プロローグ
窓から差し込む夕日が、部屋を赤く染めていた。空の色に埋め尽くされた部屋の中で、俺はただ無心に筆を運ぶ。茜色の部屋を、茜色のキャンバスに写し取る。何の変哲もないありきたりな風景を、何の変哲もないありきたりなままの姿で再現する。正確に。誠実に。
「……ふう」
知らないうちに止めていた呼吸を再開させる。集中すると呼吸を止めてしまうのは、俺の悪い癖だった。精密な作業を行う者にとっては、割合致命的な癖といえるだろう。直すように意識してはいるのだが、これがなかなか…
壁越しに聞こえていた、喧しい騒音は、いつの間にか収まっていた。放課後の校舎らしい程良い静寂が、周囲に広がっている。
何も今頃、それもよりによって美術室の改装工事をやることはない……とは思った。お陰で俺は、柄にもなくたった一人で、部活動の課題なんてものを仕上げるはめになっているのだから。……まあ、そもそもの責任は、サボり気味な俺の部活動態度にあるんだけど……。
「ずっと思っていたんだけどさ、君の絵は本当に退屈だね」
突然、背後から声が投げかけられた。凛とした少女の声。聞き覚えはないから、知り合いではないだろう。少女は淡々と続ける。
「普通、どんな下手糞が描こうが、どんな名手が描こうが、絵には書き手の主張、或いはそれに類するものが必ず表れるものなんだけどね。君の絵にはそれがない。全くないんだ。これは君、異常なことだよ。私は所詮門外漢だから、技術や技法について云々する気はないけれど――素人目に見ても、君の絵は確かに綺麗だ。繊細で緻密な色彩と描写、どれをとっても素晴らしいと思う。だけどやはり退屈なんだよ。これは写真ではあっても絵画ではない」
「ふうん?」
良く喋る奴だ。どう考えても俺の知り合いではないな。流石に、こんな妙な話し方をする女に心当たりはない。
「そこまで褒めてくれた奴はあんたが初めてだよ。俺はさ、そういうのを目指してるんだ」
「ほう?興味深いな。それはどういう意味だい?」
女の声は淡々と続ける。俺の言葉を吟味するような色が半分、興味本位――まあ聞こえの良い言い方で興味津々――な色がもう半分といったところか。俺の方も何となく興が乗ってくる。
「俺はさ、絵を通して感情を表現するとか、何かを訴えるとか、そういうつもりは一切ないんだ。俺はただこの風景を、ただこのまま再現したいんだよ。表現する必要なんてない。写真より正確に、鏡より誠実に、この風景を写したいんだ」
青く見える空は青く、白く見える空は白く。晴天も曇天も雨の日も雪の日も風の日も、誰もがそうだと感じられるような普遍的な色で、形で写し取る。俺の行為を表現などと形容するのは不遜に過ぎるだろうし、また俺が目指しているのはそういうものではないのだ。
「つまりこういうことかい。君が行っているのは、創作ではないと?」
「そうだよ。創作なんかクソ食らえだ。目の前にある世界とすら戦おうとしないなんてのは、俺からすれば敵前逃亡でしかないよ。俺はただこの世界を、再現したいんだ」
しまった、言い過ぎたかな――とは思った。
俺は常々、本心からそういう風に思ってはいるけれど――それを人に話したことはなかったし、話していいようなことでもないと思っていたから。だが、
「成程ね――成程」
背後の声はそれを聞いて――微笑んだような気がした。
「君は余程この世界が好きなんだな。私は読書が好きなんだが――それに関して言えば、私は創作が好きだよ。物語が――虚構が好きだ。そもそもが虚構である文字をして現実を描写しようなどというのは不遜に過ぎる。ドキュメンタリーなどという単語は聞くだけで頭痛がするね。主観で歪められた世界など現実とは呼べない。そんなものには一秒たりとも触れたくはないよ…ああ、今のは間違っても君の絵に対する感想ではないからね、そのあたりは誤解しないで欲しい。君の絵は退屈だが、決して不快なものではないから」
「悪意がなさそうなのは伝わってるよ。…まあ読書に関して言えば、俺もフィクションのほうが好きだな」
俺はあまり本を読む方ではないが…まあ、そのなかでの嗜好を言うなら前述の通りだった。古典のファンタジーとかホラーとか、そういうものばかり読んでいる気がする。
……と。脱線が酷くなってきた。
「あー……あのさ、一応筋だから言っておくんだけど」
まあ、お約束というかね。
「部屋に入るときはノックぐらいして欲しいもんだな。作業中につき立ち入り禁止って書いてあっただろ?」
振り向くと、やはり見覚えのない少女と目が合った。背筋の伸びた、凛とした立ち姿。俺が知るなかで最も知性的で理知的で理性的な瞳。涼しげに濡れた黒い瞳。昏い瞳。烏の濡れ羽に例えるのもおこがましい、長い黒髪。
そしてその、魅入られるような美貌。
「……は?」
そういえば、ドアが開く音なんて聞く音なんてこれっぽっちも聞こえなかったな――などと、益体もない事を考えながら。
俺は持っていた筆を、床に取り落とした。
そんな俺を見て、少女は小さく微笑む。小悪魔的には相応しくない、ファウストの元を訪れた悪魔のような表情で。
「いや、なかなかこっちを見てくれないものだからさ、どうしようかとは思ったのだけれど」
「な…や、え、あ?」
……俺はこの瞬間において、世界一間抜けな声を出していた自負がある。
そんな声を出しながらも――俺はそれらを全力で見比べていた。この部屋の入り口付近に置き去りにされた姿見の中の風景と、この部屋の風景とを。現実と非現実とを。
「何はともあれ、名乗っておくのが礼儀というものかな。私の名は鑑波雪待(かがなみ ゆきまち)」
少女は俺に語り掛ける。鏡の向こうから。
「見ての通り、鏡の住人だ」
宵闇に沈みゆく部屋の中で、
君が笑い、俺は立ち尽くした。
日常というのは、退屈の代名詞のようなものだ。好奇心は猫を殺し、退屈は神を殺す。では人間はどうなのかといえば、好奇心で死ぬことはあっても、退屈で死んだと言う事例は寡聞にして聞かない。そもそも退屈であるという状態を幸と捉えるのか、不幸と捉えるのか、その辺りの事は個人の感性と判断に委ねられている。
俺が享受する日常を羨ましがる人間もいれば、不幸と捉える人間もいるだろう。俺は未だ自らの日常に倦んではいないけれど、もしかしたら、そういう時もくるのかもしれない。
だからまあ、日常のその単調な味に飽きてしまう前に、香辛料を加えるくらいの努力はするべきだろう。境界から投げ込まれる石を当てにしているくらいなら、代案を考えた方が建設的だ。
「おはよう三城久君。今日は、薄気味悪いくらい早いんだね」
俺が決意も新たに伸びをしていると、すぐ横から声がかけられた。
「ああ、おはよう日森さん。女性に早いとか言われるのはあまりいい気がしないけど、今日も綺麗だね……空が」
「もういい加減慣れたけど、何で三城久君は毎朝、空について言及するのかな?そんなに空が好きなの?本日の天候に興味深々なお年頃?」
「うん、まあ俺は、小学校の頃気象博士と呼ばれたほど天気を愛する男だからね。時候の挨拶にお天道様の話題は欠かせないよ」
「へええええ……?じゃあ異常視程っていうのがどういう現象だか、気象博士の三城久君なら分かるよね?」
「知らないよそんなの。大体、俺が気象博士って呼ばれてたのは、何故か快晴、晴れ、曇り、雨の天気記号を知っていたからだし」
「うわ微妙!?断じて博士の器じゃないよそれ!」
「博士ってのは称号であって、人間としての器の大きさは関係ないだろ」
「正論だけど、何故か苛立ちが募る科白だね、今の……」
「そう?それは良くないな……あんまり怒ると、綺麗な空が台無しになる」
「三城久君は、どうあっても私の容姿に触れる気はないんだね……?」
日森さん(そういえば、下の名前はいつになっても覚えられない)は顔を引きつらせながらそういうと、俺の隣の席に着いた。彼女は、一定の限度以上の怒りに駆られると暴力に訴える傾向があるので、俺は咄嗟に身構えていたのだが……幸いにして、怒りは限度内で収まったらしかった。
日森さんは、ショートカットの似合う活発な女子だ。何の因果か、部活動が同じだったりする。彼女は、中学校の頃はその印象通りに陸上部に在籍していたらしく、それが何故高校に上がった途端、美術部に鞍替えしたのかについては謎の残るところだった。何というか、陰謀の香りがするね。
俺は窓際の前から三番目の席で、日森さんはその隣だ。これは何も、俺に心的重圧をかけて精神を追い詰めようという彼女なりの配慮からではなく、彼女に定められた席がそこであるからだ。
隣といっても、ベランダではない。いくら彼女が凶暴であるとはいえ、人道を鑑みて人間用の机と椅子が与えられている。
いや、隣の人がからかい甲斐のある人で本当に良かった。
「おーう。何だお前、今日はやけに早いんだな」
小さな幸福に浸っていると、突然背後から声がかけられた。一々見なくても分かる。前の席の三上だ。
「何だってみんな、そんなに俺の登校時間に興味を示すんだ?」
「そりゃお前、いつも遅刻ぎりぎりに来るような奴が、鐘が鳴る三分も前に学校に到着してりゃ、誰だって不審に思うだろ」
「人聞きが悪いな……。訂正しろ、始業ぎりぎりだ」
「変わんねーだろ」
「うるさいな、俺だってたまには早く起きる事だってある」
「たかが三分かそこらで、随分と偉そうだな……まあ、三分くらいなら誤差の範囲だろうが、それでも進歩はしたのかね。お前は昔っから寝坊が多かったもんなー」
こいつ、三上悟とは遡れば小学校からの腐れ縁という奴で、何というか、割合偏屈なところのある俺の、数少ない友人の一人だった。
人間と人間の関わり合いってのは、持ちつ持たれつが基本――とは言うようだが、俺はというと、三上に一方的に世話になっていると思う。三上は、見た目は不真面目そうな奴だが、実際のところはかなり生真面目な奴だ。宿題というものをまず忘れてくる事がない希有な人間なので、俺はお世話になりっぱなしなのだったりする。
「……そうかもしれないな。しかしそういうお前は、寝坊しない代わりに寝しょ――んががががあ!?」
俺だったら羞恥のあまり死を選ぶレベルの、三上の過去を暴露しようと試みたところ、三上はいきなり俺の首を絞め始めた。
「お前なあ、それ以上言うつもりなら、今ここで、わが国のお前に対する酸素供給を、完全に停止させるぞ?」
してるしてる!もうされてる!
俺はギブアップの意思を示すために、ボールペンで三上の腕を突いた。流石にこれには三上も怯んだようで、俺の首にかかる力が若干減少する。その隙に、俺は自らの頸部の、危険地帯からの脱出を成功させた。
「ぶはッ……さ、殺意があった……今のは明確な殺意が感じられた……」
「死にはしねーだろ。馬鹿が風邪を引かないのと同様に、お前は心拍が停止しても気付かないだろうからな」
「おまえな――」
そのとき。
神経に突き刺さるような始業の鐘の音で、俺は自分が今学校にいる事を思い出した。
「あ、やべ」
泡を食って、三上が自分の席に滑り込む。
「出欠取るぞー」
担任教師の声が聞こえて、
退屈な日常が始まった。
その日の放課後、俺はいつもの空き教室――美術準備室隣の小さな空き教室を目指して歩いていた。その部屋は物置として利用されていたのだが、一人でないと作業が捗らないという主張を行った結果、俺がほぼ占有状態で利用できることになっていた。まあアレだ、何でも言ってみるもんだね、本当。美術部の部長も、顧問の教師も、かなり不思議そうにしていたけれど。俺はそもそも、そこまで熱心な部員ではなかったからね。
北棟で唯一、表札のない部屋。ここが魔女のお家です。
「邪魔しに来たぜー」
戸を開けて、
「勇気!」
部屋に一歩踏み入れるなり、雪待の懐かしい声が、俺を出迎えた。
「――ああ、勇気! 酷いなあ、酷いお見限りじゃないか。私はてっきり、君にもう見捨てられてしまったんじゃないかと……それはもう、気が気ではなかったんだよ? それを君ときたら――」
「悪かったよ……けど俺もここのところ忙しくてさ。……というか、別に俺に見捨てられたところで平気だろ、お前は」
俺はいつもの場所に荷物を置くと、雪待の方を振り返った。鏡の中、硝子の直ぐ向こうに立つ雪待と目が合う。
――まるで、いつかの夕暮れのように。
「滅多なことを言うものではないよ勇気。友と認めた人間に見捨てられるなどという事は、健全な精神を持つ者にとっては到底耐えられるものではない。もっとも私は、君と友人同士で終わる気は毛頭ないがね」
「俺は友人のまま終わる気満々だけどな」
「ふふん、君はつれないなあ。しかしいつかきっと、振り向かせてみせよう」
雪待は物言いが回りくどいくせに、こういうところで妙に直截的だから、俺としては対処に困ってしまう。それでも、久しぶりにつくることが出来た雪待との時間は、我知らず笑ってしまうくらい――楽しかった。
俺と雪待が出会った経緯、親しくなった経緯については――まあ、色々とあったのだけれど、それは今語るべきことではないだろう。雪待については――これはもうどう語ればいいのやら見当もつかないのだが、普遍的で平易な言葉で彼女を形容するなら、『魔法使い』だという他ない。彼女は三ヶ月ほど前から失踪しているはずの、この学校の生徒である。現住所は――驚くなかれ、もとい呆れるなかれ、鏡の中だ。彼女はもう数ヶ月も、この姿も見の中に隠遁しているのだった。
鏡の中の世界なんて概念、幻想文学ににおいてすら、もはや手垢がついた、些か古典的に過ぎるものなのだが……しかし、雪待は否定できない現実として、厳然とそこに存在する。
隠遁の理由については、未だに雪待が口を割らないので、推測することしか出来ないのだが……まあ恐らくのところ、碌でもない理由なのだろう。雪待自身、人間嫌いだと自称しているわけでもあるし。
「しかし、この時期に学業が忙しいというのも不思議な話だな……ひょっとして補習か何かかい?」
「断じて否だ。補習か何かではなく、補習だから」
「不思議な理屈だな……」
「そうか?しかし一年目のこんな時期から補習を行うなんて、うちの教員連中は気が触れているとしか思えないな」
「私は君の気が触れたんじゃないかと疑い始めたところだ」
「お前は友人を疑るのか?」
「違うよ。君の正気に疑いを抱いているんだ」
雪待は傲岸に笑う。最近気付いたんだが、この笑みはもしかしたら、親愛を表す成分を含んでいるのかもしれない。向けられて、不思議と不快ではないから。
「俺の精神の健康を疑うくらいなら、せめて最初から、屁理屈だと一蹴してくれ」
「勇気、正当な反論も反証もなく誰かの理屈を屁理屈だと言うのは、それは敗北宣言に等しいんだよ。屁理屈だと断じるのなら、先ずは反論し反証するべきだ。それが本当に屁理屈であるなら、そんなのは酷く容易い事であるはずだからね」
こんな調子だ。雪待が偏屈な奴であるという事は、疑いようの無い事実である。
とはいえ無論、雪待の存在から身の上までの全てが、俺の妄想でないという証拠も確証も、今のところどこにもないのではあるが。
――ま、それはそれとして。俺は雪待に出会って以来連日、この部屋を訪れていたのだった。
だった、のだが。ここ一週間ほどは他の活動――ぶっちゃけ学生であるところの俺の本業、いわゆる学業の方が忙しくて、雪待のところに顔を出せずにいたのだった。
一応雪待にも、その旨を伝えては置いたはのだが。
それでも、ここまであからさまに喜んでくれるのを見ると、悪い気しない。正直に言えば嬉しかった。
「それはそれとして――勇気、今日は何か駄菓子類を持ってきては呉れなかったのかい?」
……食い物目当てという可能性が濃厚だけどな。
「ほらよ」
鏡の出入り自体は制限されているものの、雪待の許可があれば、物品の出入りはある程度自由だ。
なので、俺は無造作に持参してきた菓子類を、買い物袋ごと放り込んでやった。
「おっと……ああ、有難い。心から感謝するよ、勇気。この恩はきっと忘れない」
言葉だけを追えば、物凄く感謝されているように聞こえなくも無いのだが……。実際にはこの科白、途中に今しがた渡した菓子の袋を破る音、そしてそれを租借する音が含まれており、酷く有難みが薄かった。
「何だってそんなに飢えてるんだよ、お前……。食わなくても平気なんじゃないのか」
「ん? うん、いやそれはそうなのだがね。しかし勇気、人間にとって、食事は娯楽でもあるだろう?」
流石に、物を食いながら喋るなどという品の無い真似こそしなかったが……。まあ聞くところによると、肉体的に栄養が足りていようが、食事という行為を行うことが出来ないのは、かなりの苦痛ではあるらしいが。
「そういうもんか」
「そういうものだ」
雪待は安っぽいソファーに体を沈めたまま、大仰に頷いてみせる。――つくづく、芝居ががった仕草が似合う奴だった。
「ううん――いやしかし、それにつけても、君には感謝しているよ」
雪待先生は伸びをしながら、次のように仰いました。
「君と知り合ってからは毎週少年ジャンプが読めるようになったからね。きな粉棒だって食べられる。最低限文化的な生活が送れるようになったというものだよ」
「文化というものについて考えさせられる科白だな……」
「いや、本当に感謝しているんだよ?」
「とてもそんな風には見えないけどな……」
雪待自身はあまり冗談を言わない人間であるし、皮肉を言う時は予め皮肉だと明言するような奴なので――これは多分、本心だ。しかし一般に、ソファーに深々と腰掛けてふんぞり返っている人間にそういったことを言われても、あまり有難みというものは感じられないだろう。……こいつが人に媚びるところなんて見たくもないから、別に媚びろとまでは言わないが。
「……全く、お前は良いよなー。一日中暇を持て余してるんだろ?俺はここ一週間ほど、補習だの委員会活動だので大変だったよ……」
「む。それは言いがかりというものだよ、勇気。私とて色々と事情があるのだ」
「ふうん?じゃあその事情ってのを、そろそろ聞かせてもらいたいもんだな」
「それは言えない」
雪待は毅然と言い放つ。自らに恥じる所など一つもない、とでも言いたげなその態度は、見る者にある種の清々しさすら感じさせるだろう。イメージ的には、古代の武将みたいだとでも言えば判りやすいだろうか。
「私は嘘を吐くくらいでいちいち痛むような、脆弱な良心を持ち合わせてはいないのだが――しかし、君には出来る限り嘘を吐きたくないからね」
「だから話せないってのか。いちいち回りくどいな、お前は」
「私は君からの誤解を避けるためなら全力を尽くすのさ。誤解というものは、受けるほうにも問題があるものなのだから」
「……まあ、精々頑張ってくれ」
「うん。私は頑張る……と」
雪待はごそごそと買い物袋を漁りだした。
「うーん……勇気、何か飲み物のようなものはないのかい?私はどちらかといえば紅茶派、或いは緑茶派なんだが、久しぶりにコーヒーが飲みたくなってしまった。精神が不安定になるくらい大量のカフェインを摂取したいものだ」
「コーヒーうめえ」
俺もあまりコーヒーは飲まない方だが、缶コーヒーは割合良く飲む。うん、美味だ。
「……そういえば、長いことうまい棒を口にしていないなあ。私はめんたい味が特にお気に入りなのだよ」
「うまい棒めんたい味うめえ」
パッケージは紫色と昔から相場が決まっている。美味い。
「…………」
「…………」
色違いの沈黙が、暫し俺達の間を流れた。
「仕様が無いな……ほら」
俺は缶コーヒーとうまい棒三本を、次々に放ってやった。雪待はうまい具合に、それらを受け取る。俺は段々面白くなってきて、これは取れないだろうというところに、自分用のうまい棒をさらに二本放り込んだのだが、雪待はそれらを危なげなく受け取ってみせた。
何故か敗北感を感じる……。
「ありがとう」
「とはいっても、もう完全に冷めちまってるけどな」
何しろ昼休みに学校を抜け出して買ってきたものであるから、当然の事ではあるのだが。……まあ、本当は朝通学のついでに買ってくる予定だったのだけれど、止むに止まれぬ事情があって、それは断念せざるを得なかったのだ。――俺の名誉のために言っておくと、別に寝坊したわけではない。いつもどおりに睡眠を摂った結果(それでも若干は早く起きたのだが……)、そういった時間的余裕が生まれなかっただけだ。
「いや、全く構わないよ。私はかなりの猫舌でね、人肌以上の温度のものは口に入れない主義なんだ」
雪待は鏡の向こう、古く色あせたソファーの上に、うつ伏せに寝そべった。そしてそのままの姿勢で、徐にうまい棒を齧り始める。
このようなあまりにも酷いだらけ具合に、立ち姿とのあまりに大きな落差に――最初それを目にしたときは俺も言葉を失った。立てば芍薬座れば牡丹、まろぶ姿は蛞蝓だ……まあ、三日もしたら慣れたけど。出来ればあまり、俺の中の女性像に傷をつけないで欲しいものだった。
「……ラーメンとかどうするんだ?」
「冷めるまで待つよ」
「そんなに待ったら、麺が伸びるだろ」
「それは一向に構わない。熱いより余程ましというものだよ」
「……まあ、好みは人それぞれとは言うけどなー……」
すまし顔で、伸びきった麺を食べる雪待を想像して、俺は小さく笑ってしまった。
「そうは言うけどさー、お前いつだったか熱燗がどうのとか言ってたじゃないか」
「あれは別口だよ。人肌より温い熱燗など呑めたものではない」
「そんなもんか。俺は酒なんてあんまり飲んだことないから、良くわからないんだけどなー……ビールとかさ、小さい頃一口舐めただけで、完全に懲りちまった口だし」
「麦酒か……確かにあれは、私も苦手だね。何であんなに苦いんだろうか」
「なー……でも何か以外だな。お前はどちらかというと、そういう規律に五月蝿そうだと思ったんだが」
「うん?あはははは、勇気、君ね……魔法使いに、一体何を言うんだい?阿片を常用するような連中も沢山いるんだ、飲酒くらいどうということはないさ」
「阿片って……!?」
「ああいや、私はそんなものに頼った事はないし、頼る気もないよ。そういう魔法使いもいる、という話さ」
「……何だ、脅かすなよ……」
魔法使い。雪待は自らをそう形容する。こうやって稀にそういう『魔法使い』としての話をすることがあったが、あまり積極的にそれらの話をする気配はない。たまに話すとしても、今のように冗談めかしてしか話さない。むしろどちらかと言うと、慎重にそういった話題を避けているようですらあった。
その態度が、どうにも不審で。俺は言い知れぬ不安を感じてしまう事があった。
雪待は、そんな俺を不思議そうに見ていたのだが――
「ところで勇気。私は常日頃から疑問に思っているんだが」
突然、改まった調子で話しかけて来た。
ここ一ヶ月程の付き合いで分かったのだが――
「うまい棒のこの穴は、一体何のために開いているんだろうね」
「お前は常日頃からそんなことばかり考えているのか……」
雪待は、こういう奴だ。
「別に、こういった疑問についてのみ考えているわけではないよ」
「けど、お前の口から深遠な話題が出てきた事なんて一度も無いぞ……」
「これだって十分以上に深遠な話題だろう。向こう側がよく見えなければ、それが深遠さかね?見えないだけで、深さは一寸にも満たないかもしれないのに。……まあ、それはそれとしてだ」
雪待はくるりとうまい棒のをこちらに向けた。空洞の向こうに、雪待の制服の胸についているリボンが見えた。
「私はこの空洞の中に、希望が詰まっていると思えて仕方が無い」
「……今更だが、お前は本当に魔法使いなのか?」
「本当だとも。君も存外疑り深いね……人間には無限の可能性があると、ジャイロ・ツェペリも言っているだろう?」
「その引用はずるいだろ……有無を言わせぬ説得力があるじゃねえか。しかし無限か……実際のところ、俺にはとてもそうは思えないんだがな……」
「そうか。しかしこの主張に関して、私には有力な根拠がある。何しろ人間は人間の性能を以って、猿以下の低能をすら実現しうるんだ。これが可能性でなくて何だと言うんだね?」
「分かりづらいけどさ、それはただの悪口だろ。一部の人間に対する」
「そんなことはないよ。暴言を吐くつもりなら、もっと悪意が伝わりやすいように心がける」
「じゃあお前、例えば俺を罵るとしたら、何て罵るんだ?出来るだけ悪意を込めて言ってくれ」
「君は実に馬鹿だな」
雪待は普段と全く変わらない調子で、あっさりとそう言い放った。特に人を見下すような口調でもなく、貶めるような響きも無く、ただ思ったことを口にした、というような調子。これは、何というか……
「……なんだか本気で頭に来るな……」
「そんな事を言われても困るな……君が言えと言ったんじゃないか」
困ったような顔をする雪待。決して口に出しはしないけど、俺はこいつのこういう表情が好きだなー……。
「じゃあ、お前は俺に言われたら陰腹でも召すのか」
「流石にそれは勘弁したいが……そうだな。性的な命令なら、それはもう言われるままに従うよ」
「ぶーッ!?」
いきなり何を言い出すんだこいつは……!
「くっそ、コーヒーを吹いちまったじゃねえか!?鏡の中だと思って強気に出やがって……」
「そういう風に思われるというのは、些か心外だな。私は本気で、君に惚れているというのに」
「……そうは言うけどさ、何というか……とてもそういう風には見えないんだけどな、お前」
「む、そうなのか?それは困ったな……私としてはだ、こうして異性と親しげに会話しているということ自体、かなり希有なことなのだが」
「……え、そうなのか?」
「そうなのだよ。私はあまり社交的な人間ではないのでね」
「それは分かるけどな」
「ふう……正直今、私はほとほと困り果てているのだよ。一体どう表現すれば、君にこの想いが届くか全く分からないのだよ。……大体、遠回しに文学的表現を用いると、君は全然気付かなじゃあないか。君がそんなことだから、私は気がついたら露骨な表現に行き当たってしまっていたのだ」
「露骨だって自覚はあるんだな……」
「うん。しかし許容範囲内だろう?」
「許容出来ねえから文句言ってるんだろ!?」
「……そうか。すまない」
「あ……いやまあ、別に謝るようなことじゃないけどさ。しかしなあ……この際だから聞くんだけど、一体俺の何処に――あー、その、何処が良いと思ったんだ?」
「わからない」
「……わからないのか。俺もさっぱり分からない。一体全体、何で俺なんかに……」
「何故かと問われても、正直私にも理由は判らないのだ。何時からそういう感情を抱き始めたのかというのも判然としない。何と言えば良いのか……この想いは、差し詰め――」
「差し詰め――運命、とでもいう気か?」
「運命か」
雪待は少し顔を顰めた。
「私は運命という言葉が嫌いでね。何というかさ、このどうにもならない感じが堪らないじゃないか。堪らなく――不快だ」
「へえ……女ってのは、運命とか前世って言葉に弱いと思ってたんだけどな」
「それは偏見だと思うがね……ともかく私はそうではないよ。自分に前世があったなんて、考えただけでもゾッとする。吐き気さえ催すよ。実に嫌な気分だ」
「そんなもんか……その嫌な気分ってのは、詳細に描写するとどんな感じなんだ?」
「ああ……うん、何というか……そうだな。荒涼とした陰鬱さを湛えた地平線の向こうから暗澹たる何者かが忍び入ってくるような感じだ」
「さっぱり分からん」
「君にも分かりやすいようにJ○J○で喩えると、『ドス黒い気分』というやつだよ」
「何か釈然としないが、確かにスゲー分かりやすいな……」
「そうだろう?」
「……まあしかし、何というか――有り体だけど、お前らしいと思うよ」
「うん?――そうか。何だろう、何故か今、少しばかり嬉しいよ」
雪待は控えめに笑う。何だろうなー、こいつはごく稀にだが、妙に可愛いときがあるもんだから、扱いに困る。普段は男友達に接するのと同じように――というか、むしろそれより酷いくらいの態度で雪待に接しているため、そういう嫌でも異性を意識させられるような仕草を見せられると、どうして良いか分からなくなってしまうのだ。それは今回も例外でない。
困った俺は、話題を無理矢理切り替えることにした。
「……あー、しっかしここの所、本気で暑いよなー。今日なんてもう、溶けちまいそうだよ」
「そうか。私のところは熱くも寒くもないのだが……確かにそちらは暑そうだな」
硝子越しの雪待は、いつものように涼しげに笑う。その面を眺めていると、若干涼しい心持ちになれそうな気がしたが……しかしそれにしたって、風鈴以上に雰囲気の温度を下げてくれるものでもなかった。
……というか、むしろ不公平感を感じる。
「ああ。俺だけ暑がってるのは正直納得がいかないが……こうなってくるとあれだな、もうすでに冬が恋しいってもんだ」
「ふふ。そしてまた雪が降る頃には、逆の感想を抱くんだろうがね」
「雪かー。ああ、そういやさ、お前の名前は一体どういう意味なんだ?」
「ん……私の名前か」
雪待はほんの少し、遠くを見るような眼をした。
「私の母はたいそう雪が好きだったそうでね。冬になれば毎年毎年、飽きもせずに雪を待ち続けたそうだ」
何かを思い出すように、雪待は微笑んだ。
「雪のように待ち望まれた子、だから雪待という」
「……いい名前だな」
本心から、そう思った。
雪待にもそれが伝わったのだろうか。
「そうだろう?そうだろうとも」
雪待は花のように笑う。
雪待は歳相応の表情を見せることすら皆無と言って良いような奴だ。節度を弁えた、控えめな感情表現しかせず(発言に関しては別だが……)、いつだって澄ました顔で笑っている。
だからそれは、その無邪気な表情は、あまりに唐突で――
何というか――目の毒だった。
それこそ、魔法みたいに。
――魔法?
そこでふと、俺は思い当たった。 もしかしたら雪待になら、それが一体何であるのか分かるかもしれない。
「……ん?どうしたんだい勇気、思いつめたような顔をして」
話すべきか、話さぬべきか。
しかし、躊躇は一瞬だった。こいつにならきっと、俺に答えを呉れるだろう。
「雪待、お前に見てもらいたい物があるんだ」
「うん、いいよ。何だい、もしかしておいなりさんかい?」
「なわけねえだろ!!」
……早まったかもしれない。
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推理小説のはずがファンタジー方向に脱線事故を起こした。
一応完結してはいますが、今からでもミステリーに変えたい。