威容を放つ洛陽の巨大な門。
その門は現在、緊急事態を受けて固く閉ざされていた。
洛陽に辿りついた一刀と呂布は開門を求めるために門番を探して馬を歩かせる。
程なくして数名の兵士が武器を構えてやってきた。
「何者だ!名を名乗れ!」
響く兵士の声に、しかし答える者はいない。
一刀はどうにも答えようが無く、呂布は大声を出すような質ではないからである。
大声で答える代わりに、呂布は少し馬を進ませた上で、目深に被っていたフードを取っていつも通りの声量で答えた。
「……月に会いに来た。門、開けて欲しい」
呂布の姿が顕になると、途端に兵士達に動揺が走る。
「りょ、呂布将軍でしたか!これは大変失礼を!おい!」
「あ、あぁ、行ってくる!」
呂布に対応していた兵に促されて、1人の兵が門へと戻っていく。
恐らく門を開かせに行ったのであろう。
「ところで将軍。そちらの方は?」
開くまでの間を繋ぐためか、兵は呂布に問いかける。
それに呂布はすこし考え、ただ一言だけ答える。
「……月の友達」
「は、はぁ。董卓様の…」
何故このような時に、それもわざわざ呂布と共に来たのか、と疑問は多々あれど、一介の兵士に過ぎない身分でそうまでズケズケと呂布に質問を重ねられるほど、この兵士の心臓は強くはなかった。
それきり両者共にだまってしまうが、やがて重々しい音を響かせながら門が開いた。
「ではどうぞ、将軍。董卓様は今は宮殿の方におられるのでは無いでしょうか?」
「……ん、ありがと」
短く礼を述べ、呂布は洛陽の街へと踏み込んでいく。
一刀もまた、兵に一礼をした後、呂布に続いて洛陽へと入っていった。
「月達はまだ洛陽にいるみたいだ。間に合ってよかった…」
門番から十分に離れたところで一刀が呟く。
一刀は最大の懸念事項が杞憂に終わったことに安堵していた。
何にせよ、これで第一関門は突破したのである。
「……こっち」
呂布はチラと一刀を見てから奥に見える宮殿へと向かう。
だが、一刀がそれに待ったをかける。
「どこか目立たない場所はないかな?ちょっと着替えたいんだ」
「……それは、大事なこと?」
「月達の説得は必ず俺がするって言ったのは覚えてるかな?それに関することなんだ」
「……ん、分かった。付いてくる」
呂布は理解を示したかと思うと、突然大通りを外れて歩み出す。
不思議に思いながらも一刀も付いていくと、洛陽でも特に自然の濃い一角に建つ屋敷に向かっていることに気付いた。
呂布は歩みを止めることなくその屋敷へと向かっていく。
そしてその敷地に踏み込んだ瞬間。
「ワン!」
一匹の犬が呂布に飛びついていた。
見た目は何故ここにいるのか、ウェルシュコーギーのように見える。
そしてその首には赤いスカーフを巻いている。
その犬は千切れんばかりに尻尾を振り、鼻で呂布の顔を突ついている。
相当呂布に懐いていることがその様子からよく分かった。
「……ただいま、セキト。みんなも、ただいま」
呂布が辺りを見回しつつ声を発する。
気づけば一刀と呂布の周囲にはたくさんの犬や猫が集まってきていた。
皆が一様に呂布に甘えたがっているようにも見える。
「ここが呂布さんの屋敷だったんだね。この犬や猫達は?」
「……みんな、恋の家族」
「なるほどね。ここに来たってことは、使わせてもらってもいいのかな?」
「……ん」
呂布はコクりと頷く。
あいも変わらぬ口数の少なさにもとうに慣れた一刀は礼を述べて屋敷の戸へと向かう。
呂布はその場にしゃがみこんでセキトと呼ばれた犬以外の相手をするようだ。
屋敷に入り適当な部屋を見つけると、一刀は懐からある物を取り出した。
「呂布に斬られた時も何故かこいつだけは絶妙に避けてたんだよな…これも神の思し召し、ってか?」
一言呟いて一刀は”それ”に袖を通していくのだった。
着替え終えた一刀が屋敷の外に出ても、呂布は未だしゃがんだままで犬や猫の相手をしていた。
と、俄かにその中の一匹が屋敷の方へと向かう。
呂布がその行き先を目で追うと、屋敷の戸から出てきたと覚しき一刀が、寄ってきた犬を優しく撫でているのだった。
「ごめん、待たせちゃったかな?」
「……ううん、大丈夫」
一刀が声を掛けると、呂布は撫でていた猫を膝から降ろして立ち上がる。
そして、改めて一刀に視線を向けるとその首を傾げた。
「……?」
呂布の前に立つ一刀は首元から足元まではすっぽりと外套で覆っていたのである。
呂布が首を傾げたことを見て、一刀は軽い説明を加える。
「これは気にしないでもらえるかな?月達に会うまではあまり人目を引きたくなくてね」
「……ん」
それほど深く気にしてはいなかったのか、呂布は素直に頷く。
一刀は撫でていた犬に視線を落としながら呂布に声を掛ける。
「人懐っこい子だね。セキトって呼んでたっけ?」
「……ん。珍しい…セキトがすぐ懐いた」
呂布は首肯して一言呟く。
少しの間セキトを撫でてやった一刀は、やがて立ち上がる。
「っと、今はのんびりしている場合じゃなかった。行こう、呂布さん」
「……ん」
いつものように短く返事を返すと踵を返して歩き出す。
その向かう先は宮殿。
一刀もそれ以上言葉を発することなく呂布に付き従う。
互いに無言のまましばらく歩き続け、やがて洛陽の中心、宮殿の門前に辿りついた。
「これは、呂布将軍!どうなされたので?」
「……月に会いに来た」
「董卓様に、ですか…今は大変お忙しいとのことですが…呂布将軍でしたら大丈夫でしょう。どうぞお通りください」
「……ん、ありがと」
顔パスで宮殿へと入っていく呂布。
やはり相国直下の将軍ともなればそれだけの地位的価値があるのだろう。
そう改めて呂布に驚きつつも一刀が呂布に続こうとすると。
「待て!貴様は何者だ?何故そのような格好をしている?」
兵士に止められてしまった。
なるほど、与えられた仕事をきっちりとこなす良い兵士のようである。
「私は呂布将軍付きの者です。故あって外套に身を包んではいますが、決して交戦の意思は持ち合わせておりません」
詳しく説明するわけにもいかず、取り敢えずの簡単な説明を行う。
しかし、そのようなふんわりとした説明で兵士を納得させることは出来なかった。
「外套の下に何を隠してるとも知れん。そのような者を入れるわけにはいかんな。そもそも今は基本的には入場を制限されていることは知っているだろう?」
当然のことながら兵士は頑なに一刀を入れようとはしない。
どうしようか考えようとしたその時、先に進んでいた呂布が戻ってきた。
「……大丈夫。恋がいる」
「しかし…」
「……大丈夫」
「う…わ、わかりました。おい、通ってもいいぞ。だが、決して変なマネはするんじゃないぞ?」
「はい、了解しています」
呂布に気圧された兵士は警告を発しつつも一刀に通行を許可する。
兵士に対して申し訳なさを感じながらも、一刀は再び奥に進み始めた呂布を追って歩いてゆく。
呂布は勝手知ったる様子で迷いなく宮殿内を歩いてゆく。
幾度も廊下を進み、曲がり、また進みしてようやく一際荘厳な扉に辿り着いた。
内部から漏れ聞こえるは聞き覚えのある怒鳴り声。
その声を聞いて、一刀は再びの安堵を感じていた。が、すぐに気を引き締めなおす。
部屋の中から聞こえてくる怒声は一時的になのか止んでいる。
だが、呂布はそれを気にする様子も無く扉を開け放つのであった。
「だから、全体の準備をもっと急がせなさいと言ってるでしょう?!」
先程から詠の怒鳴る声が部屋に響いている。
「す、すいません!ですが、関に向かった者達を除いた兵を、更に街の治安維持部隊に最低限回し続けていて、作業の方は慢性的な人手不足でして…」
兵士もひたすらに謝り続けている。
確かに状況は切羽詰っていて、詠のようにピリピリしてしまうのは分かる。
その焦りが募り募って兵士に八つ当たり気味に怒鳴ってしまうことも理解できないことは無い。
しかし、そうであっても月は親友のそのような姿をずっと見ていたくはなかった。
「え、詠ちゃん。ちょっと落ち着こうよ。ね?」
「でもね、月。唯でさえ時間はぎりぎりの予定だったのに、ボクの予想よりも遥かに早く汜水関が抜かれてしまったのよ。今はとにかく急がなきゃいけないの!」
「そ、そうなんだけど…」
だが、普段から人に対して強く出ることが出来ない月では詠を止めることは出来ない。
出来ることはと言えば涙を堪えて詠に訴え続けることだけであった。
ところが、月にとっての精一杯でしかないその行動は、詠にとっては決して抗えないものでもある。
詠の行動原理はいつでも月。
その月が瞳に涙を湛えて訴えかけてくるのでは聞き入れざるを得ないというもの。
「…はぁ、分かったわよ。とりあえず、あんたは出来るだけ早く準備を整えるように皆に伝えて頂戴。さすがにもう時間がないわ…」
「はっ!」
毒気を抜かれた詠が幾分か落ち着いた態度で兵士に指示を出す。
その指示に兵が諾を返したその時、部屋の扉が突然開け放たれた。
「誰?!」
詠が月の前に体を入れつつ叫ぶ。
兵士もまた武器を構えて扉の方を凝視する。
果たして、扉の奥に立っていたのは恋であった。
「れ、恋?!あんた、何でここにいるのよ?!」
「……月に会いに来た」
今ここにいるはずの無い人物の登場にさすがの詠も焦ってしまう。
だが、月と兵士は入ってきたのが見知った人物とあって安堵の息を漏らしている。
呂布は相も変わらぬ口数の少なさである。
謎の人物が呂布であると確認し、この場は問題無いと判断した兵士は一言断った後、詠からの指示を携えて同僚の下へと向かっていった。
「あの、それで恋さんはどうしてここに?」
月が尋ねると恋が少し横にずれて後ろにいた人物が姿を現す。
「……月に、話がある、って」
恋がいつもの調子でそう答える。
突然のもう一人の登場に月も詠も警戒を新たにする。
ところが。
「え…あれ?…え?」
「ちょ、ちょっと…何であんたがここにいんのよ…?」
後ろに隠れていた人物が誰か認識すると同時に2人は言葉を失ってしまう。
それは恋よりも更にいるはずの無い人物。
ただ一度だけの、しかし濃い触れ合いの時間を交わした人物。
そこに立っていたのは――――
呂布が扉を開けると、その奥に月と詠、それと一人の兵士が確認できた。
「誰?!」
詠が警戒の声を上げる。
それと同時に詠と兵士が月を守る位置に移動している。
緊急事態に対する兵の対処の早さから、その錬度の高さが伺える。
「れ、恋?!あんた、何でここにいるのよ?!」
「……月に会いに来た」
見れば詠は突然のことにまだ思考が完全に復帰してはいないようである。
月と兵士の方は恋を見てとった瞬間には既に警戒を完全に解いていた。
将軍としての実績故か、呂布は兵士からの信頼が篤いと見え、兵士は月達に一言断りを入れた後に退出していった。
未だに困惑している詠を横目に、近づく呂布に月が質問を投げかける。
「あの、それで恋さんはどうしてここに?」
本来であればこれは自軍の軍師の命を無視した部下に対する糾弾の言葉となりうる。
だが、欠片もそうとは聞こえないのは月の持つ雰囲気のせい、いや、おかげか。
「……月に、話がある、って」
そう簡単に答えて呂布は横にずれる。
一刀はこの時にようやく2人に認識されたようで、2人は目を丸くして驚いていた。
「え…あれ?…え?」
月は言葉にならない声を漏らす。
「ちょ、ちょっと…何であんたがここにいんのよ…?」
詠も更に困惑の度合いを増して、有りきたりな質問しかその口を突いて出てこない。
一刀は口元に微笑を浮かべながら2人に歩み寄る。
そして、数歩の距離にまで近づいたところで声を掛けた。
「やあ、月、詠。お久しぶり」
「あ…お、お久しぶりです」
「ちょ、ちょっと待って、月!もう一度言うわ、一刀!何であんたがここにいるの?」
ようやく冷静な思考が戻ったか、詠は月を庇うように一刀と月の間に体を割り込ませる。
恐らくその頭の中では多種多様な想定が為され、あらゆる場合に対する対処法を即座に構築しているのだろう。
だが、今から一刀が語ろうとしていることは、例え100年、1000年先を見通す力を持っていようと信じられない程のこと。
詠に心の中で謝りながらも一刀は口を開いた。
「詠の質問に答える前に、まず、月、詠、それから呂布さんにも。俺から謝らないといけないことがあるんだ」
「な、何よ?」
「何ですか?」
「……?」
皆が皆一様に首を傾げる。
一拍おいた後、一刀は3人にとっての衝撃の事実を語りだした。
「今まではこちらの事情から、或いは余計な混乱を招かないように黙っていた。けれども事ここに到っては隠す方が不都合になりかねないからな。俺は夏侯覇では無い。呂布さんに名乗った夏侯恩でも無い。俺の名は北郷一刀。数年前に管輅によって予言された『天の御遣い』だ」
「なっ!?」
「天の、御遣い?」
「……」
月と詠の2人は最早何が何だかといった様子で目を白黒させてしまっている。
呂布は一刀の話を聞いても特に変化は無く、一刀を観察しているようにも見える。
「あ、あんたっ!今のはどういうことよ?!夏侯恩って言ったら曹操のところの副官でしょう?!」
「ああ、そうだよ、詠。俺は曹操の下にいる武人だ。けれども、夏侯恩を名乗ってはいるが、夏侯家の者では無い。この世界に来た時に拾ってもらったところが夏侯家だったというだけなんだ」
「しょ、証拠は?あんたが天の御遣いだって言うのなら証拠はあるのっ?!」
「証拠になるかどうかは分からない。だけど、それなりの説得力を持たせられる物ならある。これだ」
詠に詰め寄られた一刀はそこでずっと纏っていた外套を脱ぎ捨てる。
「わぁ…」
「これ、は…」
「……きれい」
外套を脱ぎ捨てた一刀を見た3人は思わず息を飲んでしまう。
一刀は全身真っ白な服を着ていた。
一見しただけで大陸のどこにもないと分かる造型のその服。
見た目にしても部屋の光を受けて輝いているようにも見える。
その時の一刀の姿はまさに予言の通り”白き光を纏”っているようであった。
「君たちの言うところの天の国の服、ってところかな?何なら触ってみるといい。手触りは少し絹と似ているところもあるけど、違うものだとわかるはずだ」
そう促された詠は、初めこそ躊躇っていたものの、軍師として沸き起こる知的欲求には勝てなかったのか、一刀に近づいて調べるようにその服に触る。
月もまた興味津々といった様子で手に取っていた。
一通り触って満足したのか、再び離れた詠が一刀に質問を投げかける。
「確かに、あんたが予言にあった”天の御遣い”だって言うのは信じてもいいのかも知れないわ。けれど、それを何故今明かしたの?」
「その答えはさっき詠にされた質問の答えにも繋がるんだ。月、詠。俺は君たちを助けに来た」
『え、えぇっ?!』
2人にとって予想外のその発言。
夏侯恩の名を聞いた詠は、むしろ一刀は月の首を取りに来たのではないかと考えていた。
後で冷静に考えれば呂布と共にいる時点でその考えは捨てられるはずであるのだが、やはりどこかで緊張がピークに達してしまっており、判断力に鈍りが出ていたのだろう。
驚愕に染まってしまった2人の回復を待たず、一刀は更に言葉を続けていく。
「霞からある程度の事情は聞いた。詠は長安に映った後、情報戦を仕掛ける気だったんじゃないか?」
「そ、そうよ…」
「だけど、汜水関が余りにも早く抜かれてしまった。連合に集った面々とその数から考えると、虎牢関も長くは保たせられないだろう。このままでは情報戦を仕掛けるどころか、長安に逃げれるかさえ危ういことは詠なら分かっているんじゃないか?」
「……」
沈黙は図星を指された故か。
詠には一刀の予想に反論出来るだけのものがないのであった。
「詠が情報戦を仕掛ける前に連合に洛陽を抑えられては全てが無意味となってしまう。帝がどういった対応を取るのかまでは予想がつかないが、それでも月の、董卓の非を大袈裟に吹聴して今回の連合の正当性を訴え、民意を得た上で月を討ちに来ることは想像できる。連合が吹聴する月に非を信じないのは恐らく月が直接治めていた洛陽の民達くらいだと思う」
「……そうね、私もほとんど同じ予想はしていたわ…けど!だからと言って連合に対して抗戦することは出来ないわ。戦力が違いすぎる。もう私達にはここから逃げるしか道は残されていないのよ」
苦々しげに吐き出す詠。
ここ最近、ずっと苦しんできたのだろう。
言葉を吐き出しながら、その瞳に光るものを湛えているのが見て取れた。
「詠ちゃん…」
月も詠が苦しんでいるのは知っていたのかも知れない。
それでも何かしてあげることが出来ない自分に無力を感じ、月もまた苦しんでいたのだろうか。
細かいことは2人に聞いてみないことには分かりえない。
今は悲しそうに詠を見つめる月のその瞳から推測するしか出来ない。
だが、いつまでもしんみりした空気を引きずって時間を浪費するわけにもいかない。
気を持ち直した詠が再び一刀への質問を再開する。
「あんた、そこまで分かってるのなら、どうやって月を助けるつもりなのよ?まさかあんたが連合を止めてくれるとでも?」
「いや、申し訳ないがそれは出来ない。現状俺の正体を知っているのはここにいる皆を除けば春蘭と秋蘭、夏侯姉妹だけだ。元々、このことはまだまだ隠していくつもりだったんだが…月達を助け出すにはこれしか無いと考えた結果だ」
「さっぱり見えてこないわね。あんたは一体何をするつもりなの?」
「うん。俺の策を話す前に…月、君に確認がある」
「えと、何でしょうか?」
「君が民を思った政を執っていることは洛陽の街を調査したから分かっている。では、君は今のこの状況を、そして自軍の兵のことをどう思っている?君主としての建前では無く、本音を聞かせて欲しい」
一刀の質問の意図は月にはまだ理解出来ない。
だが、何かしら一刀にとって重要なものであることはその雰囲気から察することが出来た。
月は暫く目を閉じて黙考した後、一刀の質問に答える。
「連合の規模や汜水関の事、虎牢関の事は私も聞きました。もう私達にはほとんど打つ手が無いということも。皆さんが私の身を案じて、無理を押して頑張ってくださっていることは分かるんです。けれど、私は皆さんにそこまで無理をして欲しくはないんです。私1人を生かそうとして何百何千もの兵士の皆さんが死んでしまうと、その何倍もの人達が悲しむことになります。そうなってしまうくらいだったら、いっそ私が早く連合の前に出れば、それだけ兵士の皆さんの犠牲が減らせるんじゃないか、って。そう考えたことはあります。君主としては間違った考えだとは分かっているんですが、それでも私は、私個人の考えはそうなんです」
滔々と話す月。
淀みないその語り口から、確かにそれが月の本音であることが読み取れる。
そして、その内容には月の本質的な優しさが滲みだしていた。
「つまり、月は救える兵の命があるならば、それを救いたいと、そう考えているんだね?」
「はい」
一刀を真っ直ぐに見据えて月は頷く。
月の隣では詠が何かを言いたそうにしていたが、2人の間に漂う固い雰囲気に口を挟むことが出来ずにいた。
月の確かな意志が込められた瞳を覗き、一刀は安堵する。
「月の心がそうであるなら、俺の策は確かに意味のあるものになるだろう。詠には少し申し訳ないが」
「どういうことですか?」
「うん、そろそろ俺の策を説明しようか。簡単に言えば、月、君には一度死んでもらうことになる」
『えぇっ?!』
一刀の言に月と詠は同時に驚声を上げる。
「あぁ、本当に死ぬんじゃないよ。要は社会的に死んでもらおうと思っている」
「あの、それはどういう…?」
「月、君は董卓の名を捨てる覚悟は出来るかい?」
「名を捨てる…ですか?」
「……」
月は一刀の話す内容、そして問いかけに鸚鵡返しに返すことしか出来ない。
一方、詠は初めこそ月と共に驚いていたものの、すぐに黙り込んで思考に没頭していた。
「ああ。今のこの状況では、最早董卓の名を背負って生き続けることは不可能に近い。だが、月の人望であれば、そうあってすらついてこようとする兵士もいるだろう。その先に待つは、月も兵士も皆捕殺されてしまう未来だけだ。月、俺はせめて君の命だけでも助けたいと思ってこの策を考えた。副産物と言っていいのか、この策を用いれば兵も余計な血を流さないで済むことになる」
「なるほど。狂言自殺、ね?」
「詠ちゃん、どういうこと?」
「つまりね、こいつは月が死んだということにして連合の追撃を無くそうとしている、ってことよ」
「さすがだね、詠。つまりはそういうことなんだ。ただ、この策にも問題はある。それは、月、君は今後董卓の名を名乗ることが出来なくなってしまうことだ」
一刀が詠の説明に付け足しを行う。
詠はその付け足し説明に更に問題を指摘してくる。
「そのこともあるけれど、それ以上に月を死んだことにして、その後はどうする気なの?もう前の領地に戻ることも出来ないわよ?」
「その事ならそれほど問題は無いさ。曹操様を説得すれば何とでもなる。説得材料は十分にあるしね」
一刀は策を考えた時点で華琳説得のシミュレーションは既に終えていた。
天和達と被るところのある月の評価に関しては予想がしづらいのだが、詠に関しては確実に高い評価を得られることが予想される。
最悪、桂花に援護を要請すれば詠の才は十分に示すことが出来るだろう。
人材と才をこよなく愛する華琳であれば、2人の隠匿に反対することはまずないだろうと考えているのだった。
「というわけなんだけど…月、後は君がどう考えるかだ。ただ、この策を拒」
「やります!いえ、やらせて下さい!」
一刀の言葉を遮るようにして月が即答以上の速さで諾を示す。
そのあまりの早さに驚きつつも、一刀は月に問い返す。
「本当にいいのか?名前を捨てるということは、今後は真名で生きなければならないことを意味するんだぞ?」
「はい。これ以上の犠牲を避け、敗軍の将の責をその程度のことで取れるというのであれば、私は喜んでこの姓名を捨てて見せます」
一欠片の揺らぎも無い月の瞳には、確かな意志の炎が燃え盛っていることが見て取れた。
一刀は月のその強さに感心する。
(華琳とは大きく違うものの、これも上に立つ者としての理想の姿の一つ、だな。これをこのまま闇に葬ってしまうのはあまりに勿体ないが…)
思わず思考が逸れてしまいそうになった一刀であったが、今はそれを考えるべきではないと思い至り、その考えを振り払って話を進める。
「分かった。俺に出来る全力を尽くそう。詠もそれでいいかい?」
「……月、それが月の偽りのない本心からの答え、なの?」
「うん、そうだよ、詠ちゃん。私はもう敗軍の将になってしまったんだから。これ以上私の責任で皆に犠牲を強いたくないの…」
「…月がそこまで覚悟しているのなら、ボクは反対しないわ」
「ありがとう、詠ちゃん!」
渋々といった様子ではあるものの、詠も納得を示した。
と、詠があることに気づく。
「そういえば、恋、あなたは納得しているの?」
問われた恋は月に視線を移す。
その視線に何かを問われているように感じた月は、恋に向かって頷いた。
それを見た恋は再び詠に向き直って答える。
「……月がやりたいことをすればいい。恋は月を守るだけ」
要領を得ているような、得ていないような、そんな呂布の返答だが、さすがに長年同じ軍にいればその意図するところは大体把握できるようになっているのだろう。
端的な呂布の返答だけで詠は理解したようであった。
「よし、それじゃあ早速準備に入ろう。兵達への説明と…詠、ちょっと聞きたいんだが、街の人達の協力を得ることが出来そうか?」
策を実行すると決まると、早速行動を開始し始める。
まずはどの程度まで策を周知しても大丈夫なのかを確認していく。
「月がここを統治し始めてから、洛陽は大きく復興したわ。ほとんどの民達はそれを感謝している。今回の件だって行商人伝で大陸に流れている噂を知った民達が連合に対して憤りを感じ、中には共に戦うとまで言ってくれた人達までいたほどよ。さすがに鍛錬もしていない人達を戦場に立たせるわけにはいかないからそれは断ったけどね」
「ということは、洛陽の民達は月の見方だと考えていいんだな?そうなれば、兵と纏めて一度に説明してしまった方が楽そうだな」
「そうね。すぐに集めるように各所に伝令を使うわ」
「ああ、頼む。それから月、詠。個人的に必要最低限のものだけでも準備できているか?」
「は、はい。それなら準備は出来ています。整っていないのは軍として必要になってくるものの細部でしたので」
「そうは言っても、個人的なものなんてほとんど無いんだけどね」
「そうか。荷物が少なくて済むのはむしろいいことだと考えよう。ならば、今必要になってくるのは皆への説明くらいになるか」
今後の為すべき行動を簡単に纏める一刀。
詠は僅かに考えただけですぐに答える。
「ええ。宮前広場に兵は全員集めるとして、民達は代表者の面々だけでいいかしら?」
「ああ、それで構わない。2刻の後には集められるか?」
「兵は大丈夫よ。民の方は…ちょっとわからないわね」
「まあ、どうあっても一刻を争う状況は変わらないんだ。集まれるだけでも構わないだろう」
「その通りね。それで手配するわ」
とんとん拍子に必要事項を定め、詠が部屋を出ていく。
そして詠に続いて呂布もまた部屋を出ていこうとしたところに月が声を掛ける。
「恋さん、どちらに?」
「……セキト達のところ。恋の仕事、終わったから」
「仕事?」
「……ねねから言われた。見張れ、って……月を傷つけるなら、斬ってた」
言って呂布は一刀を指差す。
一刀も月の問うような視線を受けて頷いていることから、それは本当のことだと理解した。
「そうだったんですね。恋さん、ありがとうございます」
「……ん」
いつも通りの短い返事を残して呂布も部屋を出て行く。
空気が一度落ち着いた頃に月が一刀に声を掛けた。
「あの、ありがとうございます、一刀さん」
「いや、俺がやりたかったことをやっただけだ。そういえば、陛下は?」
「劉協様でしたら、私達のゴタゴタに巻き込むわけには行かないので後宮の方に避難して頂いています。最後までお手をお貸しくださると仰られていたのですが、詠ちゃんが…」
「ああ、詠の判断は正しい。ここで陛下のお力をお借りしようものなら、ますます月が陛下を傀儡にしていることの証明として使われてしまっていただろう」
「はい、詠ちゃんもそう言ってました。お気持ちだけで十分です、って」
「皆への説明の後で陛下にも軽く協力を仰ぐ方が確実に策を為せそうだな。場を設けることは出来そうかな?」
「恐らくは…洛陽を発つ前に挨拶だけはしておこうと思っていたので」
「それじゃあ、陛下の許可が下りればそこに同席させて貰おう」
「はい」
一刀の策には不確定要素がいくつかある。
その中でも大きかったものが、陛下の対応である。
月が相国になった経緯や月の人柄を考えると、陛下が月を見限ることはまず考えられなかったが、ある意味最悪の展開は陛下が連合を罰しようとした場合であった。
もしそのようなことが起ころうものなら、世間の持つ”真実”と陛下の下した”事実”に齟齬が生まれ、大陸が混乱に陥ってしまう。
これは下手をすれば唯でさえ低い今の漢王朝への信用を零レベルにまで引き下げてしまいかねない。
この先に乱世が訪れるのは避けられないとしても、王朝の存在自体が無となりかねない事態は避けねばなるまい。
その為にも一刀は陛下に面会した上で、ある事を頼もうとしていたのであった。
様々な思いが交錯する中、数刻後には宮前広場に予定以上の人が集っていた。
「大事な話って一体何なんだ?お前、知ってるか?」
「いや、物資を纏めてたら伝令の奴が来て、全ての作業を中止してここに集まれ、って言われただけだからなぁ。他の奴らにも聞いてみたが、知ってる奴はいなかったぜ?」
「そういや、呂布将軍がお帰りになってるらしいな。もしかしたらそれと関係あんのかもな」
ある程度戦況を知っていて、洛陽を発つ準備を急ぐべきだとそれなりに理解している兵達は、この時期での全軍召集に頭を疑問符で埋め尽くしている。
「董卓様が直々にお話になるのかな?」
「伝令の兵士さんに聞いた分じゃあ、そんな感じがするな。俺達庶民まで集める程だ。余程重要な事なんだろうさ」
「ま、どんな内容だろうと、さ。董卓様は街をここまで復興して下さったんだ。俺達に出来ることは何でもやってやろうぜ」
月が政争に巻き込まれていることを行商伝に朧げに知っているだけの民達は、月に恩返し出来る時が来たのか、と囁きあっている。
群衆全体がざわめいている中、1人の声が群衆のざわめきを掻き消した。
「お?おい!誰か出てきたぞ!」
一様に押し黙る群衆。
だが、次の瞬間には董卓軍の兵達が集っている辺りから戸惑いを孕んだどよめきが起こる。
その視線の先には月、詠そして足元までを覆う外套に身を包んだ一刀。
兵達にとって全く見覚えのない人物が突然現れたのだから、その混乱具合はまさに最高潮に達していた。
浮き足立った雰囲気の中、月が厳かに話し始める。
「皆さん、急な呼びかけに応えて下さってありがとうございます。私は董卓仲穎、帝より洛陽の街の統治を任された者です。この度皆さんにお集まり頂いたのは、先程の軍議において私、董仲穎とその軍について決定したことについてお話しようと考えた次第です」
一体どんな話が飛び出すのか。
群衆が固唾を飲んで見守る中、月は皆の予想に反してそれ以上語ることは無く、数歩下がる。
代わりに一刀が進み出て話し始めるのだった。
「ここからは俺から説明しよう。まずは皆に現況を知ってもらいたい。現在、連合軍は汜水関を突破し、虎牢関を攻め立てている。この虎牢関にしても、最早破られるのは時間の問題だろう。既に董卓軍に勝ち目はない。これは董卓、賈駆を含む幹部連の総意だと理解して欲しい」
唐突に明かされた絶望的な状況に群衆のざわめきが増す。
一刀はそのざわめきに負けてしまわないよう、声を一段と張り上げる。
「そして、このままでは董卓はいずれ連合に追い詰められて命を失ってしまうだろう。だが、ここにそれを望む者などいないはずだ。違うか?」
「そりゃあそうだ!」 「董卓様は俺たちの恩人なんだ!当たり前だ!」 「我等は董卓様に忠誠を誓っている!何があろうと付いてゆくぞ!」
まだ混乱が収まりきってはいないが、それでも群衆のあちらこちらから興奮気味に同意の声が上がる。
やがて徐々に興奮が収まってくると、当然の疑問が群衆の間に湧き上がり始める。
「そういや、あいつって一体?」 「董卓様の旧知、か?」
そこかしこで様々な憶測が飛び交い、どよどよとざわめく。
そのざわめきを切り裂いて一刀の声が再び響き渡る。
「皆は数年前に真しやかに語られていた予言を覚えているだろうか?そう、”天の御遣い”に関する予言だ。一般に天の御遣いは現れなかったことになっている。しかし、それは間違いだ。”それ”は実際にこの大陸に降り立ち、今この時まで大陸の情勢を見守ってきた。今までは小さな諍いこそあれど、大陸中が混乱に陥るような事態は起こってこなかった。だが、ここに来て見過ごすことの出来ぬ歪みが生じ始めた。この歪みは近々大陸に戦乱を齎すだろう。そして、董卓はその歪みの最初の犠牲者となりそうになっている。だが!俺はこれを容認は出来なかった」
一刀の語る内容。
それは民衆の記憶にまだ新しい”天の御遣い”の予言、そしてその後の顛末。
もう何年も、地域によっては何十年も前から官僚による搾取が酷く、民達の生活は困窮を極める一方であった。
そこに救世主とも言えるような人物の予言が流れたのである。
当時、民達はその予言に縋りつくかのように御遣いの降臨を心待ちにしていた。
だが、結局どこにもそれらしき人物が現れたという情報も無いまま数年が経過し、既に忘れられかけていたものであった。
何故今その話を持ち出すのか。
群衆の大半はその理由を察することが出来ていない。
が、一部の文官を始めとし、頭の回る庶民の中にも徐々に気づくものが出始める。
その者達が周りの者に、その話がさらにその周囲の者に。
やがて、群衆の半分にも達する程の者達がその予測を聞き終えた頃、一刀がそれを裏付ける宣言を出した。
「皆の中には俺の話から勘付いている者もいるだろう。俺の名は北郷一刀。予言に従い大陸に安寧を齎すために降り立った”天の御遣い”だ!」
宣言と共に一刀は纏っていた外套を脱ぎ捨てる。
群衆の目に晒される純白の制服。
未だ中天にある太陽の光を受けて光り輝くその衣を纏った一刀の姿は、まさに予言にあった”天の御遣い”そのものであった。
この時代の民から見れば、一種神々しくも見えるこの光景に、群衆は一様に押し黙る。
異様な程に静まり返った広場に一刀の声だけが響く。
「董卓の善政は俺もよく理解している。だが、大陸の大半の者は董卓を”暴君”だと認識してしまっている。この認識の間違いを正した上でなければ連合を止めることは実質的に不可能なことだ。だが、董卓を見殺しにすることなどもっての他。そこで俺はせめて董卓の命だけでも救おうと考え、今この場に立っている。俺の策を為すには、つまり董卓の命を救うには皆の協力が不可欠になってくる。どうか皆の力を貸してもらえないだろうか?」
直後、群衆の間に一際大きなどよめきが起こる。
原因は一刀が協力を請うと同時に頭を下げたことにあった。
そもそもこの時代、上に立つ人間が下の者に頭を下げることなど無いと言ってよいようなもの。
にも関わらず、天の名を擁する人物が庶民あるいは下級兵に対して頭を下げていることに驚きを隠せないでいたのである。
ただ、この時の一刀は現代日本の礼節を重んじた行動を心がけていただけであったのだが。
兎にも角にも一刀のこの行動は結果的に群衆の心を動かすのに十分すぎる程の効果があった。
元々董卓を助ける想いがあった民衆の最後のひと押し程度であったのだとしても、この言動が引き金となったことは事実。
ぽつりぽつりと賛同の声が上がり始め、飛び飛びの場所から聞こえていた声が急速に広がっていき、最後には空気を震わす程の賛同の大合唱となったのである。
「ありがとう!皆の想いに感謝する!皆にして貰いたいことは一つだけだ。俺達と口裏を合わせて貰いたい」
賛同の声の嵐の合間を縫って聞こえてくる一刀の説明に、具体的な内容を問う視線が返ってくる。
「恐らく数日の内に連合軍はこの洛陽に到達するだろう。俺達は頃合を見計らって董卓の屋敷に火を放ち、董卓を逃がす。その後の董卓の身の安全に関しては、俺が”天の御遣い”の名の下に保証しよう。皆に合わせて貰いたい口裏とはその筋書きに関してだ。『董卓は連合軍との戦の敗北を察し、自宅に火を放ち自害した』。これを事実として話してもらいたい。董卓が生存していることは時が来るまでは口外しないでもらいたい。これが皆に頼みたい内容だ」
話の内容に初めこそ躊躇する者がいたが、やがて、それが董卓様の為になるのなら、と皆が納得してくれたのであった。
「皆の協力に改めて感謝する!」
最後に再び謝意を示した後、一刀は身を引いた。
広場はその後、暫くの間は董卓、一刀の話題で持ちきりで中々人が引いて行かなかったとか。
「お疲れ様です。そして、ありがとうございました、一刀さん」
洛陽を発つための最終的な準備の為に宮殿へと向かう途中、月が一刀に謝意を示す。
口にこそ出していないが、どうやら詠も同様の事を感じているようだ。
一刀は礼はいらないとばかりに手を振り、月に答えようとした。
が、その時。
一刀の胸に鋭く激しい痛みが走る。
「ぐ、がっ…!」
痛みに耐えることが出来ず、一刀はその場に倒れ伏してしまう。
その痛みは収まる事なく、すぐに一刀の視界がブラックアウトしていく。
「か、一刀さんっ?!」
「一刀っ?!どうしたの?!」
「胸に何かが…?一刀さん、失礼します……っ!」
「ちょ、ちょっと…何よ、この傷…誰か!街から医者を連れて来て!」
叫ぶ月や詠の顔を遠くに見ながら、一刀の意識は閉じていくのだった。
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第二十六話の投稿です。
洛陽に辿りついた一刀達。
そこで一刀は月達の説得を目指す。