さらに一晩が過ぎて、月曜日。
少しばかり体調は回復したけれど、
まだ気分はよくない。
朝早くに起こされて、つまらない学校へ行かなければならないという憂鬱。
それを差し引いても、やっぱり気分はよくない。
いつも悪い目覚めだけれど、今日はさら悪い。
体を起こすのも一苦労。
それでも頭はまだ夢の中にいるらしい。
ふらふらする。
昨日のように、歩くこともままならないほどではないけれど。
そのせいだろうか。
いつも朝っぱらから騒々しいあいつの声が、
今日はより一層頭に響く。
「翔!早くしないと遅刻するよ!」
まるで近所の家で鳴り響いている目覚し時計のようだ。
止めたくても止められない。
唯一止める方法があるとすれば、
すっかり支度を整えて、家を出ることくらいだ。
おかげで俺は遅刻をさせてもらえない。
「ネクタイ曲がってるよ、だらしない!」
いつも時間のない朝だけれど、
今日は鏡を見る時間さえなかった。
「寝癖!何やってるんだ、バカ!それくらい直してこい!!」
言いながらも、鞄から自分のくしをとりだして、俺の紙をすいてくれやがった。
「いいよ、そんなの」
俺は幸の腕を払いのけた。
毎度毎度余計な世話を焼いてくれる、
鬱陶しい。
俺の甘美な余韻もこいつのせいでぶち壊しだ。
たちまち現実に引き戻される。
それがなおさら俺を苛立たせる。
英里香さんの百分の一の魅力も色気も持ち合わせていない、
乳臭いガキだ。
毎朝毎朝家の前でわめきやがって迷惑きわまりない。
こういう奴をストーカーと称するのがもっとも相応しいと思うのだが、
世間一般では幼なじみという表現で誤魔化されてしまうらしい。
「その傷、どうしたの?」
じろじろと俺の顔を見ていた幸が、何かに気づいたらしい。
「傷?どこ??」
傷、そんなものが最近体にできただろうかと思い返してみたけれど、
思い当たるふしはない。
「首のところ」
俺は探るように自分の首に手を当てた。
「首?」
「左側」
言われるままに、首の左側を四本の指の腹で撫でてみた。
「そこ」
瞬間、脳裏に英里香さんと過ごした一夜の記憶が鮮明に浮かんだ。
もっとも、彼女に吸いつかれた瞬間の記憶でしかなかったけれど。
幸の言うそこは、確かに英里香さんの唇が触れた場所。
「虫にでも刺されたのかな?」
ぽつりと呟くように幸が言った。
あの時の痕が今も残っているとは思いもしなかった。
所謂キスマークとでもいうやつなのだろうか。
それを虫刺されと見間違うとは、何と幼稚なのかと笑いがこみ上げてくる。
それもしかたのないことか、どうせこいつはそんな経験なんてあるはずもないのだろうから。
「何笑ってるのよ!?」
怪訝そうに幸が言った。
「そう言えば、あんた土曜日の夜何してたの?
電話つながらなかったよ!
昨日だって電話したんだよ!!」
何をしていたか、か。
それは俺の人生始まって以来、最高に幸せで、甘美で、
そして至高の快感を味わうことのできた時間。
けれども、それをわざわざこいつに教えてやる必要もない。
喋ったら感動が薄れてしまいそうな気さえする。
「お前には関係ないだろ!」
幸には、そう言ってやれば十分だ。
「どうして教えてくれないのよ!」
それは俺のプライバシーだからだ。
「早くしないと、遅刻するんじゃなかったのか?」
とりあえず、そろそろ俺の家の前から動き出した方が良さそうだった。
そうして、いつも通りの何の変哲もない日常が始まるはずだった。
ところが今日は少しばかりいつもとは違った。
やっぱりおかしい。俺の体調だ。
一時間目から体育とは、ますますだるいのだけれど、
そのだるさが尋常ではない。
と、言うか危機的状況だった。
ウォーミングアップでたかだかグラウンド一周した程度だというのに、
足がおぼつかない。
頭がくらくらする。これが目眩というやつなのか。
目の前が真っ白になっていく…。
いよいよやばいな、と思うやいなや、俺は倒れたらしい。
回りの連中は驚いていたのだろうか。
慌てて何人か駆け寄ってきていたような気がするけれど、
その辺りで俺の意識は途切れた。
目が覚めたとき、俺は保健室にいた。
病院のベッドで目を覚まさなかったということは、
大した症状でなかったということなのだろう。
こういう時、普通なら一人ベッドで
静かに寝かされているものだとばかり俺は思っていた。
ところが、俺が目を開けた時、見慣れた顔がすぐ目の前にあった。
「何やってるんだよ、お前」
それは、いつも俺にストーカー気味の女だった。
俺が目覚めたことに気づくと、顔を放し、ベッドの側の椅子に座り直した。
「何って、翔が倒れたって聞いたから見にきてあげたんでしょ?」
「見にきたって、お前顔近すぎだよ。
もっと離れて見ろよ、100mくらいさ、気持ち悪いんだよ。
俺が寝てる隙に変な事したんじゃないだろうな?」
「バカ!」
言いながら、布団の上から俺の腹を殴りやがった。
この時は手加減していやがったんだろう、間違いなく。
「センセー!助けてください!おかしなやつが忍び込んで変な事をしやがるんですー!」
そう叫んでみた。
迂闊だった。
それが幸を逆上させることになってしまったらしい。
ぎゅっと握られた幸の拳。
それが俺の腹の上に、もう一度振り降ろされた。
それは、金属製のベッドがぎしっと音を立ててきしむ程だった。
圧迫され、押し出された空気。
それが俺の喉を震わせ、口から吐き出された。
鈍いうめき声、というやつだ。
「早川くん、気がついたの?」
少しカーテンを開けて顔をのぞかせたのがこの保健室の先生。
「もう少しで再び眠らされるところでしたけれど…」
二度目は手加減を全くしやがらなかったらしい。
冗談じゃなく本当に苦しかった。
「美島さんは休み時間になるたびに心配して様子を見にきてくれていたのに、
酷いこと言うからでしょ?」
休み時間になる度に?
と言うことは、俺はそれだけ長い間眠っていたのだろうか。
そう思って時計を探してみたけれど、
回りをカーテンで囲まれたベッドの上からでは見えなかった。
「もうお昼休みよ」
先生が言った。
「お弁当、持ってきてあげたんだからね」
ちらりと幸がベッドの横の台に目をやった。
そこには確かに俺の弁当が置かれていた。
どういう訳かもう一つあった弁当、
それはきっと幸の分なのだろうと理解した。
「なんでお前のもあるんだよ?」
「翔一人で食べるんじゃ寂しいと思って、一緒に食べてあげるためよ」
「いいよ、お前の顔を見ながら食ったら飯がまずくなる。帰れ!」
そう、俺が言い終わらないうちに怒られた。
「早川くん!ずっと心配してくれていた美島さんになんて事言うの!?」
何だよ、それじゃあ俺が悪者みたいじゃないか。
「じゃあ、先生もお昼食べてくるから、ごゆっくり」
そう言い残して先生は保健室から出ていった。
ひょっとして、二人きりにしようなどと、
余計な気を回されてしまったのだろうか。
だとすれば、勘違いも甚だしい。
「はい、翔の好きなウィンナー。あげる」
そう言って幸は自分の弁当箱から俺の弁当箱へ移した。
「お前、相変わらず自分で毎朝弁当作ってるのか?」
感心する、というよりも俺は呆れていた。
何が嬉しくて毎朝無駄にそんな早起きをしなければいけないのかと。
弁当なんて、黙っていれば母親が作ってくれるんだから。
「あんたの好きなおかずを作るためよ…」
うつむき、小さな声でぼそぼそと言いやがった。
「バカだろ?お前」
本当におかしなやつだ。
俺なら、幸のために早起きをして何かをしてやるなんて事、絶対にしないね。
「バカだもん…」
そう呟いたあと、幸の箸がぴたりと止まった。
そんな反応をされては、
何かまずいことを言ってしまったんじゃないかと不安になってしまう。
だからと言って、素直に謝れないのが俺の性格だ。
ましてや、その相手が幸ならなおさらだ。
「明日はハンバーグな」
俺にはそんな言葉しか口にできない。
「うん、わかった」
とたんに元気になりやがった。
とりあえず何かを勝手にやらせておけば機嫌が良くなるということを俺は経験的に知っている。
これでも幼なじみなのだから。
「それにしても、あんたのその首の傷、やっぱり変じゃない?」
俺が寝ている隙に何をしていたのかと思ったら、
じっくりとそれを観察していやがったらしい。
「そうか?」
朝、幸に指摘された痕を俺はまだ自分の目で確認していない。
だから変だといわれたところで、本当にそうなのか俺にはわからない。
「やっぱり何かに噛まれたんじゃないの?
虫刺されって言うんじゃなくって、
噛みつかれたって感じ?」
幸は自分の鞄から小さな手鏡を取り出し、開いて俺に手渡した。
「ほら」
促されるまま、俺も自分で首元を確認してみた。
キスマーク、それがどんなものなのか俺も知っているわけではない。
吸いつかれたときにできるものなのだろうか。
けれど、俺の首につけられた痕は決してそのようなものには見えなかった。
虫刺され、それも少し違う。
同じような傷が四箇所、すぐ近くにまとまってできていた。
「吸血鬼とか?」
幸のその表現がまさにぴったりな表現だと思った。
もしも、牙を生やした何かに噛みつかれたとしたら、
こんな傷ができるのかもしれない。
まさにそう思えるような傷跡だった。
もっとも、幸は本気でそんなことを言っていなかった。
俺だってただの冗談だとしか思わなかった。
その傷も、数日もすれば目立たなくなり、消えようとしていた。
それと共に俺の体調もすっかりと戻った。
あの日俺が倒れてしまったのは、たまたま調子が悪かっただけだろうと思い込み始めていた。
あのデートの日以来、英里香とは会いこそしていないものの、
電話は毎日のようにかかってきていた。
そして、彼女もまた俺の体調の事を気遣ってくれていた。
「最近はもう全然大丈夫だよ」
電話越しに俺が告げる。
「そう、良かった。じゃあ、また会ってくれないかな?」
どうやって切り出そうかと悩んでいた言葉、
それを代わりに彼女が言ってくれた。
「うん。また会いたい」
最近、俺もずっとそう思っていたところだった。
「じゃあ、いつが良い?」
聞かれて、俺は即答した。
「今から」
電話の向こうからクスッと笑う声が聞こえた。
「焦りすぎだよ」
そうたしなめられた。
彼女は冗談だと思ってしまったのだろうか。
俺は全くそんなつもりはなかった。本気だった。
「じゃあ、明日は?」
「それも急だね」
英里香の声は少しばかり飽きれているように思えた。
それでも構わない、俺はどうしても会いたいんだ。
「ダメ?」
「どうしようかな〜?」
冗談っぽく焦らして俺の反応を楽しんでいるように聞こえた。
「お願い、どうしても会いたい」
俺は必死だった。
「そこまで言うんだったらいいよ、仕事終わってからだから夜遅くなっちゃうけれど」
そうして約束を取り付けた。
俺は英里香に会いたくてしかたがなかった。
この感情、これを「好き」だとは、言わないんだろうな。
ひょっとしたら、俺の中にも英里香に対する「好き」という気持ちが、
少しくらいはあったのかもしれない。
でも、もしあったとしても、そんなものは他の大きな欲望に埋もれてしまって、
気づくことなんてできないはずだ。
俺の体に刻み込まれた記憶、英里香から与えられる至高の喜び。
あの日、英里香によって味わわされた初めての快感。
俺は、俺の体はそれを忘れることができなかった。
体調が回復するにつれて、体があの悦びを思いだし求めるようになった。
もう一度、あの気持ちよさを味わいたい、
俺の頭はそんな考えで次第に溢れていった。
けれど、どれだけ考えてもわからない。
脳が壊れてしまいそうな程の刺激。
どうすればそれを感じることができるのかわからなかった。
わからない。
そう思えば思う程、あの感覚が欲しくなる。
唯一、俺にそれを味わわせてくれることができる存在、それが英里香だった。
もう一度、英里香にめちゃくちゃに狂わされたい、
そう切望している俺がいた。
英里香に会えるなら、学校なんてどうでも良かった。
朝から呼び出されたら、サボってでも行ったはずだ。
けれど、仕事という口実で俺はたっぷり一日、焦らされ続けた。
電話で会ってくれると聞いたその時から、
俺はドキドキと興奮しはじめていた。
あの時と同じ喜びをまた与えてくれるものと期待して。
そして、この日も彼女は約束の時間から二時間遅れることとなった。
仕事がその理由だったらしい。
約束した時間がもともと夜だったのに、
さらに二時間も遅れると未成年が外出できるような時間ではなくなっていた。
でもそんなのは関係なかった。
俺は早く寝るふりをして、こっそりと家を抜け出した。
彼女は家の前まで車で迎えにきてくれていた。
今日もまたスーツを着て。
「ひょっとして、また仕事帰り?」
「ごめんね、今日も遅れちゃって」
「大変なんだね」
でも、だからあれだけ広いマンションに住めて、
安くもないイタリア車に乗れているのだろうと俺は思った。
「そうでもないよ。翔くんが会ってくれれば疲れも癒されるから」
そう言って俺に笑顔を向けた。
それだけでドキドキと胸が高鳴る。
俺でも彼女の役に立てているのかと思うと、嬉しい。
けれど俺は彼女の言っている意味が理解できていたわけではなかった。
「大変なんだね」などとわかったようなことを言ってみたけれど、
彼女の大変さなんて全く理解できていなかったのだから。
命を削るような思いで働いている彼女の苦労が、俺に理解できたはずはない。
当然、そんな俺に彼女の言う「癒し」が本当に理解できていたわけもない。
何よりも、どうして俺が彼女の癒しになっているのか、
全く検討もつかなかった。
彼女が俺の相手をしてくれている理由、と言い替えることもできる。
「ねぇ、晩ご飯はもう食べちゃった?」
「うん、とっくに」
「そっか」
残念そうに言う英里香。
「まだだったら、美味しいものを食べさせてあげたかったんだけどな」
呟くように言った。
「英里香さんはまだ食べてないの?」
「英里香さんか…。その呼び方やめない?」
話を逸された。
「どうして?」
ひょっとして、なれなれしく下の名前で呼んでいることが気に入らないのではないだろうかと、
一瞬不安になってしまった。
「どうしても。次からは英里香って呼びなさい」
少しきつい口調で命令された。
「うん…」
年上の女性を、慣れ慣れしく呼び捨てにすることには抵抗があったのだけれど、
命令じゃしかたがない。
一呼吸おいて覚悟を決めた。
「英里香が…まだなんだったらつき合うよ、ご飯」
「私は平気だよ。今日は翔をお腹いっぱい食べるんだから」
そう、悪戯っぽく笑った。
その表情はドキドキと俺を興奮させ、期待させる。
今日もまたたっぷりとあの悦びを与えてくれるのだろうと。
彼女は寄り道をせず、まっすぐに俺を家へと連れていった。
通されたのはこの間と同じ部屋。
部屋一面に敷かれたカーペット。
俺がそこに座ろうとした時、彼女は乱暴に俺を押し倒し、上に覆いかぶさってきた。
本当に乱暴だった。
床に打ち付けた肘とお尻がズキズキと痛む程に。
でも、そんな痛みもすぐに他の感覚に埋もれて感じなくなった。
「ごめんね。でも、もういいよね、しちゃっても?」
彼女の少し荒くなった息づかいが顔にかかる。
俺が答える前に、既にシャツのボタンは外されていた。
焦っているのか?俺を求めているのか?英里香が。
初めて目にする、欲望を剥き出した女性の姿。
俺はそれに驚き、戸惑い、興奮していた。
「うん」
やっと小さな声で答えた時、既に俺の上半身を覆っていた衣類は彼女が全て剥ぎ取っていた。
「じゃあ…」
彼女は自分の言葉も言い終わらないうちに、
俺の首の左側に口づけをした。
今日は優しくしてくれなかったらしい。
一瞬、鋭い痛みがそこに走り、思わず顔を歪めてしまった。
けれど、それも一瞬の事。
直後に、俺は待に待った悦びを味わうことができた。
その感覚の前では、理性も思考も全てが消えてなくなってしまう。
ただただ気持ちよくて、何も考えられなくて、
目の前が真っ白になっていくような感じがして、
俺の意識は遠くに消えていった。
よく朝、と言っても、まだ外も明るくなっていないような早朝。
彼女に揺すり起こされた。
いつの間にか俺はベッドで寝かされていた。
昨日は床の上で気を失ってしまったはずなのだから、
彼女が運んでくれたのだろうか。
「起きて。学校に遅れるよ」
「学校…」
こんな早朝に起こされたせいなのだろうか。
俺の頭はほとんど働いていなかった。
やっとの思いで持ち上げた瞼が重くてしかたがない。
「今日は休む」
そんな言葉が口を衝いて出てきた。
「だぁめ、ちゃんと学校行かないと、もう会ってあげないよ」
その言葉は全く本気ではなかったはずだ。
俺がこのまま一週間学校をサボりつづけたって、
彼女はまた必ず会ってくれると俺は信じきっていた。
「ほら、起きなさい」
そう言って彼女は俺の両腕を掴み、無理矢理上半身を引き起こした。
しかたない、諦めて立ち上がろうとした。
まずい、また目眩がする。
力なく倒れそうになったところを彼女が支えてくれた。
またそうやって彼女に連れられ、ようやく車に乗り込めた。
そして彼女は家の前まで送り届けてくれた。
「また、電話するからね」
彼女は最後にそう言ってから帰っていった。
家の小さな門にもたれかかり、かろうじて立っていながら、
走りさる彼女の車を見送っていた。
日は昇り、もうすっかりと明るくなっていた。
急いで部屋に戻らないと、いつも俺が起きる時間になる。
そうしたら母親が部屋に俺を起こしにきてしまう。
それまでにベッドに戻らないと。
そう、思っていたときだった。
「翔!」
背後から叫ぶように俺の名前を呼ぶ声がした。
振り返ると幸が立っていた。
すっかりと制服に着替え、左手には鞄を持っている。
幸は俺がまだ目も覚ましていないうちから、毎朝俺の家の前で待ち伏せていやがったのか。
「こんな時間に何してたの?今の女の人、だれ?」
まずいところを見られた。
「今帰ってきたの?ひょっとして、一緒に泊まったの?」
「お前には関係ないだろ!」
そう吐き捨ててさっさと家に入った。
あいつの声を聞いていると昨夜の余韻が台無しになる。
だるい。頭が働かない。
学校を休んでしまいたい。
そう思ったけれど、いつものように学校へ行くしかなかった。
やましい隠し事があるだけに、大人しくいつも通りに振る舞うしかなかった。
休む、なんて言ったら両親にまで余計な詮索をされてしまいそうだ。
いつもの時間になって家を出た。
もうとうにいなくなっているものだとばかり思っていた幸が、まだ俺を待っていやがった。
門のすぐ隣の壁にもたれかかって、じっと立っていた。
敢えて声をかけず、黙って前を通り過ぎようとした。
残念ながら俺の存在を見落としてくれるはずもなかった。
そしてさっきの続きを始めやがった。しつこく問い詰めてくる。
「翔、答えてよ!」
「いやだ」
「いつからあの人とつき合ってるの?」
「忘れた」
「今朝、あの人と何してたの?昨日の夜から会ってたの?」
しばらく歩いていると、どきどきと胸の鼓動が早くなるのを感じた。
おかしい。
いつも歩いている道をいつものように歩いているだけだというのに。
ほどなく、目の前が瞬時に暗くなっていき、バランスが保てなくなった。
目眩か。
とっさに、壁に手を付き辛うじて姿勢を保つことができた。
その一部始終を、俺の後ろをついて歩いていた幸が見逃すはずもなかった。
「どうしたの?大丈夫?」
心配する幸の声は聞こえたけれど、すぐにその姿を見ることはできなかった。
目を開けているはずなのに、俺の目は光を捉えていなかった。
「大丈夫だよ」
言っているうちにバランス感覚が戻り、
不安気な表情で俺の顔を覗き込んでいた幸の顔が見えるようになった。
「体の具合が悪いんじゃないの?ひょっとして昨日の夜寝てないの?」
確かに調子はよくないけれど、目眩はもう治まった。
「大丈夫だ」
それだけ言うと、再び歩きだした。
確かに睡眠時間は短かったけれど、それでも寝ていないはずはない。
「ひょっとして、あの女に何かされたんじゃないの?」
今度はそんなことを言い出しやがった。
「そんなわけないだろう」
「だって、あの女変よ!」
「何が変なんだよ?」
俺は軽くあしらいつづけて、幸とまともに話をしないでおこうと心に決めていたつもりだった。
それなのに気づけば幸の言葉にむきになってしまった。
「あの人、いい年したおばさんなんでしょ?
それなのに未成年の男の子を連れ回しているなんで十分変でしょ?」
「おばさんって、まだ二十七歳だよ!」
「十分おばさんじゃない…?」
さも当然のように、そして俺の言葉に大きな疑問を抱いている口調だった。
「そんなおばさんがあんたみたいな子供を本気で相手にするわけないでしょ?」
「お前に何がわかるんだよ!」
「あんたとあのおばさんの関係は知らないけれど、
あのおばさんがあんたの事を大切に思っていないことだけはわかるわよ!」
そう言っているうちに俺たちは学校の昇降口にたどり着いていた。
「あんなおばさんのどこがいいのよ?」
「お前みたいなペタン子にはない魅力があるんだよ」
言いながら俺は幸の胸をポンと叩いてやった。
正確には、胸ではなく胸があるべき場所と言うべきだろうか。
だって、幸にはないのだ。
英里香のような、女性ならば本来備えているべき胸が。
それにもかかわらず、幸は俺を変質者よばわりしやがるんだ。
「どこ触ってるのよ、バカ!」
「どこって、洗濯板だろ?大げさに騒ぐなよ、減るもんじゃないんだし。
まぁ減る程無いだろうけどさ」
俺たちのそばで上履きに履き変えていた他の生徒がくすりと笑う声が聞こえた。
そして幸はやっと静かになった。
黙りこんで動かない。
俺のK.O.勝ちだと勝利を確信した。
俺は下駄箱から上履きを出して履き、下箱をしまおうと幸に背中を向けた。
教室に向かって歩きだそうとしたとき、
ポンと肩を叩かれた。
振り向いた瞬間、俺の視界には握りしめられた拳が勢いよくとびこんできた。
「うぉりゃー!!!」
そんな声が朝の騒々しい昇降口に響きわたった。
直後に俺の顔面に激しい衝撃が走った。
痛くは無かった。
と言うよりも、そんな感覚は麻痺していたのかもしれない。
脳が激しく揺さぶられた。
ふらふらと、数歩後ずさりした後、その場に座り込むように倒れた。
目の前がぐるぐると回っている気がする。
上半身を支えていることもできず、壁にもたれかかるつもりだった。
けれど、その辺りで意識を失い、壁をこすりながら俺は廊下に横たわった。
ぺたんこだと思い込んでいた幸の胸。
さっき触ってみたとき、予想に反して少しばかりは膨らんでいるのだということを知ってしまった。
けれど、今なら自信を持って言える。
それは脂肪ではなく、プロボクサー並に鍛え上げられた強靭な筋肉であると。
俺が目を覚ましたとき、辺りはすっかりと静かになっていた。
当然だ。
他の生徒はみんなすっかりと教室に駆け込んでいたあとだ。
どこかの教室から、出欠をとる教師の声が漏れてきている。
なんという世知辛い世の中か。
俺が凶暴な女にノックアウトされてのびていたというのに、
誰一人として救いの手を差し延べてくれなかったらしい。
俺は保健室に運ばれることもなく、
さっき倒れこんだその位置でそのまま気を失っていたらしい。
殴られたせいなのか、もともと体調が優れなかったせいなのか、何が原因だかわからないけれど、
ふらふらとおぼつかない足取りでやっと教室にたどり着いた。
「遅いぞ、早河!」
担任の声がした。
馬鹿野郎!俺のせいじゃないやい!
そんなことがあってから数日が過ぎた週末。
幸に殴られた顔のあざがまだ直りきっていなかった。
俺の体はまた英里香を激しく求めていた。
「会いたい、英里香」
金曜日の夜に電話をした。
土曜日に会ってくれないかとの打診をするために。
「明日はそんな気分じゃないんだけれど…」
そんな答えが返ってきた。
「お願い、少しだけでもいいから」
そんな言葉が俺の口から出てくるとは、
自分でも驚きだった。
そこまでして英里香を求めていたのかと、
冷静に驚いている自分がいた。
俺の理性は英里香を求める欲望に侵食され始めているんじゃないだろうかと、
少しばかり不安を覚える程だった。
「じゃあ、夜からでよければ会ってあげてもいいわよ」
少しばかりうんざりしている、そんな心のうちが漏れてきそうな口調だった。
そして土曜日。
日が沈みかけ、薄暗くなり始めた頃、家を出た。
昼間のうちに買っておいたチョコレートを手にして。
英里香が好きだと言っていたチョコレートだ。
もちろん、スーパーなんかで売っている安物とはまるで違う代物だ。
食べたことはないからわからないけれど、
さぞかし美味しいのだろう。
少なくとも、英里香はそう言っていた。
見た目は宝石のようと形容し得るほど。
もちろん包装だってまるで宝石箱だ。
当然俺の小遣いでおいそれと買える金額でもない。
小遣い三ヶ月分だ。
そんな持ち合わせが無かったから、借金をした。
幸に頭をさげて頼み込んだら渋々貸してくれた。
「何に使うの?」
と聞かれたけれど、俺は正直に答えなかった。
「どうしても欲しいものがあるんだ!」
そんな答えでは納得してくれなかった。
「何が欲しいの?お金が溜るのを待てないほどなの?」
「初回限定版ゲームがどうしても買いたいんだ!」
そう言ったら納得してくれた。
「じゃあ、私の誕生日にケーキ作ってくれるんだったら貸してあげてもいいよ」
俺はその条件を呑んだ。
英里香にプレゼントを買うから、なんて口が割けても幸には言えなかった。
言ったら貸してくれないだろう。
それに、また口うるさく言われそうだったから。
それでも買えたチョコレートは一番安いものが精一杯だった。
たかがチョコレートがこれほどまで高いとは、おかしな世の中だ。
それでも買ったのは、英里香に嫌われたくないという切実な想いからだった。
どうして英里香が俺の相手をしてくれているのか、
俺にはさっぱりわからなかった。
俺にそんな魅力があるのだろうか?
少なくとも、英里香の魅力をもってすれば、
代わりの男なんて掃いて捨てるほどいることは間違いないはずだと思った。
だからこそ、捨てられたくないと必死だった。
英里香に捨てられたら生きていけない、
そう俺の体が言っている。
今日は英里香が迎えにきてくれない。
家まで自分で来いといわれてしまった。
俺に逆らうことなどできるはずもなかった。
そうして駅に向かおうとしていたときだった。
幸と出くわしてしまった。
いつもいつも、しかも会いたくないときに出会ってしまう。
果して近所だからなのだろうか。
本当に付きまとって監視していやがるんじゃないかと疑ってしまうほどだ。
「こんな時間からどこにいくの?」
「どこだっていいだろう、いちいち聞くなよ。お前には関係ないだろ!」
勘のいいやつだ。
俺の言葉を聞くなり、表情が変わった。
俺を疑っている目だ。
俺をじろじろと頭の上から足の先まで舐めるように見つめやがる。
俺の隠し事を暴いてやろうという殺気が伝わってくるほどだ。
「その袋…」
俺が手にしていた紙袋を指さしやがった。
チョコレートの入っている袋。
店でくれた上等な紙袋だ。
「そんなチョコレート買うお金あったんだ」
やっぱり幸もこれが高価なものであることを知っていた。
「それもって、どこに行くの?」
俺は何も答えずに口を噤んでしまった。
幸をあしらう言葉を必死になって探したのだけれど、
すぐには見付からなかった。
「ひょっとして、あの人に会うの?」
俺は何も答えなかった。
けれど忌々しいことに幸は俺の表情を読みやがった。
「私にお金を借りにきたのって、そのためだったんだ」
「ちゃんと返す!だから何に使おうと俺の勝手だろ!!」
「どうしてそこまでしてあの人に会いたいの?」
どうして、か。
理由はとても単純だ。
けれども、それを言葉で説明できる自身は無かった。
一度知ってしまったものでないとわからない喜び。
そしてそれを与えられないときの苦しみ。
「英里香がいないと、俺は生きていけない」
俺の体はもうそんなになってしまった。
一週間英里香と会えなかったら禁断症状が出るんじゃないかとさえ思う。
幸はしばらく黙りこんでしまった。
きっと、予想外の俺の言葉に声を失ってしまったのだろう。
「翔、気づいてた?この間、翔が朝帰りした日。
直ったはずの首にまた傷ができていたことに。
やっぱりあの人、吸血鬼じゃないの?」
大いにまじめな顔をして言いやがった。
「何バカな事を言ってるんだ!?そんなわけないだろう」
本気でそんなことを言い出す様では、逆に幸の事が心配になってしまう。
昔からファンタチックな本を読むのが好きなやつだったけれど、
ついに現実と幻想の区別がつかなくなっちまいやがったのか。
「じゃあ、翔はその傷なんだと思うのよ?」
「キスされた痕だ」
「バカはあんたの方でしょ!キスしてそんな傷ができるわけないでしょ!!」
「キスもしたことない癖に何がわかるんだよ!」
いつの間にか俺も幸も叫ぶように言い合っていた。
「だったら試してみればわかることでしょ!」
言うやいなや、幸は俺に飛びつくように抱きついた。
両腕を俺の首の後ろに回して、しがみつくように。
少しばかり背伸びをして。
俺の首元に顔を埋めて、そして吸いついていやがった。
それをキスというのかどうか、俺にはわからない。
けれども、英里香に味わわされたものとは比べるべくもなかった。
痛みもなければ、気持ちよさだって微塵もない。
ただ幸の髪の匂いがして、幸の息づかいが俺の首をくすぐって、
それから、温かくて軟らかい感触がするだけ。
あと、少しばかり首に幸の重さが伝わったくらい。
一瞬、俺は戸惑ってしまった。
どうして幸が俺に抱きついてキスなんかしていやがるんだ、
という驚きで頭がいっぱいになった。
ふと我に返ると、力いっぱい幸を引き離した。
「何するんだ!止めろよ!!」
「そんな傷、やっぱりできないでしょ!」
言われて手で触ってみたけれど、傷の有無なんてわかるわけがない。
とりあえず、幸のよだれがべったりとついていたくらいか。
汚い!不思議とそんな思いがこみ上げてはこなかった。
なぜだろう。気づけば俺の心臓はドクドクといつもより早く脈打っている。
「吸血鬼じゃないとしても、夜に翔を連れ出すような女、まともなやつじゃないわよ!」
「英里香は仕事が忙しいから、夜じゃないと時間がとれないんだよ!」
「じゃあ、翔が何をしているか、おじさんとおばさんは知っているの?」
「脅す気か?」
俺がどんな女とつき合っていようとも、親には関係のない話だ。
親に紹介するのは、結婚を考える程の関係になってからだろう。
「まともな人と健全な交際をしているなら、隠すような事じゃないでしょ?」
一瞬、俺はためらった。
もしも、親にばれたらどうなるだろうか、と。
でも答えはすぐに出た。
その時は、その時だ。どうにでもなりやがれ!
「言いたければ言えばいいだろ。
でも、そのときはいつか殺してやる」
そう言ったら、幸は何も言い返さなくなった。
ただ黙って歩いていく俺を見送っているだけだった。
少しばかり、言い過ぎただろうか。
最後のあいつの表情を思い出すたび、
ふつふつと後悔の念がこみ上げてきた。
でも、あいつが悪いんだ。
俺の邪魔をするあいつが。
「遅いぞ」
英里香の家の近くの駅。
改札を抜けたところで英里香が待っていた。
既に約束の時間を30分ほど過ぎていた。
幸に邪魔をされたせいで電車に乗り遅れてしまった。
田舎の電車は本数が少ないから、一本乗り遅れるとこうなってしまう。
「ごめん、いろいろあって」
けれど、英里香だって時間にルーズなんだから、お互い様だ。
とりあえず、無理して買ったチョコレートで機嫌を直してもらうことにする。
「高かったでしょ?無理しなくてよかったのに」
と言いながらも嬉しそうだった。
「でも昨日電話したときは、今日は気分じゃないって言ってたから」
「気にしてたの?まぁ確かにそんな気分じゃなかったんだけどね。
でも、翔がなついて会いにきてくれているんだから、嬉しいわよ」
そう言って笑顔を見せてくれた。
「それに、貢ぎ物なんて期待しているんだったら、
もっとお金もっている人を引っかけるわよ」
冗談っぽく笑って見せた。
別に英里香を求めているのは体だけじゃない。
やっぱり可愛くて、綺麗な人だ。
ふとそんなことを思ってしまった。
今日はいつも見るスーツ姿じゃない。
部屋着だろうか。少しばかりラフな服装だった。
化粧だってしていなかった。
いつもよりも油断しているというか、リラックスしているように見える。
スーツは戦場に赴く戦闘服だとするなら、
今日は戦闘モードじゃないんだろう。
いつも張りつめている緊張感のようなものが、今日はない気がする。
「早速、して欲しい?」
部屋に入るなり問われた。
いきなりだな、と思いながらもうなずいた。
俺は上に着ていた服を脱ぎ捨てると、
英里香を前からそっと抱きしめた。
実は、英里香を抱きしめたのはこれが初めての事だった。
いつかはやってみたいと密かに企んでいたことが、
やっとかなったわけだ。
「いつもはだらしないっていうのに、今日はリードしてくれるつもり?」
俺の腕の中から上目使いで言った。
たったそれだけの事だと言うのに、
俺は心臓がはちきれそうなほど興奮していた。
英里香の声、表情、しぐさ、
全てが俺を惑わせる。
英里香もわかってやっているんだろう。
俺をじらせては、ときおり意地悪く笑う。
「翔、ひょっとして他に彼女でもできちゃったの?」
突然そんなことを言い出した。
俺は慌てて首を振った。
「そんなのいないよ」
「そう?でも、若い女の子の匂いがする」
俺の首筋に顔を近づけ、くんと匂いをかいで言った。
「キスされたでしょ?」
言いながら、ぎゅっとほっぺをつねられた。
思いのほか痛かった。
英里香は怒っていたのだろうか。
なぜそんなことがわかるのか、なんて俺は疑問にすら思わなかった。
きっと、英里香のような大人の女性にならそれくらいの事がわかるのだろうと、
すっかり信じこんでいた。
「無理矢理されたんだよ」
俺がそう言うと、英里香はじっと俺の目を見つめた。
嘘を言っていないか、確かめるつもりだったのだろうか。
「じゃあ、信じてあげるわ」
そしてほっぺを引きちぎりそうなくらい強くつねっていた手をようやく離してくれた。
「私の翔に触れるなんて忌々しい小娘ね」
言いながら今度は背中をつねられた。
本当に英里香は手加減をしてくれない。
思わず叫ぶほど痛かった。
「じゃあ、今日はこっちにしてあげるわね」
そして英里香はいつものように俺の首に口づけをしてくれた。
ただ、今日は首の右側。
それはさっき幸にキスされたまさにその場所だった。
なぜだろうか。
一瞬幸にキスされたことが思い出された。
けれどそれもすぐに押し寄せる快感に埋もれていった。
また俺は気を失ってしまった。
俺は日曜の昼過ぎまで目を覚ますことは無かった。
さすがに頭も足どりもおぼつかない俺を一人電車で帰らせるのは
無理だと心配してくれたのだろうか。
「本当に世話のやける子ね」
言いながらも俺に肩を貸してくれて、車まで連れていってくれた。
実のところ、この日は家に帰っても、
玄関の扉を開く勇気がなかなかでなかった。
英里香を見送ったあとも、なかなか扉に手をかけることができず、
ドアの前でずいぶんと躊躇っていた。
幸が、俺の両親に告げ口したんじゃないかと不安だった。
やっぱり怒られるのだろうか?
その時、不意に扉が開いた。
そこには母親の姿があった。
その姿を見て、一瞬ドキリと心臓が縮みあがる思いがした。
怒られるにしても、まだ心の準備ができていない。
英里香の事をどう話すべきかも全く考えていなかったから。
「あら、おかえり、翔」
けれど母親はいつもと変わらぬ様子だった。
家の奥には入り込んで、逃げられなくなったところで
怒られるのかとびくびくしていたけれど、
そんなわけでもなかった。
「幸のやつ、何か言ってなかった?」
「何かって、何も聞いてないよ」
どうやら幸のやつは告げ口しなかったらしい。
ホッと胸をなでおろした。
殺してやる、なんて少しばかり言い過ぎたせいだろうか。
もしも本当に告げ口されたって、やっぱり殺してやることは到底できないけれど、
一生口を聞いてやらないくらいのつもりではいた。
けれど、そんな脅しじゃ迫力にかけるだろう?
一生口聞いてやらないから!なんてさ。
代わりに、休み明けの月曜は幸の小言がいつも以上にうるさかった。
「また傷が増えてる!」
そう言って差し出された鏡で首を見てみた。
確かに首の右側にも左側と同じく噛み傷のようなものができていた。
「やっぱり吸血鬼なんじゃないの、あの女!」
まだ言っていやがる。
けれど、もし仮に英里香が吸血鬼だとしたところで、
一体どんな不都合があるというのだろうか?
俺の血が吸われているだって?
構うことはない。英里香に献血していると思えばいいだけの事だ。
俺だって代わりに気が遠くなるほど気持ちいい思いをしているのだから、
何の不都合もありはしない。
ふと、そんなことを思ってしまっていた。
もしかすると英里香は本当に俺に噛みついているのだろうか、
と少しばかり信じ始めていたからなのかもしれない。
だからと言って英里香と会うのをやめるわけが無かった。
もはや俺の体は英里香無しでは生きてはいけない。
相変わらず口うるさい幸だけれど、そんなことで止めることでもなかった。
幸のやつ、俺が英里香から離れないのなら、
英里香を俺から遠ざけようと考えやがったらしい。
その日、俺は学校が終わってから駅前で英里香を待っていた。
今日は残業しないから、会社帰りに拾ってくれると言っていた。
着替えを済ませてすぐに家を出たせいで、
待ち合わせまで少し時間ができてしまった。
俺が早く着いたからといって英里香が早くきてくれるわけではない。
でもすっかり他の事が手に着かなくて、落ち着いて待っていることができなかった。
時間通りに来てくれたら時間に余裕ができる。
どやって過ごそうかとあれこれ考えて、そわそわしながら待った。
俺はこれでも料理が得意だ。
英里香は忙しくて料理なんてまともに作ったことがないと言っていた。
それじゃあ俺が作ってやろうじゃないかと、一人で考えたりして、
待っている時間さえも楽しく感じられた。
「嬉しそうね」
聞きなれた声がした。
まさか、と思いながらも振り返るとやつがいた。
本当にストーカーじゃないだろうか、こいつは。
いい加減こいつの顔を見るのもうんざりだ。
これが偶然の出会いだとはとても思えない。
「付けてきたのか?」
「あの人と待ち合わせ?」
俺の言葉をすっかり無視しやがった。
「関係ないだろう!」
「私も会っていっていい?」
「バカ!お前があってどうするつもりなんだ!さっさと帰れ!」
「翔がそこまで好きな人の顔を見てみたいだけだよ。
いつもうちの翔がお世話になっていますって挨拶するだけだよ」
幸は笑っていやがった。
「ふざけるな!」
それはただの嫌がらせだろう。
うちの翔がお世話になっていますって、
お前一体俺の何なんだよ!
独占欲の強い英里香が、俺の隣に他の女がいるところを見てなんとも思わないわけがない。
一体どんな言い訳をしろというのだ。
ただの幼なじみ?
それがデートの待ち合わせに付いてくるなんて、
きっと納得してくれないだろう。
幸だって、そんなことがわからないはずはないだろう。
いや、わかって言っていやがるのか。
「帰れよ!!」
怒鳴ってみても幸はすました顔をしていやがる。
「別にいいでしょ、顔を見ていくくらい」
どうやら本気で帰りやがらないつもりらしい。
困った。
幸を追い払う方法がわからない。
あの顔は、意地でも動くまいと覚悟を決めて来やがったに違いない。
それなら泣かせてでも追い返してやる。
そうだ、泣かせば帰るだろうと俺は思った。
ずいぶんと昔の記憶だけれど、
俺がいじめてやったらいつも泣きながら帰っていきやがったものだ。
でも、幸を泣かせることが容易では無いことにすぐ気づいた。
いや、正確には幸を傷つけずに泣かせる方法というべきだろう。
俺があのにくたらしい顔を、形が変わるくらい殴りつけてやれば泣くだろう事は想像に難くない。
だからってそんなことができるわけもない。
人通りの多い駅前という公衆の面前で、
女を激しく殴り付ける野蛮な男の末路がどんなものであるのかわからないわけでもない。
あいつが気にしているコンプレックスを、なじり、嘲笑い、罵倒すれば
ひょっとしたら泣くかもしれない。
それでも、こいつが傷つき涙を流している顔なんて見たくない、
そう思っている俺がいた。
腹がたつほどにくたらしいのに、憎むことができなかった。
「帰ってくれよ、頼むから」
結局、頭を下げるしかなかった。
「いや!帰らない!」
「今度なんでもしてやるから、帰ってくれ」
「じゃあ、今して。これ食べたら帰ってあげる」
ごそごそと鞄の中から幸が取り出したのは何とニンニク。
こいつはなんてものをもってきていやがるんだと飽きれてしまった。
俺は大人しく言われるままそれを口に放りこんだ。
そうするのが幸を追い返す手っ取り早い方法だと思ったから。
「でも、なんでニンニク?」
「吸血鬼にはニンニクでしょ?」
いかれたことを言いやがる。
確かに吸血鬼はニンニクに弱いという話を聞いたことがある。
でもだからってそれを行動に移すやつを見たのは初めてだ。
だって普通、吸血鬼が存在するんだって心底信じてニンニクを持ち歩くようなやつなんているか?
でも構わない。食べたら帰ってくれるというのだから。
「もう一個」
言いながら、もう一つを鞄から取り出しやがった。
しかし、どうしたことだろう。
食べても、食べても次から次へと新しいニンニクが鞄の中から出てくる。
一体いくつ食べさせる気なんだ、こいつは?
「もういいだろう、そんなにニンニクばっかり食べられないって」
「うるさい!」
そう言って開いた口のすき間からニンニクをねじこみやがる。
窒息するんじゃないかというほど詰め込まれた。
歯を閉じて拒むなどということは許されない。
俺の顔面に張り手を食らわせる様にして、
無理矢理ぐいぐいと押し込みやがる。
うっかり歯を閉じようものなら、前歯ごとへし折られそうな恐れがあった。
まだ噛み砕いていないニンニクまでもが
ぐいぐいと食道に押し込まれていく感じだ。
必死で飲み込まないと行き場を失ったニンニクが気管に侵入しそうだ。
「苦しい!」
と言いたいところだけれど、もはや口も動かせないほどに詰め込まれ過ぎた。
そうして幸の持っていた大きな鞄もようやく小さく萎んだ。
これで全部かと思ったら、今度はペットボトルを取り出しやがった。
「飲んで!」
キャップを開けた瞬間、匂いでその不透明でどろどろな液体の正体がわかった。
ニンニクをミキサーで砕いてきやがったらしい。
たっぷり1.5L分。
「そんなに飲めねぇよ!」
と抗議のために開いた口のすき間に、ペットボトルを押し込みやがった。
そしてぐいぐいと傾けて、口に流し込んできやがる。
俺はこぼさないように必死で喉に流し込んだ。
口からあふれ出ると、せっかくデートのためにめかしこんできた俺の服が
ニンニクで汚染されてしまう。
そんな俺の心のうちを察しやがったのか、
幸はさらにペットボトルを傾けやがる。
「美味しいでしょ?」
なんて事だ!俺の苦しむ姿を見て笑みを浮かべていやがる。
そしてついに耐え切れず、
口から吐き出してしまった。
仕方がない、ニンニク汁がおかしなところに侵入しようとしたのだから。
おかげで俺の服はニンニクまみれだ。
俺の正面にいた幸にも俺の吐き出したものがかかったはずだけれど、
この際どうでもいい。
そいつは自業自得だ。
「早く飲まないと頭からかけるわよ!」
幸の目は本気だった。
やばい、きれていやがる。
諦めて俺は飲み干すことにした。
「ゆっくり飲むから」
そう言ってペットボトルを受け取る。
俺が観念したせいか、自分のペースで飲むことを許してくれた。
「あと、これも持っていってね」
最後に鞄から幸が取り出したもの。
趣味の悪い十字架がじゃらじゃらと出てきた。
信仰心の強い人なら一つや二つくらいもっているだろうけれど、
それを十も二十も束にして身につければたちまち異様な光景となる。
「魔除けだから」
もはや、幸の存在が俺の災いの根源ではないかとさえ思えてきた。
しかし、これを身に着けることで幸が帰ってくれるならば、
魔除けであることに相違ない。
しばらくの間、と思ってそれを首から下げ、手に巻き、ポケットに入れた。
「約束だから、帰ってくれ」
「うん、それなら大丈夫ね」
ようやく満足したのか、幸は駅の中へと消えていった。
きっと、今日のやつには悪魔的なものが降臨していたに違いない。
吸血鬼を連呼しすぎたせいで、きっとよからぬものを呼び込んでしまったのだろう。
痛いやつだ。
そしてちょうど幸を追い払ったところへ、
英里香の車が駅のロータリーへ滑り込んできた。
けれど、今日は車から降りてくることもなく、窓だけを開けた。
相当に匂いがきつかったのだろうか。
両手で口を覆いながら、辛うじて一言を放った。
「ごめん、今日気分悪いから帰るね」
俺の返事も聞かずに英里香は走り去っていった。
いつもは丁寧な運転をしていた英里香だったけれど、
今日ばかりはそのもてるパワーを路面に激しく叩きつけたようだ。
吠えるエンジン。
きゅるきゅるとタイヤが地面の上を滑る、耳をつんざくような音を響かせながら、
焦げたタイヤの匂いを残して走り去った。
まずい、俺も気分が悪くなってきた。
気持ち悪い。
自分の息が、体臭が、ニンニク臭い。
軽く吐き気まで催してきた。
さんざん楽しみにしていた英里香との逢瀬。
目の前までやってきておきながら、突然お預けを食らわされるなんて
蛇の生殺しのようだ。
俺は激しい落胆と、吐き気に襲われながらホームで電車を待った。
幸い、車内は空いていてゆっくりとシートに座ることができた。
当たり前だ、体中に十字架をぶら下げた異様な身なり、
本人さえも吐き気を催すニンニク臭。
そんなやつ、吸血鬼じゃなくったって逃げていくに決まっているだろう。
おかげで今日限りの俺様専用列車が走ってくれたわけだ。
英里香はよほどニンニク臭が苦手らしく、
その後数日間、俺のからだから完全にニンニクが消えてなくなるまで
会ってくれることはなかった。
ひょっとして、これも幸の計算のうちだったとでもいうのか。
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偶然吸血鬼と出会ってしまった十五歳の高校生の出来事。
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きれいでスタイルがよくて優しい年上の女性に、一目で魅了された翔。
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