【33】
前回のあらすじ
徐州の陶謙は白馬長史、公孫瓉によって殺害された。
劉備は徐州州牧の後任として内定し、曹徳・孫尚香襲撃事件の戦後処理は曹操が劉備に温情を掛けることで決着がついた。
――ところ変わって。
孫尚香を救出した黒華蝶は、現在孫仲謀の部隊に合流し、寿春近郊にいた。
1
――寿春近郊野営地――
「妹は、もう眠ったのか?」
ぱち、と燃えた焚き木が赤く弾けて、炎の粒子が夜陰に散った。
小蓮を天幕まで送った後、蓮華が戻ると、黒いその男は干し肉を炙って、酒の肴にしているようすであった。
答えぬまま、蓮華は彼から少し距離を保って腰を下ろす。
「孫尚香は――」
黒い男は言葉を選ぶようにして言った。
「疲れているようだな」
「そうだな」
「心労が抜けていない様子だ。――妹も、おまえも」
言ってから、彼は質素な酒椀を投げて寄越す。覚束ない様子で、それを受け取ると、その姿を見て、男の口元が笑った。
戦火から逃れた後、男は例のおかしな仮面を外したが、代わりに黒い外套をその身に深々と纏った。そのため、やはり男の外貌を観察することは出来ない。
黒い布の下から、色白な口元がそっと覗いているだけだ。
薄く艶美な唇の間だから、まるで歪みのない、清い歯列がのぞいて、それが蓮華の心を切なくさせた。
彼は――言ってくれないのだろうか。
流石の蓮華とて気が付く。
この黒い男は、いつの日か陳留で相対した、曹孟徳の軍師。
洛陽で処刑されたという知略の雄。
悪鬼――虚である。
そして、孫仲謀がかつて、遠い世界で――その夫として心から愛した相手。
北郷一刀である。
分からない筈があろうか。
この世で最も想った男の声など、一文字囁かれただけで聞き分けられようというものだ。
「いらないか?」
差し出された酒器から、蓮華の酒杯へ酒が注がれる。
その液体の美しさに、蓮華は目を瞠った。
「澄んで――いるわ」
「濁りは濁りで悪くないんだがな。俺はこちらの方が好みだ」
口をつけると、爽快な辛みと柔らかな米の香りが鼻に抜ける。――美しい味だった。
「あまり思いつめない方がいいぞ。おまえは堂々と孫家へ帰れ」
「――」
現在の一番の問題はそれだった。
陶謙、正確には劉備が小蓮を襲撃した時、孫家は兵を出さなかった。
袁術からの圧迫があったからである。
孫家はいずれ、袁術から独立し、孫呉を建立させなければならない。これは孫家だけの問題ではないのだ。孫家に付き従う、膨大な数の民たちすべての運命を、孫家は――孫の王家は担っているのである。
故に、現在、袁術の傘下にある以上、孫家勢力を圧殺されないためには、袁術の言いなりになるしかなかった。
陶謙が動いた際、袁術が動くなと言った以上、孫家に動きようはなかったのだ。
たとえ、末の妹が、野卑な敵兵に嬲られるようなことになろうとも――である。
蓮華には、それが絶えられなかった。
だから、孫家を去ると置手紙を残し、五千の兵を連れて出奔した。
けれども今、蓮華はその孫家の本拠地へ戻ろうとしている。
母である孫文台が。
姉である孫伯符が。
それを許すはずはないのだ。
妹の小蓮が安穏に迎え入れられ、その生存を祝われるとして。孫仲謀が孫家に戻れる理由は微塵もない。
それはこの黒い男も承知しているはずである。
にも拘らず、彼は堂々としていろという。
蓮華としてはすでに覚悟を決めている。今更孫家に迎え入れて貰おうととは思っていないし、小蓮を送り届けたその場で、南海覇王の刃に貫かれることがあっても驚かぬ。
ただ、傍らで酒を呷る男の物言いには、底抜けな頼もしさがあった。
「俺に任せておけ。おまえは家族の元へ帰れるよ」
思わず酒を飲む手が止まる。
優しい言葉は欲しくなかった。
否――彼の言葉はこの上なく嬉しい。涙が出そうなくらい、堪らない。
だが、その前に言って欲しいことが、蓮華にはあるのだ。
「ときに――ひとつ、頼みがある」
蓮華は切り出す。
「何だ」
「名を――聞かせてくれ」
「黒(ヘイ)と名乗った筈だがな」
黒い外套の下から、柔らかな返事があった。
「偽名だろう」
「ああ」
あっけらかんと答えて、黒は肩を揺らした。
「今の俺は、何をどう名乗ろうとすべて偽りだ」
「――では。以前私に名乗った名で構わない」
黒は長い指先で、酒の肴を弄んでいる。
「生きていたのね――虚」
蓮華は彼に寄り添って、彼の顔から外套をそっと剥いだ。彼は――虚は抵抗しなかった。
「やっぱり――ばれるよなあ」
「分からないとでも、思っていたの」
「指摘されるまでは、黙っていようと思っていた。死んでいた方が、色々と都合がよかったしな」
「それは――暗躍のためかしら」
「それもある」
蓮華と虚の身体は近い。
彼の肌から滲む体温が、汗っぽい甘い体臭が――盃の酒よりもよほど、蓮華をくらくらと酔わせた。
「どうした、孫仲謀」
虚が目を丸くして、こちらを見る。彼は恐る恐る、手を伸ばし、蓮華の頬を拭った。
「私を――覚えていないかしら、虚」
「何を言っているんだ、一体どうした」
「答えて。あなたは思い出さないの。――一刀」
虚が、身を固まらせた。
「戯れるのはよせ、孫仲謀。おまえにその名を許した覚えはない」
「本当に、ない?」
「――ない」
静かに断言して、虚はその場を立った。彼の視線に攻めるような色はなく、むしろ、蓮華のことを気遣っているようであった。
それだけの優しさをこちらに向けながらもなお、蓮華との日々を思い出さないことが、蓮華の胸を切り刻んだ。
「疲れているみたいだな。仲謀も――もう休むと良い」
こちらに背を向けて、虚は去って行く。
蓮華は結局、その背中に声を掛けることが出来なかった。
2
寿春の城門前に着いたのは、太陽が南中した頃であった。
虚は黒王号の背で、孫尚香を抱えている。徐州で救出してからというもの、少なくとも目覚めている間、孫尚香は虚から離れようとはしなかった。
いつでも虚の衣の裾を握って、健気に後をついて回ってくる。言葉遣いからは朗らかではずっぱな印象すらうかがえたが、存外繊細な心の持ち主なのだろうと思い、虚も好きにさせていた。
「ねえ、虚。大丈夫だよね」
見上げてくるつぶらな眸に、なるべく頼りがいがありそうに微笑み返す。
「心配いらん。俺に任せておけ」
「うんっ。シャオは虚のこと、信じているからね」
幼い少女の髪を梳くように撫で、彼女をそっと抱き寄せた。
眼前には――孫呉の軍勢が見える。
部隊の先頭に立った虚は、黒王号を促し、前進する。傍らには、孫権が緊張した面持ちで馬を進めていた。
相手側からも、馬が二頭前進してくる。
跨るは――孫伯符。
そして、孫呉の王。――孫文台。
両陣営の中央で、虚と孫文台は相対した。乾いた大陸の風に、孫文台の色の淡い長髪が波を打つ。
やはりこの女――人の域におらんな。虚は思った。江東の虎とはよく言ったものだ。
「久方振りだな、孫文台。――おまえの愛娘を届けに来てやったぞ」
一際高い黒王号の上から、虚は傲岸にそう言い放った。
「まずは孫家の王として、そして一人の母親として礼をいいます、虚。我が娘――小蓮の救出に、心からの感謝を」
「おいおい。孫尚香だけじゃないぜ。よくみろ、孫仲謀も連れて来た。彼女だけのけものってのは、あまりに冷たいんじゃないか」
一瞬瞑目してから、孫文台は冷徹に言い放つ。
「我が孫家に――仲謀なる姫はおらず。その娘が孫家を騙るのであれば、斬らねばなりませんね」
容赦なく腰から南海覇王を抜いた孫文台へ、虚は悪鬼の如く微笑み掛けた。虚の身体中から、瘴気のような気魄がどろどろと滴って、腕の中の孫尚香が身を固くする。
「これは孫仲謀だ。孫家、第二の姫だよ。間違いない。末の妹と共に送って来たんだ。――迎えて貰いたい」
「その話を受ける道理はありません」
「袁術(バカ)の方なら心配するなよ。――すべてうまくいく。まあ、取り敢えず」
虚は孫尚香の襟首を掴むと、孫伯符へと放り投げた。
「ほらよ、孫策。――もう、手放すなよ」
「分かっているわ。絶対に」
「それから、こいつもだ」
続いて虚は傍らの馬から蓮華を強引に抱き上げて――。
「きゃっ! う、虚!」
「あっはっは! 良い尻だ。そらよ!」
それも孫伯符へと放り投げた。辛うじて妹二人を受け止めた孫策であったが、孫策の馬は孫家の姫三人の重さをじかに受け止めて、苦しげに嘶いた。
「孫仲謀の出奔――我が策略なり」
虚は孫家の王へ向けて、そう宣言した。
「……どういうことでしょう」
孫文台はそう問うて来る。
彼女はすでに、ことの成り行きを全て悟っている。だが、敢えて問い、事態を露わにすることも必要なのだ。それが偽りのものであると、互いにわかっていたとしても。
「簡単だ。孫尚香の救出、孫仲謀の独力では相成らず。そんなことは仲謀とて分かっている。分かっていながら、出奔するはずがないだろう。――俺が脅した」
「語りたいというのなら、続きを聞いてあげましょう」
「我が主、曹孟徳の妹もまた、孫尚香と同時に陶謙の襲撃を受けた。だが、曹孟徳の軍勢は間に合いそうになかったのでな。当座の間に合わせとして、孫仲謀の部隊を劉備へぶつけた」
「ではあなたは、我が娘の命を、私益のために弄んだというのですね」
「その通りだ、孫文台。――俺はおまえの娘を利用して、自分の目的を達成した。――怒ったか?」
「小蓮の命が助かったのは事実。それが如何なる卑劣な手段であったにせよ。――この場は見逃して差し上げましょう、虚」
「ほう。寛大なことだな、孫文台。その南海覇王、血を吸わせずに仕舞うというのか。なんなら相手になってやってもいいぞ」
ここで、孫家の王の力量を知っておくのも悪くない。
下手を打てば、冗談ではなく死ぬが。
「止しておきましょう。――火で炙られても死なないあなたのことです。首を刎ねたくらいでは、どうにもならないのでしょう」
生真面目な顔で冗談を吐く文台に、虚は思わず笑った。
「言ってくれる」
「今のあなたが幽であるのか現であるのか――定かではありませんが、取り敢えず、洛陽より生きて出たこと、お祝いしましょう」
「我が名は虚。幽でもなければ現でもない。ただ、その祝いは受け取っておこう」
「曹孟徳にはもう会って来たのですか」
「いいや。もう少し用事があるんでな。その後になるだろう。――やれ、どんな仕置きが待っていることやら」
「そうですか。では――あなたはもう知っているかもしれませんが、餞別にひとつ教えておきましょう」
「何進大将軍が死にました」
虚が表情を固まらせたのは一瞬であった。
「そうか。……忠告はしたんだがな」
「十常侍の手によるものと聞いています。何進の暗殺に袁紹が反発、洛陽で宦官を狩って回ったとか。その袁紹に袁術が同調――ただ」
「――董卓が反発したか」
「よく分かりましたね。袁紹と董卓の対立はもう避けられないところまで来ています」
「そうかい、助かったよ。――やっぱり、手元に細作がないのは不便だな。痛感する」
「ならば早く曹孟徳の元へ戻ることです」
「へいへい――」
「拾い物をしたら――とっとと帰るよ」
虚は言い放って、黒王号を促し、孫家の母娘に背を向けた。
「虚ー! ありがとー!」
背後から掛かる孫尚香の無邪気な声に、片手だけを上げて応えた。
3
――時は遡り、洛陽――
何進は酒を食らっていた。
夜明け前の風が、長い髪を流す。
「よう、何進のオッサン。――一人酒かよ、しけてんなあ」
気配もなく、邸宅の庭の東屋に姿を現したのは涼伯という灰色の少女だった。
今は亡き霊帝の面影を残す、美しい娘である。
曹孟徳の軍師、虚のもと、影を歩くものとして生きているらしい。
「虚からの伝言か?」
何進が問うと、涼伯は首を横に振った。
「いいや。あてがアンタの様子を見にきただけ。報告は荀彧に」
「あっけらかんとしたものだな細作」
「別に、明かしたところでどうにもならねー話だしな」
「……まあな」
鼻で笑って、何進は酒を呷った。
「虚は今、どこにいる」
「徐州だろ。――陶謙がもうじき動くだろうって」
「陶謙が動き、曹操と孫家がつられ、袁術が呼応し、董卓が袁術へ向かう。――段珪はおれが相手するしかないか」
「動いて来るとは思わんけどねー。オッサン、公孫瓉を呼び寄せただろう」
得意げに言うと、涼伯は何進の向かいに座って、酒の肴を遠慮もなく摘まんだ。
「虚の処刑という我らの策は上手くいった。硬直していた洛陽の状況を動かす一石になっただろう」
「だけどさ、流石は肉屋の息子じゃねーか。動物の遺骸から肉人形を拵えて、おにーさんの代わりに焼くなんて。そんな趣味のわりーこと、普通の神経じゃできないぜ」
「その肉人形のこしらえかたをしっかり学んで帰った女の言う科白じゃないな」
「そういうなって。何より、おにーさんが監視の目を気にすることなく、好き勝手動けてる。これはデカいぜ」
「董卓や劉弁様、劉協さまには、とことん嫌われてしまったがな」
肩を竦めて、何進は苦笑した。
「それに関してはおにーさんも謝ってただろ。それに、帝が急に逝っちまったんだ。多少どたばたしたのはしかたねーだろ」
「不敬な物言いだな。――まあ、いい。……だが、虚とは恐ろしい男よ」
「敵にすればな」
「そうではない。女の目から見ればどうなのかは知らんがな。――あれは、友にはなれんが、共犯者になるにはうってつけの男だ」
「意味わかんね」
そうか?――と何進は笑う。
「あやつのために死んでやろうとは思わんが、あやつと共に死ぬのは別に構わんと思わせられる。――そう言う男なのだ。恐ろしかろう」
「……へえ」
「曹孟徳はあの男をどう見ているのか、訊いてみたいものだ。軍師、走狗、盟友、あるいは――いや、まあいい」
「にやにやしやがって。似合わねーぞ。じゃあ、あてはこれでいくよ。荀彧には、何進は酔っぱらってたって報告してやる」
「好きにしろ。――ときに涼伯、曹孟徳は虚の生存を知らんのだな」
「まだな。――おにーさんは、使えるものは何でも使う人だから。自分の死も、最大限利用したいんだろ」
「よい心がけだ。――虚に伝えておけ」
「今度は、損得抜きの酒席をともにしよう、と」
「わかった。――じゃあな、何進」
「ああ」
霧が散るように、涼伯はその場を後にした。
それから何進は夜が明けるまでは一人で酒を食らった。邸宅を後にし、王城へ向かったのは東の空が赤く染まり始めた頃であった。
今のところ、すべてが順調である。
このまま朝廷の膿を絞り出した後は、劉弁を帝にむかえ、そして――。
「朝廷に、出来ることなら、劉弁様の傍らに、虚を迎えたいものだ」
玉座とは一人で座すものである。
傍らに人がおらぬは、道理であろう。
しかしそれでも、あの虚ならば――そう思わせられる。
虚は王佐の王である。
あの悪鬼は、王を孤独にしない。
何進はそう思う。
だからこそ、劉弁の傍らに、と思ってやまない。
「――の、だがなあ」
肩を揺らして、何進は笑った。
その瞬間、何進に付き従っていた護衛兵が矢で撃たれて死んだ。
待ち伏せであった。
たちまちに、そちこちから兵士が溢れ、何進を取り囲んだ。
見慣れた禿げ頭が姿を現す。
「無警戒ですなあ、何進殿」
「――張譲」
「ずいぶんと落ち着いていらっしゃる。相も変わらず、肝の太いことですな」
雷鳴のように低い声で、禿頭の張譲は語った。
「何のつもりだ」
「語るに及ばず」
「このおれを、討つというのか」
「いかにも。このわしが討つというのだ」
「明け方の赤光の如く――我が身を裂くか」
「ばらばらに破いて、王城の門前に撒いてしんぜようぞ」
「見事。貴様の外道――、一途なり。醜悪の骨頂。欲動に膿んだその禿げ頭、見るに堪えんわ」
くふっ、と漏らすように張譲が笑った。
「お許しくだされい。この張譲、生憎部屋に鏡を置いておりませんでな。過去を顧みるいとまがないほど、多忙を極めておる身。鏡を置く気になりませぬゆえ」
「おれを殺し、朝廷を牛耳るか」
「それはそれで面白そうでござるな。だが――今回のことは別件ですぞ」
「理由を訊いてやる」
「ただ見たかっただけなのだ、若造」
禿げ鬼は、嫌らしく笑って言った。
「漢の忠臣。見事に貫いた男道。――何進、そなたの生きた美しき武人としての人生が、わしのような男の肥やしになった時、そなたはどのような顔を見せてくれるのか。それが気に掛かっただけだ。畢竟――朝廷の権力など、どうでもよいのかもしれぬ」
「くずめ」
「いかにも」
「化生が」
「いかにも! この世の全ては、我が快楽の苗床よ!」
吠える張譲を前に、何進は剣を抜いた。
「おれは許さん。ただでは死なん。貴様だけは道づれだ」
「よい! それでよい! 許されては何も面白うないわ!! 健気な英雄よ、その一念を以て我が道を塞げ!」
「我が名は何遂高。――漢の忠臣なり! 禁軍の長なり! 王敵を蹂躙し、朝敵を滅するものなりッ!! 」
何進は突撃する。
その一身は煌めく朝日を浴びて、魔を貫く白銀の切っ先となり、敵兵の群れの中へと突入して行った。
ありむらです。
次回からは反董卓連合編に突入します。
ながいことかかったなあ。
嫁にするなら孫権が一番だと思っています。
嫁になるなら曹操が一番だと思います。
程昱は殿堂入り。
ありむらでした!
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落日の33です。次回はまたちょっと間あくかもしれません。