No.637121

傀儡王子

フェイタルルーラーに登場する、レニレウス王カミオの子供時代の話です。殺人・流血・残酷描写あり。R-15。31226字。

あらすじ・レニレウス王国の正統な王位継承者として生を受けた王子カミオ。
彼は王子でありながら五人の侯爵たちによって生かされ、利用される存在だった。
カミオは一人王都を離れ、ユーグレオル家で育てられていたが、侯爵五家の分裂をきっかけに彼の運命は大きく動き出した。

2013-11-15 21:30:59 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:635   閲覧ユーザー数:635

一 ・ 渦中

 

 ――お前は生まれるべきではなかった。

 今でもはっきり覚えている。物心ついた頃、初めて父に言われた言葉だ。

 

 僕が生まれて間もなく正妃である母は亡くなり、九歳になる今まで、祖母の縁にあたるユーグレオル侯爵家で育てられた。母の実家に預けるという考えは父には無かったらしく、僕は侯爵夫人を母と慕い、その実子であるリオネルとニナを本当の兄妹のように思ってきた。

 特にリオネルとは歳がひとつしか変わらなかったから、とりわけ仲が良かった。

 ただ夫人や兄妹を除いては、僕はやはりよそ者に過ぎない。正妃が亡くなり王子だけが残された今、遠く離れた王宮ではどれだけの陰謀が渦巻いているのだろう。時折顔を合わせる侯爵は、あまり僕を見ようとはしない。王位継承者である王子が死ぬまで次の正妃を立てられないのだから、厄介者を背負い込んだと思っているのかも知れない。

 

 この屋敷があるユーグレオル侯爵領は森と丘に囲まれ、大空洞の支流が海へと繋がる自然豊かな地だ。

 王宮直属の侍女が同伴なら外出も思うままで、何ひとつ不自由はない。春は丘で花を愛で、夏は川遊びをする。秋には森で栗拾いをして、冬は降り積もる雪の上に寝転がり、うっすらとたなびく雲を見上げるのだ。

 王都で育っていたら、今頃は鳥籠の小鳥のようになっていたかも知れない。侯爵五家にとっては、僕ら王族は利用する存在でしかないからだ。

 

 自室で物思いにふけりながら、川遊びで拾った石を眺めていると、廊下から僕を呼ぶ声が聞こえてきた。あの声はリオネルだ。

 窓の外を見れば太陽は燦々と差していて、夏の風が木々を揺らしている。庭ではニナが綺麗な青い紐を使って遊んでいるのが見えた。

 

 廊下からの呼び声も忘れて外を眺めていると、いつの間にか彼は部屋に入って来ていた。王子である僕にこんな真似をするのは、多分リオネルくらいだろう。

 リオネルは本当に容赦が無い。王族には誰もがかしずくものだと思っていたが、そんな常識も彼には通用しない。でも僕にはそれが唯一の救いだったとも言える。

 

「カミオ様。家庭教師の先生がおいでですよ。早く行きましょう」

「わかった。すぐ行くから先に行っててよ」

「だめですよ。カミオ様を放って俺だけ行くわけにはいかないんですから。さあ早く早く」

 

 腕をぐいぐい引っ張るリオネルには敵わず、僕は引かれるままに屋敷の一室へ向かう。リオネルの生真面目さは折り紙つきで、先生方も彼をよく褒めた。

 お互いまだ十歳にも満たないというのに、リオネルはとても大人びて見える。それはレニレウスを代表する侯爵五家、ユーグレオル家の嫡男であり、未来の王に付き従う側近候補としての自覚がそうさせているのかも知れない。

 それに引き換え、僕はただ護られて生きているだけだ。父にまで見放された僕は、何のために生を受けたのだろうか。

 

 程なく屋敷内にある教室に着くと、先生がすでに待機していた。大きな丸眼鏡に口ひげの紳士。歴史科のボルトラン先生だ。

 ぱりっとした燕尾服に身を包む老年の先生は、僕とリオネルに丁寧に挨拶をした。並み居る貴族が王子の教師として名を連ねる中、ボルトラン先生は爵位も無い生粋の研究者だという。こうして民間から抜擢されたのも、彼が非常に優秀だからなのだろう。

 

「殿下。また遅刻ですよ」

「申し訳ありません、先生」

 

 僕たちは先生に会釈をしてそのまま席に着いた。

 取り立てて名家でもないそうだが先生の物腰は柔らかく、聡明だ。貴族出身の先生方とは違って、金や名誉ではなく、ただ研究に没頭しているボルトラン先生を僕は密かに尊敬していた。

 

「では殿下。先日の課題は如何ですかな」

 

 先生の催促に、僕は綴られた紙束を机の上に置いた。それを手に取り吟味を始めた先生の表情がみるみる曇り、やがて静かに紙束を閉じると机の上に置き直した。

 

「殿下は歴史に造詣が深いと存じておりましたが、本日の課題は少し難解だったようですね」

「……申し訳ありません、先生」

 

 先生が落胆するのも無理はない。一週間以上の猶予があったというのに、僕は課題を半分もこなしていない。

 史料は屋敷内の書庫に唸るほどあるが、膨大な冊数をひっくり返して探す時間がどうしても作れなかった。授業が終わってからも僕の顔色は悪かったらしくリオネルに心配されたが、彼に理由を話す事すら出来なかった。

 授業を終えそのまま自室へ戻ると、僕は再び机に向かい石を眺めた。

 

 リオネルには話せない――ユーグレオル侯爵が次の正妃について密談をしていたなどと、話せる訳がない。

 正妃を立てるという事は、僕を殺すという意味にも等しい。十六に満たない僕には、正妃を迎える資格が無いからだ。

 

 五百年もの昔、王家の成り立ちと共に侯爵五家が成立した。

 忠臣であった五人の侯爵たちは王家の礎となり、繁栄のために尽くし続けた。

 だがそれも時代が下るにつれ、次第に姿を変えていく。王家を支えるはずの侯爵五家が王を決め、正妃を決めるようになったからだ。

 正妃が産んだ男子のみが王位を継げるという慣習のために、代々の正妃選出を五侯爵家が持ち回るようになってからは、それが顕著になった。

 いわば僕ら王族は、彼ら五侯爵の駒でしかない。王子を産めなかった正妃は廃され、別の女があてがわれる。王族は彼らに飼われていると言っても過言ではないのかも知れない。

 

 あの夜、侯爵と密談を交わしていた相手は、恐らく侯爵位第三位のナルディル侯爵だ。

 侯爵位第一位のユーグレオルとは近縁で、晩餐会が開催されれば必ずといっていいほど馬車で乗り付ける。あの口ぶりでは、ナルディル侯爵は自身の幼い娘を僕に嫁がせるつもりらしい。

 ナルディルが体制側に与するのは、正妃に適合する女が幼い娘一人だけだからだろう。ナルディルと正妃争いをしている第四位のシエド侯爵は反体制側についたと聞くから、その牽制もある。

 

 これだけ事情が込み入ってきているというのに、僕の母の生家であるエレディア家は、どうして動こうとしないのだろうか。

 第一位のユーグレオルと、第二位のモリスが反目を始め、それぞれの傘下に貴族たちが集い出している。いずれレニレウスは王体制派と反体制派に袂を分かち、諸外国には見せられないほどの内乱が始まるだろう。

 そうなってからでは遅いのに、何故エレディアは静観を決め込んでいるのか。

 

 自室の机で自問自答を繰り返しながら、僕はいつの間にか眠り込んでいた。

 目が覚めてみれば真夜中で、暗闇の中で手を伸ばすと、肩には毛布が掛けられていた。机の脇には夜食と共に小さな書置きがあり、リオネルの字を追うように、たどたどしい文字が躍っている。この字は多分、ニナのものだろう。まだ六歳だが聡明な子で、侯爵夫人のかわいがりようは他に類を見ない。

 

 兄妹の優しさに、僕の目は熱くなった。書置きを握り締め、必死に涙を堪えると、机にあるランプに火を灯した。

 他の誰が敵であったとしても、たとえ血族が救いの手を差し伸べてくれなかったとしても……リオネルとニナさえ傍にいてくれれば、それでいい。

 ランプの柔らかな灯火に書置きの文字を辿ると、そこには明日の連絡事項が書いてあった。明日の夜は体制派の貴族たちを招いた晩餐会があるらしい。それはあの男――ナルディル侯爵も直参するという事だ。

 ユーグレオルの近縁とはいえ、猿のような禿頭にむき出しの黄色い歯は、僕の目には下品にしか映らなかった。たとえ王体制派の味方であったとしても……なるべくなら関わりたくない男だ。

 

 食欲などまるで無かったが、夜食のパンを少しだけかじった。

 パンに挟まれている塩漬け鰊の塩分が、何故かとても心地よく感じた。この屋敷で過ごせる幸せが、僕の全てだった。

二 ・ 喪失

 

 心待ちにしている日はなかなか来ないのに、嫌な日だけはすぐにやってくる。

 

 夕刻になり続々と来客が訪れる中、晩餐会の盛装をしたニナが暗い表情で子供部屋にいるのが見えた。

 六歳の女の子には、多くの大人が自宅に来るのは心労があるのかも知れない。社交的なリオネルとは対照的に人見知りの激しいニナは、晩餐会の夜はあまり人前に出ようとはしない。

 落ち込みようが気になって声を掛けると、ニナは驚いた表情でこちらを振り向いた。

 

「顔色が悪いけど平気かニナ。休んでいた方がいいんじゃないか」

「大丈夫よ、カミオお兄様。わたしも行かないと、お父様やお母様が心配するから」

 

 ニナはそう微笑んでみせたが、やはり辛そうに見える。

 

「あのね、お兄様。わたし、晩餐会が怖いの。いつも怖い人が来るの。晩餐会の日はいつもその人がわたしのところへ来て、怖いお話をするの」

「怖い人……? 誰だそいつは。リオネルには言ったのか?」

 

 ニナは困った顔をして首を振った。恐らく誰にも言えないのだ。

 

「その人がね、言うの。カミオお兄様に近付くなって。でもわたし、どうしていいか分からないから……」

 

 今にも泣き出しそうな顔をするニナが可哀想になり、僕は彼女の頭を撫でた。

 その男が何故ニナに付き纏うのかまるで理解が出来なかったが、今はただ彼女を護ってやりたかった。

 

「そんな事、気にしなくていい。ニナは僕の大切な家族だから。他の奴が言う言葉なんて、忘れていいんだ」

「うん……ありがとう、お兄様」

 

 僕はハンカチを取り出してニナの涙をそっと拭った。

 嬉しそうな、それでいて悲しそうな表情を見せる彼女の頭をもう一度撫でて、僕は一人で会場に向かった。

 

 

 

 ユーグレオル侯爵が主催した晩餐会には、多くの貴族が姿を見せた。窓際で侯爵に挨拶をしているのは、確かエスレ男爵だ。地方に領地を所有しているために、王都にはなかなか来れないと聞く。

 男爵の子息とも一度顔を合わせた事があるが、驚くほど背格好が僕に似ていて、歳も同じだった。髪型も似せて同じ服を着たら、見慣れない者には判別がつかないかも知れない。

 子息の顔を見た瞬間、侯爵は柔和な表情で男爵と話を始めた。子供の僕にすら侯爵が何を考えているかは分かる。あの少年を利用されないために、または利用するために、男爵を陣営に取り込むつもりなんだろう。

 

 王子という立場上、僕の許にも貴族たちが挨拶に来る。単に儀礼的な者から、隙があれば利用しようとする者まで、彼らの思惑は様々だ。

 貴族たちの目を見ながら、誰が味方で誰が敵かを判別する必要がある。幸いにも彼らは僕を何も知らない子供だと思っているから、にこやかに振舞っておけば造作も無い話だ。

 

 一通り挨拶を終えると、部屋の隅で控えていたリオネルが近付いて来るのが見えた。

 僕の顔色の悪さや食欲が無いのを、風邪のせいだと思っているんだろう。平気だ、と言い残して僕は一人で廊下に出た。バルコニーで新鮮な空気を吸えば、きっと気分も良くなるはずだ。

 

 宵闇の中、ランプの灯りを辿りながら廊下を歩いていると、向こうから誰かの影が見えた。

 そいつは酔っているのか、ふらふらと歩いては壁にもたれかかっている。狭い廊下では避ける場所すらなく、僕はそのまま影を追い越そうとした。

 その瞬間、左手首をがっちりと握られ、僕は恐怖の中で相手の顔を見た。月光に映る黄色い歯。猿のような禿頭は、紛れも無くナルディル侯爵だ。

 

「こんばんはカミオ様。今宵は良い月ですなあ」

 

 酒臭い息を僕に掛け、ナルディルは下品な笑い方をした。酔い方が尋常ではない。振り払おうとしても手首はますます締め上げられ、骨が悲鳴を上げている。

 

「放せ! 侯爵風情が臣下の分際で、王子たる私に無礼を働くつもりか!」

「無礼などと、とんでもない。カミオ様とは一度お話をしたかっただけにございます」

 

 僕を締め上げながら、ナルディルは慇懃無礼に顔を覗き込んで来た。逆光になっている奴の顔は、猿の化け物のようにすら見える。

 酒臭いため息をつきながら、ナルディルがぶつぶつと何事かを呟いているのが聞こえ、僕は怖気立った。

 

「惜しい。実に惜しい。年々お母上に似て来ている。あなたが王女にでも生まれていれば、この国はここまで荒れる事も無かった。王子を生かすも殺すも侯爵五家次第。御理解頂けますかな?」

「……何が言いたい。貴様に従えとでも言うのか」

 

 恐怖に震える僕の返答に、ナルディルはこれ以上はない不気味な笑みを浮かべた。

 

「さすが殿下は飲み込みが早い。そうして頂ければ、こちらとしても手荒な真似は致しませんぞ。まずは……ユーグレオルの屋敷を出て、当方においで頂きましょう」

 

 手荒な真似はしないと言いながら、ナルディルは僕の腕を更に捻り上げた。痛みに悲鳴が口をついて出たが、それすら奴の手で封じ込められて、抱えられるように廊下を引きずられる。

 王子を手に入れる事で、侯爵位第一位であるユーグレオルよりも優位に立とうと思っているのだ。その場で自身の娘と婚約させてしまえば、次の正妃は決定したも同然だ。正妃などどうでもいい。だが僕は、この家を離れたくない。僕の居場所はここにしかない。

 

「嫌だ……!」

 

 必死の叫びすら掻き消され、ナルディルはふらふらと裏口へ向かった。見れば窓の外には奴の馬車がある。恐ろしく手際がいいのは、いずれ僕を拉致する計画があったのだろう。

 どんなに暴れても抵抗すら封じられ、奴の手が裏口の扉に掛かった。次の瞬間、僕を拘束する手が不意に緩み、意識を失ったナルディルの体はずるずると床へ落ちた。

 拘束を解いてその手を逃れると、廊下の暗闇から聞き慣れた声が届いた。

 

「御怪我はありませんか。カミオ様。あれっ……ちょっと強くやりすぎたかな」

 

 ぴくりとも動かないナルディルに目を落とすのは、他でもないリオネルだった。厨房から拝借してきたのか、その手には木製の麺棒が握られている。

 晩餐会には主催者であろうとも武器の類を持ち込む事は出来ない。リオネルも剣術を学んでいるため自分の剣を持っていたが、さすがに今夜は手許には無いようだった。

 リオネルは麺棒を厨房内に放り投げると、座り込んだ僕に手を差し出した。左手首の痣を見つけると、怪我の無い手を取ってくれた。

 

「痣になってますね。後で医師に診てもらいましょう。ナルディル様は……このままでいいか」

「大丈夫かな。後で問題にならなければいいけど」

「ひどく酔っていたみたいだし、きっと覚えてないですよ。それにこの方は頭が硬そうだから、殴ったくらいじゃ死なないと思います」

 

 あっけらかんとしているリオネルを、僕は思わず見上げた。

 前向き、と言ってしまえばそうなのだが、同じ体制派の中で王子の奪い合いをしている状況にすら動じない事に、僕は驚くしかなかった。

 僕の動揺を見て取ったのか、リオネルはそれを笑い飛ばした。

 

「大丈夫。ユーグレオルの者は皆カミオ様の味方です。さあ、行きましょう。父には俺から報告しておきますから」

 

 リオネルは玄関ホールで会話をしていた医師を呼び止め、僕の治療を依頼してくれた。手当てをするために医師と二人で廊下を歩いていると、どこからともなくニナの泣き声が聞こえた気がした。

 

 

 

 医師から手当てを受けた後、僕はニナが気になって屋敷中を探し回った。招待客のほとんどは二階にある談話室でくつろぎ、一階にある宴会場にはちらほらとした人影しかない。その中に見覚えのある人を見つけ、僕は近付いた。

 よく知る人――ボルトラン先生は僕に気付くと、にこやかに微笑んで会釈をした。酒の類は嗜まないのか、手には果実水のグラスだけがあった。

 

「こんばんは殿下。御招き頂き恐縮にございます」

 

 酒が入っている訳でもないのに先生は上機嫌で、給仕に果実水のグラスをもうひとつ注文した。

 それを僕に捧げると、先生はグラスを一息に干した。蜂蜜漬けにした果実に冷水を加えただけの飲み物なのに、先生は楽しげに笑い声を上げる。

 渡されたグラスのやり場に困り、僕もそれに口をつけた。底に沈んだ橙の酸味と苦味が仄かに香る。

 空いたグラスを給仕に戻したところで、僕は先生にニナを見なかったか訊いた。

 

「いいえ。お見かけしておりませんね。いつも宴席では侯爵夫人と一緒においでだと思いましたが」

 

 ニナは人見知りが激しく、可愛らしく着飾っても、人前では決して侯爵夫人から離れようとはしない。

 ここにはいないのだと思い至り、僕は先生に会釈をすると足早にその場を後にした。今はもう侯爵夫人と一緒に奥へ戻っているのかも知れない。それなら安心出来るのだが、僕の心はひどくざわめき立った。

 気になって子供部屋へ行ってみると、果たしてそこにはニナがいた。泣いてはいなかったが、その目は泣き腫らしたように赤くなっている。僕は素早く辺りを見回したが、近くには誰もいない。着衣の乱れなども無かったが、明らかに様子がおかしかった。

 

「どうしたんだニナ。何かあったのか?」

 

 用心深く扉を閉めながら僕は訊いた。

 途端に彼女は泣き出しそうな顔をして僕を見上げた。

 

「……カミオお兄様は、十六歳になったらこの家を出て、もう戻らないって本当?」

 

 ニナの問いに、僕は一瞬黙り込んでから頷いた。

 

「そうだよ。十六になったら王宮へ戻らなければならない。王子としての役目を果たさなければならないから」

 

 その役目が、侯爵五家から定められた正妃を娶る事だと聞いたら、ニナはどう思うのだろう。悲しむだろうか、それとも蔑むのだろうか。

 会った事も無い女と子を作れなどと言われても、今の僕では拒否さえ出来ない。恐らく父もそうだったのだろう。だから正妃の他に寵妃や寵姫を持つ事を許され、後宮で半ば死人のように日々を過ごしている。

 

「あのね……。私、さっきナルディルのおじ様にお会いしたの」

 

 涙を堪えながら、ニナは少しずつ話し始めた。

 

「おじ様がね、言うの。『カミオ様が十六歳になるまでおとなしくしていろ。そうすれば王子の側女くらいにはしてやる』って」

 

 ニナが発した言葉に僕は目を見開いた。

 恐らく六歳の彼女には、側女の意味が解っていない。だがこれは、彼女や僕に対する侮辱だ。

 幼いニナに下劣な言葉を教え込んだナルディル侯爵に、僕はこみ上げる怒りを抑える事が出来なかった。拳を握り締め青白い顔をしている僕を見て、ニナは再び泣き始めた。

 

「ナルディルが……ニナを怖がらせた奴か? あいつなのか?」

 

 僕の問いにニナはようやく頷いた。

 あの小物が。下らない権力を求める猿が、小さな女の子を脅し続けて来た事に激しい憤りを覚えた。

 

「許さない……あの男、必ず罰を与えてやる」

 

 怒りに任せて立ち上がった瞬間、急に眩暈を覚えて、僕はふらふらと膝をついた。

 体が思うように動かない。先ほど医師に処方してもらった痛み止めのせいだろうか。僕はそのまま床に座り込んでしまい、立ち上がれなくなった。

 ぼんやりする意識の中、音も無く子供部屋の扉が開いた気がした。見上げれば黒尽くめの男が一人、きらめく刃を手に立ちはだかっている。

 

「暗殺者……?」

 

 ニナと自分を護るために立ち上がろうとしても、指は宙を掴み、足は床を滑る。

 どうして。どこから。警備兵が倒されたのか。そんなはずはない。だって誰も騒いでいないじゃないか。

 

 朦朧とする頭を必死に巡らせながら、僕はニナを抱き寄せて腕の中に隠した。大切な妹を……護らなければ。

 暗殺者は脇目も振らず、その刃を僕に向けた。僕の髪を掴んで引き倒し、的確に喉元を狙ってくる。

 

 ニナの声が聞こえた気がした。

 

 不気味に光る刃が振り下ろされた瞬間、左耳の下に鋭い痛みを感じた。ぬめる血液が流れ落ち、傷口が熱く灼ける。

 僕はここで死ぬのだろう。思考の出来ない僕の耳に一瞬、暗殺者のくぐもった舌打ちが聞こえた気がした。

 

 重い瞼をこじ開けてみると、腕の中にいるはずのニナは僕を庇うように身を乗り出し、暗殺者の刃を受けていた。

 両手を広げ、目の前に立ちはだかる彼女に、僕は見も知らぬ母を思い出した。刃を受けた小さな体はすでに事切れ、その顔には何の表情も宿してはいない。

 ニナは暗殺者を止めようとして僕を庇ったのだろう。そのために死の刃は僕を逸れ、ニナへと向かってしまった。

 

 標的以外の幼い子供を殺してしまったためか、暗殺者は動揺して凶刃を取り落とし、後ずさった。

 その間隙を縫い、僕は渾身の力を振り絞って暗殺者の足元へ転がり出た。身を起こす瞬間、凶刃を拾い上げて床を蹴る。

 

 薬のせいで力が入らない勢いを突進で補い、両手に握り締めた刃を暗殺者へ突き立てた。

 覆面の下からは苦痛に呻く声が響いたが、僕はありったけの力で切っ先を押し込んだ。

 

 暗殺者が死んだのか、気絶したのかは分からない。いつの間にか男は動かなくなり、僕はふらふらとそいつから離れた。

 返り血を浴びた体を引きずりながら、僕はすでに息の無いニナの横に膝をついた。よく笑うニナ。恥ずかしがりやのニナ。優しいニナは……もういない。

 

 彼女の髪を指で梳きながら呆然と座り込んでいると、物音に気がついたのか、誰かが子供部屋へ走る足音が聞こえて来た。

 部屋の前で立ち止まった足音は、内部の惨状に息を詰まらせた。そこにはすでに死んでいる少女、倒れている男、呆然と座り込む王子がいたからだ。

 返り血に髪を張り付かせ、首から血を滴らせて衣装を汚している僕は、さぞ不気味に見えただろう。

 

 誰かが悲鳴を上げた。警備兵を呼べと怒鳴る声。すすり泣く音。僕に触れる誰か。

 恐怖のあまり身をすくませて触れる指先を見ると、それはニナと同じハシバミ色の瞳で僕を覗き込んでいた。

 

「リオネル。僕は……」

 

 涙を浮かべる瞳に、僕は呟いた。

 

「護れなかった。ニナを」

 

 それだけようやく口にすると、僕の世界は暗転した。遠くで侯爵夫人の泣き叫ぶ声が聞こえたが、僕にはもう、何も出来なかった。

三 ・ 誕生

 

 気がつくと、そこは見知らぬ場所だった。

 白い壁に囲まれた部屋はひどく眩しく、目を開けていたいと思えなかった。微かに瞼が動いた事に気付いたのか、医師と思しき口ひげの男が僕に近付いて来た。

 

「殿下。お目覚めになりましたか。何はともあれ、これで一安心です」

 

 医師の言葉は僕の耳を素通りする。どうして僕は生きているんだ。もうニナはいないのに。本当なら、あの場で死すべき運命だったのは僕なのだ。

 意識を失う前に聞こえた侯爵夫人の絶叫は、僕の心を深く抉った。愛する娘を失ったあの人も、心に大きな傷を負ってしまった。癒える事の無い、不可視の傷。それは塞がったように見えても、僅かなきっかけで口を開け、絶えず血を流し続ける。

 

「首の傷が予想よりも浅かったので、何とか手当てが間に合いました。ただ、傷痕が……少しばかり目立ってしまうと思います」

 

 何も答えようとしない僕に、医師は病状を説明し続けた。

 寝台から身を起こして鏡を受け取ると、僕は首の傷を見た。そこには爛れたように灼けた傷痕が広がっている。刃に毒でも塗ってあったのだろうか。それほど僕を殺したかったのだろう。

 鏡の中に映る醜い傷痕は、まるで烙印のように見えた。大切な妹を救えなかった、罪の証。

 

「傷痕など……どうでもいい。髪や服装で隠せば誰にも分かりはしない。それよりも、ここはどこだ」

「王宮の一室にございます、殿下」

 

 医師の返答に僕は言葉を詰まらせた。

 説明によると、あの夜倒れた僕は、ユーグレオルの屋敷で医師の治療を受けたという。幸いにも傷は浅かったものの毒を盛られている可能性に気付いて、解毒剤の常備されている王宮まで馬車で移送されたようだ。

 安堵すると同時に、強い悲しみが僕を襲った。王宮に戻されたという事は、二度とユーグレオルの家には戻れないという事だ。

 侯爵夫妻やリオネルをニナの死によって傷つけておいて、未だ戻りたいと思っている自分の身勝手さに僕はふと笑った。十六歳で王宮に戻る予定だったのが、少しばかり早まっただけだ。もうユーグレオルの家には戻れない。あそこにいてはいけない。

 

 医師の言葉を話半分に聞きながら、僕はふと窓の外を見た。この部屋は後宮にほど近い二階に位置しているらしい。窓を開け放つと中庭からは、侍女たちの楽しげな笑い声が響いて来た。

 女たちを見下ろすと、侍女たちの輪の中に主人らしき女性が見えた。赤子を抱いたその人は陽光に映えて、息を呑むほど美しい。きらきらと煌く青灰色の長い髪は、光の加減によって銀にも青にも見える。

 

「あの方はどなただ?」

「陛下の寵妃であられる、リアン妃殿下にございます。妃殿下の腕に抱かれておいでなのは、カミオ様の妹君、ノア様にございます」

 

 思ってもみなかった言葉に、僕は動揺した。

 この僕に、血の繋がった妹がいる。その事実だけで心が震えた。そしてそれと同時にリオネルの顔が浮かび、ふらふらとその場にへたり込んだ。

 もし実の妹が賊に殺されでもしたら……僕はそいつを殺すだろう。あの夜、ニナを奪われたリオネルの心境を思えば、ひどく胸が締め付けられた。

 床にへたり込んでしまった僕を医師が慌てて支え、寝台に座らせた。

 

「とにかく今はお休み下さい。数日後には陛下との面会も予定されておりますから」

「……父上よりも、リアン様と妹に会ってみたい」

「ではその件については、侍従にこちらから伺っておきます。おやすみなさいませ、殿下」

 

 医師は静かに立ち去り、室内には僕だけが残された。

 女たちの笑い声が気になった僕は、再び窓に寄って中庭を見下ろした。リアン様の風になびく青灰色の髪は滑らかで、母がいたらこんな方だったのかも知れないと、僕はふと懐かしい記憶を辿った。

 

 

 

 それから三日後に、リアン様への目通りが許された。

 許可が下りたのはほんの一刻程度ではあったが、それでも僕は嬉しかった。出産を終えて数ヶ月しか経っていないリアン様の居室は、甘ったるい匂いが漂っている。

 何故かそれが懐かしいような気がして目を細めると、一人掛けのソファに座ったリアン様が微笑みかけてくれた。ソファの横には揺りかごが置かれ、小さなノアが眠っているのが見えた。

 

「初めまして、カミオ様。お会い出来て光栄です」

 

 揺りかごを揺らす手を止めて、リアン様はゆっくりと立ち上がり会釈をした。その所作があまりにも美しくて僕は魅入ってしまったが、慌てて会釈を返すとリアン様は柔らかく笑った。

 

「どうぞお掛け下さい。カミオ様にお会い出来るのを楽しみにしておりました。お茶とお菓子も用意してありますよ」

 

 卓上にあった鈴を鳴らすと、すぐさま奥から侍女が現れた。その手には銀盆があり、茶や菓子が載せられている。

 侍女は配膳し終えると静かに居室を後にした。その姿を見送ったリアン様は僕に振り返り、優しい母のまなざしで見つめてくる。

 

「カミオ様が王宮にお戻りになられて、嬉しく存じます。異母とはいえ、たった二人の兄妹ですもの。ねえノア」

 

 リアン様に促されるままに、僕は立ち上がって揺りかごを覗き込んだ。かごの中の赤ん坊は小さな両手をぎゅっと握り締めて、静かに僕を見上げている。

 ノアの様子に何故かひどく悲しくなって、僕は立ったまま涙を流していた。声も無く、ただ泣いている僕を見て、リアン様はそっと僕の手を取り、包み込むように手を重ねた。

 

「ごめんなさい。きっとお母様の事を思い出してしまったのよね。私が至らないばかりに、カミオ様のお気持ちをもっと考えるべきでした」

「……違う。違うんです」

 

 悲しそうに見上げるリアン様に、僕は必死に否定の言葉を発した。この方は何も悪くない。

 

「母の事もありますが、先日亡くなった女の子の事を……思い出してしまったんです。あの子にも、こんな頃がありました。ユーグレオルの家しか知らない僕には、かわいい妹だったんです。だから……」

 

 ――だからなおさら、僕の罪は深い。

 

 侯爵夫人から娘を奪い、リオネルから妹を奪った。僕に力が無いばかりに、何も護れなかった。

 僕の葛藤を知ってか知らずか、リアン様は不意に立ち上がって僕を抱き締めた。柔らかく甘い香り。それが赤子に与える乳の匂いだという事に、僕はようやく気付いた。

 

「泣かないで。あなたは強い王になる御方。今は護られていても、いずれあなたはその手で大切なものを護れるの。あなたが生きている限り、あなたを護った人も息づいている。あなたを愛する人全てが、あなたの力となるのよ」

 

 リアン様の言葉に、僕は涙を止められなかった。

 

「今この王宮では、侯爵位第二位のモリスが暗躍しているの。第四位のシエドだけではなく、カミオ様に連なる第五位……エレディアもその傘下に加わってしまった。ユーグレオル侯は止めようとしたけど、モリスの計略で陛下にすら近づけなくなったわ。どうか、あなたの手でユーグレオルとレニレウスを護って」

 

 懐かしい匂いに顔をうずめ、僕は頷いた。

 

「護ってみせます。僕を護ってくれるもの全てを、僕が護ります」

 

 自らの幼子にするように、リアン様は僕の髪を撫でてくれた。

 帰り際、なるべく早くユーグレオルに戻る旨を話して、僕は母子に別れを告げた。奇しくもこれがリアン様との最期の別れになるなど、僕はまだ知る由もなかった。

四 ・変容

 

 リアン様と面会した翌日父上に奏上し、私はユーグレオルへ戻る事にした。

 久方ぶりに会う父は驚くほど寡黙で、心の内をまるで明かそうとはしなかった。玉座の間は以前参内した頃よりも陰鬱な空気が立ち込め、親衛隊の雰囲気も異なる。

 モリスか、と私は心の中で呟いた。侯爵五家で均等に配分されていた護衛の兵が、そっくりモリスの私兵になっているのだ。確かにこれではユーグレオルは近づけない。それどころか、父自身が愚昧な王のように振舞わなくてはならないところまで来ている。

 迂闊に話をする事も出来ず、私は儀礼的な挨拶だけを交わして王宮を去ろうとした。去り際にふと父が口を開き、一言だけ呟いた。

 

「あれをよろしく頼む」

 

 驚き振り向いて、はいとだけ私は答えた。父の言う『あれ』とは、ユーグレオル侯爵家の事だろう。侯爵は父の従兄弟で、王位に就くまでの苦労を共にして来たのだという。

 歴史は繰り返している。あの日、父が言った言葉。生まれるべきではなかったというあの言葉こそが、父の苦しい道程を物語っているのだ。

 

 何も分からない子供のように私は馬車に乗り、ユーグレオル侯爵領を目指した。念のため医師も同行した行列は、ひどく物々しく見えた。

 せめてもの親心なのか、それほど長い道程ではないのに護衛兵は全て王の直轄兵だった。

 

「生きなければ」

 

 誰もいない車内で、私はそう呟いた。生き抜いて、死が無駄ではなかった事を証明しなければ。

 レニレウス王家は血塗られている。政争で流された血の河を溯り、ひたすら進む以外に道は無いのだから。

 

 馬車にしばらく揺られていると、懐かしい光景が眼前に広がった。

 海風を凌ぐ森の木々。広大な麦畑。そこから連なる丘の上には、私が八年間を過ごした屋敷がある。

 戻って来た安堵と、耐え難い悲しみが私の胸を締め付けた。

 

 リアン様の話では、長らく王体制側を支える第一位として君臨したユーグレオルを、第二位のモリスが打ち倒すつもりでいるようだ。

 そのため密かに賛同する貴族を集め、今や侯爵五家のうち、三家が反体制派に与している。第三位のナルディルはこちら側についているが、それは第四位のシエドと反目をしているからであって、王家に心から忠誠を誓っている訳ではない。

 

 どちらを向いても敵ばかりだ。だが今となっては、やすやすと殺される訳にも、傀儡として生きる訳にもいかない。

 下らない慣習を、争乱の元となる歴史をここで断たなければならない。そのためにも私を襲い、ニナを殺した奴の正体を突き止める必要があるだろう。

 

 俯きながら考えているとやがて馬車は屋敷の門前に到着した。

 正門から玄関まで、出迎えの列がずらりと居並んでいる。葬列を思わせる人の波を割り、私は屋敷へと向かった。

 導かれるままホールへ足を踏み入れると、そこには侯爵とリオネルが待っていた。

 

 私の手首や首に巻かれた包帯は未だ取れていない。

 まるで疫病神のような王子の帰還を、果たして彼らは心待ちにしていたといえるだろうか。

 私の姿を認め、侯爵は深々と会釈をした。リオネルもそれに続き、二人は神妙な面持ちでどうぞ中へ、と私を促した。侯爵夫人の姿が見当たらなかったが、恐らく愛娘を失った悲しみに臥せっているのだろう。

 

 医師を伴って応接室へ入ると、ナルディル侯爵とボルトラン先生、そしてエスレ男爵がいた。王子を迎えるにあたって集まったのであれば、これが体制側の面々という事になる。

 そして恐らくこの中に、暗殺者を手引きした者がいるはずだ。

 

 晩餐会で人の出入りが激しかったとはいえ、警備は数十人体制で行われている。

 招待客とは思えない者が混じっていればすぐに判別がつくからだ。

 

「おかえりなさいませ、殿下」

 

 重苦しい空気の中、ボルトラン先生がにこやかに声を掛けてくれた。

 この様子では、体制派の中でも内紛があるのだろう。疑心暗鬼は結束力を弱める。もしかすると、賊はそれが狙いだったのかも知れない。

 

「皆には心配を掛けた。だが私はもう平気だ。こうして医師も付き添ってくれている。ただ、私を庇って命を落としたニナを思えば、喜ぶ事など出来ない」

 

 私の言葉に侯爵とリオネルは言葉も無く俯いた。

 死によって引き裂かれ、残された者は大きな心の傷を受ける。誰も言葉には出さないが、悲しみはじわりと心を蝕む毒に他ならない。

 

「私がここへ戻って来たのは、ニナへの追悼の意味もあるが、彼女を殺害した男の話を聞きたかったからだ。背後で糸を引く者がいるなら、その真実を知りたい」

「畏れながら殿下。あの暗殺者めは、すでに事切れております」

 

 誰も口を開かない中、先生は静かにそう答えた。

 

「医師が不在だったために私が検分致しましたが、確かに死んでおりました。覆面を剥いで侯爵様方にも首実検頂きましたが、どなたも御存知ないようでした」

「それでは、手掛かりは全く無いという事か」

「左様にございます、殿下」

 

 先生の言葉通り、二人の侯爵はまるで心当たりが無いという顔をしていた。

 完全に振り出しに戻ってしまった。私が留守にしていた一週間ほどの間には、凶器などの証拠も全て隠滅されただろう。

 当の暗殺者もすでに埋葬され、真相に至るための糸口はぷつりと途絶えてしまった。

 私が押し黙っていると、不意に先生はナルディル侯爵へ視線を向けた。

 

「時に、晩餐会の夜ですが……。ナルディル侯爵様は、しばらく会場においでになりませんでしたね。どちらかに御用でも?」

 

 痛いところを突かれたのか、ナルディルは禿頭まで真っ赤になって怒り、わめき散らした。

 

「うるさい! 平民出身の研究者など黙っておれ! これは我々貴族の問題だ」

 

 ナルディルは頭に血が昇りやすい男だが、度が過ぎるあまり、ユーグレオル侯爵まで不審な目で彼を見た。

 それもそうだ。あの夜、酔った勢いでニナに八つ当たりをし、私にまで狼藉を働いたのだから、それが知れたら大問題になる。

 

「侯爵様。少しよろしいですか」

 

 医師になだめられるナルディルを尻目に、先生は侯爵に耳打ちをした。

 侯爵は何かを耳にすると一瞬険しい表情になったが、すぐに顔を上げて皆へ向き直った。

 

「今日のところはこれで解散と致しましょう。殿下も遠路を旅されてお疲れのはず。今晩は部屋を用意させますので、明日以降にまた顔合わせをしましょう」

 

 侯爵の言葉にその場は収まり、それぞれが客間へ案内されると応接室は私と侯爵、リオネルだけになった。

 三人だけになったところで侯爵は神妙な面持ちを私に向けた。

 

「殿下。御無事で何よりです。我が娘ニナはその小さな命を落としましたが、これも運命と受け入れるほかありません」

 

 悲哀と苦悩を滲ませた表情は、侯爵のおもてに深い皺を刻み込んでいる。そんな侯爵を正視出来ず、私は俯いた。

 

「時に殿下。こちらにお戻り頂けたのは嬉しいのですが、王宮で過ごされた方が御身にとっては安全かと存じます……先日のような事も、再び起こらないとは限りません」

「分かっている。だが私はこの国を護りたい。今内乱が起きれば、国ごと倒れる可能性もある。そのためにはモリスを排除し、ユーグレオルが再び陛下の傍へ戻らなければならない」

 

 私の言葉に、侯爵は何かを悟ったようだった。

 押し黙ったまま考え込み、しばらくの後に侯爵は顔を上げた。

 

「先ほど、ボルトラン先生から伺ったのですが……晩餐会の夜、ナルディルが酒に酔ってニナに暴言を吐いたというのは本当なのですか?」

 

 先生の耳打ちは、ニナの話だったようだ。

 リオネルの表情を見るに、彼がナルディルを殴り倒した話もしてあるのだろう。今更隠す訳にもいかないと私は判断した。

 

「そうだ。あの夜、酔ったナルディルに拉致されそうになった後、ニナの泣き声が聞こえた気がして探した。そうしたら、ナルディルに何か言われたとニナが泣いているのが見えて、子供部屋へ入ったんだ」

「なるほど……。実はボルトラン先生は、ナルディルが裏口から暗殺者を手引きしているのを見たとおっしゃるのです。そして暗殺者の懐からは、ナルディルの封蝋が押された書簡も見つかった。ですがユーグレオルの縁者が、そこまでするとは思えないのです」

「そうだな。だがナルディルには用心しなくてはならなくなった。今は仲間割れをしている場合ではないというのに……」

 

 ふとリオネルの方に目をやると、彼は先ほどから、私の背後にある扉を凝視しているように見えた。

 何かいるのかも知れないと思ったが、気付かないふりをしてそのまま会話を続けた。

 

「とりあえず明日の昼にでも、もう一度召集をして話をしよう。少し部屋で休みたいから、夕飯には呼んでほしい」

「畏まりました。後ほどリオネルを向かわせます」

 

 私は椅子から立ち上がると、部屋へ戻るために扉へ向かった。

 リオネルが慌てて私を追い越し扉を開けると、廊下には夕闇だけが広がり、何者の影も見当たらなかった。

五 ・ 陰影

 

 夕飯を終え床につくと、長い緊張が解けたせいか私はすぐに眠りへ落ちた。

 全身が鉛のように重い。この状態は、ニナが死んだあの夜にも似ている。

 

 疲労に耐えかね目を閉じれば、柔らかな泥にゆっくりと沈んでいく感覚に包まれる。たゆたう眠りの中で、不意にぎりぎりと喉を絞め上げられる息苦しさに、私の肺は酸素を求めて脳内に警鐘を鳴らした。

 もがきながら目をこじ開けると、そこには見知らぬ男がいる。覆面でそいつの顔は見えず、言葉すら発さない。

 扉や窓には鍵が掛けられていたはずなのに、この男はどこから侵入したのか。そもそも、警戒の厳しい邸内にいるのは何故だ。

 

 そんな事を考えながらも、私の呼吸は今にも止まりそうになる。

 抵抗出来ないよう膝と腕を使って押さえ込まれ、片手で喉を圧迫してくる。この手際の良さは手練だ。

 

 声すら上げられず、私の意識は静かな暗闇の底へ吸い込まれていく。……堕ちる、と思ったその瞬間。

 不意に眼前の混沌が振り払われ、気道に酸素が戻った。濁る視界の外で、何かが格闘している。私は喉の奥から咳き込み寝台から起き上がると、一人の男を揺らめく月光の中に見た。

 彼の足元にはもう一人、男が倒れている。彼らの周囲は赤く反射する液体にまみれ、涙に歪む目にもそれが大量の血液である事が見てとれた。

 

「御無事でございますか、殿下」

 

 血に濡れるナイフを放り投げ、立っていた男がこちらを振り向いた。

 聞き慣れたその声は、ボルトラン先生のようだ。彼の足元には暗殺者の死体が転がり、血溜りに覆面を浸している。

 

「大丈夫だ……」

 

 あまりの恐怖に立ち上がれずにいると、慌しく廊下を走る足音が耳に届いた。

 さすがにこれだけの大立ち回りをすれば、気付かない者はいないだろう。扉を打ち破りそうな勢いで飛び込んで来たのは、ユーグレオル侯爵だった。

 

「何事ですか! あ……」

 

 室内の光景に、侯爵は言葉を失った。

 おびただしい量の血液にまみれた死体と立ち尽くす先生。そして寝台から動けずにいる私の姿が、彼の目に焼きついたのだろう。

 侯爵は一瞬後ずさったが、廊下の奥からリオネルの声を聞き、来るなと大声で叫んだ。彼はすぐに警備兵を呼び、暗殺者の死体を片付けさせた。

 すぐに邸内を捜索するよう指示し、侯爵はこちらへ目を向けた。

 

「お二人とも怪我はありませんか? すぐに湯の準備をさせますからこちらへ」

 

 侯爵に付き添われて寝室を出ると、数名の侍女が私を毛布でくるみ、慌しく衣装部屋へ案内した。隣室には沐浴のために湯のはった桶があり、固く絞った布で体を拭かれた。

 先生が暗殺者を刺殺した時の血飛沫は床や壁を汚し、私にもそれが及んでいたからだ。暗殺者の血液は時に毒のような成分を含んでいると聞いた事がある。幼い頃から毒を少しずつ飲まされて育ち、猛毒と化した肉体を武器とする者も数知れないという。

 

 侍女たちに体を洗われながら、私は先ほど見た先生の変貌を思い出していた。

 普段の優しげな表情から一変し、悪鬼のような顔で暗殺者を刺殺したのは本当に先生だったのか。もしかすると暗殺者が先生を殺して入れ替わっているのではないか。

 ふとそんな疑心に駆られ、私は言葉も無く俯いた。今この状況で身内を疑うのは得策ではない。一度でも疑ってしまえば、芽吹いた闇がいつでも鎌首をもたげてくる。疑心暗鬼の中で互いに争わせるなど、それこそ奴らのやり口だ。

 

 暗殺者の血に何も含まれておらず、無事に着替えを終えると、私は侯爵が待つ居間へと向かった。応接室よりは小さめだが、そこにいるのは侯爵と先生、そして私だけだった。

 これほどの事件なのに、関わらせてもらえないリオネルは今頃きっと拗ねているはずだ。曲がった事を許さないあの性格では、暗殺者を差し向けた者を何としてでも突き止めようとするだろう。

 私が居間へ入ると、先生と話をしていた侯爵がこちらを向いた。先生もすでに着替え終わり、事の成り行きを説明していたようだ。

 

「カミオ様。良いところへ。ボルトラン先生から説明を受けていたのですが、カミオ様の話もよければ聞かせて頂けませんか」

 

 侯爵の言葉に、私は頷いた。だが話すとはいっても、眠っていたところを殺されそうになったのだから多くを語る事は出来ない。

 

「夕食の後、私は自室で眠っていた。不意に苦しくなって目を覚ましたら、見知らぬ男が私の首を絞めていた。先生はそれを助けてくれただけだ」

 

 私の言葉に侯爵はしばし考え込んだ。

 それから先生を見やり、二言三言交わすと、彼らは立ち上がった。

 

「カミオ様。ひとまず今日のところは別の部屋でお休み下さい。警備は強化しておきます。例の部屋は明日の朝一番に検証し、暗殺者の死体も確認する予定です。先生がしばらく滞在して下さるそうなので、何かあれば相談なさると良いでしょう」

 

 侯爵はそう告げると侍女を呼び、私を部屋に案内するよう申し付けた。

 居間を出る時ふと振り返ると、ボルトラン先生の不気味な笑顔が見えた気がした。

 

 

 

 その夜は何事も無く明けた。

 私はあまり眠れなかったために鶏よりも早く起き、身支度を始めた。

 

 手っ取り早く次代の正妃を立てるためには、世継ぎである王子が邪魔なのは確かだ。そのために命を狙われるのも理解出来る。だが今は国内で争っている場合ではない。内乱は国力を大幅に削ぐからだ。長らく北方鉱山の覇権を争っているダルダンなどにこれを知られれば、すぐさま攻め込まれひとたまりもないだろう。

 そして何よりも――私はまだ死ぬわけにはいかない。

 

 死んでいった者のために、生まれた命のために。支えてくれる者たちのために、私自身が侯爵五家を御してレニレウスを平定しなくてはならない。

 生に意味があるというのなら、たとえ傲慢だと言われようとも力の限り生きるしかない。

 

 ふと顔を上げて窓の外を見れば、東の空がようやく白み始めている。

 朝食までにはまだ時間もあるだろうが、昨夜の事件が気になった私は部屋を出て階下へ向かおうとした。

 

 階段に差し掛かった時、突如大きな音がホール中に響き渡った。

 間断無く続くその音が玄関の大扉を叩く音だと気付くには、しばらく猶予があった。

 

 未明に扉を叩く訪問者など、いるはずがない。

 すぐさま警備兵が武器を構え、扉に近付くと声を掛けた。外から聞こえて来るのは子供の声だ。それも私と同じくらいの歳の少年。

 必死に訴えかけているのが分かるが、それでも警備兵は扉を開けようとはしなかった。夜に侵入者があったのだから、慎重になるのは当然だ。

 

 覗き窓から様子を窺い、警備兵はようやく扉を開いた。

 そこにいるのは、フードを目深に被った少年だった。どうやってここまで来たのかは分からないが、寒さか恐怖でがたがたと震えている。

 

「朝早くに申し訳ありません。私はペイル・レドア・エスレと申します。父に急用があり、不躾ながら侯爵邸に参上致しました」

 

 ペイルと名乗った少年がフードを取ると、警備兵が驚きの声を上げた。それはそうだろう。彼は誰もが驚くほど私に似ている。

 

「エスレ男爵の御子息か? ならばしばし待つように。今はこちらも取り込み中なのだ」

 

 警備兵の無下な言葉にもペイルは食い下がり、取次ぎを嘆願した。

 その青ざめた表情に、彼の身に何かが起こったのだろうと私は悟った。傍にいた警備兵にエスレ男爵を呼ぶよう告げると、扉へ近付いた。

 

「私が許す。中へ入るがいい」

 

 突如掛かった声に警備兵は驚いて振り返った。ペイルも青ざめた顔をこちらに向け、表情をこわばらせる。

 

「今エスレ男爵を呼びに行かせた。中で待て」

「あ……あの……。ありがとうございます」

 

 極度に緊張しているのか、ぎこちない動作でペイルは会釈をした。

 よく聞けば声まで私に似ている。赤の他人がここまで似るなど有り得るのだろうか。彼と私で異なる部分があるとするなら、傷痕の無い肌と年相応の笑顔だ。

 

 ペイルを伴いホールに戻ると階上から男爵が降りて来るのが見えた。

 自宅にいるはずの息子の姿に驚き、男爵は急いで階段を駆け降りホールへ入った。

 

「何事だペイル! 何故お前がここにいる。留守を頼むと申し付けたはずだ」

「父上……。申し訳ございません!」

 

 ペイルは男爵の姿を見るといきなりひれ伏し、涙を流しながら謝罪を繰り返した。

 私も警備兵も、男爵すら意味が分からず、困惑の表情で顔を見合わせた。

 

「領内において武装蜂起があり……畑の大部分が焼かれ、多くの民衆が殺されました。屋敷にも暴徒が押し寄せ、生きて抜け出せたのは……私一人だけでした」

 

 思いもよらぬ息子の言葉に男爵は呆然として膝をついた。

 騒ぎを聞きつけたのかユーグレオル侯爵やボルトラン先生、ナルディル侯爵も続々とホールへ集まりつつあった。

 

「蜂起したのは都市部の労働者階級だったようです。数日前に都市部に怪しげな集団がいるとの情報を受けていたのですが、間に合いませんでした」

「そうか……。もうよい。お前も辛かっただろう。……侯爵様。申し訳ありませんが、部屋をひとつお貸し願えませんか」

 

 一族の訃報を耳にし、憔悴しきった顔で男爵はそう申し出た。侯爵もすぐに頷き下女を呼ぶと、男爵親子を離れへと案内させた。

 親子が去ると大人たちはひそひそと何かを話し始めた。しばらくの後に彼らの協議は終了したらしく、侯爵がこちらへと顔を向けた。

 

「カミオ様。私はナルディルと共に王都に参り、事の次第を報告に上がろうと思います。こちらにはボルトラン先生とリオネルを残して行きます。警備兵も倍にしておきますので、三日間だけ空ける旨をお許し下さい」

 

 侯爵の言葉に私は余程驚いた表情をしたのだろう。心配ありません、大丈夫ですと先生に微笑まれてはどうしようもない。

 

「……私も行くのか? 面倒な事はしたくないぞ」

「最早ユーグレオルだけでは陛下に目通り叶わぬのだ。解ってくれ」

 

 侯爵たちの会話を聞き流しながら、私は先生の顔を見た。

 そこにあるのは普段通りの優しい顔だ。だがそれが今の私には恐怖の対象でしかなかった。

六 ・ 希望

 

 暗殺者の検分もそこそこに、二人の侯爵と医師は王都へと旅立った。

 屋敷には私とリオネル、ボルトラン先生に男爵親子が残された。

 

 どうやら侯爵は先生を信頼して私を預ける気になったようだ。実際ナルディルは下衆な男ではあるし、先生は身を挺して王子を護ったという事実がある。

 それに加えてエスレ男爵領での反乱鎮圧を報告しに行かなければ、小さな火種が大火事になる可能性もあった。

 この日は暗殺者の遺体や部屋の検分を行い、ひとまず何事もなく過ぎた。

 

 あの夜に見た、先生の不気味な笑顔さえも思い違いだったと感じるほどに、この一日はひどく穏やかだった。

 夕食に一同が会しても誰も何も言わず、時折鳴る食器の音だけが部屋に響くだけだ。

 ふとペイルに目をやると、彼は何故か先生を注視していた。その様が妙に心に引っかかったまま、私は夕食を終えると席を立った。

 

 結局、二人目の暗殺者がどこから侵入してきたのか、誰の指図なのかは分からず終いだった。手掛かりになる物は何も無く、不気味さだけが残った。

 王都にいた一週間の空白を埋めるために、私はリオネルに話を聞く事にした。立て続けに事件が起こったために、一体何があったのか話すら出来ない状況だったからだ。

 

 夕食後にリオネルの部屋へ行ったが、ノックをしても彼が現れる様子は無かった。扉には鍵が掛かっており、すでに眠っているのかも知れなかった。

 仕方なく引き返し、私もすぐに就寝するつもりでいた。さすがに血臭のする自室では眠れる訳も無く、昨晩使った部屋へ向かった。

 廊下を歩いていると、奥の窓際に誰かの姿が見えた。振り返る影が逆光になって、一瞬それが誰なのか全く分からなかった。

 

「殿下。お待ちしておりました」

 

 先生の声で影は言った。相変わらずその顔は陰になっていて見えない。

 暗く虚ろな廊下に響く声色は、心の底から恐怖を呼び起こす。

 

「何の御用ですか先生。リオネルも早くに寝たようですし、私もそろそろ休もうと思っているのですが」

 

 努めて冷静に発したつもりが、ひどく震えた声になっている。

 侯爵は警備兵を増員すると言っていたが、それはむしろ、この屋敷全体が密室になっているとも言える。

 今では先生が何を考えているのかも分からない。私は何の根拠も無く、先生に恐怖を抱いている。先生は反体制側の人間なのではないか。だがそうだとしても、先生に利する事など何もないのだ。

 

「お手間は取らせません。暗殺者に関しての私の見解を聞いて頂きたいだけなのです。リオネル様にも御同席頂こうと思っておりましたが、すでにお休みですか。残念です」

「出来れば明日以降にして頂けませんか。少々疲れました」

 

 先生はふと言葉を切ったが、すぐに顔を上げて答えた。

 

「分かりました。では明日の午後に書庫で」

 

 それだけ言うと黒い影は階段へと消え失せた。

 あれは本当に先生だったのだろうか。足音も無く暗闇しか目に映らなくなったところで、体中からどっと汗が噴き出した。

 私は急いで部屋へ入ると鍵を掛け、扉に最も近い隅で毛布にくるまった。暗殺者がまた来るのではないかと思うと気が気でなく、恐怖のあまり眠れない夜を再び過ごした。

 

 

 

 夜が明けると、私は真っ先にリオネルの部屋へ向かった。

 だがゆうべと変わらず鍵は掛かったままで、本人の応答は無い。

 朝食の時間になってもリオネルは姿を現さなかった。それと時を同じくして、血相を変えたエスレ男爵が食堂へ飛び込んで来るのが見えた。

 

「殿下! 私の息子ペイルを見かけませんでしたか?」

 

 挨拶もそこそこに、男爵は冷や汗をかきながら私に訊いた。

 

「ゆうべは私と一緒にいたはずなのですが……いなくなったのです! 今朝方気付いて探したのですが、どこにもいないのです」

 

 男爵親子は屋敷外にある離れを使っていたために、邸内から出ていない私にはまるで動向が掴めなかった。

 その旨を告げると、男爵は朝食も摂らずに会釈だけをして足早に出て行った。

 私もあまり食べる気分になれず、少しだけ口をつけると早々に食堂を離れた。部屋から出て来ないリオネルが気に掛かり、再度二階へ上がった。

 

「リオネル? いないのか?」

 

 ノックをしても返事は無く、扉には鍵が掛かったままだ。

 さすがに不審に思い、私は下女を呼び止めると筆頭執事が預かっている予備の鍵を持ってこさせた。

 執事立会いの許でリオネルの部屋の鍵を開けると、そこには誰もいない。それどころか窓は全開で、中庭から窓まで梯子が立てかけてあった。

 室内に争ったような形跡は無い。寝具は乱れているが、外套や靴も見当たらない。

 

「何という事だ。リオネル様を探せ! 急げ!」

 

 青ざめた執事は下女に怒鳴りつけ、自らも慌てふためいてどこかへ走り去った。

 部屋の中をざっと眺めれば、リオネルが自分の意思で窓から外へ降りたようにも見える。だが外開きの窓にあらかじめ梯子は立て掛けられない。では――もし一人ではないとしたら。

 

 私はふと思い立って厩舎の様子を見に行った。

 突然の訪問に馬丁は驚いたが、私の質問には快く答えてくれた。

 私が思った通り、深夜から早朝にかけて馬が一頭行方不明になっていた。リオネルは独りで屋敷の外へ出たのだろうか。ではあの梯子は誰が使ったのか。

 

 厩舎から正門前に戻り、私は独り逡巡した。思えば夜中に廊下で会ったきり、私はボルトラン先生を見かけていない。もしや先生がリオネルを連れ去ったのかとも思ったが、今日の午後は書庫にいるはずだ。

 本人に直接会って話をするしかないのか。私は念のため警備兵を呼び止めて不審者を見なかったか訊いたが、彼らは何も知らないとの一点張りだった。

 

 最後に私は男爵親子が宿泊していた離れを訪れた。

 哀れな男爵は髪を振り乱しながら、なおも息子の姿を探し回っていた。

 

「ああ、殿下。お見苦しいところを……申し訳ございません」

 

 血走った目をぎょろつかせ、男爵は苦しそうに息をついた。

 離れの内部はそれほど変わった様子もない。訊けばペイルも外套と靴が無く、自分の意思で出て行ったと男爵は考えているようだった。

 

「実はリオネルも今朝から姿が見えないのだが、昨夜変わった事は無かったか?」

「昨夜……ですか。そうですね、確かにペイルはリオネル様と夕食後に何か話をしていたようでした。ホウキがどうとか、顔を知っているとか」

「顔……?」

 

 事情は飲み込めないが、リオネルとペイルは何か知っているのだろう。

 だが馬を引き出したのが彼らだとしても、一体どこへ向かったのか。

 男爵にいとまを告げると、私はそのまま屋敷へと戻った。

 

 太陽が天頂を過ぎた頃、私は心を決め、先生の待つ書庫へ向かう事にした。

 危険は重々承知だ。だが先生がもし何かを知っているなら、私は真実を訊かなくてはならない。ニナの死、二人の暗殺者、そしてリオネルとペイルの失踪。

 これらは繋がっているのだろうか。それとも全く無関係なのか。

 

 書庫へ入ると、すでにボルトラン先生が待っていた。

 いつもと変わらない柔和な笑顔がそこにある。だが人は誰でも、内にある思いとはまるで別の顔を表現出来るのだ。

 

「お待ちしておりました、殿下」

 

 授業の時と同じように先生は丁寧に会釈をした。

 私も会釈を返すふりをして、辺りの様子を窺った。書庫は本の日焼けを防ぐために窓は無く、天井近くに通風孔だけがある。四方の壁は本棚で埋まり、ぎっしりと詰め込まれた古書や文献がうずたかく積み上げられている。

 確かに話をするなら最高の場所だ。盗み聞きもされにくく、多少の物音でも本が吸収してしまう。

 

「話とは何でしょうか、先生。出来れば手短にお願いしたいのですが」

「勿論です。そういえばリオネル様はおいでにならないようですね。どちらかへお出かけですか?」

「私の預かり知らぬところです。用件をどうぞ」

 

 執拗にリオネルの動向を気に掛ける先生に、私は疑念を抱いた。

 

「では申し上げます。私の見立てでは、あの暗殺者たちはナルディル侯爵様が放ったものだと考えております」

「反体制派ならまだしも、王体制派のナルディルとは……何か根拠でもおありなのですか」

「ナルディル様が王体制派として与しておられるのは、相対するシエド侯爵様が反体制派についているからだと思います。このお二方は次期正妃の座を争っておられる。どちらかに分があれば、その元を断とうとしてもおかしくはありません」

「元を断つために私を殺そうとしたと? ナルディルには正妃候補が幼い娘しかいない。だから私を殺してもナルディルには恩恵が無いと思いますが」

 

 私の懐疑的な言葉に先生は睥睨した。

 

「殿下は御存知ないかも知れませんが、死亡した一人目の暗殺者の懐からは、ナルディル侯爵家の紋章が入った手紙が発見されました。この件は、私からユーグレオル侯爵様に密かにお知らせしてあります」

 

 ああ、なるほどと私は思った。

 何も知らない私が先生を怪しむ反面、ユーグレオル侯爵はこのために先生を信頼しきっているのだろう。だから王都へ発つ際に先生を残し、ナルディルを随伴した。

 恐らく先生はもう、私の味方ではない。理由は分からないが、ここにいるのは我々を陥れようとする悪魔だ。私が敬愛した清廉な先生は、とうに消え失せていたのだ。

 

「お話はそれだけでしょうか。ならば私は部屋に戻ります。リオネルも探さなければなりませんので」

 

 先生が味方ではないと判った以上、私はすぐにでも書庫を離れなければと思った。

 リオネルのいない今、屋敷内に信頼出来る味方が誰もいない。何かあっても自分で対処するしかないのだ。

 

 ずっと授業を受けて来た先生の前では、何も知らない子供のふりをして誤魔化す事も無意味だろう。この人は私を何もかも理解している。書庫に呼び出したのは、私がどこまで疑っているかを知るために違いない。

 先生の裏切りをリオネルは非難するだろう。だが私には近しい人の裏切りよりも、そうせざるを得なかった背景を憂えた。

 それを変えるには、私がこの国を変革するしかない。そのためには泥さえ被る覚悟もあった。死んだ者のために、生きている者のために――私には生き続ける義務がある。

 

 書庫を出ようと扉に手を掛けると、先生の手がそれを押し留めた。

 驚いて振り返ると、深淵の底のように昏い双眸をした先生が私を覗き込んでいるのが見えた。

 

「やはり殿下は聡くていらっしゃる。信頼を築く時間が膨大であろうとも崩壊が一瞬のように、死もまた一瞬にございます。可能なら殿下を捕らえよとのモリス様からの御命令故、しばらく眠って頂きましょう」

「モリス……? やはり反体制派が」

 

 そこまで口にした瞬間、頭部に衝撃を感じた。

 意識を手放しそうになったが、崩れ落ちて冷たい床に頬が触れたために、一瞬気を取り戻した。

 

 ――逃げなくては。

 

 自力で扉を開け、私は廊下に走り出した。殴られた衝撃で頭が割れそうに痛い。躓いては転び、立ち上がってはひたすら玄関へと走る。

 このままでは逃げ切る前に意識を失うだろう。そうなれば私の急病と称して、先生が王都へ向かう事も可能だ。私がそのままモリス侯爵へ引き渡されれば、ユーグレオルは廃絶をも免れない。

 

 だが私は心に誓った。ニナに、ノアに、そしてリオネルに。私がいる限り、ユーグレオルはその正統性を失わない。

 ユーグレオルに錦の御旗を掲げさせる事こそが王者への道なのだ。それを理解した上で、父も私をここへ預けたのだろう。

 

「生まれて来なければよかったなどと、言わせない」

 

 ふらつく視界の中に玄関が現れると、私の心は躍った。

 外にさえ出られれば警備兵の詰所がある。そこまで辿り着ければこの状況を打開する事も出来るはずだ。

 先生よりも早く大扉の前に着くと、私は懸命に扉を押した。だが扉はびくともしない。

 子供の力で開かないはずはない。恐らく閉じ込められている。外からでなければ開かないようにしてあるのだ。

 

「殿下。残念ですがこちらからは出られませんよ。先ほど警備の方々にお願いして、扉という扉を全て閉めて頂きましたから。カミオ様やリオネル様には避難頂いて、内部にいる内通者を閉じ込めるのだと言ったらすぐ協力してくれました。勿論使用人の方々も外においでです」

 

 鍵の束を手で鳴らしながらにじり寄る先生の顔は、獲物を追い詰めた肉食獣のようにも見える。

 私は逃れる場所がないかと必死に辺りを見回した。その様が先生には滑稽に映ったらしく、彼は声を上げて笑い始めた。

 その時私の目に入ったのは、玄関ホールの隅に転がる青い紐だった。異国の絹で織られた美しい青。ニナが生前、一番気に入っていたおもちゃだ。そっとポケットを探ると小石がいくつか指に触れた。

 ニナがまだ諦めるなと言っている気がして、私は先生の目を盗み、後ろ手で紐を拾い上げた。紐の両端にそれぞれ小石をくくりつけると、気付かれないよう手の内に隠し持つ。

 

「ボルトラン先生。どうしてこんな事をなさるんですか。先生は歴史研究者としてはレニレウスで最も権威ある方です。何故モリスに……反体制派などに協力しているんですか」

 

 先生の気を逸らすために私は声の限り叫んだ。

 その間にも私との距離は縮まりつつある。全ての扉が閉まっているなら、考えられる脱出口はひとつしかない。それも賭けに等しい場所だ。

 

「……望むものを全て手に入れられる殿下には、きっとお分かり頂けないでしょう。私はこの歳になるまで、研究に全てを捧げました。家庭を持つ事を望まず、名誉を得る事も望まなかった。だから私にはもう研究しかない。そのためには莫大な金が必要なのです」

「金のためにモリスの犬になったと言うのか。暗殺者を手引きしたのもあなたなのか」

「そうです。一人目の暗殺者を招き入れ、殿下の飲み物に薬を仕込んだのも私です。一人目がしくじったのをモリス様に御報告申し上げたところ、二人目を殺してでもユーグレオル侯爵の信頼を得よと命じられました。二人目は、まさか自分が殺されるはめになるとは思っていなかったでしょうね」

 

 まるで屠殺した家畜を報告するような告白に、私は吐き気を催した。俯きながら先生との距離を測り、石を握り締める。

 先生の足が投擲範囲に入ったところで、私は石を結んだ紐を振り回し、足を狙って投げつけた。

 狙いたがわず紐は先生の両足に絡まりつき、彼はそのまま勢いよく前のめりに倒れた。その隙をついて私は二階へ駆け上がり、リオネルの部屋を目指した。

 

 どこかに隠れたとしても、すぐに見つかって引きずり出される。それならリオネルの部屋から梯子で外を目指せばいい。

 降りてすぐ裏手には厩舎があり、そこで馬を調達すれば敷地内からも出られるはずだ。

 

 部屋へ入ると急いで扉を閉め私は窓へ歩み寄った。

 慎重に窓を開け下を探したが、そこに梯子は無かった。

 恐らく警備兵に取り払われたのだろう。絶望に目の前が暗くなったが、廊下からはひたひたと足音が近付きつつある。やがてそれは部屋の前で止まり、一瞬の沈黙が辺りを支配した。

 

「殿下。もう逃げられませんよ」

 

 死の宣告にも似た言葉と共に、扉が開く。

 開け放たれた窓から夏のそよぎが吹き込み、勢いよく扉に叩き付けた。そこには不気味に笑う先生の姿がある。

 

「さあ、共に来て頂きましょう。悪いようには致しません。あなた様は王子という名の繰り人形。何も考えず、与えられたものを受け取ればそれで良いのです」

 

 迫る先生の背後から、聞き慣れた足音が聞こえて来る。

 先生はまだそれには気付いていない。私はじりじりと窓へ寄り、足音の主がここへ来るのを待った。

 

「私は操り人形ではない。王子という名の……ただの人間だ。生きるためなら何でもする。それが私だ」

 

 その言葉に満足げな表情を浮かべ、先生は私の手首を掴んだ。最早抵抗するつもりも無いと踏んだのだろう。だがそれは大きな間違いだ。

 足音が近付いて来る。……後三歩、二歩、一歩。扉の前まで来て、先生はようやくそれに気付いた。

 

「遅いぞ。リオネル」

 

 私の言葉とほぼ同時に、彼は部屋へ飛び込んで来た。

 護身術として剣を学んでいるリオネルは動体視力に恵まれ、普通の大人程度なら叩き伏せるほどの剣技を持つ。

 意表を突かれた先生は躱す事も出来ず、木剣で強かに打たれ床に転がった。

 

「遅くなりました。怪我はありませんか」

「大丈夫だ。ペイルは一緒なのか?」

「はい。二人でボルトランが内通者である証拠を探しに行っておりました。勝手にカミオ様の傍を離れて申し訳ありません」

 

 リオネルの手に握られているのは、質の悪いクズ鉄で造られた封蝋用の印章だ。一目見て、私にはそれがナルディル侯爵家の紋章を模った偽造印章であると分かった。

 貴族、とりわけ侯爵五家ともなれば、印章の外見にも強いこだわりを見せる。細工を施すだけでは飽き足らず、金箔を貼ったり軸に宝石を埋め込む者までいるのだ。

 偽の印章を握り締め、リオネルは先生を睨みつけた。

 

「一人目の暗殺者が死んだ時、ナルディルの封蝋の押された手紙を、ボルトラン先生の懐から出て来るのを見ました。それまで僅かに生きていた暗殺者が急死したのを見て、私はずっとあなたを疑っていた。先生が口封じのために暗殺者を殺したのではないかと思ったのです」

 

 リオネルの手にある偽造印章を見て、先生はさっと顔色を変えた。

 

「昨日の夕食後に、ペイルから相談を受けて疑念が確信に変わったんです。彼はあなたが民衆に武器を与え、蜂起を扇動した事実を知っていた。それを聞いてアジトと思われる場所を捜索するために、二人で屋敷を抜け出しました。その結果がこの偽造印章です」

 

 リオネルの話に私は驚きを隠せなかった。

 

「先生がモリスからの指示で、エスレ男爵領の武装蜂起を促したという事か、リオネル」

「恐らくそうだと思います。我々に内部分裂を起こさせ、更にひとつひとつ潰していけば、反体制側は勝利したも同然です」

 

 全てが繋がった。暗殺者も、先生も、エスレ男爵領の蜂起も、モリスの魂胆も。

 王を支配して国を操ろうとしたモリス侯爵。そんな男に魂まで売ったボルトラン先生。そのために引き起こされた災厄と犠牲を思い、計り知れない怒りと虚しさが私を覆い尽くした。

 

「先生。印章の偽造は死罪に問われるのを御存知ですよね。ユーグレオル侯爵の机を調べれば、偽の手紙も見つかるでしょう。もう言い逃れは出来ません」

 

 私の言葉に、先生は印章を憎憎しげに睨みつけた。

 次の瞬間、止める間もなく先生はリオネルに飛び掛かった。突き倒して腕を押さえ、印章を奪おうとする。

 

「……寄越せ。それを寄越せ!」

 

 倒れたはずみでリオネルの手から印章が離れた。直前に私の方へ投げようとしたのか、印章は開いたままの窓から外に向かって放物線を描く。

 

「印章が!」

 

 すでに印章の事しか頭には無かったのか、先生は立ち上がり必死にそれを拾おうとした。

 窓から身を乗り出して、落ちていく印章を握り締めるとそのまま振り返り、恐ろしいまでに邪悪な笑みを見せる。

 

「私の勝ちですね、お二方。証拠さえ無ければ、誰も私を追求出来ない!」

「先生、手に握ってるものをよく見なよ。それ……印章じゃないよ」

 

 リオネルの言葉に先生は驚き、右手を開いた。彼が懸命に握り締めていたのはただの石ころだ。リオネルは未だ持っていた本物を見せ付けると、それを窓の外へ放り投げた。

 

「やめろ!」

 

 先生は咄嗟に受け取ろうと手を伸ばした。指先が印章に届く瞬間、彼の体は平衡を崩し、印章もろとも墜落していく。

 

「さよなら……先生。さよなら、ニナ」

 

 今にも泣き出しそうなリオネルの声が聞こえた気がして、私は顔をそむけ、窓の外に集まる警備兵たちの喧騒だけを耳に留めた。

 

 

 

 二階の窓から身を躍らせた先生は身投げとして処理された。

 先生の傍に落ちていた偽造印章と、ユーグレオル侯爵が受け取った封書が証拠とはなったが、先生が死亡したためにモリス侯爵の罪は問えず、先生の単独犯行として全てが闇に葬られた。

 モリス侯爵もこれ以上詮索されるのを嫌ったのか、それ以来鳴りを潜め、表立った行動は取らなくなった。

 

 夏も終わりに近付き、私とリオネルは侍女を伴って今年最後の川遊びをした。

 大空洞の下流にあたる小川には丸くすべすべした石がたくさんあり、綺麗な石を選んではいくつか持ち帰った。

 これまではニナも一緒に遊んでいたのに、今はもう彼女はいない。二人だけで遊ぶ川はただ、さらさらと思い出だけを流し去った。

 

「ねえ、カミオ様。俺、秋から士官学校に行くつもりなんです」

 

 川に石を投げながら、リオネルはそう呟いた。

 

「そうか。先生方も勧めていたな。お前なら向いてると思う」

 

 私の言葉に彼は嬉しそうに微笑んだ。

 こんな風に笑うのは、ニナが亡くなってから初めてだったかも知れない。

 ニナを失った傷痕は深く、あの日からユーグレオル家は灯火が消えたように静まり返った。侯爵夫人は病気がちになり、多くの医師が邸内に入るようになった。

 どれだけ警備を強化しても、邸内に人が多ければそれだけ危険は増す。リオネルはそういった問題を真摯に捉えているようだった。

 

「大切なものを護るには、やっぱり力が必要だと思ったんです。大人になった時、何も出来なかったら……後悔では済まないような気がして。それに……」

「それに?」

「王の傍に控えるなら、肩書きは必要ですから」

 

 現実的な答えに、私は思わず吹き出してしまった。

 子供らしくないと言ってしまえばそれまでだが、リオネルは理性的に物事を把握し思考する能力に長けている。その才能を眠らせておきたくないと考えた先生方が士官学校への入学を勧めるのも、理解出来るというものだ。

 私も最後に笑ったのはいつだったろうか。ニナがいた頃はいつでも笑っていられた。でもこれからはそうはいかない。私はもうすでに、王への道を歩みだしているからだ。

 

「大丈夫。寄宿舎には入りますが、冬の休みには帰って来れます。カミオ様の傍にはしばらくの間、ペイルが控える事になりますから、御安心を」

「ペイル……エスレ男爵の子か。彼は偶然にも私に似た容姿だったために、私の傍にいる事を強いられている気がする」

「……そうですね。父がどうしても彼を手放したがらないようです。エスレ男爵家の後ろ盾になるという話を受けてのようですが、これでは人質のようなものです」

 

 己の力だけではどうにもならない権謀術数の潮流を感じ、私とリオネルは座り込んで川を眺めた。

 背後から、侍女たちの呼ぶ声がする。

 

「そろそろ戻りましょうか。風邪をひくといけないですから」

 

 リオネルの言葉に私も立ち上がった。

 川は滔々と流れていく。幼年期の自分に別れを告げ、私は王への道を踏み出した。

七 ・ 終幕

 

 エレナスが王都を離れてすでに三年が経つ。

 遷都に際して大空洞を埋め立てるという話になった時、皇帝陛下に真剣な顔で廟の建設を語られ、私は何も口出しが出来なかった。

 

 一人の女のために巨大な廟を造るなど、正気の沙汰ではない。それは建設の全責任を請け負ったダルダン側もよく承知しているようだ。

 建設理由を戦没者の慰霊として表向きは事なきを得たが、臣民の頂点に立つ者として私情を挟むようでは、まだまだ甘い。長い付き合いになりそうだが、監督のし甲斐もあるというものだ。

 

 通常であれば数十年かかってもおかしくはない工事を十年以内に終わらせようというのだから、工期でも財政面でもかなりの無理がある。

 それでも十年と区切りをつけたのは、誰もがエレナスを気に掛けているからなのだろう。

 

 机から顔を上げて窓の外を眺めていると、不意に執務室の扉がノックされた。

 遠い記憶を辿っていたために、すっかりリオネルの訪問がある事を失念していたのだ。

 

「よく来たな、リオネル。婚礼の準備は進んでいるのか?」

 

 私の言葉にリオネルは驚いて、勢いよく扉を閉めた。普段は見られない慌てた様子に可笑しくなり、私はつい言葉を続けた。

 

「いい歳をした男が、自分の結婚くらいで狼狽えてどうする。相手方も侯爵位なのだから、別段何も問題はあるまい」

「それはそうですが……。ただ私は、主よりも先に家庭を持っても良いものかと思っただけです」

 

 リオネルがあまりにも真面目な顔で言うものだから、私は堪えきれず笑い出してしまった。この男はどこまでも生真面目だ。

 つまらない事を誰よりも真剣に考える癖がある分、こちらが気に掛けてやらなければならない時もある。面倒ではあるが、その手間さえリオネルの持ち味とも言える。

 

「お前に心配してもらわなくとも問題は無い。今は自身と花嫁の事だけを考えておけ」

 

 肩を落とし、俯いた時に卓上にあった青い紐を目に留めたのだろう。リオネルはそれを懐かしそうに見つめていた。

 

「まだお持ちだったのですね。この紐を」

 

 その言葉には何も返さず、私は気になっていた事をリオネルに訊いた。

 

「ところでペイルの墓所はどこだ? あれにはもう、遺族は誰もいなかったと記憶しているが」

「差し出がましいかとは存じましたが、当家の墓所に埋葬致しました。エスレ家の墓所は荒らされ、すでに跡形もなくなっておりましたので」

「そうか。お前には嫌な役ばかりをさせてしまっているな」

 

 そんな私の言葉にも、リオネルはただ微笑むだけだった。

 

「王を補佐するのが私の役目ですから。それは昔から何も変わりありません」

「私はもう王ではなくなった。侯爵五家も解体した今はもう……自由だ。リオネル」

「……そうですね。最早カミオ様を狙う者はいない。モリスは獄死、ナルディルとエレディアは廃絶。シエドも嫡子が相続してからすっかりおとなしくなりました」

「侯爵五家などという過去の遺物にこだわっても、何の意味も持たない。時代は流れていくだけだ」

 

 部屋の空気を重く感じ、私は立ち上がって窓を開けた。

 夏の朝露がはらはらと葉からこぼれ落ち、涼やかな風を送り込んで来る。

 

「私は一度レニレウスに戻ろうと思う。ペイルと……ニナの墓参りに行かなくてはな」

「お供致します」

 

 間髪入れず返すリオネルを私は振り返った。

 

「いいや。一人で戻る。供をつければ問題あるまい。お前は花嫁の傍にいてやれ」

 

 戸惑うリオネルをからかうのは存外面白かったが、私自身の正直な気持ちでもあった。

 これまでの半生は、死んだ者たちのために生きてきたのかも知れない。これからは生きている者たちのために生きるべきだろう。

 

「これからは主従ではなく、友として過ごす時代になるんだろうな。兄上」

 

 私の呟きが耳に届かなかったのか、リオネルは不思議そうな顔をしたが、私はただ笑ってそれを誤魔化した。

 もうすぐ夏も終わる。妹たちの顔を思い出しながら、私はそっと窓を閉めた。


 
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