魏の陣営、と言えば少し語弊がある。
張遼の陣営、と言えば少しは真実に近いかもしれない。
だからといって、曹操の陣営というと、これもまた正しくはない。
では、いまこの陣営そこらにいる兵士を捕まえてここの軍の代表は一体誰なのか、と言われたら、誰一人違わず「北郷隊長」というだろう。
しかし外から見れば、そこにあるのは張の牙門旗であり、それ以外にはない以上、張遼の陣営ともいえる。
なのでここは一応便宜上、北郷がいる幕舎として、そこにいる兵士の主観を重視し北郷の陣営として、その本陣である。
本陣の幕舎では、作戦の最終確認が行われている。
張遼こと霞は開戦に先立っての舌戦の最中のため、残っている将は凪、真桜、沙和と一刀、そして軍師の詠。
今回北郷に与えられた兵の割り振りとその倍はいる呉にいかに対抗するかが話し合われていた。
「いい?今回肝になるのは速度よ。すこしでも用兵を間違えればすぐに相手に飲まれる。
右翼と左翼の連携、そして中心への突貫。どれかが欠けただけでもあっという間に全滅するでしょうね。」
詠の説明をうけ、誰もが改めて本作戦の難しさを痛感していた。
「とくにここ。この、ど真ん中を突っ切る部隊が命運を分けるといっても過言じゃないわ。
ここを攻める将は左右への指示と鶴翼の要となる部分への牽制を同時に行わないといけないわ。
重要度も、危険度も段違いね。」
「それは薄々わかっとったんやけど…
ここ…誰がやるん?」
真桜の意見はもっともだった。
危険だとわかっていてもやらなければならないことはある。
出来ればやりたくないことも事実としてもちろんある。
だが、そんなことよりも、重要なことがある。
それは、誰がそこに行けば今回の戦に勝てるのか。
誰の犠牲の上に、この戦の勝鬨をあげるのか。
真桜の質問は実質、そのことを聞くことにほかならない。
だから、誰もが浮かんだその疑問を口にできないでいた。
「勿論霞…と言いたいところなんだけど…
ここに霞をおいたらこの作戦、絶対にうまくいかないわね。」
そう言いつつ、詠は呉軍の陣を指さし、続ける。
「この作戦の肝、連中に一泡吹かせる役目を担えるのは、ここにいる中では間違いなく霞だけなのよ。
だから、さっきの、要部分を抑える役目は霞には任せられないのよね…
となると、ここに置けるのは…おそらく、な」
「そこは、俺が行くよ。」
詠の言葉を遮ったのは、今幕舎にいる中で、一番弱く、一番頼りない男だった。
「はぁ!?ちょっと、ボクの今の話ホントに聞いてたの!?」
詠も思わず声を荒げる。
それは詠の説明に耳を傾け、真剣に話を聞いていた凪達も同じだった。
「ダメです、隊長!失礼ですが、隊長では戦線を保てるとは思えません!危険すぎます!」
「絶対ダメなの!そんなことしたら隊長絶対死んじゃうの!そんなの絶対、絶対ダメなの!」
「ついに頭がダメになったか…隊長…今回はさすがに無謀すぎんで?」
全員が揃って北郷の言葉を否定する。
それはあまりにも当たり前の光景だった。
しかし、男は引かない。
いつものような、心配なんぞどこ吹く風といった顔で、男は続ける。
「俺は本気だ。部隊の指示に相手への牽制だろ?
それがここで一番できるのは、霞のつぎだったら間違いなく隊長の俺だ。
それともなにか?お前たちは隊長たる俺が信頼出来ないってのか?」
「お言葉ですが隊長、我等全員隊長の弱さを知っています。
それに、できるできないもさることながら、我々の部隊で隊長を失うことがどれだけ大きな士気の低下を招くか考えてください!」
「士気低下って、それは負けた時の話だろ?負けないよ、俺は。
じゃあ聞くが、詠、もし仮に俺以外をここにおいたとして、左右への遊撃と仕上げの部隊と、どこかに俺を入れる余地はあるのか?」
そう話を振られた詠は、黙り込んでいた。
「詠ちゃん、はっきり言ってやったらいいの!」
「せやせや!このわからんちんにはっきり言ってやり!」
真桜も沙和も凪に続けとばかりに捲し立てる。
「そうね…」
しかし、詠は何かを思案するように、黙り込んだままだった。
敵の布陣を、そして自軍の布陣を交互にみる。
眉間に皺を寄せ、何度も、何度も見返し、目頭を抑えて、思考する。
その様子を、固唾を飲んで見守る三羽烏。
三人は期待していた。詠が北郷を止めることを期待していた。
彼をそこにおいては戦に勝てない。
何故ならば彼は腕っ節が弱いから。
上司として、男として慕っている北郷だが、彼は決して強くない。
作戦の重要な役割を、こと戦闘に関して重要な役割を彼は担えない。
確かに名だたる将を倒した前歴はあるが、それはあくまでも条件の揃った偶然であることを皆が知っている。
彼は、弱い。
そんな彼を慕っている。
ここで失いたくない。
三人の思いはそう、共通していた。
そしてその認識は、詠も一致している。
状況を総合考慮しても、彼を最前線に立たせる理由がない。
そう判断してくれるだろうと、期待していた。
「そうね…」
もう一度、詠が呟いた。
「ボク達が勝つために、いってるんでしょ?」
地図の上を走っていた詠の視線が、北郷を射抜く。
「もちろん。それが一番被害が少ないはずだ。
それに言っておくが、お前らのために俺が死のうだなんて、これっぽっちも考えてないからな。」
「わかったわ。」
大きく生きを吸い込んで、詠がしゃべりはじめた。
「あんたが最前線よ。
もうすぐ霞が戻ってくるだろうから手短に説明するわ。聞いて。
この朴念仁じゃ左右どちらに配置しても穴ができる。
もちろん霞の部隊の補佐なんてこの男じゃできない。
戦闘もさることながら、さっきも言った通り、この布陣の肝は速度よ。
馬にまともに乗れない奴を遊撃につけるのは自殺行為だわ。
だから、一刀にはさっき言った、ここ、最前線にいってもらうわ。
伝令の速度、正確さはあんた達みんな同じくらいなんでしょう?
まぐれでもなんでも、あの春蘭に勝ったんだからだれがきてもあんたなら大丈夫でしょう。
一刀、あんたがあっという間に負けたら全員死ぬんだからね。
わかってんでしょうね?」
「あぁ、わかってる。」
「だったらあんた先に行って早く準備してほかの連中にはまだ伝えることがあるから。
はやく!」
「…あぁ、わかった。ありがとう。」
捲し立てるように作戦を伝えたかと思うと、詠はとっとと北郷を幕舎から追い出し、準備に向かわせた。
そして恨みがましく詠を見る6つの目に向き合った。
「なぜですか!なぜ止めなかったんですか!」
北郷が出ていった幕舎内に、一瞬の静寂が訪れた。
形容しがたい重苦しい空気がその場を支配しようとしていた。
しかし、それも長くは続かない。
口火を切ったのは凪だった。
「ああはいっていましたが、隊長は死ぬ気なんですよ!?それはすぐにわかるはずです!
軍師殿!なぜ止めなかったんですか!
隊長を…見殺しにしろというのですか!?」
机を破壊せんばかりに叩き、凪が抗議する。
詠はそれを黙って聞いていた。
それでも抗議の叫びは、止まらない。
凪に続けと言わんばかりに、沙和が、真桜が口を開く。
「いままでずっと後衛で最前線なんか任されたことない隊長がそんなところに配置されたらあっという間に死んじゃうの!
隊長が死んじゃったら沙和達いったいどうしたら良いのかわかんないの!」
「せや!あんたかてわかってるやろ!?なんであない無謀な布陣にするんや!?」
「霞様がだめだったら、あそこはやはり私が行くべきだったはずです!
現に軍師殿だってそう口にしかけていたではありませんか!
なのに、どうして…!」
「あんた達だってホントは分かってんでしょ!」
声を張り上げる詠の剣幕に、今度は三人が黙る番だった。
「さっきも言ったでしょ!元々が無茶な提案なのよ!
あの孫呉全軍をたった5人の将で止めようってのが無茶なんだから!
ボク達は薄氷を踏む以上に危ない道を通らないと行けないことは最初からわかってたでしょ!?
あいつが言い出すまでボクだってそんなこと考えてなかったわよ!
凪が中央、右翼に真桜と沙和、左翼に霞とあいつで考えてたんだから!
でもさっきも言ったでしょ!あいつじゃ霞についてけない!
あいつの馬術じゃこの中の誰にもついていけないでしょ!
あいつはね、自分が足手まといだって自分が一番良くわかってた…
あいつが一緒だったらあんた達、絶対あいつを守ろうとするでしょ?
そしたらどうなるかはあんたたちだってわかるでしょ!
どこかが崩れれば兵数に差があるボク達なんかあっという間に飲み込まれて全滅なのよ!
それを避けるにはこれしかないの!
勝つためにはこれしかないのよ!」
「……。」
悲痛な表情で声を荒げる詠に、反論できるものはいなかった。
「それにね、あんた達、勘違いしてるようだけどね。ボクはあいつを見捨ててない。
あんた達が、ボクが、あいつが、この格好をしてる意味をよく考えて。
あいつがボク達を守るんじゃない。ボク達があいつを守るのよ。
あんたたちが、あいつから敵の目をそらせれば。
あいつに手出しさせなければ。あいつのいる場所が一番安全になる。
全力。全速力よ。全員が張遼になるの。
わかる?
全員が霞の格好をしてる。
霞の武を、霞の用兵を。
どれか一つでも霞だと思わせる行動があればあいつから目をそらせる。
わかった?あんたたちが、今度はボクが!あいつを守るのよ!」
どこか自分に言い聞かせるように詠が声を張る。
それは足りない決意を固めるようでもあり、定まらない心を鼓舞するようでもあった。
しかし、その言葉には力があった。
信念もあった。
そして、覚悟があった。
その詠の覚悟は、凪に、真桜に、そして沙和に伝わる。
揺らいでいた瞳が力を取り戻し、まっすぐに詠に向けられた。
「ここの部隊でいう勝ちは、あいつの流儀に則っての『勝ち』でしょ。
だったら誰も死なせやしないわ。それがあんたたちの隊長様の勝ちってことでしょう?
やってやろうじゃないの!賈文和の神算をみせつけてやるわ!
あいつを守るのよ。あんたちが守るの。
ボクなら、霞なら、あんたたちならそれができる。
ボクはあいつに恩を返さないといけないから。
今回の勝ちをもって、月の分まであいつにそれを返すわ。
そのために力を貸して。あいつを守るための力を。あいつを勝たせるだけの力を。
ボクの力は全部貸すから。
勝つわよ。絶対に!」
「「「応!!!」」」
「さぁ!そろそろ霞が帰ってくるわよ。準備しなさい!
神速と言われた用兵術で、孫呉の連中に目にもの魅せてやるんだから!」
…
………
………………
準備と言っても、それほど多くやることはない。
なぜならば、北郷にそれをさせてもらえるだけの技量と信頼がないからだ。
北郷隊には凪時々霞によって馬術を仕込まれ、真桜によって整備技術を仕込まれ、沙和によって統率された通称北郷特殊部隊が存在する。
これは北郷発案の部隊であり、ここへ来て、そしてこの世界に来てようやく実を結んだ北郷自身の成果といっても差し支えない。
今回北郷が率いるのはその特殊部隊である。そのものたちが行う準備に抜かりなどなかった。
「これで、最後になるといいな。」
着々と進んでいく準備の風景を見ながら、北郷は独り言を漏らす。
願わくば、華琳に勝利を。
そうすれば、この世界では男のいた世界とは違った未来が見られるはずだ。
しかし…と男は自分の手を見つめる。
「…まったく、重たいな。」
それは言葉通りの意味なのだろうか。
それとも、もっと別の意味があるのだろうか。
手を握り、開く。
ゆったりとしたその動作を繰り返し、男は時を待つ。
すべての命運が決まるであろう戦いの始まる時を。
死ぬつもりなど、毛頭なかった。
死ぬ覚悟は、もちろんあった。
霞から関羽を取り上げた時も、赤壁で祭の前に立ちはだかった時も、最初に関羽から華琳を助けた時も、そのもっと前からずっとずっと、この地に、この世界に骨を埋める覚悟はできていた。
それがずるずると、生き残った。
それがずっと怖かった。
前の世界で、何者にもなれずにいた自分が、ずっと周りに助けられて生きながらえていることが。
世界を救うヒーローに憧れてたあの頃とは違う。
何者にもなれないまま死んでいくのだと心のドコかで感じながら、それでも体を動かし続けて生きながらえていた自分。
きっとそのまま何もできずに死ぬと思っていた。
そう思って、働いていた。
それが、ある日突然、文字通り世界が変わった。
そこで華琳に拾われ、春蘭に小突かれ、秋蘭に笑われ、桂花に罵られ、季衣に慕われ、流琉に心配され、月達に助けられ、風達に癒され、凪達に思われていることが。
大人になることが羨ましかったあの頃、憧れていた英雄譚の主人公にでもなったかのような日々が。
ずっとずっと怖かった。
失いたくない。
この日々を失いたくない。
そんなあの娘達に愛想をつかされ、捨てられてしまうんじゃないかというこの気持ちが怖かった。
何者にもなれない自分に皆が気付いてしまったら…
そう思うと、今までは体が自然に動いていた。
もし、今死んでもあいつらの中に生きられてるんじゃないかと思うと、体は心に着いてきてくれた。
そうやってだましだまし、生きながらえてきた。
でも、そろそろ限界かもしれない。
体が、言うことを聞かない。
黄蓋と対峙したあの日から、いやもっと前から、この世界から拒絶されているように感じるほどに。
この戦で最後だったら、自分の役目はもうないかもしれない。
そうなったら、自分はどうなってしまうのか。
この世界から追い出されてしまうんじゃないか。
もし、無事に終わったとしても、生き残った先には自分が華琳達から必要とされない未来があるかもしれない。
今の自分にとってはその未来が、消えてしまうことよりも、死ぬことよりも怖かった。
「…何ビビってんだろうな、今更。」
それでもいいと、思えたはずなのに。
あいつらのためだったら、どうなっても、どうされてもいいと、思えたはずなのに。
それでもなお心が望んでいる。
あいつらと一緒にいたい、と。
たとえ必要とされなくても。
自分はここにいたい。
「…だったら、やることはひとつだよな。」
誰に向けるともなしに発した言葉には、しかし、返事があった。
「はい、隊長。我々がついています。やりましょう、ただやるべきことを。」
力強い、言葉だった。
その言葉に救われたような気がした。
独り言を聞かれた気恥ずかしさを隠すため、北郷は凪に問いかける。
「なんだ、独り言、聞かれちゃったか?」
「私が聞いたのは、最後の部分だけですが…」
「はは…なんだか恥ずかしいな。ところで、三人揃って来たってことはそろそろってことか?」
「はい。そうなのですが、その前に隊長に渡したいものがありまして…」
「そうなのー!隊長ってば、自分から最前線にいくとかいって死にたがってるから、ちょっとしたお守り代わりにこれを持ってって欲しいの!」
そういうと、沙和、真桜、凪は各々にそれを取り出す。
「はい!これ二天の片方!いままで沙和を守ってくれたから、きっと隊長のことも守ってくれるの!」
「うちはこれや。さすがに螺旋槍は一本しかなくて貸せんから、ちっこい螺旋核、持ってき!」
「私はこれを。閻王の片腕です。ただでさえ隊長は無茶をなさるのですから、これをつけていってください。」
それは、武人にとっては体の一部といっても差し支えないほど、大切なモノだった。
「お前ら、これ…渡しちゃったらお前らだって危ないんじゃ…」
「大丈夫です。私たちは霞様に扮しているので偃月刀ですし。」
「ま、うちら隊長ほど抜けてへんし?」
「せめて今回くらいは隊長と一緒に戦ってたいの!だから前線まで沙和たちをつれてって欲しいの!」
「お前たち…」
北郷は、目頭が熱くなるのを感じた。
「よし!分かった!全員まとめて前線に連れてこう!
そしたら、真桜の作ってくれたこれはあとで詠にでも渡しておくか。さすがに重くて全部はもってはいけないからな。
全部終わったら、派手に酒盛りといこうじゃないか!」
「よっしゃ!さっすが隊長話がわかる!」
「そうと決まれば沙和も張り切ってやっちゃうの!」
「私も、楽しみにしていますよ、隊長。」
「それじゃあ、いこうか!華琳の未来の友人に挨拶しに行かなきゃな!」
大舞台の準備は着々と進んでいる。
緞帳も既に上がり始めた。
この物語は、いったいいかなる結末を迎えるのであろうか。
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