【 想いが行きついた先 】
暗い部屋の中。
窓からも日の光が入らない時間帯。
別段そこに何があるわけでもないが、白蓮は揺れる瞳で天井を見つめていた。
殆んど無意識の内に唇に手を伸ばす。
唇に指が触れ、一瞬その指がビクッと震えた。
一旦離れた指を、今度はおそるおそる動かし、再び唇に触れさせる。
今度は指が震えることも、離れることも無かった。
ゆっくりと指で唇をなぞる。
どこか扇情的にも見える仕草。
男を誘うようなその仕草は、普段の白蓮には不釣合いだろう。
しかし、ぼんやりと物思いに耽っているからなのか、部屋の暗さも相まってその様子はとても絵になっていた。
ぼんやりと靄の掛かった思考の中で、未だに消えない唇の感触を思い出す。同時に、軽い頭痛。
痛む頭を押さえて、やはりぼんやりとした思考の中で考えた。
――あれは、いったいなんだったのだろう。
それは
覚えの無い/思い出せない
忘却の彼方の
記憶/想い
俺が/私が
――彼と出会ったのは、本当にここ?
「あ、白――」
「ま、またな一刀っ!」
声を掛けようとしたら逃げられた。
顔を赤くし、凄い速さでどこかへ走って行った白蓮の後ろ姿を見送りながら一刀は深い溜息を吐く。
「はあ……」
「伯珪殿は奥手ですからな。仕方のないことだとは思いますぞ、主よ」
溜息と共に落としたその肩に、ポンと星が手を置く。慰めてくれるのは有難いが、言外に今は諦めろと言われているような気がした。
「あの件があってから今日で十数日。確か二十数回でしたか、ああして逃げられるのは」
「……増えて、今や三十数回だよ」
「伯珪殿も大概だな。それでは何の解決にもならないだろうに」
「いやまあ、星の言う通り仕方のないことだとは思うよ? でもあれはただの事――」
事故、と言い掛けた一刀の口が止まる。
星が訝しげな視線をその背中に投げ掛けるが、その停止は変わらない。
「……あー、やっぱ何でもない」
先程とは違う意味合いで肩に手を置こうとした星が手を動かしたのと同時に、一刀は動きを取り戻しガリガリと頭を掻いた。
少しだけ物憂げな表情と声色で。
「主はそのことについてどうお考えか?」
その件に関して思うことがあるのか、と星は言外に尋ねる。
少し意外そうな顔で振り向いて、自分の顔を指差した一刀に対し星は頷いた。
「え、俺? ……逆に星はどうなんだ?」
「質問に質問で返すのは主の悪い癖ですな。ですが一応答えておきましょう。特に、何も」
嘘を言っている様子は無い。
どうやら星は本心から、一刀と白蓮が口付けをしたことに対して何も思ってはいないらしかった。
「その心は」
「主がそれを聞かれますかな? 記憶が無いとはいえ、散々その話は聞かせた筈ですが」
「ああ、なるほど。納得です」
バツの悪そうな表情を浮かべ、一刀は納得して頷いた。
そりゃあまあ星も含め、何人もの少女達とキスやらなんやらを日常茶飯事にしていたらしいのだ。
その中にいて、それを見ていて、それを善しとしていた内の一人、星。確かに口付け程度じゃ特に気にならないのかもしれなかった。
「それでどうするのですか、主よ。私が認めた主はあのような女人を放っておくような人間――いや、男ではありますまい」
「分かってる。あれに関しちゃ俺にも責任があるしな。なんとかしてみるよ」
「それでこそ主だ。しかし、本来ならば伯珪殿からそういう行動を起こしてもらいたいものなのですが」
「え? 俺――っていうか男からじゃなくて?」
こういう時は大抵、男から動くことを是とされる世に生きていた一刀である。
故に、星の発言は驚きの対象であり、また興味深いものだった。
その疑問に対して星は肩を竦める。
「何もかもを男に任せて、というのは頂けないでしょう。それは自分の意思を蔑ろにし、女を立ててくれている男への侮辱だ。女も強気に出ねばならない時があるのですよ。……まあ、女が強気に出ても動かない男は最低ですが」
ふと向けられた視線が言外に
『主はそういう男ではありませんな?』
と、言っている気がして少しだけ背筋が寒くなる。
どちらにしても、一刀に選択権というものは無いようだった。その視線を受け止め、一刀は乾いた笑い声を上げる。
「しかし、やはり記憶が戻る条件は口付けだけではないようですな」
「みたいだな。そっちのことも少し気になってはいたんだけどさ。そんな様子は無さそうだし」
「とはいえ、白蓮殿にとって記憶が戻るということは即ち――」
「星」
「……すみませぬ」
窘めるような口調で名を呼ばれた星。言葉を切った彼女の表情は、先程とは違い物憂げなものへと変わっていた。
一刀にとっても星から聞いただけの話。それは公孫賛という少女の辿った道。結果として辿り着いてしまった結末。
正直な話、一刀と星は安堵さえしていた。彼女の記憶が戻るということは即ち――
「あ、あの……」
廊下の真ん中で立ち止まり、傍から見れば世間話をしているだけの二人に後ろから声が掛けられる。
同時に目を向けてみれば、そこに人はおらず、あるのは紺色の帽子だけ。
その帽子だけで、声を掛けて来た人物を特定した一刀と星はそのまま視線を下にずらした。
そこには大きな緑色の瞳を不安げに揺らす少女の姿があった。
「あ、雛里。ごめんごめん、すぐ行こうと思ってたんだけど」
なぜ彼女がここにいるのかをすぐに察した一刀は申し訳なさそうな顔で謝る。
それを聞いた雛里は慌てて体の前で手を横にぶんぶんと振った。
「そ、そんな謝られることじゃないです……」
「いやすまんな、雛里よ。私が少々主を引き留めてしまったのだ。許せ」
「あ、あわわ……」
焦った時の口癖が雛里の口から零れ出る。
どうやら謝ってもらうつもりで来たわけではないのに、予想外に二人から謝られたので少し混乱してしまったらしかった。
「それでは主。私はこれにて」
「ああ、ありがとな。書類運ぶの手伝ってくれて」
「なに、礼には及びませぬ」
「星はこれから華雄と一緒に調練だっけ?」
「は。あやつは少々猪なところがありますゆえ、そこを見ながらの訓練となると思いますが」
気が向いたら見に来ても構わない――という苦笑交じりの台詞を残して、星はその場から立ち去った。
その場に残されたのは一刀と雛里。
殆んど同時に、横に立つお互いに視線を向ける。
「んじゃ行くか」
「はい」
一刀は軽く、何の気なしに。
雛里は何故か少しウキウキとした様子で。
本日の仕事という目標に向かって、二人は歩き出した。
「はあ……」
「こんなところで何をしているんですか、公孫殿」
「うひゃあっ!」
城内に幾つかある内のひとつ。庭に下りる階段に座りながら重々しく溜息を吐いた白蓮に横合いから声が掛けられた。
この場には自分しかいないと思い込んでいた白蓮は驚いて声を上げる。
声がした方、近くにある木の根元を眼にやる――と、こちらには目もくれずに本を読みふけっている燕璃の姿があった。
「い、いたのか、燕璃」
「ご挨拶ですね。公孫殿が息を切らせて走ってきて、そこに座ってゼイゼイと喘いでいたところから見ていましたよ」
「要するに全部じゃん!」
「ま、そうとも言いますが」
そんな調子で受け答えをする燕璃は、本から目を離すことなく会話を続ける。
会話が続かないという気まずさ、醜態を見られていたという気まずさ。
二つの気まずさから、白蓮は燕璃との会話を再開するのを躊躇っていた。
そんな白蓮の態度に業を煮やしたのか、それともただの気紛れか。
「北郷さんのことですか」
どちらにしても、沈黙を破ったのは燕璃の方だった。
それに少し驚いて、白蓮は一瞬呆気に取られた表情になる。しかし、しばらくして何か意を決したような表情を作った。
「うん、そうなんだ。……燕璃はさ、その、どう思う?」
「どう思う、と聞かれましても。何に関しての質問か明確でない以上、答え辛いですね」
「いや、その……さ。私ってやっぱり、腰抜けなのかな」
「でしょうね」
「うっ」
何の躊躇も無しに放たれた言葉の槍がグサリ、と白蓮の胸を刺す。
「唇と唇が触れ合う――つまりは口付け。あるいは接吻。しかしそれは結果的に事故だったと聞いていますが」
「う、うん。確かにあれは事――」
「……? 公孫殿?」
「や、うん。なんでもない……なんでも」
――事故。
確かにあれはそれ以外の説明が付かないだろう。少なくとも意図的ではなかった。
でも、それを事故と言い切ってしまうのはなんか嫌だ――と白蓮は思った。
途中で台詞を切った白蓮。その行動に首を捻りながらも、まあ別に良いか、と燕璃は結論付けて話を進めようと再び口を開く。
「その結果、北郷さんと公孫殿の関係がギクシャクしてしまうのは仕方のないことでしょう。おそらくそれは古今東西どこでもそうだと思います。しかし……」
パタン、という音を残し、呼んでいた本を閉じると、白蓮に視線を向けた。
「その後数十回会っているのにも拘らず、ただ逃げるだけというのはいかがなものでしょうか?」
「う……」
もっともな燕璃の台詞に、白蓮は膝を抱えて萎縮してしまう。
その様子をしばらく見つめていた燕璃。
彼女はやがて場の空気に耐え切れなくなったのか、眉間に皺を寄せたまま深い溜息を吐いた。そして
「公孫殿は、北郷さんのことを好いているのではないのですか?」
この問題の根底。核心を突き付けた。
それは白蓮が今まで気付かずにいた――いや、意図的に気付こうとしていなかった気持ち。
俯いたまま、白蓮はボソリと不安げに呟く。
「……多分」
「多分? また曖昧ですね」
「分からないんだよ私にも。この気持ちが一刀のことを好きっていうことなのか」
だって
――初めてなんだ。
――そんなことを一度も経験せずに生きて来たんだから。
――初めてなんだ。
――その人のことを考えるだけで、こんなに胸が苦しくなるなんて。
――初めてだったんだ。
――唇が触れた。そのことがこんなにも心に残るなんて。
――初めて、好きかもしれないっていうことを思った――本当に、初めて?
「えっ……?」
声が聞こえた気がして、白蓮は弾かれたように顔を上げる。
キョロキョロと周囲を見回すその様子に燕璃は首を傾げた。
「公孫殿?」
「燕璃。今何か聞こえなかったか?」
「いえ。私は特に聞こえませんでしたが」
「そ、そっか」
多分、空耳だ。
白蓮はそう思うことにした。そして結局、何一つ明確な答えを出せていないことを思い出す。
「とにかく、北郷さんから逃げるのは卑怯なことだと私は思います。私が言いたいのはそれだけです」
「そう……だよな。一刀も気にしてる筈なのに、わざわざ声掛けてくれるんだもんな。私がうじうじしてちゃ駄目だよな。よーしっ!! 取り敢えず伝える! その後どうなるかは運に任せるぞ!」
「ま、もしかしたらそんなヘタレで奥手な公孫殿に北郷殿は今頃愛想を尽かしているかもしれませんが」
「え」
取り敢えずこの間のように一刀と話をしよう、と意を決して立ち上がり、一歩を踏み出した白蓮の背中に燕璃の冗談ががぶち当たった。
燕璃としてもただの軽口のつもりだった。既に白蓮は意を決して足を踏み出そうとしているのだから。
しかし燕璃は気が付かなった。その決意は吹けば飛ぶぐらいにぺらっぺらな、所謂空元気とかそういった類の物だということに。
立ち去る音も聞こえず、かといって声も聞こえない。それを訝しく思った燕璃は後ろを振り返る――と
「う、うう……」
この郡の太守。その仕事ぶりや勢力的には殆んど州牧と言ってもいい少女が半べそをかいていた。
「ちょっ!?」
さすがにそれは予想外だったらしく、一瞬前までの鉄面皮はどこへやら。
燕璃はあからさまに動揺して立ち上がる。その際に本を手から落としたが、それにも気が付かない程だった。
「え、いや、その、なんで泣いてるんですか!?」
「やだー! 一刀に愛想尽かされるのはやだよー!!」
「じょ、冗談ですよ冗談!! なんでそんなことも分からないんですか!?」
「で、でも、よくよく考えてみたら。私、一刀が何度も声掛けてくれてるのにそれ突っぱねて逃げてたんだぞ? 最低じゃん!!」
「いやまあ、事実その通りだとは思いますが……」
「うわーん!!」
「ちょ、すいません! 嘘です嘘!! 今の発言は無かったことに!!」
結局のところ嫌われるのが嫌だ、ということは好きだってことではないのだろうか、と思いながらも白蓮を宥めるのに四苦八苦する燕璃。
事情を知らない者がこれを見れば間違いなく燕璃を加害者、白蓮を被害者と見るだろう。しかし実際はある意味、真逆。
白蓮が燕璃を困らせている――つまりは加害者。
燕璃が白蓮を宥めようと困っている――つまりは被害者。
まあ、冗談のTPO(時と場合)を守れなかった燕璃への罰なのかもしれないが。
「もう駄目だ……鬱だ……死のう」
「何言ってるんですか!? ちょ、待ってください! こんなことで死んだらいい笑いものですよ!?」
「残念とか普通とかヘタレとか、何で私に付くのは後ろ向きな物ばかりなんだろう……はは」
「いやそれは残念で普通で、尚且つヘタレだからでしょう?」
「もう嫌だー! おうち帰るー!!」
「しまった! また失言を――ってここが公孫殿の家でしょう!?」
とにかく、不毛なやり取りはしばらくの間続き、偶然通り掛かった詠と月が何とか事を収めるまで続いたのであった。
今日の気候はそれなりに快適で、心地よい風が時折吹く。
庭の芝の上に落ちた、燕璃が読んでいた本。表紙には何も書いていない本。
その本が弱い風を受けてパラ、と捲られる。
一ページ目。その本のタイトルが載っていた。曰く――
『初恋と一目惚れ』
「ん?」
部屋での作業中。一刀は何かに呼ばれたような気がして、ふと顔を上げた。
しばらくの間そうしていたものの声が聞こえてくるわけでも、自分の周りに特別な変化があるわけでもない。
気のせいか、と自分に言い聞かせて元の作業に戻る。
「どうかしましたか?」
しかしそれは少しだけ不思議な行動だったらしく、同じ部屋で同じく作業をしていた雛里が小首を傾げて一刀に尋ねる。
「いや、誰かに呼ばれた気がしたんだけどな。仕事の邪魔しちゃった?」
「いいえ。ちょっと眼に止まったから聞いてみただけです」
それだけ言って雛里は柔和に微笑む。
人を安心させてくれるような、そんな笑顔。殆んど無意識に一刀も笑い返す。
「……!!」
途端に帽子を両手で押さえ、目深に被る雛里。
その様子を見た一刀は苦笑しながら自分の作業に戻る。
それから然程時が経たない内に――コンコン、と部屋の扉が叩かれた。
「どうぞー」
一刀が入室を促す返事を返すのとほぼ同時に、ガチャリという音を立てて扉が開かれる。
「北郷、報告書だ。眼を通しておけ」
「ん。サンキュ、左慈」
不機嫌そうに眉間に皺を寄せたまま持っていた書類の束を一刀に渡したのは、ここのところで新しく設立された情報部隊の隊長、左慈。
左慈は書類を受け取った一刀を一瞥し、少し離れた場所で作業を行っている雛里へと視線を移す。
「今ここにいるのは北郷。貴様と鳳統だけだな」
「なんで貴様って言い換えるかね。まあいいけどさ」
「い、今この部屋にいるのは私と、一刀様だけです……」
少しだけ怯えたような声で告げられた応えに頷くと左慈は、そのまま閉めた部屋の扉に背中を預ける。
それを見て取った一刀は今している作業を中断し、左慈から受け取った報告書に目を通し始めた。
「やはり、袁紹は軍を動かすつもりのようだ」
一刀がちょうど報告書にあるそれ関係の記述に眼を通したのと同時に、図ったようなタイミングで左慈は口を開いた。
その一言で部屋の空気が少しだけ重くなる。
この部屋にいるのは三人。
公孫賛勢力という勢力に於いて、大将である白蓮とほぼ同等の立場である者――北郷一刀。
内政や外交、軍事までをも司る立場の少女――雛里。
情報という、ひとつのことだけに特化した異質な部隊を率いる男――左慈。
そして今、左慈が報告として持ち込んだ案件は言わば幽州や公孫賛勢力の死活問題を左右するもの。
「雛里」
「はい」
一通り目を通し終わった書類を、一刀は雛里に手渡す。
先刻までの少しだけ怯えたような様子とは違い、紛れもない軍師の顔をした少女は受け取った書類に素早く目を通していく。
そして読み終わると、ひとつ感嘆の溜息を吐いた。
「凄いです……短期間でやった仕事とは思えません」
「“力”が使えればもっと簡単な仕事だったんだがな。多少骨が折れたぞ」
「明確にどこへ進軍するか定かじゃないけど、その為の準備はしているのか」
書類の中にあった記述を思い出して一刀は呟く。
「ああ。兵糧や武具、馬や兵士。どれをとっても戦の前の準備だ」
「もう少しの間大人しくしてくれると思ってたんだけどな。存外早かったか」
「焦っているんだと思います」
「焦っている?」
雛里の断言に今度は左慈が聞き返す。雛里は左慈に向かって頷いた。
「虎牢関、汜水関。あの戦いで一番被害を被ったのは袁紹軍です」
「あー……確かに。呂布にかなりやられてたからな」
「なるほどな。兵をそれなりの数損なった今、他の州が準備を整える前に叩きに行こうというわけか」
「はい。最近では曹操さんも活発に動いていると聞きますから、それを意識してのことだとも」
「「……官渡、か」」
「え?」
同じ単語を同じタイミングで呟いた一刀と左慈に、雛里が驚いた眼を向けて頭には疑問符を浮かべる。
苦笑して肩を竦めた一刀。
不機嫌そうに鼻を鳴らした左慈。
対称的ともいえる仕草をした二人だったが、考えていることは同じだった。
少なくとも三国志を知っていれば、思い浮かべるだろう。曹操と袁紹――両者が激突した戦いを。
だが、その前に起こった出来事はいくつもある。
当面、一刀達が気にして、気を張らなくてはいけないこと。
曹操と袁紹が激突した官渡の戦い。
三国志という物語ではその戦いが起こる前に、公孫賛という人物が率いていた勢力が討ち破られているのだ。
他でもない、袁紹率いる勢力に。
その袁紹が侵攻の動きを見せている――それは一刀達にとって見過ごせないことだった。
「最初に冀州で一刀様に話を聞かされた時はまだ眉唾ものでしたけど、こうなると本気で対応せざるを得ませんね」
「雛里。分かってるとは思うけど――」
「はい。取り敢えず白蓮様には内緒の方向で、ですね」
「悪いな。本当は多分、一番やっちゃいけないことだとは思うんだけど」
言わば国主を差し置いて、水面下で事を進めようという話だ。
完全な事後承諾とかそういう話にはしないようにと考えてはいるものの、後ろめたいのは確かだった。
それどころか、本来この話は一同に黙っていていい話ではないのだ。
今この件に関わっているのは一刀、左慈、雛里、星の四人。
左慈は渋々といった様子だが、情報部隊の隊長として直接動いたりもしている。
一刀と雛里は州境付近の砦や街、村への根回し。警備関係やその他諸々を水面下で進めている。
星は軍の調練。並びに筆頭武官という立場的にも武将個人個人の能力を上げようと日々忙しくしている。
余談ではあるが、最近の星の働きぶりは目を瞠るものがあり、城内で話題になっているほどだ。
当たり前と言えば当たり前だろう。彼女だけは迫る危機に対して明確なビジョンを持っているのだから。
「俺はもう少しだけ調査を進める。具体的にどこへ進軍するつもりなのかが分かっていた方が策も練りやすいだろうからな」
「は、はい。よろしくお願いします」
「この件、余計な世話にならなけれないいがな」
「余計な世話でも、やれることはやっておきたいだろ?」
「……ふん」
一度不機嫌そうに鼻を鳴らし、左慈はそれ以上何も言わずに部屋を出て行った。
部屋には一刀と雛里の二人だけが残される。
余計な世話、という左慈の言葉が案外胸に刺さっていた一刀は深い溜息をひとつ吐いた。
「……ホントに、余計なことじゃなければいいんだけどな」
「一刀様?」
「いや、何でもないよ。さて、それじゃあ作業を再開しようか! 雛里、そこの竹簡取ってもらっていい?」
「は、はい!」
口にした台詞の通り、雛里に何でもないと朗らかに笑い掛けながら一刀は自分の職務――作業に戻った。
少しだけ調子の外れた鼻歌を歌いながら机に向かう一刀。
彼は気が付かない。その背中を見つめている少女の瞳に、ある種の熱が篭っていることを。
「それじゃ雛里、また明日な。おやすみ」
「は、はい。おやすみなさい、です」
ぺこり、と小さく一礼した雛里は何故か俯き加減だった顔をすぐさま一刀から逸らして、そのまま夜の闇の中へと消えていった。
結局こんな時間まで掛かっちゃったなー、と微かに見える雛里の背を見送りながら一刀は一人ごちる。
食事は月と詠が気を利かせ、部屋まで持って来てくれたから問題は無かったのだが、一刀としては雛里という少女を仕事とはいえこんな時間まで拘束してしまったことにちょっとだけ罪悪感のようなものを感じていた。
女の子は夜寝る時間とか、食事を摂る時間とか、色々あるだろうに――と、そんな独りよがりに頭を悩ませている一刀には悪いが、無論のこと雛里は全くと言っていいほど気にしてはいないだろう。
あとは取り敢えず寝るだけ――と、自分の部屋に向けて歩みを進める一刀。
疲労はあるものの、比較的軽快だったその足取りがふいにピタリと止まる。
「ま、まだ戻ってないのかな……?」
不審者がいた。
人の部屋の前で柱に隠れたり、その他物陰に隠れたり、時には壁に背中を向けて張り付いたりしている。
整った顔立ちと綺麗な薄い赤色の髪が台無しになる程に、その行動は非常に怪しく、また残念だった。
「も、もしかしたら誰か他の女の部屋にいるとか? 一刀はモテるからそれも有り得るよな……この間も朝早く星の部屋から出て来てたし、もしかしたらそれ以外にも? ……よくよく考えてみたらこの城の中って可愛い奴らいっぱいいるじゃん!! 星は言わずもがなだし、舞流は可愛いし胸大きいし、燕璃はあの性格が良いって言う奴も多いし美人だし、雛里はもう抱きしめたいくらい可愛いし、月と詠も何だか護ってあげたいって気になるし――あ、何だろう。華雄は何でか知らないけど私と同じ匂いがする」
……何かをブツブツと、しかも一人で呟いているという図は相当に怖い。
声を掛けたが最後、襲い掛かられそうな気さえする。というよりも、灯り一つ持ってないってどういうことなんだ?
まさかあれで隠れてるつもりなのだろうか、本人的には。
もしそうだとしたら、とても綺麗な月明かりのせいで台無しである。
「あーもう! これじゃ埒が明かないよ……仕方ないな、また明日にしよう」
そう言ってくるりと反転。そのまま廊下を進み、一刀が咄嗟に潜んだ茂みに近付いていく。
幸いにも月明かりを廊下の屋根が遮断してくれているので、バレることは無さそうだった。
「……いや、つーか俺は隠れる必要無いよな」
「うひゃあっ!!!!!」
ガサッ!と音を立てて唐突に茂みから飛び出した一刀に死ぬほど驚く白蓮だった。
「な、なんだ一刀か。吃驚したー……お化けか何かだと思ったよ」
「なんだとは失礼な。というよりもこっちが吃驚だよ。なんで俺の部屋の前でうろうろしてたんだ? 変質者かと思ったぞ」
「ああいやほら、最近一刀と会う度に逃げたり避けたりしてたから。一刀に謝っとかないとって思ってさ――って一刀!?」
「……今頃気付いたのかよ」
あまりの驚きに目の前に現れた人物を北郷一刀だと認識できていなかったようで、白蓮は再び目を驚愕に見開くことになった。
そんな様子に苦笑いしながらコメントすることしか出来ない一刀は取り敢えず茂みの中から完全に脱出し、白蓮と廊下の真ん中で相対する。
「……」
「……」
会話が無くなり、困ったように頬を掻く一刀。
白蓮に至っては先日(といっても既に十数日前のことだが)のことを思い出してか、顔を真っ赤にして俯いていた。
一刀としては、そう顔を真っ赤にされるとこっちもそのことについて意識せざるを得なくなるから困る、というのが本音だった。頬を掻く、という仕草も誤魔化しのようなもので、しっかりとその指にはいつもより高くなっている体温を感じていた。
「あ、あのさ!」
「な、なんだ?」
何かを決意したように、というか半ばヤケクソじみた雰囲気で気負いこんで声を発した白蓮。
それがあまりにも突然で、しかも大きな声だったため、一刀も驚いて声が少しだけ裏返ってしまう。
しかしそんなことがあっても白蓮の口は止まらず。ある意味暴走でもしているかのように、心の赴くままに今思っていることを言い放つ――
「わ、私さ。一刀のことが好きみたいなんだ!」
「――へ?」
一瞬、白蓮が口にした言葉の意味を理解できず、呆けた表情で呆けた声を上げてしまう一刀。
反面、白蓮は所謂告白をしたままの表情で固まっている。その瞳の中では様々な感情が渦を巻いていた。
不安や期待。後悔や達観。
白蓮が自分の想い(多分、と付いている時点でそれを想いと言い切って良いものなのか疑問ではあるものの)を告げたのと同時に、一刀は時間が止まったような錯覚を覚えていた。
もちろんそんなことは無いのだが。
二人の胸中では様々な考えや想いが渦巻いている。しかしそれは自身にしか分からないこと。
そんな中、沈黙に耐え切れなくなったのは
「あ、あははは。その、じゃあ……そういうことだから、さ」
白蓮だった。
無理もないだろう。
自分自身の気持ちに整理が付いていないまま告白をし、そのことについて一刀は何も言うことが無かったのだから。
曖昧に笑いながら、心の中では決して笑うことなんて出来ずに、白蓮は踵を返した――しかし。
「待った」
「――!」
踵を返した白蓮の背に、一刀の声が掛かる。
呼び止められるとは思っていなかったのか、それとも続く言葉を聞くのが怖かったのか、白蓮は怯えたように肩を震わせた。
しかし白蓮にとって、さっきの告白は最大限の勇気を振り絞ってのもの。
この状況下で振り向き、改めて一刀と相対し直すというのは至難の技、どころか殆んど不可能に近かった。
「言い逃げっていうのはズルいだろ?」
この状況を明確に表した言葉。
だが言い逃げせざるをえない状況を作った一因は一刀にもある。
とはいえ、白蓮にとってその言葉は心に刺さるものでもあり、また同時に天啓のようなものでもあった。
刺さった言葉。心に落ちた言葉。それは――『逃げる』――という単語。
思えばそうだった。
唇が触れたあの日から、顔を見ればあの日のことを思い出し、赤面し、感情の許容量が一定値を越えて、結果逃げ出す。
それがここ最近の公孫賛――白蓮という少女の日常。
だけど、一刀は違った。
一刀だって唇が触れ合ったことについて何にも思ってないなんて筈は無いんだ。
それはある種の望みであり、真実。
それでも一刀は関係をギクシャクさせないためにも、ずっと私に声を掛け続けた。ずっと私に接触しようとしていた。
逃げ続けていたのは紛れもない――私だった。
また逃げるのか?
また先延ばしにするのか?
また自分の気持ちに蓋をするのか?
色々な想いが渦巻く中。そんな中、今までは見えなかったひとつの光を見つけた。
――もう、そんなのは嫌だ。
深呼吸をして自分という人間の核を取り戻す。
恥ずかしいし、怖いし、何が起こるのかは分からない。
でもやっぱり、今までのように逃げたくはない。それだけはしたくない。これ以上カッコ悪いところを、好きな人には見られたくない。
――そっか。
改めて気付いた。
――私やっぱり、一刀のことが好きなんだ。
それは、公孫賛という一人の人間が、白蓮という一人の少女が自身の在り方を確立させた瞬間。
よし、と小さい声で気合を入れて、意を決して後ろを振り向く。
みっともないところは見せない。毅然とした表情を作った白蓮。しかしその毅然とした表情は――
「――んっ」
すぐに崩れることとなった。
気付いたときには、目の前の少年に、唇を奪われていた。
驚いた。すごく驚いた。でも不思議と幸せな気持ちになって、逃げ出したいという気持ちにはならなかった。
「あ……」
一刀の唇が離れる。一刀の顔が離れていく。未練がましい声が出て、未練がましくその唇を追おうと身体が動く。
唐突に自分のしていることに気付いて、赤面した。
浅ましいというか、その、情けないというか。一刀を求めている自分がいた。
一刀が笑い掛ける。
まるでこんなことは何でもないという風な笑い。でも分かった。一刀も頬を赤く染めていた。
誤魔化しの笑いだった。
「これで、事故じゃないよな」
「えっ?」
私は聞き返す。意図が分からず。
「あの時のことを周りに説明するときにさ、事故って言っちゃえば簡単だったんだろうって思う。でも、言いたくなかったんだよ。何でか分からないけど」
「……うん」
嬉しかった。一刀も同じことを思ってくれていた。
私もあれを事故だとは言いたくなかった。あの時はただ嫌だとしか思えなかった。でも今だからこそその理由が分かる。
誰だって、想いを寄せる人との口付けを、事実事故だったとしても、事故だなんて思いたくないだろ?
それと、期待や願いっていう意味もあったのかもしれない。
一刀も私のことを好いていてくれないかな、っていう期待と願い。
でも今の一刀の言葉を思い返してみて、少しだけ気持ちが沈む。
一刀は、なんでか分からないけど、と言った。
そっか、一刀には分からないのか。それじゃあ多分、私と同じ考えじゃないんだろう。
「でも。今なら何となく分かる気がする」
沈みかけてた気持ちが浮上する。
いつの間にか少し俯いていた顔が上がる。
一刀は照れ臭そうに笑って、言った。
「白蓮風に言うならさ、多分――俺も白蓮のことが好きだ」
だから、事故って言うのは嫌だった。
そう一刀は言った。恥ずかしそうに、照れ臭そうに。
泣きそうになった。嬉しくて嬉しくて。
少し卑屈だとは思うけれど、自分みたいに普通な人間を好いてくれる人が今、目の前にいる。
顔が熱くなった。呼吸が浅くなった。胸が嬉しさでいっぱいになった。
視界が涙でぼやける。そのぼやけた視界の向こうには、少しだけ慌てる一刀の姿。
私の意識は――何故かそこで途切れた。
翌日。
城から少し離れた場所にある調練場で、星と一刀は肩を並べていた。
一刀は困ったような表情で、星は呆れたような表情で。眼下で汗を流す兵達を見ながら嘆息する。
「それで、白蓮殿は気絶してしまったと?」
「うん。いきなり崩れ落ちるから何事かと思ったら気絶してた」
「……情けない」
嘆くように天を仰ぐ星。それは友人としての目線から見てなのだろう。一応フォローするように一刀は慌てて話を取り繕う。
「いやでも頑張ったんじゃないか? 白蓮ってそういうのを積極的に出来る人間じゃないだろ」
「ヘタレですからな」
「身も蓋もねえ……」
「それにしても……頑張ったんじゃないか、とは随分と上から目線の評価ですな、主よ」
「そんなつもりはないよ。あれは白蓮にとって一世一代のことだったんだろうから、それに対してただ純粋に頑張ったっていう言葉が出て来ただけ」
「物は言いようですな」
「なんか星、やけに突っ掛かってきてないか? 今日は特に」
「ふ、わが友の事とはいえ他の女人のことを話されるのは少々気になってしまうものなのですよ」
「なるほどね」
しかし裏腹に
「……そうか、白蓮殿は想いを伝えられたか」
と穏やかな顔で呟いているのを一刀は聞き逃さなかった。
一刀はニヤッと笑って空を仰ぐ。
「素直じゃないんだから」
「何か言いましたかな、主よ」
「いーや。何にも」
まだ何か言いたそうな星に笑い掛けることで誤魔化し、一刀は空から眼下に視線を移動させた。
乱れているところは無いか。サボっているやつはいないか。調子の悪そうなやつはいないか。視線を移動させて注意深く眺める。
「おーい! 星ー!」
唐突に大きな声が響く。
一刀と星の位置関係ならともかく、遠くからの声だと兵達が調練時に上げる声に掻き消されると思ったのだろうか。
声の主は星へと徐々に、走って近付いてくる。その人物を見て、星は人知れずニヤリという笑みを浮かべた。
「噂をすれば、ですな」
「ん? 何がだ?」
「いや少々白蓮殿の話をしていたのですよ、主と」
ちょうど一刀が星の身体に隠れて見えない絶好の位置から近付いてきた白蓮は、星の台詞に疑問符を浮かべる。
その表情を見てクツクツと笑いながら、星はこの先の展開が読めているという風に自身の身体を少しずらした。
――と、同時に白蓮が固まる。
「よっ、白蓮」
何の気なしに一刀は白蓮に声を掛けた。
反面、昨夜のことを気にしているのがまる分かりになるほど、徐々に白蓮の頬が紅潮していく。
「白蓮殿、一日の始まりに口付けでもしますかな?」
「なっ――!」
明らかにからかっている口調の星。しかしその口から放たれた内容は冗談として処理できない。
唇を真一文字に結び、怖いくらいの固い表情で白蓮は徐々に一刀に接近していく。
一刀としてはいつでも来いという覚悟というか、少なくとも好きだと言った手前それは甲斐性だろうというふうな信念の元、それを待ち受ける。
だが、しかし――
「やっぱり無理だってーーーーーーー!!!!!!」
既に昨日の時点で頑張りが限界を越えていた白蓮は、脱兎の如く逃げ出した。
土煙が立つその場に残されたのは、必死になって笑いを噛み殺している星と、苦笑いをするしかない一刀だけ。
眼下では、今の叫びは何事かと頭上を見上げる兵士達。一刀は改めて空を見上げる。
「……平和だなあ」
この先に起こるであろう戦はともかくとして、現状を思ってそう呟いた。
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最近は少し涼しくなってきましたね。
皆様、如何お過ごしでしょうか。
私はここのところで喉風邪を引いてしまい、危なく死ぬところでした(誇張)
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