その日、いつも通りに代々木の石田千尋陰陽事務所に出勤した小島幹大を待っていたのは、千尋からの書き置きだった。
【仕事をし過ぎて疲れたので、僕は本日よりしばらく物忌みに入る。後はよろしく。石田千尋】
越前和紙の便箋に毛筆で書かれたそれを読み終えると、小島は溜め息を吐き、がっくりと肩を落とした。
「またか……全く、いつも突然なんだから」
一般的な『物忌み』は、神職者に於ける斎戒潔斎、または、占いや暦で凶の卦が出た時、これを避けるために家に籠もって謹慎することをいう。
だが、千尋の場合、それは主に『個人的な休暇』を意味していた。それも、少々たちが悪い。日にちなど関係なく、ふ、と思い立つと、秘書である小島にも何も告げることなく、一切の音信を断って、何処かへ姿をくらましてしまうのである。
(ま、二、三日もすれば、ちゃんと帰ってくるからいいんだけど……)
最初の頃は書き置きすらなかったために、大いに慌てふためき、心当たりを虱潰しに探し回ったものだが、今ではすっかり慣れた。
それでも、やはり行き先くらいは告げていって欲しいものだ、とは思うが。
「ええと、今日の石田さんの予定はどうだったかな」
例の書き置きを折り畳んでジャケットの内ポケットにしまうと、小島はリモワのアタッシュケースから電子手帳を取り出して開き、今日のスケジュールを確認した。さる企業からオフィスの移転に関連する風水鑑定の依頼が入っていたが、急を要するものではなかったらしく、電話で訪問日時の変更を願い出ると、あっさり通った。
その後、事務所に届いていた大量のメールや郵便物の確認をして、必要なものには返信を出す作業に取り掛かった。それを終えると、事務所内の本格的な掃除など、いつもは出来ない細々とした雑事を片付けていったが、それも昼過ぎには全て終わってしまった。
「何処かでお昼を食べてから帰ろうかな」
場所柄、安くて美味しいランチを提供してくれる飲食店の存在には事欠かない。久しぶりに、駅を挟んで反対側にあるオーガニックカフェに行ってみようか……などと思案しながら、小島は事務所を出た。
真昼の街を、小島は代々木の駅に向かってぶらぶらと歩いていった。
天気が良いせいで、歩くのは苦にならない。ちょっとした散歩気分である。
「ベーグルサンドのセットか、日替わりパスタランチか……どっちにしようかなぁ」
ナーオゥ。
不意に、背後から嗄れた鳴き声が聞こえた。振り返ると、植え込みの陰に金色の目をした黒猫が座っていて、小島を凝視めていた。
「何だ、お前」
小島は足を止めてしゃがみ込み、その猫に話し掛けた。
猫は好きだ。独り暮らしをしている阿佐ヶ谷のマンションでも、ヤンという名の雌猫を飼っているほどである。
手を差し伸べると、黒猫はゴロゴロと喉を鳴らしながら、小さな頭を小島の掌に擦りつけてきた。首輪は付いていないが、その人なつっこさから、野良ではなく何処かの飼い猫かも知れない、と思われた。
「ご主人様はどうした?」
ナーオゥ。
小島の問い掛けに応えるかのように、再び嗄れ声を上げて、黒猫はトコトコと歩き出した。少し離れた所まで行くと、彼のほうを振り返り、みたび鳴き声を上げる。
「ん? ついて来い、って言ってるのか?」
ナーオゥ、ナーオゥ。
そうだ、と言わんばかりのその様子に、小島は苦笑しつつも、その後を追って歩き出した。
黒猫は大通りを逸れて、ビルとビルの間の狭い路地に入っていく。角を曲がるたびに立ち止まっては振り返り、小島が自分の後をついてきているかどうかを確認しては、また歩き出す、その繰り返しだった。
そうして、三十分は歩いただろうか。
(――おかしいぞ)
その頃には、さすがに気づいていた。
事務所から代々木の駅までは、どのルートを通ってゆっくり歩いても十分と掛からないはずだが、一向に着く気配がないのだ。
そして、その道中に、こんなふうに曲がりくねった迷路のような路地は存在しない、ということにも。
「……僕を何処につれて行く気なんだよ、お前」
小島が足を止めると、猫も立ち止まった。長い尻尾をゆらゆらと揺らめかせながら、口を開く。
だが、そこから発せられたのは、猫の鳴き声ではなかった。
「気づくのが遅いぜ、秘書さんよ」
それは低く掠れた人間の――男の声だった。その声には、聞き覚えがあった。
「やれやれ……あの男の秘書だというから、もうちょっと切れるのかと思っていたが、買い被り過ぎだったかな。こうもあっさりと引っかかってくれるとはな……」
後ろ脚だけで立ち上がった猫の身体が、ぐぐっ、と伸びて、小島と変わらないくらいの大きさになった。その頭が中央からばっくりと裂け、そこから人間の顔が覗いている。頬の痩けた、青白い顔――まるで死人のようにも見えたが、鮫のようなその瞳だけが、異様な輝きを放っていた。
「筧ッ……!」
筧征士郎。呪禁師である。これまでに幾度となく邪な企てを以て、彼らの前に立ちはだかってきた男だ。だが、それらはいずれも千尋によって未然に防がれている。
千尋と筧の間には、何やら浅からぬ因縁があるようだが、千尋の秘書となって二年余りと未だ日の浅い小島は、詳しくは知らない。大抵のことは聞けば快く答えてくれる千尋だが、筧について尋ねると、途端に機嫌が悪くなり、口を噤んでしまうせいだ。
よほど言いたくないのだろう、と察して、小島のほうも、最近は出来る限りその名を口にしないよう努めていた。
「ほう? 貴様、俺の名前を知ってるのか。そいつは光栄だな」
筧は片眉を僅かに吊り上げ、口許に酷薄な笑みを浮かべて小島を見た。嫌な笑みだった。
「俺も貴様の名を知っているぞ、見鬼の小島幹大」
己の秘密を言い当てられて、小島の表情が固まる。
見鬼――『鬼を見る』というその字面の通り、彼にはこの世のものならぬ存在を見る力があった。
だが、それは小島にとってはただ煩わしいだけで、無用の長物以外の何ものでもなかった。その力のせいで、彼は多くのものを失う羽目になったのだから。
「……僕に何の用だ」
腰を低く落として、全身に気を漲らせながら、小島は筧に相対した。陰陽の術やら呪の類いは使えないが、彼には合気道とボクシングの心得がある。最低でも、己の身を守ることくらいは出来る。
「そう噛みつくなよ……ちょっと話がしたかったのさ」
ずるっ、と音を立てて、猫の肉体が崩れるように剥がれ落ち、黒い衣服に包まれた長身の痩躯が現れた。
「お前なんかと話すことはないね」
油断なく構えたまま、小島は尖った声で吐き捨てた。
この男は、千尋の仇敵だ。それは即ち、己の敵でもある。
小山梓、川久保紗英、和田俊介……この男のために、幾人もの人間が苦しめられた。中には命を奪われたものもいる。それを思えば、口を利くこと自体が忌々しかった。
「こいつはまた、えらく嫌われたもんだな」
筧は軽く肩を竦めると、泥が煮えるような笑い声を立てながら、小島に向かって右手を差し出した。
「俺と来ないか、小島幹大。俺は貴様の力が欲しい」
思いがけないその言葉に、小島は一瞬、言葉を失う。
呆然と立ち尽くす彼に向かって、筧は手を差し伸べたまま一歩、前に踏み出した。
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『東京百鬼』幹⇒千前提の筧幹です。『黒いルーレット』と『白い闇』の間の話になります。本編のエロはあるような、ないような…そんなカンジです。