●第零夜 - 蛍火ノ中デ
―― これは僕が8つくらいの時の話。
いつも不思議に思うことがあった。
祖父の営んでいる店には、僕には見えない誰かがよくお店を訪ねてくるのだ。
祖父と僕の家は華やかな街角を横目に橋を渡り、家屋の建ち並ぶ路地をぬけ、小川にかかる小さな石橋を渡り紫陽花の細道を沿って辿りつく
鳥居をくぐった山の中にある。そんな人通りの少ない場所の家の一角で酒屋と団子屋を営んでおり、僕も店番などを手伝っていた。
その日もいつもと変わりなく客は来ず、ふわりと飛んで来た風だけが頭上にある風鈴を鳴らして遊んでいる。
初夏の暖かさに加えて爽やかな風、そして心地よい風鈴の音が子守唄になり眠気を誘う。
「あぁ、眠たい…」
そう呟いたのは、赤茶色の髪をしたまだ幼い顔をした男の子だ。
あくびを噛み殺しながら、店の辺りを見渡す。
紅い布の掛けられた長椅子にも小さな座敷にも誰の気配もない。
少し眠ってしまおうか。きっと誰も来やしない。来たって声をかけてくれるだろう。そんなことを考えていた。どれくらい考えていたのか、どれくらい眠ってしまっていたかはわからないが突然背後から聞きなれた声が聞こえてきた。
「おやおや、居眠りか夜之介。お客さんがお見えだぞ。ほれ、こっちへ上がっておいで」
祖父の藍蔵は、祖父というにはまだ若い印象の持ち主で常に優しく見守られているような穏やかな男性だ。
しかし、善くも悪くも悪戯好きが隠しきれずに顔にまで表れている。
裏山から下りてきた様子の祖父は背に竹籠を背負ったまま誰かを長椅子へ案内する。
居眠りしているうちに誰か来てたのか、悪い事をしたな。と、夜之介は思う半面また見えない誰かが来ていたことを悟っていた。なぜだか不思議と怖いという気持ちは一切ないが、それが見えない僕に対して何も隠すことなく対応をする祖父をただ慣れた思考で眺めていた。
祖父が団子を皿にのせて椅子の上に置く、目をそらしたつもりはなかったがいつも気がつくと団子が消えて串だけが寂しそうに取り残されている。
「お前にもいずれわかる時がくるよ。」
その光景を、いつも通りただ眺めていると嬉しそうな表情の祖父は夜之介の頭に軽く手を置いてからお皿の方を見つめる。
「あいつもお前と話をしたがってるしな。」
小さく呟いた祖父の言葉が上手く聞き取れず聞き返そうとした瞬間、祖父は夜之介に頬笑みを向けるとお皿を片づけに奥へ入ってしまった。
夜之介はただ首をかしげるだけだった。
陽も傾き始めてきたころ、祖父が急な用事が出来たからと言いお客さんの元にお酒を届ける仕事を夜之介に頼んできた。
青竹と呼ばれる地域の菊次郎おじさんにお酒と祖父から預かった封筒を渡して代金を頂いて帰ってくる、というものだ。
「お客といえども顔見知りだからお前も大丈夫だろう」
などと祖父は簡単に言ってさっさと急用の元へ出かけて行ってしまった。
青竹の地域はさほど遠いわけではないが、なにしろ夜之介達の住んでいる場所が山の中なので
急いで行かなければ陽があっという間に落ちて、辺りは真っ暗になってしまうのである。
早足に下り坂をおり、慣れた山道を酒壺を抱えて目的地へ向かう。陽が、落ちることを惜しむようにゆっくり傾いている間にだんだんと
背の高い青竹に覆われた場所に立ち入る。一目散に菊次郎おじさんの家に向かうと小さな竹の門の前で誰かを目で探している人がいた。
「菊次郎おじさん、お待たせしました」
夜之介が声をかけ、小走りで近寄ると少し驚いたその人は嬉しそうにこちらを向く。
「おお、夜之介じゃないか。お前さんが持って来てくれたのか。ありがとよ」
菊次郎は大事そうに酒壺を受け取ると懐を探った。
「そいじゃ、こいつが御代だよ。そうだ、ちょいと待っていておくれ」
嬉しそうにそう言うと、代金を払った菊次郎は急いで縁側から家に上がると少し姿を消した。
小さな風が吹きあがり笹の葉がさわさわと頭上で話し出す。そろそろ帰らないと陽がくれると伝えてくるように思えた。
「すまんすまん、今日家の裏でいいビワがたくさん採れたもんだから持って帰っとくれ」
慌てて飛び出してきた菊次郎から押し付けられるようにビワの入った籠を受け取とると、夜之介はお礼を言って祖父から預かった封筒を渡した。
「待たしちまって悪かったな、気をつけて帰るんだよ。あと、藍蔵さんによろしく言っといてくれや」
菊次郎おじさんに別れを告げ、少し離れてからもう一度大きく手を振って夜之介はまた早足で帰路についた。
空が赤紫色に染まり遠くで陽が落ちることを告げる鐘の音が響きだす。
早足で歩いていたが薄暗くなっていく空を見上げて、まずいと思った夜之介は小走りで山道を駆け上がった。
辺りが暗くなったからなのか急いで進んでもまだこの場所か、まだこの場所かと思考だけが急いで焦りを募らせる。
息を切らして立ち止まると大きく息を吸い上げる。辺りを見渡しても暗い木立があるだけだ。それにまた不安と焦りを覚えるのだった。
冷や汗がタラリと前髪から頬へ流れた。
「どうしよう、陽が落ちた。明りを、持ってくるんだったな」
ぽそりと呟いてから、暗い夜道には慣れているのだから焦る必要はないと自分に言い聞かせる。
「まぁ、下手に急いで帰って足を滑らせて落っこちたんじゃ話にならないしな。知ってる道なんだから焦らなくても・・・」
冷静さを取り戻し、ふと後ろを振り返ってから、前を見返す。
いや、僕はこんな道知らない。近道で通る道じゃない。いつもの青竹からの帰り道じゃない。なんで?どこで道を間違えた?どうやって戻ろう、いいや、どこまで戻ればいい?
一瞬にして頭が真っ白になって疑問だけが駆け巡る。落ちつけ、落ちつけ、大丈夫だ、でも…どうやって帰ろう?
一度、菊次郎おじさんの元まで戻るか、いや、戻れる保証はない。それならこのまま進むか、いや、それも帰れるとは思えない。
前を見ても木立と山道、後ろを見ても木立と山道。何箇所か分かれ道があったからその場所で間違えたのだろう、ならそこまで戻るか、でもどの分かれ道まで戻ろう?・・・
落ち着きを取り戻しつつあった鼓動がまた早まり呼吸が荒くなる。
とにかく落ちついて考えよう、きっと見知った山道だ。ただ暗いからわからなく見えるだけだ。きっとそうだ。そうに決まってる。
考えても考えても、暗闇に包まれていて良い考えが思い浮かばなかった。
雲が、木が、それぞれが厚く覆いかぶさり月明かりさえ見えず、心細さを一層強くさせる。
足が力をなくしゆっくりとその場に座り込む。呆然と地面を見つめる。その時、既に考えはまとまってしまったのかもしれない。
「きっともう、1人じゃ帰れない」
暗い木々を見上げても何も解りはしない、急に切なくなって一つ頬に涙が伝った。
暗闇に自分ひとり、きっとちっぽけな存在なのだろう。思考も止まり、疲れた足に力も入らない。もう、帰れることはないのだろうか。
ふと、ふわりゆらりと1つの小さな光の玉が目の前を漂う。
「蛍か。お前、もしかして僕を勇気付けてくれるの?」
夜之介は寂しそうに微笑むと近くに川が流れている音が聞こえた。慌てていたせいで聞こえなかったのだろう。
「川の近くだったんだ。でも川の一体どのあたりにいるんだろう。」
どちらにせよ長い川だ。川の傍だと分かったところで帰れなどしない。わかったところで何の意味もない。
「お前は、迷子になる前に家に帰ったほうが身のためだよ」
寂しげに声をかけると目の前を漂っていた蛍がふわっと頭上を飛び1本の木に結びつけられた紅い紐にとまった。
すると、その紐がうっすらと光を放ち始めた。そこから飛び立つ蛍が少し空中をさまよってから急に光を失った。
蛍の光を見つめていた目にはそれだけで先ほどよりも濃い闇に包まれる。
また寂しさに包まれそうになるその瞬間、ぶわっと大勢の蛍が舞い上がり辺り一面を照らし幻想的な景色を魅せつける。
小さな光の玉は無数に飛び交い心を奪う。言葉を失った夜之介は先ほどとは別の感情でただ呆然とその景色を見つめた。
他の蛍よりも少し大きい1つの光がふわりと夜之介の周りをかすめてから、すいっと舞い上がり点々と木々に結ばれた紅い紐に光を灯して遠くに消えていく。
まるで、帰り道を示す目印のようだった。ゆっくりと腰を浮かし立ち上がると一歩前に足を踏み出す。
「迎えに来たぞ。夜之介。」
急に足元から声が聞こえたと思えば、見たこともない小鬼のようなそいつがこちらを見上げ笑いかけてきた。
桃の実2つ分程の大きさで、淡藤色の肌、つんと横に長い耳、小さな紐を襟巻きにして、深緑色の布を腰に巻いている。
頭のてっぺんのはねた小さな毛と真ん丸い目が愛嬌がある。初めて会うのにどこか懐かしさを感じた。
「君は誰?なぜ、僕を知っているの?」
「おいらは、お前さんの所の店の常連で紐解き(ひもほどき)って名だ。藍蔵様が家で心配してるぞ。」
そう言うと紐解きは前を歩きだした。意外と早い足取りに驚き慌ててついていくと蛍たちも一緒についてくるように周りを舞い始めた。
不安に感じていた暗闇を振り返れば風に揺れた葉が「またね」とでも言うように手を振るので、それに頬笑みを返すと前を向いて尋ねた。
「君は、鬼ではないの?それとも、妖怪?モノの化?」
「妖怪って奴かな。だからっておいらは、別にお前を騙して食おうなんて思っちゃいないぞ。」
慌てながら楽しそうに笑う紐解きに食べられるかもしれないなんて思ってもいなかったが、そんな他愛のない話でいつの間にか不安が吹き飛んでいた。
少し早足になった紐解きは、照れくさそうな表情をした。
「おいらはずっとさ、夜之介、お前とこんな風に話をしたかったんだ。」
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「迎えに来たぞ。夜之介」
いつから出会っていたかなんてわからないが、初めてそいつと顔を合わせてから僕の生活はガラリと変わる。
奇奇怪怪でほんわかとした妖怪達との、のんびりとした忙しない日々の物語。