前編のあらすじ
手違いによって『忘却草』という植物を食べてしまった華琳は、5歳以降の記憶を失い、幼児退行を起こしてしまう。
その上、子供化した華琳から『パパ』と認識された北郷一刀は、桂花たちが解毒剤を探し当てるまでの間、華琳の父親・曹嵩として子供華琳の面倒を見ることに。
「あー、遊んだ遊んだ……」
俺は力尽きて中庭の芝生の上に倒れこんだ。
かれこれ1,2時間ほど華琳と一緒に遊んだが、子供化した華琳はまさしく本物の子供のように遊びに貪欲で疲れ知らず、飛んだり跳ねたりするのに付いていくだけでやっとだ。
「昭和記念公園でダウンしている お父さんの気持ちがわかった…」
と言う俺、北郷一刀、浅草生まれヒップホップ育ち。
「ねぇー、パパー、もう あそぶの おわりー?」
仰向けになった俺の上に、華琳がどーんと乗っかてくる。
「ごほうッ?」
腹部にボールをぶつけられるボクシングの練習みたいなことになる俺。子供華琳はちょうど俺の腹筋の上に跨るように乗っている。が、この華琳は脳ミソは子供でも体はしっかり元のままなのだ。
しかるに、形のよくてキュッと引き締まったお尻や、股間の感触が、グイグイ俺の腹に伝わってくるわけで……。
「……………」
「北郷」
秋蘭の冷たい声に、俺の夢が壊れる。
「何も考えてないよッ!」
「うむ、そうあってくれよ、父は娘に変な気などおこさぬものだ」
「パパー、へんなき ってなにー?」
「あはははははははははは!」
俺は笑って誤魔化した。俺の父親レベルは「赤ちゃんは 何処から来るの?」系の質問に答えられるほど高くない。
「やれやれ、では私は、一時失礼させてもらおうか」
「あれ、秋蘭どこに行くんだ?」
立ち上がる秋蘭に尋ねる。
「日が高くなってきたからな、そろそろ昼食の時刻だろう」
「なにっ、秋蘭が作るのかッ?」
俺と同じようにグロッキーとなっていた春蘭が起き上がる。
「うむ、私も少し昔を思い出してしまったからな。小籠包でも作ろうかと思う」
「おお!秋蘭の小籠包は華琳さまのお母上直伝のシロモノなのだ!楽しみだなあ、ヨダレが出そうだ!」
と春蘭が浮かれきっていると。
「……しゅーらんちゃん、ママのしょーろんぽう つくれるの?」
華琳がポツリと言った。
「ん?」
その声音の変化に、俺は気付く。
「ええ華琳さま、お母上の味にどこまで迫れるかわかりませんが、楽しみにお待ちください」
華琳は訝しげな顔で秋蘭を見上げる。
そうか、今の華琳にとっては、春蘭も秋蘭も、いまだ5歳の友だちのままなんだ。5歳の子供が母親の料理を会得していることは、なるほど確かに怪しむべきことだろう。
「かりんも おりょーりする!」
「えっ?」
「なっ?」
華琳の突然の宣言に、俺も秋蘭も目を丸くした。
「し、しかし華琳さま、料理は火や刃物を使うので とても危のうございます。お父上と一緒に よい子で待っていてはいただけませんか?」
「やだやだ!かりんも おりょーりする!しゅーらんちゃんと いっしょに おりょーりするの!」
子供華琳としては、子分(?)の秋蘭にできることが自分にできないのが腹立たしいのだろうか。自分だってやれば できるのよ!というところを見せたくてたまらない御様子。
「俺が一緒に行って見ておこうか?」
「…いいや、北郷も疲れたろうから そこで休んでいてくれ、昼食は私と華琳さまで一緒に作るとしよう」
そう言って、秋蘭は華琳と手をつないで厨房の方へ去っていった。
まあ、華琳の元来のスペックを考えれば5歳児化していても心配はいらないだろう。……少なくとも関羽よりは。そういう報告を間諜からもらった。
いずれ出来上がってくる美味しい小籠包を待つとしよう、と俺は再び芝生に寝転ぶ。すると春蘭と目があった。
「…………」
「…………」
そういや今 春蘭と二人きりだ。春蘭は言った。
「……なあ北郷、この竹鞭で私のお尻を叩いてみてくれ」
「イヤだ!何新たな可能性を切り拓いてるんだ お前!そして俺を引き込むな!ヘンタイに堕ちるなら お前一人で堕ちろ!」
「いいから!一回でいいから叩いてみろといってるんだ!叩かないなら私がお前を叩ッ斬るぞ!」
と剣を抜きそうになるので俺はしぶしぶ竹鞭を受け取る。…そしてピシッ。
「ひうっ!」
ピシッ、ピシッ、…叩きやすい尻だな。いやいや、ヤヴェヤヴェ、俺までハマるところだ。
「…ハァ、ハァ」
「……満足したか?」
「やっぱり華琳さまに叩かれるのと少し違う」
「その違いを明確にしようとするなよ?追求するなよ?わかったな?な!?」
その後 春蘭はブツブツ言いながら何処かへ行ってしまった。彼女の人生に幸が多くありますように。
とか言ってたら、中庭にはついに俺ひとりになってしまった。
「中庭には二羽ワニにニワトリにハニワがいる……」
わけのわからない早口言葉を呟きつつ寝転ぶ。
ついさっきまで華琳と遊んだ喧騒がこだましていたと思うと、今の中庭の静寂は、鼓膜が痛いほどだった。
「しかし元気だなぁ子供華琳は、華琳の子供時代があんなお転婆っ子だったとは……」
だが言われてみれば妙に納得もできる。
子供の頃から ああも活発で、色んなことを行動に移してきたからこそ、大人になった今でも才気活発に様々な出来事に挑戦し、世の中を動かすだけのエネルギーを小さな体から生み出すことができるのだ。
幼い頃から達観していて、色んなことに見切りをつけられるような子供では、ああもエネルギッシュな大人にはなれないだろう。
「それも、親父さんのおかげなのかな……?」
華琳の父・曹嵩さんは、幼い華琳が どんなイタズラをしても叱ることなく逆に褒めちぎったという。
だからこそ幼い華琳は それを喜び、さらなるイタズラに精を注いだ。
『褒めて伸ばす』と言うのは簡単だが、曹嵩さんは一体どこまで華琳の将来を予想して、そういう育児方針をとっていたのか。華琳が、それこそ中原を統べる奸雄となることを見抜いていたのか、それとも ただの猫っ可愛がりだったのか。
俺の知る歴史によれば、史実の曹嵩は天下が乱れるギリギリ前の治世に、順当に官位を務めていっただけの平凡な男だったはず。
奸雄・覇王と称される息子・曹操とは比べ物にならないほどの、人が良いだけが取り得の普通の男。だが、そんな凡人の父親がいたからこそ曹操は、覇王として中華に大きく羽ばたくことができたのではないか。
例を日本史に求めてみれば、
信玄、信長、正宗。
これらの武将は、皆、父親か母親から不遇な扱いを受けている。そういう人たちは、後に智将と讃えられつつも、その言動に なんらかの屈託がある。
それに対し、史伝の中の曹操に そういった屈託が欠落しているのは、1800年に及ぶ時の経過の磨耗なのか、それとも彼を育てた者の影響によるのか。
信玄や信長の父親たちは、父であると同時に一国の主としての責任を息子に向けざるをえなかった。
だが少なくとも漢朝の官吏に過ぎなかった曹嵩は、そういう責任とは無縁のところで曹操を育てることができたわけで。
「覇王を育成するってのも難しいもんだなあ……」
俺は空を眺めつつ一人ごちた。
無論、史伝の中の曹操と 俺の知る華琳は別人と言ってしまった方がいい。
だがそれでも、あの華琳に宿る わがままで、自信たっぷりで、キラキラ輝いている才気は、史伝の曹操と同じところから湧き出しているに違いないと思うのだ。
あの輝かしさは、信虎(信玄の父)のように息子の資質を恐れたり、保春院(正宗の母)のように息子の障害を厭う気持ちの下からは決して生まれることはない。
もちろん信玄や正宗には、それらの不遇を乗り越えることで身に着けた 燻し銀の光彩があり、それが歴史上の人物としての彼らの魅力になっている。
だが、曹操の魅力の質は、それらとも異なる。
その魅力の大元となったのは、やっぱり彼の人生の、一番最初にいた人となるのか。
「……む、なんだ、変なこと考えてるな、俺」
その辺の学生にしてはヤケに大仰なことを。何かが俺の口を借りて語り放題 語りたがっているのか?
俺がなんだか妙な気分に陥った時、そんな俺の物思いを中断させるものが中庭に乱入した。
「こぉーんーなぁーとぉーこぉーろぉーにゃーーーーーーーー…ッ」
「いたのぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!」
うわっ、なんだなんだッ?
いきなりの大声に俺が慌てて身を起こすと、そこには喧し姦し二人組・真桜と沙和の姿があった。
警備隊で俺の下についている、頼もしき仲間たちだ。
「それがどうして こんなところにッ?」
「どうして?そら こっちのセリフやわ隊長、このクソ忙しい時に、仕事サボって何してんねん!」
「隊長ぉー、こんなところで昼寝なんてズルイのー!沙和たち午前中とってもとっても大変だったのー!」
あ、そうか!
華琳が大変な状態になったのは突発的なこと、それがなければ俺は、いつもどおり警備隊の仕事に就いていたはずだ。
ってことは俺つまり……。
「非の打ちどころのないサボりやな、隊長」
「隊長 見損なったのー、仕事を無断で休むのは沙和と真桜ちゃんだけで充分なのー!」
んなわけないだろうって……、この件、桂花も春蘭もまったく何も手回ししていなかったのか!
じゃあ俺 完璧に ただのサボりになってるじゃん!
「つーわけや、まあ問い詰めるんは後に回すとして…、今はとにかく隊舎に帰ってきてもらおか?人手が足りんと皆ピーピー言っとんねん」
「ちょっと待った、実は俺には大事な用があってだな」
「用てなんや?下手な言い訳しても騙されへんでウチら」
うっ、と俺は口ごもった。
本来であれば今朝から起きている華琳の異常を話して真桜たちに わかってもらうのが最善なのだろうが、今の華琳の状態は第一級の国家機密だ。
華琳が子供化して使い物にならないとわかれば、他国が勇んで攻めてくるのは わかりきっているから。
そういうことを桂花あたりからも よっく言い含められていた俺は、喉まで出掛かった言葉を飲み込み……。
「…なんや、やっぱり言い訳やったんか?まぁこんなところで昼寝しとるくらいやから、なんか用があった、いうわけでもないやろうしな」
「隊長ー、早く行くのー、凪ちゃんだって もうカンカンなんだよー」
そうして、抗弁の自由すら許されずズルズル真桜たちに引きずられて行く俺。
厨房では今まさに子供華琳が秋蘭と昼ゴハン作りにいそしんでいるところだろうが、その彼女らに今の俺の窮状を伝えるすべは見当たらなかった。
(スマン、秋蘭、ついでに春蘭、後は任せた………)
こうして俺はドナドナの子牛のように引かれて行くのだった。
――――そこからの俺の身に降りかかる出来事を箇条的に書き連ねていくと………。
事実、その日の警備隊はハンパない忙しさだった。
なんでか知らんが たまにそういう日がある。小さな事件が偶発的にいくつも重なり、しかもそんな日に限って積んでた書類の提出期限が迫り、後回しにすることもできずに処理するしかない。真桜・沙和たちが殺気立つのもわかるというものだ。
一人前線を支えていた凪にまで無言で睨まれ、俺は粛々と仕事に就くしかなかった。
書類を処理し、逮捕された泥棒を送検し、酔っ払いを説教し、迷子をなだめ、目の回るような忙しさを三人娘たちと耐え忍んで1,2時間経った頃であろうか。
隊舎に春蘭が現れた。
「北郷ォォォーーーーーーーッ!!!こんなところにいたのかァァァーーーーーーーーーーッッ!」
登場時の春蘭の血相変えっぷりは、忙しさに翻弄される凪や真桜の比ではなかった。
「貴様らが北郷を連れ出したのか、許せん!天覇封神斬ーーーーッ!!」
大剣をメチャクチャに振り回す春蘭に三人娘のいずれも歯向かえず、俺は春蘭によって奪還される。
「おお、おい春蘭、ちょっと乱暴すぎやしないか……ッ?」
「うるさいっ、貴様がいなくなったせいで、華琳さまが、華琳さまがな………ッ!」
「華琳がッ…?」
俺の心がざわめいた。
………俺が春蘭に抱えられたまま中庭まで戻ると、雰囲気が違っているのが明らかに感じ取れた。
午前中の、俺たちが華琳とともに遊んだ賑わいはなく、凍てつくような静けさが庭に張り詰めている。
その中に一種だけ混じる音があった。
遠くから聞こえてくる、人の声。空気に削られながら、かすかに俺の元まで届く声。
それは泣き声だった。
「………ッ!」
春蘭に促されるより早く俺は駆け出した。かすかに聞こえる その声を目指して、全力で駆ける。
そして辿り着いた先には、華琳と秋蘭がいた。
声の大元は、やっぱり華琳だった。
「うぁーーーん、うぁーーーん!パパぁ、パパどこぉーッ!」
「華琳さま、華琳さま落ち着いてください、お父上は、もうすぐ姉者が連れてきますので……!」
「やだぁ、かりんもパパさがすぅーッ!パパ、パパーッ!」
あの華琳が、子供化したとはいえ あの沈着冷静で、感情に支配されることを何より唾棄する華琳が、こぼれる涙を押さえようともせずワンワン泣いていた。
オロオロとなだめる秋蘭の手を振り払い、頭を振って涙を散らす。間断ない泣き声は自身の喉を潰さんばかりだ。
足元には、手を滑らせてしまったのだろう、きっと俺と一緒に食べるために、一生懸命作った小籠包がひっくり返って芝生に散らばっている。
その光景を見て たまらなくなった俺は、考えるより先に華琳へ向かって駆け出した。
「華琳ッ!」
「ああっ、パパ、パパぁッ!」
俺に気付いた華琳は、秋蘭の手を振り解いて俺へ向かって走る、跳躍して飛び込んでくる、俺はその胸で華琳を受け止めた。
「パパ!パパのバカ!どこにいってたのパパ、うわぁあん!」
「ゴメンな、華琳、もうパパは何処にも行かないから……!」
「うわぁぁん!うわぁぁん!」
俺の腕の中でも華琳は相変わらず泣きじゃくるばかりだ。華琳が体力の続くばかり泣き続け、最後には疲れて眠ってしまうまで、俺はずっと華琳を離さずにいた、離したくなかった。
「……そうか、警備隊に取られていたのか」
しばらくあと、泣き疲れて、俺の膝で猫のように眠ってしまった華琳を囲んで、俺と秋蘭、春蘭は互いの事情を報告しあう。
「アイツらのことは勘弁してやってくれないか?事情は知らなかったわけだし、悪気もなかったし………」
「フン…!」
春蘭は拗ねたようにソッポを向いた。やりすぎた自覚はあるのだと思う、芝生の上に体育座りで小さく体をまとめていた。
「スゴイ剣幕だったからなあ春蘭、凪たち、ホントに春蘭に切り捨てられると思ったんじゃないか?」
「だって、仕方なかろう、私だって動転していたのだ。……あの時のことを思い出して」
その言葉に双子の妹も反応する。
「…姉者もか、実は私もだ。あの時のことを今と重ねると、華琳さまがどうにかなってしまいそうで気が気ではなかった」
「……あの時、って?」
「曹嵩さまがお亡くなりになった時だ」
俺の問いに、姉妹二人は口を揃えて答えた。
曹嵩の死、父の死。
それは俺の胸を凍りつかせたが、幸い表情までは乱れなかった。この答えを、なんとなく予想していたから。
「曹嵩さまが亡くなられたのは、ちょうど華琳さまが済南の相に任命されたばかりの頃だ、荒廃し始めた洛陽を避けて、徐州の東部へ隠棲しようと向かわれた途中に山賊にあい、命を奪われた」
秋蘭は、自分の骨をヤスリで削るような声で言う。
「私たちにとっても、華琳さまにとっても、あまりに突然の死だった。我々が駆けつけたときは、既に洛陽で弔いが営まれていた。華琳さまは喪主として気丈に振舞われていたよ。…………だがな」
哀しくないわけがないのだ。
曹嵩さんが華琳をどれほど愛していたのか、華琳が曹嵩さんをどれほど愛していたのか、何も知らない俺でも、今日一日の出来事でよくわかった。
「その頃の華琳さまは既に曹嵩さまの庇護を離れ、今のような沈着冷静な華琳さまだった。だから哀しみを決して外に出されようとはしなかったよ」
しかし、と秋蘭は唇を噛んだ。
「今日改めて思ったよ、華琳さまはもっと感情を露わにされても よかったのだ。今日のように沢山泣き喚いて、曹嵩さまを失った哀しみを吐き出してしまっても よかったんだ」
父に愛されることで、屈託なく育つことを許された華琳。しかし彼女は、その父親と死に別れることで、耐えることを覚えてしまったのか。
「私は……ッ、自分が不甲斐なかった!」
春蘭が吠える。
「もし曹嵩さまが殺された時、私に今ほどの力があれば!曹嵩さまの命を奪った山賊どもを草の根分けても探し出し、一人残らず皆殺しにしてやったものを!」
そう思うのが人の常というものだろう。華琳だって きっとそう思っていたに違いない。
――この世界で起こる事件の多くがそうであるように、曹嵩の死も、俺の歴史にある それとは幾分時期がずれる。
史実の中で曹嵩が頓死するのは、息子である曹操が兗州の牧に着き、乱世の群雄として大きく力を伸ばした時期のことだ。
春蘭は、「あの時 力があれば」と言った。
史実の曹操には まさにその時 力があった。
だからこそ曹操は、父殺しの犯人と目される陶謙を攻め、その支配下にある徐州の民に大虐殺を行った。その激しさは、詰み上がった死体で川が塞き止められるほどだったという。
いかに父親のためだといっても、そんなことをする華琳を俺は見たくなかった。
「曹嵩さんを殺した山賊たちは……?」
「わからん、山中を散り散りに逃げ、捕まえることができなかったという」
首を振る秋蘭に、俺はホッと胸を撫で下ろすべきなのか、どうか。
俺が寡聞であることを前提として、史実の曹操が殺戮を目的とした殺戮を行ったのは、この父親の復讐以外にない。
それは曹操の、深く激しすぎる父への孝心の表れか。
そして、同じ曹操の名をもつ少女の頭を、俺は優しく撫でた。
「むにゅぅ……、パパぁ……」
「華琳さま、夢でも曹嵩さまと遊んでいらっしゃるようだ」
秋蘭はなごやかに笑った。その微笑みが俺や春蘭にも伝染する。
俺は今日、この華琳と出会えてよかった。華琳の奥底にある彼女の一面に、こうして触れることができたから。
なーんーてー…………。
「馴れ馴れしくしてるんじゃないわよ!この幼女被虐性愛好者ーーーーーーッ!」
「ぐおほッ?」
予告無しに やってきた飛び蹴りが、俺の後頭部にクリーンヒット。危うく吹き飛ばされそうになったところ、膝の上で寝ている華琳のために何とか踏みとどまる。
「ハァ、ハァ……」
息を切らして登場したのは、ボクらの彧サマこと桂花だった。勢いよく放ったドロップキックに、ズレかけたネコミミフードを素早く直す。
「急いで戻って正解だったわ。心の幼い華琳さまに如何わしいマネをしようとしてたわね性犯罪者。華琳さまの心が純白になったのを付け込んで、自分色に染め上げようという姑息な企みをしていたんでしょう!」
「桂花…!戻ったのか、では華琳さまへの薬は……」
それよりも俺の後頭部を心配して欲しいです、秋蘭さん。
「ふん!私を誰だと思ってるの、猪突猛進 暴れるだけの春蘭と違って、私はちゃんと自分の仕事をする女よ!」
「なんだと貴様ァ!」
「ごらんなさい!これが、鮨魚(けいぎょ)の肉を主原料に、様々な漢方を合わせて華佗に調合させた華琳さま専用特効薬よ!」
バババーン!
と桂花の手に握られるのは、一包みの薬包紙。
「へぇ、ということは ちゃんと狩れたのか、その鮨魚っていう魚?」
「ええ、兄様スゴイんですよ!桂花さまってば怪魚を相手に、こう頭巾から秘密兵器を取り出して……!」
「こらーッ、流琉!それはナイショだって言ったでしょう!」
いつの間にか流琉と季衣も戻ってきていた。
「兄ちゃん兄ちゃん!桂花さまってスゴイんだよ!『(声真似中)……よく見ておけ、そんで誰にも言うんじゃねえぞ。――――ばんかッ…!』」
「だーかーらーッ季衣も!ナイショだって言ってるでしょうがーーーッ!」
いったい桂花はどうやって怪魚をしとめたんだろう?
「ともかく、それを飲ませれば華琳さまは元に戻られるんだなッ。……北郷!」
「お、おう!」
俺は自分の膝の上の華琳を揺すり起こした。
「…華琳、…華琳、起きろ」
「むにゃ…、うにゅ…」
華琳は寝ぼけ眼をこすって頭を上げる。
「華琳さま!お目覚めのところスイマセン。この薬をお飲みください!」
「おくすり…?」
子供華琳は、起きてくるなり差し出された薬包紙を見下ろした。
いくら5歳相当の彼女といえど、それが何かは言わずとも理解が及ぶだろう。薬包紙に包まれるものは粉薬しかない、これで中身が ねるねるねるねの粉末だったら訴訟ものだ。
「………………」
華琳 沈黙。ちっ、ちっ、ちっ、ぽーん。
「やだ、のまない(ぷいっ)」
「ええええぇぇぇぇーーーーーーーーーーーーーーーッッ」
桂花、徒労。
恐らく華琳の頭の中では、お薬→苦い、という連想がカチッとはまったに違いない。幼児化しながらも回転の速い脳ミソである。
「華琳さまぁ、そんなこと言わずに飲んでください!でないと本当の、高貴で麗しいアナタ様が戻ってこないんですーッ!」
「パパぁ、このずきん おねえちゃん わるものだよね?いうこと きいちゃダメだよ?」
「ががーん!」
あまりに報われない桂花。
しかし、桂花を悪者呼ばわりしてまで苦いお薬を飲みたくないか、ウム、ホントに子供みたいだぞ、華琳。
「北郷!感心している場合ではないぞ!この薬を飲まなければ、華琳さまは いつまでも子供のままだ!」
「うむ、私からも頼む!北郷、華琳さまを説得してくれ!」
そうだな、俺だって華琳をこのままにしておいていい などとは決して思っていない。俺は意を決し、華琳へ説得を試みる。
「なあ華琳、このお薬飲んでくれないか?」
「のまないー、かりん びょうきじゃないもーん」
うっ、正論だ。華琳は子供化していることを除けば健康そのものなわけで、
「そう言わずに……、な、この薬は苦くないから………」
「なんで そんなこと わかるのー?ずきんの おねえちゃん いってたじゃない、かりんせんようの おくすりだって。てゆーことは かりんいがい だれも のまない おくすりなんでしょー、のんでもないのに なんで にがくないってわかるの?」
コイツやっぱ華琳だ!なんて文言のペラペラ出てくる口だ!そうまでして苦い薬を飲みたくないか!
「……あー、じゃあこうしよう、華琳が頑張ってお薬を飲んだら、お父さんが頑張った ご褒美を上げるぞ!」
「ほんと?ほんと!?」
案の定、華琳の目の色が変わった。
「じゃあじゃあ、きょうはパパの おふとんで いっしょに ねてもいいッ?」
「えっ?」
その要求は予想してなかった、一緒に寝るの?同じベッドで?つまり同衾か?
華琳と一緒に朝まで同衾、それを聞いて春蘭、秋蘭、桂花、季衣、流琉の冷たい視線が集中砲火。
「……………………………………………………………」
永遠に等しい長い沈思。
「…………いいよ」
「わーい!わーい!じゃあ のむーーーーーーーーッ!」
現金な子供華琳はその場で ぴょんこぴょんこ飛び跳ねた。
「北郷ぉーーーーーーッ!」
「変態ぃーーーーーーッ!」
これを受けて春蘭と桂花が当然のように俺に詰め寄る。
「貴様、ことに乗じて よくも そんなことを!華琳さまと一緒に寝るだと?そんな恐れ多いことが許されるかーーーッ!」
「そうよ!こんな精液臭い男と一晩中添い寝されたら それだけで妊娠しちゃうじゃないの!許さない、許さないわ!もし本当にそうすれば、アンタを殺して私が代わってやるから!」
「落ち着け、落ち着けよ二人とも……」
俺は自身の生命の危機ともあって必死にこの華琳命バカどもを なだめる。
「よく考えてみろよ、約束っつったって、これは子供華琳との約束だぞ。それで薬を飲めば華琳は 元の華琳に戻る、そうなればどうなる?」
「あ」
「そうか、あの異常な状態の華琳さまならともかく、正気を取り戻された華琳さまなら、臭いアンタと一緒に寝たいなんて思わないわよね」
そういうことだ。
そして、当の華琳は、意を決して薬の服用に挑戦していた。
「華琳さま、お水を先に飲んだ方が、きっと苦くありませんよ」
「う、うん……」
秋蘭から手渡された水を片手に、開いた薬包紙とにらめっこ。
「……………」
仇敵と睨みあうかのように眉間に皺を寄せ………、
「おお!行った!」
粉薬を一気に流し込む、そして性急な動作で水を含むと、一気に飲み込んだ。
惚れ惚れするような早業だ。
「華琳!」「華琳さまッ!」「華琳さま…ッ」「華琳さまぁッ!」「華琳さまー!」「華琳さま~!」
駆け寄る俺と春蘭と秋蘭と桂花と季衣と流琉。
その多くの人間が見守る中で、華琳にゆっくりとではあるが、たしかな変化が表れた。
その純朴だった瞳に、知性の光が宿りだしたのである。
「やった!」
俺は思わず叫んだ。
華琳はいまだ動きを忘れていた。失っていた記憶の前後を調整中なのか。やがて彼女の記憶のつじつまがあってくるごとに、華琳から「あっ、あっ…」と声がこぼれだした。
そして彼女の顎先から額へ、下から上へと、真っ赤な色が 古き良き水銀温度計のように上昇し。ついには華琳の顔全体が赤面する。
「……どうした華琳?」
「あああああぁぁぁ~~~~ッッ!」
「げふえッ!」
一気呵成、華琳のハイキックが俺の延髄を強打した。
避ける暇もなく大地に崩れ落ちる俺。いったい何なんだ。
「桂花!桂花!」
「華琳さま!元に戻られたんですね!」
「桂花!今すぐ忘却草を一刀に飲ませなさい!そして今日一日の記憶を一刀から消し去るのよ!」
「さすが華琳さま、ご自身を窮地に追いやった薬草を すぐさま有効利用するなんて、さすがは覇王の才覚ですぅ!」
「やったやったー!華琳さまが元に戻ったー!」
「うむ、華琳さまは やはりこうでなければな」
「これで一安心ですぅ、…私、一時はどうなることかと……」
「華琳さまは不死身だ!この程度でどうにかなるものかッ!ふはははははは!」
「うるさいッ!アナタたちも今日のことは一切忘れるのよ!いい、もし他言なんかしたらアナタたちにも忘却草を食べさせて すべての記憶を消し去ってもらいますからね!」
俺は、記憶もろとも命が消え去ってしまいそうなんですが。
そんな薄れ行く俺の意識の中で、春蘭たちの歓喜と、華琳の絶叫がこだましていった。
――――こうして、
魏の中枢を騒がせた華琳幼児退行事件は内々のうちに幕を閉じた。
こうむった被害といえば、華琳がプライドに傷を負ったこと、俺が延髄に傷を負ったこと、春蘭がお尻を叩かれる趣味に目覚めたことなど、微々たるものだ。
日々が激震する戦国乱世の中で、こういった小さな事件は すぐに忘れ去られることだろう、あの可愛かった子供華琳の思い出とともに。
「………父上はね、言ってみれば なんてことのない小人物だったわ」
正気を取り戻した華琳が、窓の外の月を眺めて言う。
「父上?パパじゃなくて?」
「うるさいッ!黙って聞きなさい!」
俺が からかうと、華琳が顔を真っ赤にして怒鳴る。
「…ったく、だからね父上は、飛び抜けた武威もなければ煌く智謀もない、ただ人当たりのよさで世を遊泳するだけの凡俗の人だったの」
今の華琳が曹嵩さんを語っている。無邪気な子供ではない、百戦を潜り抜けた覇王に近づきつつある華琳が、自身の父親を。
「父上は、私のすることを何でも褒めてくれたけど、理解できたわけじゃなかった。私は年を重ねるごとに多くのことを学び、自分の考えを培っていった。そして十歳のころには、私の考えは、父上の考えを越えていた。だからそれより先は、父上と話していてよく思ったもの、……なんでこの人は、こんな簡単なことがわからないんだろう、って」
実に華琳らしい、厳しい物言いだった。
だが華琳は、その後にすぐ「でもね」と付け加える。
「それでも父上は、私の言うことを何でも認めてくれた。理解できないなら できないなりに、私の考えを、私の心を、見える場所だけ拾い上げては愛でてくれた。私も実はそれが嬉しくて、父上と語り明かす日が楽しみで堪らなかったわ。幼い日、イタズラで あの人を困らせていた時と同じように」
「曹嵩さんはきっと、華琳のイタズラで困ってなんか……」
俺は言おうとして、口を噤んだ。そんなことをわざわざ口に出すのは、曹嵩さんに失礼な気がした。
「孔子は言ったわ、我 十五にして学を志す、ならば、私が学を志すまでに、私の人生でしたことは全部………」
…………………。
「あの人に、褒めてもらうためにしたことだったのよ」
俺は息を呑んで 華琳を見詰めるだけだった。
華琳が子供の頃にしたこと全部、父親に褒めてもらいたくてしたことだったと言う。その言葉が、華琳の幼年時代の幸福のすべてを表してるように見えた。
「そして ある時、突然 父上は逝ってしまわれた。私は、私を包んでくれる両腕から離れ、この身一つで天下を歩き出して初めて、自分の考えが この世界から大きく逸脱していることを知ったわ」
「それまでは、曹嵩さんに守られて知らなくてもよかったことだな……」
「そうね、でももっとハッキリ言えば こうなるわ。この曹孟徳の考えは、世の思潮の遥か先を行っていた、とね」
華琳らしい。
「凡俗の世は、進みすぎた考えを理解できず、異端とするものよ。世は、私の考えを父上のように素直に認めようとはしなかった、私を異端にしようとした。…だから決意したの、世が、私の考えを父上のように認めてくれないのならば、力ずくで認めさせようってね」
「………それが、華琳が天下を取ろうとした第一歩?」
「そうかもね、父上が亡くなって、私を認めてくれる人が この世からいなくなった。ならば天下に認めさせるしかないじゃない、私を」
「俺は、華琳のことを認めてるぜ」
「ありがとう、でもね、あの頃 父上は私の世界のすべてだった。あの時と同じ気持ちを味わうためには、天下のすべてに私を認めさせるしかないの」
それを聞いて、俺は「敵わないなあ」と観念した。華琳にとって、曹嵩さんは この世界すべてと同意なんだ。俺なんかが何年シャカリキになっても追いつけない。
そんな俺の表情を見て、華琳はフゥと溜息をついた。
「今夜は喋りすぎたわ、あの月の光が、どうも私を饒舌にさせるみたい」
「今日は もうお開きにする?」
「そうね、今日遊び呆けてしまった分、明日の政務が山積してしまったし、早目に寝て激務に備えるとしましょう。一刀、アナタも明日は早起きして、凪たちに埋め合わせをしてやるのよ」
「了解、それじゃ おやすみ、華琳」
「ええ、おやすみなさい、一刀」
そして俺は明かりを消した。
もぞもぞと、ベッドの中に入ってくる何か。
「…………あの、華琳さん?」
「なによ?」
「なんで俺の布団に入ってきてますかね」
「なんでってアナタ、自分の約束したことを忘れたの?あの薬を飲んだら、一緒に寝てくれるんじゃなかったの?」
「イヤあれは、子供華琳との……」
「子供だろうとなんだろうと、私は私よ。約束を守ることは信に足る人間の最低条件、それがない者は どんな才能に満ち溢れていても信じるに値しないわ」
「さいですか……」
「父上だって、小人物なりに交わした約束は必ず守ったわ、少しは見習いなさい一刀」
「はいはい、じゃあ今夜だけは曹嵩さんを見習うとしますかね、いい子でお休み、華琳」
「子供扱いするなッ」
じゃあ どうしろっていうんだ?
子供時代、誰もが味わった父母の愛情に包まれて眠る暖かさ。
それに近いものを、今宵俺は華琳に与えることができるだろうか。
しばらくした後、寝息を立てていた華琳が、寝息とともに呟いた。
「むにゃむにゃ……」
「ん?」
「かずとは……、パパみたいに、とつぜん消えちゃダメだからね……」
「ああ、俺は突然消えたりなんかしないよ」
終劇
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曹嵩(そうすう)、あざなを巨高、曹操の父。
元々は夏候家の人間だったが、当時の大長秋の養子に入って曹氏を名乗る。義父の名声や莫大な資産によって、平安の世に太尉という栄職まで登りつめる。
曹操にまつわる小説や漫画では、曹嵩は温和で、人当たりのよいことだけが取り得の小人物。才気煥発な若き曹操に振り回されるばかりの頼りない父親として描かれることが多い。しかし……。
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