一章 琥珀越しの朱光、青硝子の夜
僕の仕事とは、収入の減少と引き換えに好きなだけ休暇の取れるものであり、逆に他人の人生そのものにすら密接に関わるアイリの郵便業は、決して怠ってはならないものである。
とはいえ、配達は早朝と夕方の二回であり、規則正しく眠る彼女は夜更かしをしないので、寝不足に陥ることもなく、昼間は比較的自由にしていることが出来る。逆に僕はその時間帯にこそ竜観光の仕事をしているんだけど、誰にも拘束されず、何の責任も背負ってはいない体、彼女に予定を合わせるのは造作もないことだ。
「ねぇねぇ、そろそろデートしよ」
「うん、そうだね。アイリはいつが都合良い?」
「いつでも良いよー。明日とかでも」
「じゃあそうしよう。一時に来てもらっても良いかな」
「おっけー。なんか、二週間に一回はデートしてる気がするね。アツアツですなー」
「いつも二回も顔を合わせているのに、ここまで距離を感じない遠距離恋愛も珍しいだろうな」
「だって、空は繋がってるからね。近くにいない時でも、フレドが見守ってくれてると思って飛んでるんだよ」
「……もう、アイリは平気でそういうことを言うんだから。前の手紙にしても」
「アレはね、お父さんが昔読んでた本の文章をいくつか写したんだ。どうどう?ドキドキした?」
「すっごくね。……読んでて疲れたよ」
割と素直な感想だ。アイリは素朴な感じがする子なのに、どうやら文才というものには秀でているらしい。引用、借用の多い手紙でも、中々どうして構成がしっかりとしていて、恋文の手本とするのに最適とすら思えてしまう完成度のものばかりだ。
そして、そんな甘くて嬉しい手紙を日常的に受け取る僕は、どれだけそれによって体力を奪われていることか。更に、朝っぱらからのこの会話。アイリはお菓子好きではあるけど、胸焼けというものを知らないのだろうか。
「ふふー、なら狙い通りだよ。フレドはいじめたくなるからねー」
「しょうがないな、君は。えっと、それで僕への手紙はないんだよね」
「うん、あたしが用意してあげられたらよかったんだけど、昨晩、文面を考えてたら寝ちゃって」
「アイリらしいなぁ。けど、机で寝るのは不健康だから気を付けなよ。風邪をひくような季節じゃないだろうけど、筋肉痛とか寝違えとか、アイリは華奢で危なっかしいんだから」
「へーきへーき、お父さんも昔はよく読書しながら寝ちゃったらしいし」
「血は争えないんだなぁ……」
アイリの生家は、農家といってもかなり裕福な方だ。広大な農地を持ち、小作人に手伝ってもらいつつ、お父さんやお母さん自身も農業に勤しんでいる。お父さんはかつて結構な文学青年だったらしいし、彼女の文才もその遺伝によるところが大きいのだろう。
小さい頃はほとんど本を読まず、また読もうと思っても難解なものが読めるほど、文法表現を知らなかった僕にしてみれば、少し嫉妬してしまう。大きくなってからも、きちんとした教育を受けてはおらず、輸送部隊にいた頃、書類に目を通す中で独学した程度だ。それでも、彼女の心のこもった手紙を読むことぐらいは出来るので、特に不自由はしていないけど。
「じゃあねー。また夕方!」
「うん、気を付けて。仕事、頑張ってね」
手を振り振り、走り去っていく。アイリは僕より一歳下、つまり今年二十歳になったところなんだけど、その言動も行動も子どもっぽい部分が多分にあり、見た目の幼さもあるので、五つほど歳の離れた妹のようにも見える。それだけに同年代の男性には、可愛いとは思われても一人の女性として見られることはなく、また、自分自身も色恋沙汰への興味はなかったそうだ。
南方から移住して来た、言ってしまえばよそ者。しかも、彼女の住む街からはかなり遠い場所にあるこの街に住む僕が、今こうして彼女と親密な仲になっているのは、ある意味で当然のことなのかもしれない。
今の彼女から知らない僕が見る“アイリ”とは、可愛らしいのはもちろんのこと、無邪気で呆れるほど素直で、少女がそのまま年齢を重ねただけ、という印象だった。そして、その特徴は僕にとって、いつまで経っても妹の域を出ないという欠点ではなく、心にある種の涼風を吹かせてくれる、素晴らしい美点に感じられたのだった。だからこそ、きっと僕は彼女を真剣に愛するようになり、その気持ちもアイリに伝わったのだと信じている。
翌日、朝の内にこなすべき仕事を終えた僕は、昼食の準備を始めていた。
とはいえ、三頭もの大きな獣を飼育している以上、人間が食事をする前に彼等の食事を用意してやらないといけない。
飛竜は共通の獣肉を食べるので良いが、問題は翼獣、つまりレッグであり、肉だけでも、草だけでも満足してくれないので、彼女のためだけに食事を作る必要がある。また、毎日ではないが食事と共に小石を用意してやるのも望ましい。鳥類に詳しい人であれば周知の事実だろうが、一部の動物は消化のために石を体に取り込む必要がある。そして、翼獣もどうやらその上半身からわかるように、鳥類としての特性を多分に持ち合わせているようだ。
さて、特別配合のエサを用意してやり、レッグの前に差し出すと彼女は身を乗り出し、一心不乱にそれを食す。普段は動物らしい面を見せないのに、食欲は全ての生き物に共通した最大欲求のようだ。僕もそろそろお腹が減り出して来た。ちなみに、エサの配合はアイリに教えてもらった。さすがは農家の娘、その種類を問わず、動物の世話には長けている。
「こんちはー!フレド、もうご飯食べた??」
家に戻り、そろそろ食べてしまわないといけない食材はなんだっけ、と記憶を探っている時、ノックもなくドアが開いた。こんなことをする相手は一人だけで、しかも彼女は合鍵を持っているので、僕が飛んでいる間に侵入、僕が帰るのを待ち構えていた時すらある。
「アイリ、まだだけど、待ち合わせの時間にはずいぶん早いよ?」
「ふふー、それが狙いだったからね。たまには、一緒にお昼ご飯食べようよ」
よく見ると、いつも彼女が配達以外で出かける時に肩から提げているバッグの他に、手には手提げカバンを用意している。もしや、その中にお弁当が入っているのだろうか。もしくは、今ここで昼食を作るための食材があるのか。
「お弁当かな?よく作る時間があったね」
「調理をして持って来た訳じゃないからねー。あ、火、借りるよ。お肉も持って来たから。アイリさん特製のオープンサンドですぜ、旦那さん」
取り出された包みからはパンとレタス、それから見るからに辛そうな、香辛料の効いたソースの小瓶が現れる。後はメインの豚肉がふた切れ、油紙に包まれていた。
「美味しそうだ。僕が適当に作る昼食よりもずっと」
今までの人生でほとんど調理をすることがなかったため、料理の腕に関しては子ども時代のそれが据え置きだ。戦時中の食べ物は調理の必要がない保存食だったし、その後も適当に焼き、煮る程度のことしかしたことがない。蒸したり揚げたりといった複雑(に思える)調理法なんて、我が家のレシピに登場することは絶対にない。
「フレドももっと、料理が出来るようにならないとね。夕ご飯はあたしが作ってあげられるけど、お昼は配達が長引くこともあって、フレドが作ってくれないとどうしようもないこともあるだろうから」
「……結婚してからの心配をもうするの?」
「だって、もうすぐするでしょ?」
「う、うん。まあ、ね」
諸々の都合。主にはお金の都合が付けば。
しかし、アイリは僕以上に早い内の結婚を望んでいる。結婚をしても働き続けるつもりがあるのに、どうしてそこまで早くしたいのか。もちろん、より距離が近くなることは僕も歓迎だけど、今までの交際と同じように、ゆっくりと進めて行けば良いのに。とも思う。女の子はもう少し考えが違うのだろうか。
調理をしているアイリを後ろから見ると、程よい長さの黒髪の房が体の動きに合わせて揺れていて、まるで猫じゃらしだ。スマートで可愛らしく、それでいてふかふかとした母性を感じる柔らかさのあるアイリは、見ているだけでも本当に魅力的で、なんだか僕の野暮ったい、掘っ立て小屋のような家にいるのが不思議に思えて来てしまう。
美しい黒髪、それから茶色の瞳というのは、本来ならばこの国よりもずっと東にいる民族の特徴という。元からこの辺りは移民が多い土地でもあるので、アイリはきっと遠方から来たその民族の末裔なのだろう。僕や、この辺りでよく見る人とは顔の作りや、肌の薄さも異なっていて、僕達からすれば童顔に見えるけど、彼女の民族ではこれぐらいが標準なのかもしれない。
「どうしたの?後ろから抱きしめたくなっちゃった?今は火を使ってるからダメだよー。終わったら、別にしてくれても良いけど」
「違うよ。……ううん、違わなくもないけど、アイリのことをよく見てただけ」
「はっはー、あたしの体を嘗め回すように見ていた、と。もー、体目当てのお付き合いなんてあたし、許さないんだからね」
先日はそのスタイルを誇っていたぐらいなのに、勝手な子だ。と言うか、仮に彼女の容姿だけに惹かれていたのならば、こうも長く付き合いは続かなかっただろう。アイリの性格は、可愛いで済ませるにはちょっといたずらが過ぎるし、一緒にいて楽しいけど、時に。……いや、大抵は疲れてしまうような、かなり付き合う人を選ぶものなのだから。もしかすると、長距離の飛行を日常的にしていた生活により、忍耐力の鍛えられた僕だからこそ、彼女を受け止め切れているのかもしれない。
「アイリは、僕達とちょっと違うな、って思ってたんだ」
「そうかな?目が二つ、鼻が一つ、耳が二つに口一つ、首があって、腕が二本で……」
「わかってて言ってるでしょ」
「えへへ。でも、本当にそんな変わらないでしょ?この辺の土着の人でも黒髪だったりするし、肌の色も確かにあたしは薄いけど、雪国の人ってそんなもんだし。……あっ、でも、この豊満なお胸はちょっと違うかもしれませんなー」
「もう、アイリってば」
にこにこと笑いながら肉を焼き終えたアイリは、そのままそれを僕が開いたパンの上へと乗せる。味付けはハーブが主で、やはり彼女が好きな香辛料も塗り付けてある。お菓子も好きだけど、同じぐらい辛いものなんだからちょっと意外だ。ただ、苦いのは苦手なので味覚は大人、という訳でもなくて面白い。
「あたしからすると、フレドの方が珍しい見た目な気がするけどなー」
「へぇ?どういうところが?」
「んーと、すごく奇麗な、交じり気のない金髪でしょ?普通、ちょっと茶色がかってたりするものなのに、まるで絵本の王子様みたいだし、目もほら、ガラス玉みたいに真っ青。……まあ、パーツはよくても、全体的に野暮ったい芋にーちゃんだから、王子様には程遠いんだけどねー」
「い、芋……」
アイリは素直で純粋だ。時に残酷なほどに。
だけど、何か反論するようなことがあるかと言えば、全然そういうこともなく、彼女は事実を述べているのに過ぎない。その口調には僕を必要以上に罵ろうという気持ちが感じられないし。
「……まあ、僕の容姿はなんて言うのかな、一応は貴族の血を引いているからだと思う。下級の下級だったし、貴族政治が廃止される前に没落してたから、本当に形だけの貴族なんだけどね」
「へー」
「興味はないんだね……」
「そ、そうでもないよ。えーと、ファイト!」
「今更になって、お金持ちの生活に憧れたりはしないよ。お金はなくても今の気楽な生活が好きだし、お金や物の豊かさだけが、豊かな生活の条件とも思えないから」
「おー……かっこいい!」
「現実問題、ないよりはある方が良いのも当然のことだけどね。特に今は」
「そうだね。早く結婚、結婚ー」
「は、はは……」
そんな、まるで欲しいアクセサリーをせがむみたいに言われてしまうと、苦笑いをするしかなくなってしまう。でも、こんな風に求められるなんて、きっとこれ以上がないほど幸せなことなのだろうな。昔はこんな風に異性に好かれるなんて、考えもしなかった。多分、自分の生活圏こそが自分の世界で、その中にはロクに他人もいなかった。それが一つ大きな山を乗り越え、生活の場所もそのスタイルも大きく変えたことで、今のような変化が起きたのだろう。
時間の経過と、それに伴った状況の変化というものは、そう捨てたものじゃないのかもしれない。そんな風になんとなくしみじみと思いながら、アイリの用意してくれた昼食に口を付けることにした。
「いただきます」
「いただきまーす。ねね、あーんとかする?」
「パンなんだから、自分で持って食べるよ……。人に持たれたら、限りなく食べづらいだろうし」
「残念だなぁ。せっかく一緒のご飯なのに」
「……そんな目で見ても駄目だよ。それよりもほら、冷める前に食べよう」
尚もアイリは不満げだけど、半分は冗談なのかもしれない。
パンに口を付けてみると、やはり予想通りに香辛料の匂いが鼻をつき、辛さが口中に広がる。ああ、間違いなく彼女好みの味だ。この味の源は、豚肉から脂と共に溶け出したタレだが、パン自体に塗ったソースもやはり舌を焦がそうとする。僕もまたこの手の味は好きだけど、味がかなり濃いので食べる人を選ぶと思う。……まるで彼女みたいだ、と言えば彼女は怒るだろうか。それとも、無邪気に喜んでくれるのだろうか。
ちなみに、僕がこういう味に慣れている原因は、偏に塩味の強い保存食と、古くなって味と食感の落ちたパンを食べる時、それをごまかすために香辛料を使用することがままあったからだ。部隊に属していなければ、彼女の料理には面食らってしまったかもしれない。
「フレドってご飯食べ終わるの早いよね。やっぱりそれも部隊仕込み?」
アイリが中頃まで食べ進めた頃には、既に僕の昼食はほぼ終わりの段まで来ていた。アイリも決して食べるのがゆっくりな人ではないけど、確かに僕は人よりも食事のスピードが速いのだろう。
「うーん、別にそういうことはないかな。大体が空の上での食事だったから、別に急ぐ必要もなかったんだ。移動しながら食べるんだから時間のロスはないし、飛竜は一人乗りだから、誰かに気を遣うこともないんだ」
「じゃあ、単純に食べるのが速いんだね」
「……せっかく作ってくれたんだし、ゆっくり食べた方がアイリは嬉しいかな」
「んー、あたしは別にどっちでもいいよ。早く食べてもらえるのは、美味しいからこそだと思うし」
「そういってもらえると助かるよ。……ごちそうさま。すごく美味しかったよ」
「どういたしまして。あたしの分もちょっと食べる?」
「いや、遠慮しておくよ。しっかりと食べて、しっかりと遊ぼう」
危うく、開いた口にアイリの食べかけを突っ込まれかけた。こんな感じに積極的なのも可愛いけど、油断も隙もないものだから、判断力、瞬発力の良い訓練になる。どちらも飛行には必要なものだし、大事なものを高められるこの関係は、良いもの……なのだろうか。
それから少しすると、アイリも食事を終え、出発するのも少し早い、ということで雑談に興じることとなった。毎朝、毎夕ある程度の時間を使って話してはいるけど、そこまでまとまった時間話し込むということはない。実は貴重な機会であり、二年ずっと一緒でも、中々僕達は話題を全て消化してしまうのに至ってはいなかった。
たとえば、最近よく話していることは、あえて僕も言及を避けていたこと――ほんの少し前まで所属していた、軍の補給部隊時代のことになっている。僕としては、アイリのように戦争から遠いところで生きていた人に、あまり生々しい話はしたくなかったのだけど、彼女の興味はそちらにあった。だから、ショッキングなことは控えめに、前線と銃後の間を飛び回った僕達の、決して英雄譚ではない地味な活躍談をすることにしている。
「フレドは――」
「うん」
その途中、アイリは思いついたように口を開いた。僕が一方的に彼女へと語りかける形で話しているけど、まさかアイリが聞き役一辺倒になるはずもないので、しばしば討論に近い形へと、自然な流れで移行していくことになる。
「仕事の中で、友達をたくさん作ったの?」
「そうだね。偉い上士官の人とも交友を持ってたりしたな。そういう人とは歳も離れていたし、友達というよりは、先生扱いをして師事してたみたいな感じだけど」
「じゃあ、ちょっと辛くもあったね」
「え?……ああ」
戦闘に従事する友人を作るということは、同時にその人との死別も連想させる。そして、事実として次に、たとえばひと月後に物資を輸送して来た時には、別な士官が部隊を統率していて、前任はどうしたのか、と聞くまでもなくその理由はわかった。
「あたしもね、よく手紙を出してくれた人や、受け取っていた人が亡くなるのはすごく辛いの。でも、ちょっと前、つまり戦時中ね。その頃は、戦争に巻き込まれて亡くなったり、きちんと医療を受けられなくて亡くなったりする人が多くて、仕事をするのが憂鬱だった時期もあったんだ。……だから、案外フレドと似たような仕事をしてたのかも、と思って」
「そっか……。当たり前のことだけど、戦争は兵士の間だけで起きていたことではなかったんだね。アイリも、決して安全なことではなかったのに、よく配達をしてたね」
「怖くなかった、って言うと嘘になるけど、世間がなんか暗くなってる時にこそ、人と人との繋がりって大事でしょ?だから、ほとんど使命感で頑張ってたと思う。今思うと、陸路でえっちらおっちら行ってたんだし、普通に巻き込まれてもおかしくないことしてたよね……」
とはいえ、仮に飛竜が採用されていたら、それはそれで竜騎兵や僕達みたいな輸送部隊と思われて、襲撃を受けることもあったと思う。いや、そもそも敵軍にしてみれば、郵便物の中になんらかの重要な文書があるかもしれない、と思えば積極的に郵便屋こそ撃墜したかっただろう。ある意味で、全ての飛竜が軍に集中していたからこそ、アイリは助かったのかもしれないな。
「なんて、ちょっと暗くなっちゃったね。そろそろ行こっか」
「もういい時間だね。今日はちょっと日差しがきついから暑いかもしれないな。アイリ、日傘……みたいなのは持ってないよね」
「ふっふっふ、あたしを誰とお思いか」
「せめて制服の帽子を持って来てたら、マシだったんだけどなぁ。日に焼けちゃうよ?」
「それはそれでいいよ。腕とか足は出してないしね。ほら、しゃらーん」
その場に立ち上がり、ゆっくりと一回転して見せる。今日のアイリは赤を基調とした服装をしていて、中でも鮮やかな赤のチェック柄のロングスカートは、彼女によく似合っている。仕事をしている時の制服姿は、長ズボンに長袖のブレザーということで、嫌でもボーイッシュになり、彼女自身も私服は中性的なものが多いんだけど、こういう服もばっちり着こなすのだからすごい。
本人はあまり衣装代にお金をかけないと言うものの、おしゃれに詳しい人が彼女を見つけたら、自腹を切ってでも様々な衣装を着せてみるんだろうな、と思えるほど彼女はモデルとして相応しいと思う。
「どうどう?お嬢様っぽいかな?」
「う、うーん、多分、黙っていれば。今日はお嬢様をイメージして来たの?」
「適当だけど、そんな感じかな、って思って。黒髪と赤い服って、なんかいいよね。あたし、青も好きだけど、赤の方が可愛いってよく言われるの。どうかな?」
正直、僕にファッションのことを聞くのはお門違いと言うか、彼女も多分、僕が適当なことしか言えないのは承知で、単純に僕の個人的な好みを聞いているんだろう。だから、僕もあえてない頭を捻って考えるようなことはなく、思ったままのことを口にする。
「赤は確かに、すごく女の子っぽいところが強調されて見えるね。青は、そうだな。引き締まって見えて、大人っぽい美人に見えると思う。僕はどっちも好きだよ。後は、白とか、黄色みたいな明るい色の服も」
「そう?だったら、今日は明るめの色の服を見てみよっかな。黒い服とかは、今更いらないよね。制服が正にそうだし」
「デザインが違えば、また印象も違うだろうけどね」
この辺りの郵便屋の制服は、軍服にも似た、限りなく黒に近い深緑色だ。それに帽子と、彼女の場合はオフホワイトの肩かけカバンを背負って配達をしている。他の男性の仕事仲間が黒いカバンが多いのに、彼女だけが明るい色なのは、地味な制服へのせめてもの弾劾なのだろうか。実際、彼女は髪が黒いのもあいまって、制服姿は少し地味に見えてしまう。
「じゃあ、いきましょー」
「忘れ物はないよね」
「あっ、忘れてた。いってきますのチューしないと!」
「そんなのいつもしてません。さっさと行くよ」
「恋人同士のスキンシップは大事なのに……」
「さすがにそれは度が過ぎるから。もう、嘘でも泣くのはやめて。せっかくの顔が台無しだよ」
「嘘じゃないもん、ガチだもん」
「じゃあ尚更泣き止んで。なんでも買ってあげるから」
「お金で動く安い女じゃないもん……」
「はぁ……じゃあ、こうすれば許してくれるの?」
こんな風に突然ごね出すのも、彼女にはよくあることだ。そして、僕はこういう時のとっておきの対処法も既に知っている。
彼女の背中に腕を回し、抱きしめる――のはあんまりにキザったらしいので、体を引き寄せるだけにして、代わりに輝く黒髪の頭の上へ、ぽん、ぽん、と頭に手を軽く乗せる。撫でる訳ではなく、ただ手を乗せるだけだ。恋人同士でなくてもやりそう……ではないかもしれないけど、結婚まで約束している仲なのに、あんまりに軽いスキンシップ。だけど、アイリはこれに喜んでくれていた。
「いつまでも、こんなのに騙されると思わないでよねっ」
「じゃあ、いや?」
「ううん。大好き」
「アイリってば、もう」
少しして機嫌が直ったアイリと共に、街へと繰り出す。予定よりも遅くなっているけど、そんなことは大して気にならなかった。
二人並んで。もっといえば、手を繋いで街を練り歩くというのが、本当にデートというものの定義で良いのだろうか。
当初、無駄に色々と悩んでしまう僕はそんなことを考えながら、彼女と出かける日々を重ねていた。というのも、確かにアイリは大切な人で、彼女との時間は楽しかったけど、毎回同じ街を歩き、大して変わらないお店に入り、何か買ったり買わなかったりする、そんな非生産的なことを続けて良いのか、と疑問を感じていたからだ。
今にして思えば、初めて異性とお付き合いする、ということで最初の一年は妙に肩肘を張っていたというところもあるし、それ以上に戦後の世界で僕は、何かしらを成し遂げなければならない、という根拠の貧弱な使命感に駆られていた。それによって、ずるずると同じようなデートを重ねることに危機感を覚えていたのだろう。
だから僕は、しばしば駆け足になって、アイリと一緒に何か特別なことをしようと焦った。だけど、その度にアイリは、当時の僕を時々腹立たせるほどのマイペースで「あたしは、今のこういう時間が一番好きだよ?」と暴走しそうになる僕を制止した。妙に疑り深く、だけどアイリのことは大切にしようとしていた僕は、きっと彼女が気を遣ってくれているんだ、と決め付けて、またなんとか彼女に喜んでもらおうとして……最初の一年は、ただひたすらに僕がぎこちない関係を作らせてしまっていたのだと思う。
だけど、今ならば少しはわかることが増えている。つまり、第一にアイリが人に気を遣えるほど、器用な人ではないということ。それから第二に、恋愛は二人の歩幅以上の距離を一緒に歩むことは出来ない、ということだ。だからあの頃の僕は、彼女を思っての行動がことごとく裏目に出ていた訳で、今にして思えば滑稽ですらある。
「ふあぁ……なんか、あったかいしおなかいっぱいだしで、眠いね」
たとえば、こういうことを彼女が言ったとしても、これはデートがつまらない、という意味ではなく、本当にただ眠たいだけである。
「そうだね。本当、いい陽気だ……」
だから僕も、同じようにあくびをしてしまえば良い。
春を少し過ぎた六月の頭。もう少し南なら初夏とも言える季節だけど、この辺りは例の冷たい風の影響もあり、まだ春と呼んでも問題はない、暑くも寒くもない過ごしやすい陽気が続いている。今日は雲が少ないので眩しいけど、普通なら行楽日和が続いているところだ。僕に歩きながら眠る技術はないけど、アイリはこの特殊技能を修めていて、今にも眠ってしまいそうに見える。
「うーん……寝ちゃいそうだから、なんか刺激的な話してー」
「そ、そうだなぁ。怪談とかしても良い?」
「いいよー」
「では……。これは、知り合いの海軍兵から聞いた話なんだけど」
「うんうん」
それっぽい導入で始めた怪談だけど、実際この手の話は兵士達から聞くことが多く、中でも印象的なエピソード。つまり、あまりにくだらな過ぎるものか、本当に空恐ろしくなってしまうものについては、割と鮮明に記憶している。今、僕が用意したお話は前者であり、アイリを笑わせて眠気を覚まさせてあげようと思ってのチョイスになる。
「ある兵士が、船の上で釣り上げて厨房に積まれていた魚を盗んで来たんだ。晩酌の肴にするためにね。彼は誰もいない時を見計らって、麻の袋に三匹、なるべく大きくて脂の乗っていそうな魚を詰め、自分達の部屋に戻った」
「その途中、何かあったの?」
「ううん。ひとまず、無事に帰ることは出来た。だから、彼は油断していたんだろうね……。兵士に支給される短剣で魚を捌き、小さな鍋で煮て食べようとしていた時、事件は起きた」
僕が話された時ほど、上手い話し方は出来ない。それでも、見よう見まねで演技をしていると、少なくともアイリは夢中になってくれる程度の話し方が出来ているようだ。
「その兵士は、海軍のくせに山の生まれで、魚を捌く手際が恐ろしく悪かったんだ。そういうものだから、晩酌をするはずだった仲間は皆眠ってしまっていたんだ!」
「ええっ」
「……しかも、悲劇はまだ終わらない。仕方なく一人で飲んでいると、本来は四、五人で飲むはずだったお酒だから、量が多い。だけど制止してくれる人もいないから、ついつい歯止めが利かず、飲み過ぎてしまう。……その結果、その兵士は巡回に来た士官に見つかってしまい、翌日の朝礼でさらし者にされた挙句、その日は絶食させられてしまった。しかもそれがよほど縁起の悪いことだったのか、数日後、その兵士は謎の失踪を遂げてしまうんだ。戦闘はなかったから、船から誤って落ちてしまったんだろうね…………」
「うひゃぁ……お酒って怖いね」
「そうだよ。だからアイリも、馬鹿呑みは絶対にしないようにね」
最後はなぜか教訓っぽくなって、果てしなくつまらないお話に無理やり終止符を打つ。やっぱり、結末がわかってしまっている物語を上手く語るというのには、特別な修練が必要なようだ。アイリのような良い観客じゃなかったら、きちんと最後までは聞いてもらえなかっただろう。
「大丈夫だよ。あたし、お酒ってまるで飲めないし」
「健康的で良いことだよ。僕も今はそんなに飲まないけど、昔は飲む機会がそこそこにはあったかな」
「やっぱり、お付き合いの関係で?」
「僕は軍人じゃないから、上官に付き合わされて、っていうのは少ないかな。……それより、決して良い飲み方じゃないっていう自覚はあるんだけど、ストレスを紛らわすために、ちょくちょく仲間内でね。輸送部隊は、物資――特に糧食や嗜好品を望んでいる下位の兵士からは、それこそ神様みたいな好待遇を受けるけど、逆に上官からはぞんざいな扱いを受けていたからね。兵士をこき使うのはある意味で当然だろうけど、下手をしたらそれ以上に無茶なことをさせられたり、少しでも到着が遅れたら、烈火のごとく怒られたりしたものだよ。だから本当、気の短い人は当たり散らしてたな」
「うわぁ……。フレドは気が長いし、そんなことなかったよね」
「僕は、気が長いというより、その発散が苦手で溜め込んじゃうタイプだからね。だからこそ、お酒を飲んで、愚痴を言い合ったりするのが楽しかったのも事実だよ。……本当、懐かしいな。皆、元気にやってるかな」
たまに当時のことに思いを馳せると、まるで僕が戦争時代を楽しんでいたような気がして来てしまっていけない。
自ら望んでやっていたこととはいえ、時間が経てば経つほどに惰性で続けるようになり、心身共に疲労が溜まっていたし、やはり戦争を肯定するつもりには欠片もなれなかった。じゃあ、どうして僕はあの頃を懐かしむのか。戦争をしていることとは別に、様々な地域から集まって来た人との交流が単純に楽しかったのだろう。
たとえば、僕は町に住んでいた。それだけで村とは生活様式が大きく違い、内陸に住んでいたので魚はそんなに食べなかった。対して漁村の生まれの人は、漁に行った時の話や、干物を作る時の話をしてくれて、自分が知らないことを知るというのは本当に面白かった。そういうこともあって、戦争が終わったら、世界中を飛竜に乗って旅してみたいな、と思った時期もあったな。現実問題、出来るはずがないとすぐにわかったのだけど。
「あたし、フレドが戦争の時のこと話してるのって、好きだな」
「そうなの?本当、取り留めもないことや、重苦しい話ばっかりしてる気がするんだけど」
「暗い話は確かに悲しくなっちゃうけど、楽しかったことを話してるフレドは、本当に嬉しそうで大好きだよ。悲しいことばっかり起きる中で働いていた訳じゃないんだな、って思うと、すごく安心出来るし」
「……そうだね。少なくとも僕は、絶望を感じるようなことはまずなかった。結果的には勝ち戦だった訳だし、当然なのかもしれないけど」
一方、完全無欠の勝利なんてものはありえない。むしろ、戦の中にも楽しげな日常があったことにより、人の命が失われる時の悲壮感は際立たせられていたように思う。僕も、幾度となく涙を流した。物資を届けに来たら、前までは一番に駆け寄って来ていた元気な兵士が、唐突にいなくなっているのだから。
「でも、戦ってくれた人には本当に感謝しないとね。――ふぁ、真剣に話してたら、眠気もなくなって来ちゃった。よーし、思いっきり見て回ろう!」
「ははっ、何を見るの?最近は結構、色々なお店との付き合いがあるから、探し物なら力になれると思うよ」
「んーと、色々あるけど、一番欲しいのは帽子かな。これから暑くなるし、長く使えるのがいいな」
「女の子の帽子か……じゃあ、ホリゾン(以前、三人家族のお客さんに紹介した僕の好きな衣服店の名前だ)よりも、クロッカスの方が良いかもしれないな」
「えー、そのお店、高くなかったっけ。確かに質とセンスは良いと思うんだけど」
「帽子ならそこまでめちゃくちゃな値段なのはないよ。……多分」
こう、自身なさげに言った場合、ほぼ確実に逆の結果が出ることは、経験則的に知っている。それでも、アイリのための出費ならば我慢出来る。その分、彼女の目下一番の願いを叶えてあげられる日は遠ざかるけど……。どうせ、長く続けている恋愛なんだ。アイリもなんだかんだ言って、お互いの都合がよくなるまで待っていてくれるだろう。
「でも、シンプルな麦わら帽子か何かでも買って、自分でリボンとか付けて可愛くするのもいいよね。あたし、裁縫はあんま得意じゃないけど……」
「裁縫は僕の方がまだ得意だね。服も自分で修理してたし、サドルを縫うのも自分だったし」
「あんな分厚い革のサドルに、ぶっとい針で糸を縫い付けてたんでしょ?すごいよねー」
「ほとんど力任せの、裁縫とは呼べない大雑把な作業だったけどね。そんなのでも、数をこなしていれば多少はマシになったかな。今でもズボンの裾上げとかは自分でするし」
「結婚する前にきちんと習わないと、なんか恥ずかしいなぁ。……もちろん、師匠はフレドだけど」
「そ、それは恥ずかしいとか、そういうのないんじゃないかな」
はっ、と大変な真理に気付いたように目を丸くする。僕が彼女に一番の魅力を感じるのは、こういう時なのかもしれないな。傍目には抜けていて、有り体に言えば知性を感じられない子のように見えるかもしれないけど、人間の魅力とは、完全な部分にばかりある訳ではないと思う。
……それに、アイリは確かに天然だけど、そこまで頭が悪い訳ではないはずだ。ただ、おっちょこちょいでドジで、妙に鈍感なところもあって――まずい、考えれば考えるほど、アイリのポンコツさがわかってしまう。
「んー、お母さんは結構、裁縫上手かったんだよね。きちんと花嫁修行をする前に、もう街に出て来ちゃったからなぁ」
「僕は家事を分担してやるのも良いと思うよ。お嫁さんがなんでもやるっていうのがまず、古い考えのように――って、アイリ、前!」
「えっ?……ふぁっ!ってて、もう、ちゃんと前見てないとダメだよ?」
突然、正面から弾丸か砲弾のように迫るものがあった。服を着た人型のそれは、まだ年齢が二桁にも満たない少年だろうか。彼は避けきれなかったアイリにぶつかり、二人してその場に尻餅をつくこととなってしまった。少年はもちろん、お腹の高さの背丈の少年の体当たりを受けた華奢なアイリが心配で、大人しては問題だけど彼女の方に駆け寄る。
「アイリ、大丈夫?」
「う、うん。……それより君、おねーさんだからあんまり怒らないけど、前はちゃんと見ないとだよ?もしも大きな荷物とか、割れ物を運んでたら大変なことになってたんだから」
いち早く自力で立ち上がったアイリは、説教をしながらも少年に手を差し伸べ、助け起こそうとする。だけど少年はその手と言葉を無視して、さっさと彼女の横をすり抜けて行ってしまった。
「ありゃりゃ、難しい年頃だねー。フレドにもあんな頃があったのかな」
「もう、アイリってば。けど、なんだか尋常じゃない感じだったね。いくら可愛げのない子でも、まるでアイリが見えていないような振る舞いだったし、誰かから逃げていたりしたのかな」
そう思って彼が走って来た方向を見ても、他に走って来る人影はない。子どもの泥棒かも、と思ったけどそうでもないのか。戦争の被害を大きく受けた街ならともかく、この街でそんな荒んだ事件は起きないな。では、ますます不思議になって来る。
「それより、本当に大丈夫?あの子、本気で走ってたみたいだし」
「いくらあたしでも、あれぐらいの男の子の体当たりじゃ怪我しないよー。ふふー、それより、役得だったね。あたしにダイブ出来るなんてさー。フレド以外には許さないことだもん」
「僕もしないよ……。しかし、気になるな。変なことが起きてなければ良いけど」
「街中で鬼ごっこ、なんてことはないよねぇ。ま、いいじゃん。ケチが付いちゃったけど、楽しくやりましょー」
アイリはともかく、しばらく切り替えの出来なかった僕だけど、天災のようなものだと割り切って、その後は彼女との一日を楽しんだ。夕方には仕事があるのだから、彼女との時間はそう長くはない。冷たいようだけど、見ず知らずの他人の子にそれを奪われるのは僕も嫌だった。
「フレドー、こんばんはー」
その夜。仕事を終えたアイリは着替えて、なんと再び僕の家の扉を叩いた。
外は既に月が昇り、夜間飛行に慣れていないアイリが飛ぶには、少々の危険が伴う時間帯となっている。ということはつまり、そういうことだ。
「アイリ、今夜は泊まるつもり?」
「もっちろん。大丈夫だよ、明日の朝には勝手に仕事行くから。きちんと鍵は締めるし」
「うん、まあ、それは当然だけど。でも良いの?住み慣れた家で寝た方が疲れも取れるだろうに」
「大丈夫、大丈夫ー」
アイリはいつもこんな感じだから、逆に不安になってしまう。人知れず疲れや悩みを溜めて、それが限界になった時、大きく体調を崩してしまわないか。明るく賑やかな彼女だが、僕にはどうも、きしむ吊り橋の上に佇んでいるように見えて仕方なかった。
「じゃあ、信頼するよ」
「しちゃって、しちゃってー。フレド、晩ご飯まだだよね?」
「うん。外食するつもりなんだけど」
「いいねー。いこいこ。いきなり来ちゃったんだし、料金は折半でいいから」
「いや、おごるよ。それぐらいの見栄は張らせてもらわないと」
「あはは、それ言っちゃうんだ」
結局、昼間はほとんど彼女のため、何か買ってあげることは出来なかった。帽子も、もうしばらく新商品が出ないか待ってみることにしたし、アクセサリー類もそうお眼鏡にかなうものはなかったからだ。ただ、本当に何も買わずに一日を終えてしまうのは寂しいから、と可愛らしい白色の短いリボンを買ってあげて、これは好評だった。
黒い髪に百合の花のようなワンポイントは本当によく映えて、僕も気に入ったけど、アイリは仕事中には制帽を被るし、私服の時でもこれからは帽子を被るつもりでいるので、中々このリボンがおしゃれに活かされそうにはないのは問題だろうか。まあ、記念品として取っておいてもらえるだけで十分だ。なんだかキザったらしくて恥ずかしいけど、二人のデートの思い出になれば良い。
「じゃあ、食べに行こうか。店は僕が選んでも良い?」
「任せるよー。フレドが好きな物なら、あたしも好きだからねー」
「また適当なことを……もしも僕がチーズをふんだんに使った料理を食べようと思ってた、それでも良いの?」
「そ、それは……。フ、フレドはそんな意地悪、しないしっ」
「はは、それもそうだね」
農家に生まれながら、アイリは激烈に乳製品が苦手だ。実は毎朝飲んでいる牛乳もそんなに好きではなく、中々にその食生活には苦労している様子だ。一方で僕は好きなものが色々あれど、どうしても駄目、というものはないから、彼女の好みに合わせることが出来る。
家を出ると、ほんの少し外は肌寒く感じられ、いつものことだけど長袖を着ていて正解だと思った。冷涼な地域と言っても、これから暑さは増していく。ただし今ぐらいはまだまだ朝晩は冷え込み、薄着だと風邪をひいてしまいそうだ。それはアイリも承知なので、長袖の上着を羽織っていた。
「マルスはもう中に入れてるんだね」
「暗かったから、ちょっと大変だったけどね。一応、確認しておいてもらえると安心かな」
「わかった」
家に併設されている竜の小屋は、全部で四つ。その内の三つに、翼獣のレッグを含む飛竜達が入れられているのは当然だけど、残りの一つはアイリの飛竜のために増設したものだ。一番新しいけど、安上がりな木材で作ったので、一番頼りなく見える。
「うん、問題ないね。マルスの調子も良さそうだ。……お前は運動不足というのがないから、いいね。隣の飛竜達は、大空を思い切り飛び回ることがないから、退屈をしているんだ」
普通、郵便屋の騎竜には快速の赤飛竜が採用されている。それはアイリの場合も例外ではなく、マルスという名前のオスの飛竜が彼女の相棒だ。マルス、つまり火の神。なんとも勇ましくて立派な名前だけど、戦争に使われた飛竜の多くには、縁起を担ぐためにこの手の名前が付けられたものだ。その多くは終戦と共に名前を変えたり、僕の飛竜のように名前を捨てたりすることとなったが、彼の場合はアイリが元の名前の響きと意味を気に入ったため、今でも古い名前で呼ばれている。そして、不思議とマルス自身もそのことを喜び、アイリには強い信頼と愛情を抱いているようだ。……まるで、僕の恋敵みたいだ。なんて思うのは、僕もまた飛竜達と密接した生活を送っているからだろうか。
「最近、元気が良過ぎるってぐらい、元気なんだよね。振り落とされないか心配だよ」
「アイリと飛べて嬉しいんだろうね。でも、小さな頃から育てていた訳でもないのに、飛竜がここまで人に懐くなんて、本当にまれなことだよ。大事にしていかないと」
「ねー。ま、あたしにしてみたらマルスは、やんちゃな弟って感じかな」
「で、その弟を文字通り尻に敷くお姉さん、と」
「舐められる訳にはいかないからねー。上下関係は体に教え込むのです」
飛竜とはそもそも、以前はより巨大な竜だったものを、人が扱いやすいように小型に改良された種だ。そのため、元から人に乗られることにそこまでの抵抗はないが、やはりアイリとマルスの関係は特別に思える。もしかすると、アイリは牛や馬より、飛竜を飼うことに優れた才能を持っているのかもしれない。農家は竜なんて専門分野外のはずなのに、ちょっと面白い話だ。
「マルスのご飯はもう食べさせてる?」
「もちろん。この子にひもじい思いをさせて、あたしだけがご飯食べに行く訳にもいかないしね」
「それもそうだ。じゃ、そろそろ行こうか。お店があんまり混んでないと良いんだけど」
観光客の目には付きづらく、地元の人ばかりが利用しているお店なんだけど、穴場というほど隠れた店ではなく、割とメジャーな店だ。確かアイリは一度も利用していないけど、多少なりともこの街に日常的な出入りのある人は知っているので、今ぐらいの時間から結構な混雑が予想される。
「ちなみに、何のお店?」
「うーん、大雑把に言えば、肉料理かな。牛肉を農家から直接買い付けているから、安くて美味しい肉が食べられるんだ。ステーキはもちろん、シチューとかも絶品で……」
「じゅるっ……。こ、こほん。それは中々に良さそうなお店ですな」
「アイリ、お肉好きだもんね」
細身なのに、彼女は本当に脂っこい食事が大好きだ。お腹周りや腕が太くなったと聞かないということは、それらの脂肪の全ては胸に集中して付いているのだろうか。……正直、未だに直視するには刺激が強いと感じるその部分が更に育つというのは、もうやめてくれ、と思わざるを得ない。服の上からでもこんなに蠱惑的なんだから、これ以上強化されてしまってはどうしようもないし。
「あっ、今なんかいやらしいこと考えてたでしょ。もー、いくらあたしが可愛いからって、えっちな妄想はほどほどにしないとダメだよ?」
「し、してないよっ」
「どもるのが怪しいんだよねー」
「それは生来の癖ですっ。ほらアイリ、早く行かないと」
野生の勘なのか、女の勘なのか、本当に鋭い娘だ。そんなことをするつもりもないけど、これは確実に浮気なんて出来ないな。一切の痕跡を残さなくても、なんとなく勘付かれてしまい追求された挙句、間違いなく僕はボロを出してしまうだろう。元から嘘は得意じゃないし、彼女相手につき通せる気もしない。
だけど、自分が可愛くて魅力的だと思っているのなら、ある程度の妄想や、デレデレすることは容認してもらいたくもある。まあ、こういう辺りも、彼女が純粋で無垢であるがゆえのことで、悪いことだとは全く思わないのだけど。
――さて、街に繰り出した僕達は街灯の下、目当ての店に向かった。太陽の光がなくなり、行き交う人の大半が現地人だけになった街は、昼間とはまた違った活気に満ち溢れている。この雰囲気が僕は中々に好きで、そのために夕食を外で食べるようにしている節もある。
加えて、今日はアイリと一緒という事情もあり、微妙な感じに終わってしまった昼間のデートのやり直しだ、とばかりに二人は身を寄せ合った。とはいえ、手を繋いだり、肩を組み合ったりといった、わかりやすい愛情表現をしないのも僕達の関係であって、事情を知らない人なら、ただ友人同士が連れ立って歩いているようにも見えるだろう。
「着いたよ。このお店……うん、なんとか二人ぐらいなら座れそうだね。カウンターになっちゃいそうだけど良い?」
「もっちろん。むしろ、二人でテーブルに座っちゃったら他のお客さんに悪いよ」
「だね。注文もしやすいし、好都合だ」
二人の距離も近くなるから良い、とはさすがに言わないことにした。もしもこれがお金持ちの子息同士ならば、そういう甘い台詞も良いアクセントになったかもしれないけど、彼女はただの郵便屋さん。しかも僕はただの竜観光の“兄ちゃん”なのだから、どんなに素敵な言葉も泥臭くなってしまう。
「おう、兄ちゃん。今日は女の子連れたぁ、景気の良いなぁ、おい」
「こんばんは。もう、前に話したじゃないですか。いつか彼女を連れて来たいって」
ここの店主はいつもお酒を飲んでいるのではないか、と思うテンションが特徴で、僕はどうやら話しかけられやすいということもあいまって、しょっちゅういじられている。しかも今日はアイリを連れて来たというのだから、中々に繁盛していて忙しいだろうに、きちんと予想通りの反応をしてくれた。
「ども、こんばんはー。フレドの彼女やらせてもらっているアイリです」
「ほう、愛想良くて可愛い子だな……って、郵便屋の子じゃあねぇか。ウチはカミさんが大体手紙もらってるけど、可愛い子だから覚えてたぜ」
「そんな、もー。可愛いなんて正直過ぎですよ、マスター」
「へへっ、可愛くてノリも良いと来たら、街一番の色男として、よくしてやらねぇ訳にはいかないな。サービスするから、またちょくちょく来てくれよ」
ちなみに店主は禿頭で、精悍な顔つきは交流のあった陸軍の叩き上げの士官を彷彿とさせるけど、二枚目かどうかと問われればやや疑問があり、おまけにもう五十を越えるのにこの好色なので、三枚目としか評価出来ない。面白くて話しやすい人ではあるのだけど。
「グレオさん、本当に良いんですか?」
「おう、男に二言はねぇ。しっかし、お前は確かに女に人気出そうな優男面だが、こんな子を引っかけるとはな。大した手腕だよ」
「引っかけるなんて、人聞きの悪い。僕らは毎日顔を合わせている中で、自然と惹かれ合ったんですよ」
「ふふー、純愛だよねー。そもそも、フレドにナンパなんて無理だよ」
「それもそうだな。そんな甲斐性ある訳ねぇ」
「……ものすごく失礼なことを言われていると思うんですが」
事実として僕は、そういう手段で女性とお近づきになろうとは思わないし、確実に出来ないんだろうけども。
「まぁ、そう怒んなって。当然、彼女だけじゃなく、お前の分も値引きしてやるぜ」
「ありがとうございます。……アイリは何が良い?」
「んー、フレドと同じので良いよ。あっ、でもこのチーズハンバーグはダメだからね」
「じゃあ、いつものを二つ、ってことになるね。マスター、お願いします」
「はいよ。弱肉強食定食を二つだな」
「じゃくに……?な、何、その素敵過ぎるメニューの名前は」
「簡単に言うと、割と豪華な野菜付け合せの付いたステーキセットだよ。牛は草を食べるでしょ?だから、捕食者と、被捕食者が皿の上に揃うことになる」
「それで、あたし達、人間がどっちも食べるって訳だね」
「そう、だから弱肉強食」
正直、語呂が良いのか悪いのか、果てしなく微妙な名前ではあるものの、僕だけではなく多くのお客さんが食べていることは、軽く店内を見渡すだけでもわかる。
普通、ステーキの付け合せと言えば、ニンジンか、ジャガイモか。よくて二種類の温野菜があるぐらいだろうけど、このメニューは葉野菜もいくつかあり、更にきちんと付け合せにはドレッシングがかかっていて、しかもこれが牛骨でだしを取っているという、かなり上等なものだ。当然、味は一級品に仕上がっていて、しかもこれでこの店のメニューの中では中間程度の値段に収まっていて、他と比べてもかなりお得な価格設定になっている。
さすがに、牧場から直送されているとはいえ、この値段は確実に利益を度外視しているもので、それでも店が長く存続しているのは、店主の貯蓄がすさまじいのか、ビール作りの副業が上手く行っているのか。まあ、後者が有力だろう。僕も印程度に口を付けたけど、地ビールの味は中々のものだった。機会があれば、きちんと飲みたいと思う。
「やっぱり、この時間はお酒飲んでる人が多いね」
「仕事終わりだからね。しかも、このお店には自家製のビールがあるから」
「ビールかぁ……。あたし、ビールは全然ダメだな。苦くてよくわかんない」
「飲み慣れていないとそうだよね。アイリは元からお酒が向いてないみたいだし、仕事が仕事だから、お酒を飲んで発散、って訳にはいかないか」
「あたしは、フレドとこうして会っているだけで、すごく嬉しくて幸せな気持ちになれるからいいよー。フレドはどう?」
「もちろん、僕もだよ。お酒を飲むのにも、結構なお金がかかるしね」
そういうことに無駄遣いするぐらいなら、アイリのためにも結婚資金を貯めるか、彼女とのデートに使うべきだろう。アイリの笑顔が見れれば、それだけで疲れも吹き飛ぶというものだ。そもそも、今の生活は疲れにくかったりするんだけど。特に、輸送部隊時代と比較すれば。
「かーっ、見せ付けてくれるねぇ。結構長いのか?」
「はい、もう二年になります」
「二年!?それでまだ結婚していないんだろ。やっぱ、金の問題か?」
「第一にはそうですね……。それから、住居も悩みどころですし」
「家もつまりは金だろう。まあ、家族を増やすってことは、金がいるってことだからな。俺んトコはセガレがいないから、ずいぶんと気楽なもんだが」
そういえば、この店主には奥さんがいるけど、子どもはいないと言っていた。なんらかの事情で子どもが作れないか、単純に運悪く恵まれなかったのか、詳しくは知らないけどそれはそれで楽しく暮らせているようだ。跡継ぎがいないのは店の相続の問題や、単純な寂しさの問題もあるだろうけど、経済力がないのにたくさんの子どもを作り、果てには養子に出す破目になるような家庭よりずっと良いと思う。この辺りはまだ都会ということもあり、そういった農村部に多い事態は起きていないみたいだけども。
「お金もそうですけど、僕らの場合、どちらの家がある街に住むか、という問題もあるんですよ。アイリの家は郵便局の支部がある街ですから、ここからずっと南に行ったところですし、かと言って僕の仕事もこういう観光地でしか成立しないので、どっちに住居を移したものか」
「はぁ、郵便局から遠い街じゃ、郵便の仕事はしづらいだろうしな。お互い、変わった仕事だと大変だな」
「フレドは、自分の仕事をやめてもいい、とか言ってくれるんですけどね。けど、そうすると飛竜をどうするかも難しい問題ですし」
「あんなデカブツ、維持するだけで結構な金がいるもんな。しかもそれを仕事に使えないとなると、五人家族を養ってるみたいなもんか。そいつは確かに悩みどころだ」
「せっかく預かった彼等を、また手放すのも可哀想ですしね。だから、とりあえず結婚しても別居かな、ということになっているんです。寂しいですけど、毎日二回はアイリが絶対に来てくれますし」
「仕事で、だけどねぇ。でも、仕方がないのかな」
遠く離れた街の間での恋愛に、今まで特に不自由を感じたことはない。離れていても、二人の心まで離れてしまったような気はしていなかったし、空を行けば往復もそう苦はない距離だ。それなのに、結ばれるとなると二人の家の距離は確かな障害で、両親と離れて暮らしているアイリにしてみれば、新しく出来た僕という家族とも別居することになるのは、あまりにも辛いことに思えた。
「難しい話だな。俺にゃどうすれば良いかわかんねぇよ」
「ごめんなさい、変な話をしてしまって」
「いや、色んな人間同士の話を聞けるのが、食い物屋ってもんだからな。面白いから良いんだ。ただ、アレだぜ?もしも引越しの話がまとまったりしたら、俺で良けりゃ金の工面はある程度してやれるからよ。忘れんなよ」
「……そんな。悪いです」
「遠慮すんなって。若者が夢を追うのを助けるのが、俺等世代の楽しみなんだからよ。ちゃーんと利子はトイチにしてやるから、ジジイを助けると思って、安心して借りてくれよ」
「頼まれても借りれませんよ、それは。けど、ありがとうございます」
僕とこの店主の関係は、ほんの数回店を訪れた客と、その店主に過ぎない。それなのに、お金の相談にも乗ってくれると言うだなんて。半分は冗談なのかもしれないけど、もしもその時が来たら、本当に力を貸してくれそうな気もする。
……今更だけど、人の温かさを感じられたように思った。
「マスター、頼りにしてるよー」
「おう、どんどん頼りにしてくれよ、アイリちゃん」
でも、もしもが一人でこの話をしていたら、彼は同じように力になってくれると言ってくれただろうか。露骨に鼻の下を伸ばす店長を見て、心配になってしまった。
「フレド、ちょっと寄り道して帰らない?」
食事が終わった後、アイリはそんなことを言うと僕の手を引き、街外れにまで出た。周囲には件の染料になる花、サルビアが咲き誇っている。月明かりを浴びたそれ等は、どこか妖しげに輝いていた。
「どうしたの?今夜は特に冷えるみたいだし、あんまり出歩くのは……」
「ダメだけど、ダメなことほど、してみたくならない?」
アイリは突然、顔をぐっと近付けて来た。お互いの息がかかる距離で、彼女の大きな茶の瞳が僕を覗き込んで来る。僕の青い瞳もまた、彼女の姿を映しているのだろうか。
「あたしね、お喋りだから説得力ないかもだけど、こういう静かなところも好きなの」
「うん、そうだね……僕もわかる。だけど、その、何をするつもりなの?」
「別に何もしないよ。ただ、一緒にここに来て、星を見たかった。……なんて言うのは、あたしの柄じゃないかな」
街灯のないこの辺りには、月光の他に僕らを照らすものはない。そんな薄明かりの中で見るアイリはいつもより大人びているようで、月の女神がいたとすれば、彼女のような容姿をしているのに違いない、と思わせるほど魅力的だった。
しばらく見つめ合った後、アイリは空を見上げる。僕もそれに倣って、しばらく口も開かず、春の星空を見ていた。そして、なんとはなしに思い出す。かつて夜間飛行をした時、僕は自然と星の瞬きに目を奪われ、また眠気もあって、起きながらにして幻想に包まれた時のことを。
もしかすると、今この瞬間も、夢幻なのかもしれないな。と詩的に思って、だけど確かなアイリの体温を感じて、今が現実だと再確認した。
ゆったりと流れる夜の時間は、言葉に出来ないほどロマンチックで、昼間の小さな事件のことも、目先にあるお金や住居の問題も忘れさせ、幸せな思い出に浸らせる。そうした時、僕はどれほど幸福な生活を送っているのか。ネガティブなことを全て取り去った世界は、あまりにも満たされていた。
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今となっては、序章キャプション以上に書くことはありません
あっ、でもあんまりにここが空気になるのも、小説投稿をしている以上はアレなので、一つ
アイリはかなり可愛く書けたと思います。唯一の癒やし