九度山にて幽閉生活をしている幸村の元に家康が訪れたのは、幸村にとっては青天霹靂だった。
幸村は西軍の総大将として、大阪で夏の陣と言われた戦を指揮したが、家康率いる東軍にあえなく大敗。
その後戦犯処理として真っ先に名が上がったのが、真田幸村だった。石田三成ほか豊臣一派のほとんどが討ち死にしているのも関係していた。
政宗は終始静観を決め込んでいたが、家康自体は幸村の幽閉には反対していた。だが周囲の示しもあるからと、切腹出来ぬのならという理由で、幸村自ら幽閉の道を選んだ。副代将も担っていた、幸村付きの忍びであった佐助が世話人の扱いで同行を許されたのは、家康の口添えがあったから。
そうして季節は一巡りし、二度目の冬を九度山で超えた頃、雪解けを待っていたかのように、ふらりと家康が単身でやって来たのだ。まるで春を告げにあちらこちらに顔を出す、加賀前田の傾奇者のように。
昼餉も過ぎた長閑な時刻。雲の動きも緩やかな、穏やかなひと時。身分を隠してはいたが、纏う空気の変わらなさに佐助は肩をすくめ、幸村はそんな佐助を見て、苦笑いを浮かべる。
丁度玄関先の庭に咲き誇るドウダンツツジを幸村と佐助が愛でていた際の来訪に、家康も自然と花に目が止まった。
低木のドウダンツツジは、小枝の先に白い壷型の花をたくさん吊り下げ、花が咲くのと同時に新芽を出す。菱形に近い葉を茂らせ、晩秋には鮮やかに紅葉する。
いつもなら桜の後に咲く花が、今年は逆転して開花したのもあって、世間がてらの花見をしていたのだ。
唯一の畳の部屋に通された家康は、佐助から出された粗茶を遠慮なく飲み、あっという間に空にして、畳に直に置いた。
「変わらないのは真田も同じだと思うがな」
佐助は茶を出すなり、二人の場から姿を消している。
「さようでござろうか」
家康を上座に据え、幸村は抑揚の薄い返しをする。ハッキリしない言い回しになってしまっても仕方が無い。変わっていない筈がないのだ。
質素で小さな屋敷は、最低限の居住空間と家財道具でなっている。客の来ない屋敷に盆や専用の湯呑、質の良い座布団などある筈もなく、家康に出した湯呑や御座は、幸村の物だ。
しかし、今や日ノ本を統べる大殿にまでなった家康は気にする素振りどころか、事実気にしていない。事前の連絡もせずに出向いたのは自分だと、敷居を跨ぐ際、先に詫びた。そうなれば二人は迎え入れるしかない。
「それで、このような場所にまで足を運ぶ理由とは何でござろう」
前フリも何も無いまま、家康の訪問理由を尋ねる。直球過ぎはしないかと、家康は片眉をあげて笑った。
「理由が無いと来てはいけないのか」
質問に質問で返してみたが、「貴殿の身分を考えれば理由があったとしても、来るべき場所ではござらん」と、一層素っ気なく言われてしまった。
家康はうら寂しさを隠し、幸村に己の隣に座るよう求めた。
かつて幸村とて上田城の主であり、後に虎の正当な後継者として武田を束ね、西軍の総大将まで努めた。お互いの身なりで今の立場の違いが一目瞭然だとしても、家康の中での幸村は変わらない。
「確かにワシはお前に話があってきた。せっかくだ、もう少し近くに来て話したい」
幸村は一寸躊躇いを見せつつも、一礼してからほんの少しだけ前に座り直した。家康があぐらをかいている前で、幸村は姿勢を正したまま正座を崩さない。武家の血らしい綺麗な姿勢だが、家康としては、もっとくだけても構わない。
ひとまずはこれで良しとして、久しぶりに間近で見る幸村の姿に、嬉しさのあまりマジマジと覗き見てみる。合戦場においての相対でしか無かった距離を、こうして静かな場所でしているというのが興味深い。
開け放たれた障子からは庭が見える。手入れは行き届いてないものの、雑草などはきちんと刈り取られていた。
桜の木が芽吹いているから、直に咲くのだろう。それはいつだろうかと、幸村も同じことをあの桜を見て思うのだろうか。そんな事にまで思いをめぐらせ、目元を綻ばせる。
「うん」
満足げに口角を上げる家康に、理由が分からない幸村が首をかしげる。
「何を頷いておいでか」
「こうして戦のない場所で、真田の顔を見れるのが嬉しいんだ。元気そうで良かった」
予想外の答えな上、包み隠さない物言いに、幸村は呆気に取られてしまった。ましてや本心なのだと分かる笑顔をされてしまい、反射で目を反らす。
だめだ。
幸村は内心で自制を試みる。
「真田?」
様子のおかしさに、今度は家康が問いかける。目をそらした際に跳ねた前髪で幸村の目元が隠れてしまい、どんな表情をしているのか読み取れない。
幸村は相手の目を見ないで話すのは失礼だと自覚しつつも、どうしても家康を真っ直ぐに見られなかった。
「は、話があってわざわざ参られたのでござろうっ。本題を申してくだされ」
「ああ、そうだったな」
あっさり引いてくれたことに、内心安堵する。落ち着けるために一度息を吐いてから、なるたけ家康を真正面に見ないように顔を上げた。
幸村の複雑な心情など知らぬ家康は、結果的に更なる追い打ちを与える事を口にする。
「ワシはお前を迎えに来たんだ。真田」
「……迎えとは」
警戒心を露わにする幸村に、家康は「言葉通りの意味だ」と言う。
「一緒に江戸へ来てくれ。この国をよりよくする力をワシに貸して欲しい」
身構えていた幸村は、驚愕のあまり見開いた目で、家康を凝視する。
かつてこの東照は、敵対関係である幸村い対し、何度となく幸村に書状を出しては、降伏するよう促していた。
決まって文面には「これからの日ノ本のために協力して欲しい」と綴られている。
幸村は家康からの書状に一度とて返戻をしたことがないまま、戦は終焉を迎えた。
強い既視感のあまり目まいすら覚えた。くらりとふらつく頭を自分の右手で抑え、必至に現実に留まろうとする。
分かっているのか、この男は。いや、この男が分かっていない筈がないのだ。
だからこそ、タチが悪い。
「徳川殿、本気で言っているのでござるか」
「無論だ」
ああ、やはり、タチが悪い。
幸村は一度つばを飲み込み、これはきっと返戻をしてこなかった仇なのだとした。家康の言葉に頷けない心を知られたくないというのに。
「それがしは、ここよりどこにも行くつもりはござらん」
「真田」
「用がお済みなら早くこの山を出てくだされ。陽が沈んでは、忠勝殿や家臣の方々もご心配されまする」
「真田っ」
家康の声を聞きたくないばかり急かしたのが悪かったらしい。家康は咄嗟にあぐらをかいていた膝を立て、幸村の腕を掴んだ。また名前を呼ぶことで、暗に抑止する。そうなれば幸村も、黙って家康の言葉を待つしかなくなってしまう。
家康には、どうにももどかしくて仕方が無かった。握った手首の細さを、比べる元を知らぬ家康は、知らない。
「真田……」
この歯がゆさは、まだ幸村が武田の一番やりとして駆けてきた頃にまで遡る。思えばあの頃から、互いの関係は変わっていないのだ。
己の心を知って欲しい。けれどこれでは届かないまま。
家康は名残惜しさを捨てきれないから、どうしても掴んだ手を離せなかった。むしろ、今まで出来なかったことが不甲斐ない。
「真田。ワシの気持ちは変わらぬ」
「っ……」
明らかに動揺しているのが、掴んだ肌の震えで伝わる。それでも家康は言うしかなかった。もう、幸村の顔色を伺い、幸村の意志に委ねるのを止めたのだから。
「お前を迎えに来たんだ、必ず真田を江戸に連れて行く。ワシは譲らぬからな」
「それがしは幽閉された身ですぞ」
よもや1年で放免は有り得ぬと目で挑発される。ついでに掴まれている手を離して欲しいと無言で訴えるも、家康は見て見ぬふりをした。
「……確かに今も、真田とあの忍びの処遇は変わっていない。これはワシの一存だ」
「ならばっ」
どこにも己が行く場所など無い。
そう言おうとしたのが分かった家康は、咄嗟に掴んだままの幸村の腕を引っ張った。その勢いのまま、幸村の体を抱きしめる。
「なっ、と、徳川どの?」
驚いた幸村は、所在なげに両手を宙に泳がせる。確かに手は解放されたが、これではさして変わらない。むしろより動けなくなった。
「何を、離して下され」
今度は声にしてみるが、家康から力を緩める気配は無い。
「真田。なぜ、お前はそれほどにワシを拒む」
「?!」
家康の隠さない言葉に、幸村は明らかに動揺する。反対に家康は憂いた。幸村の動揺は、そのまま事実へとつながるから。
咄嗟とはいえ初めて感じる幸村の体温は、想像以上の心地よさだった。家康は抱きしめる腕の力を強め、帯の上からでも分かる胴回りの細さに目を見張る。
これが痩せたのか、元の細さなのか、やはり家康には分からない。実際は、質素倹約の生活を慎ましやかに佐助と過ごしていたので、元より細い体は一層細くなった。戦で鍛えた筋肉も削がれ、勇ましさが目立っていた美丈夫は、儚さが際立つようになっている。
「細いな」
思ったままを呟き、抱きしめた手で背中や腰を撫ぜれば、幸村の体がひくりと震えた。不躾にもこの体はとうに誰かの者なのかどうかと気になってしまう。
ささやかでも、一つ幸村の何かを知る数だけ、己の知らなさ加減を痛感する。
「ワシは本当に、真田のことを何も知らぬのだな」
独り言に近い声を幸村は聞き逃さなかった。幸村とて家康のほとんどを知らない。お互いの立場を鑑みれば、知らない方が自然だろう。
どうして家康が知らないことを気に止むのか、幸村には見当がつかない。今はただ、抱きしめてくる腕を緩めて、離れて欲しかった。
幸村は、自分が知っている以上の家康を知りたいとは思っていない。
「徳川殿、そろそろ離してはくださらぬか」
家康が投げかけた「なぜ、お前はそれほどにワシを拒む」通り、知りたく無いのだ、幸村は。
家康のこともしかり、同じ武将を師と仰いだことで、意識せずにはいられない己自身をも。
知りたくない、知られたくない、だから、知らないで欲しい。
いみじくも家康とは同じ意味で意識をしているのだが、真反対の心で、太い家康の腕に手を添える。
「徳川殿、お願いいたす」
意識している故の、はね付けだと知らない家康は、幸村の肩口に顔を寄せた。相手を慮って引いていたのを止めたからか、欲求が次から次へと溢れ出る。
「真田」
知りたい、知られたって良い、だから、知って欲しい。
「ならば教えてくれ真田。ワシを拒む理由を」
あまり交換条件は好ましくないと思いつつ、こうでもしないと答えてくれそうにないからと、持ちかけた。何せ戦の際に送ってきた書状は、一度も返されていないのだ。
「それは……」
案の定、口ごもるので、逆手にとってギュッと抱きしめる。
「どうした。答えてくれるまでワシは離さんぞ」
幾分弾んだ声になっているのに、幸村も気づいた。
「楽しそうでござるな」
どんな表情で言ったのかは見えないが、不本意なのは伝わってきた。幸村の感情らしい感情を間近で味わっていない分、妙におかしかった。
「いや、どちらに転んでもワシが得をするというのは、悪くない取引だったなと思ったんだ」
嘘は言っていない。その証拠に「言いたく無いなら構わない。ワシはお前に触れていたいからな」と、煽るように体重をかけてくる。
今の幸村では支えきれない重さと、首筋にかかる家康の息に、幸村は強ばった表情を浮かべる。
「得など、……拒む理由など聞いてどうされるおつもりか。徳川殿にとって良い物ではござらぬ」
「良いか悪いかはワシが決める。それすら与えてくれなかったのは真田の方だ」
過去をほじくり返すのはさすがに女々しいなと、すぐに詫びた。
「すまない。その件はもう終わった事だった。関係ないから、今のは気にしないで欲しい」
「いえ、返戻せなんだ無礼はそれがしの不徳の致すところ。お詫び申す故、どうか、何も聞かないで下され」
これ幸いに逃げ道にするのも卑怯だと自覚しつつ、幸村にはどう返せば諦めてくれるかしか無い。それほどまでに頑なに拒むのは何故か。
今度は、そちらの理由を知りたくなった。そもそも幸村自身、家康に対しての態度に矛盾があることに気づいているのか。
幸村のほとんどを知らない家康でも分かる矛盾。
「真田」
だから家康は、幸村に関わることにだけ欲望の底が見えない腹の内を、ほんの少しだけ見せることにした。相手を知るには、まずは己を晒さねばならない。
「お前がそうまでして口にしたくない心は、どこまでの物だ」
「どういう、意味でござろう、徳川殿」
「最後の取引をしよう、真田」
家康は抱きしめた力をようやく緩め、そのまま幸村の体を畳へと押し倒した。
「っ、突然何を、最後の取引と申されたか」
不意に畳に背中をつけたが、衝撃は薄かった。
「そうだ、これさえ為したらワシは帰る。どうだ受けるか」
「それは」
顔を上げたら思っていた以上に家康が近かったので、思わず驚いた。
「どうする真田」
火急に迫られ、それでも帰ってくれるならと頷いた。家康は口角を上げる。
「そうか。真田とは一度も成立した事がないから、ではこれが最後でもあるし、最初ともなるな」
先ほどの抱擁に際しても、幸村が逃げ続け、家康が書状の件もあって引いたために、ご破算となった。
家康は幸村の肩と腕に手を置き、体重をかける事で動きを封じる。体は身動き取れないが、幸村の目線は落ち着きがない。
押し倒されている状況よりも、視線の行き場に困っているようだ。
「そういえばお前は、ワシとはあまり、目を合わせてはくれないな」
「そのような事は」
ハッとして顔を上げるも、目に力はない。あまつさえ口ごもるのは、自覚がある証拠。
常に声を張り上げて雄々しく戦場を駆け抜けていたのを知る分、この落差は分かりやすすぎた。
「何より、ワシは真田の笑顔を知らないんだ」
腕を抑えていた手で、幸村の頬に触れる。緩い拳での指先で、触れるか触れないかという物では、小動物に対しての接し方に似ていた。
恐る恐るといった表現が正しいほどに、つい先ほどまで強く抱きしめていた男と同じとは思えないほど、所作頼りなげな仕草だった。
「それがし、の?」
笑顔がどうと言うのか。顔に出す幸村に「ああ」と頷いた。
幸村の笑顔を見た事はある。自分に向けてくれなかったから、知らないとした。
「ワシは、お前の笑顔が見てみたかった。傍に居てくれたら、いつか叶うのではないかと期待してな」
「まさか、そんな事が理由でそれがしを」
頬に触れる家康の手を訝しい目で一瞥してから、家康自身を見上げる。雌雄を決する戦において、まさか東軍の総大将が出し続けた書状の裏が、童めいた理由だというのか。
信じられないという空気を察し、家康は「正直言えば半々だな」と付け加えた。
「勿論、お前の力が日ノ本の役に立つのは間違い無い。今でもそう確信している。だがそれはあくまで、日ノ本の民を思うワシの願いだ」
一人の家康の中に、もう一人いるかのような言い回しに、幸村もかつて総大将だった頃を顧みる。
人の上に立つ者において、己で律し、殺してきた自分。
「だから半々だ」
そう都合よくはいかなかったがなと苦笑いをされてしまい、幸村は一層心に複雑さが増した。
「正直分からないんだ。お前がワシに対して頑な理由も、それを教えてくれないのも」
「徳川殿」
「あれだけ信玄公とは楽しそうにしていたのに」
久しぶりに聞く信玄の名に、幸村はあからさまに表情を変える。
「お館様……」
かつて武田信玄は、家康のことをなんて評しただろう。
「政宗ともそうだ。出会う機会は確かに少なかったが、もしやワシはその数少ない中で何かしたのか」
家康の声が耳に入ってこない。幽閉されたこの一年で、ようやく割り切ろうとしていたことが、ふつふつと臓腑から蘇ってくる。
幸村の様子に気づかない家康は、最初で最後の取引を提示する。
「なあ真田。ワシがお前を好きだと言ったら、どうする?」
家康の告白は、冷水を浴びせられたように頭上から降ってきた。あまりのことに、幸村は一瞬息を忘れたほどだ。しかし告白そのものは取引になりはしない。問題なのは、告げた心を利用すること。
「答えられるか?真田」
「なに、を、おっしゃっているのか、………どうするとは、それがしに何をしろと」
本能から引ける腰を、家康はがっちりと押さえ込んだ。
「真田を恋愛感情として好きだと言ったんだ。ワシを受け入れて欲しい」
こと恋愛感情において鈍い幸村の中で、家康の言う好きの意味に気づくや、慌てて家康の下から這い出そうと試みる。
「好きって、な、恋愛などと破廉恥な!」
「破廉恥?」
幸村の言動としては間違っていなければ、慣れた周囲だと聞き流される語彙も、家康だと通じない。
「可愛いんだな真田は」
「なあ?!可愛いなどと、男のそれがしに使う言葉ではござらぬっ」
「だが可愛いぞ」
しっかり押さえつけながら笑われてしまい、ショックで抵抗を忘れてしまった。その隙をついて、家康は喉を鳴らしながら今度こそ躊躇いもなく、幸村の頬に手を添えた。
「答えてくれ真田」
「そ、そのようなこと、答えられる筈がござらぬっ」
「何故だ、告白を受けた者としての礼儀だ。真田も武家の者として生まれたからには、それなりに色々あった筈だが」
確かに幸村にも婚姻の話はいくつか持ち上がったが、全て断ってきた。つまりは、そういうことだ。
幸村は隠せぬ羞恥のまま、「無理でござる」とだけ返した。
あっさりフラれるのも、ある程度予想はしていた。だからこその、取引なのだ。
「では、どうして駄目なのか教えてくれ」
「どうしてなど」
「理由もなしに断るのか?それで相手が全て納得してきたと」
言葉だけでなく力でも押しの一手で攻められ、今までの家康は表面上の物に過ぎなかったと痛感する。
「ひ、卑怯でござるっ」
知りたくない、知られたくない、だから、知らないで欲しい。
そうして隠してきた今までの感情を、これでは言うのと同じではないか。
家康は「やはり言いたくないのか」と尋ねながら、幸村の単衣の襟を緩めた。
スルリと空いた隙間に手を差し込めば、手のひらで幸村の肌を撫で上げた。触れられる意味が分からないものの、不穏な空気は感じ取る。
「徳川殿、何を考えておられる」
「言っただろ、これは取引だと」
家康の目が、獲物を捉える物に変わった。
「真田。己の心か体、どちらかを選べ」
「どちらかと言うのは」
「言いたく無いという心の内を優先するなら、ワシはお前の体を貰い受ける。それが嫌なら、心を晒すしかない」
そう言って単衣越しに幸村の太ももを撫で、下肢の際どい部分にまで手を伸ばす。
僅かばかりある知識で、それが共寝を差すことだと悟り、反射で家康の手を掴む。今まで立場を考えて、直接引き剥がそうとするのは遠慮していた。だが、それどころではなくなったのだ。
「止めて下され徳川殿っこんな、こんな条件、有り得ぬっ」
手首を掴まれた家康は気にすることなく、むしろその手を握りこんだ。そしてもう片方の空いている手を掴み束ねると、片手で幸村の頭上へと縫い止める。
「了承したのは真田だ。先に中身を聞かなかったのも、真田だな」
「……っ、真っ事貴殿は、どれだけ卑怯な」
「こうでもしないと、お前がワシを見てくれないのでな」
しれっと言うので、幸村はこんなところでも駆け引きの弱さを思い知る。嘘の付けぬ幸村だからこそ、沈黙でしか返してこなかったのを、家康は見抜いてしまったのだ。
どちらの矜持を取るのか、出来れば心を知りたい家康だったが、幸村から返ってきたのは逆だった。
「……貴殿に申し上げる心などござらん……」
眦を赤くし、目を固く閉じた幸村を、家康は沈痛な面持ちで見下ろした。
「そうか、残念だな」
いや、そうでもないなと、自分の言葉に否定を被せる。
「やはりどちらに転んでもワシが得をするという取引は、悪くない」
所詮は底深い欲が画策したのだから、家康にとって免罪符を手に入れたに過ぎない。叶わぬ物の代わりにとばかりに、逸る欲が生み出した化けの皮。
幸村が気付いていないのが、ことさら哀れだった。
「言いたくなったらいつでも教えてくれ。そうすれば、ワシはお前に触れるのを止めよう」
逃げ道すらも、袋小路への誘い言葉なのに。
事の全てが静まっても、佐助は姿を現さなかった。
空気の入れ替えをしようと、家康は締めた障子を、僅かに開ける。幸村の単衣を敷布代わりにしたせいで、相当に汚してしまった。
新しいのを渡してやりたいが、果たして素直に受け取ってくれるか思えば期待は出来ない。
幸村は意識を失っているように眠りについている。
夜も更けた空には、星たちと共に春の月がぽっかりと浮かんでいた。空気中の水分が増す春は、月も潤んでいるように見えるのだ。
朧月夜の下には、芽吹いたばかりの桜の木が、凛と立っていた。
咲けばさぞかし美しいだろうと思うも、家康が思い出すのは、今日この屋敷の庭先で見た、白い花。たくさん吊り下げられた小さな花々を背景にした幸村は、本人には言えないが、家康には愛々しい物だった。
「あの花の名を、真田は知っているだろうか」
幸村が知らなくても、彼が穏やかに笑い、語り合っていた佐助なら知っているかもしれない。出来れば知らないでいてほしい。いつか自分から教えたい。
ドウダンツツジという花は、灯台躑躅とも書けば、満天星という字も当てられていることを。
地上の星は、皮肉なほどに東照を翻弄させる。
家康は一度瞼を閉じてから、夜空に背を向けた。成された取引の約束は、守らなくてはいけない。
身支度を整えた最後、家康は、幸村が触れてきた己の目尻に指を当てる。
「真田……」
問う答えは、どこにあるのだろう。
思う心を受けて、何が待っているというのか。
その時、庭先に咲いている多くの満天星が、誰にも見られずに春の風に揺れた。問う答えを知っているから頷いたのか、もしくは、揺れる思いに呼応したのかもしれない。
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7/28 恐惶謹言 涼月(大阪)(C)TEAbreak!!! J42 これの後編(完結)を出すにあたり、激短いエロ省いて載せました。本としてはゲスト様も有り。4決まったし今のうちに幸村幽閉ネタ。