No.636172

奇跡と輝石の代行者 五章

今生康宏さん

これにて終了になります
序章がこの最終章と繋がっているという構造からして丸分かりなのですが、珍しくこの小説はクライマックスの想定が最初にあり、そこから書き始めていました
大抵の場合、書きながら先をその場その場で考え、適当に調整をしつつ書き上げているのですが、クライマックスにいかにして持っていくか、と考えながら書いていると大きな外し方をしない分、無難な出来になってしまったような気がします(選考でもそこを指摘されました)

2013-11-11 22:50:06 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:295   閲覧ユーザー数:295

五章 紅玉の彩光 ~ Overed Ruby

 

 

 

 長い回想はまもなく終わり、現代へと戻って来る。

 

 

 

 奇妙――いや、順当な静寂が広がっていて、大神殿の中であるかのような錯覚を覚えたが、ここは街中である。すぐに聴覚は戻り、街のざわめきが耳に打ち付けられた。

 俺にはついさっき……いや、正しくは数分後に起きた出来事が、一体なんなのかわからないが、その怪現象――奇跡を起こしたのが誰であるのかは、深く考えるまでもなくわかった。俺の腕を強く。本当に強く掴み、俺の体温を肌で感じることで、生きていることを確認してくれている少女だ。思わずその宝石の無事を確認したがるが、彼女がこうして動いている以上、無事ということだ。

「紅凪、今のは……」

「神様がもしもいるのなら、感謝をしないといけませんね」

「ああ、そうだな。……ありがとう」

「メイドとして、当然のことをしたまでです」

 その言葉が心から出たものだとは、思えなかった。紅凪は真面目で、同時に聡明な娘だ。俺が守るべき対象であり、自分に守るだけの力があるのであれば、迷わずそれを行使する。それも限りなく賢く。

 だが、自己犠牲にも直結するこの救出劇は、使命感だけでは実行出来ない。最初の一度ならともかく、今度は二回に一度は死神に魂を奪われる危険な賭けだ。……それなのに、紅凪には一切の躊躇がなかった。

 こんな状況なのに俺は、小躍りしたいほどに嬉しかった。俺にとっての紅凪が、ただのメイド、ただの友人以上の存在であるのと同じように、彼女の中でも俺は特別な存在になっている。

 そう思うと、たまらなく嬉しくなって、恐ろしくなった。

 彼女は今日、俺の前から消えてしまうのではないかと。

 泡になって消える人魚姫のように。あるいは月へと昇って帰るかぐや姫のように。

 物語のヒロインは、全てがそうとは言わずとも、悲劇的な結末を迎えることにより、その物語を終わりへと導く。俺の物語――人生のヒロインである紅凪が、健在のままで一つの物語が終わるとは誰も保障出来ない。俺自身はもちろんのこと、誰にだって。兄貴にだって。

 

 嫌な予感が、していた。

 凱旋とは、往々にして晴れやかな気持ちで行われるものだと、俺は信じている。

 もちろん、現在に戦争がない以上、凱旋だなんて戦争用語は安易に用いない方が賢明であり、現代に当てはめても、その当てはめが上手くいくはずがない。

 よって、俺は二回も微妙な気持ちのまま凱旋することになった。一度目は、あの瑠璃の紳士を救えなかった日の凱旋。二度目は、今回の何の収穫も得られなかった凱旋。いずれにせよ、惨め……とまではいかないが、すっきりとしない、嫌な気分でロンドンの土を踏むことになってしまった。

「とりあえず、兄貴に報告するか」

 携帯で愚痴にも似た連絡は何度かしていたが、面と向かって「無茶な仕事をさせるな」と抗議してやる必要があるだろう。すっかり歩き慣れた駅と店までの道を小走りに行き、扉を開く。報告は紅凪と一緒にするのが慣例となっている。と言うか、今までは俺じゃなくて紅凪がしてくれていた。まだまだその世界に詳しくなかったし。

 そんな俺だが、あの休みの期間で宝石についての勉強をしっかりと出来たし、レオノラやアドリアさんとの出会いも大きなプラスとなった。どちらも強烈な個性と影を抱えていたが、そんな極端な例を見る中で「彼女達」というものを知れたと思う。……と、偉そうなことを言っていても、今回の仕事には役立たず、何の成果も挙げられなかったので、兄貴にその証明は出来ないんだよな。悔し過ぎることに。

「靖直。今帰ったか」

「ああ、めちゃくちゃ帰ったぜ。無駄に疲れて、無駄に時間をかけて」

「ははっ。何事も経験だよ。私だって幾度となく空振りをして、幾度となく辛酸を舐め続けてきた。……いや、今もか。靖直、報告もそこそこのところで申し訳ないが、緊急の仕事だ。早速、出てはもらえないかな」

「えっ」

 驚くと同時に、全力で嫌そうな顔をしてやる。俺も紅凪も、見ての通り疲れて帰って来ている。紅凪は表立って疲れなんて見せていないが、それはあくまで表面上のものであるのは明らかで、彼女にも休息が必要だ。そして、何よりも俺にも。俺にこそ。

「わかっている。しかし、冗談を言ってもいられない状況なのだよ。……すまない、青羽。私は少し増援を用意する。君が説明しておいてくれないか?」

「畏まりました。ご主人様」

 何かを言いかけたと思うと、いきなりそれをぶつ切りにして席を立つ。いつものこの人らしくない行動だ。……つまり、信じられないことにこの男は、動揺している?“冗談を言ってもいられない状況”というやつに。

「靖直。気を付けるように」

 最後に兄貴が残した言葉は、俺には「葬式は盛大にしてやる」と言っているように聞こえた。フラグ建設の腕前は、多分この人の方が優れている。そんな確信をたった今、抱いた。

「先輩。良嗣さまは、何をあそこまで?」

 長い青髪に、真面目そうな印象を与えるシャープな眼鏡、いかにも有能そうな秘書、といった容姿のメイドさんは、後輩の言葉を待っていた訳ではないのだろうが、口を開いた。

「お二人は、丁度一週間前の朝、この店を出るレオノラの姿を見ていたことかと思います」

「は、はい。これから仕事だって、酷く急いだ様子で」

「そのレオノラが、未だ戻りません。ご存知のことだと思いますが、彼女は最も戦いの力に優れたメイドであり、だからこそ今回の仕事を頼んだのですが、彼女が連絡一つ寄越さずに、何事もなければ一日で済んでしまう仕事に出て行ったきりでいる。……こんなことは、未だかつて一度もありませんでした」

「レオノラが……!?」

 信じがたい、と言うには俺は彼女を知らな過ぎる。それでも、紅凪が顔を青くし、青羽さんの深刻そうな表情が崩れないことを見ると、ただ事ではない、何か大きな出来事が起きているのだと、嫌でも理解させられた。それに、単純にレオノラのことを心配する気持ちもある。その力がどうであれ、あの娘はほんの幼い少女のような姿をしているんだし、影の面を除けば無邪気で素直な、子どもそのものの人格を持っていた。まるで妹のように感じていた部分も、ある程度はある。

「レオノラの請けた仕事とは、ある宝石を破壊することでした。彼女が最もよく請け負う、魔物型の宝石の破壊の仕事です。ただ、その相手が少し特殊であり、それゆえに彼女は未だに戻って来ていないのだと考えられます」

「どのような相手なのですか?」

「紅凪、あなたと靖直様の追っていた宝石の失踪事件、それと関連の深い相手ですよ。実はあなた達の休暇の最終日、あの日には既にこの街でも、いくつかの宝石が失われる事件が起きていました。幸いにもこの店の物は被害に遭っていませんが、良嗣様のところにはいくつかの報告があり、調べ上げたところ、レオノラの追った相手が主犯格であろうことが判明したのです」

「……宝石が、宝石を壊して回っていたのか」

 そう珍しくない事例だとはわかっている。俺は紅凪を破壊しようとしたあの黒曜石の魔物を見たし、レオノラも捨てられた宝石が同族とも言える宝石に壊されると、そう教えてくれた。それでも、この手の話には違和感と、やり場のない憤りのようなものを禁じ得ない。殺人やカニバリズムが許されているかのような、そんな奇妙な感じがこの怒りの源なのか?――だが、そんな俺の倫理観はあくまで人間によって植え付けられたもので、それに縛られない宝石達は、人よりも生物らしく生きているのかもしれないが。

「あくまで予想の範疇でしかありませんが、その宝石が通る場所からことごとく宝石が失われていたのは事実です。また、あまりにその事件は多発しているため、単独犯ではないと判断、この街以外で最新の事件が起きた場所へと、靖直様達が派遣された訳です」

「なるほど。だが、俺の方は空振りだった。相手はやっぱり単独犯だったのか、共犯者は他の場所、それかこの街に潜んでいるのか……」

「それ等の可能性を考慮した上で、良嗣様は靖直様にも手伝っていただきたいと、そう仰られたのです。協力を、してくださいますか?」

「断る理由はないですよ。俺に何が出来るかはわからないけど、このままじっとしていても、心配で気持ち良く眠れないと思いますから」

 行動の動機は不安と恐ろしさ。どちらもマイナスの感情だ。それが必ずしも消極的な結果を生み出すかと言えば、少なくとも俺にとってはそうではないのだろう。ついさっきまで疲れていたのに、もういても立ってもいられなくなってしまった。行動力が泉のように湧き出す。どこへ向かえば良いのかすらわからない、恐ろしく無責任な行動力ではあるのだが。

「わたしも当然、靖直さまと共に行きます。下手に一箇所に固まっているのは危険ですし、レオノラ先輩に限って心配はないと思いますが、一応、建前上は探しておかないと怒られそうですし……」

「あ、紅凪?」

 この娘は、また息をつくように毒舌を。

「冗談です。もちろん。青羽先輩、相手の行動パターンなどはわかっているのですか?」

 嘘を言って本心を隠そうとするということは、少なからずレオノラのことが心配なんだろうな。俺だってそうだ。相手が全くの未知の人物なのだから、あらゆる可能性が考えられる。決して望ましくはない可能性すらも。

「もちろん。既に良嗣様との話し合いで、誰がどこを見回るのかも決めています」

「……はぁ、用意周到って訳だ。兄貴のやつ、絶対に俺が乗ってくるってわかってたな」

 俺はあの人の弟で、腐ってもあの人は俺の兄なのだから、それも当然のことか。俺もなんとなく兄貴がやろうとすること、考えているであろうことはわかる。最近になってやっとよく話すようになったのに、不思議なことに生まれてからずっと見つめて来たかのように、わかってしまうのだった。

 地図に示された俺達の向かうべき場所は、奇しくも二週間ほど前、レオノラと初めて歩いた通りだった。ここが怪しいポイントだとすれば、もしかすると俺達は、あの時点で既に目を付けられていたのか?――冗談じゃない。鈍感な俺でもさすがにぞっとする話だぞ、それは。

「相手は宝石の回収ではなく、破壊を目的としています。そんな相手なのですから、会話の余地もなく襲われる可能性が非常に高いと予想出来ます。……良嗣様は、相手を破壊してしまっても良いと、そう仰っていますので」

「ああ。元より俺もそのつもりですよ」

 レオノラの言っていたことが思い起こされる。業を背負って生き続けることを、受け入れなければならない、そう言った彼女はもしかするとあの時、疲れていたのかもしれない。

「じゃあ、行って来ます」

「お気を付けて」

「先輩も、良嗣さまと一緒にどうかご無事で」

「ええ。私の実力は紅凪もよく知っているでしょう?レオノラほどではありませんが、大丈夫ですよ」

 我が妹に話しかけるように言う青羽さんは、笑っているように見えた。本当に薄く、上品過ぎる微笑だったが、いつもは感情を見受けられないほどに引き締められた顔が、今だけは優しい色を帯びていた。

 青羽さんがこんな風に笑ったのは、もう再会が叶わないという予感があったからなのだろうか。

 まだ俺が仕事を始めて、ひと月と経っていない。実に信じがたいことだが。

 そんな風に感じるのはあまりにも日々が濃密過ぎたし、交流を持っているのも兄貴を除けば宝石の美少女達ばかり。現実離れした日々は、時間の感覚をおかしくしてしまうのだろう。夜に見る夢は、実際には長い時間をかけて見ているのに、一瞬の内のことだと錯覚してしまうのと同じように。

 しかし、そんなフィクションめいた日々からは、得てして現実的なことは失われ、自分が生きている時代がいくらか昔に戻ってしまったかのように錯覚してしまう。俺の生きる社会には機械がはびこり、科学がもてはやされているのが実情なのに、魔法こそがこの世の支配的な力のように思われて仕方がない。だから俺は、忘れていた。――この世界は、自己防衛のために銃を撃つのが普通、という狂った共通認識を持っているということを。

 そして、それゆえに多種多様な銃器を、合法的に、堂々と購入することもまた可能であるということを。

「これが、相手の写真か……」

 俺と紅凪が店を出た直後、携帯に兄貴からのメールが来た。本文はないが、一枚の画像データが添付されている。開いてみると、横顔であるものの女性の顔を捉えた写真であり、その傍らには適当な画像編集ソフトを使ってマウス書きしたのだろう。「Synthetic diamond」ときったならしい赤字で書かれている。

 この言葉を訳せば、合成ダイヤモンド。百年以上前に作られ、しかし未だにそれほどありがたがられることはなく、依然として天然のダイヤモンドや、その他の宝石の二歩三歩後ろを歩く、ちょっと哀れな宝石のことだ。

「合成ダイヤモンド、ですか。しかし、髪の色は赤、ですね。ダイヤモンドはこんな色をしていませんし、わざわざ着色をしたものなのでしょうか」

「ちょっと変だな。でも、相手がまがりなりにもダイヤなら、レオノラが勝てないのも道理、なのか?オパールとダイヤじゃ、硬度が十倍も違う。その差をひっくり返すのは、やっぱり難しいんだろ?」

「いえ……先輩は今までに格上の宝石をいくらでも退治して来たはずです。ご存知の通り、強い力で圧力を加えることが出来れば、破壊はそこまで困難なことではありませんし、先輩は腕力、握力共に無双のものだと聞きます。普通なら勝てるはずなんですよ」

 なのに、決着は付いていない。あるいは、レオノラが敗走することになってしまった。この女性はそこまでに危険な力を持っているのか?

 まるで敵がディスプレイの中にいるかのように、それを凝視しながら歩く。仮にもこの街には宝石限定の殺人鬼(ジャック)がいて、今も虎視眈々と紅凪を狙っているのかもしれないのに、これは明らかに軽率なことだった。……いや、もしかすると無意識の内に警戒はしていたのか。それゆえに、自分自身の警戒を怠っていたのか。

 昼間は閉まっている酒場の前を通過した瞬間、視界の端に黒い何かが映ったかと思ったら、俺の身体は地面に叩き付けられていた。それを驚くほど冷静に見つめる自分の精神があって、紅凪が悲鳴を上げた意味が、なぜかわからなかった。その理由は、もしかすると俺の命は既になかったからなのかもしれない。

 その直後、目の前が真っ赤に染まったのは、俺の身体が噴いた血液のせいだったのか、紅凪の宝石が放った光のためだったのか。俺には判断が付かず、ただぼんやりとその赤い暗闇を見つめていて、意識がやっとはっきりしたのは、腕に優しい柔らかさを感じるようになってからだった。

 

 現在の場所は、宝石店の前か。つまり、青羽さんとの話が終わった直後にまで戻って来たことになる。

 やっと今の状況の整理が付いた俺の頭は、タイムパラドックスという言葉ばかり繰り返していた。いきなり自分がタイムスリップ小説の主人公の仲間入りを果たしてしまうとは。全然、その手の話については詳しくないぞ。

「とりあえず、あんまりさっきと違う行動を取る訳にはいかないと思うんだ。確か、小さな行動の違いが未来をめちゃくちゃにしてしまう、っていうのがあったはずだ。カキフライ・エフェクトとかなんとか言ったか」

「そうなのですか?えらく美味しそうな現象の名前ですが」

「ああ。でも、狙撃されているとわかってて、あの通りに行く訳にもな……」

 俺はさっき。いや、この少し後、建物の上かどこかにいた狙撃手に、銃で撃たれたのだろう。即死っぽかったので心臓か頭を持って行かれたのに違いない。どうして紅凪ではなく俺が狙われたのかはわからないが、主人らしき人間である俺を殺し、彼女が混乱している内に、彼女も壊してしまう算段だったのだろうか。

 理由はともあれ、もう一度死ぬ訳にはいかない。どういう訳か人生にあってしまったリセットボタンは、紅凪の命の危機と引き換えでのみ、押すことが出来るのだから。

「急いで行って、狙撃手をなんとかする。で、同時刻にあの通りを歩けば大丈夫、なのか?」

「わ、わたしに聞かないでくださいよ。とりあえず時間を戻してはみたものの、自分でもよくわからないんですからっ」

 それもそうか。彼女は俺が助かることだけを一心に願い、こんなすさまじい奇跡を起こしてしまった。一番混乱しているのは彼女自身に違いない。なら、責任を持って俺が考える必要がある。それも迅速に――と気を引き締めたところで、そんな意志をぶち砕いてくれる出来事が起きた。

 タイム・パラドックスの回避出来ない時間移動なんて、あるはずもないよな。わかっていた。

「紅凪、ナオくん!」

 世界広しといえど、俺をそんなあだ名で呼ぶ女の子は一人しかいない。元気で無邪気なメイドは、驚くべきことにけろっとした顔で俺達の目の前に現れた。服はどこも破れていないし、ということは体にも傷は見当たらない。全くの無傷。まるで戦いに勝って戻って来た英雄のようだ。

「レオノラ。お前、無事だったのか?」

「ふっふっふっ。ということは、死亡説が流れちゃったりしちゃってたのかな。でも、逆だよ。ばっちり勝って来てしまいました。……えーと、百回ぐらい」

「ど、どういうことですか?」

「いくらぶちのめしても、あたしには相手の本体を壊せなかったからね。とりあえず、向こうが諦めてくれるまで戦闘不能にさせてたんだけど、全く埒があかなくって。しゃーないから、そろそろ帰ってると思うナオくんに、ばさーっとやってもらおうと思って来たんだよ」

 この娘はまた、さらりとすごいことを……。俺の心配していたことが、全くの杞憂じゃないか。いや、彼女が無事だったのはもっと喜ぶべきことなんだが。

「相手はやっぱり、合成ダイヤモンドなんですね?」

「うん。それも、あたし達みたいに本体を装飾品の形で持ってるんじゃなくて、なんて言うのかな。原石ともまた違うんだけど、本体が体の一部になってる、みたいな?だから恐ろしく頑丈で、ぶん殴って壊そうにも、剣みたいになってるから、自分の腕の方がちょん切れちゃったんだよね。で、もちろん能力の方も効かない訳で。“斬撃剥離”の名折れも良いトコだよね。情けない」

「ざんげ……なんだって?」

「“斬撃剥離”とは、レオノラ先輩の能力を象徴する二つ名のようなものですね。つまり、斬って切り離す。斬れないものなんてない、ということなのですが」

「オパールの悲しい宿命かな、自分より上位の硬度を持つ宝石だけは、絶対に無理なんだよね。しかも、それが結構多い。だから能力に頼らないでぶっ壊したいんだけどなぁ」

 そうしたら、自分の手の方が傷付いてしまった、ということか。今は特に怪我をしているように見えないが、もう治ったのだろう。

「とりあえず、俺の剣ならやれそうなんだな?なら、すぐに行こう。……あ、でもその前に、相手は自分の能力の他に、人間の武器を使ってたりしないのか?たとえば、銃とか」

「銃?あー、あの娘の主人っぽい男の人なら使ってたよ。けど、なんで?」

「……そうか。そいつは今、どこにいるかわかるか?」

 俺を一度殺したのは、その合成ダイヤモンドの主人。勝手な予想だが、その造物主ってところか。個人的にはそっちの方をぶちのめしてやりたいところだが、この手の法に出来ない裁きは兄貴に任せるしかないな。

「あの娘と合流したと思うよ。なんかあたしが逃げた方向に、その男の人が隠れていたみたいでね。挟み撃ちにしてあたしを壊そうとしたんだけど、宝石より銃弾の方がずっと斬りやすい訳で、ほとんど支障は来さなかったよ。今は向こうも作戦会議中じゃないかな。叩くなら今だよ」

「そうか、ありがとう。よし、紅凪。行くぞ」

「はい!……先輩、ゆっくり休んでくださいね」

「それは後でね。二人だけじゃちょっと心配だし、良嗣くんに言って、増援を寄越してもらうよ。で、その後はあたしも行くから」

「そ、そんな。無茶し過ぎですよ」

「ううん。大丈夫。こう見えて、頑丈に出来てるからね。ルビーにはずっと負けるけど」

 冗談を言って店へと向かうレオノラには、確かに疲れの欠片も見えない。が、ドアノブに手をかけた瞬間、その体が崩れ落ちた。慌てて駆け寄ろうとするが、自分の体を支える力すら失くした彼女は、そのまま地面にへたり込んでしまう。

「レオノラ!」

「先輩!」

「あ、あれ。おかしいな。もう充電切れなんて、ちょっと早過ぎるんだけど……」

「一週間も休まずに戦い続けていたんだろ?そんなの、倒れて当たり前だ。もう、後は俺達に任せて休んでいてくれ。お願いだ」

「ううん。ナオくんと紅凪がこれから頑張ろうっていうのに、あたしが休んでる訳にはいかないよ。……お姉さんなんだから」

 顔色は真っ青なのに、気丈にレオノラは笑ってみせた。いつもと変わらない無邪気な笑みのようで、しかしそれでもやっぱり、無理をしているのがわかってしまう。唇が震え、目の端にも涙の雫が見えた。

「先輩。そこまで無理をしなくても、先輩は立派で、尊敬できるわたしの先輩ですよ」

 そんな震える少女の体を、紅凪が抱き上げた。自らの柔らかい体をゆりかごにするように、先輩メイドを包み込む。

「お姉さんとは、必ずしも妹の規範となり、妹を守らないといけないものじゃないですよ。時には、妹を頼ってくれて良いんです。妹のことを、認めてくれるのなら」

「けど、紅凪……」

「レオノラお姉ちゃん。後は、わたし達に任せてください。お姉ちゃんの頑張りを無駄にすることは、絶対にありませんから」

「……はぁ、そっか。なら、お願いしよっかな。頑張ってね、紅凪、ナオくん」

 言葉が言い終わるか終わらないかの内に、正に充電が切れるようにレオノラの活動が停止した。紅凪も、突然重みを増した姉の体を支えきれずに取り落としてしまいそうになったが、全身を使って懸命に受け止める。ぴくりとも動かない彼女は、生気のないロボットのようですらあった。

「紅凪。レオノラを店に連れ帰ってあげてくれ。それで、応援と一緒に追い付いて来てくれ」

「……一人で、大丈夫ですか?」

「もたもたしてると、逃がしかねない。大丈夫とか大丈夫じゃないとかそういう問題の前に、やらないといけないことだからな」

「無駄に男らしいセリフですね。けど、わたしが着いた時に死んじゃってたら、泣いてあげませんよ。あーあ、馬鹿なご主人さまだなぁ、って笑っておしまいです」

「良いぜ。でも、代わりに生きてたら、お前は俺の嫁な」

「うわっ、こんな時まで最悪に気持ち悪いですよ、それ。自覚あります?」

「ああ、あるよ」

「なお悪いんですが」

 こんな時だからこそ言いたくなる軽口だ。それに、決して嘘じゃない。まだ真剣には言えないが、いつか言うためにも、俺はまだまだ生きないとな。ついさっき。いや、今とほぼ同時刻に一度助けてもらったので、大見得を切って言い放つことは出来ないが。

「じゃあ――」

「はい。生きてくださいね。ご主人さま」

「ほう。逃げた子猫が戻って来たかと思えば、誰かね、君は」

「さあな。あんたに名乗る名前は持ち合わせてねーよ」

「それは奇遇だ。私の高貴なる名前は、貴様のような小僧に気安く名乗れるものではなくてね」

「聞いてて恥ずかしくなるほど、テンプレ通りのことしか言わないな。あんた」

 レオノラから詳しい場所を聞くことは出来なかったが、彼女が来た方向に向かって歩き、「それらしい」場所を探せばおのずとわかる。つまり、奥まった路地裏だ。いくらイカれた奴でも、人の目に付く場所で戦うことは出来ない。警察に通報されるような面倒なことにはなりたくないだろうし、単純に民間人を巻き込み、騒ぎを大きくはしたくないだろうからだ。

 さて、一応はこの事件の黒幕か。スーツを着込んだ金髪の男と、白い髪の女性が俺の目の前には立っていらっしゃった。女性の方は、やはり美しい。男もそれなりに小奇麗だが、人間と宝石の美しさは比べられるはずもない。だが、俺があの写真で見た人とは違うように思える。兄貴の情報の間違いだろうか。

「そこの女の子が、あんたのご自慢のダイヤモンドか?」

「私の至高の芸術品であり、娘であり、妻であり、天使だよ。そんな野暮な名前では呼ばないでもらいたいな。オレリー・マニュエルという素晴らしい名前を持っている」

 いちいち喋り方が気に障る奴だ。どこかの兄貴に似たタイプだな。

「じゃあ、オレリーさん。けど、娘とか奥さんとか呼ぶ子に、同族殺しをさせまくるってのは、ずいぶんと猟奇的な趣味なんじゃないか?マニュエルさん」

「同族殺しだと?……はっ、お前達兄弟は、奴等のことを人のように見ているのか。なるほど、天然石にこだわる連中とは、そのようなものなのかね。――全く、考えが古いにも程がある。お前には理解出来ないか?彼女の美しさが。真の天使の神聖なる美が!」

 その言葉に呼応し、女性が白の長髪をはためかせ、背中に備わった八枚の羽を広げた。銀――いや、透明の宝石で出来た羽だ。光の届きづらい路地の奥の奥なのに、わずかな光を石の中に閉じ込め、乱反射し、まるでそれ自体が発光しているように輝いている。これが、彼女の本体である宝石なのか?確かに、その一枚一枚が鋭利な剣のようで、その姿は間違いなく天使。ただし、自然物ではない。人間が無理矢理作り出したアンドロイドのような、人造の聖女だ。

「……すごいな。それは認めるよ。すさまじく美しいと思う」

「だろう?この美しさの前では、他のあらゆる宝石が霞む。最早、天然の宝石など不要。私が開発したダイヤのみがありがたがられるようになれば良い。そうお前も認めるだろう」

「はっ!そんな訳ないだろうが、このクソッタレ。その子のことは認めるが、世界中にその子と同じ姿の宝石が溢れるなんて、想像するだけで吐き気がする。あんた、そのありがたい天使様に惚れ込むのは良いが、世間と決定的にズレてるって気付いてないだろ。世の中には多様性ってやつが必要なんだよ。皆が奇麗で、皆が立派な世界なんて、考えたくもない」

 この際だから、とニート時代に考えていたことが次々と口をついて出て来る。俺はつい最近までニートだった。社会の最底辺。いや、社会にすれ入れていない、何の価値もなく、ただ時間と金を浪費しているだけの生き物だった。だが、それでも考えることだけは放棄しないでいたつもりだ。

 加速度的に腐敗していく政治、迷走を続ける世界経済、徹底された愚民教育と、それに違和感の一つも覚えない、本当の愚民達。そんな奴等が大嫌いで、いつもそいつ等に心の中やネットの上で不満を漏らし、俺だけは違う。そう主張して来た。

 底辺だからこそ見える、底辺だからこそ考えられることを信じて、見た目だけの成功者を批判し続けて来た。そして、なんとか社会に出て来た今でも、それをやめるつもりはない。

「確かにあんたは偉大な研究者だろうな。そのダイヤはすごいよ。俺だって欲しい。でも、その子が立派なのは外見だけだ。人の手で作り出されて、あんたの偏愛だけを受けて人の姿を得たその子は、紅凪達とは違う」

「私に説教か?何が違うと言うのだ。あのような石ころどもと」

「一応、前もって言っておくけど、笑うなよ。――愛だ。その子は、あんたのことは愛するだろうな。怖くなるほどに。でも、他の人間や、他の宝石達を愛せるか?姉妹のように互いを支え合ったり、人間と喧嘩しながらでも、仲良く暮らしたりすることが出来るか?」

「馬鹿な。そのようなこと、必要ない。宝石は自身の主人のみを愛する妻であれば良い。他者などただの外敵だ。駆逐すれば良い」

「それだよ。細かいことはもうどうでも良い。あんたの持つ、他を全部ぶっ壊して、自分達だけがのさばろうとする、その精神が一番気に入らないんだ。この世界が、ほんのひと握りの天才だけで回っていると思うなよ。クソ野郎が」

 これだけ煽ったんだ。後はもう殴り合いしかない。ダイヤの剣を呼び出し、構える。仕事にはこなれたが、まだこいつを握った戦いなんて一度しか経験していない。それでなんとかなるか?

「それが天然ダイヤの剣か。なんとお粗末な。私のオレリーの羽一枚にも劣るぞ!」

「慎ましやかで良いだろうが。お前、日本人の奥ゆかしさってやつを知らないな?」

 気に入らないとはいえ、女の子と戦うのはやっぱり気が引ける。それでも、彼女を壊すことは俺にしか出来ない。一気に踏み込み、背中の羽の他には武器を持たない女性に斬りかかった。羽で受けに来るかと思ったが、彼女の体が一瞬ぶれると、シルエットがぼやけ、別の形へと変化する。それは――紅凪そっくりの姿だった。

 赤い髪、赤い瞳。低めの身長に柔らかな肢体、いつか見た中性的な私服。その全てが俺のよく知る少女のものであり、太刀筋が鈍る。いや、絶対に振り抜くことなんて出来ない。こいつが偽物だということはわかっているのに、だ!

「ほう、こいつが専属メイドらしいという調べは付いていたが、さては惚れていたな?ははは、オレリー、やれ。愛する者に殺されるが良い」

 木製の杖が現れ、それが炎に包まれる。彼女は、姿だけではなく能力まで真似ることが出来るのか。でも、相手が武器を持ってくれたのなら良い。とりあえず、こいつの武器を弾きながら時間を稼いで――いや、あの男のことを忘れるな。奴は既にライフルへの装弾を完了し、後は俺に照準を合わせ、引き金を引くだけの体勢になっている。

「くそ!ますますそのダイヤが欲しくなったぞこのクソッタレが!紅凪に色々したい放題じゃねぇか」

 剣を引っ込め、全力で距離を取る。この辺りは入り組んでいるから、適当に紛れてしまえば撃たれることはない。下手に発砲すれば、どう飛ぶか予測不可能な跳弾に、自分自身が苦しめられることになる。

 と思ったのだが、奴にはオレリーがいたか。俺に銃弾を斬るような真似は出来ないが、宝石には出来るんだろうな。レオノラもしていたみたいだし。だが、俺はそんな無謀な真似に挑戦する気はない。逃げ回って時間を稼ぐ選択をするしか出来なかった。なんとも情けない話だが、もう情けないのになんて慣れた。今本当に情けないのは、紅凪が来るまで持ちこたえられないことだ。

 がむしゃらに逃げて、後ろで弾ける弾丸に肝を冷やし、なんとか相手の裏にまで回れないかと試みる。あいつ自身を斬る訳にはいかないが、銃さえ壊してしまえば、オレリーだけに集中出来る。が、相手もかなり激しく動きながら撃っているようで、回り込めそうにはない。だからと言って、路地裏から逃げ出すのも危険だ。今の奴なら、民間人がいる中でも銃をぶっ放して、死傷者を出させるかもしれない。あの天使さえいれば逃げられることだろうし。

『あれだけ大口を叩いておいて、逃げ回るだけか?……よし、じゃあ、今からオレリーと愛し合うとしようか。無論、この女の姿のままでな』

「は、はぁ!?」

『あまり幼いのは私の好みではないが、なるほど、よくよく見ると中々にそそる。お前はどうせ、まだこのオリジナルとは関係を持っていないのだろう?なんなら、お前に見せてあげても良いぞ。予備知識ぐらいあった方が良いだろうからな』

「ふざけるなよ。このハレンチ男が。俺の紅凪に手を出して良いのは俺だけだ、いくつか知らないが、オッサンはすっ込んでろ!」

 挑発なのはわかっている。だからわざと右や左を向いて言い返して、こちらの場所を特定出来ないようにするが、果たして効果があるのか。そして、本当に奴が紅凪の姿をしたあの子に手を出すなら、俺は理性を保っていられないぞ。

「ふむ、来ないか。では、二人きりでことに及ぶとしよう。ふふっ、おお、服の下はこのように……」

「死ねやオッサン!」

 大好きな子そっくりの女の子が酷い目に遭わされるなんて、黙っていられる訳がないだろうが!後ろに向けて走り出し、角から剣を思い切り投げ付ける。このダイヤの指輪と剣は、四メートルほどまで離れることが出来るとわかっている。つまり、その距離までなら投げても届くということだ。正直、男に当たってくれても良いという気持ちで投げたが、ロクに相手を見ないで当たるはずもないか。それか、想像以上に相手が遠くにいて、届く前に剣が消えてしまったか。

 ともかく、剣を再び出現させて走る――はずだったが、気付くと俺はコンクリートの地面に転がっていた。理由は、今度はわかる。右足の腿を銃弾が貫通した。そのまま足が吹き飛ばなかったのは跳弾だったからなのか、俺の足が意外と鍛えられていて、頑丈だったからなのか。

「驚くほどわかりやすいな、君は。私がこうしてスナイパーライフルを得物として使う以上、ある程度は跳弾の反射角まで予想して、相手に当てる技術を持っているかもしれない、とは考えなかったのかね?」

「は、ははっ。大した腕だな。本当っ、天才ってのは不公平だよ」

「君のような、本当にただの少年と出会うのは久し振りだな。だが、これで幕切れかと思うと残念だよ。かと言って、邪魔な人間を長く生かす趣味もないのでね――死ね」

 振り返り、剣を振り抜く。いや、いっそのこと、と投げる。やっぱり俺は弾を斬ることなんて出来そうにない。ならせめて、相討ちぐらいにはなって欲しい。そう思ったが、やっぱり無理だ。剣は見当違いの方向へと飛び、建物の壁に突き刺さった。そして銃弾は――俺に当たる直前で炎上し、風に吹き飛ばされた。一人の少女が建物の屋根から飛び降りたことで起きた風に。

「よく耐えてくれましたね。ご主人さま」

「来るのが遅過ぎるぞ、紅凪。後一歩で、お前のそっくりさんが楽しいことになるところだったんぞ」

「ええ?……あー、なるほど。最悪ですね。悪趣味にも程があります。死んで欲しいのですが、殺しても良いですか?」

「ああ、やっちまってくれ。俺の足もあいつにやられた」

「了解しました。死んでもらいますが、良いですね」

 杖を包む炎が、一気に強くなった気がする。コピーした相手の火力とは比べ物にならないほど燃え盛り、俺にまで熱さが伝わって来た。いや、真剣に火の粉がいくつか飛んで来ている。早く立ち上がって、遠いところで見ていろということか。

「ふむ、本人のお出ましか。オレリー、あのオパールの姿になれ」

 オパール――レオノラと考えて間違いないんだろうな。すぐにオレリーの身長は更に低くなり、髪は反対に伸びる。そして現れたのは、予想通りの金髪の幼い少女。兄貴のメイド中最強の使い手だ。

「先輩の戦いぶりすら見るのは初めてですが、良いでしょう。夢のカードというやつですね。わたしは間違っても先輩と戦うことなんて出来ませんから」

 杖から炎が飛び散り、空中に火の玉がいくつも浮遊する。紅凪の武器は何も杖だけではなく、それを介して操られる炎の全てが味方だ。どうやら、オレリーはそこまでコピーは出来なかったらしい。

 火の玉が一切の容赦なく、レオノラの体へと殺到する。いくつもの爆炎が舞い、直撃のように見えたが、その全ては相手の得物によって受け止められていた。鈍い銀色に輝く、巨大な鎌だ。レオノラの身長より高く、凶悪な刃は人間の首を四人くらいまとめてはねられそうなほど、大きく、鋭い。

「くそっ、俺も嫌な道でぶっ倒れたな……」

 路地裏の道は総じて狭いが、ここだけは人が三人は横に並べるほど広々としている。もしもこの道でなければ、あの大鎌を振り回すことは出来なかっただろう。

「本当、ロクなことをしませんね。わたしのご主人さまは」

「……ごめんなさい」

「でも、その尻拭いをするのもメイドというものです。……けど、さすがにわたしが相手をするのはきつそうなので、お願いしますね。アドリア先輩」

「えっ?」

 予想外の名前に驚いていると、紅凪と同じように上から一つの影が降りて来た。優雅に着地したその人は、その美しく豪奢なイメージ通りの、派手な装飾のされたふた振りのサーベルを手に持っていて、右手に持つのが赤色。左手側が緑色の刀身になっている。丁度瞳とは逆の色合いだ。

「これはこれは初めまして。初対面で不躾ですが、一曲ほど踊っていただけませんか?この私と」

 二本のサーベルを手に走り出したかと思うと、驚くべきスピードと鋭さで二刀の連続攻撃が繰り出される。オレリーの持つ幅広の大鎌はそれを完璧にいなすが、攻勢に転じることは完全に封じられており、それどころか少しずつ後退させられ、このままでは男まで戦闘に巻き込まれる。

「くっ、小僧一匹に時間をかけ過ぎたか。オレリー、街を破壊してしまっても構わん。決めろ」

「あら、レオノラさんと同じだけのポテンシャルを、その作り物が発揮出来るとは思えませんが、良いのですか?先に申しておきますが、私、他の子達と比べても並外れて頑丈ですのよ」

「し、知るかっ。石ころ風情が!」

 さすがに、あいつもアドリアさんのペースには巻き込まれざるを得ないのか。ちょっと爽快だが、どうやらオレリーは本当に奥の手らしいものを使うようだ。本当に大丈夫なのか……?

「靖直さま。とりあえず、ここは引きましょう。アドリア先輩の剣、あれはここだけの話、ほとんど斬れないのですが、防具としての性能は抜きん出ています。たとえ至近距離で大爆発が起きても平気ですよ」

「……そ、そうか。あの人も、きちんと人外しているんだな」

「ええ。わたしよりもずーっと」

 紅凪の肩を借り、立ち上がる。足の痛みは確かに酷いが、これぐらいならまだなんとかなりそうだ。まだやれる。防御だけならアドリアさんに任せれば良いだろうが、俺がこの剣で止めを刺さなければ、解決にはならない。あの主人の男の方も、諦めるようなことはないだろう。

「あら……。私はレオノラさん本人のものを受けたことがありますが、本当に劣化コピーも良いところですね。全く効きませんよ?」

 逃げる途中、後方で凄まじい爆発音がしたが、直後にそんなアドリアさんの楽しげな声が聞こえて来た。……本当に不死身だ、あの人。

「どうですか?」

「ああ……まだ痛むが、ギリギリ歩けそうだ。ありがとな」

「いえ。ほんの応急処置程度ですので、無理はしないでくださいね。弾が貫通しているのは幸いでしたが、血管をかなり正確に撃ち抜かれているので」

 細い路地まで退却し、包帯による応急処置を受ける。巻いたところから赤く滲んで行くのはちょっと怖かったが、紅凪に手当をしてもらえていると思うと、少し楽になった。

「紅凪さん、靖直様、処置は終わりましたか?」

「先輩。丁度です。首尾は?」

「もうまもなく、来ます。この通りなら、レオノラさんの姿をやめ、別の戦いやすい姿になることでしょう。確か、背中の羽が本体なのでしたね?」

「ああ。誰に聞いたんだ?」

「レオノラ先輩ですよ。わたしがお店に連れ帰ってすぐ、気が付かれたんです。それでアドリア先輩に、あのダイヤの本体のことと、先輩自身の能力のことを教えてくれたんですが、アドリア先輩は、ウチで最強の人の必殺技まで、本当に防げ切れるんですね……」

 改めてアドリアさんを見ると、まずその服装は全く乱れた様子がなく、当然ながら怪我もなし。土埃すらほとんどかぶらず、美しい彼女のままだ。

「あの大鎌は、実は電磁力によって連結された複数の刃から出来ていて、それを一度ばらし、再び結合させる。その際に発生するエネルギーが爆発を起こす。その威力は地表を剥離させるほど……という話ですが、全くそんな大災害は起きませんでした。相手の消耗もあるのでしょうが、素養が違いますね」

「もしかすると、完全再現すると体への負荷が大きいのかもしれないな。……っと、お出ましか!」

 曲がり角から、白い姿が飛び出してくる。あの男はどこかに隠れていて、今度はオレリー一人のようだ。その姿は変身を解いていて、最初の姿と同じ。つまり、背中には八枚のダイヤの羽があった。

「紅凪、アドリアさん。俺が戦う。勝負を付けるなら、今だ」

「ですが、足は……」

「なんとかなる。それに、ちょっと麻痺して来たんだ。逆に都合が良いぜ」

 症状的には、まずくなったのかもしれないが。

「では、私が後ろを守らせてもらいます。紅凪さんは、狙撃を警戒していてください」

「は、はい……」

 紅凪は心配そうだが、今は俺を信用してもらうしかない。怪我人、しかもずぶの素人にやらせるんだから、そりゃあ不安だろうけどな。

 だが、この路地は二人がすれ違うのがやっとの道幅。つまり、あまり大胆に動き回る戦いは出来ない。しかも、相手は硬質の羽のせいで動きが制限されている。下手に動けば左右の壁に羽が突き刺さり、致命的な隙を晒すことになるだろう。今なら、実力者をひっくり返すことだって出来るはずだ。

「紅凪。これが終わったら、また一緒に飯でも食べに行こうな」

「……そういう見え見えのこと言うの、やめてくれません?」

 苦笑が返って来たので、俺は対照的に今日一番の笑顔を見せてやる。――これで言うべきことは言った。後はやることをやるだけだ。

 一歩踏み出す。足の感覚が戻り、激痛が体全体を突き抜ける。が、二歩目を無理にでも踏み出す。血液が噴き出すのがわかる。くそっ、思ったより長持ちしなさそうだ。

「あなたは、どうして抗うのでしょう」

 抑揚のない、しかしはっきりとした哀れみか蔑みのような感情を含んだ声が発せられる。これが、オレリーの声か。

「あんた、喋れるんだな。ずっと無口だったから、戦うことしか出来ないのかと思ってた」

「……私とあなたは、会話をする必要がありませんから」

「俺は、殺されるだけの存在ってことか?」

 首肯。更に、右手にアドリアさんのものと同じ、赤い刀身を持ったサーベルが現れる。変身はしなくても、武器を取り出すことは出来るのか。更にサーベルをよくよく見ると、オリジナルよりも短くなったように見える。これを再現力不足と見ることも出来るが、こんな狭いところで長い武器を使用すると、あらぬところに引っかかる危険性がある。そのリスクを避けるため、最適化されていると考えるのが妥当だろう。機械的に動いているからこそ、ここまで機転が利くのか。

「悪いが――俺は、まだまだ死にたくないからな。女の子に手を上げるはものすごく気が引けるが、紅凪に化けて弄んでくれたお礼だ。言っておくが、今度は紅凪の姿になっても、そのまま斬るぞ。よくよく考えれば、日ごろの恨みを晴らす絶好の機会だからな」

「はったりであると断定します」

「へぇ?」

「今までのあなたの行動は、あまりにも他人に強く依存している。一人で行動しているようで、必ずその裏には仲間の助けを求める心がある。違いますか?私からすれば無茶で無意味な特攻をしかけたのも、実は自身ではその危険性を把握していて、しかし、そろそろ助けが来るのでは、と当てにしていた節がある。違いますか?」

「さ、さあな」

 はっきり言って、図星だった。

 いや、言われてみるまでは気付かなかったのだが、そう指摘されてみると、俺は紅凪の助けを強く望んでいた。時間稼ぎなので当たり前と言えば当たり前の行動だ。でも、本当に時間稼ぎのことだけを考えるならば、何一つとして軽率な行動を取ることはしない、できないはずだ。――相手の挑発に乗るなんて、絶対にあり得ない。

「私はあなたとその後ろにいる石を破壊します。最も効率的にその目的を果たすため、一般的な人間の倫理や道徳には反すること――直情的なあなたにとっては、嫌悪と憎悪の対象でしかないことをしますが、了承を。どの道、死に逝く者には関係ないことであると、私自身は考えておりますが」

「わかったよ。……でも、その目的や自分の考えは、あいつに与えられたもんなんだろ?悪いが、そんなやつにやられるつもりはないからな」

「あなたもそう大きくは違わないと思います。私には精神論なるものがよくわかりませんが、環境が同一であるならば、同じような感情を持つものなのでは?そして、条件が同じであれば宝石に人が敵う要素はないかと」

 俺も兄貴に言われた通りの仕事をしている、だからそこに主体性はなく、自分と変わらない……と。そう言いたいのか。

 機械的な彼女ならではの、鋭く見える指摘だが、俺は決してそうじゃないと言い切れる。もしも俺が兄貴の操り人形なら、ここまでどんくさいことをやって来ていない。もっと最適化された完璧な仕事をしただろう。たとえば、相手の挑発に乗らず、決して深追いはせず、果ては自分より圧倒的に強い相手にタイマンを張ろうだなんて、絶対にしない。そのことは彼女自身が指摘していたのに、もう忘れてしまっているのか。即時的な演算能力は高くても、その結果を短期間保存するのは難しいみたいだな。俺は長期記憶が苦手なので、丁度その反対だ。

「確かに、俺も兄貴の仕事をやらされてるけど、それはイコール生きることじゃない。俺が生きているのはあんな男のためじゃなく、紅凪のためだ。それから、紅凪もまた憎からず思ってくれている俺のために、一緒に頑張ってくれている。別に君の仕事を与える相手と、愛する相手が同じであることを否定する訳じゃない。それでも良いと思う。けど、本当にあの男は君のことを大事に思ってくれているのか?その思いは、決して一方通行じゃないと、断言出来るのか?」

 これ以上、長々と話すのも無意味に思えた。ただ、まだ彼女が動き出さないので、少しだけ時間はある。そう判断して、俺は紅凪の手を握った。少し驚いた様子だったが、優しく握り返してくれる。紅凪のこの優しい想いが、あの人造の女性に伝わってくれれば嬉しいが、同時にそれは絶対に無理だと諦めてもいる。でも、たとえこれから彼女を砕かなければならないとしても、最期に少しだけでも気持ちが変わってくれれば嬉しい。

 それがただの偽善。自己満足のための行為であったとしても、何もしないよりは良いと。俺が出来る、ほんの少しの救済だと信じた。

「マスターは私を愛してくださっています。何百人という姉の死骸を積み上げた末に私が生まれ、マスターは涙を流して喜ばれました」

「もしも、妹が生まれたら、それでも“マスター”は君のことを愛してくれるか?」

 残酷な質問だと思った。俺は、こんなことを言おうとしているんじゃない。彼女を止めれるものなら止めて、紅凪達の仲間の一人として数えられるようにしてあげたいのに、なぜか彼女を傷付けていた。

 彼女の行いが許せないからなのかもしれない。確かに彼女が俺に似ていて、これは自虐心に近い気持ちから出て来た言葉なのかもしれない。もしかすると、そのどちらでもなくて、俺に生来、優しさなどというものが備わっていなくて、自然と人を傷付けてしまうのかもしれない。

「より高品質のダイヤが開発されるのであれば、それには愛されるだけの資格があります。また、私の開発のノウハウがその発明に活かされているのであれば、それは私の一部であると考えることが出来ます」

 しかし、宝石の女王の心は容易には傷付かなかった。言葉のナイフはダイヤモンドを貫くことはなく、逆にその刃を欠けさせる。

「……そうか。わかった」

 今度こそ、もう話すことはない。後少しだけ俺の頭が回れば何かあったのかもしれないが、少なくとも人は自分の身の丈に合っただけのことしか出来ず、能動的に奇跡を起こすことは出来ない。いつかは諦める必要がある。悔しいが、絶望しなければならないのが人なのかもしれない。

 オレリーの姿が変わる。紅凪のものに。だが、前ほどはその体に剣を向けることに抵抗は覚えなかった。意志が固まったからだろうし、傍に本物の紅凪がいてくれるという安心感もある。

「靖直さま。この狭い路地裏では、どうあっても炎は使えないと思います。……わたしにしてみればそれは同じなので、援護は出来ないのですが」

「応援してくれているだけで良いぜ。後、終わった後にキスでもしてくれれば」

「確実にボケるべきシーンではないでしょう、今。その雰囲気をぶち壊しにする才能だけは、他の追随を許さない勢いですね。すごいです」

「ははっ、それはどうも。じゃあ、行くぞ――!」

 深い考えはない。勝算なんてものは初めからなく、ただ行き当たりばったり、当たって砕けろの精神で真正面からぶち当たるだけだ。ただ、宝石である紅凪達は、俺の指輪をはめれば剣を手に戦うことが出来るのだろうか。もしそうなら、俺の体はともかく、指輪だけは守り抜かないと。

 そんなことだけを考えて疾走した。ここに一つ、俺の考えの甘さがある。俺は、紅凪を。最愛の人を守ることだけを考えれば良いと思っていた。そして、そのためには自分の命なんてものはどうでも良くて、一度は経験したであろう死が彼女との永遠の別れを意味していても、今は不思議と恐怖がなかった。

 しかし、俺はこの一瞬に限って、この世界の誰よりも強い心を手にすることに成功していた。つまり、他の誰もが俺よりも心が弱いということになる。――心の弱い人間がどんな行動を起こすのか。この瞬間の俺にはわからなかった。自分の弱さとは、嫌というほどニート時代に顔を突き合わせて来たというのに。

 嬉しい誤算があるとすれば、あの男は挟み撃ちの形で現れたものの、銃弾を紅凪、近付こうとするのをアドリアさんに阻まれたため、最愛の天使を見捨て、退却しなければならなかったことだろう。残念ながら、彼女の後ろから近付こうにも、ダイヤの羽を展開して戦う彼女――紅凪の姿のまま、ダイヤの羽をはためかす姿は圧巻だ――には、近寄るだけで危険だ。たとえそれが彼女のマスターであったとしても。

 俺の現状の話もしよう。足の傷は完全に開いてしまった。これは予想の範疇であったとしても、アドリアさんのものをコピーした切れない剣。これは確かになまくらで、刃物ではなく鈍器としてカテゴライズ出来た。しかし、木刀で殴られても、最悪の場合、人は死ぬ。それが宝石の剣であれば、言うまでもない。しかも相手はアレキサンドライト。ダイヤやルビーほどではなくても、硬度で言えば比較的上の部類だ。

 打撃武器としてこれほど恐ろしいものはなく、生身の体に打ち込まれれば、一発目で内出血、二発目で骨格が揺さぶられ、三発目を受ければ骨がへし折られる。

 どうしても避けきれない攻撃を左手で受けて来た成果だから、これは確実なことだ。……自分の左腕が中ほどからおかしな角度に曲がっている姿は、見ていてあまり気持ちいいものじゃない。しかも、これ以上激しく動けば、折れた骨が皮を突き破って露出してしまいそうだ。アドレナリンが過分泌されている頭でも、そんな光景を見せられればたちまち萎えてしまうのはわかる。

 簡単に言えば、絶望的にも等しい状況だ。俺はまだ一度も、オレリーに剣を届かせることが出来ていない。

 当たり前と言えば、当たり前の結果なのだろう。俺は理性の壊れた魔物相手に、多少は善戦をすることが出来た。だが、俺の実績はただそれだけで、きちんと考える頭があり、合理的な戦い方を心がけている相手を出し抜くなんて、絶対にあり得ない話だ。武器の性能差も、実際にそれを当ててみないと活かせはしない。そう、オレリーは絶対に俺の剣を自分の剣にはぶつけさせず、ことごとく攻撃は避け、俺への攻撃は防御不可能な位置に向けられた。

 もう一つおまけするなら、その姿だ。紅凪に手を上げることの躊躇いはもう完全に捨てた。が、彼女のように小柄な相手に逃げ回られるのは厳しいもので、狭い通路も、その局所を除けばスマートな体は苦もなく自在に通り抜けてしまう。

 何度も腕の上を潜り抜けられ、背後から攻撃を受けたが、紅凪達を攻撃しようとしないのは、まだ救いか。彼女には申し訳ないが、これには紅凪も敵わないと思う。まだ勝てる見込みがあるとすれば、俺――いや、俺の持つダイヤの指輪が作り出す剣だけだ。天然のダイヤモンドが、人工のダイヤモンドに勝つ力があると信じる他はない。

「これまで、ですわ。紅凪さん、これ以上は真剣に靖直様の命の心配があります。私達のするべきことはわかっていますね?」

「はい。迷いはありません」

 背中で聞く声は、珍しく――本当に珍しいことに、余裕を消した真剣なアドリアさんの声と、それに応答する紅凪の声だった。何をするのか、と思ったと同時に、真上を飛ぶものがあった。図らずともロングのスカートを真下から覗き込むことになってしまったが、その事象が運んで来る現象を楽しむ余裕などはなく、見事にオレリーの背後に回り込んだアドリアさんの姿を見つめることしか出来ない。

「レオノラさんがあなたに勝てなかったのは、ダイヤが破壊出来なかったからに過ぎない。つまり、私にも勝算は十二分にある訳ですね?」

 誰に尋ねるでもなく、踏み込んだアドリアさんが質問し、それと同時に宙を剣が滑った。紅凪にダイヤの羽が幾枚も生えた姿のオレリーは、その美しい羽を展開。アドリアさんを迎撃する。それからは丁度、俺の最初の戦いの時と同じだった。

 全身を使って剣を振るったアドリアさんの体にダイヤの羽剣が突き刺さり、剣を振り切ると同時に、それ等もまた彼女の体を切り刻む。おびただしい量の血が雨のように噴き上がり、その体はその場にカーテン布のようにぐしゃりと倒れ込んだが、アドリアさんは最後に何か白いものを俺。ではなく、その後ろの紅凪に投げていた。予想は付く。彼女の本体である指輪だろう。

「……本当に斬れない剣ですね」

 アドリアさんが残した剣は、オレリーの脇腹に突き刺さっていたが、彼女はそれを無感動に引き抜くと、地面に転がした。だが剣が地面に落ちるのと同時に、今度はオレリーの体が脇腹から半分に切り裂かれる。上半身が下半身を失い、宙を舞う。――チャンスであると実感し、走り寄ってその背中に向け、剣を振り下ろした。

 かつてのように、バターを切るようにダイヤモンドの結晶が砕け斬れた。だが、全てではないし、下半身にも少し羽は残っている。その全てを砕かなければ勝利にはならないが、そこで俺の体力は底を尽きた。気力はまだなんとかあったが、体は少しも動いてくれない。だから、オレリーが斬られた自身の羽を俺に突き立てるのを避けるなんて、とてもではないが出来なかった。

 視界が赤に。もしかすると白に染まる。

 二度目の死は、一度目よりもずっと実感があった。そして、自分のものとして認識出来た以上は感情的にならざるを得ず、最後に涙が溢れ出した。今度はもう、紅凪の奇跡に頼ることなんて出来ない。なぜなら、今度こそきっと彼女の命は尽きてしまう。

 大好きな人の命と引き換えに生き返るなんて、絶対にあってはならないことだ。誰かに習った訳ではないが、心の底からその哲学は湧き出て来て、だからこそ、再び目が開いた時には叫ぶしかなかった。

 血まみれなのに、体のどこも痛くない俺。足の傷も、腕の骨折もない俺を知ってしまった時には!

「紅凪――!」

 叫ぶ声は、悲しみよりも怒りが強かった。一つは、紅凪への怒り。もう一つは、仮に神なんていう傲慢な存在がこの世界にいて、そいつがこんな運命を俺達に押し付けたことへの、殺意すら含んだ怒りだ。

 彼女は、立ってはいなかった。その場に崩れ落ち、焦点の定まらない瞳を、しかし無意味に大きく見開いている。自身が失ってしまった輝きを、こんな路地からは見られない太陽に求めるようにして。

「紅凪っ、お前……!」

「ちょっと、驚いてしまいました。てっきり、奇跡を使うということだと思ったのですが、アドリア先輩があんなことをするなんて。けど、わたしの覚悟が、無駄にならなくて良かったです。……靖直さま。これでもう、二回死にましたよ。こんなんじゃ、絶対にトゥルーエンドは迎えられませんね。せめてデッドエンドだけは避けて、素敵なバッドエンドを味わってください」

「うるさい!こんな時に、何をふざけてるんだ、お前はっ」

「耳、痛いですよ……。わたしは靖直さまとは違って、繊細で弱いんです。わたしのことをお気に入りでしたら、もっと優しくしてくれないと……」

 その体をかき抱き、手を握り締める。こんなことをして良いのかとは思ったが、あれきりオレリーも動かない。完全に砕いた訳ではないが、羽の大半は破壊出来た。それで十分ということか。

「紅凪。どうして、奇跡を使ったんだ。お前、こうなるってわかっていたんだろ?」

「ええ……。人の命に直接干渉する奇跡なんて、一度起こせただけで十分だと思います。二回目も成功させて、自分が無傷なんて、あり得ませんからね。世界のシステムに弾かれたんじゃないでしょうか」

「だったら、なんで!」

 手をいくら強く握っても、彼女に握り返してくれる力はない。ルビーの宝石は、もうそれが宝石であると認識することも出来ないほどに、黒く、輝きを失くしていた。このまま砕けて砂になってしまいそうで、一秒経つ度に不安が募る。涙が止まる気はしないし、もし止まる時があれば、それは俺の心臓と同時だと思った。

「わたしは、弱いんです。靖直さまが傷付くのなんて、見ていられなくて……。けど、わたしにはこうでもしないと、あなたを助けられなかったんです。でも、わたしは耐えました。今度あなたを助ければ、わたしはもうあなたといられなくなる。それはわたしにも、あなたにも耐えがたい痛みだとわかっていました。

 ですからわたしは、可能な限りに耐えました。あなたの痛みを自分の心の痛みにしながらも、心の中で懸命に応援して、宝石としてではなく、一つの命として奇跡を望んで……でも、最後には現実が降り注ぐんですから、世の中って上手く出来てますよね。つまり、アドリアさんという人ではない生き物の、表面上の死はあなたの死の運命の代理なんて出来なくて、きちんとあなたの命は請求されてしまった訳です」

「紅凪。死ぬな。頼む、死なないでくれ……」

 それから彼女は、また何かを言った。彼女の言葉は余さず聞きたかったが、それよりも胸にこみ上げるものがあり、俺は冷静でなんていられない。

「……死にませんよ。わたしは」

「本当、か?」

「壊れるだけです。元より、わたし達に命などありませんでした。ただ、少しだけ自分の意思というものを持っただけです。考えない人は、人ではないと思いますが、考えるようになっただけの物も、物でしかありません。そんな不完全な生き物は、最期にはただの石に戻り、消えていくだけです。あなたに悲しまれてしまっては、不公平じゃないですか。他の物達に申し訳が立ちません」

「馬鹿を言え!お前、ついさっき一つの命として奇跡を望んだ、そう確かに言っただろ?お前は、本心だと人でありたいと思っているんだ。俺も、人としてお前を愛したい。見た目だけじゃない、お前のその素直じゃないところも、本当はコンプレックスだらけで弱いところも、全部ひっくるめてお前のことが好きだ。……お前はもう十分、人として魅力的なんだよ。このクソッタレの世界に飽き飽きしている俺が、思わず惹かれてしまうほどに!」

 今となっては、一秒ごとに腕の中の紅凪の命が削れていくのがわかってしまうようになっていた。

 何もかもが遅過ぎた。

 俺は、彼女にもっと早く想いを伝え、今まで以上に彼女を大切にし、彼女自身も、俺のために無茶をしないようにさせておくべきだった。彼女と出会ってから、まだひと月。それでも、ひと月もの時間があった。ほとんど四六時中、顔を付き合わせていたのだから、互いの良いところだけではなく、欠点を残らず知るのに必要な時間は既に過ぎ去り、俺の彼女への想いは確かなものとなって久しい。

 なら、俺はたとえ彼女に拒まれたとしても、告白をするべきだった。一日でも早く。それなのに、躊躇してしまった。彼女に拒絶されるのが怖かったのかもしれない。彼女もまた、俺を憎からず想ってくれているとは思っていた。けど、それがもしも自惚れだったら――そんな自分すら信じられない気持ちが、最後のひと押しを許さなかった。

 それに、俺はもっと長く彼女といられるつもりだった。なぜか俺の手の届く範囲で、誰の命も失われないものだと、勝手にそんな神話を作り上げていた。根拠など、一つとして存在しないのに――!

 今となっては、全てが遅かった。後悔しても、結果は変わらない。人には奇跡がないのだから。人の手で起こすことが出来ることならば、それは奇跡じゃない。順当な努力の末に与えられる、当然の報酬だ。逆に、必要なだけの努力なくしては、報酬など与えられるはずもない。力を失った紅凪が、再び輝きを取り戻すなんて都合の良いことは。

「靖直さま」

「紅凪」

「気持ち悪いです。わたしなんかのことを、本気で好きになってしまったんですか?ただの、ちっぽけな宝石なのに。……ううん、そこを考えなくても、わたしには魅力なんてないですよ。欠点ばかりで、あなたに愛される資格なんて持ち合わせてないんです」

「はっ、勘違いするなよ、紅凪。俺はあくまでお前の主人だ。確かに、お前には何の資格もないだろうな。だが、俺はお前の主人だ。お前に何をしても許される。だから、お前のことを愛するんだ。言っておくが、お前なんかに拒否権はないからな」

「……ふふっ、すっごい横暴ですね。このご主人さまは。ですが、返事ぐらいはさせてもらいますよ。好きの反対は無関心。拒絶はしませんが、無視は出来る訳ですから」

 紅凪の肌が、あまりにも白い。元から白く美しかったが、これはあまりに異常で、いよいよこの体が維持出来なくなったのであろうことを知らせる。時間はない。

「靖直さま。わたしは、あなたの愛に応えるつもりなんてありません。わたしはまもなくいなくなるので、思い出の中で美化してうじうじされるのは勝手ですが、傷心のあまりに自殺なんかしないでくださいね。面白くないので」

「紅凪。最後ぐらい、真面目に言ってくれよ」

 こんな言葉を口に出すのは、あまりにも辛かった。それなのに俺は、あえてそう言う他はなかった。これは間違いなく最後だ。だから、彼女の言葉を決して聞き漏らしてはいけない。口から放たれる言葉はもちろん、心から漏れる言葉だって。

「…………あなたは、残酷過ぎます。どうして、いつもはわたしのことを想ってくれたのに、こんな時だけ、追い詰めるんですか」

「俺は、自分には嘘をつきたくない。お前にも、今ぐらいは本心を話して欲しい。ただそれだけだよ」

「本当のことは、辛いように出来ているのだと、わたしは思います。それでも、ですか」

「ああ。それでも」

「やっぱり、残酷です。ゲロ以下の見下げ果てた鬼畜ヤローです。気持ち悪いのを通り越して、逆に格好良くて、清々しいぐらい馬鹿で。だからこそ憧れて、大好きです」

 軽く。本当に少しだけ指の先が揺れるようにして、紅凪は俺の手を握り返した。彼女の体は、もう動かないものと思っていたのに。

「靖直くん。わたしも、あなたのことが悲しくなるぐらい大好きです。どこが立派で、どこが好きなんて、あえて言いません。靖直くんはきっと認めないでしょうし、わたしとしても挙げるのが恥ずかしいので。だけど、少しだけ素直に言うとすれば、わたしはあなたという人間、その全てが大好きでした。あなたが愛してくれていたように、わたしもまた、あなたのことを好きで、愛されていたいと思っていました。……なので、これだけは言わせてもらいますね。

 

 今まで、ありがとうございました。あなたと過ごしたひと月は、長く、短くて、わたしの経験した中で最高の時間でした。こんなにも素敵な思い出を抱えていくことが出来て、わたしほど幸せな“人間”は、きっと他にはいないと思います。

 

 さようなら。本当に、好きで――」

 

 その唇を、俺のもので塞ごうとした。その言葉を言い終えた時、彼女は俺の前から消えてなくなるような気がして。

 でも、全ては遅かった。俺は最後に彼女と触れ合う直前、彼女を失った。

 小さな音と共に、紅の飛沫が舞っていく。落ちていく。

 かき集めようとしても、砂よりずっと小さなそれは指の間をすり抜け、堕ちて逝く。汚れた地面に落ちたその粒子は、もう見つけることなんて出来ない。

 最期の言葉が何度も頭の中で響く。彼女の好きだったという言葉が。彼女のありがとうが。彼女の、さようならが。

 たったひと月のかけがえのない思い出が、弾丸の速度で駆け抜け、虚しく消えた。――いや、この記憶は消すことなんて出来ない。でも、彼女の消失と共に、記憶はリアルを失い、追憶を残すのみとなった。

 砕けたルビーは光を失い、瞑られた瞳は二度と開かれることはない。そして、残された彼女の体も、まもなく光に還る。

 こうして俺は、全てに等しいものを失った。何もない人生に与えられた、ただ一つの光の喪失は、人生の喪失にも等しかった

 

 だから、俺は願った。

 俺の認識している世界は、俺が主人公で、俺の目と心が全てを捉えている。なぜならば、俺の人生は自分のためだけに描き出され、そこに二つの視点はあり得ない。つまり、俺の人生が失われるのであれば、それは世界が失われることだ。

 紅凪のいない世界で、俺はこれ以上、少なくとも以前のように生きられる気はしなかった。

 再び、全てに絶望して引きこもるか。いや、それも今は出来ないように思える。いよいよ俺は、自分を存在させ続ける術を失ってしまった。紅凪が人生の中心にあり過ぎたからに違いない。

 軸を失った“俺”というものは、もうこれ以上は存在し続けることが出来ず、その場に膝を突く。

 紅凪の体も今は消えてしまった。彼女の小片も、風が奪い去って行った。

 すぐ近くに動くものがあった。アドリアさんだ。彼女は、彼女の出来る全てのことをしてくれた。だから俺は、オレリーに勝つことが出来た。そして、紅凪は――。

「靖直様」

「……アドリア、さん」

「戻りましょう。彼女は、きちんと捕縛をしないといけません。私にも、靖直様にも……それだけの力は残っていませんから」

「そう、ですね」

 彼女の体は、依然として血まみれではあるものの、体の切断された部分は繋がっている。今思うと、サーベルで斬りかかるのと同時に、ワイヤーか何かをオレリーの体に引っかけ、自分自身が吹き飛ばされるのと同時に、そのワイヤーがオレリーの体を切り裂く、という戦術だったのだろう。

 アドリアさんは、紅凪がいた場所から自分の本体の宝石を拾い上げ、しまい込んだ。彼女もまた、自分の命を預けた少女の方が失われてしまうとは思っていなかったのだろう。そういう意味で、俺とアドリアさんは同じ気持ちを共有しているとも言えた。彼女は紅凪の姉のようなもので、彼女自身、紅凪を妹のように愛していたのだから。

「アドリア!ナオ……くん」

 路地を出ると、金髪の少女と鉢合わせた。レオノラだ。店で休んでいたはずだが、もう歩ける程度には回復したのか。

「もうすぐ、良嗣と青羽が来る。この先で、あの娘は倒したんだよね」

「ああ……」

「靖直。これ、使って」

「……えっ?」

 言うべきことを言ってすれ違おうとすると、急に手のひらの中にペンダントを握らせられた。燦然と輝くオパールのペンダント。レオノラの本体の宝石だ。

「あたしに残された力で、何が起こせるかはわからない。けど、あなたの助けになると思う」

「…………いや、やめておく。申し訳ないけど、俺はもう、君達の奇跡に頼ろうとは思えない。それに、紅凪を救うためにレオノラを犠牲になんかしたら、あいつにどう言い訳したら良いのかわからない。もう、いいよ」

 再び、彼女の首からペンダントをかけさせてやる。レオノラの瞳と同じ色に輝く石は、あまりにも美しかった。

「奇跡を起こすのはあたし達だけど、その結果を受け入れるのは、いつも君達。あなたがそれで良いなら、あたしは奇跡を押し付けたりはしない。けど、明日を生きるのも、君達だよ。あたし達は、決してその前を歩かない。君が生きているから、この世界はあるんだよ」

「難しいな、それ。俺にはよくわからないよ」

「わからなくて良いよ。だから、せめてちゃんと生きてね」

 彼女の目には、今にも俺が自殺しそうに見えたのか。――否定はしない。

 でも、俺には新たな決意が芽生えつつあったから、きっと死なないのだろう。

 俺は生きる希望を失った。自分が生涯の中で、唯一愛せる女性を失った。その痛みは一生、取り除かれることはない。また、決して失われてはいけないと思う。

 だからこそ、俺は意地でも生きてやろうと思う。いつかレオノラも言っていたことだ。自分は業を背負って生きると。俺も、この痛みを抱えたまま、生きれるところまで生きて、そうすることで神様とかいうやつに逆らってやろうと決意した。

 ひとつだけ心残りがあるとすれば、それを紅凪に誓うことが出来なかったことだ。

 きっと彼女なら、こう言っただろう。

 

「最低ですね。でも、中々に面白そうなので、わたしも応援させてもらいます」

 

 そう、こんな調子で。あいつは、きっと一番深い根っこのところでは、俺とよく似ている。本人は限りなく嫌がるだろうけど、俺にはなんとなくそれがわかった。なぜなら、俺はきっと、自分によく似た人間しか好きになれないからだ。

 少しでも嗜好が違えば、きっと認め合い、分かり合うことが出来ない。その点、紅凪は俺が好きじゃないものは好きじゃなかったし、人の幸せを悔しがり、人の不幸を笑ってみせる、中々の腹黒っぷりだった。正に、女版の俺だ。しかも可愛さを武器にしていた分、俺よりも始末が悪い。どれだけ辛辣で痛烈なことを言っても、可愛いからなんとなく許されてしまっていたのだから。主に俺から。

 

「そういう靖直さまも、口には出さないだけで心の中では相当なクズっぷりですけどね。わたしよりタチが悪いんじゃないですか?」

 

 早くも“懐かしい”と思うようになった声が聞こえた気がした。幻聴だなんて、俺はそこまで心をやられてしまったのかと自嘲する。

 その時、右手の薬指から何かの砕ける音が響いた。その場所には、あのダイヤの指輪が収まっているだけだ。確認すると、指輪にはまっていた天然のダイヤモンドに亀裂が入り、今にも砕け散ろうとして――まもなく粉々になった。まるで内部から破壊されたような、不自然な壊れ方だ。嫌が応でも、先刻の紅凪のことを思い出してしまう。

「……どういう、ことだ?」

「こういうことですよ。ご主人さま」

 最初の声は、幻聴だと信じて疑わなかった。だが、何度も続けば、それは現実であると認める他はない。何よりも、理性はそんな訳がないと主張し続けていても、俺自身はそれを望んでいた。

「誰だ?お前は……」

 後ろを振り向こうとする。が、その目を小さく柔らかな手が塞いでしまった。

「さて、誰でしょうか。ヒントはその指輪のダイヤもまた、わたし達と同じく、奇跡を起こすことの出来る宝石であること。第二ヒントは、人としての姿を持たないそういった宝石は、身に付けている人の強く願った奇跡を、勝手に起こしてしまうということです」

「紅凪。……紅凪ぁ!!」

 目を塞ぐ手がどけられる。視界が開けると同時に、今度はその腕が俺の肩の上に乗せられ、後ろから彼女の体重が優しくかけられた。心地よい重さと、幸福を感じる柔らかさが背中に与えられる。

「はい、ただいま戻りました。靖直さま」

「馬鹿が……。もっとマシな帰り方があるだろうが、この馬鹿」

「馬鹿なご主人さまの下に帰るんですから、馬鹿な演出の方が良いんじゃないですか?」

「そうだな。……馬鹿な俺だったから、こんなことになったんだ」

 やがて、紅凪は完全に俺の肩へと体重をかけ、俺は彼女をおぶって行かなければならなくなった。

 体中の骨が、ぎしぎしと悲鳴を上げている。傷口からは血が絶えず流れていて、疲労の具合は、俺が知る限りの言葉では表現出来ない。

 そんなボロボロの体に鞭を打ち、俺はのろのろと帰って行った。彼女との日々を、続けるためだけに。

 太陽は傾き、西の空にあった。紅い日差しが俺達のことを照らしていて、風は止んでいた。

 俺と紅凪の出会いの一ヶ月間の回想録は、これで終わる。

 しかし、わざわざ述べるまでもないことだが、俺の人生も、彼女の人生も、何度か途切れながらも続いている限り、俺達はいくつもの出来事を経験する。語るべき思い出は決して尽きない。今、俺の手元には紅凪が撮影した写真がいくらでもある。この数だけの思い出があり、その何枚かには紅凪自身も映っている。フィルムカメラで撮ったからだ。これ等の撮影秘話を語り出せば、三日三晩を費やしたところでまだ足りない。

 なので、まずはほんの触りだけを形にしたところで、物語を終わりにしよう。

 

 

 これは俺が経験した、出会いと別れと、願いと奇跡の旅の、ほんの序章である。

 

 

 

終わり


 
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