『帝記・北郷:十四~合肥決戦前夜~』
「……道中で聞いた報告は本当だったか」
重々しく。彼には似つかわしくないほど重々しく一刀は息を吐く。
合肥城会議場。一刀率いる新魏本軍は合肥に入城を果たし、明日以降の戦いについての協議を進めていた。
その中で尤も避けて通ることができず、かつ重要案件なのは当然ながら漢帝国・太尉にして新魏国・元大将軍の龍瑚翔についてである。
「ああ、はっきりとこの目で見たんやから間違いあらへん。あれは正真正銘の龍志やった」
「そっか……」
それだけ言って、机に肘を突き組んだ両手で顔を隠す一刀。
彼が今どのような表情をしているのか、それは誰にも解らない。
「だが…どうして……」
そう呟いたのは藤璃。
彼女だけではない。その場にいる武将皆が、龍志の裏切りが信じられずにいた。
「………入って」
不意にそう言う一刀。
一同が会議場の入口を見ると、そこには所々痛んだ装束に身を包んだ華雄が佇んでいた。
一刀達が到着する一日前。
合肥から荊州方面へ向かう為、船団に乗り込む呉軍を木陰から見詰める、一人の騎馬武者がいた。
紫や黒を基調とした装束に、輝く銀髪。手に握るは玲瓏たる輝きを帯びた鳳嘴刀。
漢の猛将・華雄である。
彼女は猛禽を思わせる瞳で船やその周りを行き来する呉兵を睨みつける。
その中に、目的の人物がいないかどうか。
「ほら、ぐずぐずせずさっさと乗れ!」」
「おい。軍馬の搬入は済んだのか?まだなら急げ、他にも積まねばならないものは山ほどあるんだ」
将達の指示が風に乗り聞こえてくる。
その中に、一つだけ聞き覚えのあるものが混じっている気がした華雄は、声が聞こえてきたと思しき方を見た。
「そこの荷の紐が取れかかっているぞ。結んでおかないと崩れかねん」
「あ、どうもありがとうございます龍泰将軍」
華雄は目を見開く。
その瞳から、一筋の涙が零れた。
(龍志様……)
生きていた。
自分達を守るためにその身を敵陣に置き、一人で万を越える兵の心胆を寒からしめた敬愛なる将がそこにいた。
躊躇うことなく、華雄は馬を飛ばしていた。
敵兵に単身で身を曝すことの愚。どうして龍志が呉軍の指揮を執っているのかという疑問。自分が一刀から与えられた任務…龍志の死が本当であるのかを確認せよという任務。
それら全てが頭をよぎり、彼方へと飛ばされていく。
彼女が駆けるは一つの確信。
即ち龍志が一刀を裏切ることなど無く、何か理由があって呉に捕われて働かされているのだろうと言う事。
(お救いします…あなたは私が……)
「な、何だあいつは!?」
猛然と駆けて来る華雄に、呉の兵士達も気づき始める。
そしてその中には、華雄を見て驚愕の表情を浮かべる龍志もいた。
それが、華雄の胸に何故か違和をもたらす。
だが、はっきりと龍志の顔を見た喜びが華雄の心に満ちて行く。
堪え切れず、華雄は口を開いていた。
「龍志さ……」
「お前達はさがっていろ!!俺が相手をする!!」
白馬に跨り、疾風の如き速さで華雄に向かってくる龍志。
その眼に宿る殺気に、華雄は呆然と彼を見つめた。
「しっ!」
「く……」
龍志が突き出した剣を、かろうじて華雄は鳳嘴刀の柄で受ける。
何故。どうして。言葉にならない思いが渦巻く中、龍志は凄まじい突きの連撃を繰り出す。
「くあ…りゅ、龍志様……」
信じられなかった。
自分が誰よりも信じ、相手からも強く信頼されていると思っていた男が今、自分に刃を向けている。
恐ろしい程の無表情で。
「りゅ、龍志様!!」
龍牙の如き剣を鳳嘴刀で受け止める。
互いの息遣いが聞こえそうなほど密着した状態が、まぎれもなく目の前の男が龍志であると言う事を華雄に教えた。
「龍志様…何故…何故です……」
「……華雄」
小さく、だが確かに龍志は華雄の名を呼ぶ。
はっとして華雄が龍志の顔を見ると、彼はかつて彼女やその仲間達に向けていたような穏やかな笑みを浮かべ。
「今は時間がない。ただこれだけは信じて…そして一刀に伝えてほしい。俺は龍志であり、何時の日か…何時の日か必ず帰ると」
それが何時の日なのかは龍志にも解らない。
己の確かな存在意義を見つけ出したその時か、あるいは……。
「さあ、行け。呉の兵が動く前に」
「は、はい!!」
弾けるように距離を取り、華雄は馬首を返す。
その背に、小さく龍志の声が聞こえた。
「頼んだぞ……☓☓」
「え?」
「行け!!」
一瞬留まりかけた華雄だったが、すぐさま馬の腹を蹴り森の中へと姿を隠す。
後ろから龍志の声で、追撃を押しとどめる旨が聞こえてきた。
だが、それよりも華雄の胸をかき乱したのは最後に龍志が言った名。
そう、かつて自らの意思で捨て、ただ一人龍志だけに預けた華雄の真名。
それで自分を呼んだ。それが意味することは……。
「真名を返す…私とあなたの主従の絆を断つと…そういうことですか……」
「……以上です」
「解った。ご苦労様」
一刀のねぎらいの言葉に華雄は深く頭を下げると武官席にある自分の椅子に戻り腰を降ろす。
華雄の報告に声を出すものは一人もいない。
誰もが思っていたのだ。龍志が他人の空似であってほしいと。
それは見間違いではないと断言した霞でさえ。
あるいは、記憶喪失やそういった類のものであってほしい。龍志が龍志として孫呉についたわけではないと。
しかし、今の報告でそれは断たれた。
龍志は龍志であり、自らの意思で孫呉に身を置いたのだ。
「………」
「………」
重苦しい空気の中、文武諸官は一刀に視線を向ける。
彼は相変わらず顔を隠したままで、その表情は伺えない。
どれほど時間が経ったろうか。
ようやく一刀が口を開いた。
「そうか…つまり、龍志さんは荊州に向かったとみていいんだな」
「え?」
「は?」
誰にも予想だにしなかった言葉を放つ為に。
「あの…兄上。それで良いのですか?」
恐る恐るといった風に訪ねたのは藤璃だ。
「ん?何が?」
「いえ…その、龍志さんが孫呉にいる理由とか」
「考えても解らないだろう?」
「それはそうですが……」
「それに…」
ふっと笑みを浮かべた後、一刀は何の迷いもなくこう言い放つ。
「あの人が自分が孫呉にいるべきだと思いそうしているのなら、それを遮ることは俺達にはできないし、そうして戻って来ると言うのなら戻って来るよ……あの人はそう言う人だ」
その言葉に、一同は驚きと感心の入り混じったような眼で一刀を見た。
かつてこれほどまでに固い信頼を結んだ君臣がいたであろうか。
敵味方に分かたれようとも一刀には龍志を疑う気持ちなど少しもなく、純粋に彼を信じている。
それは危うさすら感じるほど。
しかし、一刀の器とはそう言うものではないのだろうか。
触れたもの全てが彼を信じる。彼が皆を信じるように。
「……さあ、作戦会議を始めよう。俺と孫権。あの人が認めた二人が雌雄を決するんだ。あの人に笑われないような戦にしないとね。とりあえず、龍志さんのことは今まで以上に兵に漏れないようにしておいて」
長い会議が終わり、オレンジ色の夕焼けに照らされた会議場。
すでに諸将は解散し、明日の戦いへの準備を始めている。
今会議場にいるのは、机に頬杖をついた一刀と傍らに佇む華琳。
「……あの人が認めた二人の雌雄か。随分と自意識過剰ね」
「そうだね…俺もそう思うよ」
華琳の方を見ることなく、誰もいない会議場を見つめて一刀が呟く。
「……辛い?」
「うん。辛くないと言えば嘘になるかな。皆の手前ああ言ったけど、俺も龍志さんはずっと俺の隣にいてくれるって…根拠もなく思っていたからね」
「ふ…まるで昔の私とあなたね」
「……華琳もこんな気持ちだったのかい?」
「少し違うわ。私の場合は永久に失ったと思ったんだから」
少しだけ、ほんの少しだけ咎めるように言った華琳に、一刀は初めて視線を向けた。
「生きていればまた一緒になれる。龍志が何を思って孫呉についたかは知らないけれど、少なくとも生きていればまた、同じ道を歩むことができるわ。あなたと私のように」
「それは違うよ、華琳」
「え?」
組んだ指に顎を乗せて、一刀は再び正面を見据えたまま言葉を紡ぐ。
「俺と龍志さんは、方法は違っても歩んでいる道は同じだと思う。あの人がどう思っているかは知らないけどね」
「………」
「…でもね、でもそんなことよりも今は、今はただ……」
「…一刀?」
正面を見たまま微笑む一刀の目を伝う、二筋の涙。
静かに、とめどもなく流れる二筋の涙。
それはやがて彼の頬をたどり、滴り、机で弾ける。
「今は…あの人が生きていた。それだけが嬉しいよ」
夕日と同じオレンジ色に輝く涙の粒。
同じ夕日を長江の上で龍志も見ているのだろうか?
ふとそんな事を華琳は思った。
「あら、どうしたの美琉ちゃん」
地の向こうに沈む落陽。
城壁からそれを眺めていた美琉の背に、艶然たる声がかかる。
「躑躅殿こそ……」
「私は少し…風に当たりに来ただけ」
吹き抜ける風に遊ぶ二人の長い黒髪。
浮いては沈み、舞っては翻り。
落ち着いた雰囲気を醸し出す二人とは対照的なその動きが、夕闇と相まって幻想的な雰囲気を作る。
静と動。
夕日と夕闇。
もしも龍志がこの場にいたならば、幽玄という言葉を贈ったであろう。
「私も、少し風に…」
「うそおっしゃい」
美琉の言葉にクスクスと笑う躑躅。
「あの人のことを考えていたのでしょう?」
「……躑躅殿こそ」
ふっと美琉も笑みを浮かべた。
躑躅は城壁の縁に腰かけ、美琉と同じように落陽を見詰める。
「………」
「………」
しばらく二人は何も言わず落陽を見詰め続ける。
やがて落陽がその身の七割を沈めた時、躑躅が口を開いた。
「戦えそう?」
「それは孫呉とですか?それとも……」
「龍志様よ」
解っているくせに。と躑躅が笑う。
その笑みは、いつものように艶然で、いつになく自虐的。
「…戦えるかどうかではなく、戦うかどうかです」
決然と言う美琉。
「昔、あの方は私と藤璃に言いました。君達は戦場の主となれと」
「戦場の主?」
「はい。ただ敵に打ち勝つだけでなく、いかに勝ち、いかに戦を治めるか……」
それは一つの戦場、戦争の在り方そのものを導く将を越えた将。
「…成程ね。あの人らしいわ」
「はい…そしてあの人が私にそれを望んだ以上、私はあの人の思いに応えて戦場を駆けねばなりません」
「龍志様の願いに応えるためには龍志様と戦うしかない……か、強いわね美琉ちゃんは。私なんて今すぐにでも孫呉に降っちゃいたいくらいなんだから」
「……私もですよ」
冗談めかして言う躑躅に、美琉は寂しげにそう返す。
「私も本当はあの方の所に行きたい…でも、それをあの方は許されるとは思いません」
「そうね…あの人にとっては、私達は漢や新魏に仕える身……ふふ、私達にとって主とは、曹操軍にいたころから龍志様だけなのにね」
「鈍いんですよ…あの人は」
「同感」
クスクスと笑い合う二人。
すでに夕日はその身を山陰に隠し、辺りは宵闇の静けさに包まれ、天空には星々が顔を出し始めていた。
後書き
どうも、タタリ大佐です。
最近どうも怒り気味で済みません。自重したいのですが、どうも軽いスランプらしくて精神状態がナンジャモンジャです。ついつい失礼なコメントをしてしまった方々。申し訳ありません(でも、書いた事に偽りはありませんよ)。
久しぶりな一刀君。龍志が一刀君に寄せる期待は一刀君の想像以上だけれど、一刀君が龍志に寄せる信頼も龍志の想像以上。そんな気がした今作でした。
それから、何となくおまけ程度に今まで没にした案を少し紹介したいと思います。いや、放置していたら夢枕に立たれそうでしたので……。
壱・漢帝国再興ルート
言うまでもなく、漢帝国が再興して蜀と呉を従えて新しい三国体制に移行しようという話。ぶっちゃけ洛陽や華琳暗殺の件もあるし、状況からむりやり過ぎたので没。
弐・龍志冥琳ルート
雪蓮、蓮華を新魏に捕らえられ崩壊する呉を見かねた冥琳が再び呉を纏めようとして、それを龍志が助ける。そして夢破れて燃え盛る王宮で自害しようとする冥琳に華龍の姿を重ね見た龍志が「二度と失ってたまるかー」と彼女を助けて結ばれると言う話。読者様から剃刀が来そうだったし、後をどうするんだって話もあって没。
参・龍志華雄ルート
龍志を追って孫呉に潜入した華雄が孫呉に捕まるも龍志に助けられ、その中で師弟関係から自分の想いに気付いた華雄が苦悩する龍志を支えていき、やがて結ばれると言うルート。冥琳ルートと同じ理由で没。
四・一刀=龍志説
これは昔も少し書いた話。実は龍志は別の外史での一刀であり、自分と同じ道を別の自分が歩まぬように外史を越えてやって来たという説。外見の年齢設定上の理由と蒼亀の説明が出来ないので没。
他にもありますが四つほど紹介。
いやー混沌としてますね。
他にも草葉の陰から案達が蠢き始めたら供養を兼ねて紹介しようと思いますで、お付き合いください。
では、また次の作品にて。
次回予告
激突する二つの軍。
片や龍志の信じた大器の王。
片や龍志も認めた守成の王。
共に狙いは王の首。
二人の王の闘いの結末は?
次回
帝記・北郷~決戦合肥~
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