No.62622

キスまでの時間 3

篇待さん

こいつは間違いなく人生の勝者。僕は間違いなく敗者。

2009-03-10 23:03:01 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:1102   閲覧ユーザー数:1043

 あの日、僕は藤野の涙に見とれて――本当に情けないことに――藤野とのキスを逃した。

 その重大な事実に気づいたのは風呂の中だった。複雑な心境で、鬱々と天井を眺めているときに、まるで天啓を受けたかのように気がついたのだ。

 それに気づく寸前まで、僕はとても殊勝なことを考えていた。藤野のためにこの奇妙な恋人ごっこを続けようとか、いつか先輩も藤野の魅力に絆されるに違いないとか、そうなったら僕は潔く身を引こうとか。そんな美しい自己犠牲の精神が、確かに僕には宿っていた。

 しかしそれも今は昔だ。男子たるもの、欲望に忠実でなければなるまい。藤野の恋人は、僕でありたいのだ。

(それでも僕は、藤野にキスができるのだろうか……?)

 心がひとつなら、どれほど楽なことだろう。浮気な心を二心とは、よく言ったものだ。

 唇に、そっと触れる。もう口紅のべた付く感触はなくなっていたけれど、先輩の唇のやわらかさが思い出せる気がした。少し冷たい唇だった。

 先輩とのキスは、リンゴの味がした。それはたぶん、先輩が飲んでいたリンゴジュースの味なのだろうけれど、僕にとっては、先輩の味である。

 僕は、先輩に絆されかけている。そんな気がして、自分が嫌になった。

 

 僕はそんな鬱々で悶々としたまま1週間を過ごした。週末は祝日を含めた3連休。それがよかったのか、よくなかったのか。僕の両親は温泉へと旅立っていった。もちろん僕を置き去りにして。そんな情報をどこからか(といってもおそらく藤野なのだろうが)仕入れた先輩が、欲望を一切隠さずに提案をしてきた。

「ねぇ、週末は隆文の家に行ってもいいかしら。もちろん2泊3日で」

 先輩には、婚前の乙女という意識はまったくないようだった。恐ろしいほどに欲望に忠実な人だ。そんな先輩の行動力が、今の僕には眩しく見えた。

 そして、そんな不純な計画に、藤野が食いつかないわけがなかった。事前に二つ返事で承諾していたようで、先輩とタッグを組んで僕に迫ってくる。先輩は相変わらず根回しがいいというか、藤野を取り込むのが上手いというか。とにかく先輩は、小賢しい手段がとても得意なのであった。僕は純情を謳う好青年なので、そんな狡い手に抗う手段は皆無である。つまるところ、先輩が僕に話を持ってきた時点で、もう話はまとまっているも同然なのであった。

 

「人生ゲームで徹夜なんて、今時小学生でもしませんよ……」

「あら、隆文は徹夜をするような小学生だったの? 小学生はちゃんと10時には寝ないとだめよ。不良になってしまうわ」

 深夜というには、あまりにも朝になりすぎている午前5時。僕らはただひたすらに人生ゲームをやっていた。もちろんTVゲームなどではない、アナログなボードゲームの方の人生ゲームだ。サイコロを振っては一喜一憂。気づいたら日が昇っていた、という始末だ。

 最初の脱落者は、藤野だった。僕のベッドを占領し、気持ちよさそうに夢を見ている。そういえば、藤野の寝顔を見るのは何年ぶりだろうか。中学に入った頃には、もうすでに互いの家に泊まるなんてことはしなくなっていた。僕が藤野を意識しだしたのは、ちょうどあの頃だったように思う。

「そういえば、隆文は藤野とキスしなくていいの?」

 徹夜明けの胡乱な頭が、先輩にそんなことを言わせたに違いない。いや、先輩のことだから、思考が麻痺するこの時間帯を狙っての発言、ということも十分考えられる。

 とにかくそれは、僕の悩みの核心をつく質問だった。

「それは……できればしたいですけど、なんか藤野が嫌がるような気がするんですよ……」

 僕は嘘をついた。きっと、藤野は嫌がらないだろう。

 先輩と藤野がキスをしたあの日、藤野の涙を見て、僕も泣いた。あれから僕は、心のどこかで藤野に遠慮してしまっている節がある。僕の想いは、藤野には永遠に届かない、そんな考えが頭から離れない。

「藤野は嫌がらないよ」

 見透かされたのだろうか。先輩は、母親のような優しい笑顔で、まるで諭すように僕に言う。

「藤野はたぶん待ってるよ。隆文からのキスを、ね」

 先輩から、僕に。藤野から、先輩に。追いかける側が受身では、物語は始まらない。僕らの美しい三角形は、誰かが追いかけるのをやめたときに崩壊するとても脆いものだ。

 僕から、藤野へ。その一辺が足りないのだと、先輩は言いたいらしい。

「せぇんぱい? まだ起きてたんですかぁ?」

 眠そうに目をこすりながら、藤野が上半身を起こした。起こしてしまったらしい。

 ほら、今がチャンスよ。

 先輩が、僕に囁く。それは悪魔の誘惑。僕は少し、没落の美に酔ってしまっていたようだ。

「んんっ――――!」

 藤野との初めてのキス。味なんて、わからなかった。そんなことを考える余裕さえもない。

「いきなり何すんのよッ!」

 そして僕は殴られた。藤野は完全に目が覚めたらしく、頬を真っ赤に染めた僕にトドメを刺さんと激しく罵ってくる。バカ。アホ。寝起きを襲うなんて最低。僕はまったく反論できない。なぜなら全て藤野の言うとおりだからだ。もしやこれは、土下座しなければならない場面なのだろうか。

 しかし、僕の意識は限界に達しようとしていた。キスをして、殴られて、どうも気が抜けてしまったらしい。

 眠りに落ちる寸前、100の罵詈雑言の後、僕は確かに聞いた。今度はちゃんとしなさいよ。

 今日はいい夢が見れそうだ。


 
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