No.636149

奇跡と輝石の代行者 二章

今生康宏さん

宝石という、今まであまり触れて来なかったものについて書いたので、書きながら常に調べていました
斬新なモチーフではないですが、宝石から女の子や怪物を想像するのはとても楽しく、後からでもビジュアルを付けてみたいなぁ、と思います

2013-11-11 22:08:35 投稿 / 全10ページ    総閲覧数:298   閲覧ユーザー数:298

二章 黒曜の悪魔 ~ Obsidian Ghost

 

 

 

 出口の見えない不景気が続いていた。

 三十年も四十年も前から始まったこいつは、未来ある若者から未来を奪い去り、もうそんなに未来のない大人からは寛容さを奪い去り、未来なんて言葉を書くことすら出来ない子どもからは、教育の機会を奪い去ってしまった。

 この世に絶対の悪があるのかどうかなんてわからないが、相対的に見て、この不景気というやつは悪魔と見て間違いないと、少なくとも俺はそう思う。ゆえに、俺は高校を中途でやめ、親の金と自身の未来とを食い潰していた。

俺にとっての全ての源であるパソコン、それの繋がっているネットは今日もクソみたいな真実と、聞いていて気持ちの良いシニカルを叫び続けていた。俺の遊びに行く海とは、すなわち電子の海であり、付き合うべき彼女はその海の中にいる、生別不明の人魚だ。

 そんな間違いなく充足した最底辺の生活は、少なくとも俺にとっては幸せなものだったのだが、幸せはそう長く続かないのが、古来より誰かが決めたことらしい。全く持って余計なことだが、俺のようなクズ未満の人間はそのご立派な自然の摂理には逆らえず、一本の電話によって行きたくもない場所に召喚されてしまう。

「はぁ、相も変わらず、良いご身分ですなぁ、大統領閣下」

 宝石商。自分の兄が、このご時勢にも関わらずそんな、いかにも景気の良さそうな職業に就いていると知った時、俺は嫉妬したりこの世を呪ったりするのではなく、ただただ呆れることしか出来なかった。加えて、高級そうなソファに体を沈めている兄貴の右サイドには青い長髪の美しい、眼鏡のメイドさんが。左サイドには赤いセミロングの髪の、まだあどけない女の子に見えるメイドさんが控えている。

 いくら英国とはいえ、一介の宝石商が軽いハーレムを形成していて、そしてそれを実の弟に見せ付けているこの現状には、宝石商としての才覚以前に、人としての大きな欠陥がこの男にはあるのだと、嫌でも気付かされてしまうだろう。

 “イヤミ”で“イケメン”。加えて“嫌な奴”。俺の実の兄を説明する時は、この三つのIを使うのが一番簡潔で良い。

「おや、まだ大統領になった覚えはないのだが、世間的にはそういうことになっているのかい?」

「兄貴。そういうノリ、割と真剣に俺は嫌いなんだが」

「はっはっは、まぁ良いではないか。そこに掛けたまえ」

「へいへい」

 まるで貴公子のような芝居がかった話し方だが、驚くべきことにこれがこの人の普通の話し方だ。実の兄貴がこんな白馬に乗った王子様みたいな好青年である弟が、まともな育ち方が出来ると思う奴がいるだろうか。いたとしたら、そいつをこの人と同じ部屋に一週間、閉じ込めてやりたい。確実に発狂するから。

「さて、靖直。まずは誕生日おめでとう。先月の頭で十八になったんだろう?良かったじゃないか、これでお前も晴れて成人だ」

「もう今月も終わるけどな。ま、成人しても何一つとして変わってないよ。俺、どうも酒は飲めないタチみたいだし、タバコも煙たいばっかりで嫌いだ」

「健康的で良いじゃないか。尤も、近年の飲酒税、喫煙税の上がり幅はちょっと異常だからね。図らずとも賢明な判断をしたという訳だ」

「そうだな。……で、まさかそんなことを言うために呼んだんじゃないだろうな?」

「もちろん。きちんとした用件がある」

 そいつを早く聞くだけ聞いて、この限りなくいづらい空間からはエスケープしてしまいたいんだが、兄貴の話はその長さに定評がある。より正確に言えば、もって回って本題から遠いところ、遠いところから話したがる悪癖に、だ。

「まずは、今朝の平均株価と社会問題のところから話を始めたいのだが……顔に嫌だと書いてあるのはわかっているよ。率直に用件のみを伝えよう」

「……えっ、マジで?」

「なんだ、私はそんな話し方が出来ないとでも思っていたのか?」

「そりゃあ、まあ」

 前科から考えてみれば。

「失礼だな。まあ良い。つまり、お前にも店を手伝ってもらいたい、という話なんだ。さすがに、成人しても尚、無職。とはいかないだろう。いや、体面を気にしているのではなく、お前のアイデンティティの問題だ。このまま、何も為さない人間として生き続けるのは辛いはずだ」

「自分のことを社会の歯車と割り切って、己を殺して働く人間が多い時代に、なんとも錯誤的な話だな」

「だが、私にはそれが実現出来る」

「本当、あんたんトコは景気がよろしい限りで、良いことだよ」

 なんとなく、ショーケースに飾られた貴金属類を眺めてみた。宝石がたっぷりとあしらわれた時計、何カラットかわからないほどデカいダイヤが、なんとも美しいブリリアントカットを施された指輪。大粒の真珠を訳がわからなくなるぐらい繋げたネックレス。いずれの値段も、数字で人が殺せるなら即死しているレベルに高い。それなのにも関わらず、これが全て人気商品だと言うのだから、世の中の貧富の差ってやつは馬鹿げている。

「それで、どうする?」

「親父様は、嫌でもやらせるつもりなんだろ?後は、出来る限りの交渉をして俺にとって都合の良い労働環境を整えるだけだ。で、具体的な仕事はなんなんだ?言っとくけど、俺は宝石を売り付ける仕事なんて出来そうにないぜ」

 自分の身分は弁えている。次男で、絶賛穀潰しである俺が、何かを決定出来る身分にあるとは思っていない。これから出来ることは、親達に洗脳される形で労働の楽しさに目覚めるか、何をさせても満足に出来ない木偶の棒の烙印を押されるか、その二つの内一つだけだ。

「なに、お前に接客業をさせて、売り上げが落ちたら困るのは私の方だ。そんな冒険はする訳があるまい。お前にしてもらいたいのは、宝石を集めることだよ。外回りの仕事になるが、きっとお前ならば出来る」

「宝石の仕入れか?まあ、帳面をいじくるぐらいなら、なんとか出来そうだが」

「まあ、普通はそう思うだろう。しかし、そうも単純な話ではないのだよ」

 

 それから始まった話を記録するとなれば、既に述べたことと重複する事柄がかなり出て来る。

 つまり、ここで俺は今している仕事の概要を説明された訳だ。各地に赴き、そこにある自我を持った宝石を回収、あるいはその宝石自身の意思を尊重し、そのまま放置する。またあるいは、悪意を帯びて狂ってしまった宝石であれば、それを砕くことで他の人に被害が出ないようにするという。

 と、今になって説明すれば簡単な話だが、当然ながら当時の俺はとても信じられなかった。まず、兄貴お抱えのメイド達の正体が宝石であることを知らなかったし、宝石が自我を持つなんて完全にファンタジーの出来事だ。一時は真剣に我が兄の気が違ってしまったことを心配したが、そうではないとわかった時、俺の目に映る世界は、その景色を少しだけ変えるようになった。

 宝石の命という、言葉にしてみればおかしな概念を、俺は感じるようになってしまったのだから。

 

「寝泊りは自宅ではなく、この店の二階を使うと良い。丁度一部屋空いている。それから、多少なりとも危険や、お前一人では心配なことも起こり得るだろう。一人、メイドを付けよう」

「……な、なんだって?」

「メイドを付けよう」

「冥土に送ろう?」

「使用人を一人与えよう。彼女、紅凪が良いだろう」

「いよっしゃあぁぁぁ!!」

 叫びと言うよりは、獣の咆哮だった。

 宝石の化身である兄貴のメイドさん達は、そのいずれもが魔的な美貌と、彩り鮮やかな美しい髪や瞳を持っている。その見た目の年齢はまちまちで、兄貴の秘書のような役目を果たしている青髪のメイドさん、青羽さんはおよそ二十代半ばぐらいの外見をしている一方、見慣れない赤髪のメイド――紅凪ちゃんと呼ばれた子は、十代の半ばほど。俺より少し年下に見える。

 他のメイドさん達が、まるでフランス人形のような精緻な美しさを持っているのに比べ、彼女は2.5次元を生きる我等が天使、アニメキャラのフィギュアのような可愛らしさを持っている。

 奇麗な白い肌はもちろんだが、大きな赤い瞳、発熱している訳ではないのに軽く朱の差した頬、童顔で背丈も低く小柄なのに、胸は中々にあり、ロングスカート越しに見えるお尻や太腿のラインも実に魅惑的だ。俺の視線を受けて、少し恥ずかしそうに顔を背けるその仕草も、なんとも奥ゆかしくて良い。

「こらこら、そう騒ぐな。彼女は、ここに来てまだ日も浅くてね。そもそも、こうして人の姿を取るようになったのも最近なんだ。つまり、お前と同じ様にこの仕事をするのは初めて、新米同士という訳だ。仲良く、良好な関係を築いていくように」

「ああ!な、仲良くしような、あ、紅凪ちゃん」

「は、はい。靖直さま」

「く、くあー!か、かわえぇ!!」

 初めて聞いた紅凪ちゃんの声は、少し舌ったらずな甘い声で、アニメヒロインとして合格。いや、今すぐにでも声優業界に放り込みたいほどの可愛い声だと言えた。そんな声で初々しく挨拶をしたものだから、俺の心臓に矢が刺さったのは言うまでもない。

 思えば、これが最初だった訳だ。俺が後に呼び捨てにし、ぞんざいに扱い、向こうは向こうで俺をディスりまくるようになる、この天使のような小悪魔に俺が騙されたのは。

 最初の仕事は、ロンドンから一時間ほど北に行ったところにある、とある霊園の調査だった。

 まさか宝石商の仕事で墓地に行くことになるとは思わなかったが、墓石に使われるような石にも、自我が宿ることはあるらしい。それに、墓石に宝石がはめられているようなケースもある。

 後に知ったことだが、兄貴はイギリス、更にヨーロッパ各地で起こる怪事件に関して独自の情報網を持っていて、特に宝石が関係していそうな事件をピックアップ、自分でその場所に赴くことにより、自我の宿った宝石を回収して来ていたらしい。

 もちろん、そんないわく付きの宝石は売り物にするのではなく、自分が個人的に保護、保存し続ける。兄貴のメイドさんの正体とは、そうして兄貴の元に集まった宝石の内、仕事を手伝うようになったものであり、女性ばかりなのは……単純に趣味の問題だ。やっぱりあの男は好きになれない。

 だが、俺がこうして専属のメイドを持つようになったのも兄貴のお陰なので、その点でだけは評価するしかないんだが。

「さて、こっからは電車の旅だな。結構乗ることになるんだし、まずは……えーと、きちんと自己紹介でもしておくか」

 俺が兄貴の仕事を手伝うことを決めて、たった二日。俺専属のメイドとはいえ、まだほとんど紅凪とは言葉を交わしていないし、詳しい紹介も受けていない。キザったらしい喋り方をして、いかにも仕事が出来るような風なのに、素で紅凪の紹介を忘れている辺り、兄貴の学問上、仕事上の頭の良さと、生活能力の高さについての因果関係がないことがはっきりとわかる。

「あっ、はい。そうですね」

 紅凪は可愛らしくはにかみながら頷くと、特急の指定席にちょこんと座った。当然ながら向かいの席であり、割と豪華な電車なので席は二つごとに個室に区切られていて、人目をはばかるような必要もない。

「兄貴から名前ぐらいは聞いていると思うけど、俺は靖直。つい先月に十八歳になったところの、まぁ、なんて言うか、二日前までニートをしてた元・高校生なんだけど」

 出会って数日の人間同士が行う当たり前の儀式として、自己紹介をすることに思い当たったが……よくよく考えてもみれば、自ら仕事もしないで、かつ勉強もしないで勝手していた若者であることを名乗るのは――こう言ってしまってはおしまいだろうが、恥ずかしい。

 身内にニートを自称するのには何の抵抗もないが、親しくない人、しかも最高に可愛い女の子にニートと名乗りを上げるなんて、な……。

「はい。存じ上げています。ですが、そこまで恥ずかしがられる必要はないと思います」

「え、そ、そうかな?」

「はい。今こうして、靖直さまはお兄さまのお仕事をお手伝いしようとされていますから。ここまで早くお話をまとめ、お仕事をされる気になるなんて、それはつまり、靖直さまは潜在的に労働を望まれていたのではないでしょうか。本当の怠け者であれば、一念発起してこうして出かけるなんて、とても出来ないと思います」

「……紅凪、ちゃん」

 感涙を禁じることが出来るはずもなかった。俺のような社会的底辺、最低最悪のゴミクズを、この子は……。

 ああ、正に天使だ。いや、その度量の大きさは仏だ。女神様だ。世界には夢も希望もないと思っていたが、もしかするとあるのかもしれない。そして、もしあるとするならば、彼女こそが俺にとっての希望なのであると、そう確信した。

 俺に感動されてしまって恥ずかしくなったのか、紅凪は恥ずかしそうに顔を赤くしている。“紅”凪ちゃんが赤面するなんて、なんともまた良い感じのシチュエーションじゃないか、これは。

「あっ、えと、わたしの自己紹介もしないとですね。わたしは紅凪・C・フロギストン、と。これがフルネームになります。良嗣さまは一応、ミドルネームまで丁寧に名前を付けてくださいましたが、そこまできちんとは誰にも呼ばれたことがありませんので、どうぞ気軽にただ紅凪とお呼びください。わたしなんかに、いちいち敬称も付けていただかなくて結構ですよ。むしろ、フランクな呼ばれ方をしていただけると、親しくしていただけているのだとわかって、嬉しいです」

「そ、そうか?なら、紅凪……って、呼ぼうかな」

「はい。靖直さま」

「は、はは……なんか、良いな」

 こう、本当に英国貴族になったようだ。俺達一族は日本からの移民であり、この国に根付いてまだそれほど長い歴史を持っていないが、メイドさんに名前を呼んでもらえると、一丁前の紳士になったような気がする。服装も一応、余所行きということでスーツを着ているし。

「けど、それなら折角だしさ、紅凪もちょっと俺のことを特別な呼び方をしてくれないか?」

「特別な呼び方、ですか。靖直さまや、ご主人さまといった呼び方ではなく?」

「ああ。そういうのも良いけど、なんかちょっと照れ臭いし、歳も……見た目だけなら近い感じだろ?だから、もっと親しい感じの呼び方が良いかな、とか思って」

「とすると……具体的にはどのような感じが良いのでしょう。わたしはその、まだ人の常識や社会のことにはそこまで詳しくありませんので」

 困ったように小さく笑うその姿も、実に魅力的だ。だが、困らせてしまったことの罪悪感に駆られてしまう。可愛い娘だけに、メイドとはいえあまり迷惑をかけたくない。

「なら、リクエストしても良いかな。……たとえば、『お兄ちゃん』とか」

「うわっ、キモ……」

「えっ」

「な、何も言っていませんよっ。そんな、いくら社会的底辺のゴミクズである靖直さまがキモい嗜好をされていると身構えていても、よもやメイドを妹に見立てることで興奮を覚えようとするようなド変態とは思っていなかったとか、そういう感じのことは一切考えておりません!」

「考えてたよな!?本気でそれだけ考えていたからこそ、やけにすらすらと言えたんだよな!?」

 ヘタクソな口笛を吹き始める紅凪を見て、俺は理解した。いや、再認識した。彼女に二次元的な天使的人格を見出したのは、全くの間違いだった。――三次元の女に、天使など。女神など存在しない!絶対にだ。

「まあ、ぶっちゃけますけども、いくらメイドだからって、奴隷みたいに思わないでくださいね。正直、わたしもお仕事でイヤイヤ、靖直さまみたいなニートまがいの人間の世話をしているのですから」

「い、一気にぶっちゃけ過ぎだろぉ……。お、俺は久し振りに陽の当たる世界に出て、ガラスのハートが今にも砕けそうなんだ。頼むから、もうちょっとシルクタッチで…………」

「――なんて、冗談ですよ。ちょっと靖直さまが浮かれ過ぎているようなので、わざと厳しいことを言っただけです。本気で嫌な相手に、お仕事でも四六時中一緒にいることを望む訳ないじゃないですか」

「……ほ、本当に?」

「はい。嘘をついた直後に言うことではないかもしれませんが、このルビーにかけて真実です」

 紅凪は悪魔の顔を捨て、満面の笑顔を。疑いようのない、天使の笑顔を見せた。

 学習能力のある、あるいは疑り深く、人を信じることを嫌う人間であれば、その笑顔を懐疑的な心持をして受け止めただろう。だが、俺はこの理想の少女の笑顔だけは疑うことが出来なかった。不信感や不安より、圧倒的に強い、慕いたいという気持ちがあった。――なぜか?――彼女があまりにも可愛いからだ。

 だから、俺は。

「はは、そうか。そうだよな」

 あまりにもちょろい、しょっぼい男だと自己評価出来る。思えばこれが、二回目の詐欺被害。ちなみに、これ以降はカウントしていない。数え始めたら、キリがないのは明確だからだ。

「とりあえず、お兄ちゃんと呼んでしまうのは少し恥ずかしいので、靖直さま、ということにさせてもらいますね。やはりその、ご恩のある良嗣さまの弟である方を、あまりぞんざいに扱う訳にもいきませんので」

「兄貴か……。そういや、紅凪はどういう経緯で兄貴の下で働くようになったんだ?最近来た、とは聞いたけど」

「はい。どうせ目的地に着くまで一時間はかかってしまうのですから、少しわたしに長話をさせていただけますでしょうか。あまり面白い話ではないかもしれませんが、これからのお仕事先で、この手のお話はいくらでも聞くことになると思います。その予行練習、ということで。

 ――小さな宝石の、小さなお話をお聞き願えれば幸いです」

 紅凪はどこか遠い場所を見るような目をして、それから、ルビーの宝玉そのもののような赤い瞳を閉じ、代わりに口を開き始めた。頭の中にある古びた回顧録を開き、それを気取った調子ではない、彼女の等身大の口調で読み上げるように。

 わたしのかつてのご主人さまは、このロンドンの街の、比較的下町の方に住んでいました。

 そこそこの大きさの企業の中の、一応は上から数え上げた方が早いような管理職でしたが、ロンドンが栄えていたのは遥か昔、産業革命の時代ぐらいのもの。ここ最近の不況は、靖直さまもよくご存知のことだと思います。

 家はあまり裕福ではなく、しかし、スーツを着込んで社交の場に出ることを必要とされ、せめてもの装飾具として、ビーズ玉のように小さな宝石の付いた銀のネクタイピンをただ一つ、ご主人さまは購入されました。お察しの通り、そのネクタイピンにはまっていた砂粒のようなルビーの石こそが、わたしです。今ではこうして、わたしのヘッドドレスを留めてあります。

 ご主人さまはその時点で四十を少し過ぎておられました。しかしながら容姿にも、また人格にも優れたものがあったのですが、社交性に富んでいるとは言いがたく、その性格が婚期を遅れに遅れさせ、未だに配偶者には恵まれていませんでした。

 そんな中、慣れない宝石店に一人で行き、わたしを購入されたのですから、そのセンスについては言うまでもありません。それでも、ご主人さまはわたしのような見栄えの悪い宝石をいつもお連れくださり、五十歳を目前とする頃には、少しだけ会社の営業成績も、また自身の年収も増えて来ていました。まだ完全に軌道に乗ったとは言いがたいものでしたが、とりあえず生活は安定し始め、また、良縁にも恵まれ、奥さまを得ることになったのです。

 晩婚ということで子宝に恵まれるかは微妙でしたが、奥さまとご主人さまはすごく幸せそうで、少しだけ自我が芽生えかけていたわたしは、思わず嫉妬をしてしまうほどでした。

 それから更に数年。ご主人さまは社長に手が届くと言われるようになり、元気な男の子も得て、いよいよ幸せの絶頂を迎えていました。しかし、幸せの後に不幸せが続くのが、この世の摂理なのでしょう。ご主人さまは唐突に倒れ、そのまま入院。ガンということでした。

 とはいえ、ご存知の通り、ガンは治る病気となっています。ただ必要なのは、莫大なお金だけ。ご主人さまは治療費にあてるだけの貯金をお持ちでしたが、お子さんのことを考えられて、出来る限りその貯金を切り崩すことは避け、代わりに色々なものを売り払うことにしました。当時流行っていた株はもちろん全て売りに出しましたし、家具も高く売れるものは全て出して、最後には、小汚い宝石すら売りに出したのですよ。

 どれぐらいの値段になったのか知りませんが、ご主人さまの必死さと、天然さがよくわかると思います。……そんな、すごく面白くて、温かい人でした。

 質草になった今ぐらい、悪口を言っちゃっても良いんでしょうけどね。わたしには、あの人のことを悪く言うことは出来ないのでしょう。なぜなら、あのご主人さまの傍に十数年いれたからこそ、わたしはこうして新たなご主人さまと、言葉を交わすことが出来ているのですから。

「と、大きな悲劇はなく、劇的なドラマがある訳でもなく、ただ、人に愛されただけのお話でした。これだけで、宝石は自我を持つようになるのですから、人の力とは強大なものはないのでしょうね……」

「正の感情を受ければ人に、負の感情を受ければ獣や、自然には存在しない魔物の姿になるんだったか」

「一概にそうは言えないとは思いますが、一般的にはそのようです。後、我々は成長することもありませんので、見た目の年齢も持ち主の想いが影響するらしい、と」

「そうか……。紅凪が若くて可愛らしいのは、なんでなんだろうな」

 俺としては極自然な流れで口をついて出た言葉なのだが、紅凪はぼっ、と顔に火が付いたように赤くなってしまい、全力で顔を背け、更にはぶんぶんと頭を振り乱した。……ヘ、ヘドバンか?

「あ、紅凪。大丈夫か」

「だ、大丈夫と思えるなんて、靖直さまの脳内にはチューリップの花園が広がってるんですか!?こ、このナチュラルスケベっ。あなたはどこのラテン民族ですかっ」

「い、一応、生粋の日本人だけどな。少なくとも血の上では」

「わ、わたしはその、あまり男性の方とお話するのには慣れていませんし、容姿を褒められるなんて、もっと苦手なんですから……。冗談でも、そういうのはやめてくださいっ」

「本気なんだけどな……」

「わたしはこう見えて、気位は高い方なんですっ。辱められることには、耐えられませんからっ」

 めちゃくちゃ恥ずかしがった後は、怒ってそっぽを向いてしまった。想像以上に気難しい子なのかもしれない。……でも、それもまた良い。

 そんな風に感じつつある俺がいて、彼女は嫌がるかもしれないが、もっと褒めたりちょっかいを出したりしてみたくなった。今になっても現実味はないが、本当の姿は宝石とはいえ、俺の目に映る紅凪という女の子は人間そのもので、しかも抜群に可愛らしい。話していても不自然なところはないし、彼女が自分のメイドであると聞かされて、喜ばない男はいないだろう。たとえ既に妻がいたとしても、彼女には心惹かれてしまうに違いない。

「なぁ、紅凪」

「は、はい」

「宝石って確か、食事は必要ないんだよな。でも、兄貴はメイドさん達に食事をさせているって言ってたけど、紅凪は何か好きな食べ物はあるのか?」

「食べ物の好みですか……。えっと、やっぱりお菓子は好きです。後、良嗣さまにご飯を食べさせてもらいましたが、パンの方が親しめました。ですので、必然的に和食は苦手ですね。ご主人さま達の祖国の食文化に不理解でごめんなさい」

 生真面目なことに、紅凪は深々と頭を下げてしまった。まずはジャブ程度にライトな話題を、と食事の話をしたんだが、まだいまいち打ち解けていないからなのか、ずいぶんと深刻に受け止められてしまった。

「いや、俺も正直、パン食文化の方が馴染み深いし、その辺りのことはどうでも良いよ。それより、お菓子が好き、か。やっぱり女の子は甘いものが好きなものなんだな。それに、本来なら食事がいらないってことは、たくさん食べても太らないんだろ?」

「ええ。女性としては喜ぶべきなのかもしれませんが、少し不思議な話ですよね。確かに食べ物はわたしのお腹の中に入って行ってるのに、どこかに消えてしまうんですから」

「ああ、はいせ……」

「ストップです!」

 右頬を異常な風速の突風が撫でた。その正体がギリギリを掠めて行った紅凪の鉄拳であると認識した時、嫌な汗が背筋を滝のように流れ始める。

「そ、そうだな」

「そうです!」

 いけない、いけない。普通に男友達か、ネカマに話すようなノリで下品な話題を口にしてしまいそうになった。彼女はモノホンの女の子で、しかもメイドをしていることからわかるように、上品な子なんだからな。……下手なことを言うと、俺の命が真剣に危ない。

「……靖直さまは、何か好きな料理はありますか?わたし、実は料理を作るのが好きなので、もしかしたら作ってあげられる機会にも恵まれるかもしれません」

「お、そうなのか。……まあ、俺の好みなんて単純だけど、肉料理なら大概は好きだぜ。究極、適当な肉を焼いて、それに適当なソースをかけてくれれば、それだけで良い。ソースがなければ、塩コショウでも十分だ」

「ワイルドですね……。でも、好きとは言っても最近作り始めたところで、まとまった練習の時間も取れなくてまだまだ下手なので、ハードルの低い料理をリクエストしてもらえるのは助かります」

「紅凪の手料理か……。あー、くそ。今の俺、遅れて来た青春を謳歌してる気がして、嬉しいのになんか涙が出てくらぁ……」

 もしもきちんと高校に通っていれば、同級生とこんな――いや、それはないか。きっと、一人の人間が生涯の中で経験出来る運命の出会いなんてものは、数と質が初めから決まっていて、俺の人生に今まで良い出会いなんてものはなく、紅凪との出会いが最初で最後の運命なのだと思う。

 と、すっかり紅凪にデレデレの俺はそれからも積極的に言葉をかけ、上品に可愛らしく笑う彼女を見ることで、久し振りに現実世界を生きているのだと実感することが出来た。

 もしかするとニートをしていたこの数年、俺の魂は現実の領域を生きてはいなかったのかもしれない。別にそれがよくないことだとは思わないが、紅凪がいるのであれば、もう一度同じ生活には戻りたくないと考えるのが人のサガっていうやつだろう。……見事に兄貴の手の上で踊らされているという自覚はあったが、覚めない夢が幸せで、台本通りの芝居でも人を感動させる力があるように、こんな素敵なヒロインと、そこまで波乱万丈でもなさそうなシナリオの上でなら、もうしばらく踊っていても良い、そう思っていた時期が俺にもありましたとさ。

「地域の共同墓地ってところか。どれもまだ新しそうだな。こう、雰囲気がなくて気が楽だ」

 電車の旅が終わり、下車駅から十数分歩くと、目的の霊園が見えて来た。低い鉄柵で囲われたその敷地内には、無数の白い墓石が安置されている。いずれも目立った風化の様子はなく、奇麗な花が供えられたものも多い。「いかにも」出そうな場所じゃないことには、少なからず安心を覚えた。

「まずは、管理人の方にお話を聞いてみましょう」

「そうだな。……んー、あそこの詰め所みたいな建物か」

 このご時勢とはいえ、墓荒らしみたいな輩がいないとも限らない。霊園の入り口には警備員がいて、もう少し奥まった所にはプレハブ小屋のような詰め所があった。警備員の休憩所のようにも見えたが、もう少し生活感があり、ここの管理者の昼間限定の仮住居のようだ。

「すみません、少しお聞きしたいことがあるのですが」

 中にいる老婆には、紅凪が話しかけてくれた。敬語がそこまで得意じゃない俺に代わって話してくれるのはありがたい。

「おや、奇麗なお嬢さんに、立派な紳士だね。アタシの頭がバカになってなけりゃ、初めて会う気がするが……」

「はい。お墓参りに来た訳ではないのですが、この霊園で近頃、おかしな事件が起きていると聞いたものですから、それを調べに参りました」

「おかしな?ふむ、もう噂が立っているのかね。どう伝わっているのか知らないが、まぁ、確かにおかしなことは起きているかもねぇ。アタシとしては、そこまで騒ぎ立てるようなことじゃあないと思っとるんだが」

「お聞かせ願えませんか?わたし達であれば、その事件を解決出来るかもしれません」

「解決って、お嬢さん等、霊媒師か何かかい?」

「いいえ。ただの宝石商の使いの者です」

 笑みと共に紅凪が美しくスカートの裾を持ち上げた礼をすると、いよいよ老婆は訳がわからないという風だった。とはいえ、俺にも上手く説明は出来そうにない。とりあえず話を聞くだけ聞いて、紅凪がどうにか出来ると言うのなら、それを見届けるスタンスだ。一応、俺が主体的に兄貴の手伝いで来ているんだが、メイドであり助手の紅凪しかこの手の話を解決出来るとは思えないし。

「はぁ、それじゃあ、ちょっと中にお入り。狭い小屋だが、立ち話をするよりはマシだろうて」

「失礼します」

 立て付けの悪そうなドアが開かれ、本当に狭い小屋の中へと通される。正直、俺は話を聞かなくても良いと思ったが、一応はいてください、と紅凪に引っ張られてしまった。その時、小さく柔らかな手が俺の腕に触れたのだが……幸福を感じた。

「アタシは娘時代から、この霊園の管理をしていてね。昔はそれはそれは可愛い……ま、あんたにゃ負けるが、引く手数多のシスターだった訳だ。今はいい加減、僧服を着るのが面倒だから在宅の信者ってことになってるがね。ともかく、この道に就いて……そう、五十年は軽い古強者な訳だよ」

「は、はぁ」

 いきなり自分語りを始める婆さんに、思わず嫌そうな声で返してしまう。霊園の管理者に、達人とかってあるのか……?そもそも、具体的な仕事の内容すらよくわからないんだが。

「む、あんた、アタシをただの年寄りだと思ってるだろ。言っておくが、長い人生の中で、変な事件はいくらでも経験してるんだよ。鬼火を見たりだとか、ゾンビーを見たりだとか。ま、どうせ信じないんだろうが、そういうことはここじゃそう珍しいことじゃないんだ」

「ほ、本当ですか、それ。よく今まで生きてたっすね」

「今はともかく、昔は敬虔な神の僕だったからね。ちゃーんと、神様が付いてるのさ。って訳で、あんた等がここに来たのも何かの縁、お布施をしていかないか?」

『お断りします』

 偶然にも紅凪と声が揃った。観光で来ているんじゃないし、教会ならともかく、霊園にお布施というのも妙な話だ。十中八九、このばあ様の懐に入るんだろう。正にネコババってやつだな。

「こほん、ま、そういう冗談は良いんだよ。そんなアタシだが、最近あった事件ってのはね、墓石がなくなるってもんなんだ。いや、壊されるって言った方が良いのかもしれないが、壊れた破片はどういう訳か残されてない。石泥棒とでも言うのかねぇ?何にせよ、今まで一度もなかったような事件さ」

「それが、ゾンビを見るより不思議な事件なんです?」

 疑問の声が出る。

「当たり前だろ。お化けが出るなんて、墓場じゃ普通じゃないか」

「……そうっスか」

 霊園管理人、すごいな。何がすごいって、俺なんかとは常識の次元が一つ違う。この人、人界と言うよりは霊界に片足突っ込んだ人なんじゃないか?

「でも、それだとただの悪質なイタズラの可能性もありますよね。何か対策は取られたのですか?」

「そりゃあね。監視カメラも設置したし、いたる所に夜だけ作動する動体反応型のカメラも置いたんだ。墓を壊すなんて馬鹿者の間抜け面を撮ってやるためにね。でも、動体カメラのシャッターは一度も切られなかったし、監視カメラにも変なものは映らなかった。まぁ、全ての墓を網羅出来るほどは仕掛けちゃいないんだが、近頃話題の超小型だし、固定式じゃなかったから、かなり効果はあるはずだったんだが」

「ちなみに、その動体カメラとはフィルムを使うものですか?」

「まさか。いくらアタシが古い人間だからって、きょうびデジタルカメラを使わない奴がいると思うのかい」

「……なるほど」

 全て合点が行った、とばかりに紅凪が頷く。俺の方は頭の上に大きなクエスチョンマークが浮遊しているが、彼女がわかったのならそれで良い。どうせ、俺の理解が及ばない世界の話なんだ。

「もうわかったのかい?はー、とんだ名探偵だね」

 本気で感心したのか、老婆のシニカルだったのかはわからないが、少なくとも紅凪は既に全てを見抜いている風だ。なんとも頼もしい。

「墓石が壊されるのに、何か周期性のようなものはあるのでしょうか」

「ふむ、周期性……。いや、特にないと思うよ。ただ、どちらかと言えば月明かりの強い晩が多いのかもしれないね。少なくとも、三日月や新月の日はなかったと思うよ」

「だとすると、ムーンストーンか何かかな……」

「ん、なんだって?」

「いえ。貴重な情報をありがとうございました。なんとしても事件を解決出来るよう、尽力させていただこうと思いますので、もしよろしければ、この霊園の合鍵などあればお貸しいただけませんか?恐らく、何日にも渡って張り込む必要のあることだと思いますから」

「ああ、良いよ。しかしまぁ、よくよく見れば兄さんの方はぼけーっとしてそうだけど、あんたは可愛い上に利発そうで、まるで物語のお姫さんみたいだねぇ」

「ばっ、そ、そんなことありませんよっ。わたしなんかそんな、取るに足らないメイドでしかなくて……」

「あはははは、また顔を真っ赤にして。可愛い子だねぇ」

 知り合って十分の老婆に弄ばれる紅凪。しかし、このばあ様の感想には全く同意だ。にしても、本当に褒められるのに慣れていないんだな。これだけ容姿が良くて、更に仕草一つ一つまであざといレベルに可愛いんだから、嫌でも注目を集めるだろうに、褒め言葉を適当に受け流す術さえ持ってないなんて。

 婆さんも言ってたが、有能さと不器用さのギャップが面白くて、ついつい俺も追い討ちをかけてみたくなった。

「じゃあ、とりあえず夜まで適当に時間を潰すか。この辺りの観光でもしてさ。な、お姫様?」

「や、靖直さまっ」

「はははっ、本当、可愛いやつだな」

「首をもぎますよ」

「な、なんでそこまで処刑法が具体的なんだ!?」

 ……もしかすると、彼女の赤面とは恥ずかしさから来るものではなく、殺意の表面化ゆえの赤面なのかもしれない。そう思うと背筋に薄ら寒いものを感じるが、それでも紅凪が半泣きになったり、怒ったりする姿は可愛いので、きっとやめられないんだろうな。……将来的に、本当に腕の骨ぐらいは持っていかれそうな気がするが。

「……馬鹿ップルは遠慮してもらいたいんだがね」

「お婆さん」

「ん?」

「持って後二十年ない命、わざわざ寿命を縮めることはないと思いません?」

 ――このメイド、キレる時は年寄りにすら容赦なく、危険につき、過度に褒める、恋愛的な話を振る、その他の彼女の気分を害しそうな触れ合い方を禁ずる。

 彼女が宝石店のショーケースではなく、動物園の檻に入れられるとすれば、こんな感じの注意書きの看板が近くに設置されるはずだ。

「靖直さま。とりあえず、わたしが考えていることをお話します」

「え?あ、ああ。あの霊園の件についてな」

「……他に何のお話があると言うんです?」

「そうだな。たとえば……料理についての詳しい話とか?」

「今は仮にもお仕事中です。そういった楽しいお話は、わたし個人としては確かにしたいところですが、今はお仕事に専念しましょう」

 これからしばらくの間、仮の宿となるホテルの一室。出先での宿代は、全て必要経費として兄貴が払ってくれる。俺が自腹を切る必要はないし、給料から差し引かれることもないから、多少は豪華な部屋も取れるのだが、残念ながら。本当に残念ながら、俺と紅凪は別の部屋だ。俺はダブルの豪華な部屋を取ろうとしたのだが、安いシングル部屋を二つ取られてしまった。高いダブル一部屋と安いシングル二部屋なら、後者の方が安く付く。兄貴はああ言っていたものの、経費が少なくなった方が給料も良くなるのでは、という理屈なのだが、どう考えても俺の襲撃を警戒した防護策に見える。

 今は夕食後、俺の部屋に紅凪も来ているのだが、話が終わればきっと部屋に帰ってしまうのだろう。霊園の警備員は九時には帰ってしまうため、俺達が張り込むのはその後だ。更に限定するなら、やはり日付が変わった頃が一番怪しいらしい。霊園は街の中でもそれなりに奥まった所にあるが、そこそこ大きな道路に面しており、日付が変わる以前はそれなりの車や人の通りがあるためだ。何かがあれば、通行人が一人ぐらい目撃していてもおかしくないはずだからな。しかし、さすがに夜のない現代であっても、午前一時や二時にもなれば人通りは減る。何かが起こるとすれば、その時だと考えるのが自然だ。

「霊園のお婆さんの話に、カメラを設置しても犯人を捉えることは出来なかった、とありましたよね。靖直さまも、この言葉には引っかかりを覚えたのではないでしょうか」

「ふむ……まあ、今のカメラ技術を使えば、犯人が映らないって方が不自然だな。それこそ、幽霊の仕業みたいだ」

「そう、幽霊です。もしも幽霊であれば、カメラの映像には残りませんし、動く物に反応するカメラも、認識してシャッターを切ることは出来ないでしょう」

「おいおい、紅凪まで、あの婆さんみたいにゾンビや鬼火を信じるって言うのか?」

 紅凪が控えめに溜め息をつき、なんとも情けなそうな顔で言う。

「……本気で言ってませんよね。ゾンビは映画の登場人物、鬼火は目の錯覚、あるいは漁り火が正体です。エクトプラズムもありませんし、生霊も死霊も精霊も悪霊も、みーんなテレビのデタラメです。ただ、そういう常識では語れないものが一つだけ。一種類だけ存在することを、既に靖直さまはご存知のはずですよね」

「ええ?……なんだ、それ」

 今度は、一切の遠慮がない溜め息。そ、そこまで俺は、不甲斐ない返答をしたのか。

「今、目の前にいます。靖直さま達、人間の方はわたし達を認識し、触れることさえ出来ます。ですが、どうやら意思を持った宝石が作り出す、この仮初の体を認識することが出来るのは動物だけで、機械の目はわたし達を捉えることは出来ないのですよ。フィルム式のカメラで写せば、その姿を写真に焼くことも可能ですが、デジタルカメラ、ビデオカメラの類では駄目です。わたし達の姿は電子の目をすり抜け、いないものとして扱われます。着ている服や、本体である宝石すら認識されないのは、実にオカルトチックな不思議な力が働いているとしか思えませんが」

「あー……兄貴が言ってたな。紅凪とツーショットの写真が撮りたければ、ポラロイドカメラでも買って来いって」

「その通りです。ですから、霊園の幽霊の正体とはわたしと同じような宝石。良嗣さまが靖直さまを向かわせたのは、正しい判断だったということですね。正にわたし達の“お仕事”です」

「でも、宝石が石を砕いて回ってるのか……正に怪事件だな」

 紅凪が対処出来そうな事件だというのが判明したのは大きいが、まだまだ一般人に近い価値観を信じている俺にしてみれば、犯人が人間から宝石になっただけで、おかしな事件だという印象は変わらない。そもそも、俺にしてみれば墓石を砕く、そういう行動自体がクレイジーで理解しがたい。たとえ人とは異なる力を持つ宝石であっても、それなりの労力を割かなければそんな破壊活動は出来ないだろうに。

「動機についても、ある程度は予想が出来ています」

「……マジか。本当に名探偵だな」

「お婆さんの、“石泥棒”という表現。アレが大きなヒントになりました。つまり、壊された墓石はそのまま持ち去られたように見えた。少なくとも、破片がいくつもそのままで放置されたという訳ではない、ということになります」

 その行動も疑問の一つだ。ざっと見た感じ、あの霊園の墓石はほとんどが花崗岩で出来ているようだった。大理石ならともかく、何の変哲もない花崗岩の破片が高く売れるとは思えないし、犯人が宝石ともなれば、よりその行動には疑問が残る。

 意味不明な行動、と一蹴して思考を停止すれば話は楽なんだが、そうしてしまおうと一瞬でも考えてしまう辺り、俺には物事を推理する方面においての才能がないんだろう。いや、才能があると思ったことは今までの人生で一度たりともないが。

「犯人は壊した墓石を、なんらかの目的に使用した。そのため、現場からそれが失われている。相手はどうやら宝石――それも、人型をしているのか、魔物の姿をしているのかすらわからない。ならば、ある意味で自由に想像することが出来ます。私が考えたのは、あくまで一つの可能性に過ぎませんが――靖直さまは、あの霊園の墓石をよく見ていました?」

「そこまでよく見ていた訳じゃないけど、ほとんどが花崗岩で出来てたのは覚えてるな。後、何か特徴的な物があったか?」

「一つだけ、大理石で出来た墓石がありました。他よりも大きく立派だったので、目に付いたと思うのですが……」

「いや、そう言われても、行きと帰りにちょっと見ただけだからな……。そんなのがあったのか」

「はい。わたしは、その墓石に宝石――恐らくはガーネット辺りがはめられているのに気付いていました。恐らく、この地方の名家のものなのでしょう。大理石と言えば、お金持ちが好んだ墓石ですから。耐久性は悪いんですけどね」

「はー……。で、それが何か関係あるのか」

「宝石まである豪華なお墓が狙われていないということは、宝石やお金を求めて破壊活動をしている訳ではない、ということになりますよね。つまり、犯人は石をその他の目的に使用しているんです」

 と言われても、それが想像出来ないから、俺は既に推理を放棄している。紅凪はここから、何か突飛にして的を射た想像が出来ているのか……?

「食べる、なんて考えてみるとどうですか?」

 自信満々な顔。多分、初めて見た彼女のドヤ顔だ。可愛い。可愛いには可愛いんだが、その顔をして言ったことがあまりにも……。

「紅凪」

「はい?」

「紅凪は今のままで十分可愛い」

「な、何をいきなり言っているんですかっ」

「だから、露骨な天然キャラを気取る必要なんてないんだぞ」

「違います!――我々は、人と同じように食事をする必要がありません。その動力源は石に蓄積された“人の想い”であり、生活の中で失われていくものなのですが、それも人に混じって生活をしていればまかなうことが出来ます。ですが、人が食事をするのと同じ要領で石を取り込むことで、自らの本体である宝石の力を消費することなく、代わりに食した石の力の消費で活動が出来ます。自分の動力源が増える訳ですから、車のバッテリーが増えたようなもの。自身が元から持っていた力と併用することで、瞬間的な能力の強化も可能です」

「なるほど……。よくわからないが、そういうことなんだな」

「………………」

 思いっきりジト目で睨まれてしまった。ここに来て、紅凪の表情のバリエーションが増えて来た気がするな。それだけ打ち解けて来た、と判断して良いのだろうか。

 いや、いくら俺の頭が残念で、加えてこの手の話についてド素人だといっても、なんとなくその仕組みはわかる。つまり、石が石を食うという共食いで大きな力を得て、どうにかしよう、という魂胆なんだろう。いや、もしかすると特に目的はなく、力がないよりはある方が良い、っていうはた迷惑な動機でこんなことをしてる可能性もあるが。

「今はまだ、霊園の被害で住んでいますが、コンクリートだって一応は砂利の集まりですし、建材として長く人と共生することで、想いを溜め込むようになります。それに、人の生活圏が犯人の活動域に重なることだって有り得ますから……。早急に相手と接触し、必要に応じた対処が必要ですね」

「一応、回収が目的なんだろ?」

「相手が人型であれば、恐らくは交渉が出来ると思いますし、強い悪意を持っているとは考え難いですが、魔物型であれば、そもそも意思の疎通が出来るかも怪しいので、どうなるかわかりません。それなりの心構えはしておかないと」

「……石だけに、意思の疎通か」

「医師を呼びましょうか」

「うお、普通に上手いな。座布団一枚!」

「未だかつて、ここまで嬉しくない称賛があったことでしょうか……」

「いや、でも日本語はすごい上手いよな。でも、あの婆さんと話す時は普通にイギリス英語だったし、言葉を覚えたのも最近なんだろ?もう二カ国語を使いこなすなんて、純粋にすごいと思うぜ」

「それは……まあ、英語は宝石時代から普通に聞いていましたし、日本語は単純に興味がありましたし、どうせなら靖直さま達と母国語で話をしたかったので」

 なんとも勉強熱心なことだ。家で日本語を話し、外では英語を話すことにしていた俺でも、両方を日常生活に支障のないレベルで使いこなすのには結構な時間がかかったと思う。どうも日本の大地を踏んだことのない俺は、流れる血は日本人のものでも頭は英国式らしく、最後までネックになったのは日本語の方だった。英語を日本語に訳すのに、一体どれだけ苦労したことか。

 多分、紅凪や彼女達みたいな宝石の化身は、人とは大きく頭の出来方も異なっていて、学力は元から高い方なんだろうが……それにしてもすごい。ジョークセンスもあるし。

「とりあえず、靖直さま。戦いに備えて、これをお持ちください。出来るならば使用するような事態に陥らないで欲しいのですが」

「ん、なんだ?」

 手を出すと、柔らかな紅凪の手が小さな物を手のひらに乗せてくれる。銀色のそれは……指輪だった。それも、しょうもないおもちゃの指輪じゃない。俺の目に狂いがなければ、ダイヤ。カラット数は兄貴の店で見たものに比べれば大したことないが、確かな本物のダイヤのように見える。

「これって……」

「違います」

「ま、まだ何も言ってないぞ」

「では先手を打って言っておきますが、エンゲージリングなどではありません。決して。そもそもこれを用意したのは良嗣さまですよ。もしもの時、靖直さまのことを守ってくれる力となるものです。まあ、今は必要ありませんので、なくさないように適当な指にはめておくのをお勧めします。それほど目立つ指輪ではないので、はめたまま生活をしても違和感はないと思いますよ」

「なんだ、そうか……」

 さすがに男。しかも兄貴からのプレゼントの指輪で喜べるほど、俺は雑食じゃない。ただ、大元は兄貴の物であるとはいえ、初めて紅凪からプレゼントしてもらった物品であることには変わりなく……。大変。それはもう大変プレシャスな指輪であると言える。そこで俺は、大して迷うこともなくその指輪を薬指に通していた。さすがに右手の。

「よかった……」

「もしも左手薬指なら、どうしたんだ?」

 意地の悪い質問だと理解しているが、あえて聞いてみる。

「薬指どころか、命すらもらっていたかもしれません。いえ、きっとそうです。そうに違いありません」

「それは……さすがに、困るな。思い留まって正解だった」

 まさか本気だとは思えないが、今日だけでもかなり紅凪の好感度が変動する(無論、マイナス方向に)イベントを起こしてしまっている気がする。これ以上は下手に刺激しないのが賢い男というものだろう。……もう手遅れか。

「そうですね。では……もう少し、各自自由にしましょう。出発は十一時過ぎた頃が良いと思います」

「わかった。じゃ、とりあえずお疲れ。ゆっくり休んでくれ」

「ありがとうございます。靖直さまも、寝坊をされない程度にお休みください」

 引き留めることも考えたが、背中を向けて去って行く彼女へ伸びるはずの腕は、途中で引っ込められてしまった。

浮かれ過ぎている、とは昼に紅凪が言った言葉だ。確かに俺は、可愛いメイドが出来たことを喜んでばかりで、気楽なニートの身分から社会人になったことをしっかりと受け止め切れていなかったような気がする。

 それに、いくら人ではなく、兄貴の知り合いとはいえ、紅凪とはまだ会って数日の間柄、そこまでべたべたとして良い相手ではないのかもしれない。少なくとも今の内は。

 そんな気持ちが、俺に躊躇をさせていた。紅凪のエプロンドレスの背中の白いリボンが宙に流れ、最後に俺の方を向いて一礼し、紅凪が部屋から消えていく。一生の別れなどではなく、ほんの数時間の別れなのに、俺はもう彼女に会えないような気がしていた。

 川の水の流れは絶えることがなく、決して水が留まることはない、と詠んだのは日本の有名な隠者で、日本との関係が希薄な日本人である俺でも、なんとなくその男の言葉は知っている。

 また、少年は老いやすく、学が成りがたい、と言ったのはどこの偉い人だったか。さすがにここまで来ると、学のない俺にはわからない。成績が悪かったつもりはないが、学校の成績が良いことと、学者になるということは同義ではないし、ヨーロッパの地でアジアのことを学ぶことは難しい。当然と言えば当然だろう。

 とまあ、色々と並べ立てたのは良いが、結論を出そう。そんな昔の賢人達の言葉は、おおよそ嘘だ。紅凪が去り、静かになった部屋は……残酷なほど寂しく、虚しく、一分の時の流れが一時間にも等しいほどだった。過去、これほどまでに数時間が長く感じられたことはない。

 そんな拷問めいた時間の後、再び紅凪と顔を合わせることが出来たのは、俺にしてみれば奇跡のようなものだった。その喜びが顔にも表れていたのか、紅凪は変なものでも見るような顔を一瞬だけしたが、すぐにいつもの微笑を湛えた表情に戻る。

「靖直さま」

「ん、どうした?」

「わたしは、子犬はすごく好きです」

「な、なんだ。急に」

「ですが、大きな犬が甘えたような目つきをしても、あまり可愛いとは言いがたいですよ」

「すっごい遠回しに俺の表情をディスってくれたなっ」

「だって……なんですか、その顔は。そんなに心配しなくても、わたしは靖直さまの傍を離れませんから」

 一切の作為がなく、天然で言った言葉なのだと思う。だが、彼女にとっては特別な意味を持たない言葉でも、今の俺にとっては大きな意味を持つ言葉なのだと、耳と脳とは感じ取っていた。

 一人でいた間の俺は、仕事をしていくこれからの俺と、俺をサポートしてくれる紅凪との関係のことについて悩んでいた。悩み続けていた。結局、本気で一つのことを考え抜いた経験のない俺一人では結論が出なくて、いつの間にかに自分の情けなさを自分で責め立てるだけの思索になっていて、気分はどんどん暗くなっていった。そしていつしか、俺がいて良いのか、という問いさえ持ち上がって……。

「靖直さま。顔芸が悪化し過ぎです。そろそろ真剣に気分を害するようになって来るので、即刻やめてください。もしもやめれないのでしたら、わたしが直してあげても良いですが」

「か、顔芸ってなぁ……。ちなみに、どうやって直すんだ?」

「スネの辺りを蹴り上げれば、苦悶の表情になり、少なくとも今の絶妙な顔芸はなくなりますよね。あ、今はもう自力でかなり戻って来ましたが」

「紅凪……。なんかさ、俺、時間の経過と共にお前の化けの皮が剥がれて来ている気しかしないんだ。お前の毒舌と脅迫の数々ってさ、実は全部、俺の緊張をほぐすための冗談だったりするんだよな?兄貴に渡された台本通りに喋ってるだけなんだよな?」

「靖直さま」

「はい……」

 なぜか敬語。

「女性に夢を見過ぎでは?」

「うわあああああ」

「あ、また顔芸。しかもすんごく情けない顔で、なんとも嗜虐心を刺激して来るのですが、その辺りについては」

「お、お手柔らかに頼む。紅凪の力がどれほどのものか知らないけど、多分本気で蹴られたりしたら、泣くからな……」

「すっごく泣かしたくなりました」

「…………勘弁してください」

「特別に許してあげましょう。ですが、これに付け上がらないでくださいよ。いくらメイドだからと言っても、弱みを見せたら寝首をかかれてもおかしくはないんです」

 そんな緊張感のある雇用関係は嫌過ぎる……が、紅凪と言葉を交わしていると、気分が明るくなって来て、彼女の言う顔芸……酷い表情も、みるみるマシになって来たのが自分でもわかった。

 毒舌を振り撒いて酷いことをしているみたいだが、これこそが彼女流の優しさで、人を明るくさせる天性の才能なのかもしれない。

「もう良いですね。では、行きますか。何が起こるかわかりませんので、細心の注意は払っておいてくださいね。いざとなれば、形振り構わず、惨めったらしく、無様に逃げおおせてください。わたしはそれをおかずにお菓子をいただくので」

「……前言撤回、やっぱりお前、マジもんの鬼畜ド外道だな!」

「前言がどういうものかは知りませんが、褒め言葉と受け取っておきますね」

 当然ながら本気で言っているのではないとわかっているのか、紅凪は微笑を崩さずに歌うような調子で言う。

 ついさっきまで彼女との距離感で悩んでいた俺だが、今ならばはっきりとわかる。彼女は俺が恐れていたほどに俺との距離を感じてはおらず、俺もまたこの素直じゃないメイドと接する時には、中途半端に遠慮をする必要なんてないのだと。

「ふふっ、やっと元気が出て来た感じですね。靖直さまはわたしのご主人さまなのですから、平時から景気の良さそうな顔をしておいてください。でないと、わたしのテンションまで下がってしまうではないですか」

「そうか、わかった。俺も、紅凪のしょんぼりとした顔を見るより、元気そうな顔を見ていたいからな」

「そういうことです。メイドとご主人さまなんて持ちつ持たれつの関係なのですから、人の顔色を伺う前に、自分が健全な状態でいることを心がけてください。――わたしも、その方が嬉しいです」

「お、ツンデレか?」

「……ち、違います。大体、三次元にツンデレ美少女なんていないでしょう。常識的に考えても。夢を見るのはヒキニートさま御用達の万年床部屋だけにしておいてください。妄想垂れ流しを聞いていると、割と真剣にテンションが駄々落ちるので」

「そういうことを、本気で思っているようにすらすら言われると、とても健全な精神状態でいられる自信がないんだが……」

「慣れてください。後、本気もかなり入っています。脚色は二割程度しかありませんね」

「なぁ、心を折って良いか……?」

「靖直さま、嘘はいけませんよ。まだほんの数日しか観察はしてませんが、靖直さまはこれしきで壊れてしまうほど繊細なお心は持っていないかと」

「お、折るどころか壊す気でいるのかよ…………」

 紅凪は相変わらずの微笑。何か問題がありますか?とでも言いたげに細められた目が怖い。真剣に怖い。いずれ飼い犬に手を噛まれるどころか、心臓をばくぅ、とやられそうで大層怖い。

 夜の町は絶妙な雰囲気があり、ホテルから二人で出て来てそんな中を歩いていると、まるでこれはデートなのではないか、という錯覚に囚われる。が、あくまで錯覚だ。そこを弁えた上での紳士的な行動が俺には求められて……云々。

「まだ少し車が通ることもあるようなので、くれぐれも注意してくださいね」

「ああ、紅凪こそ。なんなら手でも繋いで行くか?」

「うわっ……」

「リアルな反応はやめろっ。また涙が出て来るだろぉ……」

 と、こんな感じに調子に乗って傷付くのは俺の方だ。見た目だけなら幼く、ガードも緩いように見える紅凪だが、その鉄壁さ加減はロングスカートに隠された彼女の下着やソックスにも似ている。……と言うか、初めて会った時から思っていたんだが、青羽さんのような妙齢の女性ならともかく、彼女みたいな“少女”はロングスカートに長袖のエプロンドレスを着る必要がないだろう。暑いんだし。

 もっとこう、露出の多いメイド服を着るべきだ。たとえばミニスカ、たとえば胸元が見えそうなディアンドル調の服、最低でも半袖でスカート丈も多少はソックスが見える程度で。

 兄貴の奴、ハーレムを作り出している割には欲がないと言うか、変なところでこのイギリス国の伝統を踏襲していると言うか……もっと俗物になってくれても良いのにな。

「あ、ところで紅凪、ソックスは何色なんだ?」

「下着の色を聞いてきたのでしたら強打しているところでしたが、これはこれで嫌悪感を覚える質問なので、暴力を回答拒否という形に変えて応対させていただこうと思います」

「いや、ただの靴下の色だぜ?……まさか、裸足か?靴の素足履きという、実は結構好きなジャンルをたしなんでいるのか!?」

「靖直さま。確かにロングスカートで靴下すらロクに見えないので、欲求不満が溜まっているのはわかります。ですが、隠れているものを見たがる好奇心を如実に表現するというのは、はっきり言って軽蔑するのに値する変態的な行動であるとわたしは思います」

「ふっ、紅凪、お前はまだまだ俺のことを理解出来ていないらしいな。俺は変態的なんじゃなく、変態なんだ。モノホンの」

「…………やっぱり、強打します」

 それと同時に鳴り響く風切り音、今度ばかりは本当に殴られるのも覚悟したが、やたらと切れ味の鋭いフックの素振りだけだった。しかし、なんとも様になっている。護身術として武術を習っているとは聞いたが、まさかその武術ってボクシングの類か?

「白のハイソックスです。きちんと答えてあげたんですから、これ以上恥ずかしいことを言わないでくださいね。ご主人さまが変態だと、メイドの品性も疑われます。気を付けてください」

「お、あ、ああ。ありがとう」

「何を感謝しているんですかっ。さっさと行きますよっ」

 耳まで顔を真っ赤にした紅凪は、早足になって霊園の方へと向かった。軽く肩を怒らせて歩くのが妙にコミカルで、普段の彼女とは少し違っていて面白い。

 

「――奇麗な霊園だったが、やっぱり夜になると雰囲気出るな……」

 合鍵で門を開け、静かな夜に包まれた霊園の敷地内へと足を踏み入れる。陽が落ちても奇麗でよく整備されているのは変わらないが、どうしても怪談的なテイストが出て来て見えるのは、俺の意識の中に墓イコール何か出るもの、という等式が出来上がっているからだろう。最近になって人の姿と人の常識を得た紅凪は、女の子なのにあまり怖がった様子がない。

「丁度この辺りは街灯も少ないですからね。奥へ進んでいくと、より灯りが届かず、真っ暗になると思います。それだけに、隠れてこそこそとするのには好都合な訳ですが……。靖直さま、足元には気を付けてくださいね」

「そうだな。もしもこけたら、その時は助け起こしてくれよ」

「わたしも暗闇ゆえに、軽く靖直さまの頭を踏み付けてしまうかもしれませんが、了解です」

「確信犯はやめろよ……」

「その語句の使い方は誤用ですが、わかりました。事故を装わず、堂々と頭でペナルティーキックをさせてもらいます」

「踏み付けるにより進化してるのはどういうことだ!?」

 懐中電灯は用意して来ているし、仮にその電池が切れても携帯の液晶で照明の確保はなんとかなる。が、そんな少量の灯りでは不気味であることには代わりないので、紅凪のいつもの毒舌を絡めた無駄話はありがたかった。彼女も、俺のためにやたらと豊富な語彙を活用してくれているのだろう。

 それにしても、彼女のような女の子の口からサッカー用語が出て来るとは。確かに、かつてはイギリスといえばサッカー、サッカーといえばイギリス、とは世界的な共通認識だったが、それも過去の話。年々競技人口は減っていき、中継も減り、サッカー先進国が衰えるということは、世界的にスポーツとしてのサッカーが衰退することを意味し、どんどんと人気はなくなって行った。その関連用語を少しであったとしても、人の社会に入って間もない紅凪が知っているなんてな。

 とはいえ、こういった衰退はどのスポーツでも起きていて、かつての影響力が大きかっただけに野球とサッカーに限って話される気はするが、テニス、バスケ、その他球技、新体操や各種格闘技もそう大きくは変わらない。代わりに台頭して来たのは、言うまでもなく電子的な試合。ゲームの大会が近年は爆発的に増え、賞金もかつてからは考えられないほどに高額化、ゲーム大会における賞金稼ぎが群雄割拠する時代となって来た。

 ちなみに、俺もかつてはプロゲーマーを目指したことがある。しかし、オンラインで出会った父の代から続く天才ゲーマー、ウメタケにパーフェクト負けしたことから諦めざるを得ないことになった。動きが変態過ぎて、あれに勝つことはあり得ないとゲーマーの勘が告げたからだ。――あの次元まで到達するには、人として大事な何かを犠牲にしなければならない。俺にはそれが出来ない、と。

「そう広くはない霊園ですが……これでほぼ一周しましたね。不審な物音はありませんし、これといって嫌な気配もありません。しばらく見張って、あまり遅くならない内に戻りましょう。朝まで起きているのは辛いですし、来ない日は来ないものだと思います。一体、どれだけの時間をかけて墓石の破壊が行われるのか、それがわからないのが痛いところですが……」

「長時間かけるなら、偶然居合わせることもあるだろうが、すぐに終わるなら本当にずっと見張らないといけないからな……。ぶっちゃけ、紅凪が適当な墓石を壊すとして、どれぐらいかかる?」

「魔物型の場合、わたしのような人型のデータはあまり参考にならない気もしますが……きちんと一個丸々全てを壊すのであれば、三十分は欲しいところです。正直、それでも石の強度によっては厳しいと思います」

「でも、紅凪は女の子だしな。魔物なら、その二倍のパワーぐらいは出せるか?」

「どうでしょう。人の体格をしていない以上、四倍や五倍。十倍だってあり得るかもしれません。石の大きさ、価値、元々から石の持っている性質、その他が複雑に関係し合って力の強さは決まりますから。これでもわたしはかなり純度の高いルビーですので、破壊だけに関して言えば、他の宝石に比べて強い力を持っているんですよ。あくまで人型、女性型に限った場合になりますが」

 得意気に軽く胸を張ってみせる。あ、今軽く揺れたな……なんて報告したらジョーをあのフックで打ち抜かれそうなので我慢するとして、もしかすると相手は想像以上に凶悪な奴なのかもしれない。紅凪がいてくれる、というだけでなんとなく安心していたが、もしかするとこれは大変な初仕事になるのでは……。

 そんな嫌な予感があったが、まあ男の勘なんてものの精度なんて知れている。外れてくれると良いんだが。

「けど、紅凪。相手との戦いが避けられないとして、殴ったり蹴ったりが通用するような相手なのか?俺の勝手なイメージだけど、宝石の魔物って、やたらとかったいイメージがあるし」

「硬いとか柔らかいとかは、結局は個人差、その個体によって異なりますが、確かに靖直さまが思い浮かべられているであろう、ガーゴイルのようなものに物理的な衝撃はいまいち効き目が薄いですね。ただ、本当に完璧な生物などいません。きちんとその場合の対抗策はわたしも持ち合わせています。むしろ、そちらが本業になりますね」

「へぇ、それは……?」

「まだネタばらしはしなくても良いでしょう。こういうお楽しみは、後の方に取っておくものですよ」

「は、はぁ。そういうものなのか?」

 よくわからないが、ともかく霊園を見張るため、昼の内に用意しておいた折り畳み椅子を設置する。さすがに墓石に腰かける訳にはいかないし、昼間にばあ様がいたあの小屋にいたんじゃ、霊園の隅で行われる破壊活動に気付けないかもしれない。二人で分かれて見張りをして、もしも相手が来たら携帯で連絡、すぐに合流するという段取りだ。

「靖直さま。くれぐれも気を付けてくださいね」

「はぁ、早く出て来てぱぱっと仕事を終わらせたいけど、俺の方には来て欲しくないなぁ」

「こういうものは大抵、そういうことを言っている人の方に現れて、頭から美味しくいただかれてしまうのが常ですよ。フラグの建築は完了、後は回収するだけですね」

「あ、やべ。すぐにでもへし折りたいんだが、どうすれば良いと思う?」

「死亡フラグほど立てやすく、回避しづらいフラグもないと思いますよ。恋愛フラグは全然立たないのに、世知辛い世の中ですねぇ」

「ああ、全くな…………」

 紅凪は手を振り振り去って行き、俺一人が取り残された。それと同時に不安になるが、数時間前のような不安とは、本質的に異なっている。あれは俺の心から自然に湧き上がって来た、形も色もわからない捉えどころのない漠然とした不安だったが、今度はもっとわかりやすい。暗闇の霊園に一人きり、加えて幽霊ではなく謎の魔物という襲撃者が、数日間見張っていれば必ず現れるという大盤振る舞いな状況。そこに一般人が放り込まれた場合、どうして不安を覚えず、恐怖を感じないだろうか?

 仮に襲われても、すぐに紅凪が助けに来てくれる。それはわかる。でも、先制パンチでいきなりKOされたら?ぶっちゃけ、頭とかすっ飛んで行ったら?そこで俺はジ・エンド。残念!俺の人生はこれで終わってしまった!という訳だ。ここが地獄ではなく現世であり、俺が聖人ではない以上、復活もあり得ない。命は一つだけ。どんな人間も平等に。

 そんな当たり前のことが両肩を押し潰さんばかりにのしかかる。本当に俺なんかが出来る仕事なのか……?いや、そもそも兄貴が今までこんなデンジャラスな仕事をしていただなんて、宝石商ってこえー。いや、社会人こえー。社会の荒波とか言うけど、それってこんなに物理的に厳しいものなのか?弱肉強食を地で行き過ぎだろ……。などなど、社会不満が無限に湧き出て来るが、こんな仕事が世間一般にごろごろしてるなら、そんな社会は正にディストピアだ。ノストラダムスの予言通り、二十世紀末に恐怖の大王が降臨したとしか思えない。

 兄貴の仕事がクレイジー過ぎるんだろう……。そして、そのクレイジーな仕事に巻き込まれた俺もまた、クレイジーに生きてクレイジーに死ぬという訳だ。――いやいや、冗談じゃないぞ。俺はこれからも紅凪に心をへし折られそうになりながらも、最高に可愛いし性格も良い(?)彼女の傍にいるんだ。こんな程度の短い付き合いでお別れだなんて、とんでもない!

 ある意味でどんな欲望よりも強いその欲望に縋り付くようにして、なんとか強気を保つ。今までの俺の生きるための目的なんて、精々ネトゲかアニメ。いや、それ等は今でも実に素晴らしいものではあるのだが、初めて出来た三次元の希望は間違いなく紅凪だ。彼女のためなら、どんな暗黒だって受け入れられる……ようにも思える。

「とはいえ、なぁ……」

 不安がマシになると、今度は退屈さが勝って来る。ある一定以上の緊張感を保つ必要がある、それは確かなことだが、いつ来るかも、また本当に来るかもわからない相手を待ち、ただひたすらに時間を潰す。携帯をいじるにしても、その一瞬の内に全てのことが終わってしまったら、俺は魔物ではなく紅凪にぶち殺されることになるだろう。それはそれは惨たらしく。

 だから何をすることも出来ず、椅子に座り、霊園の石畳の溝に生えている苔や、名も知らない草の観察に精を出す。見ていて何も面白くないが、何もない虚空を見つめ続けるよりはいくらかマシだろう。あんまり下を見ていても見張りがきちんと出来ないかもしれないが、そんなに真剣に注視している訳じゃないから、何か動くものがあれば気付けるはずだ。

「そう、たとえばこんな感じに」

 背後で着地音がした。ああ、嫌な音だ。足元の石畳が砕けたような音にも聞こえるが、ともかく二百キロは軽くありそうな巨体が着地した音、人間でここまでの巨漢はまずいないだろう。いたとしても、自分の足で歩けるとは思えない。……はぁ、俺の方に来たよ、紅凪。フラグ建設はばっちりだったな。

 限りなく見たくはないが、電話と懐中電灯を同時に構える。全力で後退りしながら。

「紅凪、間違いない、来た。身の丈は……三メートルぐらい。体は多分、ほぼ真っ黒。若干紫がかっているか、とにかく闇色の奴だ。体がデカ過ぎて全身像はわからないが、筋骨隆々、そう、神話のミノタウロスみたいな感じだ。武器とは持ってなさそうだが……うわっ、拳の一撃で墓石を砕いたよ……。もしかすると、すぐにでも逃げ出すかもしれな……足止めって、そんなん出来るかよ!」

「出来る出来ないの問題ではなく、するんです。それが物語の勇者さまというものですよ」

「いや、俺、勇者じゃないし!民間人だしっ。圧倒的に弱者だしっ」

 真顔で言ってやった。どこからか迫って来る声の主に。

 そして、巨大な松明のようなものの炎に照らされるようにして、紅凪が現れた。いや、松明なんかではなく、持ち手以外の全てが燃え盛っている木製の杖だ。あれだけ派手に燃えているのに、杖自体は炭化するそぶりなどはなく、炎はむしろ更に強くなる。間合いまで届くと、紅凪はその炎そのもののようになった杖で、思い切り現れた怪物を打ち据えた!

「これがわたしの力です。炎を操る力――魔法とでも言いましょうか」

「お、思いっきり物理だけどな……」

 魔法と呼ぶには少々スマートさに欠ける一撃だったが、巨体ゆえに鈍重な悪魔にこれはクリーンヒット。唸り声を上げ、しかしそれと同時にその体が火炎に包まれた。杖の炎がまるで生き物。炎の蛇か竜のように敵の体に絡み付いて行き、その体を焦がしたのだろう。

 炎の蛇が体中に食らい付いたことで、やっと悪魔の全身がはっきりとわかる。やはり、第一印象と同じ牛のような頭をしている。その体は筋骨隆々な巨人のもので、しかし足はよくよく見ると二本足であるものの、ヒヅメがあるので馬のようでもあり、ミノタウロスの上半身と、ケンタウロスの下半身を持った化け物、と言ったところか。造形的に不安定で、神話中に出て来る数々の合成獣よりは、人間が科学的に作り出したキマイラのような印象を受ける。もちろん、そいつ等もSF世界の住人なので現実世界に出て来るのは信じがたいんだが。

「あの体の色、艶……黒曜石ですね。非常に硬く、また炎にも強い。これぐらいで倒せる相手ではありません」

「本体の石だけじゃなく、あの怪物の体まで黒曜石で出来てるのか……?そんなの、どうすれば良いんだ……」

「基本的に我々という生き物は、本体である宝石の形質をそのまま受け継ぎます。そのため、宝石自体の強さでこちらが上回れば、十二分に勝ち目はあります。たとえば、わたしのルビーは黒曜石よりも硬度が高いので、理論上は勝つことが出来ますね」

「なんだ、そうなのか。なら良かった」

 一応、宝石の勉強は始めている。確かルビーやサファイア、それからもちろんダイヤモンドは宝石の中でもかなり硬度があり、滅多なことでは傷つかないはずだ。ただ、あくまで硬いというだけであり、ハンマーで叩いたりすれば砕けてしまう。

 逆に言えば、叩かれさえしなければルビーは黒曜石には絶対に負けない、ということか。

「と、ご安心のところをごめんなさい。相手はどう見ても切り付けて来るタイプではなく、殴りかかってくるタイプの魔物です。ダイヤモンドと共にカッターとして使われることのある黒曜石の切れ味を捨て、打撃で勝負しようという心意気には称賛を贈りたいところなのですが、はっきり言いまして、わたしとの相性は最悪ですのでその辺りのご理解を」

「え、ええ!?」

「あ、わたしの攻撃方法も打撃のようですが、あくまで炎を直接触れて燃え移らせるための手段であり、この杖自体は武器としてはただの木の枝同然の粗末なものですし、わたし自身の力も強くないので……ご愁傷様でした」

「う、嘘ですよね。紅凪さん」

「残念ながら……」

 などと言いつつも、彼女の表情には笑みという余裕があることにも、俺は気付いていた。怪物を包んでいた炎が散り、再び霊園が暗闇に包まれるが、紅凪はすぐに空中にいくつもの炎を浮遊させて光源を確保する。知らない人間が見れば、これこそ鬼火に見えてしまうことだろう。

「で、俺はどうすれば良いんだ?紅凪に出来ないなら、俺がなんとか出来る……そう考えて良いんだよな」

「ええ。わたしのご主人さまが勘の悪い方でなくて良かったです。先ほどお渡ししたあのダイヤの指輪、その使い時が早くも来てしまいました。実はそれもまた、わたしと同じように自我を持った宝石なのです。ただ、お察しの通り、わたしや彼とは違い、生物の姿は持っておらず――」

 こちらにとっての灯りが確保出来るということは、敵からも一目見てわかるようになってしまうということだ。当然ながら奇妙なほどに太く、硬質の腕が振り下ろされてきたが、紅凪が手を引いて守ってくれる。自分で反応出来るならそうしたいんだが、想像以上に動きが素早い。決して機敏ではないが、瞬間的な動きの良さは結構なものだ。

「っ、話しながらだと舌を噛んでしまいそうですね。では手短に。端的に言いまして、そのダイヤは生物ではなく、武器を出現させることが可能です。それを用いれば、恐らくは黒曜石の体を切り裂き、倒してしまうことが出来るでしょう」

「俺が、戦うということか……」

「では、女の子に絶望的な勝負を続けさせます?わたしはメイドなので、その行動がご主人さまを守れるのであれば、喜んでしますよ」

 挑発めいた皮肉を言ってくれる。これを俺が煽るまでもなくやる気だってわかってて言っているのだろうから、この娘も大概悪女だ。だが、一目惚れした弱みという奴は厄介なもので、そんな一面すら可愛く思えてしまう。

「はっ、怖気付いたんじゃないぜ。これから俺があいつをぶちのめすのかと思うと、愉快過ぎて武者震いがして来たんだ」

「それはそれは……。大口を叩くからには、格好良いところを見せてくださいね。こう、剣を握るような手の形にして、気合っぽいものを入れればダイヤの剣が姿を表すと思います。多分。それで思いっきりやってしまってください。ただ、切り口や破片にはくれぐれも気を付けてくださいよ。相手は石器時代から今まで通用している鋭利な刃物ですし、あの魔物自体の衛生状態も良さそうではないので、傷口から変な病気とか感染しちゃうかもしれませんし」

「わかったよ。そんなに心配してくれて、俺のこと好きなのか?」

 今日一日の生意気の復讐とばかりに、自分でもちょっとうげっ、となるような台詞を振ってやった。すると、想像通りに紅凪は顔を赤くする。敵の足止めのために作り出した炎の防壁が赤く見せた、というだけでは説明が付かないほどの赤面だ。

「ば、ばかなことを言わないでくださいっ。わたしはあなたのメイドなのですから、ご主人さまの身の安全を考えるのは当たり前ですっ」

「そう言う割には、自分から俺のことを傷付けようとしてないか?」

「わたしは……その……。靖直さまを本当に傷付けようなんて思っていませんし、仮に心を傷付けてしまったとしても、それはわたしがメイドだからです。あんな理性もないような赤の他人に、大事なご主人さまを怪我させられるのは、プライドが許さないんですよ。……ですから、わたしも可能な限りは協力します。どうか、ご無事で」

「ふっ、は、ははっ。紅凪、本当にお前って子は可愛いな。あんまり可愛くて面白いから、ロンドンに帰ったら何かおごろう。今から考えといてくれて良いぜ」

 何も考えずに言ったんだが、不思議とフラグ臭くなってしまった。見事にさっき立てたフラグを回収してしまった手前、実に縁起の悪いことだが、ここで終わるなら俺の運とか実力とかはその程度、どうせ長くは続かないだろう。だからこれで良い。

 腕を突き出すと、ほのかな光と共に銀の柄、そして透き通るようでいて、しかしこの霊園を照らし出す紅凪の炎の光を反射し、オレンジ色に燦然と輝くダイヤモンドの刃が現れた。刃渡りにして一メートルと十センチほどの両刃片手剣だ。かなりの重量がありそうなのに、まるで体の一部であるかのように軽く、また柔軟に扱えそうだ。このダイヤの指輪にも自我があると言っていたから、もしかすると自重を自身の力で支えてくれているのか?

 不思議なことはいくつもあるが、俺が一人で考えても答えは出ないだろうし、紅凪に質問する余裕もなさそうだ。まるで競馬のレースがスタートした時のように、怪物の動きを止めていた炎の壁が消える。それと同時に飛び出す黒曜石の巨人。全てをなぎ倒してしまいそうなタックルをしかけるそいつに引っかけ、転ばせることを狙うように俺は剣を振るった。

 正面から迎え撃つのではなく、あくまで側面から、ほんの少し剣身を掠らせるように振り抜く。正直、この程度であの硬そうな体が斬れるとは思わなかったが――チーズか何かを切るように、刃が相手の体を滑っていくのがわかった。いや、固形物を切り裂くのではなく、水道から流れる水を切ろうとしているのに等しい。まるで抵抗がなく、下手をすればそのまま剣が飛んで行ってしまいそうだったが、元から軽く斬るつもりだったのが幸いし、なんとか踏み止まることが出来た。いくつか黒い破片が飛ぶが、そのいずれもが遠くへと飛んでいく。結果、魔物の右胴に大きな切れ込みが入ることとなった。

「な、すげぇ……」

 自分でも驚嘆の一言。手の中にあるこの武器がどれだけの威力を持っているのか、一瞬にして理解させられる。これは予感ではなく、実体験から来る確信だ。この武器は、本当に危険なものだ。使い方を誤れば、何人だって人を殺めることになる、兵器に他ならない。

 こんな一本の剣が大変な威力を持つのだから、魔物の姿をした宝石達が危険なのも当然であり、決してこいつを町に放つ訳にはいかない、そんな使命感も同時に湧いて来る。そのためにも体勢が崩れた奴に、そのまま追撃をかける……訳にはいかなかった。

 やはり、見た目よりは動作が早い。すぐに立て直すと、俺を強敵であると判断したのか、一瞬だけ俺を見た魔物は視線を反転、紅凪を見据え、逞しい二本の腕を地面に付け、四足で猪のように駆け出した。馬の脚力と牛の力強さが合わされば、それはもう生物の突進ではなく、一つの砲弾か、新幹線のような高速で走る乗り物の突撃と呼んでも差し支えがない。受け止めることはもちろん、回避も難しい。反射的に剣を投げ付けたが、俺に野球やバスケの心得はまるでない。移動することも計算して投げたつもりだったが、近くにあった墓石の角を見事に切り落とすだけに終わってしまった。

「紅凪!」

 口が勝手に言葉を紡ぎ出す。しかし、虚しい響きにしかならない。為す術もなく跳ね飛ばされた紅凪の体は宙を舞い、それでも体の一部が千切れるようなことがなかったのは、彼女がただの人ではなかったからなのかもしれない。……それから、妙に冷静に惨劇を傍観していた俺に気付いたが、これは俺が冷たい人間だからではない、と自分を納得させる。むしろ、紅凪を信頼していたからこその余裕だ。

 彼女達の本当の体は、あくまで宝石。人の姿をしたあれは、彼女達が活動するための仮初のものに過ぎない。だから、紅凪ならば絶対に宝石だけは守り抜いて、こんなにも早く俺と別れるようなことは避けてくれる。そう信じていた。

 予想通りに、乱暴に引きちぎったヘッドドレスに包まれたネクタイピンが、俺の方に向かって飛んでくる。更に、魔物の体は突然、炎に包まれた。最初の炎とは比べ物にならない火力で、よく見るとその出火元は俺がさっき付けた傷口。そこに杖がねじ込まれていて、それが燃え盛っているようだった。

「紅凪。ありがとう。すぐに連れ帰ってやるからな」

 こうなってしまった彼女をどうすれば良いのかは、まだ兄貴から聞いていない。だが、ロンドンに帰れば絶対に治療する手立てはあるだろう。置き土産と呼ぶには大き過ぎる結果を残してくれた彼女を労いつつ、その体を胸ポケットへとねじ込んだ。不思議な暖かさがあり、それが心地良い。

「さて……俺の大好きな人を傷付けてくれた落とし前、嫌ってほど付けさせてもらうからな。覚悟してろよ」

 すぐに剣を拾う……必要はなく、念じればそれ一つで剣は手元に戻って来た。そのまま駆け寄り、今度からは力いっぱい振りかぶり、一気に振り下ろす――!相手が振り向くのよりも早く背中をばっくりと切り裂き、そのまま振り返るのに合わせるように、横へと切り払う。右腕がねじ切れるように落ち、正面を向いたそいつの胸を袈裟がけに斬る。

 剣を習ったことはなかったが、代わりに俺にはゲームの経験がある。ただのゲームと思って馬鹿に出来ないのは、ずいぶんと前からゲームは体感型へと切り替わり、実際に剣を振るうようにコントローラーを振るのは日常的な操作方法になっていた。実際の剣は重いので、ゲームのようにはいかないのだろうが……この剣は特別俺によく馴染む。ずぶの素人の俺でも効果的な連続攻撃を放ち、後は急所……胸を貫くか、首を落とすだけだ。

 片方だけとなった腕が振るわれる。格好よく飛び退くような真似は出来なかったが、代わりに剣で防ぐ。剣の腹ではなく、刃を使って。本来なら刃こぼれしそうな防御法でも、この剣は違う。逆に相手の拳が飛んでいき、防御が攻撃にすり替わってしまった。

「ちょっと前なら、お前に個人的な恨みはなかったんだが、紅凪を傷付けた恨みだ。消えやがれ!」

 中段に構えた剣を振り下ろす。胸の宝石の温もりが勇気と活力とをくれるようで、踏み込みながらの一撃は驚くほど奇麗に、最も理想された形で入ったようだった。

 ――実際は、馬の足が俺の腹を思い切り蹴り抜き、吹き飛ばされて軽く意識を失ったので、全ては夢だったのだが――。

「っ、はっ……!う、そだろ…………」

 何もかもが、現実の出来事だとは思えない。

 腹部に、穴が空いていないのが不思議だと思うほどの痛み。墓石に叩き付けられた後頭部から出る、どうやら大丈夫じゃない量の血。それに呼応するように失われた右手の感覚――恐らく、血流か何かが原因で麻痺している。

 俺は完全に正しく動いていたはずだった。紅凪のため、がむしゃらになっていたような感じは確かにあったが、間違いない圧倒していた。そのまま奴を倒せるはずだった。それなのに、俺の体は今、濃厚な血の匂いに。死の予感に包まれている。紅凪の宝石ばかりが暖かくて、俺の体からは血と一緒に、体温が奪われていってるのがわかってしまう。

 見た目通り、この魔物の力は人間なんて簡単に殺してしまうほどだった。それはあの紅凪の吹き飛ばされ方から、わかっているはずだった。それなのに、俺はその教訓を活かすことが出来なかった。

 情けなさに、涙が出てくる。もしかすると血が混じっているのかもしれない。目が痛くて、視界はぼやけていて、剣を握り直すことすら叶わない。つまり、俺がこのまま生還出来る可能性は全て潰えてしまった。俺はこのまま、この怪物に惨たらしく殺される。そして、きっと紅凪の宝石も砕かれてしまうだろう。いや……こいつは墓石を食っていた。ならば、こんな奴に。こんな醜い怪物に紅凪が食われ――。

「く、そ……」

 悔しい。俺が今まで生きて来た中での、最悪の屈辱だ。なのに、まともに声すら出せない。実際には何もしないで、口だけが達者で、理想論をべらべらと語るのが俺の趣味のはずだったのに。

 黒曜石の左腕が、俺の心臓を叩き潰そうと迫る。防ぐ手段は、ない。生きる術なんて、ない。

 死を目前にして視界は霞んでいるのに、意識は恐ろしいほどクリアで、遠く教会の鐘が鳴っているような気がした。頭の中には天使がいるようで、不思議な充足感のまま、命が摘み取られる。やるせないはずなのに、臨終を直前にして俺は安らぎを感じていた。

『やけに諦めが良いんですね。わたしはまだ、諦めてはいませんよ』

 その声は、間違いなく紅凪のものだ。彼女はいないはずなのに――いや、胸元のルビーが、暗闇の中で痛いほどの赤光を放っている。その光はそのまま爆発するように強まり、黒曜の腕に少女が絡みつく姿が見えた。太い腕に細い体躯の少女がしがみつき、意外なほどの怪力でその軌道をずらす。それと同時に腕を駆け上がって左目を蹴り砕き、更に顎を蹴り上げて着地。俺を庇うように舞い降りる。

「紅凪……?」

「初仕事なので、特別サービスです。すっごくリスキーなことなのですが、博打をかけてあげましたよ。頼りないご主人さま」

「な、どういう……」

「今は説明する余裕なんてないでしょう?わたしの力では、あれにトドメを刺すことは出来ません。相当辛いのは見るだけでわかりますが、靖直さまが決めてください」

 あまりの衝撃に、少しずつ視界がはっきりとして来る。涙も干上がってしまい、紅凪の体をよく見ると、その服にはところどころ見慣れない赤いシミがある。奴に吹き飛ばされた彼女そのままなのか……。

「でも、腕が動かないんだ。もう、紅凪がこの剣を……」

「それは出来ません。その指輪は既に靖直さまの所有物なんですから。……腕が動かないのでしたら、最初の一撃と同じですよ。こちらが大きな力で剣を振らなくても、向こうから向かってくれば体を断ち切ることが出来ます。わたしが誘導しますから、剣を握っていてください。それぐらいは出来ますよね?」

「いや……指の一本も動かせる気がしな――」

「甘ったれないでください!それでも、あなたはわたしのご主人さまですか!?」

 頬を打たれる気がした。だが、紅凪の手は俺の頬にぺたりと触れるだけで、そのまま振り抜かれることはなかった。代わりに、紅凪の体がぐっと近付いて来る。血の臭いがかき消され、甘い紅茶のような香りが鼻の中に飛び込んだ。

「ここであなたがやらないと、あなたが死んでしまうんです。そんな悲しみを、わたしに背負わせるんですか?言っておきますが、あなたがこのままわたしに宝石を持って逃げろと命令しても、わたしはそれに従いませんよ。あなたの後を追うため、自ら石を砕きます。そんなヘタレの言うことを、誰が聞くって言うんですか」

「あか、な……」

「生きてください。あなたが生き残ることがわたしの喜びなんです。これぐらいの頭の怪我、ただのかすり傷ですよ。大丈夫。わたしがいつだってあなたの傍にいます。わたしがいる限り、あなたは死にません」

「紅凪。紅凪……」

 人差し指を動かす。動く。次に、手首を。更に、肘を曲げ、肩を持ち上げて……紅凪の体を、抱いた。病人のような弱い力だったが、俺の手は確かに彼女の赤い髪に触れ、腕は柔らかなその体の触れることが出来た。

「もう大丈夫ですね?では、はい。持っていてもらえるだけで大丈夫ですから」

 血で滑る銀の柄を無理に掴む。胸には紅凪の石の温もりと、彼女の体の感触が残っていた。

「ふぅ……。名前がないと思いますので、黒曜石の悪魔さん。わたしは今、あなたに跳ね飛ばれたことに加え、もう一つ機嫌が悪くなる理由が出来てしまったのです。止めようなんて考えない方が良いですよ」

 余裕たっぷりの台詞と共に、少女が駆け出す。すぐに拳のない腕が振り下ろされるが、やはりそれを避けて体を上り、今度は背後を取る。俺が付けた傷跡のあるそこに、どうやら紅凪は豪快なドロップキックを放ったようだ。そうでもないと、あの巨体が一気に倒れ込んでくるはずがない。

「男の方に抱かれたのなんて、初めてなんですから!ああもう、汚らわしいったらありゃしませんっ」

「そ、そこなのか……?」

 空中でどういう原理なのか体勢を変えた紅凪が、今度は後頭部を思い切り蹴り飛ばす。二度の鋭い蹴りに魔物は立て直すことが出来ず、真っ直ぐに俺に向かって倒れて来た。

 ――ただ剣を持っていれば良いって言ったけど、これじゃ急所なんて刺せないじゃないか。

 痺れる腕を動かし、なんとか胸の位置に剣を合わせる。それから、このままではあいつの体に押し潰されるかもしれない。トドメを刺せば体が消えるのは紅凪の例でわかっているので、衝突する一瞬前に勝負が付くよう、腕を伸ばした。重心がぶれそうになるが、剣自身が動いてくれる。やっぱり、こいつも生きている。

「二人のラブアタックだ、この野郎!」

 重力が黒曜の悪魔の胸に剣を突き立て、その体を崩壊させた。

 最後に感じた手応えは、ダイヤの刃が本体――黒曜石を砕いたものなのだろう。

 遠くで「うえっ、ラブアタックって……」という声が聞こえたような気がしたが、忘れておくことにした。それに、どうせ俺の意識は直後に途絶える。

「あれは……“奇跡”と、わたし達は呼んでいます」

「奇跡?」

「はい。宝石とはつまり、願いが込められるものです。人との生活の中で自然と願いも呪いも吸い取って……呪いを溜め込み過ぎた宝石がどうなるのかは、黒曜石の彼の通りです。一方、正の願いを一身に受けた宝石には、ほんの数回だけ。それこそ物語の中に出て来る奇跡の石のように、願いを叶える権利が与えられるそうです」

 病院で即座に手当を受け、頭に包帯をぐるぐると巻かれた俺と、すっかり傷の言えた紅凪は電車に乗り込み、ロンドンへとゆっくり移動していた。なんとなく特急は嫌だったので、普通電車を何本も乗り継ぐという、面倒極まりない旅路だが……それでよかった。

 紅凪に励まされ、なんとかあの夜を生き抜いた俺だが、想像以上に頭が痛く、ちょっとした衝撃で割れそうなほど痛む。それを紛らわせるためにも、たくさん話がしたい。

「じゃあ、あれは紅凪が起こした奇跡なのか?」

「はい。ただ、一心に願うことで起こった奇跡でした。どういったことが起きるのかはわからないのですが、わたしの体の回復と、靖直さまの応急処置が出来たのだと思います。でないと、あの頭の打ち方は、確実にアウトなコースでしたからね」

「……あんまり、そのことは考えたくないな。で、その奇跡を起こすのが、賭けだって言ってたよな?どういうことなんだ」

 俺の頭の傷は、普通なら死んでいるレベルなのだと紅凪は診断し、俺を診た医師もまた、不可解な傷の癒え方をしている、と訝しんだ。人の理解が及ばないことなら、じゃあそれは人の仕業じゃないんだろう。

「そのままの意味で、ギャンブルだったんですよ。宝石は、奇跡を起こした時、砕け散ってしまうことがあるそうです。過去の統計から言うと、初回のリスクは一割程度ですが、次はいきなり五割ほどに増加し、以降は回数が増える度に二割ほど、破損のリスクが増して……四回目にはもう、確実に宝石の命はないとも」

「なっ……。一割って、結構な確率だぞ?十回に一回なんだから、それを運悪く引くことだって普通に考えられるし――」

「でも、あのままでは靖直さま、死んでいましたよ?」

「それは……」

 微笑が消えた紅凪の顔と瞳は、感情を割り込ませることを許さない。主人である俺を生かすための、唯一の選択肢だった。だからそれを選んだまでだ。そう、紅い瞳が何よりも雄弁に語っている。

 反論を俺が用意出来るはずは……ない。

「もちろん、わたし個人としてまだまだ生きたかったです。なので、今はすごくほっとしていますけどね。それに、一回目は割と軽いノリで使っちゃって良いと、先輩からも聞かされていました。事実として、良嗣さまに仕えるメイドの大半は、既に次の奇跡で五割方破損される方ばかりだそうです」

「兄貴が、使わせたのか……」

「奇跡は完全に宝石側の意志で起こすものです。使わせるなんて状況はありませんよ」

「………………」

 それを言うと、俺もまた紅凪を一割という低い、しかし確かな確率で死なせようとした、ということになるか……。もしかすると、彼女は俺にそんな罪悪感を背負わせたくないから反論したのかもしれない。いや、単純に事実を伝えたかったのかもしれないが。

「ともかく、なんとか初仕事が上手くいってよかったじゃないですか」

「……これが、上手く、なんて言葉で表せるのかな」

「わたしも靖直さまも死んでいません。生きてさえいれば、成功ですよ」

「そう、か…………」

 確かに、どちらかが。いや、どちらも死んでいておかしくはない夜だった。奴に墓石に叩き付けられた時の衝撃は、今でも思い返すだけで寒気と、軽い吐き気を起こさせる。あの時点で俺は死んでいてもおかしくはなかった。今こうして生きていられるのは、正に奇跡の産物、ということか。また、彼女に助けられてしまった。今度は心ではなく、命そのものを。

「靖直さま。これに、懲りてしまいましたか?」

「そうだな……。正直に言うと、もう剣を握るのが怖くなったし、宝石もあんまり穏やかな気持ちじゃ見れないかもしれない。なんとか手足が震えないで済んでるのは、紅凪がいるからだと思う」

「良嗣さまはきっと、仕事を辞めると言っても、責めることはしないと思いますが」

「でも、ここで俺が辞めたら、紅凪の方にシメられるんじゃないか?」

 鈴を転がしたように笑う、という美しい表現を見たことがある。ただ、実際に鈴のような笑い声を上げる人間はそう多くいないだろうし、俺の人生の中でそんなフレーズが再生されるような機会はないと思っていたが、存外に早くやって来た。紅凪は俺の言葉に鈴を転がしたように、ころころと笑うと……空いているとはいえ、他人の目もある電車の中で、俺の手を握った。

「もちろんです。奇跡まで使ってあげた相手なのですから、生涯のご主人さまじゃないと困ります。かと言って、ニートのメイドをするほど惨めなこともないので、これからも馬車馬のごとく働いてもらいますよ。体が壊れて、感情が死ぬまででも」

「は、はは。これはまた悪いご冗談を」

 握られた手がきゅっ……いや、ぎゅっ、と締まり、ぐぎっ、と腕が嫌な音を立てながら変な方向に曲げられる。加えて、ぎりぎりと筋肉が痛みと悲鳴を上げ――。

「ギ、ギブだ!これからも働くから、頼むっ、離して……」

「わかれば良いんです。では、これからも一生懸命、この体が果てるまでお仕えしますね。ご主人さま」

 

 これが、彼女との第一日だった。

 今思い返せば、甘くて夢のような、幸せな白昼夢だった。


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
0
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択