、今日はベストタイミングかも」
そう父親に合わせる母親にも、弘太は心の中で毒づくのだった。
――毎年、何だかんだ理由を付けて、良いタイミングだったって言うくせに。
ガリガリと少しだけ荒っぽく頭を掻き、不快感が態度に出てしまう。普段からややボサッとした髪が余計に乱れた。
冴えない外見が余計に酷くなるからやめなさい、と母親から容赦のない小言が飛ぶ。弘太は平均的、と言えばそんな外見で、それをして「冴えない」と評するのはやや辛口ではある。だが、ふて腐れれば平均を下回るのは間違いないところで、母親の批評は的確とも言えた。
弘太は、拗ねていた。こと、毎年恒例となっている花見の、家族小旅行に関しては完全に拗ねていた。数日後に中学一年生となる弘太は、年頃の男子持ち前の、親への何となしの反抗心もあったが、ちょっとした理由があって、数年前からこの小旅行が億劫で仕方がなくなっていたのだった。
弘太の家から約一時間半。都心の駅から換算すると、一時間ほどで到着するその公園は、それなりに人気のある花見スポットである。都心から比較的近いわりには落ち着いた雰囲気で、特に家族連れが多い。
父親の、就職最初の職場で意気投合した者たちが花見を始めたのがきっかけで、以来ずっと場所を変えずに続いている。今は転勤や転職などで各地に散っていたが、年に数回は連絡を取り合って集まっていた。その中で最も大きな集まりがこの花見なのだ。散り散りになった仲間を花に例えて「散桜会」などというご大層な名前が付いている。
四年前までは、弘太もこの花見を毎年楽しみにしていた。
「日本男児たる者、桜花を愛でねば」と事ある毎に、冗談交じりに言う父親の影響はあっただろう。弘太は幼い頃から桜の花を見るのは好きな方だったし、みんなで集まって食べる弁当は特別な味がして、尚好きだった。
そして、何より毎年遊んでくれる、十ほど年の離れた女の子がいた。一年に一度、彼女に会うのを最大の楽しみにしていたのである。
だけど、今はなぁ……と、その先を考えていた瞬間、父親の台詞が思考を遮った。
「そうなんだよ。写真で見る時は満開に限るけど、実際にその場にいるなら散り始めの方が圧倒的にきれいだと、俺も思うよ」
また始まった、と弘太は思った。彼の父親は、桜にはちょっとした拘りがあって、花を見るのも好きだがうんちくを垂れるのも好きだった。この時期になると、あっちこっちからの聞きかじりと本を数冊読んだ程度のにわか知識を披露し始める。言ってみれば季節病みたいなものである。
いつもの事なので、母親は適当に相づちを打ったり受け流したりしていたが、弘太にはこの通ぶった態度が腹立たしくてしょうがない。もっとも、それはここ二年ほどの話ではあったが――昔は嬉しそうに解説する父親の話を、ちゃんと聞いていたのだ。
でも、今は話を振られてもイライラするだけ。寝たふりでもしようかな。そう思った弘太は窓に頭を預け目を閉じた。
終点まで、このままでいよう。どうせ窓の外なんか見ていてもしょうがないのだから。
その三 気だるい桜路
「起きなさい」
母親から肩を揺さぶられ、弘太は狸寝入りがいつの間にか仮眠へと移行していた事に気がついた。
電車はもう目的地へと着き、止まっている。中途半端に寝てしまったので体がだるい。
「ふぁ~い……」
弘太は大きくノビとあくびをして、ゆっくりと立ち上がった。この駅は終着駅なので、しばらくは停車したままだから慌てておりる必要は全くない。
寝ぼけた頭と気が乗らない事もあって、ダラダラと電車を降りると春独特のぼんやりとした空気がプラットホームを包んでいた。
ド田舎、と言うほどではないが、閑静な住宅街、と言うには少し寂しい。桜の名所に近い駅とあって、まさに花見客を歓迎するかの様に、周辺には桜が植えられている。
母親の予想通り花は散り始めで、そよそよと風が吹く度に花びらが宙を舞った。空は快晴。汗ばむ程ではなく、かといってコートを着る必要もなく、薄い上着を羽織ればちょうど良い気温。Gパンにボタンダウンシャツ、春物の上着を羽織った弘太の選択は当たっていた。まさに今日は絶好の花見日和に違いない。
両親が、特に桜病の父親が喜んでいるのは、弘太には良く分かる。
だが、弘太はこの中途半端とも言える季候が好きではなかった。では一番好きな季節は、と問われれば、弘太は迷いなく夏、と答える。子供にとって夏休みは、ありとあらゆる休みに勝る、絶好の遊びの機会だった。
その次、と言われれば冬だ。寒さは苦手ではなかったし、正月のお年玉やウィンタースポーツなど楽しみも多い。秋は春と同じで中途半端な季節だと考えていたが、サンマや果物など、弘太の好物がよく食卓に上がるので、どちらかと言われれば秋に軍配が上がる。
そう考えると、春は花が咲くくらいで気温の変化も激しいし、良いことなど何もないように弘太には思えるのだった。
その文句だらけの春に、気の乗らない花見。毎年面倒だと思いながらも、弘太がついてきているのは拒否権がないからだ。両親とも数日前から花見準備に入り、特に母親は弁当作りのために少なからぬ労力を割いている。
一度「行きたくない」と試しに言ってみたが、父親の答えは「行けば良かったと絶対に思うから来い」で、母親は「行かないならご飯抜き」であった。強情に反対して両親の機嫌を損ねるまでの理由は何もなかった。だから、毎年渋々ついて行く。
さっさと食べて、さっさと帰りたい、と思いながら、弘太は駅からずっと続く桜並木を両親から少し遅れて歩いた。桜を目印に歩いて行けば、目的の公園はここから一〇分程度である。
この花見は毎年、現地集合だった。公園の入口あたりで待ち合わせて場所取りをした後は、そのままどっかりと座って飲み食いを始めるも良し、一度ぐるりと歩いて花見をするのも良し。大人、子供ともに自由行動ということになっていた。
大体において、大人たちは申し訳程度に花見をした後、早々に酒宴へと移行していた。そうなると子供は手持ちぶさたになるので、一緒に食べるか、そこらを駆け回るかしかやることがない。
初めて弘太がこの公園に来た時は、父親のうんちくを聴きながらぐるりと一緒に花を見て回った。だが、毎年となると目新しさも何もあったものではない。三年後には自然と一緒には花を見に行かなくなった。
かといって、幼い子供一人で親の目の届かない範囲に遊びには行けない。そんな時、一緒にいて遊んでくれたのが吉乃(よしの)であった。
――でも、もう結構長い間会ってないなぁ……。
柳瀬川(やなせがわ)吉乃、それが彼女のフルネームである。
弘太が初めて吉乃に会ったのは三歳の時だ。幼かったので、出会った時の印象はよく覚えていない。ただ、楽しかった事だけは覚えている。
「優しくて、きれいなお姉ちゃんが遊んでくれた」
そう、頻りに話していたと、弘太は今でも両親にからかわれる。そして、その印象は今でも変わっていない。
その頃、子供の参加は弘太と吉乃だけであった。だから毎年、二人きりでよく遊んだ。弁当のおかず交換から始まり、腹ごしらえが済んだら花見に出かけ、それに飽きたら広場を駆け回り、カラーボールやフリスビーを投げる。弘太にとって、花見会とは吉乃と遊ぶこととイコールだった。
弘太にとって、特に思い出深いエピソードが一つある。
ある年、芝生の急坂を段ボールで滑り降りている子供たちがいた。弘太が面白そう、と言ったら吉乃は「来年、段ボール持ってくる」と言い、翌年本当に段ボールを抱えて持ってきたのだった。小柄な吉乃には大きすぎるくらいのもので、弘太は子供心にも大変そうだと思ったが、胸の中は感謝と好奇心でいっぱいだった。
「早く滑りたい!」
「いいよ、じゃあ滑ろっか」
その年は食事は完全に後回しで、段ボールの橇滑りをした。最初は恐る恐る滑っていたが、慣れてくる内に速度は増し、二人で競争をしたりもした。勝ったり負けたりしたが、吉乃の方が速いことが多かった。
弘太は負けても悔しい、とは思わなかった。ただ、単純に、その速いスピードの橇に乗りたいと思った。
「ねえ、僕を乗せて、思いっ切り飛ばして!」
「いいよ! じゃあ前に乗って」
二人で段ボールに乗って、思い切り滑り降りたまでは良かったが、途中でバランスを崩して芝生をゴロゴロと転がった。おそらく吉乃がかばってくれたのであろう、弘太は特にすりむき傷も受けず、草と土にまみれただけであった。
吉乃は最初青い顔をしていたが、大事がない事を知ると、ころころと笑った。二人で笑いながら、水道で口や手をゆすいで、すっかり出来上がっている親たちの所へ戻り、食事を取った。
その年の弁当は、少し、土と草の味がした。
「もう、チンタラ歩いていないで早く来なさい!」
そう母親から声が掛かって前を見ると、弘太との間はもう一〇メートルほどに離れていた。
「へい、へ~い」
駆け足で間を詰めると、両親はまた歩き出す。
前を見ると、背の高い木が何本も見えた。そこが弘太たちの目指す公園である。弘太は文句を言われないよう、付かず離れずの距離をタラタラと歩く。
――もうすぐ公園に着くけど……今年は僕の他に、子供は誰が来るんだろう。吉乃姉ちゃんは……やっぱり来ないだろうな。去年来た子達は……来るんだろうなぁ。
去年から初参加の幼児二人組に、弘太は翻弄された。幼児の扱いに慣れていないのもあり、相手をするのがかなり億劫で、これもこの花見が面倒くさいと感じる要因の一つとなっている。
そんな事を考えながら歩いていると、「桜山湖自然公園へようこそ!」と大きく書かれた看板が見え始めた。弘太たちは最後の到着だったようで、既に来ていた三家族がそれぞれ手を振っている。幼い女の子たちはぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
――あぁ、分かっちゃいたけど、やっぱり来てないんだな。
その中に吉乃の姿がないことを確認して、弘太は軽く落胆した。会えないという事と、いたなら幼児の相手をうまくしてくれたであろうに、という事の二つに。
総勢大人八名に子供一名、幼児二名。今年の花見が始まった。
その四 宴会からの逃避
「桜山湖」と書いて「さやまこ」と読む。なんでも、昔は文字通り「さくらやまこ」と読んでいたそうだが、語呂が悪いとの事で読みがつづまったそうである。
その名の通り、公園は自然豊かな、湖を中心とした造りになっていた。花見のメインは入ってすぐ正面の、松と桜がある通称メイン広場である。数百本ものソメイヨシノが所狭しと植えられていて、満開時に木の下に入ると花が空を埋め尽くしているかの様に見える。弘太たちが場所取りをするのも毎年ここだ。
その広場から急勾配な坂を登って行くと、頂上の広場に「桜山」の名称と関わりの深い、この公園のシンボルとも言える、樹齢五〇〇年のオオシダレザクラがある。広場の中でも一段高い、塚のようになったところに、堂々とそびえ立っていた。
オオシダレザクラの周囲には、木の杭を打ったロープ柵が巡らされていて、幹に近づく事はできない。だが、大きく張り巡らされた枝は「見てくれ」と言わんばかりに垂れ下がってきており、花は間近で見る事ができた。
オオシダレザクラから歩いてすぐのところに湖があり、約六〇〇メートルの真っ直ぐな、舗装された堤防が築かれている。この堤防からの眺めはどの方向を見ても開放感があり、絶好の撮影スポットだった。花の時期になると、三脚持ちのカメラマンがよくやってくる。
堤防の東側は、高低差約三〇メートルの眼下にメイン広場の、ソメイヨシノの大パノラマが広がる。そこから真後ろに振り返ると、見渡す限りの水面、桜山湖が静かに水を湛えている。湖を囲むのはコナラを中心とした雑木林で、目に入る人工的な建造物は、堤防を除けばレンガ造りの取水塔くらいだ。ネオ・ルネッサンス様式の丸屋根が特徴で、塔に差しかかる桜は、都の新百景にも選ばれている。
その取水塔の近くに「段々の滝」と呼ばれる、余水吐がある。玉石をコンクリートで固めて造った棚田のような用水路だが、流れる水は僅かで、桜の時期は枯れ草が覆い被さっている。
堤防を渡りきった先には雑木林やキャンプの施設があるが、桜はヤエザクラがメインになるので、弘太はあまり行ったことがない。この時期だとまだまだつぼみは固く、花は咲いていないからだ。
その他、駅や周辺道路にもソメイヨシノが植えられており、それを含むと桜の総数は二、三万本と言われている。名所と呼ぶに相応しい、夥しい数の桜だった。
「ちょっと、先に花見してくる」
弘太は公園に着いてレジャーシートを広げるのを手伝ってから、ろくに食事も取らず、宴会から逃げるようにオオシダレザクラへと続く坂道を登り始めた。いや、実際逃げたのだった。花見が終わる、いい頃合いになるまでシートの上に座るつもりはなかった。
まず、弘太は幼児の相手が苦手だった。と言うより、去年初参加の女の子二人組に苦手意識を植え込まれたのだった。
吉乃のように一緒になって遊べればいいのだが、変なプライドと恥ずかしさが邪魔をして、どうしてもギクシャクしてしまう。幼いとは言え、女の子相手というのもうまく対応できない一因となっている。
男の子であったなら、まだ対応できる、と弘太は思う。だが、女の子はやはり勝手が違った。趣味や、見ている番組、遊び方、どれを取っても自分の子供の頃と当て嵌まるところがない。
「やーねぇ。そんなんじゃもてないよ、おにいちゃん」
去年は散々おままごとのようなものに付き合わされた挙げ句に、そんなマセた台詞を浴びせられ、弘太は心身共に疲労したのだった。それだけに、今年は同じ轍を踏みたくなかった。
三十六計逃げるにしかず。それが今、食事もせずに坂道を歩いている理由の一つである。
弘太は尻のポケットからチャック付きの財布を抜き、数枚の小銭の他に千円札が一枚入っているのを確認した。これは先ほど父親から得た臨時収入である。弁当の代わりに屋台で何かを買うつもりだった。
――大体、うちはケチなんだよな。こづかいにしたって、ゲームにしたってすんなりくれた試しがない。携帯電話ですら買ってくれない。
弘太はぶつぶつ心の中で文句を言ったが、毎年この花見の時だけは父親がすんなりとこづかいをくれる。花に浮かれている効果なのかもな、と弘太は思っていた。
坂の中程まで来ると、オオシダレザクラが見え始める。その巨大さ故に距離感が狂い、背景から浮き上がるようであった。満開の時であれば背後にある木々の緑と、花の淡い紅色のコントラストが一層木を浮き立たせて見せるであろう。
坂を登り切れば視界を遮る物は無く、木の全容がよく見えた。花は半分以上散ってしまい、黄緑の若葉がずいぶんと目立つ。
――確か昔、お殿様がこの桜を見て、この辺りを「桜山」と名付けたとか、そんな話だったな。
弘太はうろ覚えの知識を引っ張り出す。昔、お殿様が見た時はどのくらいの木だったか。それは上手く想像できなかったが、今、この木は立派としか言いようがないシダレザクラだった。
何本かの支柱に支えられ、見上げるような高さから無数に降り注ぐ細い枝々。太い主幹の、ごつごつとした黒っぽい木肌には幾筋もの大きなうねりが加えられ、巨大な命の塊のようにも感じた。それを見ていると吸い込まれそうな感覚に襲われる。根元には小さな石の祠があり、「長い年月を経た樹木には魂が宿っているからだ」と父親から聞かされた。
確かに、拝みたくなるのも納得できる木だった。
――満開の時は、本当に綺麗なんだろうな。ここに来るたび、そう思う。
弘太は、この桜が満開の時をテレビか写真でしか見たことがない。理由は簡単である。このオオシダレザクラは桜山湖で最も早く咲き、そして最も早く散ってしまうからだ。早咲きの品種であるのと、日当たりが関係しているという。
従ってオオシダレザクラが満開の時は、メインであるソメイヨシノは咲き始めである事が多い。弘太たちは可能な限りソメイヨシノの満開に合わせて日取りを決めていたから、その頃には、オオシダレザクラはあらかた散ってしまっている、というわけだ。
こうして弘太が見ている間にも、ひっきりなしに花は散っていた。メジロがせわしげに花から花へ飛び、少ない花びらをさらに散らす。
オオシダレザクラの花はソメイヨシノより一回りほど小さい。そして花びらを支える部分、深い紅色の萼筒がぷっくりと丸く膨らんでおり、ツボやヒョウタンの様な形をしているのが特徴だ。
凄味のある幹に比べ、花はえらく可愛らしい印象だった。弘太が来る時は花も散って少ないから、「木全体の花姿」より、残っている「個々の花」に目が行ったのも、そう感じる要因になっていたかも知れない。
弘太はその残った花を見て、柵の外から祠を拝む。特に何を願うわけではなかったが、最初に父親と来て一緒に拝んでからそうするのが習慣になっていた。
これが済むともう、弘太にとっての「花見の儀式」は終わったようなもので、後はどう時間を潰すかだった。
――取り敢えず、何か買うかな。
夕方まで、この少ない軍資金で何とか空腹を凌がなければならない。弘太はのろのろと、屋台へと向かった。
その五 堤防にて見えるもの
堤防の中程で弘太は欄干に身を預け、ぼうっと風景を眺めていた。
メイン広場はそこそこの人出だったが、堤防はアマチュアカメラマンや地元民と思しき犬の散歩をしている人、カップル等がまばらにいるだけで、ゆっくりと落ち着くことができた。良い眺めの割に人が少ないのは、やはり宴会のメインが下の広場になるからである。
正面の眼下にはソメイヨシノ、左手にはオオシダレザクラ。右手の、堤防を渡りきった先にはヤマザクラが見える。
このヤマザクラは樹齢四~五〇年ほどの立派な大木で、赤茶けた葉と白い花を同時に出す。
「この桜の良さが分かるようになったら、お前も桜通だな」
そう父親に言われた事がある。ソメイヨシノをありがたがるのは素人で、一番良いのはヤマザクラなのだそうだ。
――敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
本居宣長の歌を引き、日本人の心だ、と父親は力説したが、弘太にはよく分からない。
ヤマザクラ自体は綺麗だと思う。でも、花姿に交じり気のないソメイヨシノの方が好きなのだった。その宣長さんとやらだって、当時ソメイヨシノが無かったからヤマザクラ最高! みたいな結論になったんじゃないのか、とも思った。
そのヤマザクラから見て坂下の方にはオオシマザクラが植わっている。こちらもヤマザクラに負けず劣らずの大きさで、大振りの白い花と緑の葉が同時に出るのが特徴である。花期は少し遅めなので、弘太が見る時は咲いていないか咲き始めかのどちからかで、緑色の葉が目立つ印象だった。
このヤマザクラ、オオシマザクラ間の芝生が、吉乃と段ボールで滑った思い出の坂である。
――吉乃姉ちゃん、なぁ。
弘太は視線を正面に戻し、ふぅ、と一息吐いてから先程屋台で買った甘酒を一口飲んだ。熱さと僅かなアルコールとが、喉から胃をふんわりと温める。
吉乃が花見に来なくなったのは四年前からだった。
最初の原因は吉乃が大風邪を引いたことである。その年はちょうど吉乃が大学に入った年だった。進学先が京都の大学で、引越準備などスケジュールが重なり、かなり無理をしていたらしい。直前まで都合を付けようとしていたが、結局体調を崩してしまったとのことだった。
その後も時々帰ってきてはいるらしいが何だかんだと忙しく、花見の時期は都合が悪かったり友達との約束があったりで、ずっと不参加になっている。留学に行って日本にいない年もあった。
そんな吉乃の不参加を詫びる携帯メールを、写真付きで柳瀬川夫妻から何度か見せて貰ったことがある。吉乃が友達と花見をしている写真で、背後には京都祇園のシダレザクラがあったり、ポトマック川のソメイヨシノが写っていたりした。
――わざわざ遠くに行かなくったって、ここにシダレザクラやソメイヨシノはあるのに。
写メールを見せられる度に、弘太はそんな事を思う。何だか裏切られたような気持ちだった。風邪を引いたのは不可抗力であるし、遠方の大学への進学だって、年に一度会うだけだった弘太に、吉乃がいちいち断る義理はない。大学や自分の生活もあるだろうし、無理にこの花見に参加する必要もない。そうは分かっていても、弘太は気持ちの整理がつかないのだった。
ソメイヨシノは、ちらり、ちらりと少しずつ花びらを散らしている。時折吹く強めの風が、落花をまるでぼたん雪のみぞれのように変えた。数日掃き掃除をしていないのか、それとも掃いた先から積もってしまったのか、地面は薄ピンクに染まり、菜の花の黄色が一層強く見える。
この風景だけを見たならば、「いくら散っても花は減らない、無尽蔵に降り続ける」そう勘違いしそうなほどだ。だが、枝先の方に少し若葉が出て、花の隙間が目立ち始めているのを見れば、桜花の力にも限界があることが知れる。
オオシダレザクラが「個」で見るものを引き込む魅力がある桜とするなら、ソメイヨシノは「数」で圧倒する桜と言えた。この堤防から見ると、特にそう言える。一斉に、枝が折れんばかりに咲き誇り、一面をべったりと、淡いピンクのソメイヨシノ色で埋め尽くしてしまう。ところどころで松の緑が見えるが、その色もこの時期は完全にソメイヨシノの引き立て役だ。
昔から、雪景色や雲に例えられてきたのが納得できる光景だった。
この堤防からソメイヨシノを見た時、人工的だけど綺麗だろう、と父親は言った。ソメイヨシノは人間がクローンで増やして植えたもので、配置も計算している、というのが「人工的」である理由らしかった。
だが、弘太はその美しさに自然の力を感じた。例えそれが人工的だとしても、木や花の姿、色、といった桜そのものは、紛れもなく自然が生み出してこの様な景色をつくっている。
吉乃と一緒にこの景色を見た時、「花がこぼれそうだね」と言われたので「父さんのビールの泡みたい」と返した。吉乃は「そうだね」と言って笑った。
こんもりとした泡があふれ出す、今はちょうどそんな頃合で、満開時のボリュームと散る花の風情を楽しめる、父親が一番好きなタイミングだった。
そんな一面のピンクの中、一ヶ所だけぽっかりと色が抜け、土が目立つ所がある。メイン広場からオオシダレザクラへ続く坂道の手前辺りで、その色抜けの中心部には背の低い、若木のソメイヨシノが植わっていた。
以前そこには樹齢七〇年程の、ソメイヨシノの大木があった。樹形は均整の取れた傘形で、周りの木と比べても一回りほど大きく、弘太のお気に入りの木であった。
気に入っていた理由は、大きかったからというだけではない。
「この桜、なんて名前か、知ってる?」
初めてここに来た時だったか、あるいはその次の年だったか、もしかするとその次の年だったかも知れない。記憶は曖昧だが、吉乃にそう聞かれ、弘太は得意げに「ソメイヨシノ!」と答えた。
「そう、私の名前と一緒の、ヨシノ。弘太君は、この桜は好き?」
「すきー」
「私も好きだから、嬉しいな」
別に、自分と吉乃のことを言われたわけではないのに、弘太は何となく恥ずかしかった。
「私、ソメイヨシノの中でも、ここの、この木はすごく好きなの」
「なんで?」
「昔、私のおばあちゃん家の庭にあった木に似ているの。ほら、あそこの枝」
そう言って吉乃が指さした枝は、先の方だけぴょこんと上に跳ね上がっていた。
「私って、結構くせ毛なんだよね。朝とか、直すの大変なの」
吉乃は肩に僅かに掛かる髪をつまんで、ブラシとドライヤーでくるくる、と髪を巻くような仕草をした。
「おばあちゃんがね、そのくせ毛と枝の跳ね方が似てるって。このヨシノ桜は吉乃みたいだって。それから、私はその桜が大好きになったの」
だが、その木は吉乃が小さい頃に枯れてしまったという。
「伐るって決まった時は、泣いちゃった。でも、お年寄りの木だったからね。残念だけど仕方なかったの」
ソメイヨシノはクローンである。同じ性質を持ち、同じように生長する。だが、完全に同じ生育環境を整えてやらない限り、全く同じ樹形にはならない。土質が違ったり、日当たりの方向が違えば、例えば太陽光が水面から反射する様な所とそうでない所では、まるで違う樹形になる。生き物だから当然だ。
「だけど、偶然ここで、この桜を見つけたんだ。だから、何て言うかな……運命というか、特別な感じがするの」
そんな、吉乃とソメイヨシノとの不思議な一致を聞いて、弘太はこのくせっ毛のある桜が「個」として好きになった。それ以来、必ずこの桜の下で花見をしている。つまり、記憶に残っている年、全てここで腰を下ろし、花見をした。
「また来年、ここで花見をしようね」
そう約束して別れるのが、毎年の決まりであった。
その桜が、二年前に枯れた。
正確に言えば枯れたらしかった。吉乃が来なくなってからも毎年、弘太はここで一度は腰を下ろし、花見をしていた。その枯れた年も、確かに花が咲いているのを弘太は見ている。
だが、次の年。そこには大きな切り株があるだけであった。今となってみれば、確かに花数も少なく勢いもなかった様な気がするが、伐採されるまでに弱っているとは、露ほども思わなかった。
弘太には、少し後ろめたいことがある。
吉乃と不思議な運命で結ばれている、このくせ毛っ桜。この木に、桜花に、弘太は自然と吉乃自身を重ね合わせて見ていた。
だから、吉乃が来なくなってから「裏切られた」、そんな気持ちをずっとこの桜にぶつけてきたのだった。何で、来ないのか。平気で咲いているのか。その気持ちは年々強くなっていき、「裏切り者」と木に向かって呟いたこともある。
――思い出の木が、吉乃姉ちゃんの木が、約束の木が枯れてしまった。
確かにずっと自分の気持ちをぶつけ続けてきたが、枯れて欲しいなんて全く思っていなかったのに。
弘太は色を失い、父親の元へと飛んだ。どうすればいいのか分からない、でも誰かに言わなくてはと、しどろもどろになりながら木が枯れたことを説明したが、父親の反応は予想に反して極めて淡泊であった。
「ああ、あの木か。確かにかなり年寄りな木だったからなぁ」
何故こんなに反応が薄いのだろう。枯れたのが当然とでも言わんばかりに。あれだけの、立派な木だったのに。桜が好きだといつも言っている父親が、信じられなかった。惜しんだり、悲しんだりするのが普通じゃないのか。
弘太は一瞬固まったが、父親が「どれ見てみるか」と立ち上がったので、一緒に切り株を見に行った。
そこで、弘太は逐一、聞きたくない事実と解説を父親から受ける羽目になる。
まず、ソメイヨシノは短命であることを聞かされた。この桜は年だったから、もう枯れる時期だったのだと。事実、大人が両腕を回しても手が届かないくらいに太かった幹は、あちこち腐蝕が進んでいたらしく、切り株にもボロボロになった跡がしっかりと残っていた。
回復が見込めない大木は危険だ。万一枯れた大枝が落下して人に当たったりでもしたら、最悪死亡事故となる可能性もある。そういう場合、伐ってしまうのが一番安全なのだ。
回復の作業も古い木になればなるほど大変になるだろうし、公園の予算、つまり桜にかけられるお金も限られているだろうから、苗木を新しく植えた方がよいとなったのだろう、というのが父親の見解だった。
だが、その苗木を植えるには一つ問題がある。桜は連作を嫌うのだ。
厭(いや)地(ち)現象といって、桜があった同じ場所に、新たな桜を植えてもうまく育たない。前の木の病気が残っているとか、生長を抑制する成分が残っている等と言われているが、詳しい、確実な原因を特定するのは難しい。
それを避けるためには、大規模に土を入れ替えてやる方法がある。だが、公園全体としてみればある程度バランス良く桜が残れば良いわけで、そこまでする必要があるかどうか。別の場所に苗木を植えてバランスが整うなら、ここはしばらくそのままだろう。
父親はここまでを一気に説明すると、それでも、もし、ここに桜を植えるなら、と前置きして言った。
「もう、ソメイヨシノじゃなくて別の桜がいいな」
弘太はその物言いに違和感を感じた。まるでここにあったソメイヨシノを嫌っていた様ではないかと。
「……なんで、ソメイヨシノじゃ駄目なの」
思わず、そう口にした。そして、それを後悔する羽目になった。父親の口からは次から次にソメイヨシノの批判が出てきたのである。
ソメイヨシノは短命であるから、植えてもこの様にすぐに枯れる。どこにでもある桜だから、どこに行っても同じで無個性である。花ばかりでは風情がない。歴史の浅い桜だから、伝説等も残っておらず面白味がない。花期が一気に過ぎるから、一番良い見頃は三日くらいしかない。
他にも滔々と意見を述べていたような気がするが、あまりにも不愉快だったので途中からまともには聞いておらず、よく覚えていない。
――つまり、父さんはソメイヨシノが嫌いなんだな。
弘太はそう思った。いつも桜が、桜がと言っているくせに、枯れたら新しいのを植えればいい、そのくらいの気持ちなのだ。花が咲いている風景が好きなだけで、木そのものが枯れようと心一つ動かすことがない。例えここのソメイヨシノが全滅したって、別の桜を植えればいいとか、違う場所を見に行けばいいとか、そういう風に答えるに違いない。
――それって、本当に桜が好きって言えるのか。
弘太の、父親への反発はこの時からである。
だが腑に落ちないのは、ソメイヨシノが嫌いならなぜ毎年ここで、しかもソメイヨシノの広場で宴会をしているのか、ということだ。
弘太は父親のいないところで母親に聞いてみた事がある。
「う~ん、ソメイヨシノは嫌いってほどじゃないと思うわ。いつも結構喜んで見てるし。まあ他の桜の方が好きなのは確かでしょうけど。あそこで飲んでるのは空気を読んでるんでしょ」
「空気?」
「よそであんな桜解説したり、ソメイヨシノは駄目だ、とか主張したらウザがられるのが分かってるって事」
よそだけじゃなく、身内でもウザがられる事に気がついて欲しい、と弘太は思った。
「弘太がソメイヨシノの事を聞いたから、普段外で言えない分、余計に口をついて出たってだけじゃないかしら。とにかく解説したいの。だからあんまり気にすること無いわよ。何だって、父さんは桜を見せておけばご機嫌なんだから」
そう言う母親の「父親の桜気分」解説に一応は納得したものの、弘太はやはり心のわだかまりを解くことができないまま、現在に至っている。
しばらく植えられないだろう、と予想されたその場所に、早速に植えられた桜。背丈は弘太の二、三倍ほどで、ひょろひょろとした細い枝には僅かに花が付いていた。花を見た限り、これはソメイヨシノだろう。
この弱々しい姿が、厭地現象のための生育不良なのか、若木ではこんなものなのかは分からなかったが、弘太はこの桜に思い出を上書きされた気分だった。
古い木はもう、切り株すら残っていない。ただぽっかりと空いた空間が、昔そこに大木があったと思わせるだけだ。それも、もし今の木が順調に生長すれば完全に空間を覆い隠して、綺麗さっぱりと無くなってしまうだろう。
弘太はもう一度、深く、大げさにため息を吐く。腹の内に籠もっている複雑な気分を全て吐き出してしまいたかった。
思い出の木、来年会おうと言った約束の木に、切り株になってすら一縷の望みを繋いでいたという事に気がつき、我ながら悪い意味での諦めの悪さをひしひしと感じていた。
弘太は自分の中でもう一度、その気持ちを整理する。
「また来年」と言うのは殆ど挨拶みたいなもので、約束等という重い意味は持っていなかった、と思う。それが、吉乃が来なくなってから勝手に「約束」へと格上げされたのだ。
そして、そこまで思っているのなら何故に行動しなかったか。父親の友人の娘であれば、住所や連絡先を調べることもできた筈だ。だが、「好きだ」という気持ちを親に知られるのは恥ずかしくて嫌だった。毎年、吉乃が参加するかを先に聞かないのは、変に勘ぐられたくないからである。
それに、行動したところでどうなるか。
身長、体重は平均点、成績と容姿はぎりぎり落第点回避、特技、これといったもの無し。そう自認する弘太は自分にあまり自信がなかった。
もしかすると、今自分があの幼児たちに感じているように、本当は子供の相手など面倒くさいと思っていたかも知れない。
そして、そもそも、自分は吉乃のことを本当に好きだったかを考えなくてはならない。遊び相手として好きだったのか、年上のお姉さんに憧れていただけなのか、異性として好きだったのか。
結局のところ、弘太はただずっと受け身で、相手が何かしらの行動をしてくれないかと期待しただけだった。
「……最高に格好悪いなぁ……」
そう呟いて一口、甘酒をすする。
だが、その格好悪いのも今年でお終いだろう。もう、来年からはこの花見に参加するつもりもない。
先程、そう決心する出来事があった。柳瀬川夫妻が父親たちと話している中で、吉乃が大学を卒業した後は外国へ行きたがっている、という話を聞いてしまったのだ。
ショックを受けた、と言うより、ずいぶん遠くに行ってしまうんだな、いや、もう行ってしまっていたんだ、そう思った。会わない五年間は、そういう長い歳月だったのだ。
つまり、弘太はこの春の季候のように曖昧に、ぼんやりと失恋したのだった。
――深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け
友人の死を悼んでそう言ったら、本当に灰色に花が咲いたという話があるらしい。だが、弘太の眼下には今もいつもの年と変わりない、淡いピンクの花を咲かせた一面のソメイヨシノ。どれ一つ灰色の桜なんてない。
自分の気持ちを一つも汲むことなく咲き誇るこの淡いピンクに、疎ましさすら感じられる。
――だったら、何色なら僕は満足するんだ。
「……例えば、どどめ色かな……いや、大体どどめ色ってどんな色なんだよ」
だが、桜はこのままの色で良いのかもしれない。何故ならもう、この色が自分が疎んじる色となりつつあるのだから。桜色と言えば、自分のぐずぐずした恋心と父親の不愉快な桜病を彩る、思い出したくない、黒歴史となるであろうこの四年間のイメージカラーだ。
「あーっ! 飲まないとやってらんねぇ!」
残りの甘酒を一気に呷った、その時。
「……っ、くすくす」
笑い声が聞こえた。誰かに聞かれた、そう思った瞬間、青ざめるように血の気が引き、続いて恥ずかしさに顔が赤くなる。
人はまばら、とは言えそれなりに通行人はいる。思わず声が大きくなってしまったことを今更ながらに後悔しながら、恐る恐る笑い声の聞こえた方に振り向く。
と、同時に強い風が吹いた。
舞ったのはオオシダレザクラの花びらか、ヤマザクラの花びらか、はたまたもっと遠くからの桜花(さくらばな)か。
風と花を体に受けながら、微笑を浮かべた女の子が立っていた。
その六 不思議な女の子
――吉乃姉ちゃん?
と、そう思った。だが、すぐにそれが勘違いであることに気がつく。
ぱっと見、女の子の身長と年齢は自分と同じくらいに見えたが、着ているものが中学校の制服のように見えたので、一つか二つ年上なのかも知れない。どことなく吉乃に似ている気はするが、明らかに別人である。
弘太は固まりながら、改めて相手を見る。
少し長めの、さらさらとしたセミロングにぱっちりとした眼、スッと通った鼻筋に艶のある唇。色白で華奢な感じがした。ブラウスに薄ピンクのカーディガンをはおり、灰色のスカート、白をベースにしたスニーカーをはいている。
正直、かわいいと思った。いや、綺麗と言った方が正しいのかも知れない。
弘太はさらに固まった。ただでさえ恥ずかしいのに、聞かれたのが同世代の女の子とは。
微妙な沈黙の時が流れた後、女の子の方から弘太に話しかけてきた。
「未成年飲酒は、だめだよ」
正直そのネタにはもう触れて欲しくなかった。
「……いや、甘酒だよ。見ればわかるだろ」
カラになった紙コップを見せる。
「そのわりには、ちょっと顔が赤いけど……」
「う……、アルコールに弱いんだよ。甘酒でもちょっとだけ入っているだろ」
顔が赤いのは、年頃の、しかも見目麗しい女の子に自分の馬鹿な発言を聞かれたからであり、アルコールのせいでないのは言うまでもない。
「そう? ならいいんだけど」
そう言って、女の子は弘太と同じように欄干に寄りかかって、ソメイヨシノの広場を見た。
「ごめんね、特に聞くつもりじゃなかったんだけど。ちょっと気になって」
「えーと、何か変だった?」
十分変だっただろ、と自分に突っ込みを入れたくなる。
「変と言えば変かな」
そう言って女の子は笑った。
「だって、せっかく花見に来てるのに、つまらなそうなんだもの。みんな、桜を見て喜んで帰るのに」
花見客を何人も見ているかのような口ぶりに、この子は地元の子なのかな、と弘太は思った。
「……別に。毎年来てるから特に感動もないし。君、地元の人なの? だったら花見客ウゼー、とか思わないの? うるさいし、ゴミは落とすし」
恥ずかしさもあって、弘太はぶっきらぼうに答えた。
「うーん、特にそうは思わないかな。酔っ払って枝を折ったりするのは嫌だけど。ここは家族連れが多いからそんなにマナー悪くないし。私は、ここの景色が好きだから、みんなにも見て貰えると嬉しいよ」
そう言ってにっこり笑う女の子に、弘太はたじろいだ。
「……そう」
「うん、そう。花を見れば気分は晴れるし、嫌な気持ちもどこかに行っちゃう筈なの。桜を見に来て良かったな、って。だから、変だなって」
「……父さんみたいなこと言うんだな」
「お父さん、桜が好きなのね」
「ただ咲いてるのを見ながら飲むのが好きなだけさ。あんなの桜好きじゃない」
「あなたは、好きじゃないの?」
頭一個分ほど顔を寄せ、女の子は聞いてくる。
「……別に」
「でも、ずーっとソメイヨシノ、下の桜を見てたじゃない」
なんなのだろう、この子は。弘太はそう思った。先手を取られたのもあるが、さっきからずっと向こうペースだ。
弘太は努めて平静を装ったが、できることと言えば照れ隠しにぶっきらぼうに答えるだけ。だから、この答えも極めてぶっきらぼうになった。
「見てないよ。ソメイヨシノなんか、どこで見たって一緒のつまんない桜じゃないか」
そう、答えた途端、女の子は怒ったような顔になった。そして、さらに頭一個分顔を近づけてきた。睨まれている。
――な、なんなんだよっ!
顔が、近い。近すぎる。
弘太は気圧されて一歩、二歩と後ずさりしたが、女の子は同じ歩数で間合いを詰めてくる。
そして、弘太の硬直している手を、ぐっ、と掴んだ。
「じゃあ、私がここで一番綺麗な景色を見せてあげる」
そう言うやいなや、弘太の返事も聞かずにぐいぐいと引っ張っていく。
「え……、あ、ねぇ!」
弘太は呆気に取られながら、女の子の為すがまま、小走りに引かれた方へと向かった。最早、冷静になる余裕など、どこにもない。
どうしていいか、そんな答えは出る筈もなく、ただ握られた女の子の、その手の柔らかさに戸惑いながら、ヤマザクラの前を通り、堤防を渡りきった。どうやらもう、この女の子に付いていく以外の選択肢はないらしい。
――まあ暇だったし、いいか。悪い子じゃなさそうだし……ちょっと変だけど。……変?
「あ、そう言えば」
弘太は一つ、確かめたくなった。
「……あの、僕の独り言、どこから聞いてたの?」
「えーと、最高に格好悪いな、あたりから?」
振り向かずに、女の子は答えた。
最悪だ。たぶん、自分が無意識に口にしたであろう全てを聞かれている。しかも、最高なのか悪なのか、よく分からない言葉を。
イニシアチブを取り戻すのがまた遅れそうな答えだった。いや、取り戻すも何も、最初からイニシアチブなど握ってはいなかったのだが。
その七 山の中で出会う者
堤防の先の、キャンプ場の脇を抜け、群生しているクマザサの前に二人は立っていた。駆け足でここまで来たので少し息が上がっている。
「こっちの方が早いから、ちょっと近道するね」
そう言うと、女の子はためらいもなくクマザサ林の中に分け入ろうとした。
「え……」
――おいおい、ちょっと無茶じゃないか。
胸ほどの高さはあろうかという笹の群れである。そんな事をすれば擦り傷だらけになってしまう。特にスカート履きですることではない。弘太はそう思ったが、女の子が正面のクマザサを片手でよけると人が通れそうな獣道ができていた。どうやっても葉が触れそうな上半身はともかく、足は怪我をしなくて済みそうだ。
「ね?」
女の子は振り向いて言った。大丈夫でしょ、ということだろう。
弘太はそれでもなお、この道を進むのをためらったが、相手は返事を聞くつもりはないらしい。女の子は繋いだままの手を離すことなく、クマザサの中へ突入した。
「ねえ、この道、って言うか、こんな藪の中を通らないと行けないの?」
「行けないこともないけど……そうするとかなり遠回りだから。もしかして、こういう道歩いたこと無い都会っ子?」
「都会じゃないよ。うちの方はけっこう田舎だけど……」
だけど、弘太は獣道など歩いたことはない。ただ、都会っ子と言われると貧弱なもやしっ子だと言われたような気がして、それを否定しただけである。
女の子の方は慣れているらしく、緩やかな登り坂となっているこの獣道をずんずんと進んでいく。引っ張られる弘太はそれについて行くのが精一杯だ。獣道は途中、右に左に分岐し、方向感覚が狂う。先達は迷い無く進んでいるから多分方向は合っているのだろうが、弘太にはもうどの辺りを歩いているのか分からなかった。
弘太は最初に感じた、華奢な印象をひっくり返されることになった。前を行く女の子から、今は独特の力強さが感じられる。
そうやってがさがさと、クマザサをかき分けかき分け進んで五分くらい経った頃であろうか。二人ほど並んで歩けそうな山道に出た。周りはクマザサを下草にした雑木林で、奥まっているからか桜の木は見あたらない。
「ふぅ、やっと出られた……ねぇ、ここからは近いの」
「あと一〇分くらいかな。そんなに遠くはないし、あとはこんなに草だらけのところは無いから大丈夫だよ」
ああ、そのくらいならいいや、と弘太は胸をなで下ろした。こんな道を何十分も歩かされたのでは、たまったものではない。
「こっちの方だよ」
女の子がそう言って歩き出そうとした時、後ろから話し声が聞こえてきた。どうやら大人の男性たちの様だ。
「あ、おーい、坂下さん」
そう声をかけられると、女の子が振り返った。どうやら目の前の女の子は坂下という名前らしい。振り向くと、二人の男がこちらへ歩いてきている。
「お、ヨシノちゃーん。お兄ちゃんとお手々つないでどこ行くの?」
からかうような声が掛けられる。
弘太はドキリとした。「よしの」という単語が出てきたからである。坂下ヨシノ、というのがこの女の子のフルネームであるらしかった。
偶然だが、名前が同じヨシノとは。弘太は急に恥ずかしくなり、慌てて手を離した。
――いや、繋ぎたくって繋いでいたわけじゃ無くて……。ここまで藪の中をついていくのに必死で忘れてただけで……。
弘太は心の中で必死に言い訳をする。暖かい、その手の平はしっとりと汗をかいていた。服でぬぐおうと思ったが、ヨシノの汗を汚く思って拭いているのだと勘違いされたくもない。少し思案した結果、ぐしぐしと頭を掻く振りをして、髪の毛で汗を拭いた。
しかし、頭を掻いてみると顔や手が痒いことに気がつく。先程クマザサの葉が体のあちこちに当たったせいだろう。すぐにでも掻きむしりたい気分だが、そうすると何だか照れ隠しで変な行動に出ているように見られるかも知れない。そう思い、弘太は掻くのを最小限に留めるのだった。
――そう言えば、坂下さんは痒くはないのかな。
そう思い、手や首筋など肌の露出したところを確認するも、草負けしたところは特にないようだった。さすがに歩き慣れている地元民である。
「ヨシノちゃん、恋人?」
近づいてきた男が軽い調子で尋ねる。えんじ色のシャツに暗い褐色のズボンをラフに着こなしたこの男は背も高く、顔も態度も少し軽い印象があるが、なかなかの美男であった。
「いやだなぁ、違いますよ」
"よしの"だの、"恋人"だのという単語が出てきて弘太はドギマギとするが、当のヨシノは平然としたもので、きっぱりと否定して見せた。
当然の反応ではあるが、弘太は少しの寂しさを否めない。僅かに頬を染めているような気もするが、あくまで気のせいで済ませられるレベルである。
――いや、だからって何なんだよ……。
変に期待している事に気がつき、弘太は自分を恥ずかしく思った。かわいい子とちょっと一緒にいたからといって、何を舞い上がっているのか。
「若い子をからかうもんじゃないよ、坂下さん真面目だからね」
と、もう一人の男が言った。こちらの方はがっしりとした体型で、緑色の作務衣に手ぬぐいといった、真面目な職人の風情である。
「いやいや、ヨシノちゃんもお年頃なんだから、真面目に交際してもいいんじゃない?」
「もぅ、本当にそんなんじゃないんですってば。ねえ」
と、不意に話を振られ、弘太は声が上擦りそうになった。
「そ、そうです。別にそんなんじゃ……」
そう、否定しようとした時である。
「いんにゃ、怪しい。これは追及せねばなるまい。のう、助さん、格さんや」
いつの間にそこにいたのか、弘太のすぐ脇で不敵な笑みを浮かべている少女がいる。
――だ、誰だ!? いつの間に……。
突然の事に弘太がたじろいで後ずさりすると、少女は一度半目で睨む。そして、「きしし」と笑った。
その八 謎の少女
その少女の存在は最初から謎だらけであった。
長い髪を両脇よりやや後ろの、高めの位置で結んだいわゆるツインテールで、ヘアゴムにはサクランボのような飾りが付いていた。ゆったりしたシルエットのワンピースは七分の袖丈で、殆ど白に近いピンク色である。
背丈は弘太よりやや低く、顔、鼻、口、そのほかも全体的に小ぶりで、あどけなさの残る少女。だが一つ、その大きな目からは不思議と幼さを全く感じない。目つきが悪い、というわけではなく、鋭い、というのも適切ではない。
――ただ、なんか……すごい目力を感じる。
自分よりは一つ二つ年下なのではないか、と弘太は思うのだが、もしかすると年上なのかも知れない。時代劇を見過ぎたような喋り方も引っかかる。
「助さん?」
と、えんじ色のシャツの男。
「格さん?」
と、作務衣の男。
それぞれが自分を指差して少女に確認すると、少女は大きく頷いて、「そうだ」と言った。
「じゃあ、あなた様はご隠居……」
「誰がご隠居かッ!」
助さんと呼ばれた男が台詞を言い終わらぬうちに、少女は素早く飛び上がり、頭をはたく。
「見ての通り現役バリバリのピチピチであるぞ!言葉に気をつけい」
「いやいや、助さんがそういうのは仕方ないでしょう。流れ的に間違いなくご隠居ですし……」
と、格さんと呼ばれた男がフォローを入れた。
「そうですよ、何と呼べばいいんです?」
「うーん、そうだな。ちとこっちへ来い」
少女はそう言って、少し離れたところまで男たちを引っ張っていくと、何やら小声で作戦会議を始めた。怪しすぎる。
「……あの、あれって」
呆気に取られた弘太が尋ねると、ヨシノは何となくばつの悪そうな顔で、曖昧な笑みを浮かべる。
「はは……みんな、地元の人なの。私のご近所さん」
「なんか、個性的な人たちだね……特にあの子……」
と、少女の方を弘太が向こうとした時である。少女は両脇に男たちを従え、すぐ目の前まで戻ってきていた。作戦会議は終わったらしい。
「控えい、控えい」
「控えおろう」
お決まりの台詞が始まった。
「この紋所が目に入らぬか!」
作務衣の男が、懐から桜のマークが入った物体を取り出す。どうやら印籠ではなく、樺細工の茶筒のようだ。思わずしゃがみ込む弘太とヨシノ。
「こちらにおわす方をどなたと心得る」
――どなたって……誰なんだよ!
弘太は心の中で突っ込みを入れた。少女は偉そうにして真ん中に立っている。耳を澄ませばふふん、という鼻息すら聞こえそうである。
「恐れ多くも……伊藤さんであるぞ!」
「は? 伊藤さん? 誰?」
予期せぬ答えに、弘太は拍子抜けする。
「私だ、私。私が伊藤だ」
少女はそう、ふんぞり返って名乗った。伊藤だ、と言われても知る訳がない。第一、伊藤なんて名字はありふれていて、どこにでも居るではないか。
「む、反応がうすいのう」
「伊藤さん、彼らの世代は水戸黄門を見ていないのでは……」
「何? そんな奴らがおるのか」
「ジェネレーションギャップってやつですよ……」
伊藤たちは目の前でまたこそこそと作戦会議を始めたが、実際のところ弘太は水戸黄門を知っていた。だからこそ、紋所の台詞で跪いたのである。
やれやれ、といった感じで伊藤は首を振り、両手を肩の高さまで挙げた。
「まァいい。やめやめ、やめだ。私はこの近辺に住んでおる伊藤、で、こっちは民芸品店店主の助さん、こっちは和菓子屋の若旦那、格さんだ」
――やめだ、と言うわりにその口調はやめないんだな……、そしてやっぱり助さん格さんなのか。
演技でその様な喋り方なのか、助さん格さんの本当の名前は何なのか、伊藤たちの自己紹介に弘太は違和感を拭えない。
「で、ヨシノが連れ込んだ男よ……お前はヨシノと真面目に付き合う気はあるのか」
そう言って、伊藤は弘太の周りをぐるぐると周り、品定めするように見回した。
「だからそんなんじゃ無いんですってば」
顔を赤くしながらヨシノが答える。
「何!? なんの気もないのにこんなところに男を連れ込んだのか!」
伊藤は大げさに驚いて見せた。と思えば、次の瞬間には肩を震わせすすり泣く真似をしている。
「ヨシノよ、お母さんは悲しい。なあ、お父さんもそう思うであろう」
訳の分からない話をいきなり振られ、助さんの顔が引きつった。
「ええ!? 俺、お父さんですか。え、いや、まあいいんじゃないかと」
「お父さんその二! あんな事を言っておるが良いのか!?」
――お父さんが増えた。
「いやいや、馬鹿なこと言わないで下さい」
冷静に突っ込む格さん。
「なんだ、ノリが悪いのう……いやいや、これは是非とも突っ込んだ話が聞きたいものだ。どれ、若人たちよ。ちと休憩がてら話を聞かせて貰おうか」
伊藤はそう言って、山道の先を指した。そこには幾つか丸太が横たえられており、ちょうどベンチになりそうな大きさに見える。大きな切り株も見えた。そこに座って話をしようと言うことだろう。
「いや、本当にそんなんじゃ無いから……」
そう言って、弘太が断ろうとした時。
――ぎゅるるる。
極めて大きな声で腹の虫が鳴いた。自分でも驚くほどの大音量に、弘太は思わず動きが止まる。
――空腹に甘酒だけでは、やはり足りなかったか。
弘太は今更、弁当を食べなかったことを後悔する。
それを見て、伊藤はニヤニヤと笑いこう言った。
「こんな事もあろうかと、ほれ、取り出しましたるこの包み」
本当にどこから取りだしたものか、重箱でも入っていそうな大きさの風呂敷包みを伊藤は高々とかかげた。
「実は格さんの新作和菓子を、桜の広場で食べようと思っておったのだが……そこで食べよう。ヨシノと馬の骨。ちょうど良いから付き合え」
そう言うと伊藤は鼻歌交じりに、スキップ踏み踏み丸太のベンチへと向かう。その様を見て、やはり年下なのかな、と弘太は思った。
「なんか答え聞くつもりはないみたいだけど……ちょっとくらいなら、大丈夫だよね?」
ヨシノが弘太に尋ねる。
「あ、うん。まあ腹減ってるし……確かにちょうどよかったよ」
弘太とヨシノ、そして助さん格さんが歩き出した時、伊藤はもう腰を下ろして包みを開け始めていた。そして、歩き出した一団を
「何をしておる! 早くせんか!」
と、急かすのだった。
その九 山中のお茶会
「ちょい待ち!」
弘太が腰を下ろそうとした時、伊藤からストップが掛かった。何か問題があるのだろうか――そう訝しんでいると、さらに声がかかる。
「ハンカチ」
「え?」
「鈍いのう。皆まで言わせるか……そのまま座ったら汚れるであろう。ヨシノの座るところにハンカチでも敷けと言っておる。気がきかぬ男だな」
「え、あ。いや、でもハンカチ持ってないし……」
そういう気遣いをしなければならないこと自体知らなかった弘太は、ただ焦るのみ。
「馬の骨、そんな事ではもてぬぞ」
――またかよ。どうせ僕はモテませんよ。
「大丈夫大丈夫。私気にしないし。ほら、スカートだって汚れ目立たない色だし」
「そ、そう?」
ヨシノの言葉に弘太は甘えようとするが、伊藤は追及の手を緩めない。
「女性に逆に気遣いさせるとはの……確かにヨシノは灰色のスカートだが、この私のように白いっ……って、ああ! しまったぁ! 何も敷かずに座ってしまったではないか!」
伊藤は立ち上がって尻の辺りをはたはたと叩く。
「まあまあ、伊藤さん。これでも使って下さい」
そう言って助さんが二人分のハンカチを敷いた。何故二枚もハンカチを持っているのかは置いておくとして、なかなかに手慣れた所作である。
「む、さすがは助さん。馬の骨よ、男子たる者この程度の気遣いは必要だぞ」
――何だよ、馬、馬って。
先程から言われっぱなしな事もあり、弘太は面白くない。そもそも何故、初対面の、年下であろう少女から貶されねばならぬのか。これは少し抗議せねばならないだろう。
「……あの、さっきから馬の骨馬の骨って、僕には青山って名前があるんだけど」
「そうか。では青山馬の助」
「だから! 馬の骨でも馬の助でも無くって、青山弘太って名前があるんだ」
「そうかそうか。私たちが名乗ったのに、お主からはまだ自己紹介がなかったのでな。取り敢えず(仮称)馬の骨と言う事で呼ばせて貰ったのだが」
弘太の抗議に、少女は何食わぬ顔で答える。
「……」
「まァ、良いではないか。これで名を聞く手間が省けた」
そう言って、伊藤はけらけらと笑った。
「あの……伊藤さん、実は私もまだ自己紹介してなくて」
おずおずとヨシノが申し出た。確かに、先程から他人の口から名前は出ているが本人からは名前を聞いていない。
「ああ、こやつは坂下ヨシノだ。ヨシノで良いぞ」
――ヨシノって言うんだ。
そう弘太は言おうと思ったが、途中でやめた。よしの、という言葉に声が変に上擦りそうな予感がしたからである。それに、なぜ下の名で呼べと本人でなく他人が言うのか。
「いや、坂下さんって呼ぶよ」
「ヨシノでいいよ」
と、当のヨシノも言うが、やはり弘太はそう呼ぶ気にはなれない。
「自己紹介はそれくらいにして、そろそろ始めませんか」
弘太たちが話している脇で、黙々と準備を進めていた格さんがそう言った。
大きな切り株をテーブルにして、重箱の他に紙コップが人数分置かれていた。コップの中には塩漬けの桜花が入っている。
「おお、すまんすまん。では始めてくれい」
「では」
格さんが水筒からお湯を注ぐと、桜の香りがふんわりと辺りを包んだ。入れ終わった端から助さんがコップを皆に配る。
「よし、行き渡ったな。ではでは、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
「桜湯での乾杯っていうのも乙ですね、伊藤さん」
「こりゃァ、もう、アレだな。こんなタイミングで桜湯が用意されているというのは、神様の采配であろう。ひゃひゃひゃ」
伊藤と助さんがニヤニヤと、いやらしい笑みを弘太とヨシノに向ける。それを格さんが苦笑いで見ていた。ヨシノは明らかに困惑しているようで、心なしか、いや間違いなく頬を染めている。
桜湯での乾杯にまるっきり意味が分からないでいるのは弘太だけのようであった。
「桜湯って、結婚式とか、おめでたい席で出されるものなの」
そうヨシノから耳打ちされ、弘太は初めてこの状況を理解する。なんだ、ニヤニヤと笑っているのはそういうことか。
「結婚! 結婚とな。いやー恥ずかしい。赤面ものだ。いいのう、若い者は」
伊藤はわざとらしく両手で顔を塞いだ。しかし、指の隙間が大きく空いているのでのぞき見ていることは確実である。
弘太が少し伊藤を睨むと、向こうは下卑た笑いで応じた。
「うぇっへっへ、どうです、お客さん。あの子ぁイイ子ですぜ……。見目良し、気立て良し、それに病弱と来て美少女の条件を兼ね備えておる。かぁーっ、羨ましいのう」
――前二つは良いとして、最後のはどうなんだ。羨ましいのか? ……しかし、病弱ってどういうことなんだろう。
そんなことを考えていると、伊藤から追い打ちが掛かる。
「ほれ、どうしたのだ。答えんか」
弘太がどう答えて良いものやら戸惑っていると、「ほれほれ」と濃い桜色のショートブーツで座っている丸太をコツコツと蹴られた。
態度の悪い子だなぁ、と弘太は相手を見る。すると、少女は真っ直ぐに弘太の目を見ていた。
――うっ。
ほんの数秒。弘太と少女は目を合わせた。だが、弘太の方から目を逸らす。その瞳を見ていると、吸い込まれてしまいそうな気がしたからである。
「ヨシノ、こやつはお前さんとの祝言に乗り気らしいぞ」
「ええ!?」
「ち、ちょっと待って! 何でそうなるんだよ!」
「目がそう言っておる。それに沈黙を以て答えたと言うことは、肯定したのと同じだからの」
「いや、勝手に解釈しないでよ……」
弘太は抗議したが、伊藤は何食わぬ顔で桜湯を、ず、ず、ず、と飲んだ。ずいぶんとババ臭い飲み方をする。
「その桜湯だって、そっちが持ってきたんだろ。なんで結婚式でもないのに持ってきたんだよ」
「いや、別にそれ限定じゃないからね。いつ飲んだっていいんだよ」
弘太の抗議に、格さんが苦笑いで答える。
「いやいや、今でも京都の方だと、おめでたい席では厳禁だぞ。花の縁は散りやすい、とな」
ぽんぽんと桜の雑学が出てくるところに、さすが桜の名所の地元民たち、と弘太は変に感心した。
「で、本当のところはどうなのだ?」
「どうって言われても……」
ヨシノの事は、今の時点で言えば間違いなく好印象である。が、会ったばかりの女の子にそこまでは考えられない。そもそも、伊藤に答える義理もない。
「もう、人を病人扱いしたりからかったりしないで下さい! 弘太君、気にしないでね」
「そうそう、気にすることはない。ただの冗談、緊張をほぐすための"こみゅにけーしょん"というやつだ」
そう言って、伊藤はまたからからと笑う。弘太は頭を抱えたくなった。
「ところで伊藤さん、食べないんですか。もう準備は整っていますが……」
格さんが言う通り、重箱は開けられ、お菓子が綺麗に並んでいる。
「おお、そうであった。危うく本筋から逸れて帰って来られないところであった。誰のせいだ、まったく……」
お前のせいだ、と弘太は心中で突っ込みを入れた。
伊藤はすっくと立ち上がり、仰々しく口上を述べ始める。
「さてさて、偶然にも若人二人を迎えての開会となりましたが、本日は老舗、クマリン堂新作和菓子披露会にお集まり頂きまして、誠にありがとうございます」
――格さんの店はクマリン堂っていうのか……。ずいぶん可愛らしい名前だな。
「伊藤さん、うちは『しまや』って名が……なんですか、クマリン堂って」
いきなり店主により否定される可愛い名前。
「なんだ、知らんのか。クマリンとは匂いの成分で……」
「いやいや、そういうことじゃなくて! なんかテディベアでも売ってそうですし」
「頭が固いのぅ。和スイーツ処、とか付けたらどうであろう」
「そういう問題じゃないです」
「そうかの? 和スイーツ処、クマリン堂。良い響きだと思うが……」
わいわいと話が逸れる。弘太はしばらく所在なげに座っていたが、なかなか話が元に戻りそうにないので、声を掛けた。
「あの……食べないの?」
「おぉ、悪い悪い。腹ぺこ男子にお預け食らわしては申し訳ないな。では始めようか」
その十 珍妙な和菓子
ようやく弘太に供された菓子の第一弾はアンパンであった。
「へぇ……なんか、ぱっと見ふつうのアンパンっぽいけど」
「それは、ただのアンパンではない」
真剣な顔で答える伊藤。
「よおっく、見てみい。特に上の部分」
そう言われてみると、アンパンの上に塩漬けされた桜花が乗っている。だが、それ自体は昔からあるもので、わざわざ新開発と言う程のものではないように思えた。
「分からんのか……仕方がないの。桜の花びら、あるであろう」
「ああ」
「それが二輪も乗せてある。名付けてダブルあんぱんだ!」
「……それだけ!?」
弘太は少し呆れた。もったいぶってそれだけとは。
「食べてみれば分かる。四の五の言わずに食わんか」
「……じゃあ、いただきます」
そうして恐る恐る口へ運ぶと、まず強烈な桜の匂いが口内から鼻腔に充満した。パン生地自体のできは悪くない。ふんわり、もちもちとしている割に歯切れもよく食べやすかった。
だが、問題はあんこだ。通常の小豆あんではなく、桜を練り込んだ白あんが強烈すぎるのだ。くどい甘さの後に何故か塩っ気を感じ、非常にバランスが悪い。そして、匂いが強すぎる。
「どうだ? 外の花でダブルと思わせておいて、実は中の桜あんでダブルという奇襲作戦!」
そう意見を求めるイトの顔は、期待に満ちているように見える。
「忌憚なきご意見を賜りたい」
「キタンナキ?」
「遠慮のない感想が欲しい、ということだ」
「ああ、そういうことか。じゃあ……うん、不味い」
チョップが飛んできた。
「痛てっ! 何だよ、遠慮無く言えっていったじゃん……」
「ばかもん! 言われたからといって、そのままの意味に捉える奴がどこにいる! そんなことでは社会でやっていけんぞ! もっとオブラアトに包んで言わんか!」
「ええー」
「それが大人の心遣いというやつだ。ほれ、やり直し」
「えーと、じゃあ……コンセプトはいいと思うんだけど……もうちょっと甘さも香りも控えめの方が万人受けすると思う……」
「献上菓ゆかりのアンパンの良さが分からぬとは無粋な奴。まあいい。格さん、記録記録」
「甘さも香りも控えめ……と」
慣れた手つきでメモする格さんを見て、弘太は嫌な予感に襲われた。慌ててヨシノや助さんを見ると、なぜか目を逸らす。
――もしかして。
「さて、お次は……」
「ち、ちょっと待って。やっぱ、タダで食べるの気が引けるし、親が心配するといけないから、そろそろ行こうかなって……」
弘太は中腰になりながら、言った。次も似たり寄ったりの味に違いない。これはきっと新作披露ではなくて、実験的な試食なのだ。
「うん? そう急がんでも良いではないか」
「いや、帰りの時間を考えるとね……」
「じゃあ、一万円」
「はい?」
「和菓子代、一万円。感想を貰う事によって、格さんの高級和菓子をタダにするという条件で、私が裏で頼み込んでやったのだぞ。途中で帰るなら払って貰おう」
極めて素っ気なく、とんでも無い金額を要求する伊藤。
そんな、見え透いた嘘を後出しジャンケンの様に言われても、と弘太は思った。それに、いくら高くても桜湯とアンパン一個で一万円もする訳がない。有無を言わさない気だ。
「な、そうであったな。格さんや」
そう言って、伊藤は格さんに目を流した。
「え、えっと。そうでしたね……はは」
しかし何でここまで、この少女に皆、遠慮をしているのだろう。しかも全員が敬語を使っている。弘太もつられて敬語で話しそうになってしまう。普段からそういうキャラ作りで通っているのか、水戸黄門のごっこ遊びに周りが合わせているだけなのか。いずれにしてもかなりの違和感だ。
「……仕方がないの。ちと、ここで待っておれ」
伊藤はそう言うと、格さんと助さんを連れて奥へと歩いて行く。どうやらまた作戦会議をしているらしい。
伊藤がいなくなったので、弘太はヨシノに小声で訪ねた。
「なんかまたヤバイの出てくるのかな……。あの子、伊藤さんって幾つなの? 年下に見えるんだけど、偉そうというか、みんな敬語使ってるし……」
「あぁ、まあそう思うよね。試食品は……多分大丈夫だよ」
苦笑いしながらヨシノが答える。
「年下と言えば年下なんだけど。ああいう子だからあまり気にしないでね。何だろうなぁ。さっきからやってるとおり水戸のご老公的な立ち位置というか、牢名主というか、そんなポジションなの」
そう、ヨシノが解説した。牢名主の意味が弘太にはよく分からなかったが、とにかく親分的な立ち位置で、皆がそれに合わせているということなのだろう。
そこへ不敵な笑みを浮かべながら伊藤が帰って来た。
「ほほぅ、聞こえたぞ。ヨシノよ。お前も言うようになったの。私はツルを要求したことなぞ、ありゃあせんと思ったが……」
気まずそうに目を逸らすヨシノの首に腕を回し、イトが絡む。
「そういうことを言うのはこの口かえ?」
そう言って、伊藤はヨシノの頬をふにふにとつまみ倒した。
「い、いえ。決っひへほのよおぁ……」
ずいぶんと柔らかそうな頬だとの感想を弘太は抱いたが、勿論そんな事はおくびにも出さず、制止する。
「や、やめなよ。痛そうだろ!」
「痛そう? 柔らかそうの間違いではないのか? お主も触ってみるか」
「え……っ」
弘太が図星を突かれて止まったのは、ほんの一瞬であっただろう。だが、その一瞬が命取りとなることもある。
もう堪えきれないとの様子で、伊藤はケタケタと笑い出し、弘太の背中をばんばんと叩いた。
「あー、よいよい。お主、最高だ」
何かの楽器を鳴らしているかのような明るく高い笑い声が、この場の空気を支配する。
弘太は逃げ出したい、それこそ全力で、意味もなく走り回って誤魔化したい気分だったが、桜の甘い香りが漂い、何とか踏みとどまった。
助さん、格さんが試食のお菓子を持ってきたのだった。
「伊藤さん、真面目にやって下さいよ」
困り顔で格さんが言う。
「なんだとう? 私はいつも真面目だぞ。ふざける時も真面目にふざけておる」
そう答える伊藤を無視して、助さんは弘太に言った。
「いやいや、実はもう一つお重を持ってきていてね。こっちは気に入ると思うよ」
怪しい。実に怪しい。そもそもこんな山中でどこから重箱を持ってきたのか。弘太は不安げにヨシノを見るが、さして気に留める風でもなく、「?」とこちらを見返してくる。
――ええい、仕方ない!
もう既に、引き続き試食するような雰囲気であるし、無理に帰って場の空気を悪くしたくない。ままよ、とばかりに弘太は覚悟を決めた。
その十一 破綻
「じゃあ、つぎ」
そう言って、伊藤がパチンと指を鳴らす度に、格さんは新しい重箱からお菓子を出した。東西桜餅、五色桜饅頭、桜きんつばキューブ、棚引く桜きんとん等々、従来からある物に一ひねり二ひねり加えた和菓子のシリーズで、そのどれもがひねりを加えたがために失敗している様に弘太には思えた。
全体的な傾向として、「桜」に拘りすぎている。確かにここの特徴を出そうと思ったら桜を使うのが一番なのだろうが、それでバランスが悪くなってしまえば本末転倒である。
そこのところを伊藤の逆鱗に触れぬよう、神経を使いながら弘太は批評した。
「う~む、なるほどの。じゃあ……」
「ち、ちょっとまって」
弘太は、伊藤にストップを掛ける。舌が、桜とあんこで麻痺しそうだったからだ。何しろ、さっきからずっと和菓子を食べ続けている。腹も八分目を少し越えていた。
「もうそろそろ、お腹いっぱいなんだけど……。あと、口の中が甘くて……お茶か何かない?」
「おお、確かにそうだな。お茶も出さずに悪かった」
「いや、ご馳走になった上にお茶くれって言うのも何だけど……悪いね」
「じゃあ格さん、シメにアレを」
そう言った伊藤の、瞳の奥がキラリと光ったような気がした。一瞬、格さんは弘太の方を向き、自信満々の表情を浮かべる。
「ちょっと待ってね。今作ってくるから」
――何だ、せっかくこれで終わりだって安心してたのに!?
弘太は嫌な予感しかしなかった。今までのお菓子も、確かに失敗作と呼ぶに相応しい品々だったが、食べられないという程ではない。それが、遂にその一線を越えてしまうのか。
「いや、最後はさっぱりとシメないとな。近年希に見るほどの、私と格さんの自信作なのだ」
伊藤はふふん、と胸をはる。
「ふ、ふ~ん、そうなんだ。みんなは飲んでみたの?」
弘太はそう言って助さんとヨシノに聞いてみたが、いいんじゃないかな、と普通に答えが返ってくる。どうもここの人たちは味覚がかなりずれているのではないだろうか。それに、作ってくるって、どこで作るんだ?
弘太がますます不安を深めていると、格さんが「シメのアレ」を持ってきた。
紙コップには漆黒の液体が満たされており、燻したような極めて特徴的な香りがする。
――なんだ、コーヒーか。心配して損した。
弘太は胸をなで下ろした。
「これが私の自信作、さくらマウンテンだ!」
そう紹介された物体は、一見普通のブラックコーヒーに見える。カップから漂う香りもコーヒーそのもの。しかし、よくよく嗅いでみると桜の匂いが鼻につく。
そして、その中に一輪のヤエザクラが漂っている。
「漆黒の中で可憐に咲く一輪の桜……美しい対比であろう? 器の中に夜桜の風情までもが凝縮されておる」
腕を組みながら、うんうんと一人頷く伊藤。相当の自信があるようだ。
「高級なブルーマウンテンを惜しげもなく使ったスペシャルブレンドだ。とりあえず飲んで見てくれ」
「あ、あのさ、砂糖とミルクは無いの?」
運ばれてきたコーヒーには何も付いてきていない。実のところ、弘太はブラックコーヒーが苦手だった。その上、味には一癖二癖ありそうな代物である。そのまま飲むにはつらそうな予感がする。
「ばかもん!」
ダブルチョップが飛んできた。
「痛てっ、何だよ!」
「そんな物を入れたら風味が損なわれるであろう! まずはそのまま飲め」
「わかったよ……じゃあ」
意を決して、弘太は一口、コーヒーをすする。
「……!」
口に含んだその瞬間、弘太は吹き出しそうになった。が、すんでのところでそれを押さえ込み、強引に喉へと流し込む。
「どうだ?」
そう言って伊藤は弘太の顔を覗き込んできた。屈託のない、満面の笑みを浮かべている。本当に自信があるんだな、と弘太は思った。
だが、味は残念そのもの。とにかく桜臭い。飲む前まではそこまででもなかったが、口に入れるとコーヒー臭を押しのけ、桜臭が強烈な自己主張を始める。今、自分が飲んでいるものが何であるのかが不明になるほどだ。コーヒーの苦みに混じって塩気が感じられ、どことなく酸味も強い気がする。
「いや、これだめでしょ」
弘太が思わず本音を漏らすと、伊藤はたちまち不機嫌な顔になった。
「ぁんー? 何が駄目なのだ?」
「いや、匂いきつすぎるって。味も変だし」
「そうかの? 格さん、作り方間違えたのと違うか?」
伊藤はそう格さんに疑惑を掛けたが、レシピ通りです、との答えが返ってくる。
「ちょっと、貸せ」
伊藤は弘太からコップを取り上げると、自分も一口飲んだ。
「んー、コーヒーに負けぬ、気高き桜の香り。良いではないか。この味が分からんとはの……」
「いやいや、コーヒーに負けないくらい桜の香りがするから駄目なんだって……匂いがした方がいいなら……そうだな、ウインナーコーヒーとかどう?」
「ウインナーコーヒー?」
「こう、たっぷりと表面にクリーム浮かせてさ。桜の匂いをクリームにつけて」
「ほう」
「クリームがコーヒーにフタをするから、クリームの匂いが先にする。だから大量に香料を入れることもないと思うよ」
「んー、格さん、一応書いといとくれ。あくまで、参考までにな」
自信作を否定されたがためか、伊藤はいかにもやる気なさげだ。格さんにも落胆の色が見える。助さん、ヨシノもそうなのか、と言った表情である。やはりここの人たちは味覚がずれているらしい。
「お菓子も含めて、全体的に香料入れすぎなんじゃないかなぁ。もっと控えめでいいと思うよ」
「ん? 別に香料なんぞ、どれ一つ入れとらんぞ」
「でもあんなに強烈な匂いが……」
そう言ってから、弘太は疑問に突き当たった。あの、桜餅に代表される香りは何故「桜」の香りと言われているのか。花見に来て、それこそ目と鼻の先に桜があってもあの様な香りがしたことはない。だから、桜餅のあの匂いは香料の匂いだとばかり思っていた。「桜」と名付けた、イメージの香りなのだと。
だから伊藤がこう答えた時、意外に思った。
「あれは、花と葉から出た匂いだ」
「でもあんな匂いは桜からしたことが無いけど……」
「まァ、あれは塩漬けにして香りを出したものだがな。そのままでも匂いのする桜はある」
「へぇ、そうなんだ……」
――塩漬けだったのか。……どうりでみんな塩味が濃いわけだ。
「ヤマザクラやオオシマザクラには匂いの強い奴がおるが……残念ながら、ここの桜はあまり匂わんし、そもそも匂いのないソメイさんばかりだからのう。知らんのも無理はない」
伊藤が言った、そのままでも匂いのする桜がソメイヨシノの様に群植されていたならば、満開時には辺り一面に桜が香るのだろうか。だが、その様な名所を弘太は知らない。
――もしかすると、花が地味なのかな。じゃあソメイヨシノと交互に植えれば……。
そこまで考えて、弘太の脳裏に吉乃と父親の顔が浮かんだ。
――何を考えているんだよ、僕は。
来年から、もうわざわざは見ないかも知れない桜。特に、ソメイヨシノ。桜の新たな知識に深い興味を覚えながらも、今の弘太にはそれを肯定することなど到底できない事だった。
「あと、木を削っても匂いが出るよ」
ニコニコしながら助さんが言い、弘太はハッとする。
「うちは民芸品作るのに桜の木を削るからね。工房はふわっと桜の香りに包まれて幸せな気分にひたれる。弘太君も今度うちにくるといい」
「へぇ……そうなんですか」
「そうだ、ちょうど今、助さんに加工して貰った桜のコースターがある。一つやるから後でヤスリでもかけてみるといい」
そう言うと、伊藤は懐から木片取り出し、弘太に投げてよこした。桜の花びら形に削ってある、単純な板状のコースターだった。
「それ、何の形だと思う?」
「え……桜、じゃないの?」
その答えを聞き、伊藤はニタニタと笑う。
「それは、ハートだ。うーん、ラブユー。桜に心を託す。いやぁ、何とロマンチックなのであろう。それを貰ったおなごはイチコロ。そう、例えばそこに居るヨシノでもな」
「は!? なんで坂下さんにあげるんだよ! それにこれ、伊藤さんが僕にくれたんだろ!? それじゃ僕のこと好きなわけ!?」
「そんな訳なかろう。からかっただけだ」
からからと、伊藤は気持ちよく笑う。年下に、極めて馬鹿にされている様にも思えるのだが、なぜか不快な感じを弘太はあまり受けなかった。快活な笑い声とともに、それが吹き飛ばされているのかも知れない。
しかし、伊藤はさっきからヨシノにアプローチを掛けさせようと企んでいる。単にからかって遊んでいるのか、気持ちを見透かしているのか。弘太は非常にやりづらい。
そもそも。
確かにヨシノの事はかわいい女の子だとは思っている。だがそれは恋愛感情とは別だ、と弘太は思う。
第一、弘太はヨシノの事を何も知らない。世の中には一目惚れ、というものもある。だが、そういう話はやはり、ある程度はお互いを知ってからが本来だと弘太は思っていた。その恋愛の前段階、相手を深く知ろうと行動をしなかった結果が吉乃への失恋なのだが、その事は完全に脇に置いてしまっている。
ここに連れてこられるまで、何年間も吉乃の事でグダグダとしていた弘太は、やはりその切替も速やかには行かない。急に別の女の子に恋をするなど、吉乃に悪い気がする。そう、変に義理立てをしようとする心理も働いていた。
「取り敢えず……返すよ、これ」
「それはまァお主が取っておけ。今回の新作披露会の記念にな。せっかく最後まで付き合って貰ったのだ。土産物くらいオマケで付けてやらんとな。ところで、これから二人でどこへ行くのだ」
伊藤が、ようやくまともに本題を切り出した。思えばずっと横道に逸れていた気がする。
「弘太君がソメイヨシノなんてどこで見ても同じだって言うから……あそこに連れて行こうと思って」
「……ほう」
伊藤は弘太とヨシノを、じろりと見た。
伊藤の目の奥で、何かが動いた。そんな気がした。
「ま、行くまでもないとは思うがの」
「そうでしょうか……」
あまり大した場所じゃないのか、と弘太は思ったが、肩を落としているヨシノが少し不憫になり、フォローを入れる。
「でも、せっかくここまで来たんだから、僕は行くよ」
そう言うと、ヨシノの顔が明るくなった。
「ソメイヨシノが嫌いだと言うのに行くのか。酔狂な奴よ」
「嫌いってわけじゃ……同じでつまんないって言うか」
「先程からの会話から察するに、お主は桜の事をナァンにも知らん様に思ったが……そんなんでよくソメイヨシノの悪口が言えたものだ」
弘太は、カチンと来た。伊藤は何を考えているか、よく分からない表情をしている。
「なんだよ…別に、そんな雑学知らなくったって、花見はできるだろ」
「んー、確かにそれはそうだな。では、何桜が好きなのだ?」
そう問われて、弘太は答えに窮す。前ならソメイヨシノと間違いなく答えただろう。だが、今はそんな気持ちではなかったし、そもそもソメイヨシノがつまらない桜だ、というのが大前提で答えねばならない。わざわざ品種名指しで貶したからには、桜全体がつまらないと答える事もできない。こんな事なら、最初から花見自体好きじゃないと言っておけばよかったと、弘太は後悔した。
「……いろいろあるけど、ヤマザクラかな」
そして、結局父親の言葉を借りるしかなかった。
「ほう、それは通だな」
そう言って、伊藤は脇に一瞬目をやる。
「ヤマザクラは良いのう。立ち姿は雄大で、花は清廉そのもの。オオヤマザクラは木材となれば、堅牢な家具や版木を作るのに適しておるし、ツヤのある樹皮が樺細工になる。無駄になるところが何も無い」
伊藤の口からは、よどみなくヤマザクラ賞賛の言葉が発せられる。
「うんうん、良かったぞ。お主がちっとばかり知識を得てソメイヨシノを貶すようなニワカでなくて」
「そ、そう……?」
「そうだ。ヤマザクラこそが、桜の中の桜。古来より花見の主役だ。死してもなお、木材として花を咲かす。ソメイヨシノではこうはいかん。では、その次はどうだ」
「え、その次?」
弘太は冷や汗モノである。次から次に質問されても、自分の知識には限界がある。通ぶった父親の、そのさらにあやふやになった事しか答えられない。対して、相手は桜の名所の、地元の子供。それに今まで話した限り、桜には詳しそうだ。自分にボロが出るのも時間の問題である。
だから、弘太は適当なところでこの話を切り上げたかった。
「う~ん、ヤエザクラかな……」
これも、父親が言っていたことだ。一にヤマザクラ、二にヤエザクラ。
「ヤエザクラには名品が多いからの。だが、何か忘れてはおらんか。大事な桜を」
「……えっと……あ、ああ! シダレザクラ。シダレザクラも好きだな」
そう言うと、なぜか伊藤は得意げな顔になり、弘太に手を差し出してきた。恐らく、伊藤はシダレザクラが好きなのだろう。これでようやく質問タイムも終わりそうだと、弘太は一安心して、伊藤の小さな手を握った。
「友を得たり!」
伊藤は弘太の手を強く握り、ぶんぶんと上下に振った。
「いやいや、お主がちゃんと桜が分かっている者で良かった。ソメイヨシノの様な、堕落した桜に全国を席巻された事が、私は悔しくての。聞くところによると、日本にある桜の八割ほどはソメイヨシノだそうじゃないか。お主も言いたいことがあるであろ?」
「え……いや、あの」
質問タイムは、終了どころかここからが本番であった。弘太が答えに困っているその時、見ていた格さんがフォローを入れる。
「伊藤さん、もうそろそろお開きにしませんか」
「そうそう、ヨシノちゃんと行くところがあるんですから。もうこんな時間ですし」
助さんもそれに合わせ、腕時計を見せた。針は三時を少し回っている。
「もうそんな時間。弘太君、行こうか」
「そ、そうだね。じゃあ行こうかな」
弘太とヨシノは立ち上がろうとしたが、伊藤はがっちりと手を握って離さない。
「いやいや、まァあと少しだけ良いではないか」
「伊藤さん、あまり無理を」
「格さんは黙っててくれんか。ヨシノ、良いな?」
伊藤は、ぴしゃりと言い放つ。有無を言わせない強さがあった。
「は、はい……」
ヨシノは小さく頷いて、席へ着いた。
「な、お主。少しだけ語ろうではないか。お主はソメイヨシノの何がつまらんと思っておるのだ?」
――まずい、非常にまずい流れだ。もう、とっとと帰りたい。
弘太はそう思ったが、手は握られたままだし、あの目で真っ直ぐに見据えられている。まさに蛇に睨まれたカエル。逃れることなどできない。
「……クローンで増やしてるから、どこに行っても同じだし。不自然だろ」
「ふーむ。しかし、それはソメイヨシノに限ったことではない。桜というのは、全く同じ品種を残そうと思ったら接ぎ木や挿し木で増やしてやるしか無いのだからの。ヤエザクラの名品なんかもそうだぞ。それこそ、鎌倉時代に接ぎ木の記録があるくらいだ。桜のクローンなぞ、極々当たり前で珍しくも何ともない」
いきなり、ボロが出る。ソメイヨシノはクローン。そう最近はテレビや雑誌でも繰り返し言われているから、ソメイヨシノだけの特徴なのかと弘太は思い込んでいた。
「それに、自然とはなんだ。植物は種以外からも繁殖できるから、ただそうしているだけじゃないのか?」
「でも、あんなに大量なのはおかしいだろ。人が勝手に増やしてるんだ」
「それは一理ある。だが、人が増やしたからといって、何なのだ。虫が花粉を運び、鳥が種を糞とともに落とす、人が受粉と種まき、接ぎ木をする。人間も自然の一部と考えれば、桜の繁殖に媒介しているのが虫か、鳥か、人かの違いだけなんじゃあ無いのかの」
「何だよ、そんなの屁理屈だろ。人が絡まなきゃ、あんなに増えない」
「もちろんそうだ。だが、美しいものが増えるのは良いことではないか。ソメイヨシノ自体が美しくないと言うなら話は別だが」
「……美しくないって言うか……風情がないんだよ。花だけ咲いて、葉が混じらないだろ」
「それはおかしいのう。花が先に咲くのは寧ろヒガンザクラの特徴で、別にソメイヨシノの専売特許じゃない。ほれ、あのオオシダレザクラも先に花だけ咲いていたであろう? お主、シダレザクラは好きだと言っておったよな」
「……花が終わりかけの時しか見てないから、知らない」
「なんと、それは呆れる。あれほどの歴史と伝説のある立派な桜を、一番良い時に見ないとは。何のために桜山湖に来ておるのだ」
「しょうがないだろ! 父さん達がソメイヨシノに合わせて日程組んでるんだから」
「しょうがなくない。たまには自分から言ってみれば良いではないか。ソメイヨシノなんぞでなく、他の桜の満開が見たいと」
「しょうがないんだよ! だって、ずっとこの形で続いてる花見なんだから。僕一人のわがままは言えない」
「しょうがない――か。そういえば、さっきの茶托の時も聞いた気がするが……ずいぶんと諦めがよいのだな。お主は何に付け、ぐだぐだと悩みそうな印象であったが……それは訂正するとしようかの」
心の内を読まれているのではないかと思えるほどに、伊藤の言葉は痛いところを突いてくる。
「それで、歴史も、伝説の一つもない新参桜を、嫌々毎年見させられたわけか。それなら、ソメイヨシノを嫌いになっても仕方がないかのぅ」
――何なんだよ。こんな事が言いたいんじゃないのに。
伊藤は、ソメイヨシノが嫌いだといった割に、やたらにフォローを入れている。かと思えば、また貶す。まるで弘太の反応を探るかの様に。いや、様に、ではなく、確実に、意図的にやっている。ボロが出るのを知っていて質問攻めにしているのである。
ヨシノは、いたたまれない様子で俯き気味に座っていた。ああ、やっぱり、と弘太は思った。
あの堤防で、うっかりソメイヨシノの悪口を言った時から、何となく分かっていた。この子は、ソメイヨシノが好きなのだ。「ヨシノ」という、自分の名と同じあの桜を。だから、わざわざこんな山奥まで引っ張ってきて、一番良い景色を見せようとしているのだ。
「しかしまァ、歴史なんてものは理由にはならんか。そんな事を言ったら新しい品種は全て駄目になってしまう。ただでさえ、桜は変異を起こしやすい植物。桜の存在自体を否定することになりかねん」
伊藤は喋り続ける。
――もう、やめてくれ。僕は、もう、別にソメイヨシノの悪口なんか言いたくないんだ。
「それに、歴史なんてのは一〇年だって、いや、それこそ数年だってあれば何かは積み重なるものだしの。人によっては強い思い入れもあるであろうし、どこぞで逸話が生まれているかも知れん。ただ長くあれば良いってもんじゃない、うんうん」
独りごちた伊藤は勝手に納得している。
しかしそれこそが、弘太が感じていることだった。自分に当てはめてみればそれがよく分かる。歴史、などという大げさなものではなかったが、花見の思い出なら、十分にあった。吉乃とソメイヨシノに彩られた花見の思い出が。
「で、お主は他に何か嫌いな所はないのか」
――もう、終わりにしたい。これ以上喋っても、ダメだ。
「とにかく、嫌いなんだよ! いいだろ! それで!」
「うむ。その答えが一番しっくりくるな。どこかで聞いたような意見や、全国でソメイさんが大繁殖しとる状況なぞ、滔々と述べたところでなァンにも心に響かん。学者でもなく、桜を管理するわけでもない、するつもりもない、ただの花見客なら素直に、自分が好きか嫌いかを言えばよいのだ」
弘太は、もう一度ヨシノを見た。俯いて、肩が震えている。表情はよく見えなかったが、今にも泣き出しそうな様子に見えた。そこまでソメイヨシノに思い入れがあるのかと、弘太の方が逆にショックを受けたが、確実に分かったことが一つある。
もう、駄目だ。終わった、ということ。
程度の差こそあれ、自分が好きなものを、徹底的に貶されて不愉快にならない者などいない。「つまらない」どころか「嫌い」と、クドクド理由を述べた上で言ってしまったのだ。ヨシノも、もう弘太を無理に連れて行こうとは思わないだろう。
「……帰る」
弘太は、立ち上がった。堤防で会った、この女の子との不思議な花見も、途中で終わりだ。いや、終わりも何も、始まってなんかいなかったんじゃないか。
後半へ続く
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桜が咲いても気分が晴れない――そんな男の子が不思議な少女に出会う物語。後編→http://www.tinami.com/view/675568