賢者の贈り物
原作 O・ヘンリー
千八百七十円。それでぜんぶだった。それもそのうち六百円は一円玉と五円玉だ。乾物屋や八百屋や肉屋でけちけち値切って、はては、そんなしみったれた買いかたを無言のうちに非難されて顔から火の出る想いまでして、一枚、二枚と貯めた一円玉と五円玉だった。みのりは三度数え直した。千八百七十円。そして明日はもうクリスマスだった。
みすぼらしい小さなこたつに身を投げ出して、おいおい泣くより他に手はなかった。だからみのりは泣いた。そうなると考えたくなる──人生は「むせび泣き」と「すすり泣き」と「微笑み」から成り立っているのだと。なかでは「すすり泣き」がいちばん多くを占めているのだが。
この家の住人がだんだん落着いてむせび泣きからすすり泣きの段階に移ってくる間に、部屋を一瞥しておこう。月二万円の四畳半一間のアパートだ。言語に絶するほどひどくはないにしても、不法滞在外国人摘発の警官隊を用心してアパートと名づけただけの代物だ。
階下の玄関口には、手紙などぜったいに来そうにない郵便受けと、人間の指ではどうなだめすかしても鳴らないベルがあった。そこにはまた「○○ 竜之介」「(加藤) みのり」という紙が貼ってあった。
景気がよくて時給千円貰っていた時代には、「加藤」というカッコ書きの苗字がそよ風に踊っていた。収入が時給七百円に減ったいまは、「加藤」という字は、まるでつつましくひっそりと最初の「(」だけになろうとするかのように、ぼやけてしまっていた。だが竜之介は、帰宅して二階のアパートにたどりつくと、かならず、さきほどみのりという名前で紹介した加藤みのりに「竜之介さん」と呼ばれ、きつく抱きしめられるのだった。それはなかなか結構な話だが……
みのりは泣き終ると、頬にパフを当て、窓のそばに立って、灰色の猫が灰色の裏庭の灰色の塀の上を歩いているのをぼんやり眺めた。明日はクリスマスだった。それなのに、竜之介に贈るプレゼントを買うのに、千八百七十円しかなかった。ここ何ヵ月も一円も無駄にしないで貯めてきて、この結果だった。時給七百円では、たいしたことができるはずはない。支出は予想を上まわった。支出とはいつもそういうものなのだ。竜之介に、彼女の竜之介に、プレゼントを贈るのにたった千八百七十円しかないなんて。なにかすばらしいものをとあれこれ考えて、彼女は何時間も幸福な時を過ごしてきたのに、なにか、すばらしい、めったにない、立派なものを──竜之介に持ってもらう名誉に少しでもふさわしいものをと思って。
部屋には窓と窓の間に壁掛けの鏡があった。月二万円のアパートの鏡となると、読者には見当がおつきだろう。非常にやせた、身ごなしの敏捷な人間なら、縦に断片的に映る姿をすばやくつなぎ合わせて、自分の全身像をかなり正確に見ることができるかもしれない。みのりはやせていたので、その芸当を身につけていた。
彼女はくるりと踵を返して窓から離れると鏡の前に立った。眼はきらきら輝いていたが、顔色は二十秒前から蒼白になっていた。彼女はさっと髪を下に引っぱって、いっぱいにたらした。
ところで、竜之介と加藤みのりの内縁の夫妻には自慢の宝がふたつあった。ひとつは、竜之介が八十八学園を卒業してからアルバイト代を貯めて買った携帯電話だった。もうひとつはみのりの髪だった。シバの女王が通風縦孔をへだてた向かい側の部屋に住んでいたなら、みのりはいつか、髪を乾かすとき窓の外にたらして、女王の宝石や贈りものを顔色なからしめたことだろう。それにソロモン王が財宝を地下室につめこんで、ここで管理人をしていたなら、竜之介は彼のそばを通るたびに携帯電話を取り出して見せたことだろう。そして、うらやましがらせて王に顎鬚をひねらせたことだろう。
だからいまみのりの美しい髪は、ピンク色の滝のように波うって輝きながら、体のまわりに垂れていた。腰のあたりまであって、ガウンのようだった。それからいらだたしそうにすばやくまたそれを結いあげた。いちど一瞬彼女はひるんで、立ちつくし、すり切れた茶色い畳の上に一、二滴、涙を落した。
それから古びたジャケットを着て、古びた茶色の帽子をかぶった。そしてスカートを一回転させてから、眼にはまだ光るものを溜めたままドアの外に出て、階段をおり、街路に出た。
彼女が足をとめたところには、看板が出ていた。「かつら類一式 マダム・ソフロニイ」階段をかけあがると、はあはあ喘ぎながら勇気をふるい起こした。大柄で、色の白すぎる、冷やかな感じのマダムは、「ソフロニイ」らしくは見えなかった。
「私の髪を買ってくださる?」とみのりは言った。
「髪は買いますよ」と女主人は答えた。「帽子をとって、ちょっと見せて」
ピンク色の滝がさざ波を打って、流れ落ちた。
「二万円ね」と女主人はなれた手つきで髪の房を持ちあげながら言った。
「ではすぐください」
ああ、それからの二時間、時はばら色の翼にのって軽やかに飛んでいった。いや、そんな使い古しの比喩は忘れてほしい。彼女は竜之介へのプレゼントを探して店から店へと歩きまわった。
とうとう彼女は見つけた。まさに竜之介のために、竜之介ひとりのために、作られたようなものだった。どの店にもそれほどのものはなかった。彼女は店という店をくまなく探したのだった。それはかわいらしいデザインの携帯電話のストラップだった。それは──レアなものはすべてそうあるべきだが──けばけばしい装飾ではなく、珍しさだけで、その価値を十分に主張していた。「あの携帯電話」につけても恥かしくなかった。それを見たとたん、これこそ絶対に竜之介のものでなければならないとみのりは思った。それはまさに竜之介にふさわしかった。珍しさと価値──その形容が竜之介とストラップの両方に当てはまった。代金は二万一千円(税込)だった。彼女は残った八百七十円を持って、急いで帰った。このストラップをあの携帯電話につければ、竜之介はどんな人の前ででも堂々と携帯電話を取り出すことができるだろう(そうか?)。携帯電話は立派だったが、ストラップがついてなかったので、ときどき竜之介はそっと携帯電話をのぞいたのだった。
家に帰ると、興奮がさめて、分別と理性が少し戻ってきた。みのりはブラシとドライヤーを取り出して、愛情と気前のよさの結果の惨状をつくろおうとした。だがそれはいつだってたいへんなことだ。諸君──一大事業だ。
四十分かかって、彼女は頭をショートヘアに整えた。まるで高校の同級生の篠原いずみだった。彼女は自分の顔を長い間注意深く、冷やかに眺めた。
「まさか、こんな頭だからといって、殺されることはないでしょう」とみのりは思った。「でもT○Heartの坂下好恵だぐらいのことは言われるかもしれない。でも仕方ないわ──千八百七十円ではなにもできないもの」
七時にご飯を炊き、ストーヴの奥の方に両手鍋をのせて、いつでもおでんを作れるように暖めた。
竜之介は帰りが遅れたことはなかった。みのりはストラップを二重に折って手に握りしめ、竜之介がいつも入ってくるドアのそばのこたつに当たった。やがて一階の階段を昇ってくる足音が聞こえてきた。みのりは一瞬青くなった。彼女は日頃、日常のつまらないことにも口のなかで短いお祈りを唱える癖があったが、このときは低く声に出した。「どうか神様、あの人にいまでも私を美しいと思わせてください」
ドアが開いて、竜之介が入ってきて、ドアを閉めた。やせて、とても真剣な顔をしていた。かわいそうに、彼はまだほんの二十二歳だった──それでいて家庭の重荷を背負わされているなんて。新しいジャンパーもいるし、手袋もなかった。
竜之介は部屋に入るなり、フリーズしたパソコンのようにぴたりと動かなくなってしまった。眼はじっとみのりに注がれ、そしてそこにはみのりに読みとれない表情があった。それが彼女には恐かった。怒りでも、驚きでも、不満でもなく、恐怖でもなかった。彼女が覚悟していたどんな表情でもなかった。彼はそんな奇妙な表情を浮かべて、ただじっとみのりをみつめていた。
みのりはよろけるようにこたつを離れ、彼の方に歩み寄った。
「竜之介さん」と彼女は叫んだ。「そんな眼で私を見ないで。私が髪を切って売ったのは、あなたにプレゼントもしないでクリスマスを過ごすなんて、できなかったからなのよ。また伸びるわ──怒らないでしょう? 仕方なかったのよ。私の髪は伸びがとても早いわ。竜之介さん、クリスマスおめでとうと言って! 楽しくしましょう。あなたには私がどんなにすてきな──どんなにかわいく、どんなにすてきな──プレゼントを買ってきたか分らないでしょ」
「髪を切ってしまったのか?」と竜之介はようやく、どんなにけんめいに考えても明白な事実を理解できないかのように、言った。
「切って売ったわ」とみのりは言った。「もう前のようには私を好きでないと言うの? 髪がなくても私は私でしょう?」
竜之介はいぶかしげに部屋を見まわした。
「みのりはもう髪がないと言うんだな?」と彼は腑抜けになったように言った。
「探すことないわ」とみのりは言った。「売ったのよ──売って、もうなくなったのよ。さあ、今夜はクリスマス・イヴよ。優しくしてね。あなたのためにしたことなのよ。私の髪の毛はきっと神様が数えてくださっていたと思うけど」とにわかに真顔で甘い声になってつづけた、「でもあなたにたいする私の愛情は誰にも測れはしないわ。おでんを火にかける? 竜之介さん」
竜之介はたちまち呆然自失から醒めたようだった。彼はみのりを抱きしめた。ここで十秒間われわれは本題からはなれて、ひとつ、取るに足らぬ問題を慎重に考察してみよう。時給七百円と年俸六億円──その違いはなんだろうか。数学者や才人に質問してもその答は正しいとは言えないだろう。東方の賢者たちはいろいろ貴重な贈りものを持ってきたが、その解答はそのなかにも含まれていなかったのだ。この不可解な言辞は後でやがてはっきりする──ことはない。
竜之介はジャンパーのポケットから包みを取り出して、こたつの上にぽんと置いた。
「俺を誤解しないでくれ、みのり」と彼は言った。「髪を切ろうと、染めようと、パーマをかけようと、そんなことでみのりが好きでなくなるようなことはないさ。だけどその包みを開けたら、俺がどうして最初呆然となったか、理由が分るよ」
白い指がすばやく紐と紙をひきちぎった。それから我を忘れた歓声。だが、ああ、それが次の瞬間女性特有のヒステリックな涙と号泣に早変りし、その部屋の主人はあらゆる手をつくして妻(内縁の)を慰めねばならなかった。
そこには髪飾りがはいっていたのだ──みのりがかねがねあこがれていた、スタジオアタルのウィンドーに飾ってあった、セットの髪飾りが。それは本物の銀の、ふちに宝石をちりばめた、美しい髪飾りだった。売ってしまった、あの美しい髪にさすのに、似合いの色だった。高価なものだということは分っていたので、持てるとは夢にも思わないで、ただほしくてあこがれていただけだった。それがいま自分のものなのだ。そしてその待望の髪飾りを飾る房々とした髪はなくなっていたのだ。
だが彼女は髪飾りをしっかと胸に抱きしめた。しばらくしてようやく顔を上げると、かすんだ眼で微笑しながら言った。「私の髪はとても早く伸びるわ、竜之介さん」
だが次には、毛をこがした小猫のように飛びあがって、叫んでいた。「あ……」
竜之介はまだみのりのかわいらしいプレゼントを見ていなかった。みのりはそれを手の平にのせて、いそいそと彼に差し出した。鈍い光を放っているレアグッズは、彼女のきらめく熱烈な精神を反映して輝いているようだった。
「しゃれてない? 竜之介さん。町中探して、見つけてきたのよ。これからは一日に百回も電話をかけないではいられなくなるわ。さあ、携帯を出して! 携帯につけたら、どんなにかわいいか見てみたいわ」
竜之介は言われた通りにはしないで、こたつにもぐり込むと頭の後ろに両手を廻して、微笑した。
「みのり」と彼は言った。「俺たちのクリスマス・プレゼントはかたづけて、しばらくしまっておこう。いま使うには立派すぎるよ。髪飾りを買う金を作ろうと思って、俺はあの携帯を売ったんだ。さあ、おでんを火にかけてくれないか」
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
O・ヘンリーの有名な短編小説のパロディです。