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真・恋姫†無双 風雲となれ 第三話

edumaさん

ちょっとまとまりに欠ける第三話。

2013-07-17 18:46:49 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:1112   閲覧ユーザー数:1016

 第三話

 

 

 

 さて、ここは水鏡女学院の裏手。薪割り用の切り株に腰を落としウンウン唸っている典明。

 相対しているのは、水鏡女学院で用いられている学術書。

 街に行ったあの日以来、仕事の傍らこうして書物を睨む時間が増えたのだ。

 

「いい事書いてあると思ったら、無茶苦茶な理論も書かれてるし…取捨選択が難しいな」

 

 礼節を説く儒学的な書物については、さらりと目を通して早々に投げ出した。

 どうにも宗教の勉強をしているようで、感覚的に馴染めなかったからだ。

 なので実理的なものを諸葛亮に推薦してもらい、民政学、農学、地学、数学(算術)に手を出している。

 全てはあの日、諸葛亮と龐統に言った言葉を守るため。

 

 この世界に来た理由もわからず、現代に戻る術も皆目検討がつかない。

 水鏡の厚意に甘えてのんびりと、だが指標もなく生活している。そんな自分に漠然とした虚無感を覚えたのだ。

 水鏡もかつて“逗留する許可”と言ったのだ。つまり学院はあくまで仮の宿。

 ここにいる間に自分の道を見つけ出さねばならない。そう言った焦りがあったのも確かだ。

 

 それでも、あの時口にした事は本心だったと典明は言える。小さな賢人達を支えてやりたいのだと。

 拾ってもらった命の恩もまだ返せていない、その思いも秘めながら。

 

 

 

「…ん、太陽があの位置ってことは、そろそろ時間か」

 

 頃合いと見てパタパタと竹簡本を閉じ、その場を後にして中庭に向かう。

 徐庶に日課である稽古をつけてもらうのだ。典明が筋肉痛でもお構いなしに徐庶は責め立ててくる。

 おかげで今ではそこそこ見栄えの付く体格になったと自分を褒めてみた。

 

 

 

 

「ひの、ふの…二十本中、十五本か。シノ、七割半とはやるじゃないか」

「稽古の後もこそこそ練習してたんでね」

 

 二十メートル先の的に刺さった小刀を見て、徐庶がやや驚いた顔で賛辞を送る。

 今典明がやって見せたのは撃剣。飛刀術と呼ばれる投擲術の一種だ。

 以前の約束通り剣を一通り学んだ後、徐庶に教えてもらっているのだが、典明には意外な素質があったようだ。

 

「そりゃ熱心なことだね。あたしとしても教え甲斐があるってもんさ」

「まさに元直先生さまさまです。有り難や有り難や」

「お調子者だねぇシノは。剣術の時は不平ばっかりだったくせに」

「え~あ~、うん、その事は聞こえが悪いのでご内密にお願いします」

「そうだねぇ、ならまた“日本”の菓子の作り方教えておくれよ」

 

 軽口を重ねながら鍛錬の続きに入る。立った状態、座った状態、うつ伏せ、歩きながら、走りながら。

 それぞれに別の投げ方があり、一朝一夕で覚えられるものではない。

 

「空中とか、ぶら下がった状態で投げる方法もあるけど、これはここじゃ実践できないからね。

 まぁ一応教えるから、とりあえずは頭に入れておきな」

「フゥフゥ…奥深いなぁ、撃剣。かっこいい響きは、フゥ、伊達じゃないな」

 

 息を切らせ肩を上下させて答える典明。

 

「それでもまだ、基本と体捌きしか教えてないよ。この先が知りたきゃ、まずは息が切れないようになるのが肝要さね」

「りょ、了解……」

「んじゃ、今日はここまで。お疲れさん」

 

 そういって小刀を回収し悠々と立ち去る徐庶を見送った後、鍛錬で荒れた中庭を整地する。

 井戸に向かい水拭きして汗を流そうと考えた所で、

 

「いかん、薪干しっぱなしだった……」

 

 仕事を疎かにしては不味いと、典明はヘトヘトの体で薪小屋に戻るのだった。

 

 

 

 

「コ、コホン。あ、あのぉ~…の、典明さん…いますか~…………いないのかな…」

 

 部屋に戻って学術書に目を通していると、何とも弱々しい声が扉の外から聞こえてきた。

 典明は、それが実に彼女らしいと和みつつ答える。

 

「俺ならちゃんといるぞ、士元。入ってこいよ」

「は、はいっ。失礼します…」

 

 帽子のつばを抑えながら、ちょこちょこと龐統が入ってくる。相変わらず一挙手一投足が可愛らしい。

 

「ん、一人だけか?」

「朱里ちゃんは艶…いえっ!あ、新しい本が無いか街の本屋さんに出かけてましゅ!!」

「??そうか、まぁいいや。ところで俺に御用かい?」

「はい…あの、えと、その、あわわ…」

 

 諸葛亮はともかく、龐統が一人で彼を訪れるのは珍しい。しかし何用か聞いてみるも、上目遣いでチラチラと彼を見やるだけで、中々話してくれない。これはもしや!と彼が勘違いしかけた時、

 

「じ、実は!朱里ちゃんが帰ってくるまでこれといってする事がなくてですね!

 そしたら朱里ちゃんから、典明さんに内政関連の本をお薦めしたって話を思い出しまして!

 どうして私には聞いてくれな…で、でも無くて!その、そう…あれです!!

 な、ならばと考え!私は軍学書をお薦めしてみようかと思う所存でありましゅ!!」

「お、おう」

「ふぅ…言えました、えへへ」

 

 一気にまくし立て、何やらやり遂げた様子で笑顔の龐統。彼女的には勇気のいる行為だったのだろう。

 ともかく彼女の用件はわかった。

 

「ありがとう士元。それで、何がお薦めなんだ?」

「はい、この……あれ?ちょ、ちょっと待ってください。あれ?あれれ?…嘘、無いよぉ…」

 

 焦った様子で自分の体をぺたぺたと触り、本を探しているようだ。帽子をひっくり返して覗いているが、

 そんな場所に流石に本は無いだろう。どこかで落としたのかもしれない。

 眉をへの字に、だんだんと龐統が涙目になってきたので典明は声をかける。

 

「よ、よし!それじゃあ本は後で取りに行くとして!何ていう本なんだ?」

「うぅ、グス…“孫子”でしゅ…」

「孫子?」

「はい…軍学の入門書にして兵法の極意。それが孫子です…」

「孫子、孫子…」

 

 落ち込む龐統がポツリポツリと話した言葉を反芻する典明。彼はその名に聞き覚えがあった。

 唐突に立ち上がるとベッドに向かい、ズズズとベッドを壁から離す。その奇異な行動に龐統も首を傾ける。

 やがてベッドの奥から何かを取り出して、龐統のもとに戻ってきた。いつぞやの典明の鞄である。

 

「ええっと、あった、あった。士元、孫子ってこれのこと?」

「え?……あわわ!な、なんでしゅかコレ!?見たことありましぇん!!」

「孫子だと思う…多分」

 

 鞄から取り出したそれは“孫子の兵法”。……という名のビジネス書。

 典明が会社の先輩から貸してもらったものだ。『役に立つかはともかく、読み物としては面白い』とは先輩の弁だ。

 

 典明もこちらに来て初めの頃は、鞄を開いては望郷の念に浸っていた。

 だが一日、また一日と過ごす内にこれが泡沫の夢などではなく、現実と改めて理解した時に見えぬ場所に封印したのだ。

 

「確か孫子って兵法書なんだよな?これはそれを参考にしたビジネス…商売の本だよ」

「孫子を商売に!?あわわ、斬新、いえ盲点と言ってもいい発想でしゅ!!」

 

 普段の慌てぶりとは違う、興奮といった面持ちの龐統。頬を染め、呼吸もやや荒い様にドキリとする典明。

 

「の、典明さん!!読んでもいいでしゅか!?」

「お、おう。あ、それ左開きだから気をつけて」

「わかりました!!ではお言葉に甘えて!!!」

 

 そういってパラリと表紙をめくる龐統。

 

「うわぁ、紙の一枚一枚が光沢があって綺麗…。きっと貴人の方でもお目にかかれない品質だよ…」

 

 そう言ったのも束の間。ページを捲るたびに、龐統の表情が再び落ち込んでいくのが見て取れた。

 ええい何故だ、と典明は首を捻ってみて、ピンとくる。

 

「士元、読み方分からないんじゃないか?」

「はい…あと知らない文字がいっぱいあって…。全然分かりません……」

「いや、すまん。失念してた」

 

 日本製ならば当然日本語である。左上から右下へ読むこと、ひらがな、カタカナ、英語について説明していく。

 やがて典明も説明していく内に、読む以前に教えることが多すぎる事に気づく。

 

「どうやら私では読めそうもありません…」

「ん~じゃあ俺が読んで聴かせるってのはどうだ?」

「え、あの、…いいんですか?」

「ああ、士元の薦めてくれた孫子の勉強にもなるしな」

 

 名残惜しそうに“ビジネス孫子”を見つめる龐統に提案してみる。

 一人黙々と書の解釈に頭を悩ませるよりは、よっぽど有意義に違いない。

 そして相方が可愛い少女ならば、一体何を迷うことがあろうか! と、心の中で拳を振り上げる典明。

 

「じゃあ、折角だから始めの部分だけでも読んでみるか。さぁ、座って」

「あわわわ!い、いえいえ!しょ、しょんな事出来ましぇん!!」

 

 そう言って自分の太ももをポンポンと叩く典明。

 当然、龐統は慌てる。顔も耳も真赤にして帽子のつばをギュッと握り、腰も引けている。

 

「……ハハッ、そうだよな。俺の膝なんて座りたくないよな…調子乗ってたわ…ごめん…」

「あっ……ち、違うんでしゅ、そうじゃなくて…うぅ、どうしよう……」

 

 そっと龐統から顔を背け、謝罪する。その声は暗く、少し震えていた。もちろん演技である。

 落ち込んだふりをしているが、困った様子で呟く彼女の声もしっかり聞いている。もうひと押しと考えて、

 

「…椅子がないし、読みにくいかもって思ったから言ってみただけなんだ…気にしないで」

「あわわ…分かりました…。わ、私もちょっと、恥ずかしい…って思っただけですから」

「ありがとう…やっぱり優しいね士元は」

「あぅ……」

 

 水鏡を参考にして精一杯の優しい笑顔を作ってみせる。にやけ顔にならぬよう注意して。

 褒められた事に目を伏して照れる龐統は実に愛らしい。今なら娘を持つ父親の気持ちが分かりそうだ。

 典明が改めてポンポンと太ももを叩いて促すと、おずおずと緩々と龐統が座り、優しい重みを感じる。

 グッジョブ、典明。そう自画自賛して咳払いを一つ。

 

「オホン。それじゃ、まずは表紙からだな。『ビジネスに役立つ~孫子の兵法~――――――』」

 

 

 

 

 ここは水鏡女学院の寄宿舎。典明の部屋を辞して、龐統は自室のベッドに腰を沈めていた。

 かといって何かをするでもなく、ただボ~っとしている。

 

「ただいま!!雛里ちゃん!雛里ちゃん!好好先生の新刊“少女元素”が二冊手に入りましゅたよ!!

 道中必死に読むの我慢してたんだから!さ、早く読もう!!」

 

 とてもいい笑顔で頬を上気させた諸葛亮が部屋に飛び込む。手には紙を用いた真新しい薄い本。

 対する龐統はというと、

 

「あ…お帰り、朱里ちゃん」

「…?どうしたの雛里ちゃん?何か顔が赤いけど」

「そ、そうかな?」

 

 気のない変事で答える龐統に、肩透かしを食らう諸葛亮。龐統の顔が赤いのある意味日常だが、表情が上の空なのは妙だ。

 お互いをよく知るベストフレンドで、いけない秘密も共有するソウルメイト。

 力になってやりたい。そう思った諸葛亮は、そっと彼女の体を両手で包み込み、

 

「雛里ちゃん、私たちの間で隠し事はしないって約束したじゃない。私はいつだって雛里ちゃんの味方だよ」

「うん、ありがとう朱里ちゃん。実はね―――――」

 

 語られた惚気染みた顛末に少しだけ、ほんの少しだけ、親友を放おっておこうかと思ってしまった。

 

 

 

 

 中庭の東屋。半ば恒例となった典明、諸葛亮、龐統による午後のお茶会。

 いつもと違うのは典明の膝に座った諸葛亮の姿だろう。

 

「いや、何で?」

「ふ~ん、雛里ちゃんは良くて私は駄目なんですね」

「そんな事はないぞ…って知ってたなら、理由も聞いてるだろ?」

「ええ、聞きましたよ」

「なら余計に、今座る理由が分かんないんだが」

「私と雛里ちゃんが親友だからです」

「ぐぬぬ、分からん」

 

 諸葛亮はこんな娘だったろうか?と典明は困惑する。龐統に目で援軍を請うも、無言で首を振られる。

 諸葛亮も龐統も性分なのか、無類の本好きと言っていい。さしずめ贔屓は良くないということだろうか。

 そう考えると子供が拗ねているように思えてきた。

 

「でも今は本を持ってないぞ?」

「そうじゃなくて……はぁ、もういいですよ」

 

 溜息一つ吐いて、膝の上から降りる諸葛亮。とりあえず呆れられたのは分かった。

 龐統まで溜息を吐いている。やはりこちらも分かってないと言いたげだ。

 

「ともかく、本はまた今度。二人は最近何をしてるんだ?」

「五胡、と呼ばれる異民族に対する短期的、中長期的の対処という課題です」

「外敵ってやつか。万里の長城が有名だな」

 

 フーフーとお茶を冷ましながら、龐統が言う。

 歴代王朝の歴史は異民族との戦いの歴史でもある。“元寇”という形で日本もかつて襲われたことがある。

 

「…だけど五胡の詳しい内情に関しては水鏡先生の蔵書にも殆ど無くて、正直難航しています」

「五胡って、どんな連中なんだ?」

 

 まだ拗ねた表情で言葉を続けた諸葛亮。中国の龍は蛇を模しているというが…はてさて。

 

「最大勢力の匈奴を始めとして、騎馬に長けた者達が多く、その行動範囲は国境全域に広がっています。

 戦法が騎馬の一撃離脱なら、戦術も騎馬による機動戦。ですが何より退却速度の早さが厄介です。」

「そうです。勝ち目がないと見るや、あっという間に広大な自領の奥まで退き下がるので、

 こちらは撃退以上の手は打てなくて…。相手もそれを見越しているのでしょう。

 やがて五胡も戦力を回復し、頃合いを見計らって再侵略…の千日手が昔から続いてましゅ、ます」

「異民族対策は長らく続く喫緊の問題です。私達がいずれ相対する問題だと先生は暗に示しているのでしょう」

「あわわ、きっと今回の採点は相当厳しいものになるよね朱里ちゃん……」

 

 つらつらと二人が語るその内容と、その疲れた表情に今回の課題の面倒臭さが伺える。

 典明としてもアドバイスしてあげたいが、イマイチ思いつかない。非才を嘆きつつホットケーキを一切れパクリ。

 

「俺に分かるのはこのホットケーキが美味い事ぐらいだなぁ」

「あ、本当ですか!元直ちゃんから聞いて作ってみたんです!」

 

 ポツリと呟いた典明の言葉に、諸葛亮が食いついてくる。

 饅頭があるならコレも作れるだろうと思い、典明が何とか作り方を思い出し、徐庶に教えたものだ。

 牛乳を使うと言った時、驚いた顔をされたのを覚えている。どうやら口にする習慣がないらしい。

 

「あ、そういえば五胡の部族も牛の乳や山羊の乳を飲むそうですよ」

「…つまり俺は五胡、二人の敵なのか」

「はわわ、そういう意味じゃなくて、敵から大いに学ぶこともある、という意味です!」

 

 からかい甲斐のある少女である。典明の悪癖がついつい刺激されてしまう。龐統もそんな親友を微笑ましく眺めている。

 やはり茶を飲み、菓子をつまんで語らうこの時間は何より楽しい。

 

「もう、典明さんといると自分が年上の様に思えてきます」

「ほう、なら孔明お姉ちゃんと呼ぶことにしよう」

「はわわ!や、やめてくだしゃい!こそばゆいでしゅ!!」

「朱里お姉ちゃん…いいかも、えへへ」

「ひ、雛里ちゃんまで……はぅぅ」

 

 からかい過ぎたのか、また拗ねてしまった諸葛亮を龐統とともに宥めすかすことに終始し、今日のお茶会は終わった。

 

 

 

 

 水鏡から買い出しを頼まれ、街にやってきた典明。今回はちょっと品数が多い。

 荷車を引いて街の中を行ったり来たりしていれば、自然と様々な情勢の話が聞こえてくる。

 凶作による食料の値上がりとか、各地で頻発する賊による被害とか、おかげ武具が儲かるだとか。

 あそこの街は重税がひどいとか、逆にあそこの街は賑わっているとか。

 賊ではないが大人数の騒がしい集団が各地で迷惑をかけているとか、果ては幽霊や妖怪が出たなんて話も。

 

 そんな中、よくわからない話が頻繁に話されているのを聞いた。

 

 

 

 

 荷車をドナドナと引いて、水鏡女学院に帰ってきた典明。汗だくになりながらも息は乱れていない。

 水鏡に品物を確認してもらうために、本舎の勝手口に運ぶ。

 

「あら、典明さんお帰りなさい。今回もご苦労様でした」

「水鏡先生、今帰りました。丁度呼びに行こうとした所です。確認して頂けますか?」

「ええ、では始めましょうか」

 

 品物をより分け確認作業をする水鏡に、典明は街で聞いた例の話を思い出し、聞いてみる。

 

「先生、街で耳にした話なんですが、“御使い”って御存知ですか?」

 

 水鏡の手が一瞬止まる。が、再び確認作業を続けながら典明の問いに答える。

 

「ええ、噂ならば私の耳にも届いております。国中に広まっている様で、何でも世の乱れを正してくれるそうです」

「へぇ、有名な人なんですかね?どんな人なんでしょう?」

「さぁ……噂は聞けど、姿形や業績はついぞ聞きませんね。人なのか、はたまた神仙の類なのかもしれません」

「んん?あの、御使いって人は本当にいるんですか?」

「こんな世の中です。その流れに逆らい、耳に心地いい噂とは往々にして広まりやすい、そういう事なのでしょう」

 

 詰まる所、噂は噂に過ぎないと水鏡は言いたい様だ。最近は暗い話ばかり話題に上がり、人々も疲れている。

 ついつい、いるかも分からない噂の聖人に期待してしまうのだろう。

 

「東雲さん、学院の中でその話はなさらないように、お願いしたいのですが?」

「え、まぁそれは構いませんが、どういった理由ですか?」

「怪力乱神を語るのを、学を修める者は控えるべきです。風紀を乱したくないだけですよ」

 

 言外に何かを含む言い方であったが、典明は承諾しておいた。

 

「確認終わりました。ではこちらは私が中に運んでおきますね」

「わかりました。それじゃあ残りを納屋に仕舞ってきますんで、また夕食で」

「はい、お願いします」

 

 

 

 納屋へ向かう典明の背中を、水鏡はじっと見つめている。

 

「これが正しいのだと思いたいのですが……」

 

 典明はどうやら街で“御使い”という名を聞いただけのようだ。

 付随する予言の事まで聞いていれば、己に思い当たりもう少し深刻な顔をしていたか、そもそも水鏡に聞かなかったかもしれない。

 

 朱里と雛里が今まで、天の御遣いの噂を典明に聞かせなかったのも、水鏡が口止めしたからだ。

 あの二人は一度思い込むと融通がきかなくなる傾向があるし、彼を天の御使いと考えていた節がある。

 理由もわからず見知らぬ地に放り出され、己を培った全てを失った若者。

 この上、御使いという大業を求められる名を与えては余りにも不憫だ。

 もしかしたら彼は本物かもしれない。もしかしたら隠しているのかもしれないが。

 

 水鏡が逗留を許したのも多少の仁義と、典明という人間を見極める時間を欲したため。

 今のところ、世に噂されるような英傑の器を持っている様には見えない。

 元直からも武の腕は人並みだと報告されている。撃剣の才はあるらしいが。

 

 だが為人は、戯れを好むが善良の部類、朱里と雛里が積極的に関わろうとする事からも確かだと判断する。

 二人も彼から何やら良い影響を受けているのを感じられる。もはや御使いの役割を彼には求めたりしないだろう。

 中庭の東屋で楽しそうに話す三人を見かけて、微笑ましく思ったものだ。

 学習能力もそれほど悪くなく、最近は書を持ち歩く勤勉さを見せてくれている。

 恐らく、進む道を見つけることが出来たのであろう。これは水鏡も望んでいたことだ。

 

 結局、彼が御使いと呼ばれる存在なのかは計りきれなかった。

 だが、朱里と雛里が典明に出会えたのは僥倖だと、水鏡は思う。

 彼が彼女達のそばに居てくれれば、伏龍は雲に乗り、鳳雛は風を掴むかもしれない。

 もしくは彼こそが。

 

 典明が来てから早三ヶ月。別れの時はそう遠くない。水鏡は品物を抱え、屋内に戻るのだった。

 

 

 

 

「なぁ、これって虚報じゃないよな?」

「あたしもそう思いたいんだけどねぇ…」

 

 水鏡との会話から暫く立ったある日。

 むむむ、と唸る二人が見つめているのは北方から届けられた書簡。その内容はというと、

 

 河北のどこかで、地方太守の苛政に耐えかねた民が武装蜂起し、官庁に攻め寄せたらしい。

 この手の反乱は、典明もこちらに来てから何度か耳にする事があった。

 そして、官軍が差し向けられて鎮圧される、という結末を迎えるのがお約束だった。

 果たして今回も、彼らの鎮圧に出た官軍と反乱軍が衝突。ものの見事に官軍は全滅した。

 

 

 そう、“官軍”が“民”に負けたのである。

 

 

 そも、民が政事に不満を抱きつつも、上に逆らわないのはなぜか。力が無いからである。

 領主が戦い専門の常備兵“官軍”を持つのに対し、民は素人、満足な武具すら持たない。

 両者がぶつかれば、練度の差、装備の差、経験の差は火を見るよりも明らかというものだ。

 

 なら今回の一件はどういう事か。民が訓練されていたワケはないだろう、今回は突発的な蜂起である。

 装備が十分だったわけでもない。鋤や鍬を持った正しく農民の格好だったようだ。

 経験豊富な集団でもなかったであろう。民の戦働きなど徴収された時くらいのものだ。

 つまり、官軍が “ただ弱かった”。上の役人だけでなく末端の人間も腐っていたという事。

 

「なんか、来るところまで来ちゃった、って事かねぇ」

「『来ちゃった…』なら歓迎なんだがイタッ!」

「あたしゃ真面目に言ってんだよ!茶化すんじゃない」

「スイマセン」

 

 徐庶のゲンコツをもらい、確かに今のは空気読めていなかったと反省する典明。

 

「わざわざウチに届けられたってことは此処も危ない。そういう警告だろうね」

「どうしてだ?遠方で起こった反乱なのに」

「今回の一件、“ごく稀な”事情に寄って起こった“他人事”じゃないってことさ」

「ん…………ああ、そういう事か」

 

 災害、蝗害、凶作、疫病という災禍が、にわかに押し寄せてきている状況で、安穏としているのは官匪ばかり。

 その腐敗した政治に苦しめられ、恨みを持った人間は国中にいる。火種は大量にあるのだ。

 そんな人々が、官軍が民の反乱を抑えられないほど脆弱な組織だと認識したらどうなるか。

 もはや収めていた矛を振るうのに躊躇などしないだろう。各地に飛び火するのは間違いなかった。

 

「オマケに反乱の気風が広まれば、その尻馬に乗ろうとする匪賊の輩が現れるから更に酷い事になる。

 奴らには大義なんてものは無い。反乱のお陰で略奪がやりやすくなるぐらいにしか考えちゃいないよ。

 そうなると苛政を相手に始まった争いが、何故か民を傷つける事になる。そういうことさね」

 

 どこか悟ったような表情で徐庶は言うが、その手は小さく震えている。その光景を幻視したのだろう。

 それを見た典明はそっと彼女の手を握り、

 

「ともかく、この手紙を先生に見せておかないとイカン。行こう元直」

「そうだね……ありがとうシノ」

 

 水鏡の部屋まで手を引いて歩いて行った。

 

 

 

 

 手紙が届けられて二週間。水鏡の人脈を通して探りを入れた処、今の情勢がわかってきた。

 例の反乱劇の裏には宗教的指導者がいたらしく、彼らに教化された民衆が起こした反乱だったようだ。

 その後反乱軍は、周辺の街に進軍を開始。既に幾つかは陥落してしまったらしい。

 また河北や江北の各地で蜂起した民衆や賊が氾濫し、その勢いに各地の太守は苦慮してるという。

 そして、反乱軍の者達は、皆一様に黄色い頭巾を被っていたらしい。

 

「黄色い布…黄巾の乱じゃないか」

 

 自室で報告書を読んでいた典明も流石に気付く。とうとう歴史が動き始めたのだと。

 ここからの歴史の流れがどうだったか思い出そうとしていると、来客の声。

 

「典明さん、孔明です。ちょっとお話出来ますか?」

「し、士元もいます。いいですか?」

「大丈夫だ、入ってくれ」

 

 諸葛亮と龐統が入ってくる。いつになく真剣な顔つきの様子の二人。

 椅子がないのでベッドを勧めて話を聞く。

 

「それで?察するに真面目な話みたいだね」

「は、はい。分かりますか?」

「二人のことならそれなりに理解してるつもりさ」

 

 肩に力が入っているのか、二人してカチコチしているので真剣味の度合いもわかるというものだ。

 

「実は、旅に出ようと思っていましゅ、ます」

「い、いましゅ」

「旅ねぇ……」

 

 噛みながら告げられたのは出立の宣言。当然旅行をするという意味ではないだろう。

 なにか明確な目的を持った旅の事を言っているはずだ。

 

「どうして今なんだ?各地で反乱が起きて、治安が悪化の一途を辿ってるんだぞ?」

 

 前のめりになって諸葛亮と龐統に眼光を飛ばし、声低く問うてみる典明。

 二人がビクリと震えるのを見て、内心で嘆息する。間違いなく危険な旅になる。

 これを思いつきで言っているのなら止めるつもりだ。

 

「い、いえ、だからこそ今動かなければならない。そう感じたんでしゅ!」

「反乱もはいずれは鎮圧されるでしゅ。けど、それがいつになるかは分かりましぇん…」

「雛里ちゃんが言う通りです。その間に一体どれだけの民が苦しみ、命を落とすか…。

 そう考えたら、このまま何もせずにいるなんて出来ないんです!」

「私達に今出来る事、きっとあるはずなんでしゅ!」

 

 二人の目には強い決意が宿っている。誰かに言われて止める軽薄な決断ではないだろう。

 かつて聞かされた二人の言葉を思い出す典明。そういえば二度目だな、と。

 上体を起こし、微妙に震えている二人から顔をそらしてあげる。二つの安堵の息が、典明の耳朶を打つ。

 

「……水鏡先生にはもう言ったのか?」

「はい、許しを得ずに出る事なんて先生への忘恩に等しい行いですから」

「先生に認めてもらうまでは旅に出ないって、朱里ちゃんと決めてましたから…」

「って事は……。一応聞くけど、先生は何と?」

「はい!私達の出奔を許してくれました!……条件付きで」

「条件付き?」

 

 既に水鏡の了承は得ていたようだ。何だかあっさりな気がするが、条件を出したらしい。

 

「はい、その条件というのが…信頼出来る人を先生に紹介して、旅に同行させることです」

「ああ、なるほどね。先生も二人が心配なんだな」

「先生は優しいですから…」

 

 龐統が嬉しそうに恩師を讃える。水鏡の要求した同行者とは、恐らく用心棒の事だろう。

 

「なら、元直の返事はどうだった?」

「えっ」

「えっ」

「えっ」

 

 沈黙が漂う。

 

「なんだ、まだなのか?なら早く聞いてきた方がいいぞ。信頼できて腕が立って気心が知れてる。打って付けじゃないか」

「それは……まぁ、そうですが…でも…ですけど……」

 

 典明の言葉に機先を制され、モジモジと萎縮した様子の諸葛亮。

 

「朱里ちゃん朱里ちゃん、もしかして気づいてないんじゃない?」

「はわわ、そういう事でしたか。ありがとう雛里ちゃん」

 

 耳打ちでコソコソ話して何やら得心した様子でコホンと咳払いを一つ。

 

「話を戻しますね。私と雛里ちゃんは、その、の、典明さんを紹介したいと思ってます」

「俺!?……俺かぁ、う~ん……」

「はぇっ、だ、駄目なんですか!?」

 

 渋っている典明に、諸葛亮はうろたえる。ちょっとだけ、喜んでくれるのを期待していたが故に。

 

「信頼は嬉しいが肝心の腕がなぁ。元直が適任――」

「元直ちゃんは無理です!先生や学院の守りがありましゅ!!」

「お、おう。それもそうだな」

 

 後ろ向きな典明の言葉に被せるように、龐統が先手を打つ。

 これ以上、引き下がっても仕方ないだろう。典明は居住まいを正す。

 

「俺でいいのなら…、いや俺から頼もう。二人の旅に俺も同行させてくれないか?」

「はわわ!もちろんです!」

「よろしくです!!やったね、朱里ちゃん!!」

「うん、雛里ちゃん!!」

 

 互いの指を絡ませて、ピョンピョンと喜び合う二人。

 ベッドに座っているので、体を跳ねさせる度にスカートがフワフワ動いて典明の視線を誘う。

 気付かれでもしたら不味いと思い、二人に話を振る。

 

「ええっと、出発日とか旅支度とか、その辺は決めてあるのか?」

「はい、占いで五日後が吉日と出ましたので、問題がなければその日にしようかと」

「その日までに旅に必要な準備をしようと思ってます……」

 

 迷信や奇奇怪怪が強く信じられているこの時代。占い一つ取っても、人々にとっては無視できない物だ。

 また占いは、諸子百家と呼ばれた争鳴の中で様々に発展・体系化された思想・学問でもある。

 要職を置いて、国政にも用いられている大事だったりするのだ。

 

「そっか、んじゃ先生の所に挨拶に行こうぜ」

「あ、ちょちょ、ちょっと待って下さい!雛里ちゃん、いいよね?」

「う、うん。今こそ好機だよね」

 

 そう言って典明は立ち上がり部屋の外に足を向けたが、諸葛亮に止められた。

 二人に向き直すと、諸葛亮と龐統の二人が帽子を取って直立している。二人とも頬が赤い。

 

 

「私の真名は朱里でしゅ!この名、典明さんにお預けしましゅ!!……うぅ大事な時に噛んじゃった」

 

「私は雛里でし!よ、よよ、よろしくお願いしましゅ!!や、やっと言えた…」

 

 

 そう言って深く頭を下げてきた諸葛亮と龐統。伝えられたのは“真名”。

 この国の万人が持つ不変の矜持。他者から許される意味は、普遍の信と普遍の名誉。

 朱里。雛里。知ってはいたが、典明が今まで口にすることは出来なかった呼び名。

 

「……ありがとう。二人の真名、受け取るよ」

 

 典明はただ感謝を口にする。正直なところ、典明には今でも真名の重みが分からない。

 魂の名。そんな物は、生まれた時から持ち合わせていないからだ。

 秘密を打ち明けるという意味では告白に似ているかもしれない、何てことを思ったものだ。

 こればかりはこの世界に生を受けたものでなければ、真に理解する事はできないのかもしれない。

 

「たかだか四ヶ月の付き合いだぞ?どうして預けてくれる気になったんだ?」

 

 だから、野暮とは思いつつ聞いてしまう。

 

「その、典明さんは私達の身分不相応な夢を聞いても、小娘の戯言などと馬鹿にしませんでした。

 賛同してくれた上、手伝ってやりたいというお言葉、今でも思い出せます。

 自身の生きてきた場所を失い、己の去就に悩んでいたにも関わらず……。

 それはきっと、私達にとって記憶を失うに等しい恐ろしいものなのでしょう」

「…参ったね、お見通しだったのか」

 

 握った両手を胸元に寄せて気遣うように言う諸葛亮…朱里に心が慰められる。

 同時に未来知識という前倒しの信用と、内心の焦燥を見透かされていたことに典明は恥ずかしそうに頭を掻く。

 

「そ、それでも今こうして力を貸してくれようとしています。私も朱里ちゃんもただの一書生です。

 報いるものもなく、今はただ典明さんの仁義に甘えることしか出来ません。

 だからせめて真名をもって信を預けたいんです。信じているって伝えたかったんです」

 

 己のセリフが小恥ずかしいのか、手に持った帽子で口元を隠しチラチラと上目遣いの龐統…雛里。

 この姿を見ているだけで報われる気がする。

 

 二人の言葉をゆっくりと咀嚼する。自分の心は今、この二人に救われている。

 ジワジワ込み上げてくるものを感じ、徐にちょうどいい高さの二人の頭に手を載せる。

 

「朱里も雛里もいいこだなぁ~、俺感動した」

「はわわ、は、恥ずかしいでしゅ」

「あわわ……撫でられてる…」

 

 二人の髪を横へ後ろへと撫でる。柔らかくサラリとした感触が癖になりそうだ。

 延々続けてしまいそうなので、名残惜しいが手を放す。二人が「あ…」と声を漏らす。

 

「よぉし、今度こそ先生の所に行くぞ、紹介とやらが必要なんだろ」

「え?あ、はい。そういえばそうでした」

「あわわ、ちょっと忘れてたかも…」

 

 

 

 

 水鏡の部屋の前。朱里と雛里が扉の前で何度も深呼吸している。そんな様子に典明にも緊張が伝染る。

 意を決した朱里が来訪を告げ、水鏡の応答を受けて三人で部屋に入る。

 

「やはり、東雲さんが来ましたか」

「おや、分かってたんですか?」

 

 開口一番そんなことを言われ、典明は少し驚く。

 

「予測という程のものでもありません。朱里も雛里も人見知りゆえ、私が把握している程に交友関係は狭い子達ですから。

 それに信用のおける候補と付け加えられれば、心当たりは元直か貴方くらいのものでしょう。

 臆病なのは構いませんが、旅に出ると決めていたなら、せめて人見知りくらいは直して欲しかったですね。

 行く先々で起きる東雲さんの苦労が、今から目に浮かんで離れません」

「うぅ…先生ひどいですよぉ」

「あぅ…でも言い返せないよぉ、朱里ちゃん…」

 

 説明が途中から説教になってきている。二人も罰が悪そうだ。

 

「まぁ、それは追々自分たちで実感するでしょうから今は良いでしょう。

 これで旅の条件は果たされました。さて、二人には私からささやかな助言を送らせて頂きます」

 

 朱里と雛里の目をじっと見つめて、水鏡は真剣な表情を作る。

 

「…朱里、あなたは『伏龍』。この旅で雲を得れば、遥か高みから万里を見通す事が出来ましょう」

「伏龍……有難うございます、先生」

 

 朱里は拱手と呼ばれる作法でお辞儀をする。『伏龍』というのは雅号である。

 龍は古来より尊ばれる超常の聖獣。だが大いなる存在も今は雌伏の時。

 

「…雛里、あなたは『鳳雛』。この旅で風を得れば、その羽ばたきは万里悉くに届くことでしょう」

「先生…グス、ありがどうごじゃいます」

 

 雛里も泣きながら拱手礼でお辞儀をする。与えられた雅号は『鳳雛』。

 鳳凰は全ての鳥を統べる風の神。だが今はまだ成長を待たねばならない。

 

「井の中の蛙、大海を知らず。貴女達が井蛙を望まなかった事は、喜ばしいことです。

 ですが大海を望むというのは既知の安息を捨て、己を未知の危険に晒すことでもあります。

 努々、軽々な行動はしてはなりませんよ」

 

 水鏡の言葉に二人は何度も頷く。その様子に表情を和らげ、「よろしい」と満足気な水鏡。

 

「東雲さん、二人を何卒よろしくお願い致します」

「はい、全身全霊を尽くします」

 

 深く頭を下げる水鏡。典明もまた同じく頭を下げる。

 これで一段落ついたかな、と思っていた典明に声が掛かる。

 

「そうそう、東雲さんにもちょっとした助言、というか提案を」

「え、俺にもあるんですか?有難いですけど」

「いえいえ、実は貴方の素性についてです」

「それは……」

 

 突然の事に言葉に詰まる典明。今になってどういうことだろうと考えていると、

 

「東雲さんはこの国においてはかなり特殊な経歴と言ってよいでしょう。これから旅の先々で人と名を交わすこともあります。

 そういった時に偽りなく話せば、最悪わけの分からないことを繰り返す狂人扱いされかねません」

「えぇ~…そんな大げさ……確かにここでも最初はそうでしたね、ハハハ」

 

 愛想笑いをしてみるが、朱里も雛里も水鏡も苦笑いだ。残念ながら笑い話にはなりそうもない。

 かつて初めて言葉をかわしたあの時も、自身の説明に大分苦労した覚えがある。

 本当のことを言っているのに信じてもらえないという不安感は相当に堪えたものだ。

 

「つまり、先生は典明さんに対外的な経歴を持つようにおっしゃっているんですよ」

 

 朱里の言葉にようやく典明も得心する。スパイが使うカバーストーリーというやつだ。

 そこで彼は何かを思いつく。

 

「おお、だったら名前もこっち風にしたら良さそうだな」

「えっと、偽名ですか?」

「まぁ、郷に入っては郷に従えって格言もあるしな」

「郷に入っては郷に従え?」

 

 雛里が不思議そうに聞いてきたので意味を教えてあげる。朱里と水鏡もふむふむと食いついている。

 知識の吸収に貪欲なのは師譲りなのであろう。改名を提言した典明に水鏡が「ならば」と意見を出してくる。

 

「全くの別名というのは出来るだけ避けるべきですね。馴染みませんし、ついつい忘れがちになります。

 確か…………東雲さんの名はこう書くのでしたよね?」

「ええ、そうです」

「では……これではいかがでしょう?」

 

 筆を取り、紙の上に走らせたるは“東雲典明”という文字。彼女はそこに更に筆を走らせる。

 そうして出来たソレを水鏡が読み上げる。

 

「姓は東(とう)、名は雲(うん)。字は典明(てんめい)と呼びます。

 シノノメという二文字姓も、ノリアキという二文字名も珍しい上、響きが独特で目立ちますからね」

「姓は東、名は雲。字は典明……いいですね、有りです」

 

 文字をそのままに、ただ読みを変えたそれを典明はいたく気に入った。実にこちららしい呼び名である。

 彼女達と同じ存在になれた。そんな思いが典明に芽生えた。

 

「なるほど…まったくの偽名でもなく、本名でもないですね」

「えっと、それじゃあ…これからは“東典明”さんと呼ぶの朱里ちゃん?」

「えっ、うーん…どうします典明さん?」

 

 朱里は始め合点がいった様であったが、雛里の問いかけに答えを窮する。

 悩んでも答えは出ないと思った朱里は、本人に裁可を仰ぐ。

 

「他に誰も居ない時はノリアキと呼んでくれるか?きっと俺にとっての真名みたいなものだからさ」

「それは……私達に真名を許してくれるということですか!?」

「そんな大層なものではないけど、呼んでくれると嬉しいよ朱里、雛里」

「はわわ、分かりました…」

「あわわ、了解です…」

 

 典明が何と言おうと、彼女達にとっては真名を預けられたに等しいのである。

 家族以外の男性と真名を交わす初めての体験に、二人はそわそわと落ち着きがなかった。

 

 この後、東典明の経歴、用意するものや旅の進路と云った事を話し合う。

 そして徐庶を交えて三人の門出を祝うささやかな宴席が行われ、夜は更けていくのであった。

 


 
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