気がついた時にはもう、暗い、暗い闇の中だった。押し殺すほどの感情もなく、ただ、軽薄な空気の中で息苦しさを感じるばかりだった。
なぜここにいるのだろうという、疑問すらも湧き上がらない、混濁し、緩慢な時間の流れ。一日が過ぎるたびに、背中に重しを乗せられているような不安感が募った。
「おはようございます」
決められた朝のあいさつ。物腰も丁寧で、腹の立つような事もない。細心の注意が払われた囲いの中で、彼はただ、カラクリの一部であるかのように淡々と過ごす。
(何で僕は生きているんだろう)
誰でもいい。必要とされているのは、自分自身ではなく、その名に付随する肩書きだけなのに。生きる意味はただ、そこに居るというその事実だけだ。
「すばらしいです」
「さすがです」
向けられる賛美は、安っぽく作り物めいたものばかり。心に響く事も無い。
(ここが僕の世界。狭く、薄汚れた、狡猾で人の顔色ばかりを伺うだけの人々が住む場所――)
すべてを諦めて、心を堅く閉じる。いつか時間が、この命を奪うまで。そう思っていた彼の前に、彼女が現れた。
中庭の池をぼんやり眺める彼に、彼女は偽りのない笑顔で話しかけてくる。
「私と、お話しませんか?」
「君は……誰?」
彼が不思議そうに訊ねると、彼女は慌てた様子でぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。自己紹介が先でしたね。私は董卓と言います、劉協様」
それが、二人の初めての出会いだった。
訓練を終え、汗を拭いながら愛紗は心配そうに桃香の天幕に視線を向けた。
「もう、五日か……」
具合が悪いようで、天幕に引きこもったまま一度も顔を見せていない。食事は取っているようだが、食欲はあまりないようだ。
「こんな事は初めてだな」
体調管理は誰よりも厳しい上に、多少の無理をしてでも他人の診療をするような義姉だった。これほど何日も寝込むような事は、少なくとも愛紗が桃香と出会ってからは一度もない。
(心労も溜まっていたのだろう。よし!)
愛紗はすぐに身支度を整え、桃香の見舞いに向かった。
警備の兵士に挨拶をし、天幕の入り口で声を掛ける。
「桃香様、愛紗です。お体の具合はいかがですか?」
しかし返答はなく、愛紗はもう一度声を掛けてから、そっと中に入った。中は薄暗く、端の方に布団に包まる桃香の姿があった。
「桃香様?」
「……愛紗、ちゃん」
「はい」
弱々しい声が聞こえ、愛紗は答える。布団からは頭だけが覗いていた。
「具合はいかがですか? あまりにお辛いようなら、医者に診てもらった方がよろしいかと思いますが」
「うん……ありがと。でも、大丈夫だから」
少し強めの口調で、桃香は診察を断った。愛紗は何か言いしれぬ不安を覚える。一言でいえば、『らしくない』のだ。
心配を掛けているということへの、申し訳なさがあった。けれどそれでも、今の自分の姿を他人に見せるわけにはいかない。
「一人にしておいて」
わざわざお見舞いに来てくれた愛紗に、冷たくそう言うしかない桃香だった。布団の中で、静かに帰って行く愛紗の足音を聞く。一歩一歩遠ざかるたびに、胸が痛んだ。
(それでも、この右手は見せられない)
剛毛に覆われた、化け物の醜い手。左手よりも二回りほど大きく、指は節くれだっていた。
(でも、もうこれ以上は隠しきれないかも知れない……どうすればいいんだろう)
出口のない苦悩の中に桃香はあった。いくら考えても打開策は見つからない。
「そろそろ、諦めたらどう?」
不意に、声が聞こえた。驚いて布団から桃香が顔を覗かせると、いつの間に忍び込んだのか、劉協の姿があった。
「一生、そうやって身を隠し続ける気かい?」
「……」
「まあ、なかなか踏ん切りがつかないだろうね。仕方がないから、協力してあげるよ」
「えっ?」
驚いた桃香の体が、勝手に動き出す。
「その右手には僕の血を使って、術を掛けてあるんだよ。呪いを発動させるための術がね。そのお陰で、こうやって自由に操ることが出来るんだ」
劉協は無邪気な笑みを浮かべ、ゆっくりと布団から出る桃香に告げた。
「嫌……やめて!」
「だめだよ。さ、行こうか」
右手を隠すことも出来ない桃香は、自分の意思に反して天幕の外に出た。劉協は彼女のすぐ後ろで、楽しげに笑みを浮かべながら付いて行く。
「劉備様……!」
警備の兵士が桃香に気づいて振り向き、その顔を強ばらせた。視線は、あまりに不釣り合いなその右手に向けられる。
「見ないで……」
隠そうと身をよじるが、すぐに劉協によって戻されてしまう。
「領主をそんな目で見るなんて、失礼な兵士だね。桃香、こんな奴らは全員殺しちゃおうよ」
「――!」
劉協の言葉が終わると同時に、桃香の右手が振り上げられる。鋭い爪は、十分な殺傷能力があった。
「逃げて!」
桃香は叫びながら、その右手を兵士に向けて振り下ろした。兵士は咄嗟に身を引き、爪が頬をかすめる。
「ひっ、た、助けて!」
「あははははは!」
逃げる兵士の姿を見て、劉協は嬉しそうに笑う。対して桃香は、辛そうに顔を歪めた。
「もう……やめて……」
「まだだよ。ほら、あそこに次の標的がいるじゃないか」
そう言って劉協が示した先には、先ほど桃香の天幕を追い出された愛紗が、星と二人で話をしている姿があった。
「ほら、大事な義妹に君の新しい姿を見せてあげようよ」
劉協に背中を押され、桃香は抗うことすら出来ずに愛紗たちのいる方へ歩き出した。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
楽しんでもらえれば、幸いです。