「へ、へへ、間一髪だったな……」
前かがみの姿勢で、荒い息をつく隼鷹は、笑みを浮かべてはいたものの、どことなく強張っている。
「あ、あんたねえ……、なにを暢気な……。いったい、だ、だれのせいだと……」
差し向かいでぜえぜえとしているのは姉の飛鷹だ。
飛鷹型軽空母姉妹、あまり似ていないといわれることの多い二人だが、息を切らせて喘ぐ姿はそっくりだ。
「悪かったって。でもさ、結構スリリングだっただろ?」
「冗談じゃないわよ」
どうにか人心地ついた隼鷹の顔には不敵な笑みが薄く浮かんでいたが、飛鷹はそっぽを向いてしまった。実際のところ満更でもなかったのを知られたくなかったからだ。
「はいはい、続きは向こうでしましょ。せっかくのコンパートメントがもったいないもの」
独特の間延びしたイントネーションで、二人の間に入ったのは龍田だった。対照的に涼しい顔をして、飛鷹達が息を整えているのを見守っていたのだ。
言われて隼鷹と飛鷹は互いに顔を見合わせ、自分達のいる場所を改めて思い直した。
国鉄東海道線特別急行列車めのう、そのデッキで背を丸めている。まったくもって迷惑この上ない。あわてて飛鷹も隼鷹もカバンを引っつかんで自分達の席に退散することにした。
「勘弁してよ、あんなところで恥ずかしい」
「飛鷹だって、ずっとへばってたろ」
「他人のせいにしないでよ、そもそもの原因は……」
「んなこと言ったらお前だって……」
悶着はまだひと通り続きそうだ。
けれども、そんな喧騒などはどこ吹く風と、外装に特徴的な青の濃淡ストライプの塗装を施された列車は、秋の涼やかな空気を切って一路西へと向かっている。
鎮守府の朝は早い。
最寄り駅といっても、そこからまたバスで揺られなければならないのだが、まだ陽が昇ってさして経ってもいないのに、列車が到着するたびに改札を抜ける人の数は少なくない。
軍の施設だからといって、職員のすべてが兵士ではなく、工廠で働く労働者もいれば事務員もいるし、掃除や御用聞きを行う用務員もいる。そのうちの早番にあたる人々が出勤してきているのだ。
そんな光景を駅舎のかたわらに立って、龍田は見ていた。
目聡く発見して挨拶をしてくるものもいたが、顔見知りでも多くは知らずに前を通り過ぎていく。
人の流れからやや隔たった場所にいたせいでもあったが、それよりもカムフラージュに一役買っていたのは服装だった。
胸元の強調された普段の服とは異なり、濃紺のジャケットとその上から薄手のコートを重ねている。もちろん艤装はすべて解除し、トレードマークになっている薙刀もドックで保管点検中だ。
頭にはつばのないケピ帽をちょこんと乗せ、鞄を一つだけ携えた姿は、旅行者の出で立ちだ。日夜海へ出て死闘を繰り広げている兵士の面影は、どこにもない。
人波が流れる様子を、龍田は一人眺めていた。
朝晩の気温はずいぶんと下がってきた。手足の指先の冷えもなかなか抜けてはくれない。一週間ほど前までの夏の名残りが嘘のようだ。
けれども、この時の龍田は、あまり寒さが気にならなかった。
駅前を待ち合わせ場所に指定したのは隼鷹だった。考えるまでもなく、これは無意味な行動だ。建物こそ違えど、隼鷹飛鷹と龍田は同じ鎮守府内で寝起きしている。出かけるのなら、いっしょに発つか、いっそのこと現地で落ち合えばいい。なにもわざわざ玄関先で待つ必要はない。
にもかかわらず、この申し出を、龍田は一も二もなく承諾した。
楽しかった。その無意味をあえて行うのが。もちろん龍田も無駄に無為を重ねる行為を無条件に受け入れたわけではない。
話を持ちかけてきた際の、隼鷹のいかにも何かを企んでいそうな笑い顔に惹かれたのだ。無邪気な期待に輝く笑みは、一切の私心を切り捨てて、ただ相手を驚かしてそうして喜ばそうということだけに一生懸命だ。それが嬉しくて、後先も考えず二つ返事でうなずいてしまうのだ。
初冬の寒さなど、そうなればなんてことない。
「あの顔に弱いのよねえ」
無意識で両手を揉んでいると、隼鷹の笑みが頭に浮かび、それが段々とよく知った別の顔に変わってゆく。それがおかしくて、つい声に出してしまっていた。
「お待たせー!」
甲高い軋り音とともに隼鷹と飛鷹が現れたのは、そうして龍田が顔をほころばせている時だった。
「あらあらあら」
多分登場に趣向を凝らすつもりだろうと想像はついていた。
けれども、まさかバイクにまたがって現れるとは思いもよらなかった。
「おはよう、龍田姉」
「はい、おはよう、隼鷹ちゃん」
日よけのないハーフタイプのヘルメットをかぶり、大きめのゴーグルをつけているが、それでもガザミのように跳ねる紫蘇色の髪は隠しようがない。
もっとも隼鷹が着ているつなぎは、紅殻色を基調のにし、左肩から斜めに大胆に白い帯状の彩色を施したもので、これは普段の制服の色合いと等しく、あまり積極的に身分を隠そうともしていないように見受けられた。
「飛鷹ちゃんも、おはよう」
「ふぁっ、おふぁようございまふ」
からんだマフラーに手こずっていたおかげで、挨拶の遅れた飛鷹は布の下からどうにかくぐもった声をたてた。
飛鷹はいつもの制服にコートを羽織っただけの姿で、唯一隼鷹の髪の色と合わせたかのようなマフラーだけが異なっている。
それもそのはずで、飛鷹がおさまっていたのは、バイクの右横に連結されたサイドカーだった。
巨大なバイクだ。またがると片足も地面につけることができない。それでも小柄な隼鷹がハンドルに手を伸ばしている姿は、それなりに様になっている。緑青色で全体は整えられており、エンジンタンク部分に大きく黄色で書かれた鷹の文字が映えている。
「どうかな、これ?」
隼鷹は誇らしげにしてはいるが、瞳の奥にはおっかなびっくりの色がある。
「すごいわー」
それが龍田の飾り気ない賞賛の声で一気に払われた。
「でしょ? でしょう!」
我が事のように飛鷹も顔を輝かせて喜んでいる。
「ええ、とってもかっこいいわよ」
「そういってもらえると、非番返上でこつこつ頑張った甲斐があるさ。な、飛鷹!」
「頑張ったって、まさか、このオートバイって」
「そう、あたしらのお手製さ!」
龍田の言葉を遮って、誇らしげに言った。
「大変だったわよね。専門用語だらけのカタログからパーツを選んで」
「船便だから時間かかるんだよ。なんてったって、あたしらのあやしい英語だから、きちんと通じてるかどうかもわかんないし」
「来てみたら全然思ってたのと違うなんてこともあったしね」
「ボルトが合わなかった時はあせったよなあ。あわてて工廠の方へ行って、予定入れてないのに、頼みこんで旋盤使わせてもらってさ」
苦労の結晶だけに、こめられた思いもひとしおなのだろう。話しはじめると、二人とも止まらなくなってしまう。その内容はどうあれ、そうして話に花を咲かせている間は、彼女達にも少女の輝きが戻ってくる。
それを目を細めて龍田もうれしそうにながめていた。
「本当にすごいわー」
所期の目的を果たして隼鷹は、少し下で飛鷹も、鼻高々だ。
もっとも、
「それで、そのオートバイはどこに置いておくの?」
龍田のその疑問が提出されるまでのことではあったが。
当然といえば当然の質問ではあった。
これから龍田を含めた三人は遠方に出張することになっている。バイクではなく、もちろん列車だ。そのための席は予約済みだ。だとすれば、俄然乗ってきたバイクが無用の長物になってくる。駅前に大型バイクを停めておけるようなスペースはない。駅の職員に頼み込んで頼めないこともないだろうが、保管の心配は残る。そうでなくとも軍内で公私混同が問題化している昨今、ばれれば処罰の対象となるおそれも十分ある。乗り捨てなんていうのは問題外だ。
「飛鷹」
「隼鷹」
しばらくの間視線を絡めていた二人は、息の合った調子で同時につぶやくと、マフラーから火の出るような猛然たる勢いでやってきた道を駆け戻っていったのだった。
サイドカーに乗っている飛鷹まで戻る必要がなかったと気付いたのは、鎮守府に到着してからだった。
待ち合わせをかなり早くしていたのが幸運でもあり不運でもあった。
幸運はとにもかくにも席をとっていた特急に間に合ったこと、不運はそのためにかなり際どい乗り継ぎが発生し、全力疾走をしなければならなかったこと。
「そろそろ教えてもらってもいいかしら。目的地はどこで、わたし達は何をしにいくの?」
話を聞かされたのは三日前のことだ。
提督から呼び出され、隼鷹飛鷹の視察行に同行するように依頼された。命令でも指示でもなく依頼だった。行き先も明かされず、驚いたことに期間すら切られていないという。ただ、龍田の同道を隼鷹達が望んだことだけが教えられた。あとは「二人に聞けばわかる」と告げられるばかりで、龍田は提督も要件を把握していないのではないかと訝ったほどだった。
飛鷹隼鷹の姉妹と天龍龍田の姉妹は、境遇に似たところがあるため、なにかと相談し合うことも多く、家族のように仲よくしてきた。とはいえ、こんな異例づくめの話が飛び込んでくるとは想像もしてはいなかった。
命令ではないから、拒否権はある。敢えて拒んで提督の困った顔を見るのも楽しそうだったが、それよりも遙かにこの謎だらけの視察への興味が優った。
「わかりました。軽巡洋艦龍田、軽空母飛鷹隼鷹の二名に随伴いたします」
だから返答はほとんど即座にできた。
隼鷹と飛鷹にかかわる謎というところがよかった。この二人はいい意味でも悪い意味でも開けっ広げだ。感情もすぐ言葉に現れるし、それより先に顔に出る。そんな二人が、どうして提督にすら尻尾をつかませず、さして問題にされることもなく、異例の待遇を勝ち取ることができたのか。興味が尽きなかった。
そんなわけで、出発の今日まで、短い間に二人に会って了承の意を伝えた際にも、自分から質問をすることはなかった。
それが特急列車に乗り個室に落ち着いたところで方針を変えたのは、隼鷹達が取っ掛かりを欲しているように思えたからだった。
案の定、水を向けると、すぐに隼鷹がつなぎの内ポケットから一通の封書を差し出してきた。
欧文で宛名は隼鷹と飛鷹の連名だ。大きく朱印で「検閲不要」の文字が捺されているのが目を引くが、急くことなく龍田は視線で飛鷹にも確認をとった。
飛鷹も小さくうなずいて、中を検めることを認めた。
それでもすぐに書面に取り掛かることはせず、まずはひっくり返して裏面の差し出し人を確かめる。
住所の記載はなく、ただ「a. D. General von Jaliver」とだけ書かれている。
さすがの龍田も驚きを隠せなかった。日本語になおせば「退役陸軍大将フォン・ジャリヴァー」となる。
略称からしてドイツ人らしいが、現役ではないとはいえ、どうして遙かに階級が上の、それも陸軍将校より一介の海軍兵卒に、検閲を禁じてまで手紙が送られてくるのか。まったく想像もつかない。
そして、肝心の書簡の中身といえば、さらに龍田の想像を寄せつけないものだった。
書面は高地ドイツ語で書かれていた。
ただでさえ慣れない言葉で、その上硬質な公用語がふんだんに用いられている文章に、珍しく龍田の眉間にも皺が寄っていた。
「これは、あれね、ずいぶんと冗談の好きな方なのね」
透かしで紋章の入れられた便箋から顔を上げると、まず龍田の口をついたのはそんな言葉だった。
「そうなんだよ、あの爺さんにかかると、なんでも冗談になっちまうのさ」
隼鷹は出掛けのどたばたで持ってきてしまったヘルメットを手の中でもてあそんでいる。
「その癖、全部大真面目だっていうのが性質が悪いわよね」
隣の席の飛鷹もヘルメットをしきりに撫でさすっている。
「それで、この手紙の中に出てくる龍田というのはどなた? わたし……なわけないわよね。同じ敷地で暮らしているんですもの」
「あー、それはあたしらの姉ちゃんだ」
「お姉さん、そっか」
龍田は小さくうなずいた。飛鷹と隼鷹は商艦改造空母であり、本来ならば客船として建造されていたところが、時代の要請によって中途より軍艦へ変更された。故に飛鷹には出雲丸、隼鷹には橿原丸という、客船になればつけられる予定だったもう一つの名前がある。
日本郵船という海運会社によって造られた多くの貨客船のうち、出雲丸と橿原丸はその末っ子として産声をあげるはずだった。だから、軍艦としてだけではなく、貨客船の肉親も持っているのだ。
そしてその客船の一隻に、龍田丸という軽巡洋艦龍田に非常に似通った名前を持つ船舶があった。
飛鷹と隼鷹が受け取った手紙は、いってみれば帰郷をうながすものだった。
二人ともずいぶんと長く姉達と会っていないとうかがっている。軍部にいて多忙を極めているのはわかるが、肉親の縁を無下に扱うのは感心しない。遠からず必ず会いにいけ。といっても、そう容易くはいかないだろう。そこで重い腰を上げる理由を作ってやる。自分は今岡山の陸軍師団に招かれているから、そこに視察に来るという形をとればいい。その途中でせめて現在は奈良に住んでいる龍田丸のところだけにでも顔を出してこい。ただし、それは往路に限ること。行きは、これは任務の最中だ。任務には必ず椿事はついてまわる。当事者はそれに臨機応変に対応しなければならない。まして日限の切られていないものならなおさら、じっくり腰を落ち着けて善後策を検討することができる。むしろしなければならない。だが復路は異なる。出発した場所に戻るとなれば、兵士である以上可及的速やかに、考え得る最短の経路をたどって戻らなければならない。ゆめゆめ軍籍置く身としての本分忘れることなかれ。
おおよそそういった内容のことが書かれている。
もちろんふざけているわけではない。その証拠に、公用語である高地ドイツ語で、今時裁判の判決文でさえ見られないような、折り目正しい文法と厳粛な単語が用いられている。ところが内容は完璧にふざけきっている。
つまるところは公務をだしに私用を済ませろと勧めているのだ。にもかかわらず、文面には悪びれたところは一切なく、ペンを取っている人間の厳めしいしかめっ面すら思い浮かぶほどだ。
「おもしろい人ねえ」
龍田はそういうほかなかった。
「でしょ、こういう人なんだ砂利場の大将って」
「砂利場?」
「うん、言いにくいでしょ、ジャリヴァーって。だから本人が日本人にもなじめるようにって、そう自称してるのさ。日本人名だって、えらくお気に入りなんだ」
一から十までなんとも人を食った話だが、それでも封筒に捺された陸軍の認可印は本物なのだから、なんとも噛み合わない思いを抱かせる。
噛み合わないといえば、龍田にはもう一つ不可解な点がある。
「それで、どうして、隼鷹ちゃんと飛鷹ちゃんがこの方とお知り合いなの?」
軍も違えば、階級も違う、それどころか国籍すら違う両者のつながる点が、まるで見当もつかなかったのだ。
「正確にいえばあたしらの知り合いってわけじゃないんだ。砂利場の大将はさ、姉ちゃん達の後見人なんだよ」
フォン・ジャリヴァー元大将は、歴として日本帝国陸軍人であったが、先の戦争のはじまる以前に軍を勇退し、以来とある私立大学にてドイツ語の教鞭をとり、名誉教授の地位にある現在でも週に一コマか二コマ程度の授業を担当しているのだという。
その語学力の縁で外洋の定期航路を持つ日本郵船の嘱託に招かれ、戦中は常勤を行っていた。隼鷹や飛鷹の姉にあたる客船と縁故のできたのもこの時期のことらしい。そうして、どういう運命のいたずらか、それら客船の数々も飛鷹隼鷹と等しく再びの生を享け、とはいっても軍のような統一の共同基盤もなく、暮らしのための寄る辺を探しあぐねていたところに救いの手を差し伸べたということだ。
「というか、発起人です。私達の姉といっても、七十人からいるんで、とても一人でまかないきれないでしょ。だから、当時の郵船の社員や関係者に呼び掛けて、後見人を募ってくれたの」
「砂利場の爺さんは、龍田姉ちゃんのほかにも三人の面倒見てくれてんだ」
「ということは四人も。いったいどういう基準で、選ばれたのかしら」
「昔、本に書いたことがあるんだってさ」
「本?」
「ああ、教師だっていってるけど、砂利場の爺さんは軍隊辞めてから、どっちかっていったら物書きで生計を立ててたんだよ。なかには、あたしらの姉ちゃんを取り扱ったのもあるんだって。そのうち、雲鷹、冲鷹それと日枝丸の姉ちゃん達を除いた四人を世話してくれたんだ」
商戦改造空母である雲鷹と冲鷹は、それぞれ八幡丸と新田丸という名前も持っているが、こちらは隼鷹達とは違い、もともと客船として建造され実際に就航してもいたところが、戦争の開始とともに空母に改造された艦である。また、日枝丸も同じように、客船より特設潜水母艦に改造されている。
「ただ、あたしはどうも、あの爺さんの本は肌に合わなくてさ。実益がないっていうのかな、なんだか書いてることに意味がないような気がするんだよねー」
「なにいってんのよ。隼鷹が本を読んでるところなんて、見たことないわよ。昔っから、三行も読まないうちに眠っちゃう癖に」
「それだって、肌に合うか合わないかくらいはわかるさ。爺さんの本はダメだね、ごつごつしてて枕には向いてないんだ」
飛鷹の指摘にひるむことなく、隼鷹は自分のヘルメットに顎を乗せて眠るふりを見せた。
仕事柄、陸上の交通機関を利用する機会は少ない。
速度はもちろん列車の方がずっと上だが、艤装を着けて身一つで大海原を疾駆するのと比較してみれば、体感速度は似たり寄ったりだ。
むしろ富士山を過ぎたあたりからしばらく茶畑の遠景がずっと続いた間は、航行の方が速く感じたほどだ。
それこそ変わり映えのしない水平線くらいしか見えない海面なのに、おかしな話だとは思うが、実感なのだからしかたない。
ただ大きく異なるのは、流れる空気だ。
航海上にある際、艦娘達は常に風を受けている。進んでいる際は無論、止まっていても他にぶつかる相手のない風が体を吹きすさぶ。全身にまといつく潮風は、長い出撃期間中にありとあらゆる隙間に入り込む。実際、艤装の調整のなかで、最も時間のかかるのは、そうして内部にまで浸された塩抜きらしい。
列車からは、当たり前だが、そんな潮の香は微塵も感じられない。かわりに、窓を開けると吹き込んでくるのは、圧倒するほどの土のにおいだ。
ほこりのたたない海上で生きる人々にとって、何気ない行為でもおこる砂ぼこりは嗅覚を刺激してやまない
「隼鷹ちゃんは、窓を開けてるのが好きねえ」
「あ、ごめん、寒かった?」
実際、山の方から吹き下ろしてくる風は、秋を追い抜いて厳しい冬の寒気を運んでくる。
「ううん、わたしこそごめんなさいね。そういうつもりじゃないのよ」
特急めのうは個室のコンパートメントに床暖房の設備を整えている。おかげで龍田も過ぎ行く秋の風情を、寒さに辟易することなく楽しむことができた。
「ずっと海に出てると、そちらが当たり前になってくるでしょ。だから、こうやって風を切って走るのが陸上に変わると、普段と違うにおいにやられちゃう娘がいるのよ」
「ああ、そういや、鈴谷もダメみたいだったな。サイドカーの試乗に付き合ってもらったけど、えらく具合悪そうだったし」
「あれは乗り物酔いとは違うと思うけど……」
「どうしてさ、あんなに顔真っ青にしてたじゃないか」
「そりゃ走り出す前に、連結の具合が悪いなんて言われたら青ざめもするわよ」
「けど、走ってる間は、はずれたりしなかったろ」
「すごかったわよね、停車と同時にサイドカーだけ横転したんだもの、奇跡的なタイミングよ」
「それはつまり、あたしのドライビングスキルが神がかりってことだろ」
「百パーセト違うから」
二人のやりとりを見ているのは楽しいが、こんなことで諍いを起こしてもつまらない。龍田はそっと助け船をはさんだ。
「鈴谷ちゃんはともかく、なっちゃんなんてすごいわよー。バスに乗っても徐行の時点で脂汗だらだらなんだから」
「へー、意外ー。那智さんが」
重巡洋艦妙高型四姉妹の次女といえば、他の鎮守府にまで聞こえるくらいの泣く子も黙る鬼軍曹だが、まさか乗り物に弱いとは。訓練生時代にその厳しさを目の当たりにしたくちである飛鷹はつい目を輝かせてしまう。
「ほかのみんなに言っちゃだめよ。すごく気にしてるんだから」
「えー」
それだけに釘を刺されても、つい反撥してしまう。
「だって悪いもの。わたしが口をすべらせたせいで、二人が湾内百周なんてことになっちゃったら」
那智は今でも艦隊員達の規律取り締まりの任を負っている。そんな彼女からすれば、たるんだ隊員を再訓練させるなんていうのはお手の物だ。
「ぶー」
飛鷹は口を尖らして不満を示してみたものの本気ではない。中間管理職的な立場の辛さは理解しているつもりだし、なにより本人はあまり自覚的ではないが、言動の端々に愛嬌のある那智を飛鷹も慕っていて、困らせることは本意ではないからだ。
「そういやなんの話だっけ」
クッションをはさんだおかげで、隼鷹も自分達の脱線に気がつけた。
「隼鷹ちゃんは風にあたっているのが好きなのねってお話」
「んー、特別好きってわけじゃないと思うんだけど」
どこか照れくさそうに、隼鷹は頭を強く掻きあげる。
「ただ、海の上だとにおいには敏感になるけど、結局潮の香りしかしないじゃない」
海で働く人々にとっては潮のにおいの変化も、気圧や気候の推移を知る重要な手掛かりだ。特に鼻のきく人ならば、気象の移り変わりを言い当てるし、多少鈍感でも差異には気付く。とはいっても、それが単調な香りだというのは否めない。
「でも陸の上はいろんなにおいがあるだろ。山は山、草原は草原、町や村でもそれぞれ違ったにおいがする。そこに体をさらしていると、ああ、地上に戻ってきたんだなって思えるからさ。特にこうして乗り物の上で窓を開けてたら、自然とそのにおいを運んできてくれるだろ」
「あっ、それで隼鷹ちゃんは、自動車じゃなくてオートバイなのね」
「そうかも知れない。車でもバギーとかジープが気になるし」
「でもさ、それって、結局、風に当たっているのが好きってことじゃないの」
「え。あ、ああ、そっか」
飛鷹に指摘されると、隼鷹は大きな目を丸くして、やがてはにかむように微笑んだ。
列車が名古屋に到着すると、奈良方面へ向かう関西本線へと乗り換えるため、一行は特急めのうを後にした。
朝が早かったおかげでまだ日は高いものの、直で奈良に行き、そこから隼鷹と飛鷹の姉の方の龍田の住居を探しつつ歩けば、どうしたって夜になる。
おまけに、乗りがけのばたばたでろくに外観を見ていなかっためのうの様子を堪能しているうちに、乗り替えるはずだった列車が行ってしまい、次の便が一時間以上先となれば、いよいよもって到着が深更になる可能性も軽視できなくなってくる。
さらに、
「ごめん、姉ちゃんに電報打っておかないと、これから行くって」
「あきれた、まだ連絡してなかったの」
隼鷹がそんなことを言いだしたのには、さすがに飛鷹も驚いてしまった。
「しょうがないだろ、ここ最近は出撃の可能性があったんだから」
外出と宿泊の許可は得ているものの、いざ出撃の作戦が立てられれば、個人的な事情はあっさりと反故にされるのが常だ。
飛鷹が口をつぐんだのをきっかけに、隼鷹は駅構内の電信所に走ろうとしたが、それを龍田が制した。
「待って、電報を出すのなら、到着は明日ということにしましょ。これから行ったんじゃ、積もる話もできないでしょう。それに」
「それに?」
「それに折角の旅ですもの、少しくらい羽を伸ばさなきゃ」
「だよねえ」
隼鷹の瞳が爛々と輝いたのを見れば、賛否を問うまでもない。動機はともかくとして、飛鷹も納得はしたものか、積極的に異を唱えることはなかった。
名古屋で一泊という話も出たが、それだと翌日の移動が中途半端に長いものとなるので、ひとまずかつての名阪間の中継駅でもある亀山にまで向かい、そこで宿を探すということで意見が一致した。
それならば、なにも快速を待つ必要もない。三人は停まっている各駅停車に乗り込んで、向かい合わせになるボックス席に陣取った。
朝食も兼ね合わせて昼は特急の食堂車で済ませていたのだが、時間が中途半端だったというのもあって、皆小腹が空いてきた。そこで構内の売店で、飲み物といっしょに巻き寿司を買って持ち込むことにした。
「あら、やだ」
ディーゼル機関車の動き出すのと同時に、竹の包みを開いた龍田が声をあげた。
巻き寿司には切り込みが入れられてなかったのだ。
「へらでもあったらいいんだけど」
「だめだめ、具がぴょろんと出ちゃうわ」
中身は甘く煮込まれたかんぴょうと、お新香に胡瓜の細切りばかりだが、確かに刃物でもないと綺麗に切り分けることは難しそうだった。
「いいじゃん、ちょうど人数分あるんだし、そのままいっちゃおうよ」
言うが早いか、隼鷹は巻き寿司の一本を手にとって、
「いっただきまーす」
そのままぱくりとくわえこんだ。
咄嗟に龍田と飛鷹は顔を見合わせたが、たまらず吹き出すと、隼鷹にならって手を伸ばした。考えるまでもなく、遠慮し合うような仲ではないのだ。
「うん、これいけるな」
「ほんと当たりじゃない」
軽空母二人の感触は良好だった。
作り置きの店売りの品にしては、ご飯もかたくなりすぎておらず、かんぴょうの甘さとお新香の漬かり具合もほどよく、胡瓜の青い味が口の中に残らない程度にそれぞれからんで思いのほか満足できた。
「そうね、美味しいわね。でも……」
龍田も正直に味の感想に同調しつつも、チラリと正面の二人に意味ありげな視線を投げかける。
「女ばかり三人でそろって巻き物を口から垂らしている姿は、ちょっと不思議よねえ」
両手を包みこむように海苔に添えている龍田に、片手でつまでいる飛鷹、隼鷹にいたっては口の端から伸びるにまかせて、それぞれ黒くて長いものを頬張っている様は、たしかになかなか人前に出しづらいものがあった。
そうして女三人集まれば姦しいを地でいきながら、車窓から眺められる景色を肴にしゃべり合っていると、亀山に向かう沿線の状景は河原田駅を境として、ずいぶんとのんびりとしたものに変わっていった。
民家がまばらになり、そのかわりに現れてくるのが茶畑だった。
畝ごとに刈りこまれた茶の低木が帯状に規則正しく並び、冬を間近に控えながらも葉を茂らせて、暗緑色の彩りを風景に添えている。
車内に乗客の人影は薄くなり、そうなると自然と口数は抑えられてくる。
やがて、どうしたきっかけでか、会話が途切れた。話の接ぎ穂を探してみようとするものの、おかしなことにそれまでどういう話題を口にしていたものか、なんだかずいぶんと遠い場所にあるような気がしてきて、きっかけがつかめない。
こういう時、隼鷹は無理に言葉を探そうとしない。
陶製の容器に入れられた売店売りのお茶を口に含む。すっかり冷めてしまってはいたものの、それがかえって暖房のききすぎた車内と、乾燥した冬に近い気候とがあいまった空気にさらされていた喉には心地よく、底で溜まった濃いめの味がしみる。
たまらず小さなため息がもれたが、いかにも快い、余韻の軽やかな一息だった。
龍田と飛鷹もそれに倣い、そうして一服するうちに列車は目的の亀山駅に到着した。
かつては鈴鹿峠を目前に控えた宿場町として栄えた亀山の名残りを、現在に見出すことは容易ではない。
米原を経由する現在の東海道から逸れたことにより、観光客の数が激減し、営業を廃止した旅館も少なくない。
おかげで駅で宿泊先の紹介を頼んだものの芳しい返答がなかなか得られず、とうとう思いあまって軍の名を使うことになってしまった。
「さっきの案内係の人おかしな顔してたわね」
「昔と違うんだから、軍人も珍しくないだろうに」
よくいえば裏表のない土地柄の人々の露骨な好奇の眼差しは、飛鷹や隼鷹にはあまりおもしろいものでもなかったらしい、駅の外で旅館の迎えが来るのを待つ手持無沙汰な間に、ついそんな愚痴がもれた。
「無茶言っちゃだめよ。わたし達が復帰した話は、報道もされているでしょうけど、各鎮守府周り以外だとまだまだ物珍しい存在なんだから。それに……」
二人の会話を聞きとがめた龍田が諭すが、その口調はどこまでも穏やかだ。
「それに、やっぱり海軍の人間が山間の土地にいるのって変よねえ」
もっともな感想をつぶやいたのと、送迎車が到着したのはほとんど同時だった。
乗り込んだ車から見える窓の外の風景はまるきり田舎町のそれで、観光の目を引きそうな史跡もなければ、名物らしきものもないようだった。
車が山の端に近づくと、いよいよ閑散とした雰囲気は拭えなくなり、人の背丈ほどの低木がずらりとならぶ畑作地らしい土地が広がってきた。
「あら、桑畑ね」
「昔ほどじゃありませんが、このあたりは養蚕が盛んなんですよ」
龍田がつぶやいたのを、それまで口をつぐんでいた年配の運転手が、案外と気さくな調子で返した。
「かつてはお伊勢さんに、布を奉納していたこともあるんですから。こりゃ大したもんです」
いかにも土地の者らしい朴訥とした誇らしげな物言いが、ともすれば冬の情景に見える葉の落ちた桑畑を秋に相応の姿に引き戻してくれる。
「へえ、じゃあわたしもいずれ一着あつらえてもらおうかしら」
「それはいい。姉さんなら、きっとどんな服だって似合いますよ。ちょっと値は張りますがね、一生に一度の記念なら安いもんだ。花嫁衣装一式そろえて御覧なさい。そら壮観なんだ」
「ずいぶんとおだてられたわねえ。考えておきますわ。もっとも、まだ白装束のお世話になるには、少しかかるでしょうけど」
「なに、こんなのは、少し早目ぐらいがちょうどいいんで。あらかじめ準備しておけば、土壇場であわてることもありませんし、なにしろ縁のものですからね。いつ何時必要になるかなんてわからないもんですから」
「おじさん、旅館の運転手か、衣装屋の宣伝マンかわかんないね」
なおも熱心にかきくどこうとする運転手に、少々驚きあきれて隼鷹がつぶやいた。
「似てて当たり前ですさ。どちらにせよ、乗せるのが仕事ですからね」
「どちらかって言ったら、かつがれている気がするけど」
饒舌な運転手に乗せられて、間もなく車は宿についた。
碧筝閣という屋号の宿に着いた時には、まだ日も暮れきっていなかったため、いやおうもなく外観が三人の目にうつった。
ホテルという売り込みではあったものの、鄙びたという印象を拭いがたい、鉄筋コンクリートの洋風建築でありながら外壁の一部や柱に木造の趣きを残しているのは、意匠というよりは、単に改築に改築を重ねた無計画の結果といえそうだった。
おかげで片側の屋根は瓦をいただいているかと思えば、もう片側はスレート葺きになっているし、漆喰塗の壁の端にほんの少しだけレンガが積んでいたりしている。見事なまでにちぐはぐな印象を与えてくる。
けれども、それは目ざわりではない、飲み込みやすいちぐはぐさだった。
「いいホテルじゃない」
飛鷹に限らず、訪れた三人ともに気に入ってしまった。
チェックインを済ませ、通された部屋は三階の角部屋で窓が山に面した和室だった。入るなり青いにおいが鼻をくすぐり、畳を張り替えたばかりだと知れた。
「こんな時期に珍しいわねえ」
「なにか事件でもあったのかもしれないわよ」
「だとしたら、夜中に出てきたりして」
「ちょっとやめてよ」
「そうそう、お化けみたいなのとは、毎日みたいに向き合っているものねえ」
話の内容はともかくとして、和気藹々とくつろぎ、ひとまず汗を流すために入浴して、自慢だという夕飯に出された山海の珍味を堪能すると、すっかりとのんびりした気分に浸っていた。
食後、飲み足りない隼鷹に龍田がつきあう形になり、なにかお勧めのものがあるかとたずねたところ、仲居が持ってきたのは一本の瓶だった。
「桑の実酒です」
かつての養蚕業の名残りで育てられている桑の活用にと、考案された果実酒だった。
「おいしい」
「いけるけど、あたしにゃちょっと軽すぎるな」
グラスを傾けた二人の感想には、少なからず温度差があった。
酒は桑の実の色を思わせる赤色をしていたが、ワインとは違って、もっと澄んでいる。味もその色合いに似て、甘さが強いが雑味が少なく、舌からするりと溶けてしまうような後口の爽やかさが特徴的だった。
これが隼鷹には少々物足りなかった。
「仲居さん、悪いんだけど、あたしにはあと日本酒を二合ばかりつけてくんないかな。いや、燗なんてしなくていいよ、冷やで一気に持ってきてもらっていいからさ」
そして、布団の準備にやってきた別の仲居に、追加を注文してしまった。
「あら、隼鷹ちゃん、もうこっちはおしまい? だったら、どう、飛鷹ちゃん。これならそんなに度数高くないわよ」
「え、いいの?」
「もちろん。一人だけ飲まないのも楽しくないでしょう」
「あんまり飲みすぎるなよ。強くないんだから」
「わかってるわよ。失礼しちゃうわ、子供じゃあるまいし」
アルコール耐性が低いことは、飛鷹も自覚している。けれど、飲むのも、酒の場に連なるのも好きなたちで、隼鷹が諌めるのも聞かずに、龍田が差し出したグラスを奪うように手にして、早速口に含んだ。
「ほんとだ、これおいしい!」
ぱっと飛鷹の表情が華やいだが、これが結果的に、続く事態を引き起こすきっかけとなったのだった。
「ねえ、龍田さんてどんな方なのかしら」
「どうしたの、やぶからぼうに」
「だって気になるじゃない、同じ名前のよしみで」
頬がほんのり桜に色づき、眼もうるみはじめている。桑の実酒という珍品に少なからずあてられたのかもしれない。
「じゃあさ、龍田姉はどんな人だと思うのさ、同じ名前のよしみで」
こちらは冷や酒を猪口ですいすいとやっている隼鷹が、いたずらっぽい笑みを浮かべつつ、あべこべに質問してきた。
「そうね、同じ名前のよしみで、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合のよう、といきたいところだけど、さすがにちょっと無理があるかしら」
「へえ」
やや意外な表情が隼鷹の顔に浮かぶ。軽巡洋艦龍田はおよそ謙虚から縁遠い人物だ。傲慢というのではない。くだされた評価はすべて受け止めるし、褒める時も過不足なく思ったままを出し切ってくる。他人のものはもちろん、自分の感情にも従順なのだ。
龍田を表すのに、柳に風を挙げる人もいるが、それも正確ではない。およそのらりくらりと身をかわすイメージではないし、なにより、
「だって、芍薬も牡丹も季節が合わないでしょう」
柳は返す刀で切りつけてきたりはしない。
「この時期だとそうね、やっぱり紅葉かしら、冬を前にしてなお真っ赤に燃え輝いている。普段はクールビューティだけど、内に秘めた情熱はだれよりも熱い、なんていうのはいかがかしら」
「えー」
一人顔を赤くしている飛鷹が、薄笑いを浮かべながら異を唱える。
「それはどっちかっていうと、加賀さん、いや不知火じゃない? ほら、あの駆逐艦の」
陽炎型二番艦不知火は、たしかに普段は口数少なく、我の強い同世代の少女のなかでは目立つ存在ではないが、多くの隊員が音を上げる訓練でも黙々とこなす芯の強さを併せ持ってもいる。
「あらら、折角龍田が二人いるのに、千早振るに合わせてもらえないの?」
千早振る神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは、は古今集にも入撰している歌で、この川名が軽巡洋艦龍田の由来になっている。古来より紅葉の名所として知られていたことが、歌に詠み込まれている。
「だってお姉ちゃんは違うもの」
「どういうこと?」
「うちの龍田お姉ちゃんは、名前を川からとってるんじゃないの。竜田神社の方だもの」
日本郵船の有した客船龍田丸、浅間丸、秩父丸の姉妹艦三隻は、飛鷹の言葉通り、どれも神社名に由来する。特に秩父丸は、ローマ字表記による名前の問題から鎌倉丸へと改名された際、それぞれの神社の神霊の交代まで行われたという念の入れようである。
「だからおおはずれ、もみじだろうがいちょうだろうが当てはまりませんよーだ」
弾けたように甲高い笑い声が飛鷹の口からほとばしり出た。背をのけぞらせて、長い黒髪を振り乱して笑う様は、日本人形のようとも喩えられる外見からは及びもつかないものだった。
飛鷹を酒から遠ざけさせている原因の最大のものが、この酒癖の悪さにあった。お猪口なら一杯、グラスでも半分も口をつければ酔っ払ってしまって、呂律があやしくなり、体を大きく揺らせていかにもすぐに倒れてしまいそうになる。ところがここからが長い。
眠るでもなく、一度に受け付ける酒量が少ないことが幸いしてか酩酊してしまうわけでもなく、へべれけの状態がずっと続く。
「龍田お姉ちゃんはアレよ、ほら、ていうか、どっちのことを言ってるかわかりづらいわね。うちの龍田姉ちゃんとこっちの龍田さんてのはどうかな。余計わかりにくいってえの」
けらけらという飛鷹の笑い声が室内に充満する。
どうやら、自分で笑いを抑えることができないらしく、腹を抱えてしばらくむせ返っていた。
けれども、飛鷹は必ずしも笑い上戸というわけではない。感情の起伏が激しくなり、喜怒哀楽の表現に際限がなくなるのだ。
「ちょっと飛鷹、そろそろ控えなよ」
「えー、いいじゃないの。お姉ちゃんのことなんだから、わたしらがいわなくてどうすんだーってえの」
明らかに酒量が限度を超えてきていることを注意したつもりだったが、飛鷹はしゃべっている内容に釘を刺されたと勘違いして、グラスの残りを飲み干したあげくに、さらにもう一杯注ぎ足した。
「うちの龍田お姉ちゃんは、こっちの龍田さんみたいに美人じゃない」
「あら、ありがとう」
「まだお礼は早いわよ。典型的な日本人顔で、鼻が低いし顎ががっしりとしてる。唯一、どんぐり眼がくりっとしてるところくらいかな、かわいいのは」
そういう飛鷹も大きな目をぱちくりと瞬いている。
「そんなお姉ちゃんだけど、私らよりずっと働きもので、長い航路を時間を掛けて何十周もしていたの。一万七千トンといったら、日本の客船じゃ五本の指に入るくらいの大型船だったんだから。お姉ちゃんが就航したのは、横浜サンフランシスコ航路だから、英語はもちろんペラペラ、それに向こうの文化とか習慣にもくわしくて、いってみたらインターナショナルなハイカラウーマンだったの」
「今だって、名前の由来になった土地で、英語教室をひらいて子供や大人に教えてるんだよ」
飛鷹だけでなく隼鷹も、姉の話をする時は、いつも以上に上機嫌で誇らかな様子を見せている。
「折り目のピシッと入った白いカッターシャツ着て、きびきびと小走りに駆けまわってるとさ、颯爽としてて格好いいんだ」
「そんなお姉ちゃんだから、開戦後の抑留外国人の交換船に選ばれて、敵対中の相手国人にも感嘆されるくらいの饗応を行って、立派にそのお役目を果たしたのよ」
龍田丸が抑留者戦時交換船に選ばれたのは一九四二年八月に行われた二回目の実施の際で、姉妹船である浅間丸、鎌倉丸と任にあたり、イギリスとベルギーの両大使をはじめとした五百人近い抑留者を、中立国ポルトガル領であった東アフリカのロレンソ・マルケスに届けた。
「でも、沈んじゃったけどね」
変化は唐突で、劇的だった。
自慢の姉を誇らしげに語っていた表情が豹変した。
「昭和十八年二月よ。海軍に所属することになった龍田丸は、兵の輸送艦の任務を与えられて、航路を三宅島の東にとっていた。そこで潜水艦の魚雷の直撃を受けた」
途端に目は据わり、唇はわななきはじめた。
「潜水艦に対しては、正規の軍艦ですら有効な対抗策を持っていなかったあの頃、申し訳程度のしかも時代遅れの砲を臨時でつけただけのお姉ちゃんでは、丸裸も同然だった。標的になった船は、なすすべもなく沈むしかなかった。開いた傷口から、冬の海水が艦内に溢れこんでくるのは、どれだけ冷たかったことか」
赤らんでいた顔は蒼ざめ、まるで自身が冷水を浴びせられたようだ。
「お姉ちゃんは人を運ぶのが仕事。それを果たせないままに沈むのは、どんなにつらかったことか。じゃあ、私達軍艦の仕事はなによ。御盾となって愛すべき人を守ること。違うの?」
「いいや、なにも間違っちゃいないさ」
いつもと調子を変えないよう努めて、努めていることがわかる程度に、隼鷹がこたえる。
「守れてないじゃない!」
激昂した飛鷹が両の手を叩きつけると、一畳はあろうかという黒檀の座卓が大きく揺らいだ。
「龍田お姉ちゃんも、鎌倉のお姉ちゃんも……。だれ一人救えなかった。みんな、みんな私より先に海の底に沈んでいった」
龍田丸をはじめとする大型の旅客船は、太平洋戦争勃発を契機として企業である海運会社の手を離れ、海軍の所属となり、一部は飛鷹隼鷹と同じく空母への改造を施されたが、大部分は兵士や物資の運搬に利用され、それぞれの戦地へと赴くことになった。
しかし、少ない武装にあるかなきかの護衛艦、さらに物資不足と燃料不足が祟り、戦況の悪化に伴い日本近海にまで潜水艦や空母艦載機が跋扈するようになると、雷撃や爆撃の標的となり、戦時商船隊は一隻また一隻と海の藻屑と消えていった。
特に一万トンを超えるクラスの全商船のうち、戦中期間を生き残って残存したのが病院船に改造されていた氷川丸ただ一隻であったという事実は、その凄惨さを表してあまりある。
そしてそれは、多くの場合、昭和十九年六月の飛鷹の撃沈以前に起こっていた。
「家族の一人も助けられず、おめおめ生き残って、それじゃあ私達、いったいなんのために空母になったのよ」
振り絞るような声が不意に途切れたかと思うと、ガツンと鈍くも大きな音が続いた。
長い髪を振り乱して、飛鷹が額を座卓に打ち付けたのだ。
それきり飛鷹はピクリとも動かなくなってしまった。それまでの口吻とは打って変わって、うめき声の一つもあげるでもなく、まったく押し黙ってしまったのだ。
「ちょっと飛鷹?」
明らかにただごとではない。隼鷹は即座に姉のかたわらに寄り添うと、体を揺すぶらないように、そっと肩に手を掛けた。
龍田は口をはさむことなく、やはり真剣な面持ちで事の推移を見守っていた。
その龍田の目の前で、隼鷹が大袈裟にため息をついた。
「まったく暢気だよね」
言いつつ振り返った顔には苦笑いが浮かんでいた。
「寝ちゃってる」
卓に突っ伏したまままんじりともしない飛鷹は、規則正しい寝息をたてていた。
『お風呂は二十四時間開けておりますので、いつでもご入浴ください』
部屋に案内してくれた仲居の言っていたことに間違いこそなかったものの、言葉足らずであったのは否めない。少なくとも、夜が更けたら灯が落ちていることぐらいは説明があってもよかった。
卓をかたして、飛鷹を布団に寝かしつけた後、一風呂浴びる提案は隼鷹龍田のどちらともなく口をついた。
そうやって、いざ訪れた浴場では、
『資源節約のため、夜間零時より十七時まで、大浴場を消灯しております』
という張り紙に出迎えられ、夜闇が湯よりも深くみなぎっていた。
「まー、しかたないか」
さほど驚いた風でも、不満を抱いた風でもなく、隼鷹はあっけらかんとしていた。彼女らにすれば、灯火管制は当たり前なのだ。
「思ったほど暗くはないわ」
先に洗い場に入った龍田の言う通り、脱衣場の蛍光灯や大ガラス越しに差し込んでくる中庭の常夜灯、加えてささやかではあるが星々や月の明かりもあわさって、物の配置がわかる程度には視界が確保されていた。
二度目の入浴だから、隼鷹も龍田ももっぱら湯船につかって、洗い場に腰を下ろすのは茹だり過ぎた体を冷ますのにあてた。
肩まで湯につかって、温まったらしばらく外に出て、人心地つけばまた湯に入る。そんなことを二度ほどくり返し、すっかりふやけてしまった頃、隼鷹がぽつりとつぶやいた。
「黒いね」
明かりの乏しい湯船の中は、まるで墨を溶かし込んだようだった。
「あたしさ、こういう黒い水を見てると、夜の海を思い出すんだ。今のじゃないよ、昔の記憶さ。旅客機がまだ飛ばず、宇宙ロケットなんて子供の夢か映画の中くらいに思われてたあの頃の夜は、頭上の果てない闇と、足下の底知れない黒さに圧されていた」
両の手ですくいあげると、そこにはさすがに澄んだ湯が残るが、それもたちまち指の間からこぼれ落ちて、また黒い墨汁に逆戻りする。
「思い出すたびにぞっとするんだよ。この水の中から、無数の手が伸びてきて、あたしを引き込むんじゃないかって。暗い水底にまで引き寄せられて、二度と浮かび上がってこれないんじゃないかって。視界一杯、見渡す限りどこまでも、敵も味方の区別なく、艦がなかばへどろに埋もれて身じろぎ一つせずに横たわっている光景が目の前に浮かぶことすらあるんだ」
つかっているのはやや熱めの湯だったにもかかわらず、話をする隼鷹はかすかに震えていた。
「おかしいだろ。あたしは沈んだりしてないのにさ」
海軍の誇った日本機動部隊。その主幹たる空母のうち、太平洋戦争を越えて残存したのは鳳翔と隼鷹の二隻、大破座州していた商戦改造空母の海鷹を合わせても三隻を数えるばかりだった。
「いまの連中は気のいいやつらばかりさ。昔みたいに艦や、所属、出身の違いのいがみ合いはないし、変なエリート意識をむき出しのやつもいない。たださ、それでも、時々会話のうちにどうしたって、その瞬間に行き当たることがあるだろ。自分達の沈んだその瞬間にさ。ミッドウェー、ソロモン、レイテ……。そんな名前がひとしきり出た後で、自然あたしのところに視線が来るんだよ。そうしたら、みんな決まってはっとして、次の言葉に困った顔をするのさ。そりゃそうだよね。『おめでとう』はおかしい。負けたんだから、めでたいはずがないよ。『残念だったね』死なずに残念なんて話はないさ。だからみんな語尾を曖昧にして、言うしかないんだよ。『よかったね』って」
口元までつかって、隼鷹はしきりに湯をぶくぶくと泡立てていた。
「でもさ、本当によかったのかな。あたしも」
次いで口をつきかけた言葉をすんでのところで飲み込んだ。
空母としてはもちろん、海軍全体を含めても数少ない残存艦であった隼鷹だが、機関部に受けた損傷が完全に補修されず、外洋航海は不可能とされ、戦後の引き揚げ任務に指名されることもなく、除籍処分を受けることになった。ここでも、客船橿原丸は、その所期の目標を果たせなかった。
やがて、解体作業のはじまるのを待つなか、耳をふさぎたくなるような言葉を聞かされる羽目に陥った。
『負けてよかった』
『あのまま続けていたら取り返しのつかないことになった』
『勝てるはずのない戦争だった』
身を切るような言葉が、老若男女銃前銃後の立場を問わずつぶやかれた。
隼鷹は何も言い返せなかった。当時は単なる一船舶だった彼女に口がなかったというのももちろんだが、仮に今の体であっても同じだったろうと思う。
刀折れ矢尽き負けたのは事実で、自分達の力が及ばず本土にも多大なる被害を出させてしまったのも事実ならば、語るべき何物もないのが彼女の事実だった。
そして一九四七年八月一日、解体作業の完了をもって、商戦改造空母隼鷹は竣工から五年と三カ月にも満たない短い生涯に幕を下ろした。
ところが、運命のどうしたいたずらか、こうして時を経て、人間としての身体を伴い、新たな生命を得ると、驚きや喜びとともに、別の感情がわだかまってくるのを抑えられなかった。
日本は明らかに裕福になっていた。
それも、戦前までの西欧先進国に背伸びをして追いつけ追い越せをやっていた状況とは異なり、ある面では明らかに優っていた。
あの敗戦をバネに、泥土より這い上がった結果だった。
日本は明らかに裕福になっていた、戦前の水準を超えて。明治以来八十年の期間をかけた開化より、倍以上の速度をもって。
『負けてよかった』
あの時の声が、隼鷹の耳に生々しくよみがえってきた。
「あたしも沈むべきだったのかな」
けれども、それは龍田にも、飛鷹にすら聞かせられない独白だった。何故なら彼女らは沈められているからだ。何故なら彼女らはあの声、あの慨嘆を聞いてはいないからだ。
日本の再起は何より喜ばしいことだ。けれども、それが彼女達の犠牲の、いや彼女達の消滅の上に成り立っているのではないのか。そう思うと、隼鷹は自分の内の湧き起こる困惑を振り払うことができない。
再び母国のために働ける喜びは何にも代えがたい。けれども、その働きは、順序こそ違えども、おそろしいほどに正確に前の戦いをなぞっている。だとしたら、この働きもまた、消え去るためだけの通過儀礼なのではないのか。
そんなことはない、あの時とは状況が違う。今戦っている相手は化け物だ。あの時も、相手を同じ人間と思っていただろうか。そんなことを言って、戦わねばやられるだけだ。そもそもこの戦いはいつはじまったのだろう。気がつけば、自分達は武器を手にして戦っていた。それが当たり前のように思わされて、自分でも思うようにして。一体、何が契機となって、何を目的としてこの戦いははじまったのだろう。そんなことも知らず、やらなければやられると思い思わされている。これでは、そっくりではないのか、あの時と。
二度目の生を受けてから、胸の中で凝り固まっていた思いは、決して表に出ることのないように幾重もの鍵が掛けられていた。
しかし、鎮守府を離れ、気の置けない人々に囲まれ、疎遠になっていた姉を訪う機会を得て、その鉄壁の防備にも綻びが生じていた。そこに、飛鷹の心情吐露がとどめをさした。
ほとんど喉元まで言葉が飛び出しかけていた。だが、とうとうそれが口をつくことはなかった。
それもこれも隼鷹が沈まなかったから、芽生えた感情なのだから。
長く湯につかり過ぎたらしい、自分の顔が茹だっているのが、隼鷹は自身でもわかっていた。特に目の周りまで、おかしなくらいに真っ赤になっていることだろう。こんな顔を龍田に見せるわけにはいかない。
冬を間近に控えた寒気は、建物にまといついている。それはこの浴場も例外ではなく、壁や特に天井は冷たさをたたえている。温水からたちのぼった水蒸気は、その冷たい壁面に触れるとたちまち凝固し、しずくとなってしたたってきた。天井が変な窪み方をしているのだろうか、特に隼鷹のまわりにその水滴は激しく落ちてくるらしい。
龍田は途切れた話のかわりに、にわかに頻繁になりだした水音を耳にしていた。
しばらくの間、それを聞いた後、龍田は湯船から上がり、洗い場に歩を進め、
「ちょっと入り過ぎたわね。隼鷹ちゃん、いらっしゃい、背中流してあげる」
あっけないほど素直に、隼鷹はその申し出に従い、無言のまま龍田に背中を見せて椅子にしゃがみこんだ。
よく泡立てた石鹸を含んだタオルで、龍田は隼鷹の背中をこすっていく。力はこもっているが、掻き立てるような感じではなく、慈しむように上から撫で下ろしていった。
「また傷が増えたわね」
普段は袖の長い服に身を包んでいて目立たないが、隼鷹の体のあちこちには大小無数の傷痕が刻まれていた。
火傷によるひきつれ、縫い痕の凹凸の残る裂傷、肉の抉れがそのまま窪みになってしまっている銃創。どれもが激しい命のやり取りのあったことを示すものだ。
「いつもありがとう。わたし達を守ってくれて」
龍田はまるで傷の一つ一つに語りかけるように、背中へ口を近づけて言った。声が触れて、つい背筋が伸びる。
「けど、わたし達の前でまで、畏まらないで」
顔の位置を元に戻し、脇腹から腰にかけてを特に重点的に洗いあげていく。
「隼鷹ちゃんが何を見て、何を聞いたのか、わたしは知らない。だから、わかるなんて気安く言えないわ。でも、それをたてに、みんなの言葉から耳を遠ざけるようなことはしないで。鳳翔ちゃんや長門ちゃんが沈まなかったことまで、よくなかったと言えるの? 飛鷹ちゃんも、隼鷹ちゃんが沈まなかったことに、複雑な思いを抱いていると思うの?」
口調はあくまでやわらかくやさしいものだった。だからこそ、重い一撃を腹に喰ったようにいつまでも身内に響いた。
「胸を張りなさい。あなたがそんなにしょぼくれていちゃ、結果的に同じことでしょう」
その時、隼鷹の全身に電流のようなものが走った。たしかに、これまで、疑問に固執するあまり、考えることよりも先に出した答えにとらわれてしまっていた。
「ね?」
唐突に、風呂場に似合わない、乾いた音がこだまする。龍田がここぞとばかりに隼鷹の背中を平手で打ちつけたのだ。
「いっ!」
完全に油断していただけに、痛みと驚きで咄嗟に振り返ってしまった。途端、目を細めて微笑む龍田と向き合う形となった。
「うん、大丈夫ね」
龍田は一度隼鷹の瞳の奥をのぞきこむと、ただそれだけつぶやいて、すっくと立ち上がった。
「お先ねー。隼鷹ちゃんも、湯あたりしないうちにあがってらっしゃい」
それからは、振り向きもせず、唖然としているらしい隼鷹を一人残して浴場を後にしたのだった。
隼鷹が部屋に戻ると、豆球一つを残して電灯は落とされ、飛鷹を真ん中にして川の字に並んで敷かれた布団の一組に龍田も既にもぐりこんでいた。
顔を合わせたらどう言葉を交わそうと、風呂の中でさんざん考え込んだだけに、隼鷹にとっては少々拍子抜けの感がないでもなかったが、ほっとしたのもまた事実だった。
上っ張りを脱ぎ、隼鷹も右に敷かれた布団に入る。いろんなことがあった割には気が張っておらず、まくらに頭を乗せると、すぐに眠気が襲ってきた。
「おやすみなさい、隼鷹ちゃん」
「おやすみ、龍田姉」
だから不意に飛鷹のを越えて龍田が声を掛けてきたのにも、自分でも意外なほどに落ち着いてこたえることができた。
「起きてたんだ」
「寝てたわよお」
相変わらずつかみどころがない。
「こうして静かなところで横になると、まるで溶け込むみたいに意識が薄れていくのがいいわよね」
作戦であろうと遠征であろうと、海に出ている間は無論、鎮守府も港に面しているため、彼女達は日々波の音に取り巻かれて暮らしている。
おかげで、耳を澄ませてみても、時折風の吹く音以外何も聞こえないという体験は、非常に貴重なものだった。
龍田は寝入りそうな境目で、この静寂をしばし堪能すると、やがて口を開きだした。
「わたしはね、あの当時のことを、納得しているのよ。満足はできないまでも、ね」
龍田は昭和十九年三月十三日、八丈島沖にて潜水艦サンドランスの魚雷攻撃を受け沈没した。大正時代に建造され、太平洋戦争当初より既に旧式の艦に属した龍田は、戦況の変化を受けて一線を退き、輸送作戦の護衛任務についていた。松輸送作戦と名づけられたこの作戦は、龍田を含めた数艦の犠牲を出しながらも成功をおさめ、多数の兵士や物資を来る決戦の場へ送ることができた。けれども、その三ヶ月後に行われたサイパン島攻防戦において、日本軍はほぼ全滅という悲痛事を味わうことになる。龍田は我が身を賭して、絶対の死地へ兵士を送り届けたともいえる。
「結果だけみれば、わたしのしたことは、何の成果ももたらさなかったかもしれない。けどね、評価というものは、常に第三者によってくだされるものなの。本人の感想や思惑なんて入り込む余地はどこにもありはしないの。でもね、わたしはむしろそちらこそ大事で尊いものだと思うのよ。ある人はどこで何を思い、何を感じたか。わたしは前の戦争で自分のなしたこと、それが引き起こした結果を調べたわ。そこからどういう評価がなされているかも知っているし、それについては完全に納得しているの。ただ、その結果にいたるまでに、わたしを取り巻いた人達の思いや感情はまるで知らない。だから満足はしていない。していないどころじゃないわ。不満なのよ。だから、こうして自力で考察を働かせ、思慮を重ねることのできる体を手に入れることができて、感謝しているのよ。前には手の届かなかったところに、今回なら到達することができるかもしれない。ついでに、第三者のくだす評価も、また変えられるかもしれない。そんなことを思っちゃうの」
他に声をたてる者はない。隼鷹もいつの間にか飛鷹同様穏やかな寝息をたてている。
「そして、願わくば、みんなにも、過去の評価を絶対視して人の声を聞く前から何かを決めつけないようにしてほしい、そう思うのよ」
独特の抑揚を持つ龍田の声は、わずかの間だが余韻として室内を漂い、やがて夜陰に消えていった。
静かな夜だった。二つの寝息に、また一つの加わったことがわかるほどに。
明けて翌朝、早々にチェックアウトを済ませた三人は、既に車中にあった。
亀山駅以降しばらく関西本線は単線となり、線路もそれまでの平地から山間を走るようになる。
「うわあ」
歓声をあげたのは飛鷹だったが、感懐は三人とも等しかった。
線路を挟む両側の斜面には張り付くように木々が根を下ろし、それぞれがたたえる無数の葉が、紅、茜、黄、橙と色づいて、紅葉のトンネルを形作っていた。
それが途切れ途切れ続き、葉の覆い被さっている間は、その後ろに広がる空の方がまばらで、ステンドグラスの薄片にも似た鮮やかな青が紅葉の合間に散らされていた。
昨日とはうってかわって、三人とも口数が少なく、たまにしゃべっても短く感想をもらす程度だった。海に出ていては見る機会も少ない紅葉に目を奪われていたというのもあるが、それ以上に昨晩の宿での出来事が尾を引いていた。
もっとも、気まずく言葉を探しあぐねている様子ではなく、飛鷹も隼鷹もしきりと目配せをくり返し合い、話を切り出すタイミングをはかっているようだった。
それならば自分から口を出す必要もなく、龍田も口数を減らしていた。こうして、会話のはじまりそうな雰囲気をはらみつつ、実際には静かな時間が刻一刻と過ぎていた。
勾配やカーブは増し、道は昨日よりも険しくなっているはずなのに、列車は軽快に駆け、駅を次から次へと後にしていった。
駅舎が一つ視界から遠のくたびに、飛鷹と隼鷹の焦慮は強くなり、加茂を過ぎた頃には外からでもそれと知れるほどだった。
龍田はすっかり嬉しくなってしまった。ここまで二人が自身の行動に向き直って、思い悩んでいる。その事実を思うだけで心が弾んだ。
結論が出たのは、木津を出て、奈良駅が近づきつつある中だった。
「龍田姉」
「龍田さん」
打ち合わせたわけでもないのに、隼鷹と飛鷹の呼び掛けは重なり、ステレオになって聞こえてきた。
「なあに?」
口元をほころばせながらたずねた。
「龍田姉にここまでついてきてもらったのはとても感謝してるんだよ」
口火を切ったのは隼鷹だった。
「でもごめんなさい、お姉ちゃんに会うのは、やっぱり私と隼鷹だけで行こうと思うの」
飛鷹が音をたてて両手を合わせる。
「長い間、あたしらは姉ちゃんに直接会うことをおそれてた。それはひけめだったり、嫌われるんじゃないかって恐れだった」
「けど、昨日言われて思ったの。もし罵られるにしても、実際に会ってからにしよう、頭の中だけで責められるのはやめようって」
「これはあたしらの決着だから、二人でつけてきたいんだ。龍田姉、怒らないでここはわかってちょうだい」
「こんなところまで来て、龍田さん一人を置いていくのは非常識だってお叱りはごもっともだけど」
隼鷹も飛鷹も瞼を固く閉じて、必死に龍田を拝んでいた。
「あらあら、だったら、この後の岡山視察はどうするの? 向こうにはわたしも同行する旨、提督から通達されているのよ」
だから、その押し殺した声は、二人にとっては恐怖の的でしかなかった。
「そこは明日にでもまた合流するってことで、ね」
「まあ、二人とも一泊してくるつもりなの。どうしようかしら、わたしにはこちらに知り合いなんていないし……」
その言葉はなかばで途切れた。
かわりに空気の抜けるような、間の抜けた音がしばらく続いて、やむ気配がなかった。
いったい何事か起こったのか。隼鷹飛鷹がおそるおそる目を開いて見ると、そこでは口を抑えて笑い崩れている龍田の姿があった。
「ごめんなさいね、二人とも、あんまり真剣だから、つい意地悪言っちゃった」
呆気にとられて、丸くした目でその姿を見ていた二人に、龍田は一冊の本を差し出した。
「実は、二人が言わなかったら、わたしからお願いしたいと思ってたのよ。折角の機会でしょ。いろいろまわりたいじゃない」
どうやら奈良の名刹のガイドらしい、著者名も書名もずいぶんと四角四面なその本を顔の横で掲げながら、龍田はいたずらっぽく微笑んでいた。
途端、車内を揺るがすほどの騒ぎが沸き起こった。それまでの静けさの鬱憤を払うかのように、大きく激しく。
「もう勘弁してよ!」
「本当に怖かったんだからね!」
けれども、龍田のいたずらに抗議の声をあげる隼鷹も飛鷹も、その顔は頭上の秋空にも似て晴れ晴れと輝いていた。
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秋に書いた秋の話になるはずだったんですが。