花陽の家の前で、真姫は真夏の夜空を見上げていた。ついさっき日が沈んだばかりの空は、西から紫のベールをかけられ妖しげなグラデーションを描いている。そこに浮かぶ細い月はほのかに赤く、世界でも終わりそうな気持ちにもなる。当たり前だが星は見えない。
生ぬるい風が時折思い出したように吹いて、真姫のスカートを揺らした。まだ数分も待っていないのに少し心細くなる。早く来いと心の中でぼやくが、通りすがる人すら見えなかった。
帰り道を送るついでに、どこかで何か食べていこうと花陽が言った。真姫は、「なら自転車出してよ」と返した。断られると思って言ったのだが、快諾されしまったためにこうして待ちぼうけをしている。
「お待たせー」
彼女が自転車を押しながら姿を見せたのは、それからまもなくだった。
「遅い」
にらみつけたが、花陽はにこにことほほえみを崩さない。
「えへへ、ごめん。着替えてたから」
先ほどまでふたりで部屋にいたときは、確か太ももが見える丈のスカートで、細かいプリーツがたくさん入っていたはずだ。動く度にひらひらと揺れていて、何の気もなく目で追ってしまったのを思い出す。そして上も少し大きめのシンプルな白いTシャツで、薄緑色の下着が透けていた。
今はその上に花柄のロングキャミソールを着ている。そこからすらりと伸びたストレートのジーンズは、太ももをあの時以上に強調しているように見えた。触ればずいぶん薄手のストレッチ生地で、見た目ほどは暑くはないようだった。
「もう、やめてよ真姫ちゃん……。お外だよ」
「なによー。上から触っただけでしょ。それに太ももだし」
「恥ずかしいのは一緒だよぉ」
花陽はうつむいて早足で歩き出した。置いて行かれた真姫も、軽く駆けて後を追う。
「待ってよ。乗せてくれるんでしょ」
「意地悪な真姫ちゃんは乗せません」
「もう、ごめんってば」
追いついた真姫は荷台を掴んで止めた。
「乗っていい?」
「変なことしちゃダメだからね?」
うなずいて、そこに腰掛け、花陽のお腹に腕を回した。
「オッケーよ」
「それじゃ行くね」
ゆっくりとこぎ出す花陽の背中に、肩を寄せる。爽やかな風が体を吹き抜けていく。それほどスピードは出ていないと思うが、ほてった体にはちょうどいい。なびく髪を時々押さえながら、真姫は花陽の肩越しに前をのぞき込んだ。
それは背徳的な景色だと真姫は思う。時々顔に当たる花陽の髪が、彼女の匂いを否応無しに届けてくる。通り過ぎる人たちは自分たちのことなど気にせず、ただ思うがままに歩いていた。街灯の間の暗闇も自転車のライトが照らし出していく。このままどこまでも、この道が続いていく気がしてしまう。
真姫は花陽の耳元へ口を近づけて、
「ちょっと遠回りして行きましょ」
とささやいた。
「うん。いいよ!」
少しだけ真姫の方へ顔を向け、大声で彼女は答えた。信号待ちの間に、顔を合わせる。
「なんだか海が見たいわね」
「海未ちゃん?」
「違う! シーの方。いえベイ、かしら」
「えー遠いよー」
うれしそうに非難しながら、信号が青に変わった横断歩道を走り出す。花陽は冗談だと思ったのだろう。しかし真姫はそこそこ本気で言っていた。なんならタクシーを拾ってもいいくらいだったが、そこまでわがままを押し通すつもりもない。
「じゃあ、川。それなら行けるでしょ?」
「川ならそこに」
横を流れる神田川をちらりと見た。
「ダメ。雰囲気なさ過ぎるもの。隅田川までゴー!」
夏の夜はどうしてこんなに水が見たくなるのだろうかと真姫は思う。しかも大量の、広大な水だ。本当にわがままが叶うのならば、今すぐ南の島で花陽と一緒に泳ぎたい。しかし今のふたりで叶えられるのは、大きな川の水面を眺めることくらいだった。
「大通りはよけて、脇道走った方がいいわよね」
「……そうだね、交番とかあるし」
花陽の漕ぐ自転車は、人気のない雑居ビルや住宅の間を走り抜ける。あまり会話もなく、聞こえるのは大通りを行き交う車たちの音ばかりだ。ふたりだけが世界から切り離されたようで、そんな感覚すらも楽しい。
十分もせずに橋のたもとまで着く。そこでふたりは自転車を降り、並んで歩き出した。夕焼けの名残も消えた空はすっかり暗くなり、天球のふちは緑色のもやがかかっている。
「思ったよりおしり痛くなるのね」
「金属だもんね。座布団か何か敷く?」
「今無いでしょ、そんなの。ま、次があったらね」
長い橋の真ん中まで来て、立ち止まる。そこから欄干に体を預けて、川をのぞき込んだ。
それは黒かった。時折波のようなものが見える。まばらな街灯や柵の隙間を漏れ出た車のヘッドライトがわずかにそこを輝かせて、ようやく気付ける。
黒い水面は不思議と吸い込まれそうで、怖いのに目が離せない。花陽もそう感じているのか、真姫の指を軽く握ってきた。
「怖い?」
「少し。だけど──」
クラクションを鳴らした車が走り去る。
「なんだかわくわくするかも」
遊園地の絶叫マシーンやお化け屋敷は、こんな感覚に根付いたアトラクションなのかもしれない。その妖しげな魅力が、ふたりを惹きつけて放さなかった。
「──!」
湿った風が少し強く吹いた。一瞬早鐘のように心臓が打ち鳴らされ、ふたりはしっかりと手を繋ぐ。
「ちょっと、びっくりしちゃった」
恥ずかしそうに顔を見合わせる。
「うん……。でもこうしてると安心する」
真姫は顔を赤くして、遠くを眺めた。向こうの鉄橋を電車が走り抜けていく。じっとりと湿っている、柔らかい手のひらの感覚が、夏の暑さと同化していく。数秒で電車は見えなくなり、暗いアーチが浮かび上がった。真姫はなぜだか無性に大声を上げたくなった。
「ここでなんか叫んだら、気持ちよさそうよね」
「え、ダメだよ、恥ずかしいよ」
「どうせ車乗ってる人には聞こえないわよ」
「歩いてる人も自転車もいつくるか分からないよ」
真姫の正気を取り戻そうと、花陽はぶんぶんと握った手を振る。それに合わせて体が揺れた。
「じゃあカラオケ行こう? 大声出せるよ?」
「そうね、それもいいかも」
きゅぅ、とお腹が鳴った。しかし騒音に紛れたおかげで、自分にしか聞こえなかった。
「でも今は食べに行きましょ。お腹空いたわ」
「私も。どこにする?」
「ファミレスでいいんじゃない? ゆっくりしたいし」
「賛成」
花陽は自転車を押して歩き出す。離された手がやけに冷たい。急に心細くなり、真姫は花陽の腕に抱きついた。汗ばんだ肩が軽くぶつかり合う。
「暑い?」
「そうでもないよ」
「よかった」
「でもちょっと自転車押しづらいかな」
「そのくらい我慢しなさい。裏道行くまでなんだから」
長い橋の上を、そうして歩いていく。腕を組んだまま、肩で押し合うようにじゃれつく。真姫の中で、このままずっとこうしていたい気持ちと、早く花陽の自転車の後ろに乗りたい気持ちがせめぎ合う。そう思っていても、橋は終わるし裏道へも着く。自転車にまたがった花陽の後ろで、彼女の腰に手を回した。
「いい?」
「うん。どうぞ」
再び風を切って走り出す。回した手に少し強く力を込めた。ふたりの夜は、まだ少し続く。
<了>
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「夜の自転車・二人乗り」
というお題を見かけたので書いたまきぱなです。
最近寒すぎるので夏が恋しくて、季節外れの話になりました。