なぜこんな状況になっているのか、真姫は冷静さを取り戻しつつあった。
目の前には目をつむった花陽がいる。向かい合って床に座ったまま、抱き合うように、お互いの肩に手を置いている。
顔の距離は多分十センチ程度だろう。こんな近くにいて、彼女のを顔をまじまじと見ることは珍しくもない。
ただ今日は、ふたりの間に黒光りする物体が挟まっていた。正確に言えば、口と口の間にある障害物だ。
真姫はぼんやりと思う。花陽はこの状況を想像しなかったのだろうか、と。少しでも思い浮かべることができたのなら、こんな間抜けな状況で、羞恥心に顔を熱くすることもなかったはずなのだ。
いや、悪いのは花陽でも、真姫でもなく、二月が悪いのだろう。節分であり、学期末であり、年末よりも忙しい気がするこの時期が悪かったのだ。
春から始まった西木野真姫と小泉花陽の同棲は、もうすぐ一年を迎えようとしていた。医大と教育大、進む道が違うからこそ、共に暮らすことを選んだ。試行錯誤の連続だが、なんとかふたりはここまでやってきている。
そして学生らしく、勉学に追われることもある。
元をたどれば、その勉学に行き着く。時節柄、後期試験が間近に迫っていることが要因だと言えた。それに加えて、考査の代わりに出されたレポートが拍車をかける。
端的に言えば、ふたりとも時間が無かった。それは夕食にかかる時間にも影響する。
「ごめん真姫ちゃん。今日は出来合いのでいいかな?」
疲れた顔で言う花陽に、嫌だと言えるわけもない。真姫は頷いて、
「何でもいいわよ。何なら私が買ってくるけど」
と提案もした。
「ううん。真姫ちゃんはレポート溜まってるんでしょ? 私がささっと買ってくるよ」
レポートがあるのは花陽も同じだったが、数の上では確かに真姫の方が多い。とはいえ感想文程度のものまで混じっているから、作業量としてはそこまで気遣ってもらうほどでも無い。
「それじゃ、ちょっと行ってくるね」
しかし気分転換を兼ねているのかもしれないと、真姫は花陽を見送った。
ふたりの家は、いつもよりかなり散らかっている。居間にある小さなテーブルはふたつに増え、辺りには教科書や専門書が乱雑に積まれている。真姫の方は来週からだったが、花陽の大学は今週が試験期間だった。わずかでもずれていて助かったのかもしれないとふたりは思う。
それにしても、と真姫は天井を見上げた。首の付け根から背骨にかけて、みしみしと音がする。思っていたよりも体が固まっていたようだ。
「──なんか余裕無いわね、あの子」
そのつぶやきは、自分にも少し跳ね返る。前期試験の時、つまり夏前はこれほどじゃなかったような気がした。初めての大学での試験にもかかわらず、なんだかいつもと同じような日々が過ぎていた記憶が思い返される。喉元過ぎれば、というやつかもしれないが、今回やけに慌ただしく試験に臨んでいることは確かだ。
この先課目が専門的になれば、これ以上の修羅場がやってくるのだろうかと悲観的にもなるが、今からそんな未来のことを考えるのは、逃避すぎて鬼が笑うどころの騒ぎではない。
「あっ」
真姫はふとカレンダーに目をやり、気付く。いや、思い出した。今日は節分だった。
いつの間にか普及している悪しき風習も思い出す。今スーパーに行けば、それこそ山積みにされていることだろう。いっそ売り切れていればいいのだが、そこまでこぞって買われるものか見当も付かない。
「でも絶対買ってくるわよね、花陽なら」
そして多分、ふたりそろって間抜けに同じ方を向いて、黙々と食べることになるのだ。真姫はそれが苦手だった。
恵方巻きだかなんだか知らないけど、と彼女は苦々しく思う。太巻きをまるまる一本、手ずから食べるという時点で眉をひそめるのに、無言で食べ続けるというのが耐えられない。食事の楽しみを完全に放棄した、ただの摂取だとしか思えなかった。それならゼリー飲料でも飲めばいい。あちらの方が手早く終わる分優秀だ。
そうは言っても、花陽はそうやって静かに食べるだろうし、真姫だけが話しかけても邪魔になるだけだ。壁に向かってしゃべった方がまだいい。
だが真姫がどれだけ恵方巻きを嫌っても、目の前に出されたら従うほか無い。どれほどの確率かは分からないが、花陽が何か別のものを買ってくると願うばかりだった。
「ただいまー」
肩にかけた帆布のバッグは、思ったよりもふくらんでいる。
「おかえり」
これなら違うものを買ってきているのでは、とわずかに期待した。
「えへへ。今日は節分だもんね」
しかしうれしそうにはにかんだ花陽が出したものは、まごうことなき恵方巻きだった。パックに一本ずしりと入っている。
「あぁ……」
真姫は立ち上がりかけたが、そのまま力なく倒れ込んだ。キッチンへと消えた花陽はそれを見ていない。
「他にも買ってきたの?」
「うん。牛乳とヨーグルト、安かったから。あとお豆さん。あとで豆まきしようね」
「はいはい、いくらでも撒くわ」
仰向けになってお腹に手を当て、真姫は覚悟を決めた。お湯を沸かしている音が聞こえる。お茶を淹れるのだろう。そうしたら戦いが始まる。別に黙って食べるだけだ、間抜けなのはふたりとも一緒なのだし、一度くらいならいい経験にもなるだろう。来年からは先にやめてくれと言えばいい。鬼に笑われるくらいどうということはない。
真姫は多大な覚悟を持ってそのときを待っていた。しかし花陽がお盆に載せてきたのは、湯飲みをふたつに恵方巻きをひとつだった。
「あれ、足りない」
「あっ。えっと、その、ね?」
お茶と太巻きをテーブルに載せ、お盆を胸の前に抱えてモジモジと言いよどむ。その時点で、真姫は気付くべきだったのかもしれない。ただこのときの真姫は、(半分に切って食べるのかな、量多そうだし)と思っていた。そしてそれは間違っていなかった。
「あ、恵方は東北東なんだって。方位磁石もちゃんと用意したから」
花陽ははぐらかすように方位を調べ、「あっちだね」と部屋の隅を指さした。
「真姫ちゃんあっち向いて」
「はい、はい」
ため息をついて、それに従う。
問題はそこからだった。
花陽が横ではなく、前に座った。しかも真姫の方を向いている。
「……何してるの?」
「だって、ほら。私の恵方は、真姫ちゃんだから」
「は?」
バカじゃないの、と言いかけた口は、花陽の指に遮られた。
「食べ始めたら、しゃべっちゃダメなんだからね」
花陽は恵方巻きの片端を咥え、真姫を見る。その姿は、お世辞にも可愛くはなかった。多分、彼女自身もそれを自覚している。潤んだ瞳は、羞恥の現れに他ならない。
恥ずかしいならやらなければいいのに、と真姫は思う。同時に、それでもやりたくなる気持ちも理解している。頭に思い浮かべる分には、この馬鹿な恋人たちらしい状況も美しく見える。もっとドラマチックで、神秘的なやりとりが想像できてしまう。
しかし現実はそうでもなかった。口の端から少しよだれがこぼれかかっているし、花陽の限界は近そうだった。真姫はこれ以上、恋人を辱めることもないと、渋々ながらも彼女の口から伸びた恵方巻きを咥えた。
そして気付く。これは咥えたまま咀嚼できない代物だった。ポッキーゲームを想像していたが、あれは細いのとお菓子だからできることで、太くてお米と海苔と具があっては、とてもじゃないが無理だった。結局真姫がそのまま恵方巻きを持ちつつ、ふたりは向き合って両端から少しずつかじっていく。この無言の見つめ合いは、にらめっこに似ていると思えた。笑ってはいけないし、しゃべってもいけない。ロマンチックのかけらも無かった。
お互いに少しずつ端から食べ進めていけば、どんどんと顔が近づいてくる。このまま口づけをするのか、それとも途中で止めて、だいたい半分ずつ食べるのか、今となってはふたりとも分からないでいた。最初に思い描いた絵は、もうふたりとも忘れ去っているだろう。
こんなことを提案した花陽も、それを渋々ながらも受け入れた真姫も、相手が決めてくれたらいいのに、と心の中で思っている。そうしていくうちに、ふたりの間にかかる黒い橋は短くなっていった。どちらともなく相手の肩に手を乗せ、体を近づけ、やがて抱き合うように密着する。それでもまだ、ふたりの唇は数センチ離れていた。
先に目を閉じたのは花陽だった。真姫は出遅れたと思い、しかし後は追えなかった。この先の選択は、真姫にゆだねられてしまったのだ。最後の最後まで、迷う権利は彼女にある。
真姫は結局、一センチほどのそれを花陽の口に押し込んで、終わらせた。その瞬間目を見開いた花陽は、少し残念そうに目を伏せる。
それでも残りを飲み込むまで、ふたりは無言のままだった。
最後の一センチ分、先に食べ終わっていた真姫は、花陽が食べ終わるまで待って、口を開く。
「言わなくても分かるとは思うけど、来年は無しだから」
「……はい」
お茶を手に取り、飲む。ぬるくなっていて冷ます必要もない。
「でも、なんで、キスしてくれなかったの?」
「どう考えても、そんな雰囲気じゃないでしょ。かっこわるいというか間抜けにもほどがあるというか、なんで口にご飯詰まったままキスしなきゃいけないのよ」
少し考えれば分かることでしょ、と真姫もお茶に手を伸ばす。
「だって、あこがれるでしょ? こういうの」
「太巻きじゃなければ、ね」
「う、うん……」
さすがにあの姿を見せ合ったあとでは、花陽も言葉がない。
「ま、いいわよ。忘れましょ」
「じゃ、来年は細巻きで……」
「嫌よ。それよりさっさと勉強」
非難の顔を見せる花陽だったが、確かに言われるとおりなので、渋々と食器を片付ける。
「あ、コーヒーお願いしていい?」
「うん」
「じゃあ、ちょっとコンビニ行ってくるわ」
「えっ、分かった」
恵方巻き半分では足りなかったのだろうかと思いながら、ふたり分のコーヒーを淹れる準備をする。冷める前に帰ってきてくれたらいいのだが、最寄りのコンビニまで往復十分はかかる。弱火でわかしておけばちょうどいいくらいだろうかと、やかんをコンロにかけて居間へと戻った。
テーブルの上を勉強モードへと変えて、温めたマグカップにコーヒーを注いでいたとき、真姫が戻ってくる。
「我ながらナイスタイミング」
「ん? ただいま」
「おかえり真姫ちゃん。コーヒーできたよ。手洗いうがいしっかりね」
「分かってるわよ。まったく」
居間のテーブルへとふたり分のマグカップを持って行く。時計を見れば、あと二、三時間は何かと根を詰めることになりそうだ。さっきのことはとりあえず忘れて、目の前の試験とレポートに向き合おうと頬を軽く叩く。ちょうどテスト期間で、あわただしくてよかったのかもしれない。普段ならもうちょっと落ち込んでいたに違いなかった。そのくらい、今回の恵方巻き事件は、花陽の心に影を落としていた。しばらく巻ものは食べたくない。
「花陽」
そんなことを考えていたら、真姫に名前を呼ばれ、我に返った。
「ん、何?」
振り返って真姫を見た彼女の唇に、細長く固いものが突きつけられた。そのまま唇を割って口内へ入り、歯に当たる。
「折れたらそこで終わりだからね」
真姫の顔が近づき、口の中にチョコの味が広がって気付く。ポッキーだ。瞬間、真姫はこれを買いに行っていたのかとか、さっきの恵方巻き事件のフォローだろうかとか、様々な考えが脳内を駆けめぐる。しかし目の前の、それどころではない状況に押しやられて消えた。
真姫は目をつむって、少しずつ食べ進めてくる。カリカリと音が響く。花陽も目をつむり、口を動かし始めた。ただ折れないようにと願い、そのときを待つ。
溶けたチョコが、混ざり合う。舌の上でかけらが踊る。喉を鳴らして、それを飲み込んでいく。
この甘美なときを終わらせたくなくて、花陽は真姫の舌を噛んだ。
喉を鳴らして抗議する真姫は、彼女の胸を強く揉む。
「ひゃっ」
思わず声を漏らし、その隙に真姫は唇を離した。
「痛いよ、真姫ちゃん……」
「こっちの台詞よ、もう」
真姫はティッシュで口元を拭う。チョコとよだれで少しばかり悲惨なことになっていた。花陽の顔も同じくてらてらと光っている。
「だって、もっとして欲しかったから」
「ダメ。もうしない。おあずけです」
そう言いながら彼女の口にティッシュを数枚当てる。
「えぇー」
「ま、バレンタインくらいまでね」
別に花陽を甘やかしているわけではない。真姫だってしたいのだ。
それにその日は真姫の方の試験最終日でもある。はっきり言ってしまえば自分へのご褒美を花陽に要求しているのだが、多分彼女は気付いていない。
「じゃあ後はやることやる。単位落としたら何にもならないんだから」
「はーい」
ふたりはそれぞれの課題に向き合う。コーヒーがいつもより苦い気がした。
「あっ豆まき」
「めんどくさい。明日でいいわよ」
花陽はキッチンへ置いたままの買い物袋から豆の入った袋を取り出す。
「ダメだよ! ささっと撒いて、年の数だけ食べなきゃ」
「お腹空いてないしコーヒーに炒り豆合わない」
「ほら、立って立って。じゃないと真姫ちゃん鬼にするよ」
先ほどの袋からお面を取り出して見せる。
「分かったから。コップに当てないでよね」
「あ、そうだね。気をつけて撒かないと。小袋に入ったヤツだから当たると大変だし」
さっきまであった、色っぽいムードはもうかき消えてしまった。こんなにころころと雰囲気が変わり続けると、なんだか面白くなってくる。真姫は忙しさで行き詰まっていた思考が、緩んでいく気がしていた。
花陽は楽しそうに豆の入った袋を投げている。真姫にもそれを差し出す。これ以上の福を呼び込んだら、この家は内側から倒壊してしまうのではないだろうか。そんな気さえする。
壁やカーテンに当たって落ちる袋をあとで拾うことは、今は忘れておこう。いっそ何もかも忘れて、彼女とじゃれ合うのも悪くない。しかし、そうはいかないのも分かっている。あと少し袋に残っている豆を投げ終えれば、ひとまずは区切りがついてしまう。
でも、乗り気でなかった節分のすべてが、今はどれも楽しく、思い出に残りそうなほどに濃厚だったのだ。どんなことだって、これからきっと、今日みたいに楽しめるはずだ。
目の前で心底楽しそうな笑顔を見せる花陽を捕まえる。彼女が持っていた豆の袋は空になっていた。
「何、真姫ちゃん」
「福、捕まえておかないと、ね」
花陽の恵方が真姫なら、真姫の福は花陽だ。
「さ、豆食べて勉強するわよ。単位落としたら──」
「それさっきも聞いたよぉ」
「そうだっけ? ま、さっさと進級して資格取って、ずっと一緒に暮らせるように頑張ろ?」
「それってずいぶん、先の長い話じゃないかなぁ……」
笑う鬼はもう遠くまで逃げていっただろう。ここに残ったのは叶う夢だけに違いない。
<了>
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
節分なので書こうと思ったんですが、全然間に合いませんでした。
大学生まきぱなという状況なのは、先日の冬コミ(C85)で出した本に続いて、その設定で書きたかったからです……。
もっと同棲させたい……。