No.65496

夏色透かす桜の木陰と小さな貴婦人たち 3_1

維如星さん

「夏色透かす桜の木陰と小さな貴婦人たち」シリーズ第3章-1。

2009-03-27 15:45:48 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:966   閲覧ユーザー数:917

→1.先輩を諦めない。

 

 

 

9: 決意、再生

Genuine Revival

 

(それでも、先輩を諦めてたまるか──!)

 

俺は思い至った結論を胸に、思わずベッドから跳ね起きた。暗い部屋の中で、何処とも知れず気合を入れて虚空を睨みつける。

最後に見た先輩の涙。もうどうしようもない、という諦めの言葉。それは裏を返せば、先輩もこの渡航に納得していない証であり、そして先輩も何かを諦めたという証だと思うのだ。

それらの証が、このみ譲りの直感が、この渡航話は決して、偶然の産物ではないと告げていた。

これは、先輩が受け入れなければならなかった選択肢のはずだ。ならば、先輩の心の傷の奥にあるものを解き放つことで、その選択肢をもう一度選びなおすチャンスがあるかもしれないじゃないか。

それに、たとえ先輩のニューヨーク行きを止められなかったとしても、今この傷を負ったままの先輩を、そのまま送り出していい訳がない。

たとえもう二度と会えないことになろうとも。

そんな事をすれば、俺は絶対に一生後悔する。

ならば、黙って送り出したりするものか。あんな涙を見せる先輩を、そのままにはしておけない。

──否。二度と会えないなんて絶対に認めない。たとえ地の果てだって、機体に噛り付いてでも行ってやる。もし想いが通じたのなら、距離の暴虐なんて目じゃないはずなんだ。

先輩に想いを伝える。先輩の想いを信じる。

そのためのもう一つの鍵を、俺は思い出す。

昨日このみとも話したじゃないか。自分自身を認める事で、人は変われるのだと。俺が俺自身を認められたように、まず為すべきは、先輩が先輩自身を認められるようにすることなんだ。

今日は、そこを誤った。先輩に俺を信じてもらう以前に、先輩に先輩を信じてもらわなければいけないんだ。

(貴方の幸せの一番近くにいるのは、貴方を傷付けてしまう私じゃないの──)

そう、かつて俺が自分に誇りを持たず、自分が先輩に相応しくないと思い込んでいたのと同じように。今の先輩は自分を卑下し、自分の成し遂げたことを認めず、それ故に、このみやタマ姉に抜きがたい劣等感を抱き続けている。俺の気持ちを、受け取る資格がないのだと思い込んでいる。

(違うんですよ、先輩)

心の中で、俺はかつて俺を信じてくれた久寿川先輩に宣言する。

(先輩自身が俺を認めてくれたように、俺自身が先輩の隣を歩きたいんです)

 

故に、我≪オレ≫は戦うべきである。

考えるんだ、俺たちの歩むべき道を。

 

それにしても、一度踏み違えた道から正道に還ることの、なんと険しいことか。一度失った信頼を取り戻すことの、なんと難しいことか。

(まったく、自業自得としか言えないよな──)

自分が進むべき道の遼遠さに、思わず呆れ顔で苦笑する。そして、前途遼遠にしてなおそんな苦笑を浮かべられている自分自身の諦めの悪さに、今更ながら驚いた。

(ああそうか、これって)

昨日までの二日間、自分自身に還る傷すら厭わず、俺という存在に向き合ってくれた二人を想う。

(このみ、タマ姉、本当にありがとう)

二人の少女が、子供であることを辞めたように。

今ようやく、俺も子供であることを捨て去る時が来たのだろう。その覚悟を、俺は大切な幼馴染二人から──こんな俺に想いを寄せてくれた二人の女性から、得る事ができたんだ。

今更ながら、自分がどれだけ恵まれていたのかを思い知る。自分を理解してくれる人が、自分を評価してくれる人が、こんなにも近くにいたのに──俺はそこに気づかぬまま、気づかぬという罪を犯したまま、己という存在を否定し続けてきたんだ。

 

(って、いや待てよ、これって──)

そんな思考の途中、俺はふと自分が考えるべき道への鍵を感じ取って流れを止めた。

二人のおかげで、自身を認められた俺。もっと正確に言えば、自分を理解してくれた人を否定したくない気持ちが、結果として自分自身を認めるという方向に働いたってことだ。

一方、さっきも考えたけど、結局は先輩に先輩自身を認めてもらわなきゃいけない。

ならば、先輩にとっての理解者とは誰か。

真っ先に浮かぶのはもちろん河野貴明、それからまーりゃん先輩だろう。でも──

(いや、俺たちじゃきっとダメだな)

今の久寿川先輩は、その俺たちに対して頑なに耳を塞いでいる状態だ。本来こういう時に一番頼られるべき存在なのに歯がゆい限りだが、まったくもって己の不徳の致すところなんだから、自分以外の誰を恨みようも無い。

(でも、だったら一体どうすれば)

俺ではダメ。まーりゃん先輩もダメ。このみやタマ姉では逆効果。

雄二は──うーん、最近結構本気で先輩に近づこうとしてたし、タマ姉の薫陶宜しきを受けたアイツなら、いつかは先輩の心に届いたかもしれない。でも、今の先輩にとっては(雄二には悪いが)まだ単なる知人の域だ。信頼を否定してどうこうというレベルじゃない。

そして俺の知る限り、そこで久寿川先輩の知人関係は途切れてしまうのだ。

(あ、改めて考えるとかなり寂しいお人だな……)

何せ副長の異名を奉られ、全校生徒から恐れられた孤高の人だったんだからしょうがないけど──

 

(でも、それは仕方がなかったと思うの)

 

(──え?)

不意に蘇る誰かの声。

前にもこんな台詞を何処かで聞いた気がする。

もう随分前に思えるけど、いつだったか、あの屋上の日の後だったか、俺は久寿川先輩を知る人を探してて、それで──

(そうだ、でも一人じゃ──だったら──)

もやもやとした気持ちが糸車に掛けられ、一本の思考の線として紡がれてゆく。

自分が積み上げてきたコト、自分が得たモノ、そして何より、誰より、自分がずっと見てきた久寿川先輩という女性。

──ああ、俺は相手が誰だと思ってたんだ。本来久寿川ささらって人は、本人自身が最強のカードになり得る存在じゃないか。

暗闇の中、俺はもう膝を抱えてうずくまってはいない。跳ね起きたベッドの上で拳を握り締め、頭の中で作戦計画を巡らしてゆく。

 

──さあ、行動の時は来た。

 

いかなる結末にも悔いを残さぬよう、俺の持てる至善最高のモノを投げ打とう──

 

 

 

10: 予言者の事情

the Princess Manaka Strikes Back!

 

明けて火曜日、天気は晴れ。

春の日差しは少しずつ初夏のそれへと変わりゆく。桜の季節はとっくに過ぎ去り、葉桜は緑一色へと姿を変え、夏と、夏を迎える前の梅雨の洗礼を待ち受けている。

俺はそんな空気を吸い込みながら、学校への道を駆けてゆく。昨夜の短い睡眠を物ともせず、俺は普段よりも一時間近く早く家を出ていた。

一瞬、このみを待つべきか、彼女に昨日の敗戦を伝え、今日の作戦を相談すべきかとも思ったが、冷静に考えれば今の段階でこのみにできることはほとんど無い。それは例によって日常の欠片に縋るだけの行為と気づき、俺は本来の目的へと舞い進んだ。

 

まだ人もまばらな早朝の校舎。

妙に響く靴音が、昨日の夕方の校舎を束の間思い出させる。……いや、昨日の廊下を満たしていたのは黄昏の灯り、今日の廊下に差しているのは曙光だ。

俺はそう思い込むことで不安を断ち切り、軽く息を整えながら教室の扉を開けた。

もしそこにいなかったら──という一瞬の思いを綺麗に裏切り、彼女は案の定そこにいた。開いた扉の音に書き物から顔を上げ、彼女は何気ない挨拶を向けてくる。

 

「あ、おはよう──って、河野くん?」

 

ここは生徒会ではなく自分の教室。

ならば、その空間を早朝支配しているのは生徒会長ではなく委員長。小牧愛佳その人に他ならない。

「うん、おはよう小牧さん。──って、何でそこでそんな意外そうな声を」

俺は軽く手を上げ、愛佳の口調を少々真似しつつ、彼女の方へと足を進める。

そんな俺に微笑みながら、愛佳は少しおどけた表情で頬に軽く指を当ててみせる。

「んー、分かってて聞いてます?」

ぐ、言うようになったな小牧サン。

「──ハイ、分かってます」

俺は苦笑しながら彼女の机に辿りつく。ま、連日息せき切って駆け込んでくる遅刻寸前常習魔がこんな時間に顔を出しゃあね。

にしても、最近生徒会関連でちょっと話す機会が減ってたけど、一度書庫で打ち解けた空気がそのまま残ってたことにホッとした。本来、彼女は他人に冗談を言うような性格ではないのだから。

さて、と。俺は愛佳の机に軽く手をついて、どう切り出したものかと言葉を探す。

「え、あ、あれ? 河野くん、あたしに用事?」

打ち解けてはいても至近距離で静止されると相変わらず緊張するのか、書類に目を落としかけていた愛佳は慌てたように俺を振り仰ぐ。俺はそんな愛佳の反応を取っ掛かりに、とりあえずといった感じで会話に漕ぎ出した。

「あー、用事というか相談というか、その」

これしか手は無い、と昨夜は意気込んでたはずなんだけど、いざ他人を前にすると、こっ恥ずかしいことに変わりはない。これは事実上俺の久寿川先輩に対する告白宣言であり、このみやタマ姉ならまだしも事情を知らない相手、しかも女の子にそれをやってのけるにはまだまだ俺の心理障壁も───

「ねえ、もしかして久寿川先輩のこと?」

ぐあ。鋭い。

「いやその、そうなんだけど実は。でも、何で?」

さっきとは逆に、今や慌てるのは俺のターン。話が早い辺りはとても助かるんだけど、見抜かれた理由はやはり気になってしまう。

そんな俺を見ながら、しかし彼女は俺の慌てぶりを笑うでもなく、ちょっとだけ小首を傾げて素直な分析を開陳した。

「うーん、最近河野くんずっと悩んでる感じがしてたし。それに河野くんと久寿川先輩のこと、結構あちこちで噂になってますからねー」

う、噂。噂ですか。まあ雄二も言ってたけど、今冷静に考えればそりゃ確かになるよなあ……。

 

「あたしはそういうの無責任であんまり好きじゃないんだけど──でも今の河野くんが今の顔で聞いてくるのって、やっぱり会長のことかなって」

「は、はは。お見通し、か──」

 

バレバレというヤツ──ってだけでもない。

確か前にもこんな事があった気がするけど、愛佳って人の表情を良く見てるし。それにぽーっとしているようでいて、周りの噂話なんかにも敏感だ。その辺、実はこのみに結構近いところがあるんだな。

今から頼もうと思っている話を考えれば、その事実はかなり心強い。

「うん、その、会長──久寿川先輩のことで、聞きたい事っていうか、考えてる事があって──」

続ける話の気恥ずかしさもあって若干口ごもりながら、それでも俺はここまできた流れに乗って一気に切り出してみる。

「俺一人の考えだけじゃ自信が無くてさ。学内消息通の小牧さんにちょろっと意見を聞かせて欲しいんだけど──」

急に振られた話の流れに、愛佳は一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、しかしすぐに照れたような苦笑をもって頷いた。

「消息通って──や、そのっ、あたしで良ければお話は聞きますよ。お役に立てるかどうかはわからないけど──」

一連の噂から考えれば、彼女にとっては一種の厄介事が持ち込まれるわけで、もしかしたら揉め事御免という感じでやんわり断られるかな、なんて考えも俺の中にはあったんだけど。

愛佳はそんな心配とは一切無縁の、温かい声で俺の相談に乗ってくれていた。

(こないだからホント、こういう人の優しさがつくづく染みるなあ……)

それも女の子ばかり。もしかして俺って、かなり女の子に恵まれてる方なんだろうか……なんて、今までの河野貴明では信じがたい発想すら一瞬脳裏に浮かんでくる。

(な、何考えてんだ俺。それより本題本題)

呆けていたのは数秒。多分傍目にも分かりやすい俺の安堵の表情に釣られてか、愛佳も更に柔らかな笑みで俺の言葉を待っている。

「あ、ありがと。じゃあ早速なんだけど──」

 

 

俺は自分の頭の中に湧いた考え、一応これまでの自分の目から見た推測、そしてそれに基づく行動計画をざくっと愛佳に話してみる。

今期生徒会に入るまで、学内の事情なんて全然興味もなく知識も無かった俺の発想は全然的外れの可能性も大いにあり、正直緊張もしてたのだけど、

「──うん、河野くんの認識、基本的に間違ってないと思うよ」

愛佳が思案していたのはほんの数秒、彼女はすぐに俺の意見に賛同してくれた。

「ほら、基本的にお祭り騒ぎが好きな人って声も大きいから。あたしは──自分のところも含めて、その逆の色んな方面で苦労話も聞いてるし」

おっとりとした見た目ながらも、その誠実さと人徳で学内のクラス委員や委員長級、部長級との幅広い人脈では右に並ぶ者のいない小牧愛佳。

どうしても権威主義的になる生徒会に苦手意識を持つような生徒からも頼りにされており、『在野の会長』的な存在として、ある意味生徒会以上に学内事情に通じている彼女がそう言うのである。これは実に心強い裏付けだった。

「それに報われる、って大切な事だと思うし。そういう事情なら喜んで協力しますよ」

愛佳はそう言って微笑む。

(お、これは愛佳の先制に感謝だな)

意見だけじゃなく、協力まで先に申し出てくれたのは予想外の嬉しさだ。いや、最初からこの話の後で頼もうと思ってはいたんだけど。

そういえば彼女もまた、先学期以前から久寿川先輩を間近で見てきた一人、その学内での冷たい扱いに違和感を覚えていた一人だったっけ。

 

「それにしても──河野くん」

「ん、なに?」

「久寿川会長、やっぱり、だったでしょ?」

 

愛佳がちょっと得意げに澄まして見せる。

 

(あたしは──河野くんが考えてるような人が本当の生徒会長に近いと思うな)

 

「あ────」

一瞬、あまりに切ない感覚に胸が詰まる。

ああ、本当にその通りだった。随分昔のように思える愛佳のその台詞、あの卒業式手伝いの翌日に聞いた先輩評。俺にとっての答えは最初から、その言葉の中にあったんじゃないか。

「うん、やっぱりだったよ──ほんと、随分遠回りしちまった」

今にして思えば、愛佳は最強の予言者だったのかもしれない。そもそも俺が久寿川先輩に出会えたのだって、彼女が机の上で気まぐれに引いたあみだくじの線一つのおかげなのだ。

「小牧さんの見る目に間違いはなかった、か」

ほらほらもっと誉めて誉めて、という彼女にしては珍しい親しげな態度に、俺はちょっとヨイショを入れてから突っ込んでおく。

「流石は天下の真・委員長」

今期、晴れて年度初から委員長就任の小牧愛佳さんに暖かい拍手を。

「え? あ、もぉ! 委員長って言う──や、その、委員長なんですけどね、でもそれ関係ないしっ!」

一転してわたわたと、いつものリアクションで抗議に転ずる愛佳。しかし、俺のツッコミに慣れてきたからか、それとも今日の話題のせいか、そんな小動物めいた動きも今日はあっさり収まっていた。

「ともかく、その、見る目、っていうか──」

彼女は一呼吸挟み、少し遠い目を見せて呟く。

「あたしのは勘みたいなものだったけど──河野くんのは実地観測、だからね」

それは何故かさっきの俺にも似た、感慨深いような、切ないような声色だった。

「優しいっていうのはある意味、誰にでもできることだから。その先に踏み込んでいけた河野くんはすごいなあって、やっぱり思うの」

誰にでも、優しい。

多分愛佳は、今の台詞を彼女自身へも軽く自嘲気味に向けていたのだろう。だが実のところ、それは今までの河野貴明に対しても有効な言葉だった。

(これを本当に『今まで』にしなきゃな)

鈍く心に刺さった言葉をも糧にして、俺は自分がやらねばならない事を、取り戻さねばならない信頼を今一度心の中で握り締める。

そんな心境だから、続けてこんな台詞を呟いてしまったのも無理もないことなのだ。

「まあ、惚れちゃったものは仕方ないし」

さらりと。

目の前にいるのが愛佳だという事をほとんど忘れ、僅かに照れ気味に視線を床にずらしただけで、俺はそんな素直な台詞を口にしてしまっていた。

「惚れ──その、河野くん──」

案の定真っ赤に染まった愛佳の顔を見て、今自分が何を言ったのかを俺もようやく認識し、思わず顔を彼女と同じ色に変えていく。

「あ、あの、いや今の台詞は、その、ほら」

またしても愛佳の反応を俺が再生し、慌てふためく自分がいる。そんな俺を赤い顔のまま上目遣いで見上げながら、愛佳もまた素直な感想を呟いていた。

 

「河野くん、変わった──?」

「え──?」

 

既視感。

そう、これは一昨日このみにも言われた台詞だ。

想いを認めるという行為は、そんなにも他者からの印象を変えるものなのか。あるいは、河野貴明という男は今までそんなにも臆病な人間に見えていたのか──

「──どうだろ、まあ、はは、実は色んな人にお説教とかされちゃったしね」

俺は軽く頭を掻きながら、照れ隠しの台詞をかろうじて紡ぎだす。しかし愛佳は一瞬、心ここにあらずといった雰囲気で、

「そっか──もしかしたら、あたしにも──」

独り言らしきものを、呟いていた。

「ん、小牧さん、何?」

今ひとつ聞き取れず聞き返した俺の声で彼女はようやく我に帰ったようで、慌てて両手で自分の言葉を打ち消していた。

 

「え? あ、な、なんでもないですよう。ただちょっと、もしかして勿体なかったのかなぁ、とか」

「へ? もったいない? なに?」

 

ますます意味の分からない状況にはまった気がするのだが、愛佳はそれでも強引にこの話を止めようとしていた。

「や、や、ホントになんでもない、ですのよっ」

ま、まあ本人が嫌がるモノを聞いても仕方無い。第一無理を言って協力してもらうこの状況、本来彼女には俺の方が頭が上がらないんだから。

「うん、まあ、わかった」

何が分かった訳でもないが、とりあえず俺も曖昧な台詞で話を収めておいた。

 

と、愛佳は小さく首を傾げて思考すること二秒、

 

「諦め早い……? 魅力ない……?」

「──俺にどうしろと」

 

 

助言のみならず、心強い味方までも得た。

愛佳に計画の細部を手直ししてもらいつつ、俺たちは放課後までの時間を下準備へと奔走する──

 

 

 

11: 引き絞られた弓弦の中で

the Day the Committee Stood Still

 

始まりと終わりを告げるチャイムが鳴り響く。

奔走の時間はひとまず中断し、乗り越えなければならない一つの壁を迎えるのだ。

最上階の生徒会室に向かい、河野貴明が、久寿川ささらが、柚原このみが、向坂環が、それぞれの想いを抱えて集い始める。

常に先んじてメンバーを待つささらだが、この日部屋に入ってきたのは彼女が最後だった。そこに浮かんでいるのは、昨日の夕方と同じ、普通という言葉を殊更に具現化したような表情。無表情でも、繕った笑顔でもない彼女の顔には、眠れていないのか、流石に疲労の色が見え始めている。

そんなささらを迎える貴明の方は、最後から二番目の入室である。特にささらを気にする風でもなく、やけに落ち着いた雰囲気で静かに座っている。

そんな二人を見たとき、このみには言い知れぬ不安が、環には舌打ちすらしたいような気分が湧き上がっていた。

──未解決。前日夕刻の、貴明とささらの直接対話が失敗に終わったことは明らかだった。

昨日の段階ですら、決壊寸前の堤防のような空気が満ちていた生徒会だが、今日に至っては堤防のような重さというより、引き絞られた弓弦の上に全員が立っているかのような、鋭い痛みにも似た雰囲気が漂っている。誰か一人が下手に身じろぎでもすれば、致命的な何かが放たれてしまいそうだった。

 

「それでは、生徒会定例会議をはじめます」

いつもどおりのささらの宣言が響く。

普段なら軽口の一つも叩いて空気を和ませる雄二も、今日は環にでも言い含められたか、神妙に無言で座っている。

その場にいれば、軽口どころか傍若無人な振る舞いで全ての雰囲気を叩き壊せる麻亜子だが、今日は何故かこの場に姿を現していない。

このみと環は貴明へと解決を期待する目を密かに向けるが、彼は瞑目すらして、別の意味で話しかけ難い雰囲気を纏っている。

──つまり、この空気を換えられる要素はこの部屋に何一つなく、ささらの宣言のみが強引に時計の針を前へと進めていた。

 

「今日の議題は昨日の歓迎会の反省だけど──その前に一つ、皆さんに重要なお知らせがあります」

僅か五人の小さな空間に、ざわめきにも似た空気の波が走る。昨日の今日、この状況下での「重要な話」。久寿川会長が公私混同をするようなタイプには決して見えないが、今の状況は現生徒会の存続にすら関わる状態だ。ここ数日の混乱とまったく無関係な話題が出るとはとても思えない。

環、このみ、雄二は不安げな表情で、ささらの口元に意識を集中させる。

唯一、貴明だけが視線を宙に留めたまま、この話を予測していたかのように次の言葉を待っていた。

 

引き絞られた弓弦。

静止した生徒会室。

硬直の時間はほんの僅か、ささらは遂に室内へ向けて己の第一射を解き放った。

 

「急な話ですが、私──久寿川ささらは母の海外赴任に伴い、今学期一杯で退学する事になりました」

 

──声もなかった。

貴明以外の三人にとって、予想もしていなかった方向から突き刺さるささらの言葉。それが放たれた今なお、三人の理解はまだ追いついていない。

「その準備もありますので、五月半ばで休学──夏休み前には退学という形になります。よって、生徒会長職も今月を以って辞任しようと考えています」

間髪を入れないささらの第二射。

海外、退学という大きな言葉で止まっていた三人の思考が、具体的に会長辞任という結果が提示されたことで急速に再回転し、そして愕然とする。

「そんな──だって、久寿川せんぱい──」

絞り出すようなこのみの声を、ささらは意識的に意識野から排除した。彼女はそのまま畳み掛けるように、第三射を釣瓶撃つ。

「本当に急で申し訳ないのだけど、後任は生徒会則上、勝手ながら副会長の向坂さんにお願いすることになります。もちろん、向坂さんが拒否される場合は公選ということになりますが──」

剛胆をもって知られる流石の環も、今ばかりは急に振られた話に反応できず、気圧されるように普通の受け答えをしてしまう。

「それは──拒否する理由はないけど──」

環の声に含まれる、明らかな戸惑いの色をささらは先ほどに続いて黙殺し、

「ありがとう。結局公選となればなったで、生徒会のみんなに面倒を掛けてしまうことに変わりはないから──安心したわ」

ここで遂に、笑顔を浮かべていた。

仮面のような繕いの笑顔でもなく、もちろん華咲くような彼女の魅力溢れる笑顔でもない。それは不吉さしか感じさせない、先日このみが夕陽の中で目撃したままの、透明すぎる微笑だった。

あの時の吉くない予感を思い出し、このみの背筋にぞくりと寒気が走る。

一方、その陶器めいた笑みによって向坂環の意識は急速に反発し、本来の温度へと加熱する。

「──久寿川さん。この期に及んで回りくどい話をしても仕方ないから単刀直入に聞かせてもらうわ」

実のところ、仕方ない、どころではない。環の脳内は瞬時に沸騰し、直球以外の選択肢は消え去っている。彼女は椅子を蹴り、両手を机に叩きつけるようにしてささらを睨みつけた。

構わない、所詮今ここにいるのは関係者だけだと言わんばかりに、あの夜、貴明の甘えを喝破し、三度は殺したその咆哮がささらへと叩きつけられる。

「あなた──逃げ出すの? 諦めないで戦うという話は──違うわ、あなたは確かに戦ったはずなのに、どうして今更こんなことを──!」

否、それは怒号ではなかった。

哀号に近い、悲痛な叫びですらあった。

むしろ、環の声量によって悪寒を振り払い、同じく席を立ったこのみの方こそが、ストレートにささらへと思いを叩き込んでいた。

「そ、そうだよ! 久寿川先輩、こんな形で諦めちゃうなんて──卑怯であります!」

二人の叫びを真正面から受けながら、その最後の卑怯という言葉に、ささらは僅か数日前に環にぶつけられた台詞を思い出す。

(しかたない、なにもかも──? 久寿川さん、あなた卑怯だわ──)

あの時は、必死で自分の考えを伝えようとした。それが最善なのだと反論した。

毅然としていた顔が一瞬俯く。

「だってもう、本当にどうしようも───」

誰にも聞き取れない、小さな呟き。

だが、もはやささらには再び反論する力は残されていない。その呟きが言葉へと昇華することはなく、彼女は座ったまま再びはっきりと顔を上げ、

 

「この件に関して、何か質問はありますか」

全ての感情を、押し返した。

 

ささらによる戦闘拒絶。一方的な釣瓶撃ち。

その状況が、ますます環に火をつけてゆく。

「久寿川さん、あなた、いい加減に──」

この時点で、環にも、このみにも、ささらというライバルの退場後にその後釜を狙おう、などという安易な発想は微塵もなかった。

何故なら、彼女らは完璧に理解していた。

今この場で、全てが未解決なままでささらが消えれば、貴明の心にはかつて環がつけてしまった以上の致命傷が残るだろうと。

それはもはや、貴明という彼女ら二人の愛した幼馴染の人格そのものの死を意味するだろう──貴明を見続けてきた二人にとって、それは予測ですらなく、確実に起こる現実だった。

「あれからタカ坊──貴明だって、やっと──」

環の口から零れる貴明の名前に、ようやくささらの表情が揺らぐ。それでも、ささらはその揺らぎすら抑え込もうと眉間に力を込め、一方の環はその揺らぎを更に揺さぶるべく言霊を練り───

 

「やめなよ、タマ姉、このみ」

 

貴明の言葉の前に、その全てを停止させていた。

環とこのみは弾かれたように貴明に注目する。

落ち着きを装っていたささらですら、肩を一瞬震わせて身を硬くすると、窺うように貴明へと視線を向けている。

その縋るようなこのみの瞳、追撃を期待する環の目を、貴明は束の間、だがしっかりと見据えた。

──信じて欲しい、任せて欲しい。

自分を変えてくれた二人に対して、貴明は己の意志を無言で告げる。それが二人に伝わった事を確信し、貴明は自然な態度で口を開いた。

「いずれにせよ、会長辞任と副会長の繰上げ指名となれば、生徒会則に則って生徒評議会の承認を得ないといけないですね」

『え──?』

貴明以外の四人から、期せずして同じ声が漏れる。

突然切り返された彼の事務的な言葉。

如何なる感情の嵐にも鉄壁の意思で向かおうとしていた矢先の貴明の台詞に、ささらも一瞬戸惑っていた。

「あ──ええ、そういうことになるけど──」

 

生徒評議会≪the Great Council of Students≫。

生徒会を執行部≪the Executive Committee of Students≫とするならば、生徒評議会は文字通り議会に当たる決定機関である。

各クラス委員全十八名、運動部・文化部から代表部長各六名、図書・風紀・放送の三大委員会委員長三名の計三十三名に、生徒会役員自身を加えて構成される、生徒代表連合とも言える存在だ。

形式的な生徒総会≪the Assembly of Students≫ではなく、実効性のある機動力を持った人数に権限を与えるという、生徒に大幅な自治を認めているこの学校の方針ならではの機構だった。また各担当領域において施策の実行を担保するという、生徒会の手足、行政府としての役割も果たしている。

朝霧麻亜子、久寿川ささらと独裁的な生徒会長≪CEO≫が続いたため若干影が薄くなってはいるが、それでも生徒会からの各種立案を事後であれ承認する立場である。

故に、議長──評議会書記官≪the Chancellor of the School≫は生徒会役員以外から選ばれる事になっており、かつ評議会では生徒会役員や生徒会長といえど、他のメンバーと等しく一票の発言力のみを持つことになる。

ましてや今学期からは議長に生徒からの人望も厚い小牧愛佳が就任しており、ささらにとってもなおさら、無視できない存在になるはずだった──もちろん、彼女の辞任がなければ。

 

「タカ坊──一体、何を──?」

先刻のささらによる不意の連撃とはまた別の形で、毒気を抜かれたように彼女たちの思考が止まる。

「いや、だから手続きの話。選挙じゃなくて会長指名で就任した副会長の場合、繰り上がる時には一応評議会の信任投票がいるからさ」

そんな彼女らに、貴明は飄々と生徒会則の説明台詞を続けていた。

「──っ、だからそうじゃなくて──!」

あまりに他人事のような貴明の態度に、環は抜かれた毒気を取り戻し、焦れたような声を上げる。

このみもまた、我に返って環の援護射撃をしようと口を開きかけた瞬間、

「あーそうだな。こういう特殊事情だし、信任は早いほうが混乱がねーよな」

貴明に劣らず普段通りの口調で、しかし誰もが意識を向けざるを得ない程度に大きく声を上げたのは、すっかり蚊帳の外の感のあった雄二であった。

「雄二──?」

これは貴明にとっても想定外の台詞だったようで、彼はこの日初めて驚いた表情を浮かべている。

男同士の視線が交錯したのは一瞬。

雄二は貴明にだけ見えるよう、ニヤリと口の端を動かして見せると、場の発言権を握ったまま次の行動へと移っていた。

「えーと、早速明日辺りでどうスかね。会長、生徒評議会の緊急招集を提案しまーす」

貴明、次いで雄二から畳み掛けられた事務的な発言に、本来その流れが理想であったはずのささらも一時、繋げるべき言葉を失っていた。

「向坂君、ええと、その──」

その束の間の逡巡を貴明は利用した。雄二の援護射撃の意味を完璧に理解した彼は、これ幸いとばかりに一気に時計の針を進めてゆく。

「はい、賛成しまーす。明日の臨時評議会招集に反対の方、いらっしゃれば挙手をお願いしまーす」

雄二に続けて一息に発言することで、混乱、議論、糾弾、その全てをあっという間にただの投票タイムにすり替え、イエス・オア・ノウの反応のみを女性陣に迫っていた。

事態の回転の速さに戸惑い続けていたこのみだが、こういう時の即応力は流石だった。貴明への完璧な信頼が、その決断を加速させている。

「え、えと、異議なしでありますっ」

こうなれば、このみの勢いに環も押されるように、深く考える余地なく答えを返してしまう。

「──そうね、私は構わないわ。別に選挙運動をするってわけでもないし」

かくして四人の賛成が瞬時に出揃い、ささらの前に突き立てられた。

わずか数分前まで場の支配権を握っていたささらであり、この事務的な流れは元々彼女の理想の形ですらあったが、今や主導権は完全に貴明の側にあった。

昨日、あれほどまでに感情をぶつけ合った貴明の異常な落ち着きぶりに、固めていたはずのささらの心の壁に新たな亀裂が走る。

何故。どうして。これが彼なりの配慮なのか、あるいはもう自分はどうでもよくなったのか、それとも別の何か考えがあるのか───

ささらは心の中で頭を振る。

もはやどうでもいいこと、もうどうしようもないこと、そう決めたではないか、と。

「学則にあることですし、もちろん反対する理由はありません。向坂さんなら不信任なんてことはないでしょうし、形式的な手続きは早く済ませてしまったほうが良いわ」

平然と、だが内心は呻くように、ささらは自分の言葉を紡ぎだす。貴明はささらのそんな心境を知ってか知らずか、あっさりと話をまとめに入った。

 

「了解です。では全会一致で可決ですね。あー書記くん、今の決議の記録を」

「了解でありますっ!」

 

貴明のペースに慣れたのか、このみは笑顔すら浮かべて議事録に書き込みを始める。

「じゃあ明日は生徒評議会ってことで。議長の小牧さんには俺から伝達しときますんで、各方面への連絡は彼女の方から回してもらえると思います。臨時なので多分通例に従い、昼休みでの招集になりますね」

終業式や始業式で見せていた仕切り能力が蘇ったかのように、貴明はてきぱきと段取りを進めてゆく。

こうなってしまえば、環もこのみも貴明の進行を信じるしかなく、ささらもまた、彼の作った流れに乗ってゆくしかない。前者は希望を、後者は諦めをもっての反応だとしても。

 

 

事前のどんな想像にもなかった形とは言え、一応自身の退場を宣言し終えたささらだが、その時点で彼女の気力は尽き果ててしまっていた。

新入生歓迎会の反省については、実質運用に関わっていたまーりゃん先輩のいる時にまた──という理由をつけて延期し、彼女は早々に定例会議の閉会を宣言。この日は解散となった。

 

すなわち。

最後の戦いの第一幕は貴明の想定通りに終了した。

 

 

 

interlude: あの日見た彼の強さ

the White Album Gently Weeps

 

「雄二!」

昨日に続いて一人で残ると宣言したささらを残し、生徒会室を後にした俺は、一足先に帰り始めていた雄二を呼び止めた。

鞄を片手で背中に引っ掛け、足は止めないままに雄二が振り返る。それを俺は会話の了承サインと受け取り、小走りに近づいて並んで歩き出した。

(と言っても、どう切り出せば──)

生徒会室で何とか維持できた自信ありげな態度とは裏腹に、俺は軽く俯いたまま、切り出す言葉を失って雄二の隣を歩いてゆく。

ここ数日、ある意味誰よりも会いたくない存在だった雄二。その援護射撃をとっさに利用させてはもらったけど、雄二その人に対してはどう反応すればいいのか。互いの久寿川先輩への感情に、どう整理をつければいいのだろう───

一方、無言の俺に何か声を掛けるでもなく、雄二はただ黙ってペースを合わせて足を進めていた。

 

「──なあ、どうして乗ってくれたんだ」

階段を降り出した辺りで、ようやく俺は疑問を切り出した。一方の雄二は飄々と、何気ない笑いと共にあっさりと答えを返した。

 

「どうしても何も、一応学内消息通の雄二さんを舐めんじゃねえよ」

「な──!?」

 

学内消息通。その言葉は、今朝方俺が愛佳を評した台詞そのままのものだった。

愛佳にも協力を仰いだ今日一日の奔走で、プランにはそれなりの手ごたえは得ていた。つまり、ある程度の情報を知る人間は確かに増えてはいるのだが、そのルートは主に部活関連、あるいはクラス委員関係なのだ。現在帰宅部である雄二には、ほとんど接点などあるはずがないのだが───

そんな俺の出口のない思考を読んだのか、雄二は再びこっちへと首を巡らせ、生徒会室でのニヤリとした笑みを再現した。

「──なんてな。実は委員ちょに聞いたのさ。貴明が久寿川先輩のために走り回ってる、ってな」

(な、愛佳が──)

あっけに取られた俺を横目に、雄二は半ば独りごちるように言葉を続けた。

「ったく、遅きに失したってカンジだけどよ、貴明にしちゃ上出来だぜ。まさかそういう手で来るとはな──先輩との付き合いが短い俺じゃ、到底思いつかない手なのは確かだよ」

やれやれ、と肩をすくめてみせる雄二に、一瞬足を止めてしまった俺は追いすがるように聞き返す。

 

「委員長──小牧さんは、なんでおまえに」

「かー、冷てえなあ。これでも一応俺はおまえの友人で通ってんだぜ? ──ま、委員ちょはあの事を知らないわけだからな。有力な協力者の一人として、俺に声を掛けたってトコだろ」

 

あの事とはもちろん、雄二自身の想いのことだろう。

愛佳は知らなかっただけだが、自分にとっては重い心の枷の一つである。女の子に対してはいつも軽薄な雰囲気しか漂わせていなかった雄二が、初めて見せた真剣な態度だったのだから──

 

「雄二、その──どういう心境の変化なんだよ、って聞いてもいいか──?」

「聞いてもいいかって、聞いてるだろそれ」

 

雄二は苦笑してツッコミを入れた後、すっと真顔に戻って言葉を紡ぐ。

「──マジだな、と思ったからさ」

それは何処か、タマ姉の独白にも似た声だった。

「どういう心境の変化だ、ってのはこっちが聞きたいぐらいだぜ? これでもおまえとの付き合いは長いからな、委員ちょに話を聞いた時点で、おまえが多分生まれて初めて本気になりやがった、って気づいちまったのさ」

想いを認めることの強さ。

想いを追いかける強さの表れ。

愛佳に今朝も指摘されたその感覚が、今この場で雄二の口から再現されていた。

「こちとら最後のストレートで抜こうと思ってたのによ、気がついたら背中が見えるどころの騒ぎじゃなかったんだ。おまけに相手は貴明、おまえだ」

昇降口の手前、人気のない廊下で雄二は初めて立ち止まり、こっちの目を真っ直ぐに見据え、数日前の宣戦布告と同じ真剣さで宣言した。

「親友がマジになったのに、ちょっかいを掛けるよーな野暮はねえよ。大体周回遅れってのはな、先頭が来たら道を譲るもんだからな」

頭を殴られたような衝撃が走った。

気づくべきだった。当然だった。

幼馴染である環が、このみが、それぞれ自分の想いを認めたまま久寿川先輩への道を拓いたように。

彼女らと等しく時間を重ねた友人であり、向坂環と同じ系譜に連なるこの男が、同じことを思わない訳がなかったのだ。

 

「───雄二、おまえ」

「おまえも野暮は言うなよ、頼むから」

 

雄二はそう釘を刺して、再び歩き出して靴を履き替える。俺も慌ててそれにならい、二人は初夏の夕暮れの中へと足を踏み出した。

じわり、と熱気が身体を包み込む。

盛夏のそれほどではないが、春に慣れた身には十分過ぎる初夏の匂い。その熱気を台詞に込めたかのように、雄二は俺に向かって言い放った。

「忘れるなよ、今度おまえが選択肢をミスろうもんなら、俺がこの手でデッドエンド直行便にしてやるからよ。俺のフラグを潰すことになってもだ」

一切の曇りなく込められた意志を、しかしいつもの諧謔とメタファーに包んだ雄二。それは十年来変らない、友人の立ち位置そのものだった。

ならば俺も、同じ調子で答えるべきだろう。

「ま、もうこの先に分岐はないさ──最後の選択なら、とっくに済ませたんだ。この期に及んで親友エンドなんて真っ平御免だよ」

俺は仏頂面を装って、雄二に自分なりの答えを返す。このやり取りこそ、最後の作戦に臨み、俺の心に残っていた最後の棘を引き抜いてくれた、雄二による最強の支援攻撃だった。

「おうおう、沖田殿の復活か。いいねえ、ラブ。このみや姉貴が変えきれなかった貴明を、こうまで騎士様に仕立てちまうんだからなあ──久寿川先輩ってのはやっぱり大したヒトだぜ」

このみやタマ姉の名が出ることに、もはや驚きはない。雄二にしてみれば、分かりきっていた二人の感情を、ある意味二人以上にじれったい思いで見続けてきたわけだ。

「ところでな、貴明」

と、雄二は不意に肩に腕を回して声を潜めた。なんだなんだ、と反応する間も無く、飛び出てきた台詞はまたも想定外の代物だった。

 

「そのプラン、俺にもちょっと噛ませろよ」

「───はあ?」

 

思わずストレートな反応を返してしまう。

だが雄二は別に(いつもの演技めいた)傷ついたような素振りも見せず、作戦の本質へと切り込んできた。

 

「お役所ばっかじゃつまんねえだろ。そっち方面の人脈だったら俺に任せとけ」

「そっち方面って──」

 

と声を上げかけて、俺は雄二の意図に気づく。

 

「なっ、雄二、本当に大丈夫なのか? 久寿川先輩、本当に慣れてなくて──」

「任せろ。何も派手なことをやらかすってワケじゃねえ、ちょいと沿道を楽しくしてやるってぐらいさ。タチのイイのしか揃えないから安心しろって」

 

不安はある。だが実際のところ、冷静に考えても雄二の台詞は真実でもある。

ある種の劇薬ではあろうが、先輩にとっては必要な要素の一つであることに間違いはない。前のように食べ物を介在させるわけでもないし───

「──おっけ、任せた」

ここは勝負だ。駒は多いに越したことはない。

 

「頼んだぞ雄二、今の決断がバッドエンド直行だったら目も当てられない」

「ま、大勢に影響は与えないだろうけどな」

 

雄二は飄々と呟いて、鞄を引っ掛けなおして歩み去ってゆく。

「さて、お互い色々仕込みがあんだろ? 今日はここでお開きと行こうぜ」

言われるまでもなく、俺はまだ帰るわけにはいかない。校門を境に、俺たちの道はここで別れてゆく。

「雄二───その、礼は後で言うからな」

俺のそんな台詞にあいつは黙って手を上げ、俺はそれを合図に校舎へと踵を返した。

 

 

遠ざかってゆく貴明の足音を聞きながら、雄二の脳裏にふと連想が湧く。

「──そういや理奈ちゃんも、森川由綺にオトコを譲ったって噂だもんなあ」

理奈ファンとしちゃそれも悪くないか、と彼は夕日に向かって独りごち、ふらりと学校を後にした。

 


 
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