自分の手の不器用さにいらいらする。
パソコンのマウスって、目標地点に動かすのは出来るけど、その軌道はどうにもならないのな…。マウスで絵を直そうとして、二時間。結果は胃の痛みと、なれない動きを頑張ってへとへとになった重だるい手首だけだった。
左手で携帯電話を開き、画面を見ずに電話帳を呼び出す。すっかり使い慣れて、ここまでの動作は目を瞑っていてもできる。名前だけ確認して、発信。
電話をかける先は、佐々木つばめちゃん。現代国語教師で真奈美さんの担任の佐々木先生であり、同時に俺を毎回コミケに連れて行ってくれるエロ同人作家のつばめちゃんでもある。三十一歳である。
『はぁい。つっばめちゃんでぇーっす』
三十一歳である。
「……あ、夜分遅く失礼しました。なんでもありません」
『きゃー。なおくん!二宮くん!待って、待ちなさい。今のは私が悪かったわ。ごめんなさい。なぁに?』
「つばめちゃん、歳いくつだっけ?」
『ぐふふふ。十万と二十九歳と二十四ヶ月である!』
「…本当に失礼しました」
『きゃー。ごめんなさい』
これが、学校では俺の先生なのだ。信じられないだろ。俺も信じられない。最近、現代国語の時間になって教室に佐々木先生が入ってくると、なんでつばめちゃんがこんなところに…って思ってしまうくらいだ。俺の認識が混乱している。
「話が進まないから、単刀直入に言うよ」
『うん。なにかしら?ところで、それは佐々木先生に?それとも、つばめちゃんに?』
電話の向こうで、佐々木つばめの声がする。教師と友達の中間の、佐々木つばめさんの声だ。
「つばめちゃんに…かな」
『そう。それで、なぁに?』
あれ?つばめちゃんの声が少し変わったような気がする。いや。正確には声音がかわった。少し幼い、甘えとくつろぎの混じった声。
「絵の描き方を教えてください」
『ほんとっ!よろこんでっ!…あっ!だめっ!のー!今は駄目です!受験生は油断しない受験勉強していないと、少しくらい成績が上がっても、この時期はサボるとあっという間に追い抜かれるわよ!』
つばめちゃんがはしゃいで、佐々木先生が出てきて俺を叱る。軽く二重人格気味だ。大人の本音と建前と、仕事をしている自分と、生まれたままの自分って大変だ。
「ですよねー」
『…で、どうしたの?急に絵が描きたいなんて言って?エッチな漫画一緒に描きたいの?』
つばめちゃんと一緒にエッチな漫画を描くというのは、なかなかレベルの高いプレイかもしれない。
『あ。でも、漫画描いているところは、なおくんには見られたくないなぁ』
「そうなんですか?」
描きあがった本はバンバン見せてくるのにな。現に、俺の机の上に教科書や参考書に混じって、つばめちゃんからもらった薄い本が並んでいる。なんとなく、一冊手にとって開いてみる。そのページでは、ふわふわの髪をした少女マンガに出てくるみたいな女の子が、目をトロンとさせて半開きの口から軽くよだれをたらしている。
『だって…。絵を描いているときって、描いている顔と似た表情していることが多いんだもの…』
なるほど。ここであらためて、つばめちゃんの漫画を見てみよう。(なん○も鑑定団風に)
ふわふわの髪をした少女マンガに出てくるみたいな女の子が、目をトロンとさせて半開きの口から軽くよだれをたらしている。半脱ぎになったブラウスに可愛らしい下着がずれて、非常に扇情的だ。下半身に別の少女が顔をうずめて、確かな筆致でくちゅっちゅぷっちゅぱっという効果音が書き込まれている。
描いている顔と似た表情をしていることが多いのか…。ぜひ一度、描いているところを見に行かなくてはいけなくなった。
そうじゃない。
思考の糸を元に戻す。
「いや。エッチな漫画を描きたくなったわけじゃなくて…その…」
俺は、理由をつばめちゃんに話す。
『なおくん?そういうことなら、私がやってみてあげるけど…』
「あ、ありがとう。真奈美さん、ぜったい喜ぶよ」
『そうね。でも…なおくん?』
「はい」
『なんで、そんなに市瀬さんの自転車直したいの?』
「真奈美さんが大切そうにしてるから」
『…そうじゃなくて、なんで市瀬さんのお世話をそんなにしてるの?』
「えっと…」
そう言われて、何度目かになる疑問にいたる。俺は、なんで真奈美さんのことをあんなにかまっているんだろう。
『好きなの?』
いつもは、俺が考える時間をくれるつばめちゃんにしては珍しく、数秒で畳み掛ける。
「…んー。ちょっと違うかな。えーと…」
恋愛の意味で言えば、好きなのは美沙ちゃんだ。かわいく微笑むだけで胸がきゅんとするし、学校でも遠くに美沙ちゃんを見つけただけで「お。美沙ちゃん」って思う。一緒に歩いて、手がぶつかるだけでもどきどきするし、手を握られてもどきどきする。包丁を突きつけられてもどきどきする。最後のは少し違うな。
真奈美さんは、なんだろう…。
「…ああ。わかった。上野が言ってたあれだよ。真奈美さん、妹ポジション。うちのリアル妹があまりにアレなんで、つい失念するけど、真奈美さんは妹ポジションなんだよ。ほうっておけないし、なにかしてたら一緒にしてやりたくなるんだ。一緒にいても疲れないし、一緒にお風呂入ったりするし」
『一緒にお風呂!?』
わぁ、しまった。いらんこと言った。
「水着着てです!水着着用で!市瀬さんの家で、水遊び!」
俺、必死。
『なおくん。おどかさないでね』
「はい」
『で、その部品の写真のデータ送って。あと、サイズも』
「サイズ?」
『だって、プリントアウトするのにサイズわからないと困るでしょ』
そのとおりだ。さすが、つばめちゃんはだてに同人誌を作っていない。よく最終形までに必要な事柄の予想がついている。こういうのって、経験だよな。
「あとで測ってきます」
『ん。よろしく。そのアニメなら、昔、二次やってたから、そっくりに描ける自信があるわよ』
「…二次?」
『二次創作。ファンが、勝手な外伝とかの漫画を描くの』
「なるほど。エロ同人みたいに描いていたんですか?エロ同人みたいに?」
『それは、さすがにエロじゃなかったわよ。子供向けアニメのエロ同人は、なんだか背徳感あふれすぎるわ』
「そうですか?」
『ところで、私がそのアニメにはまっているときに、そのアニメのイベントに友達と一緒に行ってね。あんまりアニメには興味のない子だったんだけど…』
「うん」
『友達に「すごいね!私、興奮してきた」って言ったら、その友達も「すごいね!子供だらけ!私、興奮してきた」って言ったから、片時も目を離さずにきっちり監視しておいたわ』
そんな危険な小話はいらない。もしかしたら、その子供の群集の中に小さなころの真奈美さんもいたのかもしれないな。真奈美さんが、ヤシガニ化するまえの子供のころとか、ものすごい可愛い子供だったかもしれない。つばめちゃん、よくぞ監視していてくれた。十年の時を超えて感謝する。
電話で、感謝を伝えて、すぐにメールでチェーンガードの写真を送る。
メールの返信がある。
<了解ー。出来たら、私の自転車も痛チャリにしちゃおうかしらー♪>
二十九歳と二十四ヶ月の女性は子供向けアニメのイラストをチェーンガードにプリントした自転車はやめたほうがいいと思う。
やりたくなる気持ちは分からなくもないけれど…。
そして、夏休みが終わる。新学期が来る。高校生活最後の二学期。
真奈美さんにとっては、高校生活始めての夏休み明けでもある。真奈美さんにとって、一年生の夏休みは明けなかった。二年生の夏休みは、補習で毎日学校に来ていた。俺と真奈美さんに、三年生の夏休みが明ける。
「……」
朝、家の呼び鈴が鳴り、ドアを開けたところで絶句した。声が出ない。美沙ちゃんが、やや不機嫌そうな顔で、それでも快活に「おはようございます」と挨拶をしてくれるが、それに挨拶を返すこともできない。
真奈美さんが、前髪を左右に分けて後ろで二本の長い三つ編みにしていた。
美沙ちゃんと同じ夏服を着ている。
涼やかな切れ長の瞳。完全に左右対称の面長の顔。縁取るのは、真っ黒でつややかな黒髪。そこだけ現実から切り離されているみたいだ。
「…おはよ…」
桜色の唇がそっと動き、真奈美さんの声で話す。
「お、おはよう…せ、制服着たんだ…」
瞬きも出来ずに、そう上ずった声で返す。
きれいだ。
玄関先で呆然としていると、左腕を強く引っ張られる。ついでに胴体が強く押される。
「お兄さん!なに、お姉ちゃんに見とれてるんですか!やらしい!」
美沙ちゃんが、両手で俺の左腕を抱え込んで、わき腹に片足をかけて全力で左腕を引き、胴体を押している。左腕に当たる絶妙の弾力が心地よすぎる。
ああ~、いい気持ちだぁ~。でも、腕がもげちゃうかもしれない。にちゃ。
北斗有情拳的な臨死体験を経験しつつ、二人をリビングに案内する。
「美沙っち、ちょっと待つ…っす?」
バターロールを縦に丸呑みしていた妹も硬直する。母も硬直する。俺の左腕がもがれそうになっているのが原因ではなさそうだ。
心地よすぎる美沙ちゃんホールドから腕を引き抜き、真奈美さんの背後に回る。両手で、細い肩をつかみ、ちょっと押し出す。
「真菜。おどろけ!本邦初公開!真奈美さんの制服姿だ!見ろ。この超美人っぷり!」
「……真奈美っち?」
「え?真奈美ちゃん?」
母も、妹も徐々に硬直から解けていく。
「…な、なおと…くん?」
真奈美さんが振り向く。昔の女学生みたいな三つ編みの間の白いうなじ。かすかな産毛が窓から差し込む日光に白く光る。振り向いたセルロイド人形のような造詣の顔に、鳶色の瞳が流し目を送ってくる。
心臓が跳ね上がる。
「な。なに?」
鳶色の虹彩の中心に光を吸い込む瞳孔が黒く輝く。その奥に飲み込まれて、銀河を見る。
「私の顔…変じゃない?」
「え?」
過去に何度か聞かれた問い。俺の答えは、いつも同じはず。「俺は好きだよ。真奈美さんの顔」。そう答えるはず。だけど、その言葉が出てこない。流し目で俺を見つめる、鳶色の虹彩と宇宙の黒さの瞳孔に囚われる。
だめだ。
俺がこれではいけない。なけなしの精神力を振り絞る。
「俺は、好きだよ…」
最初のフレーズだけをかろうじて、のどから搾り出す。後は言葉にならない。
「お兄さんっ!?」
ぐえっ?
背後から髪の毛が鷲掴みにされて、引き倒される。そのまま、受身も取れない体勢で居間と廊下の床に転がされる。頭蓋骨の形に、ごんっという衝撃音が伝わる。
「私の目の前で、お姉ちゃんに告白ですか!?死にたいんですね!まだ夏ですし、入水もいいですよね!おっけーです。一緒に死にましょう!」
俺は、両腕を突き出して親指を立てた。床に転がされたことにより、美沙ちゃんのスカートの中が丸見えなのだ。イエス!
これは親指を立てざるを得ない!ホワイト!
「ですよね!お兄さん!一緒のお墓に入りましょう!」
違う。誤解がある。このジェスチャーは、そのYEAHではない。
「美沙っち。ちがうっす。にーくんは美沙っちのスカートのインサイドにイエスっす」
妹が誤解を解いてくれる。
「きゃっ!み、見ないでください!」
ごすっ。
美沙ちゃんが俺の目をふさぐ。足でだ。視界が紺のソックスでふさがれる。俺の業界ではご褒美だ。
ありがとうございます。
なるほど。
通学の途中で真奈美さんが引きこもった理由のうち、俺の理解していなかった部分が理解できた。一緒に街を歩いても、電車を待っているときも、車内でも、同じ制服の連中に囲まれても、素顔の真奈美さんは人目を引きすぎる。今までも、美沙ちゃんをちらちらと見る連中は多かったし、妹だって視線を浴びたりしていた。ちなみに妹に視線を浴びせるやつらには、《その妹を見ている人は、こちらにも興味を示しています》と、バスケットボールのラノベやアニメdvdをオススメしたい。
話がずれたが、真奈美さんの注目の浴び方は美沙ちゃんや妹よりもはるかにあからさまだ。セルロイド人形が動いている。そんな奇妙な光景を見た人間の反応なんだ。
外に出るたびにそんな視線を浴びたら、引きこもりたくもなる。
駅に近づき、人通りが多くなる。
まだ暑いのに、背中にさらに熱を感じる。
首を捻って後ろの様子をうかがうと、案の定真奈美さんだった。両手でカバンを抱きしめて、背中を丸め、額を俺の背中に押し当てている。以前だったら、紺色のジャージ姿で背中を丸めてヤシガニさん状態だっただろうが、今日は制服を着ている。すらりとした脚がスカートから伸びて、白いうなじが夏の太陽に光っている。
顔を俺の背中に押し付けていても、まだ通り過ぎる人たちがちらちらとこっちを見てくる。
「真奈美さん?」
道すがら、そっと話しかける。
「うん?なに?」
「怖かったら…」
「うん」
「無理しないで、顔を隠していてもいいんだよ」
「…ん」
そう言って、立ち止まる。三つ編みをとめているゴムを外し、ばさばさぶんぶんと頭を振り回す。
ばさっ。
いつもの真奈美さんが帰還する。
ジャージよりも、制服姿でこれをするほうが違和感あるな。
そんな冷静な感想も一緒に帰ってくる。まだ、制服から伸びるまっしろな手足は、非現実的だけど、それでも顔のインパクトほどではない。
正直、ほっとする。
通学時間帯の駅のホーム。それなりに人がいる。真奈美さんは、髪の毛と俺の背中をバリアにしている。背中にむぎゅむぎゅと額やら鼻やらが押し当てられる。
「……なおとくんの、匂いする…」
そりゃ、そーだろーよ。俺の背中だもんよ。
学校に到着して、階段で美沙ちゃんと妹と別れる。三階に上がり、真奈美さんと就職クラスの教室に入る。
「…お、おはよ」
「よっ」
後ろの席で、相変わらず無愛想な表情で文庫本を読んでいる上原さんに声をかける。無愛想だが悪い人じゃない。
上原さんがちらりと真奈美さんを見る。
「うん。おはよう…」
そう言って、また文庫本に目を落とす。真奈美さんが席に座る。半分くらいが埋まった教室を、なにげない風を装って眺める。今のところ、真奈美さんに変な注目は集まっていない。教室の隅で数人がちらちらとこちらを見ているくらいだ。ジャージじゃないのが話題になっているのだろうか。
「なに読んでるの?」
上原さんに話かけ続ける。
「伊藤計劃の『虐殺器官』」
ブックカバーを外して、真っ黒な装丁の表紙を見せる。
「そ、それ…わ、私も読んだ…」
真奈美さんが、おずおずと上原さんの話に乗る。上原さんは意外そうな顔もしない。というか、無表情だ。
「撃たれても撃たれても、痛みを感じない兵隊がゾンビっぽくて可愛いわね」
上原さんはきっとうちの妹と気が合う。
「…う、うん。『ハーモニー』の方が怖かった」
「あっちは、ゾンビみたいの出ないのよね」
上原さんの価値観がゾンビ中心だ。うちの妹は悪魔中心なんだが、どうだろうか。
「うちの妹は悪魔が好きなんだ」
「悪魔は銃で撃ってもふっとばないからつまんないわ」
なるほど。
「…ふっとぶの面白い…かな?」
「超、面白いわ。バイオハザード最高。うようよ出てくるゾンビを銃でばんばんぶっとばして、肉片にするのが好きなの。あと、焼夷手榴弾で燃やすのも楽しいわね。市瀬さんは?」
「…そ、それはあんまり…」
「ゲームとかやらない?」
「…ど、ドラクエ…3…」
真奈美さんのドラクエはすごいぞ。Lv99だからな。
「ゾンビ出る?」
「くさったしたいも、バラモスゾンビも出る」
「素敵ね」
話題は、ともかく上原さんと真奈美さんが仲良さそうで安心する。完全に妹を心配するお兄ちゃんの視点になっている自分を見つける。これぞ妹を心配する兄の視点だと思う。いつものあの妹は、ちょっと妹とは違うと思う。
「じゃ、そろそろ始業式始まるから、俺、行くな」
軽く手を振って、教室を出ようとする。
「二宮直人。待つ」
上原さんに呼び止められる。
「うん。なに?」
「君、ゾンビは好きかね?」
「…いや。別に…」
「とても残念です」
「そうですか」
今度こそ、教室を出る。一ヵ月半ぶりに、自分の教室へと移動する。
始業式の途中で、真奈美さんが貧血で倒れた。
体育館から、教室に戻る途中で抜け出して保健室に行く。ある意味、通いなれてしまった。真奈美さんの保健室登校に付き合って、お昼をここで食べたりもしていたからな。
「なおとくん?ホームルームがあるでしょう。早く教室に戻りなさい」
保健室に付き添ってきていた、つばめちゃんこと佐々木先生にたしなめられる。それでも、真奈美さんが寝ているベッドに近づくのを止められたりはしないあたりが、つばめちゃんだ。
「真奈美さん、大丈夫?」
「うん…」
事実、横になっている真奈美さんの前髪から除く顔色には、赤みが戻ってきている。それだけ確認して、ホームルームに派手に遅刻しないように階段を三段飛ばしで駆け上がる。教室に入ろうとしているゾッド宮元の脇を駆け抜け、後ろの扉から中に飛び込む。
「二宮」
「はい」
「廊下を走るなバカモノ」
「はい」
ゾッド宮元の注意は、右から左に華麗にスルーパスを決めた。
「スルーするなバカモノ」
「はい」
次々にスルーパスを決める俺の華麗なスルー能力は、日本代表からスカウトが来るレベルである。
その後の、受験まであと半年だとか、ここで気を抜くと瞬く間に追い抜かれるから、本気で受験をするつもりがあるなら正念場だと思って頑張れなどという二学期の心得的な話も、見事にスルーを決めて、ホームルームが終わる。まとめるまでもない荷物を持って教室を出ようとする。
「おい。待て二宮」
俺の華麗なスルー能力に早くも日本代表のスカウトが目をつけたのかと思って、振り返るとなぜかゾッド宮本だった。
「俺は、ワールドカップに興味ないんですよ」
「なにを言ってる。イカれたのか二宮」
違った。
「なんでしょう?」
日本代表のスカウトでなければ、呼び止められる理由が思い当たらない。
「夏休み中の模試では、それなりに成績が上がっていたようだな」
「はぁ」
じゃあ、文句なかろう。だったら、放置しておいて欲しい。
「だが、油断するな。いいか。受験は成績しかみてくれないぞ。人間性とか覚悟とかは見てくれないからな。成績キープとか考えるな。成績を上げるつもりじゃないとキープもできないからな。それだけだ」
そう言って、哀れなスルー大王にプレッシャーをかけてゾッド宮本が筋肉を揺らして去っていく。でかい背中は、物理の教師というより体育教師だ。俺は心の中で、力学教師と思えばいいのかと思う。
「お兄さん。終わりました?」
振り返ると、美沙ちゃんと妹が立っている。両手を前にそろえてカバンを持った制服姿の美沙ちゃんは、マジ天使。胸がきゅんきゅんする。
「うん」
「じゃあ、帰りましょう」
すっと二歩、距離を詰めて俺を見上げる美沙ちゃん。そのタイミングに一瞬、抱きついてくるんじゃないかと思ってどきりとする。
「あ。真奈美さん迎えに保健室に行かなくちゃ」
「え?お姉ちゃん、どうかしたんですか?」
「貧血で倒れて、保健室に行ったんだ」
三人で階段を降りながら言う。いや、正確には美沙ちゃんと俺が階段を降りていて、妹は手すりを「いえー」とか言いながらすべり降りていた。すれ違う二年生の男子がこっちを見て「二宮さん、超かわいー」「俺、市瀬派」「二宮さんがぜってーかわいいって」などと話している。顔は覚えた。あのロリコンめ、どうしてくれよう。
「真奈美さん。どう?具合よくなった」
カーテンをそっとめくると、ベッドの上で真奈美さんが三角座りをしている。髪型は前後左右対称の元の状態に戻っているが、やはりジャージ姿じゃない真奈美さんは見慣れない。夏服の袖から伸びる滑らかな肌。薄手の夏服の生地にかすかに透ける肌の色。どれも見慣れない。真奈美さんの肌は、何度も見ているけれど制服と真奈美さんの組み合わせが見慣れない。
「……美沙。真菜ちゃん…」
「なぁに?お姉ちゃん」
「…先、帰っててくれる?」
「お兄さんは?」
「…私と一緒にいて…欲しい」
「保健室で、私のお兄さんになにをするつもり?」
「美沙っち、違うっす。これは私の実兄っす」
「そういう意味じゃないよ。真菜」
「このまま、保健室ににーくんだけ置いていくとマジで美沙っちの義兄になる可能性があるっすよ」
「なんねーよ。アホかてめーはっ!」
モンゴリアンチョップを愚妹の脳天に見舞う。
「わかんないっすよ!卒業まであと半年に迫ったにーくんは、思い出作りとか言って学校エッチを狙うかもしんないっす。にーくんみたいのは大人になってから、学校エッチやっておけばよかったって思うタイプっすよ!」
妹が今日も安定のイカれっぷりで大変に困る。保健室の先生が席を外していて本当に良かった。
「…なおとくんの…ゲームでも保健室…」
真奈美さんも黙ってくれ。虚構と現実の俺を混同しないでくれ。俺は触手とか出さない。
「お兄さん、ちょっと来てください」
美沙ちゃんが俺の手を引いて、保健室を出ようとする。まずい傾向だ。その証拠に美沙ちゃんの爪は俺の腕に突き刺さっているし、目からハイライトも消えている。いつものキラキラ美沙ちゃんなら、二人っきりで帰るのもアリだが、このヤミヤミ美沙ちゃんだと二人っきりになりたくない。
「美沙ちゃん。ちょっと待って」
妹が美沙ちゃんの前に立ちはだかる。
「待ちません」
「待つっす!にーくんの豆腐意志だと、美沙っちと二人っきりにしたら大変な事態になるっす」
「真菜。お兄さんと、忘れたくても忘れられないような思い出作るの」
「美沙っち落ちつくっす。それは思い出というよりPTSDっす」
「お兄さんが、学校を見るだけで思い出すような思い出作るの」
「美沙っち落ちつくっす。それはフラッシュバックというものっす」
うちの妹は、なかなかに博学だ。
「……とにかく、お兄さんとお姉ちゃんはふたりっきりにはしません。保健室にベッドがあるとか、いやらしいです」
美沙ちゃんの爪がますます俺の腕に食い込む。血が出てる。保健室行かなきゃいけないと思ったが、ここが保健室だった。
「美沙っち、落ちつくっす。保健室はベッドがあってもいいところっす」
「お兄さんの持ってたゲームでは、具合悪くて保健室に行くと、たいへんなことになってました。いやらしいです。お兄さんが触手とか生やしかねません」
俺は、エロゲをたくさんやっているので、現実とゲームの区別がついているが、美沙ちゃんと真奈美さんはエロゲ経験値が足りないのか、現実とゲームを混同しがちだ。うちの妹も大丈夫だ。最近、ものすごい量の妹モノエロゲをやっているので大丈夫だ。
そこに、保健教諭のオバサンが戻ってくる。身長百五十センチくらいの丸々としたオバちゃんだ。
「あら?みんなどうしたの?」
貧血で倒れた女子生徒が一人寝ているだけだったのに、戻ってきたら四人に増えていた室内の様子に心配そうな顔をする。実際は真奈美さんを迎えに来ただけなのだが、一人だけ残してみんな帰りなさいと言われても、困るな。
「ちょっと腕に怪我をしまして…」
「姉の様子を見に来ました」
俺と美沙ちゃんが、さらりと嘘を吐く。俺の腕は、実際に怪我をしているので嘘じゃないが。
「え、えっとっすね。私はっすね!」
元気いっぱい過ぎる妹が、おろおろする。兄として、ここは助けてあげよう。
「こいつ、頭がちょっとおかしいので診てやってください」
「頭痛?」
「それっす!」
元気よく、挙手して妹が答える。仮病のひとつも出来ない妹である。
「本当に?」
「生まれてからのこと、全部覚えてて、頭が痛いっすー」
「え?本当に覚えてるの?そういえば、すごく記憶力のいい子だとは聞いているけれど…」
「覚えてるっすよ」
「じゃあ、九十九年の今日の天気はどんなだった?」
保健教諭が妹で遊び始めた。
「晴れてたっす。すごく暑い日だったっす。テレビでオレンジ色でチェック模様の服を着たお天気キャスターが三十四度を超えましたって言ってたっす。長崎で古美術商が保険金殺人と看護助手が高校生を殺して捕まってたっす。にーくんと、おじゃ魔女ド○ミ見たっす」
「え?そ、そうだったかしら?ほ、他のニュースは?」
「牧原○之が覚せい剤でつかまったニュースもやってたっす。夏の甲子園は桐生第一が優勝してたっす。筋肉むきむきのイラン人が一本いっとく?ってCMしてたっすよ」
「あー」
保健教諭が、脳の奥底から記憶を呼び覚まされた微妙な表情をする。
「そうだっけ?」
俺は、さっぱりわからない。
「私だって、分かるわけありません。九十九年って、私二歳ですよ」
「…私も三歳だし…」
美沙ちゃんも真奈美さんも正解なのか、妹がでまかせ言っているのか区別もつかない。それにしても、妹の異常な記憶能力はどうなっているんだ。二歳のころの記憶を持ってるのか?
「なぁ、もう少し答えのわかるあたりで聞いていいか?」
「いいっすよ」
「俺が小学校五年生のときってなにがあった年だった?」
「始業式の日のニュースなら、エニッ○スとスクゥ○アが一緒になったっす。テレビの左にスクゥ○アの社長が居て、右がエニッ○スだったっす。他のニュースはSARSっす。あと、さいたま市ができたっすよ。天気なら、朝から雨が降ってたっすよ。ウルトラマンはコスモスだったっす。なんでだろ~とか言う芸人がウザかったっす」
「あー」
今度は俺も、言われてみればそんな気もしてきた。
「あー」
「…あー」
美沙ちゃんと真奈美さんもあるある状態である。
俺の妹は、意外と面白い玩具だった。
真奈美さんの様子を見に来たつばめちゃんも混ざって、ひとしきり妹で遊ぶ。二〇〇一年の同時多発テロあたりは、誰でも覚えていたが同じ年のベルリンマラソンで高橋尚子が優勝だったとかは、覚えていられない。
うちの妹は、グー○ル検索みたいな生き物だったのである。
妹で遊んでいるうちに、陽が傾き、校内も静かになる。
「真奈美さん。そろそろ、大丈夫?」
「…うん」
真奈美さんがベッドから立ち上がる。四人で保健室を出る。すっかり人気のなくなった廊下とグラウンドを抜ける。夕方になると熱帯夜の気配が抜けて、どこか秋の気配を感じる。妹が先頭を歩き、美沙ちゃんが続く。制服のスカートから伸びる美沙ちゃんの綺麗な足と、うっすらと制服の背中に透ける下着のラインにどきどきしながら俺が続く。その俺の後ろを真奈美さんが、袖をつまんでついてくる。
ドラ○エみたいだ。遊び人の妹が勇者ポジションを歩いている。美沙ちゃんは意外に武闘家だろうか。すらりと均整の取れた姿は、アクロバティックなアクションも似合いそうでもある。それじゃあ、俺はなんだろう。戦士だろうか。そして、勇者は真奈美さん。
人の少なくなった駅のホームで電車を待つ。向かい側のホームのゲームの広告を見るともなく見る。<仲間と戦うRPG>の文字が躍る。
勇者まなみは、ドラ○エⅢではLv99で、ひとりでゾーマと戦っていた。
今、勇者まなみは仲間と戦っているだろうか。世間という邪悪と。
「真奈美さん」
「…ん…」
「無理しないで、ジャージでもいいんだよ」
今朝の真奈美さんに集まっていた視線を思い出して言ってみる。あの視線を浴びて、漏らさなかっただけでも十分我慢したと思う。
「……うん…でも…」
真奈美さんがつまんでいた俺の腕を握る。
「…あと、半年しかないから…」
合わせた手のひら越しに、震えを感じる。
「なおと…くんと、普通に…高校生したい…」
「うん…でも、少しずつでいいよ。まだ、半年もあるから…」
中学時代の半分を保健室登校で過ごし、高校時代も一年間を保健室で過ごした真奈美さん。
あと半年で終わってしまう。
学校に行く。
友達と学校に行く。制服を着る。授業を受ける。またあしたと別れる。明日、また同じ制服で会う。その全部が、俺にも真奈美さんにも、あと半年しか残っていない。その後は死ぬまで、学校に行くことはない。制服を着ることもない。
学校エッチをやっておけばよかったと思う男子生徒と同じように、真奈美さんは制服を着て学校に行けなかったことを悔やむのだろうか。そんな当たり前のことを欲しくて、涙を流すのだろうか。
そんなことはさせない。制服を着て、可愛い髪形をして一緒に学校に行こう。
俺は、握ってくる華奢な手を握り返す。
(つづく)
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妄想劇場73話目。いろいろあって更新遅れました。待っててくれた?そろそろ、高校時代も終わりに近づいて、ちょっとエンディングを考えています。伏線張りました。覚えておいてくれると嬉しいな。
最初から読まれる場合は、こちらから↓
(第一話) http://www.tinami.com/view/402411
メインは、創作漫画を描いています。コミティアで頒布してます。大体、毎回50ページ前後。コミティアにも遊びに来て、漫画のほうも読んでいただけると嬉しいです。(ステマ)
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