二
鏡に向かい、顔を覆った面を上にずらす。若女の面が鏡面から消えて、未だあどけなさの残る少女の顔が露わになった。
しばらくの間、こころは鏡に映る自分の顔を無言で見つめる。能面ではない、面の付喪神妖怪である「面霊気」としての自分の顔を。
神社に来る参拝客から時折「彫刻みたいに綺麗な顔」と評されることがあるのだが、彼女はこの評価を少々消極的に受け止めている。それほどまでに、彼女の表情には動きが見られない。
若女の面が一人でにこころの顔から飛び去って、代わりに姥の面が頭上に収まった。
(この顔に表情を作ることはできるのだろうか)
漠然とした不安が、心中を過ぎる。
若女は平静。火男は楽しみ。姥は哀しみ。般若は怒り。そして翁の面は笑い。こころの感情表現は、これまで彼女の本体とも言うべき六十六の面が代行してきた。本来感情を司る彼女は他の誰よりも感情豊かなのだが、面霊気の本体である少女の顔を行使したことはない。それを強く意識するようになったのは、博麗神社でとある妖怪と闘った時のことだ。
(なあ、いつまで無表情でいるつもりだ? それで自我が保てると思うのかい?)
こころの顔から強引に面を引き剥がし、面霊気の顔に対してその妖怪は言った。面霊気の表情を意識しないことが、自我の安定しない原因であるとも。
だから彼女は闘いを通して、表情を学んだ。勝利することの喜び、負けることの悔しさ、感情をかき乱す宗教家達への激しい怒り。それによって彼女の自我は以前に比べてずっと安定し、周囲の感情まで千々に乱すようなことはなくなった。
ただ一つ、問題があるとするのならば。そこまでして学んだ表情を、感情を彼女自身が実践しきれていないことだろうか。
例えば人間が楽しい経験をして笑顔を作るとき、彼は「笑顔を作る」という行為を意識して行なっているだろうか? こころにとってそれは「面を取り替える」という行為と同義であって、面霊気の顔に表情を作ることではなかった。少なくとも面霊気としての実体を得て、千年以上もの間はそんな調子であったのだ。自我を得て高々数ヶ月。面霊気の顔に表情を作る試みは、神仏道三大巨頭に挑み勝利することよりも数段険しい道程であった。
彼女の鏡を眺める行為は、別に自らの無表情さを嘆くためのものではない。
「あー。いー。うー。えー」
やにわに彼女は鏡に向かい呪文にも思える言葉を紡ぎ出し始めた。一言の度に顔が大きく歪む。
とある医者に聞いたにわか知識だが、綺麗な表情を作るためにはその名もずばりの表情筋なるものを上手に鍛えることが重要らしい。あ行の音を一文字一文字、それぞれの口の形を目一杯極端にしながら発する。これを何度も繰り返すことで様々な表情を作る筋肉が鍛えられ感情の表現力が増すのだという。
またその医者は、意識してでもいいからTPOに合わせた表情を作る練習を普段からするべきだとも言っていた。やはりそれも、何度も繰り返すことで条件反射とかいうのの働きでもって、いつかは意識しなくとも表情を作れるようになると。
面霊気で、妖怪である自身に表情筋だの条件反射だのといった科学的要素が通じるのかどうか、皆目見当がつかない。だからといって他にも手段があるわけでもないのでその奇妙なトレーニングは続けている。最初は眠れなくなるほど顔が痛くなったこともあったが、半月ほどで大分慣れてきた。
しかし現在の環境にあっては、実践的訓練を積む機会が少々望み薄である。そんなわけで彼女の中ですでに、ある一つの決意が固まりつつあった。
こころが表情を作る訓練を四半刻ほど続けていたところ、部屋の外から物音が聞こえてきた。霊夢と、聞き覚えのない声が何事か話し合っているようだ。
もしかすると霊夢は、自分の神楽を求めてやって来た参拝客の相手をしているのかもしれない。そう考えたこころは表情筋トレーニングを切り上げて、障子を開き外に出た。幻想郷の東の果て、博麗神社の拝殿に隣接する社務所兼霊夢の自宅。
本殿の裏手に位置する玄関から極力音を立てずに表へと回ると、境内に数人の人間がいた。霊夢と、里から来た人間が何人か。彼らは霊夢に対して頻りに頭を下げている。
「分かったわ、一度様子を見に行ってみる。あまり悪さが過ぎるようなら、また連絡して頂戴」
里人達はさらに霊夢へと頭を垂れた後に、境内を去っていった。姿が見えなくなったのを見計らって、こころが顔を出す。
「霧の湖で、人魚が漁に来た人間に悪さを働いてるらしいのよ。最近増えてきたわね」
霊夢はこころを見ることすらなく、そんなことを言う。平時にも関わらず彼女の感覚は異様に敏感だ。もしかすると、霊夢の中ではすでに臨戦対戦が整いつつあるのかもしれない。それほどまでに最近は、人間を襲う妖怪について相談をするため博麗神社にやってくる者が増えている。
「すぐ退治しに行かないの?」
「こうも散発的に色んな所で騒ぎを起こされると、いちいち退治に出ていらんないわ。ある程度案件が溜まったら、あれで一気に片付けるつもり」
霊夢は拝殿に視線を運ぶ。こころにもそれと分かる程度に濃密な殺気が、そちらから漏れ出していた。
霊符で厳重に封印された拝殿の扉が、ガタガタと軋みを上げ続けている。内部から何者かが、封印を破ろうとしているように。
かの宗教大戦最終決戦でこころとの戦闘にも用いられた祓え櫛が勝手に動き出すようになったのが、一週間ほど前の話になる。妖怪が近づくと特に顕著となり、勝手に飛びかかっては叩いたりするようになった。高い霊力を持つアーティファクトなので、妖怪が殴られればかなり痛い思いをする。こころもまたその例外に漏れなかった。
現状は霊夢が厳重に封印を施し、加えて施錠した拝殿の内部に収めてあるのだが、それでもなお妖怪が近づくと敏感に反応して封印も拝殿も打ち破らん勢いで暴れ出す。しかも日増しに勢いは増していた。御しきれなくなるのも時間の問題か。
「やっぱり早めにここを出ると決めておいて、正解だったかもしれない」
「そうね。こっちもあんたを構ってあげられそうにないし、お賽銭も入らなくなっちゃったし。あーあ、信心なんてまったく蜃気楼のようだったわ」
霊夢は嘆きを漏らしながら賽銭箱の中身を覗く。賽銭の量は信仰のバロメーターだ。と、少なくとも霊夢はそう考えているようだ。しかし数週間前まで彼女の素敵な賽銭箱が重く満たされていた要因は、こころが作っていたと言っても過言ではない。
人里での決戦の後、こころは感情を安定させることを目的に博麗神社で神楽を奉納した。それが弾幕ごっこの観戦目当てで来ていた参拝客の目に止まり、幽玄の舞に魅せられた人々の言伝で噂が広まって神社には毎日のように参拝者が訪れるようになった。
しかし世の流行り廃りとはあまりに早いもので、人里の人間が一通り神楽見物を終えると参拝客の数は急落した。加えて夏を過ぎたあたりから、弱小の妖怪が人を襲うようにもなった。
人里から遠く離れた博麗神社に足を伸ばしたがる者はいなくなり、今や神社は元の木阿弥、閑古鳥が鳴いている。日参することに何かと面倒が多いため博麗神社にほぼ居候状態だったこころであったが、参拝客が絶え新たな異変の兆候がある現在ではその意味も薄い。数日前に神社を出る旨を霊夢に伝えたところ、それは拍子抜けするくらいあっさりと了承された。彼女の言う通り、構っている暇がないのだ。
「何だ。随分侘しい宴になったもんだな?」
上空から声と共に、黒い影が降りてくる。竹箒に腰かけた黒いワンピースと三角帽子。典型的な魔法使いの格好。箒にくくりつけた風呂敷を外しながら、彼女は地面に飛び降りた。
「こころの門出を祝うべくせっかく上等な酒を準備してきたというのに、薄情な奴等だぜ。こころもそう思うだろう?」
「……よく分からない」
微妙な反応を見せるこころを眺め、霧雨魔理沙はかかかと笑う。特定の宗教を信奉しているわけではないが、面白半分で宗教大戦に参戦した人妖の一人。
夏の間神社の集客に協力してくれたこともあり、霊夢は珍しくも妖怪の出立を明日に控えて細やかな送別会を催すことにした。しかし結局集まったのは人間が二人だけだ。霊夢が人集めに億劫がったのもさることながら、件の祓え櫛に誰も近づきたがらなかったことも大きな要因か……しかし、人外が避けたがるものは、何も一つばかりではない。
「どいつもこいつも呼ばなくても、勝手に集まって来るからね。たまにはこういうのもいいわ」
「じゃ、折角だからこいつも捌くか。まだ脂が乗り切ってないが、食べれば力がつくぜ」
魔理沙がそう言って、腰に括り付けた魚籠を外す。こころはその中身を覗き込み、猿の面を顔に据えた。蛇のような魚のような細長い生き物がうねっている。
「これ、食べるの?」
「おお、知らんか? こいつは鰻という生き物だ。背を開いて串を差し込み七輪に乗せて焼くと、脂が肉から染み出し堪らん味になるんだぜ」
「どう堪らんのか知らないけれども、まさか右手のそれで焼くつもり?」
「ん?」
こころが魔理沙の手に乗ったものを、ゆっくりと指差した。八角形の、口が塞がった鉢のような金属塊が一つ。中心からは絶えず真紅の炎がこうこうと吹き上げている。手を腰に当て息を吐く霊夢。
「物騒ねぇ。神社に持ってくることないでしょうに」
「下手に放置しておいたら森を燃やしかねなくてな」
金属塊の正体は、魔理沙の主要武器、八卦炉だ。全開時は山一つ吹き飛ばせるという強力なマジックアイテムであるが、霊夢の祓え櫛と時期を同じくしてこのように火を吹き始めた。
人間達の武器の大変物騒な強化。そして妖怪達の一斉蜂起。二つの事柄には明らかな時期的整合性が見られるが、あくまでもこの物語においてはこころが博麗神社を出る動機の一つでしかない。それらの物事は博麗霊夢や霧雨魔理沙、あるいはその事件により深く関わっている何者かの物語として語られるべきであろう。
「折角のご馳走をそんな危なっかしいもので消し炭にされちゃたまんないわ。それに、火を通し過ぎた食べ物は体に悪いのよ」
「だが、木炭に火を着けるならこっちの方が遥かに楽だぜ。台所借りるから霊夢は七輪を用意しておけ」
「神社の中に八卦炉を持ち込まないでよ」
迷惑そうな口ぶりで応えながら、霊夢は社務所に消える。こころの見ている限り彼女達は互いが互いを悪く言い合うが、その癖食事や宴の準備となると息をぴったりと合わせてくる。
例えるならば、シテ方が二人いるようなものだ。互いに存在を主張し合うのに、決して衝突することがない。不思議な人間達。
「さて。私はこれから鰻を捌かにゃならん。こころはどうする? 今日はホストだし、別に何してても構わないけどな」
「二人ばかりに働かせるのも、悪い気がする。私も何か手伝う」
「じゃあ、まな板や包丁とかの洗い物を頼む。鰻の血は毒があるから、肌に触れないよう気をつけろよ」
魔理沙はこころを引き連れて、社務所に直結する土間に向かった。台所に入ると彼女は傍らの物置棚から、迷いなく包丁や目打ち針を取り出していく。いささか勝手を知り過ぎである。
鰻の頭に針を打ち込み、鰓に包丁を入れる。胴体を真っ二つに切り裂かれてもなお、彼はまな板の上で激しくのたうち回った。
「まだ動いてる……」
「生命力旺盛だろ? 活きがいい証拠だ。こいつを私達で独占できるんだから運がいい。返す返すも、あいつらは何で来ないんだかなあ」
魔理沙は相当に、未練があるように見える。そう独り言じみた呟きを漏らしながらも、彼女は器用に鰻から内臓と骨を取り除いていった。
「やっぱり、武器に近づくのが怖いからじゃないの」
「誰かに危害を加えないよう気をつけてるから平気だってのに。こっちから出向こうにも、あいつらの居場所に行くのも大変だからなあ」
魔理沙の口振りに対し、こころは最初の違和感を感じる。宗教大戦の折は、色々な場所を巡った。
「そんなに、大変?」
「いつぞやの人気取り合戦の時とは、勝手が違う」
血濡れの包丁をこころに手渡すと、魔理沙は手桶を担いで勝手口から外に出ていった。
こころが包丁の血を落としながらしばらく待つと、桶一杯に水を満たした魔理沙が戻ってきて鰻の血を洗い始める。
「あの時はどこもかしこも来るもの拒まず、去る者追わずの空気だったからな。でも本来は、閉鎖的な連中ばっかりだよ。居場所を探すのも難しい。里の近くで住人相手に説法してる命蓮寺の連中は別格としてもだ……妖怪の山の奴らは、身内以外を山中に入れようとしないだろう。それからもっと分からんのが神霊廟の仙人か。あいつらが住んでる仙界って所は、向こう側から『門』を開かん限り入れない。布教とかでこっち側に出てくる時を狙って捕まえる以外にないかもしれんな。汚い話もあったもんだ」
長々と説明する間も魔理沙は休まず鰻の切り身を洗う作業を続け、こころもまた包丁とまな板を淡々と洗いながら彼女の話を聞いていた。
そして、猿の面を顔に浮かべる。
「……意外と少ないのね?」
「ん。まあ、根本的には神道仏教道教の争いだったからな。関係者の出入りする所なんてそんなもんだ……いやちょっと待て、もう一人忘れてた」
こころの面が、大飛出に変わった。驚きの感情を表現する面で、魔理沙を見る。
「マミゾウだよ。狸の集会地で戦ったな。あいつは戦争の原因に薄々感づいてて、私達をお前にけしかけたんだぜ。さすがは狸だよな」
こころも合点がいった。化け狸の二ッ岩マミゾウ。口調通りの老獪な妖怪だった。こころに表情を学ぶ道を示してくれたのも、彼女である。少なくとも、こころにとっては悪い相手ではない。
そこで魔理沙が鰻を洗い終わって、二人はそれを串に通す作業へと移った。こころが感じた幾つかの違和感は、魔理沙との会話のうちに解消された。
とりあえずは。
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